星は驚愕していた。長く生きてきた彼女であっても、こんな光景は初めて見たのだ。
まずは身の丈20メートルはあろうかという巨大な妖怪である。もっとも、その大きさ自体はそれほど珍しくない。かつて星が聖白蓮とともに寺を構えていたころ、これよりも大きな見越入道という妖怪を使役する人間の少女がいた。他にもダイダラボッチなど、もっと巨大な妖怪は沢山いる。
だがしかし、この科学世紀に、それもこんな街中でお目に掛かることになるとは思ってもみなかった。妖怪の存在を否定して成り立っているこの東京という都市にありながら、塵塚怪王は確固たる存在感を放っていた。
そして、それと相対していた少女にも星は驚いていた。妖怪退治の術を持つ人間である。これも明治の世になってからはとんと見なくなっていた。そもそも徳川治世においても、退魔術師は弱体化の一途を辿っており、星ほどの格を持つ強力な妖怪と渡り合える者など全国でも片手で数えられるほどだった。
翻ってこの巫女装束の少女は、まだ粗削りで未熟ではあるが非常に強い力を秘めている。それも得体の知れない原初的な霊力だった。人間が妖怪の恐怖と戦い始めたころの、体系化すらされないままに忘れ去られたはずの退魔術だ。
帝都に在り得るはずのない二者が、どうしてここで戦っているのか。理由など星には想像もつかない。
だが、一つはっきりしていることがある。
「 ―― 街中でのこれほどの狼藉、流石に看過はできません」
過度に害を為す妖怪は、調伏しなければならない!
塵塚怪王と巫女の間。両者に割り込むようにして、星は仁王立ちの姿勢を取る。巨大な拳に押し潰されそうになっていた巫女は、間一髪のところで庇うことができた。彼女を死なせるわけにはいかないと、星の予感はそう告げていた。
「あ、あんた誰? 何者!?」
巨大な人影の肩の上で、妖怪少女が叫ぶ。どうやら彼女が塵塚怪王を覚醒させたようだ。見たところ唐傘の付喪神のようだし、ゴミの巨人とは相性がいいのだろう。
「不肖、寅丸星。毘沙門天に代わり、暴れる妖怪を成敗いたします」
律儀に名乗ってから、彼女は跳躍する。槍の穂先を相手へ真っ直ぐ向けながら、巨人へと一直線に迫る。握り手は、右を逆手に、左を順手に。そのまま勢いに任せて、槍を巨人に打ち込む!
がしゃん、と何かが砕ける音。巨人の胸の辺り、心中線上に貼り付くことに星は成功した。
「潰しちゃえ!」
唐傘の命令に応じ、塵塚怪王の掌が星へと迫る。衝突の寸前、星は槍を引き抜き再び跳んだ。
すぐ下を鉄塊が猛烈な勢いで通過する。続けて、巨人の胸と掌がぶつかる耳障りな轟音。
星は塵塚怪王の指の上にてもう一度跳躍する。相手の顔の高さまで飛び上がると、槍を横凪に数度振り払う。
―― ギィィィィィィィィィ!!
何かが軋むような音。首の上には目鼻口は見当たらないが、それはどうやら苦悶の声であった。
虫を払うように巨人が振った手を、重力に身を任せて落下することで躱す。
さらにそこから、星は何もない空間を蹴って跳んだ。巨人の周囲を縦横無尽に跳び回って翻弄しながら、星は何度も斬撃を加えていく。その度に塵塚怪王は、血の代わりにゴミの破片を撒き散らした。
やがて巨人の右肩口へ強烈な一撃が決まる。
穂先が穿った部分が大きく裂け、腕がぐらりと揺れる。
しかし ――
「くぅぅ、ちょこまかとうざったい! だけど、そんな攻撃で倒れるほど、この子は柔じゃないわ!」
そこら中から、巨人目掛けてゴミが飛来してきた。そしてもぎ取る寸前まで損壊させた腕を瞬時に修復してしまう。
槍で与える半端な傷では、塵塚怪王の攻撃を鈍らせることすらできない。それどころか、ゴミをその身に集める度に巨人は巨大化していくのだ。
「なるほど、これは厄介ですね……」
「でしょ? そんで更に、こんな隠し玉だって!」
唐傘が傘を振り上げると、塵塚怪王の全身から何かが放たれる!
咄嗟の空中宙返りで星はそれを回避。それでも避けきれなかった数発を槍で叩き落とした。
正体を視認する。傘だ。ゴミに紛れて、巨人の全身に仕込まれていたわけだ。
無力化したと思ったそれらは、しかし次の瞬間には魚のように向きを変えて空中を泳ぎ、塵塚怪王の身体へと戻っていく。
「ふむ、この速度で撃ち出されると、下手な鉄砲より恐ろしい……」
「でしょ? でしょ? 早いとこ諦めて潰されちゃいなって、ば!」
傘の弾丸、第二射。妖気が描く淡い光の軌跡が、星を目掛けて集中線を構成していく。
迫る弾幕に、しかし今度は、虎は回避の予備動作を見せない。
「……諦める、ですか」
槍の穂先を下げ、そして彼女は少しだけ笑った。
小傘は勝利を確信し ――
「それだけは、昔からずっと苦手でして」
次の瞬間、目映い光に目に視界を潰された。
星が纏う金色の闘気が、一層強く輝いたのだ。その威圧だけで、虎は全ての傘を吹き飛ばしていた。
「っつぅ、何よもう! ……って、あれは」
視力を回復させた小傘が次に目にしたのは、何もない空中でぴたりと静止した星だった。
塵塚怪王の真っ正面で身体を屈め、頭をこちらに向けた形で横たえるようなその格好は、単なる浮遊ではない。
「 ―― はッ!!」
気合が放たれた刹那。
唐傘は信じられないものを見た。黄金の光が駆け抜けたと思ったら、もう虎は塵塚怪王の背後にいたのだ。
そしてその軌跡は、巨人の太い首を穿ち、刈り取っていた!
「ちょ、え、何いまの!?」
ゴミの王の頭が、道路へと落下していく。
星は妖気の足場を、地面と垂直に展開していた。そしてそこで脚に力を限界まで蓄え、猛烈な勢いで突進したのである。単なる突撃も、彼女の膂力と妖気が合わされば必殺の威力を持つ。
「こいつ、デタラメ過ぎ……ひぃっ」
「そろそろ、諦めてはいただけませんか?」
星は唐傘に槍を突きつけて、爽やかに微笑んだ。
「妖怪に暴れるなとは言いません。しかしそれも度が過ぎれば、あなた自身に害となるのです」
「な、何さ偉そうに。というか、あんただって妖怪じゃない。ヘラヘラしちゃってさ、人間の味方するわけ?」
「ヘラヘラしているつもりはないのですが……」
彼女としては嫌味でも何でもなく、ただ相手を刺激するまいと笑っているだけである。
「それに『諦めろ』、だって? これで終わったと思ってるなら、そりゃあんた、水飴より甘い考えよ。私もこの子も、まだまだ暴れ足りないんだから!」
背後にて、軋むような轟音。星が振り向こうとした瞬間。
塵塚怪王の掌底が、彼女を圧し潰す。
「あっはっは! 頭を落とせば倒せると思ったんでしょ?」
首があったはずの場所から、3本目の腕が生えていた。
正しく異形と化したその怪物は勝利を確信しながら、歪つな哄笑とともに掌をぐりぐりと押しつける。
小傘はその手の甲に立った。
「残念、この子の核は頭じゃないの。それにゴミを集め続ける限り、塵塚怪王はいくらでも再生する。東京は人間の捨てたゴミだらけ、この子を打ち負かせる相手なんて存在しない!」
そして、高らかに笑う。
◆ ◆ ◆
「君、立てるかい?」
那津の声に、巫女の少女は僅かに首をこちらに向けた。彼女を中心にして、道路が円形に陥没している。あの巨人の一撃は相当の威力があったことが窺えた。
腕や脚を一通り触診する。どうやら骨折まではしていないようだ。普通の人間ならぺしゃんこに潰されていただろう衝撃をここまで軽減するとは、巫女に付与されていたのはかなり強力な加護であったようだ。
「話せる? 名前は?」
「……宇佐見、桜子」
何とか絞り出したような声色で彼女は応えた。防御しきれなかった一撃のせいか、消耗し尽くした体力のせいか。きっとその両方だろう、と那津は踏む。自力で立ち上がることは難しそうだ。
しかし、ここに放置しておくわけにもいかない。すぐ側で塵塚怪王と星が激しい応酬を繰り広げているのだから。
「私じゃ背負えそうにないな……。仕方ない」
巫女の脇の下に手を入れて(脇と肩が完全に露出する型の巫女服を那津は初めて見た)、上半身を持ち上げる。そして口笛をぴゅいと吹いた。すると路地のあちこちから無数の鼠が寄ってきて、桜子の腰や脚を下から持ち上げる。
「嫌かもしれないが、我慢してくれよ」
巫女はぐったりとしたまま首肯した。
とりあえず手近な路地へと避難する。ビルが崩れたりする危険は残っているが、大通りの真ん中よりはマシなはずだ。
―― ガシャン!
大通りから逃れる寸前、一際大きな音がした。それを最後に、辺りが静寂に包まれる。
那津は塵塚怪王を見上げ、息を呑んだ。巨人の首があった位置に腕が生え、その肩口を掌ですり潰すように押さえている。
「はぁ、あの人は。全くもう……」
「大丈夫、なの?」
巫女の声に心配を読み取って、那津は「心配ないさ」と首を振った。
「うちのご主人様は、正面押ししか考えない猛進型だからね。自分が奇策を嫌うのは構わないけど、相手の奇策に滅法弱いのは何とかしろって、いつも言ってるんだが」
「いや……だって今、潰されて」
「あの人を押し潰そうと思ったら、あれしきの塊じゃ足りないさ。重石に富士山でも持ってこなきゃね」
路地裏のビル壁に適当な場所を見つけて、那津は桜子をもたれさせる。
「さて、事が済んで君が快復したら、聞きたいことが幾つかある」
「事が済んだら、って……あいつを、倒せるの?」
「訳もないさ」
那津は首を振り、にやりと笑った。
「ご主人様が十分に、私の時間を稼いでくれた。私たちの勝利だ」
◆ ◆ ◆
顔の無い身体で、塵塚怪王は吼えた。巫女を瞬殺し、続いて立ち開(はだ)かった虎も撃破したのだ。もはやこの東京に、彼を止めることができる者などおるまい。長らく虐げられてきたゴミたち、そして妖怪たち。今こそその恨みを、この科学都市に思い知らせる時だ!
「さぁ、行くわよ! 人間どもを恐怖のズンドコに叩き落としてやる!」
小傘はその場でくるくると踊る。穴の開いた紫の和傘もそれに合わせて回る。
彼女の決意も、塵塚怪王と全く同じであった。見渡す限りの大都市を、全て灰塵に帰してやるのだ。いつまでも消えることのない恐怖を。どこまでも消えることのない驚愕を。人間たちに深く深く、刻みつけるのだ。
「まずは目の前の、このビルを丸ごと ―― 」
「……度が過ぎれば、あなた自身に害となる。そう言ったはずですよ」
足下からの声に、小傘は思わず飛び跳ねた。そのまま空中へ逃れる。
押し潰したはずの、虎の声だ。
「妖怪の復権を望む、あなたの気持ちは分かります。しかし、過度の示威行為は今や人間には逆効果」
「くっ、まだ生きてたの? しぶといんだから!」
唐傘が周囲に無数の傘を喚んだ。いずれもきりりと細く絞り上げられ、銛のように獲物を狙っている。
「塵塚怪王! 私の合図に合わせて、その手を退かしなさい! 全力で撃ち込んで、串刺しにしてやる!」
「手を退かす必要は、もうありませんよ」
星の声は寛(くつろ)いでいるかのように平然としている。その態度が小傘の傘骨、もとい神経に障った。いっそのこと塵塚怪王の掌ごと、あの虎を縫い留めてやろうかと考えたところで。
唐傘お化けはようやく、その異音に気がついた。
そこら中からきこえる、カリカリという小さな音。
「この巨人は無数のゴミの集積体。鼠が入り込む隙間だらけです。そして私たちは最近、東京の鼠たちと仲良くなりましてね」
「ね、鼠ですって!?」
その単語に、小傘の顔色が一変する。塵塚怪王の身体を構成するゴミの、大部分が木製だ。鼠の前歯には一溜まりもない。
無敵のはずの巨人も、無数の鼠に集(たか)られてしまえば……。
「また新しくゴミを集めて、身体を再構成してもいいでしょう。もっともそちらがそうしたとして、私たちはさらに多くの鼠にお手伝いしてもらうだけですけどね」
ぐらりと、巨人の身体が傾(かし)いだ。
ほぼ同時に、星を押さえつけていた腕も崩壊を始める。ばらばらと肉片を撒き散らしながら、腕は土塊(つちくれ)のごとく風に溶けていく。
そしてゴミ屑の中から、星が飛び出した。溢れんばかりの金色の闘気が、シャツやスラックスに付着した塵を吹き飛ばした。
そのまま浮遊し、小傘に接近。星は再び、彼女へ槍先を突き付ける。
「ひぃっ! ごめんなさい!」
和傘を持ったまま、小傘は両手を上げ降参の意を示す。
二人の足下では、巨大な人型がただのゴミ山へと姿を変えていくところだった。
「何か、急に力が漲ってきて。今なら反逆できる気がして。出来心だったんです!」
「ふむ……反省していますか?」
「はい! そりゃあもう、反省して今度こそ ―― ギッタギタだぁ!」
背後から襲ってきた塵塚怪王の悪足掻きの一撃に、今度は星も冷静に対処した。
身体を軸にして一回転、槍に遠心力が込められる。星の穂先は、今や小傘の肩に乗れそうなほどまでに小さくなってしまった巨人を、的確に絡め取った。
そしてそのまま、その槍で。
「ぎゃいんっ!」
小傘の頭部を的確に打ち据える。
唐傘妖怪とゴミ妖怪は、二人仲良くゴミ山の上へと落下した。
「やれやれ、どうやらきちんと反省してもらわなきゃならないようですね……」
頭(かぶり)を振りながら、星は独りごちた。
遠くから手回しサイレンの音が近づいてくる。警察へ誰かが通報したのだろう。
物陰から様子を窺っていた人々が、事態が収まったことを知りぞろぞろとやってきていた。
辺りに少しずつ、騒めきが戻ってくる。誰もが皆、信じられないものを見たという顔だ。巨人の成れの果てに、それが穿った大きな穴。どちらも、先程までの光景が夢や幻ではないことを雄弁に物語っている。
人々はまだ知らない。これがほんの始まりに過ぎなかったことを。
星と那津も、小傘と塵塚怪王も、そして桜子だってまだ知る由もない。彼女たちが皆、「幻想京計画」の上で踊らされていることを。
瓦斯灯がひとつ、ジジジと音を立てて消えた。
東京の夜の闇が、ほんの少しだけ濃くなった。
近づいて来ると云う事は車両にも搭載されてたのかしら?
続き、頑張ってください!