はるか頭上、ビルディングの屋上に見え隠れする影を追って、人混みを縫うように私は走った。ときおり誰かにぶつかっては謝りながら、それでも視線をあの少女から剥がすことはできなかった。
真青の空の中を飛ぶ青い襤褸振袖は、ふとした拍子に見失ってしまいそうだった。川を泳ぐメダカが自分の姿を水へ溶け込ませてしまうように。ともすれば、紫色の大きな傘だけが風に舞っているようにも見えるのである。
それでも何とか追い縋っているうちに、少女はようやく立ち止まった。そして私の走る大通りの先へと飛び降りる。人混みの中心へと少女が落ちてきたというのに、行き交う人々が気に留める様子はない。やはり見えていないのだ。
少女はそこにある何がしかの店の前で、場所を確かめるように看板を睨み ――
キィィィィ!!
―― 鋭い金属音に、私はぎくりとして立ち止まる。
「危ねぇな、どこ見ていやがる!」
路面電車の運転手が、窓から上半身を出して私に怒鳴った。何が起こったのか理解した瞬間、背中が氷を当てられたようにぞくりと粟立った。あまりに周囲を見なかったせいで、危うく私は電車に轢かれるところであったのだ。
平謝りしながら飛び退くと、黄色い車両は鐘を鳴らしながら再び走り出す。
前方へと視線を戻すと、もうどこにも傘少女の姿はなかった。
まだどきどきしている胸を何とか宥(なだ)めながら、少女の飛び降りた辺りへ行ってみることにする。
「……喫茶店?」
思わず声に出してしまったのは、一見しただけではそれが何の店なのか分からなかったからである。猫が辛うじて渡れそうなくらいに細い庇には、「COIN」と屋号らしき名が小さく書かれているだけで、それ以上の説明はない。微かに漂っている珈琲の香りに気づかなければ、何の店なのか私には分からず終まいだっただろう。
二つの華やかな西洋ブティック店に挟まれた、差しわたし三間ほどの小さい店は、言われなければ見落としてしまいそうなほどに存在感がなかった。
本当にここに、傘少女は入っていったのだろうか。お化けも珈琲を嗜むというのだろうか。
「ま、ブティックよりは可能性あるか」
開店していることを示すものすら何もない、質素な木製の扉を引いた。ききぃ、と軋む音がおどろおどろしく鳴る。
暗闇が広がっていることを何となく想像していたが、店内は思っていたより明るかった。小さいテーブル席が二つにカウンター席が五つという、猫の額ほどの店だ。ランプのせいか、古めかしい調度品の数々はどこか赤みが勝って見える。
少しの間、私はその光景にぼうっと見惚れてしまっていた。その意識の失調から目覚めさせるように、背後でバタンと扉が閉まる。外の喧騒が嘘のように消え、私は重い静寂の中に取り込まれた。カウンター席の向こう側から聞こえてくるこぽこぽという音は、お湯の沸く音だろうか。
だが、誰もそこにはいない。襤褸振袖のあの娘はおろか、店員も影すら見えない。
私は意を決して声を上げた。
「すいません、誰かいらっしゃいますか」
返事はない。壁の棚に並ぶ無数の酒瓶がランプの光を反射して、星空のようにきらきらと輝いていた。喉の奥に貼り付くような珈琲の香ばしさの中、セピア色に染め上げられた私は、どうすればいいのか分からずその場で立ち尽くしていた。
私の頭の中の時計は、こんなときでもしっかりと針を刻んでいる。扉が閉まってから経過した時間は2分11秒。
思い切って一歩を踏み出してみる。ランプの灯りがぶわりと大きく揺れる。
すると誰かに肩を掴まれた。心臓が飛び出そうになる。背後からだ。
「あら、いらっしゃいませ」
振り向くと、赤いチェック柄のエプロンを付けた店員らしき女性が微笑んでいた。いつの間にそこへ立ったのだろう。私の後からここへ入ったのかもしれない。けれど、そんな気配は全く感じなかった。
「ご覧の通り、席は空いてるわ。お好きな場所へどうぞ」
そう言うと、呆気に取られている私を置いてカウンターの中へと入っていく。私より一回り年上というくらいの、若い女の人だった。まさか店主なのだろうか。私の知っている喫茶店のマスターは、大抵がそれなりの歳の男性なのだが。
カウンター席に座るのも気が引けたので、壁際のテーブル席に着く。両掌を置けばいっぱいになってしまうくらいの小さなテーブルだ。座りながら珈琲を一つ注文すると、彼女は萌ゆる若芽のような翠髪の奥から、目線だけでそれに応えた。
お湯をネルフィルターへ注ぎ始めた彼女に、私は傘の少女について聞いてみることにする。
「あの、女の子が来ませんでしたか、私の前に。大きな紫色の傘を持った女の子なんですけど」
返答の代わりに、紅い視線が細い光線となって飛んできて、私を貫通した。ぞくりと首筋が沸き立つ。宝石をそのまま眼窩へと埋め込んだような、魔性を感じさせる瞳だった。店内の気温が一気に下がったような錯覚に、冷や汗が凍り付く。
ドリップされた珈琲の滴る音だけがやけに大きく響く中、彼女がようやく口を開いた。
「さぁね、来たかもしれないわ」
それだけを答えたっきり、彼女は再び手元のドリッパーに意識を戻してしまう。これ以上の回答は望めそうもない。私はぶるりとひとつ大きく身を震わせて、全身の緊張を何とか解きほぐした。
手持ち無沙汰になってしまったので、何とはなしに店内をじっくりと観察した。もしかしたらどこかにあの少女が隠れているのかもしれないと思ったのだが、そんな気配はどこにもない。ふと、壁を埋め尽くすように飾られた様々なサイズの絵画に目が行った。インテリアなのだろうが、よく見ると西洋画に交じって浮世絵も額に収まっている。調和が取れなくなってしまうようにも思えるが、それでも不思議と雰囲気は失われていない。どこか雑然とした空気が不思議な落ち着きを醸し出していた。やがて私は気づく。飾られている絵は全て、花の絵だ。
「お待たせ」
ことり、とソーサーを置く音に我に返る。注文からの経過時間は4分47秒。私の目の前に置かれたのはやはり花柄のカップだった。店長の ―― 私の中にはもう彼女が店長に違いないという確信があった ―― 趣味なのだろうか。柔らかい彼女の笑顔も、美しい花を思わせた。桜のように儚く散る花ではなく、強く咲き誇る花だ。
机の上にはミルクもシュガーも見当たらない。何だかちょっと頼みづらかったのでブラックのまま啜る。すると芳醇な珈琲豆の香りが喉奥から鼻へと吹き抜けた。思わず感嘆の声を出してしまう。苦味よりもまろやかさが先に立つ、今まで飲んだことのない珈琲だった。私の舌では珈琲にはどうしてもミルクとシュガーを入れたくなるのだが、これなら無理をせずともブラックのまま飲める。
これはいい店を見つけたものだと、私は当初の目的も忘れて上機嫌になっていた。人の少ない隠れ家のような喫茶店は私の中では評価が高いのだが、そういう場所はけっこう稀少なのである。大きな店は人も多くて騒々しいし、小さな店は大概が小汚くて不味い。環境と品質において、ここは私の中の基準をひとまず超えていた。贔屓にしたいところである。ひょっとしたらあの襤褸振袖少女も、この店に通っているのかもしれない。お化けが珈琲を嗜むのかどうか、よく分からないけれど。
「見えているのね、あなたには」
いきなり知らない声がした。カップを危うく取り落としそうになった。
意識を物思いから引き戻すと、対面の席に黒い人影が座っている。黒いのは纏うゴシックドレスが漆黒だからだ。少女雑誌で見ただけの西洋風の喪服を思い出す。私をじっと見つめる彼女の深い瞳は、満月色の闇だった。何を言われたのか理解が追いつかないまま、私の視線はしかし、その闇へ引きずり込まれたまま戻ってくることができない。
「あ、あの」
「あなたには見えている。この街に未だ残るか弱き者たちが。人間に否定され滅びかけている、哀れな妖怪たちがね」
救いを求めて店内を見回す。しかし誰もいない。先程までカウンターにいたはずの店主さえ、いつの間にか影も形もない。
妖怪。喪服の少女は確かにそう言った。それは私に見えているお化けたちのことなのだろうか。
「見えているから、何なんですか」
状況の飲み込めないまま、とりあえず問い返す。こういう場面でも負けん気が出てしまうのは私の悪い癖であった。
「私に何が見えていようが、あなたには関係ないでしょう」
「あなたの様な女の子をずっと探していたのよ」
彼女の手がするりと伸びて、五本の指で私の頬を強く撫でた。その指先からはおよそ一切の温もりというものが感じられない。双つの満月は私の内側に容易く入り込んで、私を品定めしていた。理由のない恐怖が全身を支配する。心臓よりも深い場所から来る、原初的な恐怖だ。
逃げなきゃいけない。のに、逃げられない。
「思った以上だわ。申し分ない素質。計画に欠けていた最後の一ピースがようやく揃った」
喪服の少女は立ち上がって、私を押し潰す様に見下ろした。頬に添えられた指は接着されたかのごとく離れない。
自分が溶けていくような感覚に襲われた。彼女の瞳を中心にして、私の視界が回転を始めていた。店内のあらゆるものが、摺り硝子を隔てた様にぼやけていく。
「あなたに見えているものは、あなたにしか関係ない、そう思うかしら? そんなことはないわ。あなたが見ているものが、あなたのいる世界を作る。あなたに見えていないものは、この世のどこにも存在できない。必要なのは存在することなのよ。あなた達にとっては当たり前の概念も、だけど私達にとっては喉から手が出るほど欲しくてたまらない」
彼女の両瞳だけを残して、目に映る全てがついに闇の中に消えた。漆黒の夜に浮かぶ双つの月が私を照らしている。誰かが頭を内側からがんがんと叩いている。私の中に、私の知らない何かが生まれているのが分かる。分かってしまう。何もかもあやふやになって、丸く丸く、形成されていく。何もかもがぐるぐると回っていて、分からない、上は、下は、前は後ろはどっちなんだろう。
私は椅子から転げ落ちた、のだと思う。『酔う』などという生易しい表現では足りないほどの前後不覚に襲われていたので、はっきりとは覚えていない。とにかく、私の意識はそこでいったん途切れた。それでも、煌々と輝き続けていた満月色の双眸が最後に放った言葉だけは確かに聞こえていた。
「決めたわ。『幻想京』での博麗の巫女は、あなたよ」
幻想『京』、この真意は何なのか……。