遠く、声が聞こえる。
私の前に聳える峰の、麓あたりからだろうか。
仄かな涼しさを含んだ風と、それを受ける木々のざわめきに遮られてなお高く響く、
在るべき時から取り残された者の叫び。
たった一つ燃える命の輝かしさを示すかのように、
儚く、強く…
焼け付くような夏の暑さも過ぎ去ろうという日、私は勝手知ったる神社の縁側に腰を下ろしている。
幻想郷を守る結界の要であり、外界に最も近い場所、博麗神社。今背を向けている寂れた社は、何より重要な意味を持っている場所だ。
私にとっても、楽園そのものにとっても。
だからだろうか。
ここから仰ぐ空は他のどの場所よりも広く感じられる。
あくまで地上からの話なので、郷の少女らしく空を飛ぶとなればまた違うのだが。
私は今も昔もここから見える空が好きで、そして何よりこの場所が好きだった。
この場所と私は流れが合うのだ。
境内を支配している時の経過は、鳥居を超えた先の空間とは明らかに違う。
ただゆっくりと過ぎてゆくだけではない。
絶えず変化していく情景。その移ろいの一つ一つが驚くほどの厚みを帯びているのだ。
それはこの身に定められた時間に最も近いもの。委ねる事が、何とも言えず心地良い。
そうして毎度気付いたら自分の住み処よりもくつろいでしまっている。
いっそ春から秋まではここに居候させてもらおうか。流石に冬眠は無理そうだが。
「あら、来てたの」
不意に、空気に溶けるような声がした。
首を90度ばかり回せば、ここの管理者である巫女が、石畳を静かに歩いてくる。
今日は来た時から敷地内に姿が見えなかったのだ。
いつの間に戻ってきたのだろうか。緊張が解れていたせいもあるかもしれないが、目の前の少女の気配はどうにも感知しずらいことがある。
取り敢えず、彼女の何でもないような反応に私もいつものように言葉を返す。
「お呼びじゃなかったかしら?」
「別に邪険に扱ったりしないわよ。ゆっくりしていきなさい」
声を紡ぎ終えた彼女の口角がわずかに上に伸びる。
優しげな、柔らかい笑みだ。
この表情はよく知っている。
彼女が関わりのある全ての人妖に、等しく向けられる笑みだ。
彼女の本質の象徴ともいえるものだ。
身も心も全てが自由を体現する存在…
「…どうしたの?」
真顔で正面から見入っていたためか、彼女が怪訝そうに尋ねてくる。どうやら心配されているようだ。
「…猛暑の後遺症かしらね。気にしなくていいわ」
適当に冗談めかしてやり過ごしておく。あまり余計な気を遣わせるのも悪いだろう。
勘の良い博麗の巫女に一番よく効くごまかし方だ。
幸い彼女はそれ以上追及することも無く、私の左隣に寄り添って座るとぽつぽつと語り始めた。
「猛暑ね…本当に今年は洒落にならないくらい暑かったわね。最近やっと涼しくなってきたから、さっき気晴らしに飛んできたところ」
「そう。飛ぶのが好きな貴女が大人しくしてたのを考えれば、確かに今年はよっぽどだったのね」
「当たり前よ。暑いと解っててお天道様に近付く馬鹿はいないわ」
物言いから伝わってくる感情は複雑で、変化を喜んでいるような惜しんでいるような奇妙な感覚を抱いた。
「でも、夏が終わってしまえば、そこからの移り変わりはずっと早くてはっきりしたものになっていく。…この暑さもすぐに忘れていくのよね」
「ええ。そうして草木も人妖も同じ過程を繰り返すだけ。私もまた冬眠の準備をしなくちゃ」
「準備ってただ寝るだけでしょう…」
始めたばかりの会話がそこで途切れてしまう。
私の意識は、自ずとある一つに集中する。
遥か空の下、確かに存在しているそれ。
過ぎ行く季節の中に在るべきだった者。
絶えず響いている、その声に。
「…今頃になって、まだ鳴いてるやつがいるのね」
彼女は呟き、おもむろに右腕を持ち上げた。
そこで初めて、掌に何かが握られていたことに気付く。
彼女は私の注意を引くように一瞥すると、そっと指を開いた。
「それは…」
「拝殿の柱に付いてたのよ。かなり新しいものだと思うわ」
空蝉。
これも終わりを告げる時間の数少ない名残。
夏の住人達は地上へ姿を現すと、こうして自分のかつての外形を残し空へ飛び立っていくのだ。
「この声の主の、子供の頃なのかしら…」
「どうかしらね…」
乗せている白い手が波を打ち、魂を失った小さな器を弄ぶ。
「7年」
「え?」
「蝉は幼生の時にそれぐらいの期間を土の中で過ごすって聞いたわ」
彼女が何を思ってそう口にしたのか、私には知る術は無い。
7年。この数字と単位に込められた意味も、彼女と私では互いに到底計り知れないほどの隔たりがある。
「虫達にも心ってあるのかしらね。生涯の大部分を占める途方も無い歳月を生きる間、暗い土の中でひたすら地上に思いを馳せる。そしてやがて時が来て自由に移動する羽根を手に入れても、ほんの数日で命は尽きる」
「…」
「彼らにとって、夢見る数年と自由な数日、どっちが幸せな時間なんだと思う?」
「それは、きっと…」
言いかけて、静かに言葉を飲み込む。
私の考えを彼女はきっと否定するだろう。
彼女は人間だ。
人間は刹那的で短命なものを愛する。
自分達と同じく、限られた中で一際美しく形を成すものに惹き付けられる。
だからこそ私達妖怪をも惹き付ける存在となりうるのだ。
私はもう一度、届いてくる声に耳を傾ける。
今、彼が望んでいるものは何だろうか。
もし彼らにも私達のように明確な心があるとして、
自分が名残のように残されたたった一つの命であると知って、
それも抗う暇も無く潰えてゆくと知った時、
彼はこの叫びによって何を訴え、何を求めているのだろうか。
「私も…」
眼を細め、俯き、人間の少女は声を発する。
「私も、彼らと同じなのね」
その一言が私の思考を真っ白に塗り潰してしまった。
「空を夢見て、空を飛ぶ能力を手にしたけど、それを味わっていられる時間はあまりにも短い」
彼女の瞳には、純粋な悲壮感だけが浮かんでいる。
「いいえ、それだけじゃないわ。今私が持っている物、望んでいる物、それら全てを失う瞬間は決して遠くはないのに」
その瞳を見る度、言葉を聞く度、私の中で抑えていた感情が溢れ出してくる。
凝縮された強烈な反動を伴い、掻き乱す。
「理解していても求めずにはいられない…難儀なものだわ。手にしていられる時間が短いくせに、最も欲深いのが人間だなんて」
鼓動が五月蝿い。
身体の内側から火が着いたように体温が上がっていく。
愚かな願望と哀れな期待が、それを制するタガを完全に失った。
駄目だ…
霊夢…
霊夢…
愛しい人間…
そんな眼を見せないで…
そんな悲しげな声で話をしないで…
叶うはずもない願い…
貴女にそれを望むことがどれだけ大それているか、私が誰よりも解っているというのに…
その悲しみに触れるだけで、
貴女に同じ時間を生きてほしいと願ってしまう…
膨張し渦を巻く感情に、思考は音も無く没していった。
ついに限界に達した瞬間、震えていた手が私の理性に反して動き出した。
彼女の頬に触れようと持ち上がっていく様が、鎌首をもたげる蛇を思わせる。
彼女と共に在りたい。彼女を自分だけのものとしたい。
なんて身勝手な思いだろうか。
彼女は人間であり続けなければならない。
博麗の巫女として。自由な少女として。
彼女自身も理解している筈だ。
種族を超える道を選んでも、喪失しか待ってはいないと。
そこに私の思いが立ち入る隙など無い。
儚く脆い種族だからこそ、空を舞う力と空への憧れを保っていられる。
彼女の羽根をもぎ取る事などあってはならないのだ。
…何故、心とはこんなに厄介なものなのだろうか。
もし、私が人間だったら…
私は…
「霊…」
「もし」
伸ばした腕が、寸前で彼女の指に絡め取られた。
願望に支配されていた私の頭に、一筋の冷静さが戻ってくる。
「私が妖怪で、あんたが人間で」
ゆっくりと私に向き直って、笑みを浮かべる彼女。
「私があんたの口から同じ事を聞いたとしたら…」
彼女を知る多くの者が見る、あの表情とは違う。
壊れてしまいそうな笑みだった。
「私は…あんたの救いになるような答えを、返してあげられたのかしらね…」
絡まった指に力が込められ、彼女に引き寄せられる。
ほんの数センチの動きが、呼吸が止まったかのように長かった。
彼女が瞼を閉じる。私がその意味を悟るよりも早く…
最後の命の叫びが、絶えた。
私の前に聳える峰の、麓あたりからだろうか。
仄かな涼しさを含んだ風と、それを受ける木々のざわめきに遮られてなお高く響く、
在るべき時から取り残された者の叫び。
たった一つ燃える命の輝かしさを示すかのように、
儚く、強く…
焼け付くような夏の暑さも過ぎ去ろうという日、私は勝手知ったる神社の縁側に腰を下ろしている。
幻想郷を守る結界の要であり、外界に最も近い場所、博麗神社。今背を向けている寂れた社は、何より重要な意味を持っている場所だ。
私にとっても、楽園そのものにとっても。
だからだろうか。
ここから仰ぐ空は他のどの場所よりも広く感じられる。
あくまで地上からの話なので、郷の少女らしく空を飛ぶとなればまた違うのだが。
私は今も昔もここから見える空が好きで、そして何よりこの場所が好きだった。
この場所と私は流れが合うのだ。
境内を支配している時の経過は、鳥居を超えた先の空間とは明らかに違う。
ただゆっくりと過ぎてゆくだけではない。
絶えず変化していく情景。その移ろいの一つ一つが驚くほどの厚みを帯びているのだ。
それはこの身に定められた時間に最も近いもの。委ねる事が、何とも言えず心地良い。
そうして毎度気付いたら自分の住み処よりもくつろいでしまっている。
いっそ春から秋まではここに居候させてもらおうか。流石に冬眠は無理そうだが。
「あら、来てたの」
不意に、空気に溶けるような声がした。
首を90度ばかり回せば、ここの管理者である巫女が、石畳を静かに歩いてくる。
今日は来た時から敷地内に姿が見えなかったのだ。
いつの間に戻ってきたのだろうか。緊張が解れていたせいもあるかもしれないが、目の前の少女の気配はどうにも感知しずらいことがある。
取り敢えず、彼女の何でもないような反応に私もいつものように言葉を返す。
「お呼びじゃなかったかしら?」
「別に邪険に扱ったりしないわよ。ゆっくりしていきなさい」
声を紡ぎ終えた彼女の口角がわずかに上に伸びる。
優しげな、柔らかい笑みだ。
この表情はよく知っている。
彼女が関わりのある全ての人妖に、等しく向けられる笑みだ。
彼女の本質の象徴ともいえるものだ。
身も心も全てが自由を体現する存在…
「…どうしたの?」
真顔で正面から見入っていたためか、彼女が怪訝そうに尋ねてくる。どうやら心配されているようだ。
「…猛暑の後遺症かしらね。気にしなくていいわ」
適当に冗談めかしてやり過ごしておく。あまり余計な気を遣わせるのも悪いだろう。
勘の良い博麗の巫女に一番よく効くごまかし方だ。
幸い彼女はそれ以上追及することも無く、私の左隣に寄り添って座るとぽつぽつと語り始めた。
「猛暑ね…本当に今年は洒落にならないくらい暑かったわね。最近やっと涼しくなってきたから、さっき気晴らしに飛んできたところ」
「そう。飛ぶのが好きな貴女が大人しくしてたのを考えれば、確かに今年はよっぽどだったのね」
「当たり前よ。暑いと解っててお天道様に近付く馬鹿はいないわ」
物言いから伝わってくる感情は複雑で、変化を喜んでいるような惜しんでいるような奇妙な感覚を抱いた。
「でも、夏が終わってしまえば、そこからの移り変わりはずっと早くてはっきりしたものになっていく。…この暑さもすぐに忘れていくのよね」
「ええ。そうして草木も人妖も同じ過程を繰り返すだけ。私もまた冬眠の準備をしなくちゃ」
「準備ってただ寝るだけでしょう…」
始めたばかりの会話がそこで途切れてしまう。
私の意識は、自ずとある一つに集中する。
遥か空の下、確かに存在しているそれ。
過ぎ行く季節の中に在るべきだった者。
絶えず響いている、その声に。
「…今頃になって、まだ鳴いてるやつがいるのね」
彼女は呟き、おもむろに右腕を持ち上げた。
そこで初めて、掌に何かが握られていたことに気付く。
彼女は私の注意を引くように一瞥すると、そっと指を開いた。
「それは…」
「拝殿の柱に付いてたのよ。かなり新しいものだと思うわ」
空蝉。
これも終わりを告げる時間の数少ない名残。
夏の住人達は地上へ姿を現すと、こうして自分のかつての外形を残し空へ飛び立っていくのだ。
「この声の主の、子供の頃なのかしら…」
「どうかしらね…」
乗せている白い手が波を打ち、魂を失った小さな器を弄ぶ。
「7年」
「え?」
「蝉は幼生の時にそれぐらいの期間を土の中で過ごすって聞いたわ」
彼女が何を思ってそう口にしたのか、私には知る術は無い。
7年。この数字と単位に込められた意味も、彼女と私では互いに到底計り知れないほどの隔たりがある。
「虫達にも心ってあるのかしらね。生涯の大部分を占める途方も無い歳月を生きる間、暗い土の中でひたすら地上に思いを馳せる。そしてやがて時が来て自由に移動する羽根を手に入れても、ほんの数日で命は尽きる」
「…」
「彼らにとって、夢見る数年と自由な数日、どっちが幸せな時間なんだと思う?」
「それは、きっと…」
言いかけて、静かに言葉を飲み込む。
私の考えを彼女はきっと否定するだろう。
彼女は人間だ。
人間は刹那的で短命なものを愛する。
自分達と同じく、限られた中で一際美しく形を成すものに惹き付けられる。
だからこそ私達妖怪をも惹き付ける存在となりうるのだ。
私はもう一度、届いてくる声に耳を傾ける。
今、彼が望んでいるものは何だろうか。
もし彼らにも私達のように明確な心があるとして、
自分が名残のように残されたたった一つの命であると知って、
それも抗う暇も無く潰えてゆくと知った時、
彼はこの叫びによって何を訴え、何を求めているのだろうか。
「私も…」
眼を細め、俯き、人間の少女は声を発する。
「私も、彼らと同じなのね」
その一言が私の思考を真っ白に塗り潰してしまった。
「空を夢見て、空を飛ぶ能力を手にしたけど、それを味わっていられる時間はあまりにも短い」
彼女の瞳には、純粋な悲壮感だけが浮かんでいる。
「いいえ、それだけじゃないわ。今私が持っている物、望んでいる物、それら全てを失う瞬間は決して遠くはないのに」
その瞳を見る度、言葉を聞く度、私の中で抑えていた感情が溢れ出してくる。
凝縮された強烈な反動を伴い、掻き乱す。
「理解していても求めずにはいられない…難儀なものだわ。手にしていられる時間が短いくせに、最も欲深いのが人間だなんて」
鼓動が五月蝿い。
身体の内側から火が着いたように体温が上がっていく。
愚かな願望と哀れな期待が、それを制するタガを完全に失った。
駄目だ…
霊夢…
霊夢…
愛しい人間…
そんな眼を見せないで…
そんな悲しげな声で話をしないで…
叶うはずもない願い…
貴女にそれを望むことがどれだけ大それているか、私が誰よりも解っているというのに…
その悲しみに触れるだけで、
貴女に同じ時間を生きてほしいと願ってしまう…
膨張し渦を巻く感情に、思考は音も無く没していった。
ついに限界に達した瞬間、震えていた手が私の理性に反して動き出した。
彼女の頬に触れようと持ち上がっていく様が、鎌首をもたげる蛇を思わせる。
彼女と共に在りたい。彼女を自分だけのものとしたい。
なんて身勝手な思いだろうか。
彼女は人間であり続けなければならない。
博麗の巫女として。自由な少女として。
彼女自身も理解している筈だ。
種族を超える道を選んでも、喪失しか待ってはいないと。
そこに私の思いが立ち入る隙など無い。
儚く脆い種族だからこそ、空を舞う力と空への憧れを保っていられる。
彼女の羽根をもぎ取る事などあってはならないのだ。
…何故、心とはこんなに厄介なものなのだろうか。
もし、私が人間だったら…
私は…
「霊…」
「もし」
伸ばした腕が、寸前で彼女の指に絡め取られた。
願望に支配されていた私の頭に、一筋の冷静さが戻ってくる。
「私が妖怪で、あんたが人間で」
ゆっくりと私に向き直って、笑みを浮かべる彼女。
「私があんたの口から同じ事を聞いたとしたら…」
彼女を知る多くの者が見る、あの表情とは違う。
壊れてしまいそうな笑みだった。
「私は…あんたの救いになるような答えを、返してあげられたのかしらね…」
絡まった指に力が込められ、彼女に引き寄せられる。
ほんの数センチの動きが、呼吸が止まったかのように長かった。
彼女が瞼を閉じる。私がその意味を悟るよりも早く…
最後の命の叫びが、絶えた。