「ナズーリン、おはようございます」
「おはようご主人。ちゃんと顔を洗ってきたかい?」
「もちろんですよ。ナズーリンこそ耳に折り目がついて、スコティッシュフォールドみたいになっちゃってますよ。ふふっ」
「あ、いや、これは」
「そんなところもかわいいですね、ナズーリン」
まずここで朝の会話のポイントをおさらいしなければなるまい。特筆すべきは、ご主人が喋る一文の全てに、私の名前が含まれているということだ。そして、私のことを――当然、世辞だとわきまえなければなるまいが――かわいいと、そのキュートなきゅー虎の唇をくにゅっと曲げて、かわいいと言ってくれるのだ。本当なら声をかけてくれるだけで、嬉しさのあまり激えへスティックファイナリアリティもんもんドリームといったところだな。
いけないいけない、ついつい日記を読み返したときに懐かしさを感じられるからといって、流行語を織り込んでしまうね。天狗たちの間で流行っている言葉が、筆からこぼれてしまった。天狗といえば、天狗たちの間でも、ご主人が絵になるからという理由で、広告や写真コンテストの作品として、よく撮影依頼が来る。さすがご主人だ。今度、写真を購入して日記に貼って、絵日記ならぬ写真日記にするのもいいかな。ご主人の横顔、見上げ、脚、正面、寝顔、困り顔、お茶が熱かったときの涙目。コンプリートアルバムを作るのには優に恒河沙を超える枚数が必要となるだろう。でも、ご主人のご尊顔を納めるためなら、皆喜んでフィルムを差し出すはず。私だったら当然命も差し出せるけどね。
ところで、ご主人との朝の会話をこんなに正確に覚えてるはずがない。大体もう日記の文体じゃないじゃないか。これを読み返している私はそう思うかもしれない。だがちょっと待って欲しい。いつからこの帳面を日記だと錯覚していた? 君はすでに術中にはまっている。泥中、首まで。ご主人のかわいさの前で、全ての物理法則は無意味なんだよ。つまり世界は滅びる。そして生まれ変わるんだ。
試しにご主人様大好きを一分間に何回言えるのか選手権を行った。河童の便利な機械によって、回転する円筒に音を刻むことができるのだ。それと精巧に作られた時計を組み合わせれば、十分な精度の計測が行えるはず。全身全霊を尽くして、一分間に肺の中身全てを注いだ。結果は186.5GPM(ご主人・パー・ミニッツ)で、私の優勝だった。だが、時計の精度の限界で、有効数字4桁までしか信頼はできない。こればかりは河童たちの技術の進歩に賭けるしかないだろう。また、最後の0.5ご主人は、もしかすると0.3程度だったかもしれない。そうであれば準優勝のナズーリンとの試合は延長戦となり、負けていたかもしれない。また三位のナズーリンもきわどい“ごしじん”判定のあたりを見直せば結果はわからない。だがここのジャッジはかなり厳しいだろう。橙のご主人様の発表した研究論文にある、 フーリエトランスフォームなる技術を使えば、音声解析が可能となるというニュースが新聞に載っていたから、それに期待するかな。
ご主人愛好者の中には、ご主人のことをおっぱいのついたイケメンなどと評するものがいる。まあわからなくはない。ご主人に女性には珍しい凛々しさと力強さを感じるのは、私も同じだ。だが、本人は意外と、女の子らしいところを評価してもらいたがっている。いや、君の言いたいことはわかるよ。ご主人は仏様だからね。でもいいかい、それでもご主人は女の子なのだよ。試しにご主人に髪飾りなど渡してごらん。はじめは似合わないとか、そういった贅沢品で身を飾り立てるのはとかぐちぐち言われるが、押しに弱い彼女のことだ。必ず折れてくれる。そして髪飾りを付けたご主人に一言、“かわいい”といってやれば、赤くなったほっぺを拝むことができる。それから素早く鏡台の前にお連れして、ご自身のお顔を見せてやれば、さらに恥ずかしがって、りんごのように赤くなるご主人の出来上がりというわけだ。かける言葉は一言でいいのだけれど、ついつい、“私は今本当の仏を見た。ここがガンダーラか。ガンダーラ、ガンダーラ”。などと言葉が振って湧いてくる。ああ、ああ、ご主人。思わず涎を垂らしてしまった。いけないいけない。ご主人のやんごとなきバイオグラフィーを徒然と綴るこの日記帳に、私の唾液などという異物を混入させてしまうとは、私としたことが何たる大失態だ。だがいいのだ、たった泥のしずく一滴程度で、ご主人の美しさを記した美しい経典には、ただ一つの染みすら付かないのだからね。
忘れがちなのだが、ご主人は本来は動物――空想上の動物ではあるけれど――を基にした妖怪なのだ。そのため時折、まるで獣のような振る舞いをすることがある。もちろん、たいていの場合は聖にとがめられるから、相当注意していないと見ることはできない。しかし時と場所がうまくかみ合えば、有頂天外の悦びを得ることができる。すなわち、ご主人腕ペロペロ及びご主人猫の手でお顔ごしごし及びご主人牙をむき出し大あくびである。
ご主人! ご主人! みんなご主人し続けろ! 激しく! もっと激しく! のどと耳の裏をこすりあって! 髪と毛を繕いあって! 心技体が磨きあがるまで拝み続けろ! いづれは寺中の信徒も参加させてやる! 善人顔した神仏達もだ! 寺中の妖怪達のつぼというつぼすべてにキューティご主人ご尊顔エクスプロージョンを流し込んでやる! 聖も一輪も皆、孫を見るおばあちゃんの様に喜ばせて、可愛い信徒達のハートに矢をぶちこむのさ! 寺の次はこの幻想郷、全てを巻き込んでやる! ただすれ違っただけの見ず知らずの奴ら同士を、いきなりご主人させてやる! 例えそれが親子であろうと! 兄弟であろうと! 女同士であろうと! 男同士だろうと! 子供だろうと! 老人だろうと! 赤ん坊だろうと! 全員残らず、掌を結合させて、慈愛と神徳にまみれさせてやる! ご主人! ご主人! ご主人! どいつもこいつもご主人させてやる! 脛や額がすりきれて、血まみれになっても拝み倒し続けさせてやる! 徳と善と愛にまみれながら、喉が渇けばそれをすすらせ、腹が減ったらご主人への信仰で満たさせる! そして永遠続けさせてやる! ご主人を! ご主人だ! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人! ご主人!
ぬえに会った。ぬえには感謝している。ご主人を我慢できなくなったとき、今までは高い丘に上がって、ただ叶わぬ想いに慟哭の声を漏らし、極まっては咆哮するばかりであった。しかし今では、どうしても収まらないとき、見るものの都合のよい形に姿を変える正体不明の種を付けたぬえに、煮え滾る私を冷ましてもらっている――もちろんそれがご主人にもぬえにも申し訳ない行為だというのはわかっているが、妖怪は理屈で動かないものだ。この間つかんだぬえの弱みは、しばらくの間協力を仰ぐのに有効利用できるだろう。
実現しえぬご主人膝枕を堪能し終わり、冷たい現実に引き戻される瞬間は、何度体験しても心苦しいものだ。さっきまであったはずのふくよかな膨らみがひっこみ、ぬえの真っ青に引きつった顔を見るのは、あまりいい気持ちではない。そして報酬を受け取っておきながら散々文句を言うのだ。ぬえはよくわからないやつである。大体、口を開くたびに船長船長言い過ぎなのだ。この間ご主人が聖と里に行ったとき、あまりに暇だった私は、ぬえが“ムラサ”と言う回数を調べてみた。結果は27回。3回に1回の割合で口にしていることがわかった。まったく度し難いな。大体、なんで船長が好きなんだ。確かに命蓮寺女性人気ランキングからすると、一位はご主人、二位は船長、三位は同率で一輪と聖ではある。だが船長といったら碇を振り回す以外に、特に魅力的なところは見当たらない。まあ、あのランキングは雲山と私が同率五位だったしな。あまりあてになるものでもあるまい。船長のいいところか。しけった海の幽霊の割には、からっと乾いたさわやかな笑顔というギャップがいいのだろうか。正直、考えることの少なさを喜んでいる顔にしか見えないのだが。この間だって、“あるところに風も吹かず地震もない孤島がありました。その孤島には小屋が一軒あって、小屋の扉は閉じたりしまったりしている。何故か?”という一輪の出した禅問答に、ぬえと一緒になって半日悩んでいたのだ。正直ぬえは鳥の要素が混じっているせいか、あまり頭が良くない。妖怪は精神の成長が遅いものもいるから仕方ないのだろうが、船長にかまってもらえないのが悔しくて聖復活の邪魔をしたり、新しく入信した犬妖怪を船長から離そうと威嚇して、逆に犬妖怪を船長が庇い、親密になるきっかけを与えてしまったり、裏目に出てばかりだ。そのぬえと同レベルなのだから船長もたいがいだろう。
む、いかんいかん、否定からは何も始まらないな。ぬえにはぬえの信念があるのだ。それを私がどうこう言えた筋合いではない。それに、この日記の主題はご主人であるからして、ぬえについてこんなにつらつらと頁を消費するのは、エコロジーの精神に反するだろう。私はエコロジーの精神に反するのは好きではない。
ご主人は美しい。さすが毘沙門天様が代理を任せるだけあって、お顔が整っている。すっと鼻筋が通っていて、食事の時にはかすかにひくひく動く。表情に合わせてよく曲がる、わずかに太めの眉の下には、いつもだらしなく垂れている目。しかしその目も、仕事に集中しているときは輪郭がきりっとして、どきどきするほどの真剣さが伝わってくるのだ。そんな各部を存分に引き立てるのが、ご主人の生来より来る笑顔ある。本当に、いつまでも、いつまでも眺めたくなる。
ここで忘れずに書いておきたいのは、私は決してご主人の見た目だけに思いを寄せているわけではないということだ。もし後に日記を見返したときに、言葉が足らない表現に苦い思いをするのは、他ならぬ私自身なのだから。私は例えご主人の見た目が、寅だろうが鼠だろうが木だろうが石だろうが、そんなことでご主人に対する思いを変えることはない。順番が逆なのだ。美しいから愛しいのでなく、愛しいから美しく見えるのだ。私は美しいご主人が好きだし、優しいご主人が好きだし、強いご主人が好きだし、真面目なご主人が好きだ。だが、もしご主人が美しくなかろうと――もちろんそう感じることは決してないが――ご主人が好きだ。もし、優しくなくてもご主人が好きだ。強くなくてもご主人が好きだ。真面目でなくてもご主人が好きだ。私はご主人というだけでご主人のことが好きなのだ。それに理由をつけることはできない。当然の話だ。理由をつけた瞬間から、その理由に反する場合はご主人を好きでなくなるということになる。ご主人のありとあらゆる部分が私のお気に入りだが、決してそれはご主人のことを好きである理由になることはないのだ。
思えば千年以上、私は仲間を失ってしまったご主人に何もしてやることができなかった。聖を失ったあの日、ご主人は聖の教えから、人間達に仕返しすることができなかった――寅の妖怪で武神なのに根が優しかったから、もし聖の教えがなくとも、本尊でなくとも、そうすることはなかったかもしれない。それに彼女は、生きるものが理屈によって動くわけではないと知っていた。仲間を殺した妖怪への恨み。その感情を風化させるものはありはしない。妖怪が抱く、仲間を殺した人間へのそれと同じように。私は人間達を憎んだが、本当にそうしたいのはご主人だっただろう。ご主人は泣かず、真剣な顔をして、ただ、“残念だった”とこぼした。それ以上何も言わなかった。ご主人がそうである以上、私はそれに倣う他なかった。封じられずに逃げ延びた妖怪たちは、寺に戻ることはなかった。また当然、妖怪に組した者のいた寺に寄り付く人間は減り、ご主人の能力を当てにした者だけが残った。当時は激しく憤ったが、冷静に判断できる今、それを非難することはできない。少しの冷気や嵐、そんなものであっという間に始まる飢餓の地獄を知っているからだ。蓄えがほしいのは誰だって同じだろう。自分が口にする食物を草の根にしても、子に与える者もいれば、他者から奪ってでもそうするものもいた。私だってそうしたかもしれない。他者の気持ちはほんのわずかでも理解することはできないのだ。唯一当事者にのみその心がわかる。しかし当時は、私の体内は憎悪で一杯だった。
昔、検非違使庁のお偉いさんに、“匹夫もその命を奪うべからず”と言って、盗みや殺しであっても、罪人の死による贖罪を否定した人がいた。仏の道からすれば素晴らしいことだ。後に、彼は妻を殺されてしまったそうだ。そして彼は信念を捨て、罪人の極刑を望んだ。私には彼を笑うことはできない。なぜなら私も感情で動く生き物――妖怪も生き物の枠内でいいはずだ、たぶん――だからだ。生まれ育った環境が温いものだったのか、崇高な考えを持ち、そして大切な人を失い、感情に従って自身の考えを否定する。私が彼のようだったら、違ったやり方でできたか、それはわからない。彼のことはそのエピソードでしか知らないし、私が人間に生まれてそんな思想を持つなんてことを考えるのは困難だし、自分自身の感情は、この世で唯一、絶対に推測できないものだからだ。
話を戻せば、ご主人は大切な人を奪われ、怒りをあてる先も、悲しみを溶かす温かさも失ってしまったのだ。私は無力だった。そして役立たずだった。ご主人は徐々に食事の量が減っていた。散歩に誘ったり、果物を取ってきたりしたが、それはご主人にとって何の意味もないことだったろう。何度、悲しいのか、辛いのかと尋ねても、ただ困ったように首を振って、大丈夫ですよと笑うだけだった。その笑い方が、かつて聖たちと一緒だった頃と全く同じものだったのだ。それに私はぞっとした。私はご主人の悲しさを拭えないばかりではなく、かえって気を使わせて、余計に苦しい思いをさせるばかりだったのだ。一度ご主人を抱きしめて、泣いても良いのだと言ったことがあった。だが、同じ笑顔で、私は逆に抱きしめられてしまった。ぬくもりも全く変わらないその体で。抱かれながら、ただただ涙を流したっけな。本当に情けない。心の底から救いたいと思った彼女に、私はたった一つのやすらぎさえ、与えてやることはできなかったのだ。
ある日ご主人の部屋の家具の配置が変わっていることに気付いた。不審に思って机を動かすと、机の下の床板が、半紙程度の範囲、大きく削れて、非常に薄くなっているのがわかった。爪で、床を、削ったのだ。爪で削ったとわかるのは、その範囲の境目あたりに、わずかに爪跡が見えるからだ。後はただ、まるで彫られたか虫に食い荒らされたような、切ったばかりの色の木が露出している。私は背筋が冷たくなるのと、目頭が熱くなるのを感じた。ご主人はただ悲しみをこらえるために、床に爪を立てていたのだ。床を割ることのないよう力を抑え、爪で掻いて、幾たびも涙をこぼしたに違いなかった。足が震えて止まらなかった。恐ろしさで意識が飛ぶことも始めて知った。気が付いたときには、床にひっくり返ってとんでもない粗相をしていた私を、ただ何も言わず撫ぜていてくれた。あんなに怖くて情けない思いをしたのは、後にも先にも無い。
あとそれから、ご主人は一滴も酒を飲まなくなった。まるで聖を失った悲しみを、ひと時も忘れたくないというように。毎日毎日、私はご主人に心配をかけないように平静を保とうとして、失敗して、慰めなくてはいけない彼女に、逆に慰められた。一日が重く、長く感じたな。いっそ明日が来なければいいと考えては、そんな逃げ方を選ぼうとした自分にいらいらした。鉛のように重い年月が過ぎゆき、何とか私は心をならす方法を身に付けた。空っぽの時間をご主人と二人。とうに財宝目当ての人間もいなくなってしまった。夏のうるさい蝉の声の中でも、寺の中は底冷えするような感じだった。
だめだ、当時のことを思い出すとついまた涙があふれてくる。いかんな、もう昔のことなのだ。だってあのときから――あの白い水兵服と青い頭巾の二人組が、二度と会うことのないと思っていた仲間が戻ってきたそのときから――空転していた歯車の全てがかみ合い、ありえないはずの未来、幻想が真実となったのだから。
私は毘沙門天様に従いながらも、不敬なことだが、機械論を信じている。この世のものは全て、それこそ神仏に至るまで、微小な部品が組み合わさることによって成り立っている。河童達の実験では、そう言える結果がいくつか見つかったそうだが、目に見えぬ部品のことなど確かめられようはずもない。ただ私は信じているのだ。だからこそ、聖の教えを許容できたのかもしれないな。橙のご主人様が言うように、大砲の弾丸と同じく、全ての風の粒子、水の粒子、感情の粒子はその現在の位置と、方向の付いた速度を持つ。それを知ることができればどれでも、始まりの過去から永劫の未来までの挙動全てを割り出すことができる。未来は変えられない。しかし無数にある部品の情報を一度に知ることはできない。つまり未来を予測することはできない。だから私はただ明日が良くなることを信じて、生き続けた。それが、過去のヤドカリのはさみの一振りから飛び続けた、感情の粒子の結果だとしても。
だけどあの二人の笑顔を見たとき! 私は何もかもが真っ白になって、ただ運命というものが存在すると感じた。ご主人を助けようとする、神と仏と仲間と森羅万象の意志が、色のついた実像として目の前に現れたのだ。飛倉の破片を集め、法界にたどりつき、とうとう聖を、そしてご主人と仲間達の苦行の終わりを手にした。全てが上手くいったのだ。私は満足して、皆に別れを告げた。しかし、しかしご主人は、私にまだ必要だと言ってくれた。私なんかを“貴方にどうしてもいて欲しい”と、引き止めて下さったのだ。ご主人、無窮に続くような苦しみを耐えたご主人。辛い中でも私なんかを気にかけた優しいご主人。誠実なご主人。恥ずかしさと情けなさから、君に対する態度を改められない私を許してくれ。この日記の上だけでは、貴方に平伏して、この忠孝の意より傅いて、そして呼ばせてもらおう。ご主人様、ご主人様、ご主人様と。
ふふ、さすがに思い出すとにやけてしまうな。何度日記に書いているんだ、この下りを。でも、書くたびにあの喜びを思い出せ、新たな発見もある。ついついこうして頁を埋めてしまうのだ。筆も不必要に乗ってしまった。とにかく悲しい過去は終わったのだ。難しいことは抜きに、これからはただ、ご主人のかわいさについてひたすら求道すべきであろう。今ではご主人は本当の笑顔で笑っている気がする。しかしそれは私の気のせいかもしれない。私の安心した心が、ご主人の笑顔をそのように受け取ってしまっている可能性は否定できない。だがいいのだ。少なくとも寺に聖と皆が戻って、毎日が楽しいのだから。
ああ、しかしまだ浮かれ気分が治らないな。気持ちが高揚しているとついつい取りとめのないことを考えてしまう。例えばご主人とデートになった際に行くべき店のこととかね。私もせめて耳としっぽがなかったらな。それでいてネコ科であれば言うことはないんだが。いやいや、ないものねだりは止めよう。それに私はご主人を愛する私を誰より認めていなくてはいけないはずではないか。そう、自分を信じていれば、いつかご主人の観音様を拝めるやもしれない。いけないな、何を考えているのか。全く我ながら度し難い。いきなりこんな露骨な隠語を使用したりして、これではまるで助平じゃないか。ご主人の神秘について考えていると“こぽぉ”だの“ふぉかぬぽう”だの、不気味な笑い声がこぼれてしまう。心を無にするんだ。
今日は一日たいした仕事がなかったものだから、ご主人をこっそり追いながら二時間おきに日記を書いてしまった。ご主人のために仕事ができなかったのは申し訳ないことだが、しかしながら、非常に充実した一日を送れたと言えるな。
まずいことだと思いつつも、この日記に書かれたことに驚いて、読むのを止められませんでした。良く理解できない部分も多かったですが、昔のナズーリンの悲しみを知り、途中で閉じることはできませんでした。本当はいけないことですけど、今度二人でお酒を飲みに行きましょう。話したいことが一杯あるのです。これは命令です。断るのはなしですよ。日時と場所も書いておこうと思ったのですが、どうもさっきからペン先の音がおかしいです。インクが切れているかもしれません。そうであれば今私が書いている文字は、きっとかすれて読めないでしょうね。夜中にこっそり書いているので、確認ができないのです。しかし変ですね。夜中に目が利かなくなるとはどうしたことでしょうか。ビタミンAが足りないのかもしれません。こんなことを書いても、あなたを余計に困らせるだけでしたね。また次の機会に、インクをきちんと携えて書きに来ますよ。あなたの日記を勝手に覗く失礼な主人を許して下さい。だけれど、あなたの悲しみを拭わずにいることはできません。二人で笑いあって、これからもずっと一緒にいましょう。
私の親愛なるナズーリンへ
仲良いですね