多々良小傘は、誰かに驚いてもらえないと生きていけない妖怪だ。ゆえに彼女は、人の多いこの東京をかねてより縄張りとしていた。人間が人外の存在に対し抱く畏怖の心こそ、彼女の生命の原動力である。忘れられた傘が恨みとともに化けて出るという由来ひとつだけで、人間たちもかつては震え上がったものだった。人間の理解が及ばない領域が広大だったころは、世界はずっと単純で、妖怪たちにとっても生き易かった。彼らが恐れなければならないものは、妖怪退治の術を持つごく一部の人間だけでよかったのだ。
ところが科学技術を発展させた人間たちは、やがて怪異を恐れなくなっていく。妖怪の世界であった夜闇は、人間の街が放つ煌々とした光によって祓われてしまった。それは優秀な退魔術師よりも確実にそして圧倒的に、小傘のような妖怪を追いつめていった。
もはや座して滅びを待つばかりとなった有象無象たちだったが、しかし半年ほど前にある噂が流れた。
―― 我ら妖怪、あの東京でひと暴れして、人間に泡を吹かせることができるらしい。
出所も根拠もはっきりしないその流言に、しかし妖怪たちは勇んで乗った。もはやそれしか生きる道はないと、誰もが理解していたのだ。日本全国津々浦々の異形たちが、一縷(いちる)の望みとともに東京へとやってきた。
小傘も奮い立った。というか、田舎妖怪どもに東京の妖怪としてナメられてはならぬと思った。だから彼女は、誰よりも早く東京で異変の黎明を察知し、先陣を切って人間に恐怖と驚愕をもたらそうとしたのだ。
その試みは大成功だった。かつてないほどの妖気の高まり、そして妖怪退治の巫女の出現。小傘の奮起は実際この上ないタイミングであり、早過ぎても遅過ぎても失敗していただろう。東京の付喪神仲間である塵塚怪王とも手を握ったあの騒動は、人間たちに鮮烈な恐怖を植え付けた。
唯一の誤算は、小傘の前に立ち塞がった巫女と寅が予想外に強かったことである。
「あんなのがホイホイいちゃたまらないわ……。ねぇ、塵塚怪王」
小傘の肩の上で、掌に乗りそうなほどの大きさになった塵塚怪王はこくこくと頷いた。
妖怪退治師の出現自体は喜ばしい。退治する妖怪の存在を確約してくれるからだ。だからといって、それが強すぎるのも考え物である。妖怪と人間のバランスがうまく保たれている状態が最も望ましい。
それに妖怪だって、殴られれば痛いのだ。
「まぁ、あいつらに出くわさなければ大丈夫よね。へーきへーき……おっ」
人通りのほとんどない街外れの、ほとんど葉の落ちた街路樹の上。小傘はこちらへ歩いてくる人影を見つけて、にんまりとほくそ笑んだ。月のない夜である。周囲に街灯などない。通行人の前に飛び降りて驚かせてやることなど、赤子の手を捻るように簡単だ。
妖怪騒動が報道によって拡散されたおかげで、今や東京の人間たちはしっかりと妖怪を認識できてしまう。この街はとっくに、魑魅魍魎があちらこちらに湧き出す異界と化していた。小傘のような妖怪が待ち望んだ世界だ。
なれば、だからこそ、それを満喫しなければならない。
真下を通ろうとする人影を目掛けて、小傘は枝から飛び降りた。青白い鬼火を浮かべておくことも、もちろん忘れてはいない。
「恨めしや! 驚けーっ!」
たぶん世界で最も理不尽な命令文句、それでも今なら、普通の人間は腰を抜かすだろう。
「……あれ?」
しかし、逃げ去る気配はない。もしや立ったまま気絶したか、と相手の顔を鬼火で照らしてみると、逆に小傘が驚かされてしまった。
(わ、異人さんだ)
濃い紫の外套をぴしりと着込んでいたのは、蒼い目をした金髪の少女だった。陶磁製の西洋人形を小傘は見たことがあるが、まるでそれがそのまま動き出したかのような。長い睫毛(まつげ)がぱちくりと瞬いて、白い息が立ち上る。
気圧されてしまった小傘だが、ナメられてはいけないと気合いを入れ直す。驚け、と日本語で言ってしまったからマズかったのだ。元より妖怪の得意とするものは、言語になる前のもっと本能的な恐怖を抱かせることではなかったか。ならば言葉に頼ることは無粋。たとえ目の色が違う異人であろうとも、恐怖させてみせよう!
「べろべろばぁ~!!」
傘から垂れる大きな舌を、威嚇するように振り翳す。化け物に食われるかもしれない恐怖は全世界共通のはずだ。
効いている。小傘は確信した。その証拠にほら、西洋少女は恐怖に囚われて、身動きひとつすらとることができないではないか。
今にも恐怖と驚愕の念が小傘を満たして ――
「東京が妖怪で溢れてるっていうのは、本当だったのね」
哀れな唐傘妖怪が、その言葉にはっと気が付いたときにはもう遅かった。目の前の少女が突然崩れ落ち、外套と手袋だけがその場にくしゃりと残される。
小傘の視線は辛うじてその後を追った。上だ。ばしゅう、と紙風船を圧し潰すような音を唐傘は聞いた。西洋少女は既に、高く高く跳躍していたのだ。
「な、何なのよあんた!」
小傘は傘を構えて身構える。宙で三回転半捻りを決めながら、しかし少女はもう攻撃動作を完了していた。
それは流れ星のような無数の光だった。極彩色の煌めきが、ふわふわと揺れる鬼火を千々に切り裂く。そして小傘は、それをシャワーのごとく浴びてしまった。小粒な魔弾。受けた攻撃の詳細を理解する頃には、少女は小傘の眼前へと着地している。
「はッ!」
気合いとともに放たれた上段の回し蹴りは、小傘の身体を容易く吹き飛ばし、その意識をも刈り取ってしまった。
流麗な一連の動作を誰かが見ていれば、少女の人間離れした体術に腰を抜かしたことだろう。ひょっとしたら彼女の方こそ妖怪だと勘違いされていたかもしれない。
しかし彼女は正真正銘の人間だ。
「……やり過ぎちゃったかな。加減が難しいのが欠点よね」
脚を降ろし構えを解いた少女の全身から、勢いよく圧縮空気が排出された。全身に装着されていた対妖魔用鎧が緊張から解放されたのだ。同時に手の甲で輝いていたターコイズブルーの霊力光が、ちかちかと瞬いてから消える。
「事情聴取できるかな、あれ。目を回してるっぽいけど……。ま、いいか。東京に留まっていれば、いずれ奴に鉢合わせるでしょうし」
落ちていた外套と手袋を着け直すと、もう少女から退魔術士の雰囲気は消えていた。
「必ず見つけだしてやるわ、八雲紫」
そう独りごちて、少女 ―― メリーベル・ハーンは再び夜を歩き出す。
◆ ◇ ◆
あまりにも目まぐるしい毎日に、気づけば一ヶ月があっと言う間に過ぎ去っていた。
何が忙しいかと言えば、それはもちろん妖怪退治である。連日ひっきりなしに、奴らは東京のどこかへ出没するのだ。それも一日に一匹ならまだ良い方である。酷いときなどは、日が暮れてから夜が明けるまでずぅっと出ずっぱりだったりする。おかげで寺住まいなのにすっかり夜型になってしまった。
星さんは、決して妖怪を殺さない。封じたりもしない。仏教徒であるのだから殺生を避けるのは当然なのだが、初めのうちは意外に思っていた。妖怪退治と言えば、二度と人前に姿を現さないように厳重にやるものだという意識があったからだ。でも彼女は暴れる妖怪を止めた後、その場で懇々(こんこん)と説きふせる。
「暴れ過ぎてはいけません。人間に本当に退治されてしまいますよ」
星さんの説法はひたすらに実直だった。しかし現場はそれで収まるものの、妖怪たちが簡単に性根を正すわけもなく、2度3度と事件を繰り返す輩は多い。
私と那津は「もっと痛めつけてやらないと連中は分からない」と主張するのだが。
「何度でも私は止めに行きますよ。すぐに分かってもらえずとも、繰り返すうちに伝わるものもあるはずです」
「そう言いますけど、こいつもうこれで食い逃げ4度目ですよ? 仏の顔だってとっくに激昂してますって」
もはやすっかり顔を覚えてしまった一つ目小僧の首根っこを掴みながら、私は星さんに言った。こいつは常連である。出店や屋台の食べ物を勝手に食っては、金を払わず逃げるのだ。妖怪が人間社会の金子(きんす)など持っているわけがないので、食い逃げになってしまうのは当たり前と言えば当たり前だが。
時刻は夜の8時9分53秒。首尾良く捕まえた一つ目小僧をおでん屋台の店主に謝らせ、代金は星さんが代わりに払った。那津は胃が痛そうな顔をした。
「また出費がかさむ。ただでさえ食い扶持が増えたっていうのに……」
「私だって働いてるじゃない」
「はいはい、無い胸を張るんじゃない」
「あ、あんたよりあるし! ていうか、貧乳が胸を張ることの何が悪いっていうのよ」
ちなみに星さんはある。サラシを外すと物凄いことになる。神も仏も不平等だ。
妖怪退治には私も積極的に参加している。タダ飯食らいの身分にならないため、というのももちろんあるけれど、最大の理由は「力の使い方に慣れるため」だ。星さんや那津にも得体の知れない博麗の巫女の力。習うことが叶わないならば、慣れるしかないというわけだ。
「いいですか、もう食い逃げはいけませんよ。お腹が空いたら白蓮寺までおいでなさい」
説教を終えた星さんにぺこぺこと頭を下げながら、一つ目小僧は去っていった。この光景も4度目だ。
溜息とともに見送っていると、傍らの那津が何かに気づいたように胸元の宝石を取り出した。
「珍しい、魔力の反応だ。近いな」
捜し物を得意とする那津は、首飾りの玉を振り子のように使い、様々な反応を探る。石がぼんやりと光っているところを見るに、あれにも不思議な力が籠められているのだろう。
彼女は魔力だと言った。妖怪から発せられる妖気とは違い、魔力は不可思議な術式を行使すると人妖問わず検出される力だ。星さんが先日、そう教えてくれた。
「つまり、誰かが何か怪しいことをしているってわけ?」
「何一つ具体性のない予想だけど、まぁそういうこと」
「近いのなら、行ってみましょう」
頭を下げる店主に見送られ、私たちは那津の先導に従い進む。大抵は妖気を見つけて妖怪を追い払うので、魔力の反応に対しての出動は那津が言ったように珍しい。
一体何があるのかと思っていると、那津が前方を指さした。瓦斯灯の周囲に人集りがある。何かを取り囲み、遠巻きに眺めているような。
その中の一人が、こちらに気づいて声を上げた。
「おぉ、巫女さんだ。あの娘なら何とかしてくれるんじゃないか」
頬がさっと熱を持った。あの新聞が東京中に貼り出されて以降ずっとこの調子だ。
人壁がさっと割れる。取り囲まれていたものの正体が明らかになる。
「女の、子……?」
路面にうずくまっているのは、幼い少女だった。年の頃は7つか8つ、薄い色の外套を着ている。長い髪が地面に着いてしまうのも厭わず、ほとんど倒れるような格好の彼女は、顔を上げてこちらをキッと睨み付けると。
次の瞬間、激しく咳き込んだ。
「げほっ! げほっ!」
「ちょ、ちょっと、その娘大丈夫なの?」
しかし彼女から十歩ほどの距離で取り巻く人々は、互いに顔を見合わせるだけだ。少女を助ける素振りすら見せない。これだけ人がいるのに誰も手を貸さないとは、信じられない薄情さだ。
誰も行こうとしないなら、私が行くしかない。憤りを覚えながらも、野次馬たちの輪の中へと足を踏み入れる。
すると少女は、今度こそこちらへはっきりとした敵意を向けた。
「来る、な……ッ!」
彼女が傍らの分厚い本に手を翳すと、本は猛烈な勢いで勝手にめくれていく!
私がその異様な光景にぎょっとして立ち止まるのと、目と鼻の先で炎が噴き上がったのは、ほとんど同時だった。突如として現れた炎の柱に視界を奪われ、私は思わずその場で尻餅を突く。
「魔法だ。ということは、あいつは」
背後から聞こえた那津の声には驚きが混じっている。
炎柱が消えると、相変わらず少女は激しく咳き込んでいた。開いたはずの本はいつの間にか閉じられている。
なるほど、人々は近づかないわけではなく、近づけないのだ。少女はまるで手負いの獣のように、自分に近づく者を全て敵と見なして、手当たり次第に先程の一撃をかましているのだろう。
「気を付けろ。その本から強力な魔力の反応がある。おそらくは開くだけで登録された術式が作動するマジックアイテムだ。迂闊に近づこうものなら……って聞いてるの、ご主人様ってば!」
ざり、と足音。私のすぐ横に、星さんは立っていた。この距離が限界だ。ここから一歩でも少女へ近づけば、あの本から魔法が放たれる。
「怖がらないでください。私たちは、あなたを助けに来ました」
「げほっ……」
幼い魔女の鋭い目からは、敵意は消えてはいない。
それでも星さんは、涼やかな微笑みとともに足を踏み出す。
「さぁ、いい子だから」
一歩、足が出た瞬間。少女の手が本へ伸びる。ぱらぱらと頁がめくられていく。
そのときにはもう、星さんは力強く地を蹴っていた。僅か一跳びで少女との間合いを詰め、火柱が上がるよりも早く本を閉じてしまう。
「ひゅっ……げほっ、げほっ!」
驚きに息を呑もうとしたからなのか、少女はさらに激しく咳き込んだ。その方を抱いて体を支えながら、星さんは胸元へ耳を当てる。
「大変だ、これは喘息の発作です。息をするのも辛いでしょうに……。お嬢ちゃん、薬は?」
敵ではないと分かったのか、それとも我慢が限界を超えたのか。大人しくなった少女は首を横に振った。
「この子の両親なら、薬を持っているんじゃない?」
「なるほど、捜してみよう。きみ、名前は? ……って、その様子じゃ話せないね。名前が書いてあるものがどこかにないか?」
私は直感的に、魔法の本を拾い上げた。表紙に題はない。裏表紙にも何も書かれていなかった。それなら内側は、と表紙をめくると、それらしきアルファベットを見つける。
「えぇと、何て読むんだろうこれ。ぱ、ぱ……パチョウリ?」
ファーストネームは難読だったが、その後に続くファミリーネームは見知った単語だった。
「知識(ノーレッジ)……変な名前」
私の言葉に魔女は敵愾心を取り戻すと、再び強く睨もうとして、しかしそのまま咳き込んでしまった。
このときまだ、私たちは知る由もなかった。
彼女が東京へ持ち込んだ、諸々の事件の厄介さを。
圧縮霊力を通わせたAMスーツの様な感じかしら。
メリーさん(仮)はエクソシストとは違うのかな? まさか紫様の落とし卵とか! その場合当然処女受胎説で!
>幼い少女だった。年の頃は7つか8つ、
ろりぱっちぇさん! お持ち帰rもといこれは保護しなくては!
>「恨めしや! 驚けーっ!」
あぁ、いつもの小傘ちゃんだ(なまあたたかい眼差し)
パッチェさんが単独行動?無茶しやがって…