アリスは、小さな池のそばで仰向けに寝転んでいた。青い瞳は瞼の奥に隠されており、桜色の唇は軽く閉じている。そこは博麗神社に近い、しかし滅多に人が寄らない空間だった。池の周囲は、アリスがいる場所をのぞいて木々に囲まれており、特に目を引くものがないことがその原因になっていた。
でもアリスにとっては、どこか居心地の良い場所だった。その場所を偶然見つけたときは何も感じなかったが、その場を離れてから気になり、何度か来るうちにすっかり気に入ってしまった。それから特に意味もなくここに来ることもあり、今回アリスが寝転んだいるのも、その一つだった。
アリスの、お腹の上に置かれた手がピクリと動く。その数秒後に、周囲の藪がこすれる高い音がした。アリスはその音を聞きながら目を開き、ずっと高くにある雲を眺めた。そして、少し諦めたように力なく頬を弧に描かせると、ゆっくり立ちあがり、闖入者のほうへ向き合った。
「こんにちは、霊夢。良い天気ね」
「こんにちは。良い天気なのは認めるけど、こんなところで寝てたら風邪ひくわよ」
「あら、もう風邪をひくような季節だったかしら」
「夏が終わってずいぶん経つのに、呑気なやつね」
呆れたように霊夢がそういうと、アリスは不思議そうに顔をすこし傾けた。そんないつものやり取りを終えると、霊夢は踵を返し神社へ歩を進める。その足取りに躊躇はなく、アリスが追ってくることに迷いがなかった。または、アリスが追ってこずとも何も問題としていなかった。
その池から神社まで一分もなく到着する。これまでに何度も通った道で、轍のように獣道が出来ている。そこを通っている間、二人は特に会話もなく歩き続ける。アリスは前を行く霊夢を見て、紅がよく映えるな、と思った。
神社に着くと、二人して縁側に座り込む。霊夢がアリスの左という位置取りで、これもいつも通りだった。そこでアリスは人形を遣い、台所へお茶を取りにいかせる。その間に、アリス本人が、魔法で自宅からお茶請けを召喚した。霊夢はそれを横目に眺めながら、普段と変わらず足を正座に直した。
お茶請けと人形が用意したお茶とを霊夢に渡すと、アリスもお茶を綴る。空気の冷たさと、お茶の温かさの差が心地よかった。
「そういえば」霊夢が話しかける。「最近、来なかったわね」
「前来たのはいつだったかしら」
アリスは空を見ながら、以前ここから眺めた雲の、その高さを思い出そうとした。
「おかげで、私の菓子がへっていく一方なのよ」
来るならさっさと来なさいよ。その言葉を聞いて意識を現在に戻したアリスは、はいはいと苦笑する。お菓子目的という意志が言外ににおう気もしたが、気にするような仲でもない。強いて言えば、それだけお手製のお菓子を気に入ってくれているのかな、とすら思った。
アリスは遠くに黒い点を見つけた。お菓子を食べきる前に、アリスは、そろそろ失礼しようかな、と思った。縁側から立ちあがり数歩進めると、霊夢へ振り返った。
「そろそろ、失礼するわ」
「そう。じゃあ、またね」
霊夢はアリスの方へ向くと、それだけ言って、またお茶を飲み始めた。それを確認したアリスは空へ向かって飛び上がる。さきほど遠くに確認した黒い点は、個人を識別できる程度には近づいていた。そちらに手を振ってから、別の、人里の方向に向かっていった。
霊夢はそれを見送ると、箒に跨ってきた魔理沙に意識をむける。
「いらっしゃい。たまには正面から来なさいよ」
「よっ。今のアリスか」
魔理沙が霊夢の言葉を無視して、何気ない風に聞く。
「そ。あんたが来るから逃げちゃったじゃない」
「う、」と魔理沙がうめく。「私、何かしたっけか」
「知らないわよ」
はあ、とため息を吐くと霊夢はまたお茶を口に含む。魔理沙もまあいいか、とアリスが去った方へ一瞥をくれると、直ぐに霊夢との談笑に入った。
人が多くなる気配がすると、アリスがいなくなるのは比較的いつものことだった。
アリスは人里方面から迂回して、紅魔館の周囲にある湖に移動した。紅魔館後方の湖の端が、先ほど霊夢と会った場所とは別の、気の置けない場所の一つだった。そこに魔法で召喚した青い厚手の敷物をしき、腰を下ろす。ここは先ほどの場所より風がすこし激しく、敷物が強くなびく。それを魔法で押さえつけていると、遠くに人の気配を感じる。
次の時には、アリスのすぐ前にその気配の主が呆れたような顔をして立っていた。アリスは、似たような顔をさっきも見たな、と思いながら「こんにちは」と挨拶をした。
「こんにちは、またここにいるの」
咲夜が非難がましい、でもどこか幼い子供を見るようなやさしい目で、アリスを見つめながら話す。
「前にも、その前にも、何回も言うけど、こんなところで寝転ぶぐらいなら、うちにいらっしゃい。妹様も、パチュリー様もきっとお喜びになるわ」
「ありがとう」
アリスは透明で、それでいて傍目にもうれしそうと分かる表情を浮かべた。でも、と言葉を続けようとすると、景色が変わる。ごつん、という音が聞こえたかと思うと、隣には美鈴がうめきながら立っていて、湖はどこにない。湖の代わりに後ろには門と、その奥に紅魔館があった。
「ええと、大丈夫かしら」
アリスは頭を押さえる美鈴の背に手を回す。頭痛に背中をなでるのに効果はあるのかしら、と自問するが、気にかけいてるという行動を示すことが大切だ、と思い直した。
「大丈夫です。ありがとうございます、アリスさん」
アリスへ手のひらを向けた美鈴は、咲夜さん酷い、と嘯いてから姿勢を正し、アリスにへらっとした笑顔を向けた。
「ようこそ、紅魔館へ。きっと、誰かが中で待っていますよ」
「ありがとう。お邪魔します」
アリスは美鈴に一礼すると、美鈴が開けた門から中へ入っていく。外壁の門と館の扉との間にある庭では、自然のまま手の入れられていない、しかし人を楽しませるように配置が工夫された草木が目を楽しませる。門のすぐ手前につくと、扉がひとりでに開くようにアリスからは見えたが、実際には奥から咲夜が開けただけだった。
「お邪魔します」アリスは微笑みながら、咲夜に軽くお辞儀をする。
「いらっしゃいませ」
咲夜は滑らかに腰を折り頭を下げ、ちいさくスカートの襟をつまんだ。それを受けてアリスが困ったように頬を崩した。
「ミニスカートでカーテシーなんてしたらダメよ」
「あら、角度は計算済みですわ」
咲夜は余裕を見せつけるような微笑を浮かべる。アリスは「ナイフが見えているわよ」とは言わずに目尻を下げ、より困った顔を作るにとどめた。
「敷物は」アリスはふと思い出したことを口に出す。「私がおしりの下に敷いていた、イ草の」
「体の下に、の間違いね。あの青い敷物なら帰りに渡すから、まずパチュリー様の所へ行ってもらえないかしら」
「パチュリー、パチュリー」要件でもあったかと思い出すように、アリスは複唱した。「何かあったかしら」
「いえ、最近あなた来なかったでしょう。きっとそれでよ」
なにかあったの、という咲夜の問いに、アリスは研究に集中しててね、と返した。十分な答えになっていないことは分かっていたが、アリスはそれで十分とした。そのことを理解した咲夜も、それ以上聞くのは控えた。
「案内は、いらないわね」
咲夜は最後に付け加えるように、それでいてアリスの瞳をしっかりとみつめながら言う。
「きちんと返すから、帰るまえに私の所へちゃんと来ること」
いいわね、と念を押す咲夜にアリスは笑みを浮かべながら頷いた。アリスは、この約束は咲夜が自身と話す機会を作るための口実だと気付いている。だが、咲夜が自分のことを気にかけてくれることをうれしく思った。
じゃあまた後で、と二人は別れの挨拶をすると、咲夜は時をとめ瞬間的にその場を立ち去った。残されたアリスはパチュリーの待つ図書館へ向かう。ずっと続く紅い廊下が、アリスの存在しないはずの空腹感を刺激する。お菓子は何かでるだろうか、私の青い服は周りから見たらすごく浮いているのかな、とアリスはつれづれと考えを巡らせる。
ゆっくり廊下をあるくアリスは、どんな表情も浮かべてはいなかった。
「こんにちは」
「ああ、こんにちはアリスさん。パチュリー様はいつもの机でお待ちです」
すれ違った二人は、互いに笑顔で挨拶するとそのまま別れる。小悪魔の両手に抱えられた本たちは、古く、角が擦れていた。
たくさんの本棚に収められた幾多の本の背表紙を見ながら、アリスはパチュリーのもとへ向かう。様々な言語で書かれた本たちの、その多くがパチュリーの既読書だという。アリスも数ヵ国語を不自由なく扱えるが、パチュリーほどまで多数の言語に精通することはないだろうな、と思った。パチュリーの域は、魔法のため、というよりも純粋な好奇心、娯楽のためという気がして、共感できない者にとっては無駄に感じるのだ。魔法の中に目標を定めているアリスには、わざわざ遠回りをするつもりはなかった。
遠目に紫色を纏ったパチュリーが見える。読書に集中して、アリスのことには気づいていない様子だった。
アリスは近づくと、音をたてないように椅子に座った。そこでようやく、パチュリーがアリスに声をかけた。
「いらっしゃい、アリス。久々ね」
「お邪魔します」
パチュリーが顔を上げると目が合い、ともに軽く表情を崩した。
「あなたが時間の流れを気にするとは、意外だわ」
パチュリーは再び本に目線を落とすと、アリスの言葉を流した。
「博麗の巫女のところへ、よく行ってるらしいわね」
「正確には、神社の近所にね。ゆっくりするのに、とてもいい場所があるの」
「そう」
「それに、霊夢にも同じこと言われたわ。久々ね、って」
アリスはそう言うと、可笑しそうにする。
「もしかしたら、私の時間感覚がおかしいのかしら」
パチュリーは本に視線を向けながら、アリスとの会話に集中しようとする。相手の目見て話さないのは、幼いころからの癖だった。昔のパチュリーは他人との会話に価値を置かず、人との会話で得られるものは全て本からも得られる、と信じていて、学習速度は明らかに読書の方が速いと思っていた。しかしそれを覆したのが、初めての魔法使いの友人となる霧雨魔理沙とアリス・マーガトロイドとの両名で、二人との出会いは大変貴重だと感じている。とくに目の前のアリスについては、細やかな技能的側面では自身を超え、その経験談は面白い、とパチュリーは思っていた。
「やっぱり、人の噂なんて当てにならないものね」パチュリーが言う。「でも、それじゃあ研究でもしていたの」
そこで小悪魔が紅茶とクッキーを出した。アリスがありがとうと声をかけると、にこりと作り笑顔を浮かべて、そそくさと本の整理に戻る。
「そうね、研究の比重は大きいわね」
アリスは紅茶を一口、口を湿らす程度に頂いた。
「他にも、例えば、妖怪の森とか、色々な所へも行っていたわ。それで知りあった妖怪にお菓子を配ったり、ただお話したり」
「そう、それは何か目的あってのことなのかしら。あるいは、魔理沙のように刹那的な楽しみのためだったり」
「そうね、お菓子を渡す代わりに、食料をもらうことはよくあるわ。でも、繋がりを得るだけでも十分な成果なのよ」
アリスはパチュリーにいって聞かせるように話す。しかし、共感を得ることは難しいだろうな、とも感じていた。
実際パチュリーは、そう、とだけ言うと興味を失くしたように読書に戻る。そのことを、ゆっくりと頁をめくる指を見て察知したアリスは、紅茶をのみ、ゆっくり息を吐く。ただぼんやりと、パチュリーの薄いピンク色をした爪がきれいだな、と思った。
それからしばらくは頁をめくる音と、遠くで小悪魔が動く音が響いた。パチュリーもアリスも、意識はここにはない。パチュリーは本の中に、アリスは小悪魔が出したクッキーを作る過程に想い馳せている。
そこで意識を戻したパチュリーがアリスに英語で話しかけた。アリスもそれに英語で答える。二人の間で、学問的な、英語で書かれた本について議論するときは、常に英語で会話がなされていた。それはどちらともなく自然に始まっていたことで、ほかにもアリスが話せる数ヵ国語で書かれた本について話すときは、その言語を用いられている。
魔理沙がいるときは、本人にそうと悟られない程度に簡易な表現を使うパチュリーと、遠慮なく難しい表現を使うアリスとが対象的な二人だった。
二人の話題は、パチュリーの出した魔法による他者への精神感応といった専門的な分野から、より一般的な結界術に移る。そこで、博麗神社の話題になり、日本語での話し合いに自然に移行した。
「だから、あの結界の芯は博麗の巫女であることは間違いないの」
パチュリーは少ない判断材料から、間違いないと言えるものだけを挙げていく。
「ただ、それが巫女の負担になるのか、あるいは、巫女の才を押し上げているのかは疑問だけど」
「霊夢を見た人妖はすべて、後者と感じるでしょうね」
「しかし、それは決定的なことではない。あの紅白は本来、より優れた才能の持ち主かもしれない」
「霊夢の才が巫女向きなのは確かよ」
「空を飛ぶ程度の能力を自称する者が、巫女向きかどうかは疑問だわ」
「飛行は霊力を扱うものにとってはそう難しいものではないし、それに、実際、昔の霊夢は飛行出来ずに亀に乗っていたわ。戦闘の実力は今と同程度あったけどね」
「紅白、結界、飛行」
パチュリーはゆっくり大切そうに囁いた。
「紅白の弾幕は、あくまで人間としてはすごい程度なのよね」
「まあ、十分すごいのだけど、そうかも」アリスは最後の一口の紅茶を口に含む。「弾幕ごっごに必要なのは、力の強大さじゃないから」
ふう、と息を吐き、パチュリーはアリスといるときの霊夢の様子を聞いた。アリスは、ゆっくりと考えながら普通の女の子よ、と答える。
「本当に、ちょっと短気かもしれないけど、普通の女の子だと思うけど。でも、ちょっと表情に乏しいかも。それでも無表情ってわけでもないし」
「女の子ねえ。普通じゃなくて、形容詞はがさつな、が正しいと思うけど」
「あら、ちょっとした仕草には品があるのよ」確認するような口調で、でも否定を許さぬ雰囲気でアリスは言う。「座るときは常に正座で、一口は十分に小さくて、足音を響かせないように歩くし、動作も基本ゆっくりしたものだし」
躾が良かったのでしょうね、とアリスは続けた。これは、アリスが他の者にも何度も言っていることだった。パチュリーのように話が専門的になる相手を除いて、アリスが誰かと会話をしていると、数回に一度は霊夢の話題になる。それだけ霊夢は注目されているのかな、と思いながら話すが、誰もかれとも霊夢の人物像を話すと話が噛み合わない。
曰く、暴力的。曰く、短気。曰く、守銭奴。曰く、自己中心的。
アリスにとって、それは意外なことだった。アリス自身の評価を聞くと、その真逆の答えが返ってくることも。高評価を得るのは、お菓子をよく配っているのもあるかもしれないが、霊夢とは似たもの同士と感じているアリスにとっては、やはりよく分からない事だった。
「私って、霊夢と似ているかしら」
アリスがふと口にすると、パチュリーが眉を顰めながら答える。
「全然」
誰かに言われたの、と顔をあげたパチュリーが聞く。いえ、とアリスが答えて上を向くのを見て、パチュリーはゆっくりとアリスの視線を追う。しかし、その先には天井があるだけで、此処ではないどこかを見ているのね、と気付くのが精一杯だった。アリスの視線の先を想う。天井の先、きっと紅魔館の上空、今の空模様はきっと快晴、でもアリスの意識はそこではなく、と思惟に耽っていると、アリスに「パチュリー」と不思議そうに呼ばれる。
「どうかしたの」
どことなく恥ずかしくなって、パチュリーは、あなたはどこにいっていたの、とは訊ねなかった。
「あなたの真似をしていたのよ。上を見て考える癖があるでしょう、アリス」
「そう、かしら。でも、そうね、そんな気がするわ」
アリスは笑って肯定した。何故かパチュリーは口惜しく感じた気がして、頬をほんの少し赤らめた。
「話を戻しましょう」パチュリーは咳払い一つ吐く。「紅白の話だったかしら」
「ええ、でもそろそろお暇するわ」
「あら、そう。もう少しすれば、夕飯がでると思うけど」
「いえ、紅茶もなくなったし、ちょうどいい機会だわ」
アリスは先ほどからなくなっていた紅茶に、視線を一度よこすと立ちあがった。
「これは失礼したわね」
パチュリーは座りながらそう言うと、そのままの姿勢でアリスを見送る。これもいつものことだった。パチュリーの視界から消える前にもう一度振り返り、手をふるとアリスは図書館を後にする。
パチュリーの綺麗な爪をした手が振られているのが、最後に見えたきがした。
さて、と図書館をでたアリスは一度立ち止まる。咲夜が仕事中なのか、休憩中なのか、把握していなかったので、今どこに居るかも分からない。しかし先ほどの、パチュリーのもうすぐ夕食、という言葉から今は忙しいかも、と予想できた。
咲夜はあのとき、どういった状況を想定して後で会おうとしたのかを考えながら、真っ赤な廊下をゆっくり進む。しばらく進むと妖精メイドが見えたので、アリスは声をかけて、咲夜の居場所を聞いた。
場所を聞くと、お礼をいってから召喚したお菓子を渡す。妖精メイドの無邪気な笑顔をかわいいと思いながら、その場を去った。
聞いた内容は、咲夜は今夕食のために手が離せない、ということだったので、咲夜の私室近くの部屋に入らせてもらうことにする。
代わり映えのない赤い廊下、窓の外に見える青焼けの空と、暗くかげっていく木々。アリスはゆっくり廊下を進んだ。以前、咲夜の部屋に招かれたときのことを思い出す。ドアを開けて、すこし奥に進むと6畳ほどの空間があって、右手にベッドと、ベッドの足側にクローゼット、左手奥にはテーブルにチェア、その右側の隣に木製のラック、窓はなく明かりはランプで確保される。
その時は何を話したのだっけ、とアリスが思っていると咲夜の部屋の前まで到着する。すると、扉が開き中から咲夜が顔を出した。
「長話だったのね、入ってちょうだい」
おじゃまします、とアリスは言いながら、部屋に入る。
「咲夜、夕食の準備はいいの」
「ああ、平気よ。もう後は温めるだけで、お嬢様方が起きられるまで時間もあるから」
そう、とアリスは返事をしながら、預けていた敷物を返してもらう。それを自宅へ送還しながら、ベッドに座る咲夜を見ていると、以前の会話を思い出した。
「咲夜、クッキーはいらない?」
「あら、私好きよ、貴女のクッキー」
ありがとう、とアリスは笑うと、一口大のクッキーを召喚する。以前も、料理の話題だったことを思い出しながら。
アリスは咲夜に勧められて、椅子に座った。自身をじっと見る咲夜に気付いて、アリスは曖昧にわらった。咲夜はそれを見て、ただ可愛い、とだけ思う。自分にはない、可愛らしさだ、とも。
そういえば、と咲夜を思い出したように、話し始めた。
「パチュリー様は、どういった話題だったの」
「あなたの言った通りよ、おおよそは」アリスは言う。「久々ね、って言い合って、近況を話して、あとはいつも通り魔法について専門的なことを」
「そう、やっぱり話し相手が欲しかったのかしら」
咲夜はそう言うと、頬に人差し指をあて、考え込むかのように黙った。アリスはそれを見ても、きっと違うと思うわ、とは言わなかった。確かに、最近のパチュリーは出会った当初に比べて、無駄話、雑談が増えた気がしていた。
きっと、昔のアリスと話す理由と、今の理由とでは微妙に違っている。それだけ、アリスのことを個人として、あるいは友人として、特別に思っている。そんなパチュリーの変化をうれしく思うアリスと、煩わしく思うアリスとが、一つの体に同居していた。
「咲夜は」
とアリスは言った。
はい、咲夜は反射的に返事をする。返答してから、アリスに呼びかけられたことを気付いたかのように、顔をあげた。
「咲夜は、話し相手は、欲しくないの」
アリスは、自身の幼げに変化した口調から、自らが疲れ始めていることに気付いた。アリスにとって、他人と長く話すことは研究より、あるいは弾幕ごっこより気を遣い、疲労の原因となった。
「アリスがその役になってくれていて、とてもうれしいわ」
咲夜は余裕を持った笑みで、そう答える。アリスは、帰りにくい、と誰かが言う声を聞いた気がした。しかし、表情は嬉しそうにわらう。その表情に引きずられて、ほんとに嬉しくなってくる。
「お疲れみたいだから」咲夜はやさしく言う。「今日は解散しましょうか」
「ごめんないさい」
アリスが本当にすまなそうに、そう言うと、咲夜は笑って「またお話しましょう」と返した。咲夜にとって、アリスの疲れた合図は返答のわずかな遅れだった。気が散るのか、反射が鈍るのか、アリスが疲れだすと様々なものに対しての反応が遅れだす。咲夜はこのことを、霊夢から聞いていた。
アリスが立ち上げり、部屋の扉へ歩いていく背中に付いて行きながら、咲夜は霊夢のことを思った。おそらく、自分よりアリスと仲の良い霊夢が、すこし妬ましい。自分では気づけなかった、言われて初めて気づくアリスに関することが多くて、すこし口惜しい。
部屋を出ると、咲夜の能力で出口までの廊下を短くする。そこを二人で歩いた。
咲夜はアリスも霊夢も共によき友人だと思っているが、自然にお互いを理解する二人が、ちょっとばかり羨ましかった。
「咲夜、今日はごめんなさい」
アリスが紅魔館の扉に手をかけながら、咲夜に再び謝った。咲夜は、気を遣わなくてもいいのに、と思いながら笑う。
「いいのよ、楽しかったわ」
「私も。またこんど」
「今度、ね」
アリスは一度手をふり、中庭をこえて門へ歩いてく。咲夜はまっすぐ立ちながら、その背中を見送った。アリスが門をくぐろうとしながら、もう一度振り返り手をふってきたので、咲夜は笑いながら手を振った。
咲夜は美鈴とアリスとの話し声を聞きながら、紅魔館の中へ戻っていく。アリスの笑い声が大きく耳の内に響いているような気がする。
しかし、扉を閉めるころには、アリスのことは既に意識になかった。
魔理沙も帰り、霊夢は一人で夕食を食べ終えて、食器を洗っていた。空はすでに暗く成りきり始めたころで、台所では蠟燭で明かりを取っている。
後はもう、寝るだけ、という具合だった。ふと、霊夢は今日一日のことを、思い出す。朝は境内の掃除、昼を大分過ぎたころにアリスが裏の池に来たことに気付いて、しばらくしてから見に行った。アリスを呼ぶと、魔理沙も釣られるようにやってきて、アリスは入れ替わるようにして帰っていく。魔理沙と下らない話をして、少し経つと魔理沙も帰って行った。そしてついさっき夕食を終えて、今。
そういえば、とアリスにもらったお茶請けが残っていることを思いだす。湿気ないようにだけ、気を付けて保存しておくことにする。
アリス、久々だったな、と霊夢は思った。最近は、妖怪たちが神社へ訪れることが多い。それに反比例するかのように、アリスが神社、または裏の池へ来ることは少なくなった。用事があるわけでもない、特にアリスである必要があるわけでもない、でも、でも、とアリスがあまり来なくなったことを霊夢は寂しく思う。今よりずっと、神社へ訪れるものが少なかったとき、魔理沙とアリスがよく神社へ来ていた。魔理沙は今でも変わらず来るが、アリスは人が多くなった神社へは、あまり来なくなった。だからなのか、ふとした時にアリスのことを思いだす。
今、明かりに使っている蠟燭も、アリスにもらったものだった。爽やかで、どこか甘い香りのする蠟燭。洗い物が終わると、それを持って寝室へ移動する。押入れから布団を出してから、ふっ、と息を吹きかけて蠟燭の明かりを消した。
部屋と、布団の二重の暗闇の中、霊夢は体が重くなって、ずっと深い所へ沈んでいく。暗いところへ沈みきってしまう前に、明日はアリスへ会いに行こう、と前触れなく思った。それだけ考えると、霊夢の意識は暗闇にやさしく包まれる。
その暗闇の微かな甘い香りに、霊夢の頬は笑みを浮かべた。
アリスは人形を操りながら、深く椅子にもたれこむ。紅茶の香りが僅かに香ってくる。他の人形は静止しているが、繋がりだけは確保する。半自動に設定を切り替えると、静止している人形たちも動き出すが、アリスはそうはしなかった。
ひとりでに動き出す人形たちは、アリスの心の中で会話をする。本当はアリスも、その会話が自分の無意識による会話だと気付いていたが、それでもアリスは、その会話の主たちを人形たちと思うことにしていた。その会話の中には、アリスという名詞は存在しない。あそこに運んで、や、これを温めて、といったモノで会話は成り立っている。それは、自らの一部での会話なので当たり前のことだったが、意識されないことが、アリスにとってはひどく心地よかった。
それでも今は、その心地よさを欲しいとは思わない。必要としていることは静けさ、それだけだった。なぜこれほど疲れているのか自分でも分からない。しかし、疲れていることは自分の視線の動きで分かった。疲れていると、視線が下に傾きがちになる。両腕を広げた二人分ほど先の距離に対して、指一つの下がり具合なので、他の人には気付かれたことはなかった。
アリスは人形から紅茶を受け取ると、一口だけ飲んでから、その人形を保管場所で静止させた。全ての人形たちが静止していて、アリスも動きをとめると部屋に動くものがいなくなる。
そこで、霊夢のことを思い浮かべた。アリスは、霊夢には些細な心情に気付かれることを不思議に思っていた。今日は咲夜に、だったけど。でも咲夜には今まで気付かれなかったから、きっと霊夢からの助言によるもの、とアリスは予想している。
アリスは人形とのつながりを絶つと、魔法で霊夢にあげた蠟燭とは別の種類のものに、火をともす。蠟燭はアリスの横顔を、ひたすらに爽やかな匂いの中、薄明るく見えるようにする。
その横顔は、どこか朝焼け前の空のように澄んだ空気を纏っているが全くの無表情で、ひどく人形じみていた。
でもアリスにとっては、どこか居心地の良い場所だった。その場所を偶然見つけたときは何も感じなかったが、その場を離れてから気になり、何度か来るうちにすっかり気に入ってしまった。それから特に意味もなくここに来ることもあり、今回アリスが寝転んだいるのも、その一つだった。
アリスの、お腹の上に置かれた手がピクリと動く。その数秒後に、周囲の藪がこすれる高い音がした。アリスはその音を聞きながら目を開き、ずっと高くにある雲を眺めた。そして、少し諦めたように力なく頬を弧に描かせると、ゆっくり立ちあがり、闖入者のほうへ向き合った。
「こんにちは、霊夢。良い天気ね」
「こんにちは。良い天気なのは認めるけど、こんなところで寝てたら風邪ひくわよ」
「あら、もう風邪をひくような季節だったかしら」
「夏が終わってずいぶん経つのに、呑気なやつね」
呆れたように霊夢がそういうと、アリスは不思議そうに顔をすこし傾けた。そんないつものやり取りを終えると、霊夢は踵を返し神社へ歩を進める。その足取りに躊躇はなく、アリスが追ってくることに迷いがなかった。または、アリスが追ってこずとも何も問題としていなかった。
その池から神社まで一分もなく到着する。これまでに何度も通った道で、轍のように獣道が出来ている。そこを通っている間、二人は特に会話もなく歩き続ける。アリスは前を行く霊夢を見て、紅がよく映えるな、と思った。
神社に着くと、二人して縁側に座り込む。霊夢がアリスの左という位置取りで、これもいつも通りだった。そこでアリスは人形を遣い、台所へお茶を取りにいかせる。その間に、アリス本人が、魔法で自宅からお茶請けを召喚した。霊夢はそれを横目に眺めながら、普段と変わらず足を正座に直した。
お茶請けと人形が用意したお茶とを霊夢に渡すと、アリスもお茶を綴る。空気の冷たさと、お茶の温かさの差が心地よかった。
「そういえば」霊夢が話しかける。「最近、来なかったわね」
「前来たのはいつだったかしら」
アリスは空を見ながら、以前ここから眺めた雲の、その高さを思い出そうとした。
「おかげで、私の菓子がへっていく一方なのよ」
来るならさっさと来なさいよ。その言葉を聞いて意識を現在に戻したアリスは、はいはいと苦笑する。お菓子目的という意志が言外ににおう気もしたが、気にするような仲でもない。強いて言えば、それだけお手製のお菓子を気に入ってくれているのかな、とすら思った。
アリスは遠くに黒い点を見つけた。お菓子を食べきる前に、アリスは、そろそろ失礼しようかな、と思った。縁側から立ちあがり数歩進めると、霊夢へ振り返った。
「そろそろ、失礼するわ」
「そう。じゃあ、またね」
霊夢はアリスの方へ向くと、それだけ言って、またお茶を飲み始めた。それを確認したアリスは空へ向かって飛び上がる。さきほど遠くに確認した黒い点は、個人を識別できる程度には近づいていた。そちらに手を振ってから、別の、人里の方向に向かっていった。
霊夢はそれを見送ると、箒に跨ってきた魔理沙に意識をむける。
「いらっしゃい。たまには正面から来なさいよ」
「よっ。今のアリスか」
魔理沙が霊夢の言葉を無視して、何気ない風に聞く。
「そ。あんたが来るから逃げちゃったじゃない」
「う、」と魔理沙がうめく。「私、何かしたっけか」
「知らないわよ」
はあ、とため息を吐くと霊夢はまたお茶を口に含む。魔理沙もまあいいか、とアリスが去った方へ一瞥をくれると、直ぐに霊夢との談笑に入った。
人が多くなる気配がすると、アリスがいなくなるのは比較的いつものことだった。
アリスは人里方面から迂回して、紅魔館の周囲にある湖に移動した。紅魔館後方の湖の端が、先ほど霊夢と会った場所とは別の、気の置けない場所の一つだった。そこに魔法で召喚した青い厚手の敷物をしき、腰を下ろす。ここは先ほどの場所より風がすこし激しく、敷物が強くなびく。それを魔法で押さえつけていると、遠くに人の気配を感じる。
次の時には、アリスのすぐ前にその気配の主が呆れたような顔をして立っていた。アリスは、似たような顔をさっきも見たな、と思いながら「こんにちは」と挨拶をした。
「こんにちは、またここにいるの」
咲夜が非難がましい、でもどこか幼い子供を見るようなやさしい目で、アリスを見つめながら話す。
「前にも、その前にも、何回も言うけど、こんなところで寝転ぶぐらいなら、うちにいらっしゃい。妹様も、パチュリー様もきっとお喜びになるわ」
「ありがとう」
アリスは透明で、それでいて傍目にもうれしそうと分かる表情を浮かべた。でも、と言葉を続けようとすると、景色が変わる。ごつん、という音が聞こえたかと思うと、隣には美鈴がうめきながら立っていて、湖はどこにない。湖の代わりに後ろには門と、その奥に紅魔館があった。
「ええと、大丈夫かしら」
アリスは頭を押さえる美鈴の背に手を回す。頭痛に背中をなでるのに効果はあるのかしら、と自問するが、気にかけいてるという行動を示すことが大切だ、と思い直した。
「大丈夫です。ありがとうございます、アリスさん」
アリスへ手のひらを向けた美鈴は、咲夜さん酷い、と嘯いてから姿勢を正し、アリスにへらっとした笑顔を向けた。
「ようこそ、紅魔館へ。きっと、誰かが中で待っていますよ」
「ありがとう。お邪魔します」
アリスは美鈴に一礼すると、美鈴が開けた門から中へ入っていく。外壁の門と館の扉との間にある庭では、自然のまま手の入れられていない、しかし人を楽しませるように配置が工夫された草木が目を楽しませる。門のすぐ手前につくと、扉がひとりでに開くようにアリスからは見えたが、実際には奥から咲夜が開けただけだった。
「お邪魔します」アリスは微笑みながら、咲夜に軽くお辞儀をする。
「いらっしゃいませ」
咲夜は滑らかに腰を折り頭を下げ、ちいさくスカートの襟をつまんだ。それを受けてアリスが困ったように頬を崩した。
「ミニスカートでカーテシーなんてしたらダメよ」
「あら、角度は計算済みですわ」
咲夜は余裕を見せつけるような微笑を浮かべる。アリスは「ナイフが見えているわよ」とは言わずに目尻を下げ、より困った顔を作るにとどめた。
「敷物は」アリスはふと思い出したことを口に出す。「私がおしりの下に敷いていた、イ草の」
「体の下に、の間違いね。あの青い敷物なら帰りに渡すから、まずパチュリー様の所へ行ってもらえないかしら」
「パチュリー、パチュリー」要件でもあったかと思い出すように、アリスは複唱した。「何かあったかしら」
「いえ、最近あなた来なかったでしょう。きっとそれでよ」
なにかあったの、という咲夜の問いに、アリスは研究に集中しててね、と返した。十分な答えになっていないことは分かっていたが、アリスはそれで十分とした。そのことを理解した咲夜も、それ以上聞くのは控えた。
「案内は、いらないわね」
咲夜は最後に付け加えるように、それでいてアリスの瞳をしっかりとみつめながら言う。
「きちんと返すから、帰るまえに私の所へちゃんと来ること」
いいわね、と念を押す咲夜にアリスは笑みを浮かべながら頷いた。アリスは、この約束は咲夜が自身と話す機会を作るための口実だと気付いている。だが、咲夜が自分のことを気にかけてくれることをうれしく思った。
じゃあまた後で、と二人は別れの挨拶をすると、咲夜は時をとめ瞬間的にその場を立ち去った。残されたアリスはパチュリーの待つ図書館へ向かう。ずっと続く紅い廊下が、アリスの存在しないはずの空腹感を刺激する。お菓子は何かでるだろうか、私の青い服は周りから見たらすごく浮いているのかな、とアリスはつれづれと考えを巡らせる。
ゆっくり廊下をあるくアリスは、どんな表情も浮かべてはいなかった。
「こんにちは」
「ああ、こんにちはアリスさん。パチュリー様はいつもの机でお待ちです」
すれ違った二人は、互いに笑顔で挨拶するとそのまま別れる。小悪魔の両手に抱えられた本たちは、古く、角が擦れていた。
たくさんの本棚に収められた幾多の本の背表紙を見ながら、アリスはパチュリーのもとへ向かう。様々な言語で書かれた本たちの、その多くがパチュリーの既読書だという。アリスも数ヵ国語を不自由なく扱えるが、パチュリーほどまで多数の言語に精通することはないだろうな、と思った。パチュリーの域は、魔法のため、というよりも純粋な好奇心、娯楽のためという気がして、共感できない者にとっては無駄に感じるのだ。魔法の中に目標を定めているアリスには、わざわざ遠回りをするつもりはなかった。
遠目に紫色を纏ったパチュリーが見える。読書に集中して、アリスのことには気づいていない様子だった。
アリスは近づくと、音をたてないように椅子に座った。そこでようやく、パチュリーがアリスに声をかけた。
「いらっしゃい、アリス。久々ね」
「お邪魔します」
パチュリーが顔を上げると目が合い、ともに軽く表情を崩した。
「あなたが時間の流れを気にするとは、意外だわ」
パチュリーは再び本に目線を落とすと、アリスの言葉を流した。
「博麗の巫女のところへ、よく行ってるらしいわね」
「正確には、神社の近所にね。ゆっくりするのに、とてもいい場所があるの」
「そう」
「それに、霊夢にも同じこと言われたわ。久々ね、って」
アリスはそう言うと、可笑しそうにする。
「もしかしたら、私の時間感覚がおかしいのかしら」
パチュリーは本に視線を向けながら、アリスとの会話に集中しようとする。相手の目見て話さないのは、幼いころからの癖だった。昔のパチュリーは他人との会話に価値を置かず、人との会話で得られるものは全て本からも得られる、と信じていて、学習速度は明らかに読書の方が速いと思っていた。しかしそれを覆したのが、初めての魔法使いの友人となる霧雨魔理沙とアリス・マーガトロイドとの両名で、二人との出会いは大変貴重だと感じている。とくに目の前のアリスについては、細やかな技能的側面では自身を超え、その経験談は面白い、とパチュリーは思っていた。
「やっぱり、人の噂なんて当てにならないものね」パチュリーが言う。「でも、それじゃあ研究でもしていたの」
そこで小悪魔が紅茶とクッキーを出した。アリスがありがとうと声をかけると、にこりと作り笑顔を浮かべて、そそくさと本の整理に戻る。
「そうね、研究の比重は大きいわね」
アリスは紅茶を一口、口を湿らす程度に頂いた。
「他にも、例えば、妖怪の森とか、色々な所へも行っていたわ。それで知りあった妖怪にお菓子を配ったり、ただお話したり」
「そう、それは何か目的あってのことなのかしら。あるいは、魔理沙のように刹那的な楽しみのためだったり」
「そうね、お菓子を渡す代わりに、食料をもらうことはよくあるわ。でも、繋がりを得るだけでも十分な成果なのよ」
アリスはパチュリーにいって聞かせるように話す。しかし、共感を得ることは難しいだろうな、とも感じていた。
実際パチュリーは、そう、とだけ言うと興味を失くしたように読書に戻る。そのことを、ゆっくりと頁をめくる指を見て察知したアリスは、紅茶をのみ、ゆっくり息を吐く。ただぼんやりと、パチュリーの薄いピンク色をした爪がきれいだな、と思った。
それからしばらくは頁をめくる音と、遠くで小悪魔が動く音が響いた。パチュリーもアリスも、意識はここにはない。パチュリーは本の中に、アリスは小悪魔が出したクッキーを作る過程に想い馳せている。
そこで意識を戻したパチュリーがアリスに英語で話しかけた。アリスもそれに英語で答える。二人の間で、学問的な、英語で書かれた本について議論するときは、常に英語で会話がなされていた。それはどちらともなく自然に始まっていたことで、ほかにもアリスが話せる数ヵ国語で書かれた本について話すときは、その言語を用いられている。
魔理沙がいるときは、本人にそうと悟られない程度に簡易な表現を使うパチュリーと、遠慮なく難しい表現を使うアリスとが対象的な二人だった。
二人の話題は、パチュリーの出した魔法による他者への精神感応といった専門的な分野から、より一般的な結界術に移る。そこで、博麗神社の話題になり、日本語での話し合いに自然に移行した。
「だから、あの結界の芯は博麗の巫女であることは間違いないの」
パチュリーは少ない判断材料から、間違いないと言えるものだけを挙げていく。
「ただ、それが巫女の負担になるのか、あるいは、巫女の才を押し上げているのかは疑問だけど」
「霊夢を見た人妖はすべて、後者と感じるでしょうね」
「しかし、それは決定的なことではない。あの紅白は本来、より優れた才能の持ち主かもしれない」
「霊夢の才が巫女向きなのは確かよ」
「空を飛ぶ程度の能力を自称する者が、巫女向きかどうかは疑問だわ」
「飛行は霊力を扱うものにとってはそう難しいものではないし、それに、実際、昔の霊夢は飛行出来ずに亀に乗っていたわ。戦闘の実力は今と同程度あったけどね」
「紅白、結界、飛行」
パチュリーはゆっくり大切そうに囁いた。
「紅白の弾幕は、あくまで人間としてはすごい程度なのよね」
「まあ、十分すごいのだけど、そうかも」アリスは最後の一口の紅茶を口に含む。「弾幕ごっごに必要なのは、力の強大さじゃないから」
ふう、と息を吐き、パチュリーはアリスといるときの霊夢の様子を聞いた。アリスは、ゆっくりと考えながら普通の女の子よ、と答える。
「本当に、ちょっと短気かもしれないけど、普通の女の子だと思うけど。でも、ちょっと表情に乏しいかも。それでも無表情ってわけでもないし」
「女の子ねえ。普通じゃなくて、形容詞はがさつな、が正しいと思うけど」
「あら、ちょっとした仕草には品があるのよ」確認するような口調で、でも否定を許さぬ雰囲気でアリスは言う。「座るときは常に正座で、一口は十分に小さくて、足音を響かせないように歩くし、動作も基本ゆっくりしたものだし」
躾が良かったのでしょうね、とアリスは続けた。これは、アリスが他の者にも何度も言っていることだった。パチュリーのように話が専門的になる相手を除いて、アリスが誰かと会話をしていると、数回に一度は霊夢の話題になる。それだけ霊夢は注目されているのかな、と思いながら話すが、誰もかれとも霊夢の人物像を話すと話が噛み合わない。
曰く、暴力的。曰く、短気。曰く、守銭奴。曰く、自己中心的。
アリスにとって、それは意外なことだった。アリス自身の評価を聞くと、その真逆の答えが返ってくることも。高評価を得るのは、お菓子をよく配っているのもあるかもしれないが、霊夢とは似たもの同士と感じているアリスにとっては、やはりよく分からない事だった。
「私って、霊夢と似ているかしら」
アリスがふと口にすると、パチュリーが眉を顰めながら答える。
「全然」
誰かに言われたの、と顔をあげたパチュリーが聞く。いえ、とアリスが答えて上を向くのを見て、パチュリーはゆっくりとアリスの視線を追う。しかし、その先には天井があるだけで、此処ではないどこかを見ているのね、と気付くのが精一杯だった。アリスの視線の先を想う。天井の先、きっと紅魔館の上空、今の空模様はきっと快晴、でもアリスの意識はそこではなく、と思惟に耽っていると、アリスに「パチュリー」と不思議そうに呼ばれる。
「どうかしたの」
どことなく恥ずかしくなって、パチュリーは、あなたはどこにいっていたの、とは訊ねなかった。
「あなたの真似をしていたのよ。上を見て考える癖があるでしょう、アリス」
「そう、かしら。でも、そうね、そんな気がするわ」
アリスは笑って肯定した。何故かパチュリーは口惜しく感じた気がして、頬をほんの少し赤らめた。
「話を戻しましょう」パチュリーは咳払い一つ吐く。「紅白の話だったかしら」
「ええ、でもそろそろお暇するわ」
「あら、そう。もう少しすれば、夕飯がでると思うけど」
「いえ、紅茶もなくなったし、ちょうどいい機会だわ」
アリスは先ほどからなくなっていた紅茶に、視線を一度よこすと立ちあがった。
「これは失礼したわね」
パチュリーは座りながらそう言うと、そのままの姿勢でアリスを見送る。これもいつものことだった。パチュリーの視界から消える前にもう一度振り返り、手をふるとアリスは図書館を後にする。
パチュリーの綺麗な爪をした手が振られているのが、最後に見えたきがした。
さて、と図書館をでたアリスは一度立ち止まる。咲夜が仕事中なのか、休憩中なのか、把握していなかったので、今どこに居るかも分からない。しかし先ほどの、パチュリーのもうすぐ夕食、という言葉から今は忙しいかも、と予想できた。
咲夜はあのとき、どういった状況を想定して後で会おうとしたのかを考えながら、真っ赤な廊下をゆっくり進む。しばらく進むと妖精メイドが見えたので、アリスは声をかけて、咲夜の居場所を聞いた。
場所を聞くと、お礼をいってから召喚したお菓子を渡す。妖精メイドの無邪気な笑顔をかわいいと思いながら、その場を去った。
聞いた内容は、咲夜は今夕食のために手が離せない、ということだったので、咲夜の私室近くの部屋に入らせてもらうことにする。
代わり映えのない赤い廊下、窓の外に見える青焼けの空と、暗くかげっていく木々。アリスはゆっくり廊下を進んだ。以前、咲夜の部屋に招かれたときのことを思い出す。ドアを開けて、すこし奥に進むと6畳ほどの空間があって、右手にベッドと、ベッドの足側にクローゼット、左手奥にはテーブルにチェア、その右側の隣に木製のラック、窓はなく明かりはランプで確保される。
その時は何を話したのだっけ、とアリスが思っていると咲夜の部屋の前まで到着する。すると、扉が開き中から咲夜が顔を出した。
「長話だったのね、入ってちょうだい」
おじゃまします、とアリスは言いながら、部屋に入る。
「咲夜、夕食の準備はいいの」
「ああ、平気よ。もう後は温めるだけで、お嬢様方が起きられるまで時間もあるから」
そう、とアリスは返事をしながら、預けていた敷物を返してもらう。それを自宅へ送還しながら、ベッドに座る咲夜を見ていると、以前の会話を思い出した。
「咲夜、クッキーはいらない?」
「あら、私好きよ、貴女のクッキー」
ありがとう、とアリスは笑うと、一口大のクッキーを召喚する。以前も、料理の話題だったことを思い出しながら。
アリスは咲夜に勧められて、椅子に座った。自身をじっと見る咲夜に気付いて、アリスは曖昧にわらった。咲夜はそれを見て、ただ可愛い、とだけ思う。自分にはない、可愛らしさだ、とも。
そういえば、と咲夜を思い出したように、話し始めた。
「パチュリー様は、どういった話題だったの」
「あなたの言った通りよ、おおよそは」アリスは言う。「久々ね、って言い合って、近況を話して、あとはいつも通り魔法について専門的なことを」
「そう、やっぱり話し相手が欲しかったのかしら」
咲夜はそう言うと、頬に人差し指をあて、考え込むかのように黙った。アリスはそれを見ても、きっと違うと思うわ、とは言わなかった。確かに、最近のパチュリーは出会った当初に比べて、無駄話、雑談が増えた気がしていた。
きっと、昔のアリスと話す理由と、今の理由とでは微妙に違っている。それだけ、アリスのことを個人として、あるいは友人として、特別に思っている。そんなパチュリーの変化をうれしく思うアリスと、煩わしく思うアリスとが、一つの体に同居していた。
「咲夜は」
とアリスは言った。
はい、咲夜は反射的に返事をする。返答してから、アリスに呼びかけられたことを気付いたかのように、顔をあげた。
「咲夜は、話し相手は、欲しくないの」
アリスは、自身の幼げに変化した口調から、自らが疲れ始めていることに気付いた。アリスにとって、他人と長く話すことは研究より、あるいは弾幕ごっこより気を遣い、疲労の原因となった。
「アリスがその役になってくれていて、とてもうれしいわ」
咲夜は余裕を持った笑みで、そう答える。アリスは、帰りにくい、と誰かが言う声を聞いた気がした。しかし、表情は嬉しそうにわらう。その表情に引きずられて、ほんとに嬉しくなってくる。
「お疲れみたいだから」咲夜はやさしく言う。「今日は解散しましょうか」
「ごめんないさい」
アリスが本当にすまなそうに、そう言うと、咲夜は笑って「またお話しましょう」と返した。咲夜にとって、アリスの疲れた合図は返答のわずかな遅れだった。気が散るのか、反射が鈍るのか、アリスが疲れだすと様々なものに対しての反応が遅れだす。咲夜はこのことを、霊夢から聞いていた。
アリスが立ち上げり、部屋の扉へ歩いていく背中に付いて行きながら、咲夜は霊夢のことを思った。おそらく、自分よりアリスと仲の良い霊夢が、すこし妬ましい。自分では気づけなかった、言われて初めて気づくアリスに関することが多くて、すこし口惜しい。
部屋を出ると、咲夜の能力で出口までの廊下を短くする。そこを二人で歩いた。
咲夜はアリスも霊夢も共によき友人だと思っているが、自然にお互いを理解する二人が、ちょっとばかり羨ましかった。
「咲夜、今日はごめんなさい」
アリスが紅魔館の扉に手をかけながら、咲夜に再び謝った。咲夜は、気を遣わなくてもいいのに、と思いながら笑う。
「いいのよ、楽しかったわ」
「私も。またこんど」
「今度、ね」
アリスは一度手をふり、中庭をこえて門へ歩いてく。咲夜はまっすぐ立ちながら、その背中を見送った。アリスが門をくぐろうとしながら、もう一度振り返り手をふってきたので、咲夜は笑いながら手を振った。
咲夜は美鈴とアリスとの話し声を聞きながら、紅魔館の中へ戻っていく。アリスの笑い声が大きく耳の内に響いているような気がする。
しかし、扉を閉めるころには、アリスのことは既に意識になかった。
魔理沙も帰り、霊夢は一人で夕食を食べ終えて、食器を洗っていた。空はすでに暗く成りきり始めたころで、台所では蠟燭で明かりを取っている。
後はもう、寝るだけ、という具合だった。ふと、霊夢は今日一日のことを、思い出す。朝は境内の掃除、昼を大分過ぎたころにアリスが裏の池に来たことに気付いて、しばらくしてから見に行った。アリスを呼ぶと、魔理沙も釣られるようにやってきて、アリスは入れ替わるようにして帰っていく。魔理沙と下らない話をして、少し経つと魔理沙も帰って行った。そしてついさっき夕食を終えて、今。
そういえば、とアリスにもらったお茶請けが残っていることを思いだす。湿気ないようにだけ、気を付けて保存しておくことにする。
アリス、久々だったな、と霊夢は思った。最近は、妖怪たちが神社へ訪れることが多い。それに反比例するかのように、アリスが神社、または裏の池へ来ることは少なくなった。用事があるわけでもない、特にアリスである必要があるわけでもない、でも、でも、とアリスがあまり来なくなったことを霊夢は寂しく思う。今よりずっと、神社へ訪れるものが少なかったとき、魔理沙とアリスがよく神社へ来ていた。魔理沙は今でも変わらず来るが、アリスは人が多くなった神社へは、あまり来なくなった。だからなのか、ふとした時にアリスのことを思いだす。
今、明かりに使っている蠟燭も、アリスにもらったものだった。爽やかで、どこか甘い香りのする蠟燭。洗い物が終わると、それを持って寝室へ移動する。押入れから布団を出してから、ふっ、と息を吹きかけて蠟燭の明かりを消した。
部屋と、布団の二重の暗闇の中、霊夢は体が重くなって、ずっと深い所へ沈んでいく。暗いところへ沈みきってしまう前に、明日はアリスへ会いに行こう、と前触れなく思った。それだけ考えると、霊夢の意識は暗闇にやさしく包まれる。
その暗闇の微かな甘い香りに、霊夢の頬は笑みを浮かべた。
アリスは人形を操りながら、深く椅子にもたれこむ。紅茶の香りが僅かに香ってくる。他の人形は静止しているが、繋がりだけは確保する。半自動に設定を切り替えると、静止している人形たちも動き出すが、アリスはそうはしなかった。
ひとりでに動き出す人形たちは、アリスの心の中で会話をする。本当はアリスも、その会話が自分の無意識による会話だと気付いていたが、それでもアリスは、その会話の主たちを人形たちと思うことにしていた。その会話の中には、アリスという名詞は存在しない。あそこに運んで、や、これを温めて、といったモノで会話は成り立っている。それは、自らの一部での会話なので当たり前のことだったが、意識されないことが、アリスにとってはひどく心地よかった。
それでも今は、その心地よさを欲しいとは思わない。必要としていることは静けさ、それだけだった。なぜこれほど疲れているのか自分でも分からない。しかし、疲れていることは自分の視線の動きで分かった。疲れていると、視線が下に傾きがちになる。両腕を広げた二人分ほど先の距離に対して、指一つの下がり具合なので、他の人には気付かれたことはなかった。
アリスは人形から紅茶を受け取ると、一口だけ飲んでから、その人形を保管場所で静止させた。全ての人形たちが静止していて、アリスも動きをとめると部屋に動くものがいなくなる。
そこで、霊夢のことを思い浮かべた。アリスは、霊夢には些細な心情に気付かれることを不思議に思っていた。今日は咲夜に、だったけど。でも咲夜には今まで気付かれなかったから、きっと霊夢からの助言によるもの、とアリスは予想している。
アリスは人形とのつながりを絶つと、魔法で霊夢にあげた蠟燭とは別の種類のものに、火をともす。蠟燭はアリスの横顔を、ひたすらに爽やかな匂いの中、薄明るく見えるようにする。
その横顔は、どこか朝焼け前の空のように澄んだ空気を纏っているが全くの無表情で、ひどく人形じみていた。
なんだか今にも死にそう。それこそ猫のようにふらっといなくなるか、人形のように動かなくなるか。
そう思うと後書きが怖く思えたり。どうなんざましょ。
ちょっとだけ…
アリスの周りの皆が救いになってくれればいいなあ
自立人形を完成させて人形たちとだけ話すのが楽で幸せなんだろうか。それは悲しい。
この話の霊夢の役割は何なんだろう。似た者同士故に、他の人よりお互いの色んな一面に気付いてる。けど、霊夢とアリスが見ているものは違う気がする。
この話だけで終わらせるのは勿体無いです。続きが、続きが見たいです!