「ねぇ、紫」
「なぁに」
「あなたが何を企んでるのか、私にはよく分からないのだけど」
「あれだけ説明して差し上げましたのに、まだ分からないの? 風見幽香ともあろう者が」
「ぐだぐだと適当な内容を煙に巻きながら話すことを、説明とは言わないわ」
「手厳しいわねぇ」
「あの娘をどうするつもりなの?」
「言ったでしょう。巫女よ」
「博麗の?」
「えぇ。幻想郷に博麗の巫女が要るように、『幻想京』にも巫女が要るの」
「必要、って割には、随分と急拵えの巫女よねぇ。というか」
「あら、何か言いたそうね」
「あんな荒っぽい方法で覚醒させようだなんて、もしも駄目だったらどうするの?」
「『あとでスタッフが美味しく頂きました』ってね」
「……はぁ?」
「駄目なら駄目で、その時よ。次の手を考えますわ」
§
浅草凌雲閣。高さ50メートルを誇る、明治帝都随一の高層建築である。
「浅草十二階」の別名が示すように12階建てとなっており、エレベーターという電気仕掛けの昇降台で8階まで上がることができる。
小さい頃、親に連れられて凌雲閣へ登ったことがあった。東京を丸ごと見渡せる、天辺からの眺めはなかなか面白かった。すぐ真下、塔の傍にある池のほとりに、身の丈15尺はありそうなお化けがぽつねんと立っていて、どこか寂しげにこちらを見上げていた。その光景が何故か頭に焼き付いている。
まぁ、この際そんな思い出はどうでもいい。
問題はその凌雲閣が、いま遥か下に見えることだ。
「…………え?」
びょうびょうと、耳元で風が鳴っている。
周囲を覆っていた霧が晴れると、夕陽に照らされる東京の街並みがいっぺんに飛び込んできた。
陥った状況を認識する。私は頭を下にして、空から落下していた。先程までの霧は雲だったのだ。
「えぇぇ!?」
余りのことに理解が追いつかない。一体何が起こったのか、全く分からない。
お化けを追いかけていたら見つけたあの喫茶店で、謎の店主が出してくれた珈琲を飲んでいたら、これまた謎の喪服少女に昏倒させられ、そして気が付いたら墜落している。
必死に今日の出来事を順番に思い出してみるものの、恐慌は加速するばかりだ。
落ちて、いま私は高いところから落下しているわけで、これを放っておいたら、地面に激突したら、想像したくないような死に方をするのはたぶん間違いないから、どうにかしなければいけないんだけれど。
「 ―― どうしろって言うのよ!」
一介の人間である私が、空を飛ぶ能力など持っているはずがない。必死に腕をバタつかせたり、身体を捩ったりしてみるものの、もちろんそれでどうにかなるものでもなく。
夕陽に伸びる凌雲閣の長い影が、どんどん迫ってくる。
まずい。このままでは、死ぬ。
ぐるりと思考が回転した。閉じることのできない目が、取り留めもない情景を無数に捉え始めていた。意識が覚醒してから43秒。幾つもの思い出が私の周りに、まるで写真のように写し出され乱舞している。
そうか、これが走馬燈というやつか。
今日の朝食にあった目玉焼きが焦げていたこと。
風邪の時に私をじっと覗き込んでいたお化け。
降り続く雨が鬱陶しくて仕方なかったこと。
孔雀様が嬉しそうに指し示す試験結果表。
手を延ばして私の頬を触る喪服の少女。
入学記念にと買ってもらった万年筆。
ブラックの珈琲は苦くて仕方ない。
布団に出たり入ったりする小人。
花の咲き乱れる高原に渡り鳥。
宿題を忘れてくらった拳骨。
緑髪の若い女喫茶店店主。
隅田川の屋台船の灯り。
私の陰口を叩く奴ら。
嵐の後の空が青い。
校舎の煉瓦の色。
馴染みの公園。
博麗の巫女。
博麗の、巫女。
その言葉に思い当った瞬間、私の頭の中で何かが弾けた。
赤、黄、緑、青。
極彩色が縦横無尽に舞い、混ざり合って。
そして目映い白を成した。
誰かが頭の中で叫ぶ。
―― 博麗、すなわち白と零。
―― どこにも存在しないがゆえに自由。
―― そしてどこにでも存在するがゆえに自由。
分解と構成と再分解と再構成。
私の中の『なにか』が、私を作り替えていく感覚。
私の中の『なにか』は、そして全てを切り裂きながら現出する。
飛んでいこうとするそれを、必死に、何とか……掴んだ!
―― 幻想を創造せよ。
―― 幻想を調律せよ。
―― 幻想を裁定せよ。
それは球だった。白と黒、二色の勾玉が組み合わさったような球体。
見覚えがある。これは太極図だ。それを丸めたもの、陰陽玉。
初めて見るはずのそれは、何故だか掌にしっくりと馴染んだ。
まるで最初から私の身体の一部であるかのように。
―― 望む儘に跳べ。
―― 想う所を翔べ。
―― 全てを解き放って、飛べ!
「飛ぶ、って」
頭の中で叫ぶ声が誰のものか、ようやく思い当たる。
これは自分の声だ。私ではない、けれど紛れもなく「私」の声だ。
「飛べば、いいのね?」
瞬時に理解する。8秒前までの不可能が、今の私には可能なのだと。
陰陽玉が掌からふわりと離れ、光を撒き散らしながら、私を中心にして高速で回転し始める。
その瞬間から、重力は私を捕まえられなくなった。
耳元で鳴る風の音が、消えた。
ビルばかりのはずの東京が、平べったい地図のように見下ろせる。見たことのない光景だった。私のはるか足下で、豆粒くらいの人々が行き交う様子が辛うじて見える。上を見ると、はぐれ雲が手の届きそうな場所に浮いていた。西の箱根山あたりから射してくる夕陽は、私を真横から照らしている。
「……寒っ」
風の通る上空の方が地表より気温は低い、という知識を思い出すと、同時に肌寒さも蘇ってきた。
高度を徐々に下げて、私は浅草十二階の天辺に降り立った。この動作には全く苦労しなかった。私が空を進む道筋を思い描くだけで、私の身体はその通りに飛行したのである。
普通の人なら、凌雲閣の屋根の上など怖くて登れないに違いない。私だって、昨日までならそうだっただろう。けれど今、私は全く恐怖を感じていなかった。心の中の、恐れという感情を担う部分だけが麻痺してしまっていた。
回転速度を落とした陰陽玉を手に取る。すると今までの動きが嘘のように静かになった。
あらためて、おずおずと自分の姿を確認する。そしてさらなる異変に気づかされた。
「どうなっちゃってるのよ、これ」
服装が完全に変わっている。先程まで着ていたはずの女学生服ではない。紅と白を基調にしたツーピースの、和装とも洋装とも言えない格好。胸元には桃色のタイが結ばれている。紅いスカートが少し膨らんでいるということは、パニエかペチコートを下にはいているのだろうか。
気分がふわふわとして落ち着かない。この状況で落ち着ける奴がいるのなら大した度胸だろう。今日になってから私の身に降りかかってくるのは意味の分からない出来事だらけだ。
だがとりあえず、これだけは理解できる。
私はどうやら、何か別の「私」になってしまったのだ。
360度をぐるりと見渡す。思い出の景色より、少しだけ高い目線での光景。それはあのときとは全くの別物に見えた。あれだけ広大に思えた東京が、今は何故か、自宅の庭のように感じられる。
そういえばあのときは、塔の麓にある池のほとりに大きいお化けが立っていたのだった。同じ場所を見るも、当然そのお化けは見えない。傘をさした人が一人いるだけだった。
「……え、傘? こんなに晴れてるのに」
訝しんでいると、その傘がだんだん大きく見えてきた。なんと上昇してきている。それも真っ直ぐに私を目指して。
やがて紫色の傘に、驚くべき変化が起きた。大きな一つ目と巨大な口が、その傘布に開いたのだ。見開いた目がぎょろりと私を睨み、大口からは長い舌がぬらりと飛び出す!
「 ―― うらめしやぁー!」
傘の下の襤褸振袖の少女は、私と同じ高さまで上がってくるや否や、こう叫んで傘を威嚇的に掲げた。
「……あれ、見えてる割に、驚いてないね」
「そりゃあ、今時『うらめしやー』て」
「何だぁ、驚いてくれないなんて。貴方達人間が驚いてくれないと、私はひもじい」
「というか、あんた、誰? 何?」
口を尖らせて文句を言う彼女は、先程まで私が追いかけていた傘少女である。生きているかのような傘を手に、自在に空を飛んでいるのだから、こいつもお化けであることは間違いないだろう。
けれど、こんなに人間そっくりなお化けは初めて見た。傘を持たずに街を歩く姿だけを見れば、普通の女の子と思うだろう。
私の誰何に、傘少女は大仰に仰け反って見せる。
「なんと、この素敵な傘を見ても分からないとは。ならばその頭に刻み付けよ! わちきこそ、江戸の御世より名を馳せる、泣く子も黙る唐傘妖。姓は多々良に名は小傘。たとい時代が蝙蝠傘を求めても、風雨に負けずあちきは今日も突き進むのよ。お、ど、ろ、けぇぇぇぇ!」
唐傘の巨眼を突き付けて、これは彼女なりに恐怖を演出しているのかもしれないが。
「驚けと言われて驚く阿呆はいないし、紫のぼろい和傘とかどの時代にも求められていないし、泣く子が黙るってことは多分それそんなに驚いてないし、江戸の御世から馳せてるってあんたの名前を私は知らない」
「ひどっ!? うぅ、あんまりだ……」
小傘はいじいじと空中でしゃがみこんでいじけ始めた。器用な妖怪である。
「最近じゃ人間も驚いてくれないどころか、私のことを見えないように無視する始末。あぁ、文明開化だか何だか知らないけど、江戸から東京に名を変えただけでこうも世知辛くなるとは」
「あの、よく分かんないけど、気を悪くしたならごめんね?」
「でも!」
発条(ばね)仕掛けのように立ち上がって、唐傘妖怪は私をずびしっと指差す。
「あなたみたいな人間が現れたということは、妖怪たちの世が再び訪れるということよね!」
「……え、どういうこと?」
「見れば分かるよ。あなた、妖怪退治する人でしょ?」
妖怪退治。昔話や伝説でしか聞いたことのない言葉。
確かに私は小さい頃からお化けに触れていた。しかしそれに危害を加えたことはない。彼らはただそこにいるだけで、こちらに何をしてくるというわけでもなかったし。
「あなたのその格好、妖怪退治の巫女っぽいわ。昔は妖怪退治を専門にする強いやつが沢山いたんだって。そしてそういう人間が多ければ多いほど、妖怪も強くなる。巫女は私も初めて見たけど」
巫女。博麗の巫女。
なるほど、神社でたまに目にする巫女さんの装いは、確かにこのような紅白の色合いである。仕立てはあまり巫女っぽくないけれど。
「妖怪退治の巫女、ってことは私はつまり」
掌の陰陽玉が鈍く光り出し、そしてふわりと浮き上がる。
身体の中から力が溢れる。今なら何だってできる気がした。
「あんたを倒さなきゃいけないってこと?」
私が目線に力を籠めると、小傘はにやりと不敵に笑い、空中宙返りで少し間合いを取った。
「倒せるものなら倒してみなよ! あべこべに返り討ちにして、わちきは今度こそ東京にこの名を馳せる!」
足元の屋根を強く蹴り、私は宵闇の空へと浮かび上がった。陰陽玉は淡い光の尾を引きながら、私の周囲を力強く回る。今やもう、地面を歩くよりも水中を泳ぐよりも、空を飛ぶ方が自由で楽に思えた。誰も私を縛らない。誰も私を捉えることはできない。
そして、誰も私を負かすことはできない!
「さぁ、夢を忘れた人間たちよ。御覧(ごろう)じろ御覧じろ、愉快な愉快な百鬼夜行の始まりだよ!」
小傘の周囲に、ひとつまたひとつと、青白い鬼火が燃え上がった。
それらは彼女の正面でぐるぐると円を描き……砲弾のように撃ち出される!
真っ直ぐに私目掛け飛んでくるそれを、陰陽玉が弾き飛ばした。
それを合図にしたのか、小傘自身もこちらへ突っ込んでくる。
夕陽の最後の一欠片が、山の端に沈みきった。
夜が、降りてくる。
何をしても噛ませにしか見えないところとか
当然下着など付けているであろう筈もなく闊達な彼女ですからその動きに合わせてひらりひらりと短い裾が・・・ふう。