これは、一年に一遍くらいの頻度で起こる、私にとっては有り難くない話である。
どういうわけか、私は一年に一度、腹が立つ。理由は判然としないが腹が立つ。とにかく無性に腹が立つのだ。
腹が立ったせいでやることなすこと全てがうまく行かなくて、無駄に無性に腹が立つ。
こんなことごときで腹が立ったと考えると余計に腹が立つ。輪に輪をかけて腹が立つ。
腹だけ二本の足で立ち上がって、すたこらどこかへ駆けてしまうくらい腹が立つ。
せめてこの慎ましやかな胸も腹を見習って少しくらい立ってくれないかと思うと、思うまでもなく腹が立つ。
誰がまな板だ。胸が出ていないのではない、腹が立っているだけなのだ。腹が立つ。
そもそも、この憤りの原因はよく分からない。葉月に入って一週。月初めには必ず発行すると決めている我が文々。新聞。その発行の追い込みのために、先月末は多少無茶な取材をした。
無茶と言っても、ほんの、ほんの多少である。ぐうたらな麓の巫女を舌先三寸でけしかけてネタになりそうな大技スペルカードをちょろっと披露してもらったり、疑わしきは罰するの法に基づき未解決の窃盗事件の容疑者として白黒魔法使いを挙げられるようにちょこっと証拠を作り上げてみたり、そんな程度である。
しかし、皆の私に対する反応が、月の境目をまたいでから、何とは無しに冷ややかだ。
もしその原因が先に挙げたことなのだとしたら、嘆かわしい事この上ない。なんと心の狭量なことか。あるべき形の情報伝達、自由な報道は、言論に対する寛容から生み出されるというのに。
それに、私が取材に少々熱くなってしまったのも、仕方がないことであろう。何故ならば、先月は文月。そう、射命丸文であるところの、私の名が付いた月なのだ。一年のうちで一月のみ、『文』を冠する夏の月。私が私の月に取材をせずに何をする。この月は、この先十一ヶ月ほど巡ってこないのだ。
もし、この月に何のスクープも無かったとしたら、それは間違いなく私の名折れとなる。射命丸文の文月の取材が十人並みであったら、噂好きな同輩天狗たちの井戸端談義の俎上に登ってしまうことになるのだ。文のくせに、今月はぱっとしなかったね、と、私はどこで交わされるとも知らぬからかいのために人知れずくしゃみをする羽目になってしまうのだ。
そんなこと、あってたまるか。射命丸文の名に、間抜けな泥を塗られるわけにはいかない。
そのために、文月の事件を鮮やかにまとめ、また来るべき来季にこの月が到来するのを待ち焦がれる。一体何がいけないというのか。
まあ、編集作業の補助として知り合いの白狼天狗を雇って爪の先ほどの僅かなばかり作業場で貫徹作業させたり(頑丈で実直な白狼天狗はこういう所で便利だ)、他にも、その前のネタ探しの追い込みで人里やら神社やらの周辺で手当たり次第に少しばかりそこらの人妖を追いかけ回したから、今になって多少の反感を買ってしまうのもやむを得ないことなのかもしれないが。
とにかく、致し方なく知り合いたちの反感を買うことになり、文月も終わってしまった。毎年のことではあるから、珍しいことではない。けれど、それが故に私のバイオリズムは最底辺に位置していたし、それが故に腹立たしさが一層加速しているのであった。
「はぁ……」
何故なのかわからないが、毎年毎年、憤りを抱えるのはいつもこの時期だ。廻り合わせだろうか。文月が終わった直後、私の何もかもは決まって最悪だ。先月は他の月以上に気合いを入れて、射命丸が射丸になりそうなくらい自分の命をすり減らして記事を書いたはずなのに、反響は至って月並み。
それに加えて、今日訪れた麓の神社では巫女のパパラッチ撃退結界がその厚さを幾分か増してしまったようだったし、人里では普段私の新聞を読まない層に向けて号外さながらの無料配布までしたのに軒先の焼き芋の火種に使われているところをばっちり目撃してしまったし、おまけに山に帰ってきたら哨戒中の椛に背後から斬撃を喰らわされかけた。一歩間違えれば大怪我だ。なんでも睡眠不足で哨戒に入ったら大きなヘマをやらかしてこっぴどくお叱りを受けたらしい。今度のネタに使えるかもと思って文花帖を開いたら「いい加減にしてください!」の怒声とともにレイビーズバイトが飛んできた。そんなもの自分の失敗だろうに、何の罪もない私に責任転嫁するのはどうかと思いはしたが、まだ隈のうっすらと残る椛の目があまりに荒んでいたので退散することにしたのだった。
要するに、最悪である。
私の味方は何処にもいないのだ。袋の鼠。四面楚歌。
こういう時、愚痴を垂れるだけでは収まらない何かが私の中で渦を巻き始める。健全な天狗精神を宿しているならば頭の片隅をよぎることすらないであろう何かが。
曰く、いくらネタを集めても誰も振り向かないし、私ってネタ集めの才が無いんじゃないか、と。
曰く、結構自信はあったはずなんだけれど、実は私の撮影って弩が付くレベルでとてつもなくひどいんじゃないか、と。
曰く、私、もう新聞作りなんて、やめてしまった方がいいんじゃないか、と。
愚痴の中でも、結構シリアスな部類の。
要するに、弱音である。
これも毎年のことである。独りでにずぶずぶと陥っていく内心の深みに、どっぷりと嵌まり込んでしまうのである。
胸のむかつきが段々と強くなる。こうなると、悪心を抑えながら自然な快癒を待つのは難しい。一気に吐き出してしまいたくなるのだ。
かといって、癇癪を起して暴れることなどできないし、やけ酒に溺れるという手段に走ることもできない。暴れるならば美しく、酒を呷るなら愉しげに。他人他妖怪の前で醜態を晒すことはあり得ない。
なぜならば、私は烏天狗だから。強くて賢い山の天狗であるからだ。天狗である限り、先達が築き上げ私達が引き継いでいるそのイメージを、保守し続けなければならない。己の弱さを見せてしまうなど以ての他の行為である。
いつも変わらず飄々と。取材中はもちろんのこと、取材をせずに記者の仮面を外している時だって、常に余裕を湛えた笑みを忘れてはならない。動揺した仕草を見せる時には、それはあくまで自己を律した上での演技でなくてはならない。堂々たる自信を、欠くことなくあらねばならない。全ては、天狗であり続けるために。幻想郷の御山を統べる強者、その一員としてあるために。烏天狗の射命丸文は弱みを余所に見せるわけにはいかないのである。
それは山の外の者だけでなく、身内に対しても同様だ。下級の白狼天狗の頭上でも天魔様や大天狗様の足下でも同輩烏天狗の前でも、私が溜め込んだ弱音を吐くことは無い。愚痴を吐くことはあっても、弱音は、無い。
故に、傷ついて地に落ち泥に塗れるこの私を、優しく慰めてくれる者など居はしない。和して同ずる和三盆のような関係は持ち合わせていないのである。
仮に、弱味を見せることがあるとしたら……、想像しただけで背筋が寒くなる。
格好悪い。気持ち悪い。
だから私は弱音を吐かない。全部独りで抱え上げる。心の重荷を一緒に背負ってあげるね、なんて、そんな同情染みた関係は真っ平御免。甘ったるくて吐き気がする。請われたってこちらから願い下げだ。
射命丸文に必要なのは、甘い言葉ではないのだ。
私が求めるものがあるとしたら。
それは、もっと、辛い言葉である。
* * *
「で? 私に何の用?」
彼女との関係は、言ってみれば、腐れ縁。それに尽きる。お互いのことが気に食わないから、百策尽くして貶し罵り合う。そんな関係。
「用が無かったら来ちゃいけないわけ?」
大体のことは先刻承知。これでも長い付き合いになってしまったから、わかりたくもないのに彼女の考えることは大体わかるし、私の言うことの一々にどういう反応を返すのかもわかる。ついでに言えば向こうも私をわかっている。腐れ縁のなせる業。全く以て有り難くない。
そして、私達がこの先刻承知の腐れ縁を使って世のため天狗のために何かしているかと言われれば、そんなことは一切しておらず、専ら舌戦を繰り広げるために用いていると答えるより他無い。
「あんたが来ようが来るまいが私には何の関係も無いけど、邪魔するなら帰って?」
姫海棠はたては、そう言って携帯電話型のカメラを中空にかざした。えい、と念じて画面を覗き込む。どうやら念写の最中であったらしい。画面を覗き込んで神妙な顔をしているが、あんたがそういう顔になっているときは大抵良いネタを掴みかけてる時だって、こっちは知っているのだ。不幸な私を差し置いて、許されざる暴挙だ。腹が立つ。
「何か良いネタが手に入ったみたいね?」
「あんたには教えない。自分で探して」
「あんたのピンぼけした念写に頼るほど私の脳味噌は血迷ってないわよ」
「そう、よかったじゃない。せいぜい血迷ってそこらへんの木に衝突しないように気を付けて?」
鏡を見てみなさいよ、とばかりに自分の頬をちょんちょんと指す。むかつく。そうだろうそうだろう。今の私はひどくやつれて、愛くるしい顔が台無しになっているだろう。酷い目に幾つも遭いかけて、その挙げ句によりにもよってあんたと対面しているんだから、それはもう酷い顔をしているに違いない。はたてを前にして不快指数が頂点に達し、顔色を取り繕うのも馬鹿らしくなってきた。まさしく最悪の状態。
こうなってしまっては、と私は考える。
さすがの私も前向きな思考ができなくなるというものである。今の私が後ろ向きなことばかり考えてしまうのは私のせいではなくて私を取り巻く瑣末事のせいであるし、今の私が目の前の烏天狗を鬼様の形相で睨みつけているのは言うまでもなくこいつが目障りであるからに他ならないのである。
とにかく、こいつに会うと不愉快になるのだ、わかりきっていることだが。今日みたいな気分の時は特に。
「あー腹立つ。あんたのせいで吐き気がするわ。気持ち悪。あんたの顔って幻想郷一不愉快よね」
「そんなに私の顔見たくないんだったら来なきゃいいじゃん。なんで来たの? 文句言いに来たの? それとも底抜けの馬鹿? はずかしー」
向こうもそれを承知して、わざと私の気を逆撫でするような物言いで応戦してくる。まるで、さっさと折れてしまえと言わんばかりに、やたらめたらと暴言を浴びせてくる。
「そもそもあんたってほんとに恥知らずよねー。自分のネタのために他所様の迷惑考えないで振り回しっぱなしだし。調子乗り過ぎ。見てるこっちがいたたまれないわー。厚顔無恥ってのはまさにあんたのことよね」
「だって、先月は……」
「文月、だって? 自分の名前の月だから、って? それが恥ずかしいって言ってんのよ。幼稚すぎて涙が出てくるわー。あー、は、ず、か、し」
はたては私の心をべきべきとへし折りにかかる。
「だいたいあんたはいっつも恥ずかしいわよね。記者やってるときは無駄に丁寧な言葉遣いで間抜けだし人を馬鹿にしてんのかって感じだし、何かあったら『あやややや』って、何それ。媚びか。記者の媚びか。気色悪い」
そして、次の一言が致命的なフィニッシュ。
「ねえ、そんな恥ずかしいことしててさ、疲れちゃったりとかしないの?」
ぷつん。
頭の中の何かが、音を立てて切れた。
もう充分だ。
私ははたてに背を向けて、日の暮れかけた空に飛び出した。
* * *
はぁ、これだから文の奴は。
……もうそろそろかな。
えい。
……ああ、やっぱり、ね。
ほんと、どうしようもないんだから。
* * *
あーもうこんちくしょう。腹が立つ腹が立つ腹が立つ。はたてのせいで腹が立つ。何が恥ずかしいだ何様のつもりだ。天狗様のつもりか。あいにく私も天狗様だ。清く正しく、どんな時でも湖の白鳥宜しく藻掻き苦しむところを隠し通す、誇り高い天狗様だ。
だが、我慢の限界を優に越える鬱憤が、怒濤の如く押し寄せる。
無理。もう無理。
我慢なんてできない。プライドもへったくれもあるもんか。腹が立つったら腹が立つ。今の私は怒り腹だ。どうにでもなってしまえばかやろう!
やけを起こした私は適当な場所に降り立って、手当たり次第にカメラのシャッターを切る。薄暗くて周りの様子なんてろくに見ていない。フラッシュも焚かずに、闇に閉ざされた景色が次々とフィルムに焼き付けられていく。畜生畜生畜生。こんな写真機があるからいけないのだ。新聞なんて書いてるからこんなにも腹が立つのだ。おい写真機、私はお前のためにいるんじゃないんだぞ。お前が私のためにいるんだぞ。私の方が偉いんだぞ。わかったらさっさとフィルムいっぱい全部真っ黒く塗り潰れてしまえこんちくしょう!
途中から、あいつの顔が頭に浮かんできて、それを黒でべちゃべちゃに塗り潰してやりたくなって、闇の黒を視界に焼き付け続ける。
乱暴にシャッターを切り続けること数十回。私の中の激高した憤懣が燃焼して灰と化していく。気が付くと私は肩で大きな息をしていた。
いわゆるストレス発散というやつである。フィルム一本と少しばかりのカロリーと、相応の自尊心がその対価。烏天狗がこんなやけを起こしているなんて知られたら好い物笑いの種だ。もしそんなことになったら、私のプライドは今度こそ山の遠くへ消し飛んでしまう。だから誰も居ないところを選んでフラッシュも焚かなかった。
しかし、誰かに見つからなくとも、自分自身が知ってしまっているのだ。弱音は吐かずとも、やけは起こした。自分のカメラに八つ当たり。私に知られてしまった私の行動は、私自身の名折れとして記憶に残ってしまった。プライドが、少し傷ついた。
やむを得ないことではあるのだが。年に一遍だ、割高だけれど大目に見よう。
そして、それらを支払って、後に残るのは、燃え尽きた怒りの残りかすと、もう一つ。
うずたかく積もっていた鬱憤が消えたことで生じた、なんとなくすうすうする感じ。
これは、この感覚は。
これは、形容してはいけない類の。
言葉を当てはめてしまったら後悔する類の。
プライドを犠牲にしてなりふり構わずやけを起こしたにしては釣り合わない、この。
後に何も残らないというか、何と言うか。
「……空しい」
ああ、言ってしまった。言ったら後悔するとわかっていたのに。天狗のプライドが台無しだ。いや、少しばかりでも自分自身が傷つけたのだから、空しくて当たり前なのか。
ははは、と乾いた笑いをあげて私はすっかり日の暮れた宵空を見上げた。
「……空しい」
二度言うな私。私は弱者か。違うだろう。烏天狗の射命丸文だろう。御山の天狗だろう。強いのだろう。強くあらねばならないのだろう。ならば何故感傷になど浸るのだ。立ち止まる暇など無い。傷ついた、なんてセンチメントは投げ捨てて、私は前に進まなければいけないのだ。
何故か。
それは、烏天狗だから。
そう、だから、羽を広げて、更なるネタ探しのために前へと進まなければ――
いけないのに。
飛べない。
羽が広がらない。
飛びたくない。
心にぽっかり穴が空き、飛ぶ気力が沸いてこない。
あーもう何やってんだか。仰いだ空は真っ暗闇で何も見えない。月も雲に隠れてしまった。
一つため息を付くと、無性に目尻がじくじくとしてきた。
この上泣くだなんて。
みっともないなあ……、と思っていたら――
「文」
背後で声がした。それと同時に私の後ろに降り立つ気配。
「今日は、相当キてたのね。念写の新着欄がどこまで行ってもあんたの写真で真っ黒」
遅い。遅すぎる。待ちくたびれた。あんまり待ちすぎて涙を零すところだった。
振り向いてなんかやらないが、カメラのモニターをこちらに向けているあんたの顔は簡単に想像できる。
「もしかして、泣きそうだった?」
「全然、そんなことない」
「そ。ならよかった」
そう言いながら、はたては背中から私の胸に手を回して、優しく抱きしめる。
「要領良さそうなのに、案外苦労人よね? あんた」
「うるさいわね」
「どうして毎回、こんなんなるまで放っとくの?」
「こんなん、ってどんなのよ。これしきで弱音吐くほど私はヤワじゃないわ」
「はいはい。わかった、わかった」
ふわり。足が地面から浮く。はたてに抱えられた格好で、私はふよふよと上昇していく。
大地から離れ、空に近づいていき、風を感じながら。
次第に高度が上がって行き、眼下には夜の山の風景が徐々に収まっていく。
山の頂よりも高くなると、夏とは思えないほど涼しい風が穏やかに吹き抜けていく。
重力から解放された私は、はたての浮力を借りずに、自分でも少しずつ宙に浮けるようになる。
「今日は、これくらいでいい?」
「高すぎ。もっと低くてよかった」
「でもあんた高いところ好きでしょ」
「馬鹿にするな」
「してないって」
上昇を止めた私達は、そのままの姿勢で空を見上げた。
さっきまでは雲隠れしていた上弦の月が天高いところに留まり、闇の夜空に無数の星が瞬いている。
その風景を、無心になって瞳に映す。地上にいたまま、すかすかになっていた私のままでは、見ることができなかった風景。
行方も知らずにただ好きなように流れていく風の中で、私は、大きく深呼吸をした。
吸って。
吐いて。
夜の上空の澄んだ空気を胸一杯に取り込んだ。手足の先から腹の底まで、清涼な風が、染み渡っていく。
虚ろな心の空白に、透明な風が流れ込み、まっさらな空白となる。
「どう、気分良くなった?」
はたてはにっこり笑っている。背中だから見えないけれど。
悪態をつきながら、はたての奴へらへら笑ってむかつく、と思いながら、私の頬も自然とほころんでいく。
私が辛いとき、愚痴をこぼしても足りなくて、弱さをさらけ出してしまいたくなる時、邪魔になるのは私自身のプライドだ。烏天狗であるために。そのプライド、私の心の拠り所が、時として重い枷にもなる。
だから、その枷を壊したくなる。壊して中身を掃き捨てて、一度リセットしたくなる。
けれど、私は独りでは壊せない。プライドがあるから。
はたては、それをわかって、容赦なく辛く当たってくれる。私のプライドを壊すために。
私の独力では壊せないものを、私のために。
結局のところ、私とはたては、腐れ縁なのだ。私がはたてを知っているように、はたても私を知っている。
私のことを知っているから、一年三百六十五日のうち三百六十四日は辛辣に、残りの一日はもっと辛辣に、攻撃を仕掛ける。
そんな関係は、こんなにも心地良い。
甘い関係は真っ平御免ではないのか、と問う御仁がいるかもしれないが、それはそれ、これはこれ、だ。一日くらい、大目に見てほしい。
「ねえ、はたて」
空の高いところで、何にも妨げられることなく広い空の彼方へ目を向ける。独りで塞ぎ込んでいたならば来られなかったはずの場所に、今私はいる。吸い込まれそうな夜の群青色を前にして、私の心は風に満たされる。飛ぶために必要な意志が、再び私に舞い戻ってくる。
私は最速、私は幻想、私は、射命丸文だ。
「なに?」
何の気無い背後からの声は、普段なら不快なだけ。しかし、今日は、そうでもなかったりする。
わかってるのだ。私が飛べるのは、背中から私を抱える、はたてのせいだ、と。
だから、思うところが無いでも無い。
……有り体に言えば、感謝、してないわけでもなく。
「あのさ……」
それを口に出してしまおうか、とも、少しだけ、思ってしまい。
「あんた、ってさ……」
少し言い淀んでから、私は口を開いた。
「胸大きいよね」
言ってやった。
「何その胸、私よりも少し大きいからって背中にぐいぐい押しつけてきて。何それ当て付け? 文字通りの当て付け? 自慢なの? ねえそうなの? 私のこと馬鹿にしてるの?」
首の後ろで露骨な舌打ちが聞こえ、はたてが腕を解くのと私がはたてを突き飛ばすのが同時だった。振り向いて向かい合うと、はたては俯いてわなわなと両手を握り拳にしている。怒っている。わかりやすい。
……ま、怒らせるために言ったんだけどね?
「あれー、はたてさん、もしかして感謝の言葉がもらえるとか思っちゃってたんですかー? 私がそんなこと言う天狗だと思ってたんですかー? はたてったらかーわーいーいー!」
さあ来い反撃。あんたの前では、そうでなくっちゃ居心地が悪い。
「馬鹿! 馬鹿! 文の馬鹿! 大馬鹿!」
はたての口撃。
待ってました、私への罵倒。復活したこの射命丸文に甘ったるさなど必要ないのだ。私がこてんぱんに叩き返してやるから、さあ存分に罵るがいい!
――と思ったけれど、何か引っかかる。
なんというか、罵倒にキレがないというか、赤ん坊が駄々をこねてるみたいというか、これじゃただの悪口というか――
「もう知らない!」
戸惑う私を置いて、はたては地上に向けて飛んでいってしまう。
「あ、待て!」
おそらく最大速度で飛んでいるはたての、その後ろに着いて行く。
地面に降り立つまで、はたての表情を伺うことはできなかった。
* * *
「……ったく、あんたが立ち直れたのは誰のおかげだと思ってんのよ」
山の地面まで到着すると、振り返ったはたては私を睨みつける。
「私は『助けて!』なんて頼んだ覚えはないわ。あんたが勝手にお節介焼いただけでしょ」
「私の念写をバグみたいな写真で邪魔されると困るの! それにあんたがおかしくなってるとこっちまで調子狂うし、いい迷惑よ! 別に助けようだなんて思ってない。勘違いしないでくれる?」
「そんなに意地張らなくてもいいのよ?」
「馬鹿! それはこっちのセリフだ馬鹿!」
出た、二度目の馬鹿。馬鹿の一つ覚えというやつか? 私の前に立つのなら少しは捻りの利いた言い回しをしてくれないと、つまらない。
けれど、いつもひねくれたことばかり言うはたてがこんなにも直情な物言いをするから……、そう、きっと、そのせいだ。
こんなことを口走ってしまうのは、決して、私のせいじゃない。
「……ありがとね」
素直にこんなことを言ってしまうのも、はたてのせいなのだ。
はたては、フン、と、そっぽを向く。
「どういたしましてよっ!」
やけに素直な捨て台詞だけ残して、さっさと飛んで行ってしまった。
* * *
家路に就く道。背中から追い越していく夜風が涼やかで、さっき空で感じた心地良さが蘇る。
それと同時に、私の背中を抱き留めていた体温も思い出す。
背中が、軽い。
今の私なら、いつまでも飛んでいられる。そんな気がする。
――たぶん、一年間くらい。
そう思うと、無性に笑いがこみ上げてくる。
それを噛み締めながらぼやいてみる。
まったく。
「有り難くない話ですよ」
一年に一度くらいは、認めてやらざるを得ない。
あんたがいるから、私は、飛べるのだ。
――はたて。
そっとつぶやいた憎たらしい彼女の名前は、やっぱり憎たらしかった。
どういうわけか、私は一年に一度、腹が立つ。理由は判然としないが腹が立つ。とにかく無性に腹が立つのだ。
腹が立ったせいでやることなすこと全てがうまく行かなくて、無駄に無性に腹が立つ。
こんなことごときで腹が立ったと考えると余計に腹が立つ。輪に輪をかけて腹が立つ。
腹だけ二本の足で立ち上がって、すたこらどこかへ駆けてしまうくらい腹が立つ。
せめてこの慎ましやかな胸も腹を見習って少しくらい立ってくれないかと思うと、思うまでもなく腹が立つ。
誰がまな板だ。胸が出ていないのではない、腹が立っているだけなのだ。腹が立つ。
そもそも、この憤りの原因はよく分からない。葉月に入って一週。月初めには必ず発行すると決めている我が文々。新聞。その発行の追い込みのために、先月末は多少無茶な取材をした。
無茶と言っても、ほんの、ほんの多少である。ぐうたらな麓の巫女を舌先三寸でけしかけてネタになりそうな大技スペルカードをちょろっと披露してもらったり、疑わしきは罰するの法に基づき未解決の窃盗事件の容疑者として白黒魔法使いを挙げられるようにちょこっと証拠を作り上げてみたり、そんな程度である。
しかし、皆の私に対する反応が、月の境目をまたいでから、何とは無しに冷ややかだ。
もしその原因が先に挙げたことなのだとしたら、嘆かわしい事この上ない。なんと心の狭量なことか。あるべき形の情報伝達、自由な報道は、言論に対する寛容から生み出されるというのに。
それに、私が取材に少々熱くなってしまったのも、仕方がないことであろう。何故ならば、先月は文月。そう、射命丸文であるところの、私の名が付いた月なのだ。一年のうちで一月のみ、『文』を冠する夏の月。私が私の月に取材をせずに何をする。この月は、この先十一ヶ月ほど巡ってこないのだ。
もし、この月に何のスクープも無かったとしたら、それは間違いなく私の名折れとなる。射命丸文の文月の取材が十人並みであったら、噂好きな同輩天狗たちの井戸端談義の俎上に登ってしまうことになるのだ。文のくせに、今月はぱっとしなかったね、と、私はどこで交わされるとも知らぬからかいのために人知れずくしゃみをする羽目になってしまうのだ。
そんなこと、あってたまるか。射命丸文の名に、間抜けな泥を塗られるわけにはいかない。
そのために、文月の事件を鮮やかにまとめ、また来るべき来季にこの月が到来するのを待ち焦がれる。一体何がいけないというのか。
まあ、編集作業の補助として知り合いの白狼天狗を雇って爪の先ほどの僅かなばかり作業場で貫徹作業させたり(頑丈で実直な白狼天狗はこういう所で便利だ)、他にも、その前のネタ探しの追い込みで人里やら神社やらの周辺で手当たり次第に少しばかりそこらの人妖を追いかけ回したから、今になって多少の反感を買ってしまうのもやむを得ないことなのかもしれないが。
とにかく、致し方なく知り合いたちの反感を買うことになり、文月も終わってしまった。毎年のことではあるから、珍しいことではない。けれど、それが故に私のバイオリズムは最底辺に位置していたし、それが故に腹立たしさが一層加速しているのであった。
「はぁ……」
何故なのかわからないが、毎年毎年、憤りを抱えるのはいつもこの時期だ。廻り合わせだろうか。文月が終わった直後、私の何もかもは決まって最悪だ。先月は他の月以上に気合いを入れて、射命丸が射丸になりそうなくらい自分の命をすり減らして記事を書いたはずなのに、反響は至って月並み。
それに加えて、今日訪れた麓の神社では巫女のパパラッチ撃退結界がその厚さを幾分か増してしまったようだったし、人里では普段私の新聞を読まない層に向けて号外さながらの無料配布までしたのに軒先の焼き芋の火種に使われているところをばっちり目撃してしまったし、おまけに山に帰ってきたら哨戒中の椛に背後から斬撃を喰らわされかけた。一歩間違えれば大怪我だ。なんでも睡眠不足で哨戒に入ったら大きなヘマをやらかしてこっぴどくお叱りを受けたらしい。今度のネタに使えるかもと思って文花帖を開いたら「いい加減にしてください!」の怒声とともにレイビーズバイトが飛んできた。そんなもの自分の失敗だろうに、何の罪もない私に責任転嫁するのはどうかと思いはしたが、まだ隈のうっすらと残る椛の目があまりに荒んでいたので退散することにしたのだった。
要するに、最悪である。
私の味方は何処にもいないのだ。袋の鼠。四面楚歌。
こういう時、愚痴を垂れるだけでは収まらない何かが私の中で渦を巻き始める。健全な天狗精神を宿しているならば頭の片隅をよぎることすらないであろう何かが。
曰く、いくらネタを集めても誰も振り向かないし、私ってネタ集めの才が無いんじゃないか、と。
曰く、結構自信はあったはずなんだけれど、実は私の撮影って弩が付くレベルでとてつもなくひどいんじゃないか、と。
曰く、私、もう新聞作りなんて、やめてしまった方がいいんじゃないか、と。
愚痴の中でも、結構シリアスな部類の。
要するに、弱音である。
これも毎年のことである。独りでにずぶずぶと陥っていく内心の深みに、どっぷりと嵌まり込んでしまうのである。
胸のむかつきが段々と強くなる。こうなると、悪心を抑えながら自然な快癒を待つのは難しい。一気に吐き出してしまいたくなるのだ。
かといって、癇癪を起して暴れることなどできないし、やけ酒に溺れるという手段に走ることもできない。暴れるならば美しく、酒を呷るなら愉しげに。他人他妖怪の前で醜態を晒すことはあり得ない。
なぜならば、私は烏天狗だから。強くて賢い山の天狗であるからだ。天狗である限り、先達が築き上げ私達が引き継いでいるそのイメージを、保守し続けなければならない。己の弱さを見せてしまうなど以ての他の行為である。
いつも変わらず飄々と。取材中はもちろんのこと、取材をせずに記者の仮面を外している時だって、常に余裕を湛えた笑みを忘れてはならない。動揺した仕草を見せる時には、それはあくまで自己を律した上での演技でなくてはならない。堂々たる自信を、欠くことなくあらねばならない。全ては、天狗であり続けるために。幻想郷の御山を統べる強者、その一員としてあるために。烏天狗の射命丸文は弱みを余所に見せるわけにはいかないのである。
それは山の外の者だけでなく、身内に対しても同様だ。下級の白狼天狗の頭上でも天魔様や大天狗様の足下でも同輩烏天狗の前でも、私が溜め込んだ弱音を吐くことは無い。愚痴を吐くことはあっても、弱音は、無い。
故に、傷ついて地に落ち泥に塗れるこの私を、優しく慰めてくれる者など居はしない。和して同ずる和三盆のような関係は持ち合わせていないのである。
仮に、弱味を見せることがあるとしたら……、想像しただけで背筋が寒くなる。
格好悪い。気持ち悪い。
だから私は弱音を吐かない。全部独りで抱え上げる。心の重荷を一緒に背負ってあげるね、なんて、そんな同情染みた関係は真っ平御免。甘ったるくて吐き気がする。請われたってこちらから願い下げだ。
射命丸文に必要なのは、甘い言葉ではないのだ。
私が求めるものがあるとしたら。
それは、もっと、辛い言葉である。
* * *
「で? 私に何の用?」
彼女との関係は、言ってみれば、腐れ縁。それに尽きる。お互いのことが気に食わないから、百策尽くして貶し罵り合う。そんな関係。
「用が無かったら来ちゃいけないわけ?」
大体のことは先刻承知。これでも長い付き合いになってしまったから、わかりたくもないのに彼女の考えることは大体わかるし、私の言うことの一々にどういう反応を返すのかもわかる。ついでに言えば向こうも私をわかっている。腐れ縁のなせる業。全く以て有り難くない。
そして、私達がこの先刻承知の腐れ縁を使って世のため天狗のために何かしているかと言われれば、そんなことは一切しておらず、専ら舌戦を繰り広げるために用いていると答えるより他無い。
「あんたが来ようが来るまいが私には何の関係も無いけど、邪魔するなら帰って?」
姫海棠はたては、そう言って携帯電話型のカメラを中空にかざした。えい、と念じて画面を覗き込む。どうやら念写の最中であったらしい。画面を覗き込んで神妙な顔をしているが、あんたがそういう顔になっているときは大抵良いネタを掴みかけてる時だって、こっちは知っているのだ。不幸な私を差し置いて、許されざる暴挙だ。腹が立つ。
「何か良いネタが手に入ったみたいね?」
「あんたには教えない。自分で探して」
「あんたのピンぼけした念写に頼るほど私の脳味噌は血迷ってないわよ」
「そう、よかったじゃない。せいぜい血迷ってそこらへんの木に衝突しないように気を付けて?」
鏡を見てみなさいよ、とばかりに自分の頬をちょんちょんと指す。むかつく。そうだろうそうだろう。今の私はひどくやつれて、愛くるしい顔が台無しになっているだろう。酷い目に幾つも遭いかけて、その挙げ句によりにもよってあんたと対面しているんだから、それはもう酷い顔をしているに違いない。はたてを前にして不快指数が頂点に達し、顔色を取り繕うのも馬鹿らしくなってきた。まさしく最悪の状態。
こうなってしまっては、と私は考える。
さすがの私も前向きな思考ができなくなるというものである。今の私が後ろ向きなことばかり考えてしまうのは私のせいではなくて私を取り巻く瑣末事のせいであるし、今の私が目の前の烏天狗を鬼様の形相で睨みつけているのは言うまでもなくこいつが目障りであるからに他ならないのである。
とにかく、こいつに会うと不愉快になるのだ、わかりきっていることだが。今日みたいな気分の時は特に。
「あー腹立つ。あんたのせいで吐き気がするわ。気持ち悪。あんたの顔って幻想郷一不愉快よね」
「そんなに私の顔見たくないんだったら来なきゃいいじゃん。なんで来たの? 文句言いに来たの? それとも底抜けの馬鹿? はずかしー」
向こうもそれを承知して、わざと私の気を逆撫でするような物言いで応戦してくる。まるで、さっさと折れてしまえと言わんばかりに、やたらめたらと暴言を浴びせてくる。
「そもそもあんたってほんとに恥知らずよねー。自分のネタのために他所様の迷惑考えないで振り回しっぱなしだし。調子乗り過ぎ。見てるこっちがいたたまれないわー。厚顔無恥ってのはまさにあんたのことよね」
「だって、先月は……」
「文月、だって? 自分の名前の月だから、って? それが恥ずかしいって言ってんのよ。幼稚すぎて涙が出てくるわー。あー、は、ず、か、し」
はたては私の心をべきべきとへし折りにかかる。
「だいたいあんたはいっつも恥ずかしいわよね。記者やってるときは無駄に丁寧な言葉遣いで間抜けだし人を馬鹿にしてんのかって感じだし、何かあったら『あやややや』って、何それ。媚びか。記者の媚びか。気色悪い」
そして、次の一言が致命的なフィニッシュ。
「ねえ、そんな恥ずかしいことしててさ、疲れちゃったりとかしないの?」
ぷつん。
頭の中の何かが、音を立てて切れた。
もう充分だ。
私ははたてに背を向けて、日の暮れかけた空に飛び出した。
* * *
はぁ、これだから文の奴は。
……もうそろそろかな。
えい。
……ああ、やっぱり、ね。
ほんと、どうしようもないんだから。
* * *
あーもうこんちくしょう。腹が立つ腹が立つ腹が立つ。はたてのせいで腹が立つ。何が恥ずかしいだ何様のつもりだ。天狗様のつもりか。あいにく私も天狗様だ。清く正しく、どんな時でも湖の白鳥宜しく藻掻き苦しむところを隠し通す、誇り高い天狗様だ。
だが、我慢の限界を優に越える鬱憤が、怒濤の如く押し寄せる。
無理。もう無理。
我慢なんてできない。プライドもへったくれもあるもんか。腹が立つったら腹が立つ。今の私は怒り腹だ。どうにでもなってしまえばかやろう!
やけを起こした私は適当な場所に降り立って、手当たり次第にカメラのシャッターを切る。薄暗くて周りの様子なんてろくに見ていない。フラッシュも焚かずに、闇に閉ざされた景色が次々とフィルムに焼き付けられていく。畜生畜生畜生。こんな写真機があるからいけないのだ。新聞なんて書いてるからこんなにも腹が立つのだ。おい写真機、私はお前のためにいるんじゃないんだぞ。お前が私のためにいるんだぞ。私の方が偉いんだぞ。わかったらさっさとフィルムいっぱい全部真っ黒く塗り潰れてしまえこんちくしょう!
途中から、あいつの顔が頭に浮かんできて、それを黒でべちゃべちゃに塗り潰してやりたくなって、闇の黒を視界に焼き付け続ける。
乱暴にシャッターを切り続けること数十回。私の中の激高した憤懣が燃焼して灰と化していく。気が付くと私は肩で大きな息をしていた。
いわゆるストレス発散というやつである。フィルム一本と少しばかりのカロリーと、相応の自尊心がその対価。烏天狗がこんなやけを起こしているなんて知られたら好い物笑いの種だ。もしそんなことになったら、私のプライドは今度こそ山の遠くへ消し飛んでしまう。だから誰も居ないところを選んでフラッシュも焚かなかった。
しかし、誰かに見つからなくとも、自分自身が知ってしまっているのだ。弱音は吐かずとも、やけは起こした。自分のカメラに八つ当たり。私に知られてしまった私の行動は、私自身の名折れとして記憶に残ってしまった。プライドが、少し傷ついた。
やむを得ないことではあるのだが。年に一遍だ、割高だけれど大目に見よう。
そして、それらを支払って、後に残るのは、燃え尽きた怒りの残りかすと、もう一つ。
うずたかく積もっていた鬱憤が消えたことで生じた、なんとなくすうすうする感じ。
これは、この感覚は。
これは、形容してはいけない類の。
言葉を当てはめてしまったら後悔する類の。
プライドを犠牲にしてなりふり構わずやけを起こしたにしては釣り合わない、この。
後に何も残らないというか、何と言うか。
「……空しい」
ああ、言ってしまった。言ったら後悔するとわかっていたのに。天狗のプライドが台無しだ。いや、少しばかりでも自分自身が傷つけたのだから、空しくて当たり前なのか。
ははは、と乾いた笑いをあげて私はすっかり日の暮れた宵空を見上げた。
「……空しい」
二度言うな私。私は弱者か。違うだろう。烏天狗の射命丸文だろう。御山の天狗だろう。強いのだろう。強くあらねばならないのだろう。ならば何故感傷になど浸るのだ。立ち止まる暇など無い。傷ついた、なんてセンチメントは投げ捨てて、私は前に進まなければいけないのだ。
何故か。
それは、烏天狗だから。
そう、だから、羽を広げて、更なるネタ探しのために前へと進まなければ――
いけないのに。
飛べない。
羽が広がらない。
飛びたくない。
心にぽっかり穴が空き、飛ぶ気力が沸いてこない。
あーもう何やってんだか。仰いだ空は真っ暗闇で何も見えない。月も雲に隠れてしまった。
一つため息を付くと、無性に目尻がじくじくとしてきた。
この上泣くだなんて。
みっともないなあ……、と思っていたら――
「文」
背後で声がした。それと同時に私の後ろに降り立つ気配。
「今日は、相当キてたのね。念写の新着欄がどこまで行ってもあんたの写真で真っ黒」
遅い。遅すぎる。待ちくたびれた。あんまり待ちすぎて涙を零すところだった。
振り向いてなんかやらないが、カメラのモニターをこちらに向けているあんたの顔は簡単に想像できる。
「もしかして、泣きそうだった?」
「全然、そんなことない」
「そ。ならよかった」
そう言いながら、はたては背中から私の胸に手を回して、優しく抱きしめる。
「要領良さそうなのに、案外苦労人よね? あんた」
「うるさいわね」
「どうして毎回、こんなんなるまで放っとくの?」
「こんなん、ってどんなのよ。これしきで弱音吐くほど私はヤワじゃないわ」
「はいはい。わかった、わかった」
ふわり。足が地面から浮く。はたてに抱えられた格好で、私はふよふよと上昇していく。
大地から離れ、空に近づいていき、風を感じながら。
次第に高度が上がって行き、眼下には夜の山の風景が徐々に収まっていく。
山の頂よりも高くなると、夏とは思えないほど涼しい風が穏やかに吹き抜けていく。
重力から解放された私は、はたての浮力を借りずに、自分でも少しずつ宙に浮けるようになる。
「今日は、これくらいでいい?」
「高すぎ。もっと低くてよかった」
「でもあんた高いところ好きでしょ」
「馬鹿にするな」
「してないって」
上昇を止めた私達は、そのままの姿勢で空を見上げた。
さっきまでは雲隠れしていた上弦の月が天高いところに留まり、闇の夜空に無数の星が瞬いている。
その風景を、無心になって瞳に映す。地上にいたまま、すかすかになっていた私のままでは、見ることができなかった風景。
行方も知らずにただ好きなように流れていく風の中で、私は、大きく深呼吸をした。
吸って。
吐いて。
夜の上空の澄んだ空気を胸一杯に取り込んだ。手足の先から腹の底まで、清涼な風が、染み渡っていく。
虚ろな心の空白に、透明な風が流れ込み、まっさらな空白となる。
「どう、気分良くなった?」
はたてはにっこり笑っている。背中だから見えないけれど。
悪態をつきながら、はたての奴へらへら笑ってむかつく、と思いながら、私の頬も自然とほころんでいく。
私が辛いとき、愚痴をこぼしても足りなくて、弱さをさらけ出してしまいたくなる時、邪魔になるのは私自身のプライドだ。烏天狗であるために。そのプライド、私の心の拠り所が、時として重い枷にもなる。
だから、その枷を壊したくなる。壊して中身を掃き捨てて、一度リセットしたくなる。
けれど、私は独りでは壊せない。プライドがあるから。
はたては、それをわかって、容赦なく辛く当たってくれる。私のプライドを壊すために。
私の独力では壊せないものを、私のために。
結局のところ、私とはたては、腐れ縁なのだ。私がはたてを知っているように、はたても私を知っている。
私のことを知っているから、一年三百六十五日のうち三百六十四日は辛辣に、残りの一日はもっと辛辣に、攻撃を仕掛ける。
そんな関係は、こんなにも心地良い。
甘い関係は真っ平御免ではないのか、と問う御仁がいるかもしれないが、それはそれ、これはこれ、だ。一日くらい、大目に見てほしい。
「ねえ、はたて」
空の高いところで、何にも妨げられることなく広い空の彼方へ目を向ける。独りで塞ぎ込んでいたならば来られなかったはずの場所に、今私はいる。吸い込まれそうな夜の群青色を前にして、私の心は風に満たされる。飛ぶために必要な意志が、再び私に舞い戻ってくる。
私は最速、私は幻想、私は、射命丸文だ。
「なに?」
何の気無い背後からの声は、普段なら不快なだけ。しかし、今日は、そうでもなかったりする。
わかってるのだ。私が飛べるのは、背中から私を抱える、はたてのせいだ、と。
だから、思うところが無いでも無い。
……有り体に言えば、感謝、してないわけでもなく。
「あのさ……」
それを口に出してしまおうか、とも、少しだけ、思ってしまい。
「あんた、ってさ……」
少し言い淀んでから、私は口を開いた。
「胸大きいよね」
言ってやった。
「何その胸、私よりも少し大きいからって背中にぐいぐい押しつけてきて。何それ当て付け? 文字通りの当て付け? 自慢なの? ねえそうなの? 私のこと馬鹿にしてるの?」
首の後ろで露骨な舌打ちが聞こえ、はたてが腕を解くのと私がはたてを突き飛ばすのが同時だった。振り向いて向かい合うと、はたては俯いてわなわなと両手を握り拳にしている。怒っている。わかりやすい。
……ま、怒らせるために言ったんだけどね?
「あれー、はたてさん、もしかして感謝の言葉がもらえるとか思っちゃってたんですかー? 私がそんなこと言う天狗だと思ってたんですかー? はたてったらかーわーいーいー!」
さあ来い反撃。あんたの前では、そうでなくっちゃ居心地が悪い。
「馬鹿! 馬鹿! 文の馬鹿! 大馬鹿!」
はたての口撃。
待ってました、私への罵倒。復活したこの射命丸文に甘ったるさなど必要ないのだ。私がこてんぱんに叩き返してやるから、さあ存分に罵るがいい!
――と思ったけれど、何か引っかかる。
なんというか、罵倒にキレがないというか、赤ん坊が駄々をこねてるみたいというか、これじゃただの悪口というか――
「もう知らない!」
戸惑う私を置いて、はたては地上に向けて飛んでいってしまう。
「あ、待て!」
おそらく最大速度で飛んでいるはたての、その後ろに着いて行く。
地面に降り立つまで、はたての表情を伺うことはできなかった。
* * *
「……ったく、あんたが立ち直れたのは誰のおかげだと思ってんのよ」
山の地面まで到着すると、振り返ったはたては私を睨みつける。
「私は『助けて!』なんて頼んだ覚えはないわ。あんたが勝手にお節介焼いただけでしょ」
「私の念写をバグみたいな写真で邪魔されると困るの! それにあんたがおかしくなってるとこっちまで調子狂うし、いい迷惑よ! 別に助けようだなんて思ってない。勘違いしないでくれる?」
「そんなに意地張らなくてもいいのよ?」
「馬鹿! それはこっちのセリフだ馬鹿!」
出た、二度目の馬鹿。馬鹿の一つ覚えというやつか? 私の前に立つのなら少しは捻りの利いた言い回しをしてくれないと、つまらない。
けれど、いつもひねくれたことばかり言うはたてがこんなにも直情な物言いをするから……、そう、きっと、そのせいだ。
こんなことを口走ってしまうのは、決して、私のせいじゃない。
「……ありがとね」
素直にこんなことを言ってしまうのも、はたてのせいなのだ。
はたては、フン、と、そっぽを向く。
「どういたしましてよっ!」
やけに素直な捨て台詞だけ残して、さっさと飛んで行ってしまった。
* * *
家路に就く道。背中から追い越していく夜風が涼やかで、さっき空で感じた心地良さが蘇る。
それと同時に、私の背中を抱き留めていた体温も思い出す。
背中が、軽い。
今の私なら、いつまでも飛んでいられる。そんな気がする。
――たぶん、一年間くらい。
そう思うと、無性に笑いがこみ上げてくる。
それを噛み締めながらぼやいてみる。
まったく。
「有り難くない話ですよ」
一年に一度くらいは、認めてやらざるを得ない。
あんたがいるから、私は、飛べるのだ。
――はたて。
そっとつぶやいた憎たらしい彼女の名前は、やっぱり憎たらしかった。
「あやとはたての奇妙な日常」ですね。連投申し訳ないです。
また本編とは逆にはたてがまいってしまった時に、このプライドの高い文がどのようにして接するのかを考えるとこれはこれで胸が躍りますな
なんて天邪鬼な乙女心爆発のはたて最高! いつかこの付かず離れずな関係瓦解しろ! くっつけ! イエァ!!
・・・それはそうと、元になった曲がなんなのかも気になりますねえ。