※博麗の巫女に関して独自解釈があります。
いつものように神社に飛んできて、境内で掃き掃除中の霊夢を見た瞬間、異変に気付いた。
霊夢はぼんやりしているように見えた。いつものことではあるが、今日は少し様子が違った。何かを堪えるようにぐっと唇を噛み、眉根を寄せている。
「よう、霊夢」
霊夢の前、少し離れたところに着地し声をかけた。霊夢はお腹を押さえたまま黙っている。
「どうしたんだよ、悪いものでも食べたか?」
「違う。そうじゃないの」
ゆっくりとかぶりを振った。それから困惑したような表情で、
「疼くのよ、ここが。『足りない』って」
下腹部を押さえる手を見つめた。
その下にあるのは――子宮だ。
*
魔理沙が「ちょっと調べてくる」と言い残して里の方へ飛んで行った後。
取り残された私は縁側に腰掛け、魔理沙が戻ってくるのを待っていた。
「……調べるって、何をかしら」
「十中八九あなたのことでしょうね」
するりと誰もいないはずの背後から腕が現れ、首に抱きつかれた。慣れてしまって大して驚きもしない。
「どういうこと?」
「昨日まで普通だった友達に突然あんなこと言われたら、ねぇ?」
「なんだ、聞いてたの」
いつもならくすくす笑いながらスキマから出てきて隣に座るのに、なぜか紫は出てこない。まあそういうこともあるかと思う一方、何かおかしい、何かあるのではとも思った。
「子供がほしい、ということ?」
「わからない。ただ、ぽっかり空いてるような気がするだけで。何が欠けてるのか、足りないのか、わからないの」
話しているうちにまた疼いた。足りない、満たされない。朝漠然とだが感じていた焦りや苛立ちは、不思議と感じなかった。
紫は何か考えているようだったが、不意に口を開いた。不自然なほど優しい声が耳元を掠めた。
「人と妖の中間者、博麗の巫女は、誰の子だと思う?」
「……巫女でしょ」
「器はそうね。でも、それを満たす水は? ただの人間でしかない博麗の巫女に、超人的な能力を与える種は?」
紫の腕が回された首筋がぞっと粟立った。
「結界の管理なんて、ただの人間ができることじゃないでしょう?」
それに、と耳元で囁きかける声は、恐ろしく無機質。
「境は、私の本分。生と死も例外ではないわ。まだ眠っている卵を目覚めさせることだってできる。そうして孕んだ種が境の力を持っていたら?」
くすくすと笑う息の冷たさに背筋が凍る。頬を撫でる手も、また冷たく。優しい手つきなのに、温度が感じられない。
私を強く抱きしめる紫から匂い立つ、濃い、甘ったるい、熟れた花と女の香りが、鼻腔を満たし、脳を麻痺させて。
奈落の底へ落とされたような、深い眠りに落ちた。
*
「父親が、わからない……?」
ええ、と頷きながら、阿求は黄ばんだ冊子をめくった。
「史料によりますと、これまでの博麗の巫女は、皆例外なく父親がわかっていないそうです」
「書き忘れただけじゃないのか?」
「まさか。わかっているならちゃんと名前は書きますよ。でも、ほら」
阿求が中ほどのページを広げて私に見せた。霊夢のお母さんかお祖母さんかはわからないが、女の人の名前が書いてある。その隣には、
「『不明』?」
「そう。どの史料を見ても、父親の名前は見つからないんです」
冊子を閉じ、阿求は次の綴じ本を手に取った。
「不思議なことがもう一つ」
「まだあるのか」
「巫女が身籠っている間、八雲紫の姿を見かけないそうなのです」
「え……?」
「先代たちは父親を知っていたのだと思います。もしかすると、縁起に載せようとしたこともあったのかもしれません。ですが縁起は公衆の目に触れるもの。紫様の検閲にかかって削除されたのでしょう。辛うじて残せたのが、巫女と賢者を結び付けるわずかな記述。……紫様がそこまでして残したくなかった事実とは何なのでしょう」
阿求は動けない私をじっと見つめ、仮説ですが、と前置きして話し始めた。
「紫様は境界を操ることのできる妖怪です。生を与えることも可能なのかもしれません」
「じゃあ、お前は……」
その続きを飲み込んで、庭に飛び出し稗田邸を後にした。
阿求は、博麗の巫女が妖怪の子供だと言いたいのか?
*
目が覚めると朝になっていた。
自室の布団の中、眠る前と違うのは服が寝巻きに変わっていることぐらい。
あとは――腹の中に、違和感があった。熱く脆い生が在るのを感じる。
芽吹く前の種のような、あるいは、そう。
まるで、胎児のような。
破瓜の痛みについては聞いたことがある。しばらく痛むというが、まったく感じない。
ただの錯覚と思いたい反面、ある記憶が気のせいでないと現実逃避に歯止めをかける。
いつのことだったか、珍しく真面目に宗教の話をしたことがあった。そのとき紫が言っていた。「外の救世主に、性交なしに神の子として生まれた者がいる」、と。
私も同じなのだろうか。
わけのわからないまま子供を宿し、産み、育て――
「霊夢っ」
声と共に襖が開かれ、慌てた様子で魔理沙が部屋に入ってきた。横になったままのろのろと瞬きを繰り返す私の傍に駆け寄り、目を覚ませと促すように肩を揺さ振った。
「霊夢、何があったんだ」
「……わからない」
「わからないって、どういうことだよ」
「ただ、眠っていただけ」
魔理沙は私を揺らす手を止め、緩慢な動作で自分の膝の上にのせた。困惑、疑念、焦燥。彼女は知っているのだろうか。私が何をされていたのか。
動く気配のない口元を見上げ、へその下の奥あたりに眠る火を掌で感じながら、息苦しい沈黙に目を閉じた。