無数の小さな輝きが、空と地面をどこまでも覆っている。天の川を成す白い星々と、夜の帝都に輝く黄色い瓦斯(ガス)灯だ。天球と地面の間を、私の身体は面白いくらい自由自在に飛行した。急旋回、宙返り、錐揉み回転、どんな飛び方だって思いのままに。翼のない分、私は鳥よりも自由なのだ。
「おっと」
小傘の放った青白い鬼火がすぐそこに来ている。私は逆上がりの反対の要領で、頭を中心にぐるりと後ろへ一回転した。明らかに無茶な挙動だが、しかしそれに酔う予感すら私は感じない。
躱しながら、相手の攻撃した隙を目がけ、陰陽玉を叩き込む。
「きゃいんっ!」
緩やかな弧を描いた陰陽玉に背中から打ち据えられて、小傘は情けない悲鳴を上げた。
これで五発目である。陰陽玉を命中させるのは難しくない。目の前にあるものを手に取るくらい容易く、私は陰陽玉を相手へとぶつけることができた。無限に伸びる腕を持っているような感覚である。
そして攻撃が通る度に、小傘は確実に消耗していった。聖なる力でも帯びていて、妖怪に特効性があるのかもしれない。
「くっ、まさか妖怪退治の人間がこれほどとは」
「もう私の勝ちでいい? さっきからずっと一方的な展開じゃない」
向こうが無数に放ってくる攻撃は一発も当たらず、こちらが飛ばす陰陽玉は尽(ことごと)く命中している。当然、消耗するのは小傘のみだ。
「何のこれしき、まだまだ負けじゃないよ! 何と私には奥の手が隠されていたのだ!」
唐笠はそう嘯(うそぶ)きながら、全く当たらなかった鬼火を引っ込める。そして、傘を捧げ持つようにして何やら唱え始めた。
「さぁさ集まれ、さぁさ集まれ。今こそ我ら忘れ傘、積もる恨みを晴らすとき ―― きゃいんっ! ちょっと、技の準備中に攻撃するのは反則でしょ!」
「隙だらけなのが悪いんじゃない」
「くぅぅ、戦いの美学を解さない巫女ね! まぁいいわ、既に準備は整った。出でよ!」
小傘が傘を振り上げる。
何かが無数に迫る気配に、悪寒が全身を駆け抜ける。その正体を目で見る前に、それを躱す。すると何やら細長いものが豪速で私の身体を掠めた。動くのが一瞬でも遅ければ致命的な痛打を喰らっていただろう。
「あーあ、今の惜しかったなぁ」
無邪気に言葉を放つ小傘が、途端に恐ろしい存在に見えた。奴はその気になれば、私を躊躇なく殺すかもしれない。
ばっ、ばっ、ばっ。
布を叩いたような無数の音に周囲を見回すと、沢山の傘が私を取り囲むように浮いていた。いずれも開いた状態だ。夜の闇にぼうと光って見えるのは、それら全てに妖しい力が籠められている証左に他ならない。
さっき私を襲ったのは、親玉に喚ばれて地上から飛んできた傘の一本だったわけだ。
「今度のお相手はこの子たちだよ。東京の忘れ傘は、みんな私の味方だからね。さぁ行け!」
小傘の号令に、傘がもの凄い速度で回転を始めた。まるで丸鋸だ。当たれば痛いでは済まないだろう。
そして傘たちが、私を目掛けて殺到する!
私は陰陽玉を、自分を中心にした短い半径の円でひたすら回した。襲い来る傘たちから身を守るためだ。
首を、脚を、胴を狙ってきた傘を、陰陽玉は的確に撃ち抜いていく。破壊された傘は妖力を失い落下していくが、次から次へと後続がやって来る。キリがない。
「く、こうなったら……」
間合いを詰めるため、前方の傘を集中的に破壊する。しかしその隙に、巫女服の袖が背後から斬り裂かれた。
冷や汗が頬を伝う。これではこの場から動くことすらままならない。
「うん、私を叩く気かな? 出来るものならやってみなよ!」
声色からして、小傘は得意げな顔で胸を張っているのだろう。しかしそれすら私には、纏わりつく大量の傘に阻まれて見ることができなかった。
この状況から抜け出すためには、傘たちを操る小傘を撃破する他に手はない。
しかし、どうやって? 今の私には、傘の鋸から身を守ることだけで手一杯だ。それも攻撃がいつまで続くか分からないときている。少しでも隙を見せれば、私はバラバラにされる!
孤軍奮闘で傘を破壊し続けること61秒。こんなときでも狂わない自分の脳内時計が少し恨めしい。
「うーん、思ったより粘るなぁ」
小傘の暢気な声が聞こえた。
「それじゃ、もうちょっと傘を増やしてみよっか」
「何、ですって?」
小傘のその一言で、傘の迫る速度がぐんと増した。
周回する陰陽玉は獅子奮迅の働きで傘を殲滅している。現状の防御ですら手一杯なのに、これ以上それを厚くすることなど不可能だ。それなのに傘の攻めが激しくなるというならば……。
―― 詰んだ。
命の危機にありながら、それ故にどこか冷静な思考が、結論を導き出す。為す術は無い。私がこの状況から抜け出すことは不可能だ。
破壊しきれない傘の包囲網が、回転する刃の切っ先が、だんだんと狭まってくる。
ぴしり、と冷たい感覚が胸の辺りに走った。桃色のタイが、目の前で切り裂かれ、あっと言う間にずたずたにされる。1秒後の私を暗示するかのように、散る桜となって……。
―― 散ってたまるか!
そう強く思ったのと、胸を中心として「それ」が発動したのは、ほとんど同時だった。
最初は飛び散る鮮血に見えた。傘に胸が裂かれて出血したように思えたのだ。しかし「それ」は胸から飛び出すや否や、風も重力も無視して私の全身へと降り注ぐ。
幻想の桜吹雪のような、無数の、虹色の、目映い光だった。
1秒間が、無限に引き延ばされたような感覚。その中に私は浮かんでいた。猛スピードで回転しているはずの傘たちが、骨の一本まではっきりと見えた。
バラバラになったタイが、花弁のように私の周囲を舞っている。私の目の前に浮かぶ一枚の、その中を。
傘の切っ先が、「通過」した。コマ回しの活動写真のごとく、私にははっきりと見えた。
私は傘に向けて手を伸ばした。すると、その手をも刃はすり抜ける。
―― 博麗の巫女は、何にも縛られない。
頭の中に浮かんだその言葉を私はなぞった。そして理解する。
今の私は、物質にすら干渉されない。原理などは全く分からないが、とにかく重要なのは。
絶体絶命のピンチが、一瞬でチャンスに変わったことだ!
「んー、そろそろかなぁ。巫女だか何だか知らないけど、人間ならあれだけやれば死ぬよね。ちょっと弱過ぎて、わちき拍子抜け」
「そりゃどうも。ご期待に添えなくて悪かったわね」
「ホントだよー。妖怪退治する人間もある程度は強くあってくれないと、こっちにも張り合いってものが ―― えっ?」
傘の包囲網をすり抜けて、小傘との間合いを一瞬で詰める。傘を一カ所に集中させていた彼女は、もうすっかり勝った気になっていた。
油断しまくっているその頭上から、陰陽玉を全力で叩きつけることなんて、赤子の手を捻るより簡単である。
「唐笠だか何だか知らないけど、ちょっと弱過ぎて、私も拍子抜けだわ」
「ちょっ、待……ぎゃんっ!」
怒りを目一杯に詰め込んだ一撃が、紫の傘をぶち抜いて、小傘の頭部へと綺麗に決まった。
赤と青の瞳をくるくると回しながら(左右で色が違うことに、そのとき初めて気が付いた)、彼女は真っ逆様になって墜落していく。
主を失った傘たちも、妖力が切れたのか同じように落下していく。
「勝った……のよね?」
空に独り残された私は、何とはなしに呟いた。実感が湧かなかったので、言葉にしておきかったのだ。
これが妖怪退治というものなのか。人間を襲うお化けたちを摩訶不思議な力で成敗する者、博麗の巫女。どうやら私は、本当にそれになってしまったらしい。あの喫茶店のせいか、それともあの八雲の何とかという少女のせいか。
ふと、胸元で揺れるタイに気が付いた。引き裂かれたはずのそれは、いつの間にか元に戻っていた。背後から破られたはずの袖もだ。奇怪な現象だが、そもそもがいつの間にか着ていた装束なんだし、気にしても仕方がない。
それにしても、これを他人にはどうやって説明するべきなのだろう。
そんなことを暢気に考えていた私には、思い浮かびすらしなかった。
この事態がまだ、収束していないなんてことは。
「また頭がおかしくなった、と思われるのも心外だし……っ!?」
突如、強烈な衝撃が私を下から吹き飛ばす。風に舞う木の葉のような滅茶苦茶な軌道へ叩き込まれ、私には混乱する暇すらなかった。
街中で、何か爆発が起こったのだ。それも、かなり巨大な。
体勢を立て直し、私は眼下を探した。しかし爆炎も煙も見えない。あれほどの衝撃だし、列強国製の新型爆弾でも暴発したのかと思ったのだが。
「じゃあ今のは一体……?」
衝撃の発生源を探す私の目に、その信じ難い光景が飛び込んでくるまで13秒、そう時間はかからなかった。
すでに我が身には信じ難い出来事が幾つも起こっているのだが、それが可愛く見えるほどの異変だった。
瓦斯灯とビルディングの灯りに照らされて、巨大な影が立ち上がる。周囲の建造物より頭一つは背の高いそれは、大通り同士が交わる交差点から、ゆっくりと顔を上げて。
そしてはっきりと、私を見た。
「あーっはっはっはっは!! もう頭に来たよ!! 手加減なんかしてやらないんだからね!!」
辺りに響くのは、今しがた墜としたはずの小傘の声だ。まさかあいつが巨大化したのか、と思ったが、巨人の歪つな体型は傘少女のそれとは似ても似つかない。
先程の爆発は、まさかあれの覚醒だったのか。
高度を下げて、巨大な影に接近する。通りは逃げ惑う人々で大混乱に陥っていた。
そう、人々にも見えているのだ、あのお化けは!
「反逆の狼煙だよ! 人間に、都市に、科学に、世界に! わちきたちは反逆する! 不要と断じて捨てたモノたちの恨み、思い知るがいい!」
近づくにつれて、巨大な怪物の異様な身体がはっきりと見えるようになる。
それはゴミの集合体だった。帝都の人間たちが捨てた、大小無数のありとあらゆる廃棄物だ。それらがアメーバのように寄り集まって、一個の人型を取っているのである。
その肩の上に、小傘はちょこんと座っていた。
「ちょっとあんた、何よこれ!」
「この子は塵塚怪王。ありとあらゆる、ゴミたちの王。そして私の友達よ」
穴の開いた傘を振りかざし、小傘が得意気に言い放つ。
「東京に恐れと災いを振りまいて、人間どもに消えない恐怖を刻みつけるまで、この子は止まらないわ。博麗の巫女、今更後悔したって ―― 」
会話に気を取られた一瞬が、致命的な初動の遅れに繋がった。
空気の鳴る音が聞こえたと思ったら、左側から硬質な塊が迫ってきていた。
「 ―― 遅いんだから!」
回避、しきれなかった。
傘の群れから抜け出したときの「桜吹雪」も、完璧な不意打ちには間に合わなかった。
ゴミで腕を延長した巨人が、間合いの外から殴ってきたのだ!
「がっ……!」
強烈な打撃に、肺から全ての空気が抜ける。自動車ほどの大きさがありそうな拳の、猛烈な勢いに抗うことなどできなかった。
そして、全身が砕けてしまいそうな衝撃が私を襲った。拳に運ばれたまま、私は路面へと叩き付けられた。
「およ、しぶといねぇ」
小傘の声が、霧の向こう側にあるように遠い。
まだ自分が生きているのが信じられなかった。もう自分は死んだのかもしれないとすら思えた。
身体中が痛い。指一本動かせない。
私を巨人から庇うように、陰陽玉が浮いていることに気づいた。そしてそれを中心にして、淡く光る幾何学模様が形成されている。
「……結、界?」
どうやら最悪の衝撃から最低限の防護を施してくれていたようだ。これがなければ、私はぺしゃんこに潰れていたかもしれない。
しかしその陰陽玉も、ついには光が潰えて、私のお腹の上へ落下する。力を使い果たしたのだ。
「よぉーし、塵塚怪王、もう一発やっておしまいなさーい!」
小傘の指示に、巨大な鉄塊が持ち上げられていく。
陰陽玉さえ力尽き、私自身全く動けない状態。あの拳の二発目は、確実に致命傷となるだろう。
今度こそ、死ぬ。もはや走馬灯すら浮かばない。
私は目を閉じた。痛みを感じる間もないくらいに、あっと言う間がいいなと考えながら。
―― ガキィン!
随分と硬質的な音がけたたましく鳴り響く。自分を圧し潰すはずの衝撃が、しかしいつまで経っても襲ってこない。
私は薄らと瞼を開いた。
「…………?」
私に覆い被さるように、誰かがいた。鼻と鼻が触れ合いそうな距離で、大きな金色の瞳と視線がぶつかる。
「大丈夫ですか?」
「ふぇっ!? えっと」
涼やかな声が耳朶をくすぐって、こんな状況なのに心臓が跳ね上がった。
「……ふむん、あなたからは何やら不思議な力を感じます。けれど、お嬢さん。今のあなたでは、あれは荷の勝ち過ぎる相手でしょうね」
少しずつ、その人の顔が離れていく。するとその背後に、塵塚怪王の巨大な拳が見えてきた。暴力的な破壊力のそれを、この人は身体一つで止めたのだ。のみならず、今や押し返している。
「 ―― 喝ッ!」
そして気合一閃、ついに拳を跳ね返した。
そのまま私を背後にするように、巨大な影に向き直る。
「街中でのこれほどの狼藉、流石に看過はできません」
カーキ色のベストとスラックスという洋装の出で立ちで、手には身の丈ほどの槍を持つ『彼』は、巨大な敵をしっかりと睨(ね)めつけた。立ち上がったその全身からは、金色の闘気が炎のように立ち昇っていた。
ゴミの巨人が、それに慄(おのの)いたように一歩後ずさる。
「あ、あんた誰? 何者!?」
肩の上の小傘が立ち上がり、誰何の叫び声を上げる。
それに呼応して、『彼』は槍を水平に構えた。戦うつもりなのだ、あれと。
「不肖、寅丸星。毘沙門天に代わり、暴れる妖怪を成敗いたします」
名乗りとともに、地を強く蹴る。跳躍の高さは、10メートルを軽く超えていた。
金色の流星のごとく、そのまま怪物へとぐんぐん迫っていく。
私と星さんの、それが初めての出会いだった。
小傘の運命予想
壱、巫女も寅も退ける九十九神の力凄まじく時代の寵児として妖怪を導く
弐、好敵手として何度となく立ちはだかるも最終話で共闘
参、今話で見せたカリスマは一話限りで失墜、転身マスコットキャラへと