沈みかけた太陽が、今や白蓮寺となった大きな家を紅く染めていた。荷解きを一通り終えた星は、浅く差し込む西陽の中でひとり目を閉じ、軽く埃を払っただけの床で座禅を組んでいる。見えない糸がそこら中に張り巡らされているかのように、空気がぴんと張りつめていた。
無造作に置かれたあれこれの間を縫って、一匹の鼠がちょろちょろと走っていた。その習性に従って物陰から物陰へと隠れながら移動していた彼は、星をも置物と勘違いしたのか、その組んだ脚の下に入り込もうとする。すると、それに気づいた星が薄目で鼠を見やったので、彼はぎょっとして凍り付いてしまった。星としては射すくめたつもりはなかったのだが、敏感な動物のこと、彼女の視線に残るほんの僅かな妖気を察知したのだろう。
鼠の恐怖を和らげようと、星は微笑んで見せる。
「山の鼠よりも大きいですね。いいものを食べているのかな、小腹を満たすのに丁度良い肥え具合です」
その言葉に鼠はびくりと飛び跳ねて、一目散に逃げ出してしまった。寄ってきたら撫でてやろうと差し出していた右手が行き場を失くす。
「……冗談ですってば」
「冗談が下手なのにも程があると思うよ」
視線を上げると、鼠の逃げていく先、開け放していた大きな扉の脇に那津が立っていた。
鼠はまるで親を見つけた迷子のように那津の下へと駆け寄ると、そのまま彼女の小柄な体躯を駆け登り、肩の上でようやくその足を止めた。
「せっかく手なづけたんだ、怖がらせるような真似は止めてほしい」
「いえそんなつもりは」
「あなたにそのつもりがなくっても、か弱い鼠にとっちゃ同じことさ」
那津は鼠の鼻先を愛おしげに撫でる。星は頭を掻きながら立ち上がった。
「その様子だと、素直に従ってもらえたようですね」
「あぁ、ここら一帯の鼠はもう一匹残らず私の眷属さ。私の『網』はそれこそネズミ算式で広がっていく。帝都中の鼠を従わせるのも時間の問題だね」
那津は無数の鼠を使役することができる。この能力を駆使した探し物や破壊工作が彼女の十八番だ。
「それにしても」
整理途中の部屋を見渡して、那津は溜息を吐いた。家具調度の類は手配した人足が一応配置してくれてはいる。だが服などの日用品や、細々とした仏具の数々は無造作に放置されたままだ。泥棒に入られた家よりも酷い散らかり具合である。
「『荷解きはしておいてくれ』と言ったけれど、本当に荷解きしかしてないとは。これじゃあ一体今晩はどこで寝ればいいんだい?」
「あはは……。まぁ私たちは、その気になれば眠らなくっても何とかなりますし」
「引っ越しした日の夜くらい、ぐっすりと休みたいんだけど。ほら、そこの着物を箪笥に入れて」
那津の指示に星は素直に従った。二人は黙々と引っ越し作業を再開する。
新たな白蓮寺となったその建物は、見れば見るほど寺には似つかわしくない。小さなダンスホールまで備えたそれは、下足を玄関で脱ぐように造られている以外は、ほとんど迎賓館であった。これを長屋の一室とほぼ同じ賃料で借りられるというのはお得を通り越してもはや異常だ。
もしかしたら霊障が頻発するとか、何か曰く付きの家であるのかもしれない。もっともこの二人にとっては、そこらの悪霊の相手くらい造作もないことであるが。
片付けにひと段落ついたところで那津が腰を上げる。星の方は、と様子を見ると、彼女は固まっていた。手に持った箱をじぃっと見つめたまま、しかしその表情は夕陽の陰になって窺(うかが)うことができない。
「…………」
那津は黙って彼女の傍らに寄り添う。その箱の中身を、二人ともよく知っている。いや、知っていたと言うべきだろう。
失われてしまった毘沙門天の宝塔が納められていた箱を、星はその細い指先でそっと撫でた。
「一体、どこへ行ってしまったのでしょう」
絞り出すような声には悔恨が滲む。
「あのとき、寺を留守にしていなければ、こんなことには」
「今更そんなことを言ったって仕方ない。なに、私と私の鼠たちとで、いつか必ず」
那津の励ましも、籠められているのは空元気であった。失せ物探しを得手とする彼女はその妖力を用いたダウジングの腕にも覚えがある。しかし百発百中のはずのそれをもってしても、宝塔の行方は知れないのである。
毘沙門天の力を借りられる宝塔がここにないということ。その一点が示す意味は非常に重い。
単純に宝塔は武器として強力である。聖なる玉より放たれる光線は遍(あまね)く不浄を灼き払う。宝塔の力を操る星を相手取って、地を舐めない妖怪などまずいないだろう。
しかし武器の喪失は、星の後悔の最大の理由ではない。宝塔を失って以降、星はその身一つで妖怪と対峙しているが、後れを取ることはほとんどない。彼女の体術と槍術は人の遙か及ばぬ達人の域に高められている。自分の退魔の腕は八割がた宝塔のおかげだ、と星はよく言うが、それはとんでもない謙遜だ。
「もう、永遠に失われてしまったのだとしたら」
星の顔色は、夕陽の中にありながら紙のように白い。
「聖……」
箱を掻き抱いて遠き人の名を呟く星の姿を、那津はもう見ていられなくなって、目を伏せた。
かつて星を毘沙門天の代理に据え、共に人妖共存の理想を掲げた尼僧、聖白蓮。
彼女を煉獄より深き魔界より救い出すこと。それが星の何よりも強い願いであった。
宝塔がなければ、その願いは叶わないだろう。此世と魔界は全く根本原理の異なる世界である。その封印を破るには、人智を超越する強い力を、適切な時と場所で行使しなければならない。
「見つけるさ、必ず」
必ず、という言葉に那津は力を籠められない。探し物については右に出る者のない彼女でさえ、手がかりすら全く掴めないのだ。
頭の隅に過(よ)ぎる諦めを、那津は懸命に振り払う。宝塔は探し出さなければならない。必ずだ。そうでなければ那津自身、毘沙門天への申し開きが立たない。そして何より、星の望みは決して成就しないのだ。
夕陽の最後のひと欠片が消え去ってしまうまで、那津は星に寄り添っていた。
彼女の肩の上で鼠がその尻尾をときどき揺らすほかは、白蓮寺はその時間を暫し止めていた。
§
夜の闇がとっぷりと深くなり、街は静寂に包まれた。寺の中もすっかり暗くなったので、那津は燭台を立てて火を点けたのだが、それは早速新居の不便さを露呈する結果となった。部屋の広さに対し、光源が全く力不足なのである。小さな山寺に残されていた灯明だけではほとんど明るくならない。
「目を悪くしそうだな……」
「ないものは仕方ありません。今あるものを使いましょう」
星はそう言って天井を指さした。そこには豪奢なシャンデリアが下がっている。蝋燭立てが二十はありそうなそれは、使うならば天井から降ろして蝋燭に一本一本火を点さなければならない。だがそんなことを毎日やっていたのでは、とてもじゃないが蝋燭の備えが追いつかない。
那津がきょとんとしていると、星は自らの掌の中に光を点して見せた。妖力を練り上げた光球だ。それはふわりと浮き上がると、やがて分裂してそれぞれの蝋燭立てに固定される。
あっという間に、室内は昼の様に明るくなった。
「当座はこれで凌ぎましょう」
「……本当に寺なのか、ここ」
音楽さえあれば舞踏会でも始まりそうな雰囲気である。その一方で部屋の隅には片づけきれなかった仏具がまだそのまま置かれており、和洋折衷とも言い難い不思議な空間を形成していた。
前の家主が置き去りにしていったのだろう、巨大なテーブルで夕食にする。食事の支度ができるほどに片付いていなかったため、店屋物で済ませた。広さはせいぜい六人用といったところだが、これまで狭い卓袱台で額を突き合わせるようにして食事を取っていた二人にしてみれば空虚なまでに広い。
「そういえば、ちょっと妙なんですが」
既に半分ほどまで減った大盛りの掛け蕎麦を前に、出し抜けに星は言った。
「那津は感じますか。前に東京へ来たときと、街の空気が違うような気がするんです」
「空気?」
対する那津は並盛りの掛け蕎麦をゆっくりと啜っている。猫舌なので一口ごとにふぅふぅと冷ましながらである。
「そりゃあこれだけの大都市だ、常にどこかしら変わり続けているだろうさ」
「いえ、空気というのはそういう物理的なことではなくて」
そこで言葉を切り、星は蕎麦を豪快に啜った。
「ふぉうふぁいはひはふぁはあひふっへ」
「飲み込んでから喋ってくれ」
「んむ……心なしか、妖怪たちが騒ついているような」
那津の箸を持つ手が止まり、その目が細くなる。
「東京に入ったときから何だか胸騒ぎがしたので、先ほど座禅を組みがてら様子を探ってみたのです。一言で表すとすれば……祭りの前、のような」
「こんな人間ばかりの街に今さらそんな妖怪騒ぎなんて、俄かには信じ難い、けれど」
箸を丼に渡して、那津は思案顔をした。
「あなたのこういう勘は当たるからなぁ」
妖怪はその実存を自他の精神に強く依存する存在である。ゆえにその感情は周囲にも大きな影響を与える。妖怪が暴れ出す際には前兆として様々な現象が起こるが、それはこの感情の発露が原因であることが多い。星はその気配を読み取ることに長けていた。
彼女はこの騒めきを「祭りの前」と表現した。
東京の妖怪たちは喜んでいるか、あるいは何かを楽しみに待っているのかもしれない。
「ふむ、それは確かに妙だ……」
しかし、それが一体何なのか。那津には想像もつかない。星もそこまでは分からないようだった。
昨今の科学技術の発展は、様々な妖怪たちの存在を根底から否定していっている。その存在のほとんどを人間の精神に依存するような弱い妖怪たちにとって、この風潮は死の宣告にも等しい。
妖怪の存在を信じない人間には、妖怪を感知することができない。人ならざる者がいかに暴れようと、それは人間の頭の中で「自然現象」へと置き換えられ、理屈が付けられてしまうからだ。『幽霊の正体みたり枯れ尾花』という句のように。
実際、都市部から妖怪は急速に駆逐されていっているのだ。ここ最近、白蓮寺に駆け込んでくる妖怪はそういった者ばかりだったし、逆に妖怪退治を依頼するような人間はもう都会にはほとんどいない。
その都市の最たるものが帝都東京だ。ピンからキリまで科学の上に成り立っている、科学世紀の象徴であるこの街で、魑魅魍魎の百鬼夜行などもはや望むべくもない。夜空の星まで摩天楼が征服しつつある世界に対して、妖怪たちの勝ち目など万に一つだって存在しないはずだ。
それなのに今、東京は妖怪たちの喜気で満ちているのだという。
星が「妙だ」と言うのは、この逆説のことだ。
「彼らの存在を保証する後ろ盾になり得る、強大な妖怪がやってくるのかもしれません」
「まさか私たちのことじゃあるまいな」
「……誤解を与えている可能性は否定できません。人間に身をやつして社会に溶け込めるほどの妖怪は、もはや限られていますからね」
星は蕎麦つゆの最後の一滴まで飲み干し、「ご馳走様でした」と手を合わせた。彼女の健啖振りは今日も変わることはない。那津は自分の丼を見下ろして、すっかり伸びきった蕎麦に小さく溜息を吐いた。少食気味の彼女はもうお腹いっぱいである。思案を巡らせているうちに箸が止まってしまったのだ。
それでも、食事だって修行の一環である。出されたものを残す訳にはいかない。
「ま、これだけじゃまだ私たちが出る幕ではないね。実際に東京で妖怪が暴れ出した、とかならともかく」
冷めた蕎麦を那津が一気に啜ろうとした、その時だった。
どん、と何かが爆発したような衝撃が、東京を丸ごと揺らした。
「……っ! げほっ、げほっ」
那津は蕎麦つゆに激しく噎せ返る。星は弾かれた様に立ち上がった。
窓硝子がびりびりと震えている。風が街を薙ぎ払う轟々という音が、辺りに満ちていた夜の静寂を一瞬で打ち払ってしまっていた。
「うぅ……これは」
決まりが悪そうに那津は箸を置いた。
星はもう、窓にぴたりと身を寄せて様子を窺っている。その眼に宿るのは真剣の光だ。
それは本当の爆発だった。爆炎は目に見えず、爆音も耳に聞こえないが、しかし二人には確かに感じ取れる妖気の爆発だ。帝都のどこかで、強大な妖怪が自らの力を開放したのだ。
こういった爆発は、妖怪が臨戦態勢に入ったときに発生することが多い。
「まずいですね……」
「あぁ。まさか東京で、来て早々にこれとは。滅多なことを口にするものじゃあないな」
「那津、私の槍を」
その注文に、那津は星の足下を指さす。そこには既に、無数の鼠たちによって運ばれてきていた寅の得物があった。星は微笑みだけで礼意を伝え、手早く包みを解く。柄の数カ所で解体できるそれは、彼女の愛用する携帯用の槍である。取り外しと組み立ては持ち主の妖力でしか行えない、高名な妖怪鍛冶の手による特注品だ。
取り出されてから僅か二秒ほど、あっと言う間に星の手には背丈ほどの槍が握られていた。
「東京はどこへ行っても人ばかりです。妖怪が暴れているのなら止めなければ。多くの犠牲が出るかもしれない」
「私も行こう。あなた一人だと、どうにも突っ走りがちになるからね」
那津が横に並ぶと、星は窓を開け放った。暴れている風が部屋の中へ吹き込んでくる。衝撃波の余韻が、まだ夜をかき乱しているのだ。
鼠たちが二人の下足をも運んでくる。無作法にその場で履いて、寅は窓枠に脚をかけた。
「さぁ、無闇に暴れる輩を鎮めに行きますよ!」
「この御時世、人間の街のど真ん中で騒ぐ妖怪か。ぜひその面を拝みたいもんだね」
そのまま二人は、窓から飛び出した。隣の家の屋根へと跳び上がり、夜の街をびゅんびゅんと駆けていく。闇夜を跳ぶ寅と鼠の影は、普通の人間からでは目を凝らしても見えないだろう。
不穏な風の中、それでも二人の目は、毅然と前だけを見つめている。
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