Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

梅雨のアラカルト

2013/06/09 19:17:30
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梅雨のアラカルト


   『こんな雨の日だから』
   『グラヴィティ』
   『白と黒、碧と紅』


『こんな雨の日だから』


     1

 幻想郷の空を飛びまわって毎日をやり過ごしているぬえも、梅雨入りとなるとお手上げだ。陽が沈む時分になると、決まって雨音のなかに蛙の合唱が混じって聞こえてくるのだが――気分が落ち着かない時は、そうしたちょっとした自然の音にさえも苛立ってしまうことがある。ちょうど、猛暑の日にわめき散らす蝉の声と同じように。
 マミゾウもいなければ水蜜もいなかった。親分の部屋には、詰めも迎えないままに放置された将棋盤が骸をさらしており――台所では、中身のないカレー専用の深鍋が冷たくなっていた。ぬえは空っぽの鍋をしばらく覗きこんでから、また廊下をあちこちと歩きだした。


     2

 一輪は部屋にいてくれた。松脂のろうそくに火をともして、文机のうえに和とじの書を広げていた。きちんと正座して書に向かっている後ろ姿が、こっそり酒を呑んでくだを巻いている姿とは、どうにも重ならない。雲山といっしょになって顔を火照らせた、いつかの彼女を思い出して、ぬえは思わず笑ってしまった。
 入道使いが振り返った。片眉を上げて云う。「なに、あんた、何か用?」
「べつに」ぬえは肩越しに机を覗きこんだ。「なに読んでんの?」
「関係ないじゃない」一輪は袖で書を隠した。「あんたには」
「別に好いじゃん、減るもんでも増えるもんでもない」
「どうせ経典とか読まないでしょ」
「まぁ、あんまり難しいのは勘弁かな」
「ほら見なさい」一輪が指を天井に向ける。「雲山、悪いけど頼むわ」
 モクモクしていた入道が腕を伸ばしてくる。ワンピースの襟元をつままれて、ぬえはリトル・グレイのごとく縁側へと強制連行された。雲山は一輪の背中をちらと見やると、首を振ってみせてから、音を立てないようにして障子を閉めた。
「な、なによ、なによなによ」わざと大きく足音を立てながら、ぬえは縁側を伝った。「やな感じ!」
 そして、手近にあった柱を蹴っ飛ばしてやった。


     3

 その夜のことである。
「いんや、そりゃおぬしが悪いよ」
「だってさぁ」
「だってもさってもあらぬ。誰にも“ぷらいばしー”ってやつがあるもんじゃて」
「仏様のありがたい言葉がプライバシーっての? そんならこちとら全身がプライバシーの塊よ!」
「なかなか妙味のあることを云うの」
「いや感心しないでよ……」
 旧友は詰将棋の続きを楽しみながら、湯呑みを手に取り、よく冷えた緑茶を啜った。
「ま、明日にでも頃合いを見て謝ることじゃな」
「誰がっ」ぬえは畳から身体を起こす。「誰が謝れってぇ?」
「おぬしに決まっておる」
 マミゾウが泰然と駒を指す。視線さえも向けてくれない。
 ぬえは胡坐をかいて、友人のぴくぴくと動く獣の耳を見つめながら言葉をこぼした。
「……最近、一輪が冷たい」
「この緑茶のようにかの?」
「そう、その緑茶みたいに」
 枕でも抱くように座布団を抱き寄せる。
「この前もさ、マミゾウの前で私のことを『鵺さん』って呼んでたじゃない? なにが『貴方って鵺さんのご友人なんですね』よ……いっちょまえにお上品ぶっちゃってまぁ」
 マミゾウが指し手を止めてこちらを見つめてきた。
「……なによ」
「いやいや、おぬしもなかなか人情に敏(さと)くなってきたの、と思ってな」
「ばっ――!」
 ぬえは腕を振り回したが、化け狸に易々とかわされてしまった。
「儂は、あの尼さんとはじっくり腰をすえて話をしておらんからな。自然と物腰も丁寧になろうて。要は云い方の問題じゃよ。おぬしが目くじら立てる筋合いはなかろう」
「誰も目くじらなんて立ててないわよ!」
「おぉ、愛いやつ愛いやつ」
「この野郎ォ!」
 いっそのこと首を絞めてやろうかと思ったけれど、笑いの止まらないマミゾウのことを見ていると、なんだかバカらしくなってしまうのだった。


     4

 雨は降り続いている。ぬえは寝つけずにいた。やることもない、外にも出られない、大きな音もご法度だとなると、明かりを消して寝るしかない。なんども寝返りを打っては、雨音と蛙の声に耳を澄ませている。
 ようやくまどろみが訪れたころになって、障子の開く音がした。雨の音が直接に部屋のなかへと飛びこんできた。ぬえは頭だけを起こして部屋の入口を見やる。
「……ぬえ、起きてる?」
「いちりん?」
 寝間着を身につけた一輪が、障子の隙間から顔を覗かせていた。
「どしたの、なんか用?」
「あのさ……あの時はごめんね。ちょっと機嫌が悪かったもんだから、つい」
「え、え」
「ほら、私も村紗も曇り空って苦手じゃない? ことに梅雨の日なんてさいあく。ジメジメして、暗くて、あの場所を思い出しちゃうから……ぬえも分かるでしょう?」
 ぬえはからくり仕掛けの人形のようにうなずいた。
「うん――えっと、それだけ。おやすみ」
「お、おやすみ」
 障子が閉められる。ぬえは続く言葉を胸のなかで囁く。
『私こそ、ごめん』
 雨は降り続いている。けれども、それから、ぬえは程なく眠りについた。




『グラヴィティ』


     5

 毎朝、一輪は目覚めると、決まってとなりに敷かれた布団のようすを窺う。日によっては、ぐっすりと眠りこけている舟幽霊の姿を見つけて微笑むこともあるし――また日によっては、先に朝を迎えてこちらを覗き込んでいる、彼女のひすい色をした瞳と出会うこともある。でも、朝一番からため息をついてしまうとしたら、それは彼女の布団がぐっしょりと濡れていたときだけだろう。


     6

「梅雨になっちゃったからねぇ、しかたないわよ」
 一輪は干された寝具をかるく叩いてから云った。
「ごめん」水蜜が頭をさげた。「自分でも抑えられなくて」
「わかってるわよ。気にしなさんな」
 帽子を被り直す。「ほんと、やな季節になっちゃったよね」
「まったく……」
 二人は空を見上げた。昨日の夜のあいだ降り続いていた雨はもう止んでいたが、今も空には鉛色の膜が居座っていた。
「うえの方も湿っぽくてさ、雲山と散歩でもしようもんならズブ濡れよ。そのまま河童の洗濯機にでも飛びこんでしまいたくなる」
「でも暑いときはとことん暑いから……おとといも里のお婆さんがひとり、倒れたって」
「ご愁傷さまね」
「いやいや死んでないから!」
「えっ」一輪はかたまる。「あ、ごめ――つい」


     7

 湿り気を含んだ風が吹いている。林の木々がさやさやと啼く。小鳥の唄もどこか控えめだ。おそらく、今夜からもうひと雨くるだろう。一輪は腰に両手をあてて門前に立ちながら、空模様を観察していた。
 林の向こうの空から、黒ずくめの少女が飛んできた。お気に入りの三叉の槍に腰かけて、風に流れる木の葉のように傍へとやってくる。
「やっほ」
「余計なもの買ってないでしょうね」
「あまり見損なわないでくれる?」
 槍の穂先にぶらさがった、葦で編まれた買い物かご。一輪は取っ手を握って持ち上げた。頼んだ分量にしては重みがあった。一輪はぬえを横目で睨みつけた。
「見損なったわ」
「余計なものじゃないってば!」ぬえは手を振る。「見てもらえば分かる」
 かごの中をのぞき込む。なかには袋詰めにされた黄土色の粉がわんさかと入っていた。
「なにこれ」
 ぬえは門の向こうに目を配ってから、いくぶん低くなった声で話した。
「ほら、昨日もムラサ、水だしちゃったんでしょ? そんならさ、生姜湯であったまったら、少しは抑えられるかなって思って……私ってば黒い雲は呼べるけど、晴れにすることは流石にできないから」
 少女の顔を見つめる。目をそらされる。手は猫のように丸められて、膝のうえに行儀よく座っていた。一輪は指をくちびるに当てて笑った。それは喉の奥から自然とあふれ出してきた笑い声だった。雲の切れ間から差しこんだ陽のように。
「ぬえ、知ってた?」
「なによう」
「生姜湯って確かに温まるけど、発汗を促す効能もあるから、あるいは逆効果かも」
「えっ」
「それに――」ひたいの汗を拭う。「これから暑くなる時季に生姜湯ってのもねぇ」
「じゃ、じゃあ好いわよ、私ひとりでぜんぶ飲んでやるから!」
 伸ばされた手をかわして、一輪はぬえの肩を叩いてやった。
「ありがとう、今夜にでも淹れてみるわ」


     8

 惹かれては離れてゆき……また惹かれては別れてゆく。この星を満たす重力のようなすれ違いを、何度もなんども交換しながら、水蜜は一輪と泳ぎ続けてきた。海と空。空と海。そこだけが自由だった。大地には面倒な縛りが多すぎた。けれども巣がある以上は、小鳥は帰らなければならない。魚は戻らなければならない。羽の一本が抜けてゆくたびに、鱗の一枚が剥がれてゆくたびに……自分は人間に近づいているのか、それともますます妖怪に化けてゆくのか、その見極めは難しかった。ことに幻想郷という世界では。

 水蜜は泳ぎ続けた。霧の湖を。八坂の湖を。玄武の沢、三途の河を。そうして独り水のなかで身を休めていると、なんだか漠然とした、水とはちがう何かに包まれているような気持ちになった。その気持ちは夕暮れになって帰り道を歩いている時に、よりいっそう強くなった。迎えてくれた人々の表情を見つめていると、どんな顔をして、どんな言葉を返せば好いのか、ふと落っことしてしまうことがある。それも、この気持ちのせいなんだろうと思う。


     9

「――生姜湯?」
 水蜜は首をかしげて入道使いを見た。もう寝間着にかえて、これから眠ろうとしていたところだ。悪い予感は当たるもので、陽が沈むと、入れ替わるように雨が降り出した。窓から忍びこんでくる雨音は、鼓膜を舌のような何かでなぶってくるかのようで、水蜜は耳がかゆくなった。枕元においた柄杓は、今夜も手放せそうになかった。
「そ、生姜湯。ぬえが買ってきてくれたの」
「もうすぐ夏なのに?」
 彼女はうなずく。「もうすぐ夏なのに」
「あいつもたいがいズレてるなぁ……」
「ズレてるからこそ寺に入るのよ、たぶんね」
 一輪が文机に湯呑みをおく。もうひとつを手渡してくる。水蜜は受け取る。指が触れ合う。摩擦のない、湿り気のないきれいな指だった。
「ありがと」
「ぬえにも云ってやってね」
「もちろん」


     10

 甘いとも香ばしいとも云えない、生姜湯の味が、口のなかを満たした。作った人の笑顔を見たくなるような、胸に染みこむ舌ざわりだった。それは今は見えない太陽の味でもあった。二人は時間をかけて生姜湯を呑みほした。空の湯呑みが机のうえに寄り添った。
 雨は続いているけれど、耳のかゆみはなくなった。身体の芯から温かみが染みだして、生ぬるい海水に包まれているような、懐かしい気持ちになった。そうして味わって初めて――梅雨になりかけの夜は、思ったよりも冷えるのだということ――自分の身体がこんなにも冷え切ってしまっていたんだ、ということに気づくことができた。
「好いものね」一輪が云った。
 水蜜はうなずく。「うん、好きになれそう」


     11

 明かりを消した。二人は隣どうしの布団で眠った。毛布にくるまって夢見に入ろうとした。生姜湯が内から、布団が外から……雨音を溶かしてゆくような、温もりの唄を歌ってくれていた。
「……一輪?」
 闇のなかから彼女の声が。「どうしたの」
「今日は、一輪の夢を見るかもしれない」
「それなら、私は村紗の夢かしらねぇ」
「空のうえを泳ぎまわる夢だと思う」
「私は……海のなかを飛んでゆきたいわ」
 水蜜はこっそりと笑った。「会うことは難しそうだ」
「別に好いじゃない、疲れたら……地上に戻ってくれば」
「重力に惹かれて?」
「そう」
 そっか、そうだもんね――水蜜はうなずいた。


     12

 まぶたを落とす。視界が完全に断たれてしまえば、あとに沈むは音と匂いの世界ばかりだ。雨の音は清ら、水の香りはたゆたう。雨を好きだと云った誰かの気持ちが、今なら少しだけ分かる。まだ分かるだけで、身体は受けつけてはくれないけれど。
 命蓮寺だけではなく、この幻想郷という世界に住まう誰もが、この雨の音を聴き、この水の匂いを感じながら――眠ったり、机に向かったり、空を見上げていたりするのだろう。一日いちにちを数えてゆくたびに、自分は人間に近づいてゆくのか、あるいは妖怪に化けてゆくのか、それが分かることはないけれど……それでも、どの方向に泳いでゆこうとも、受け容れてくれる世界があり、迎えてくれる人がいる、ということ。
 水蜜は毛布にくるまって、ただ彼女の夢をみる。


     13

 一輪は目覚めると、決まってとなりに敷かれた布団のようすを窺う。今日も繰り返されてゆく一日が始まる。障子は明るく染めあげられている。小鳥の唄が聞こえる。寝ぼけ眼をこじ開けて、大きく伸びをしながら半身を起こした。そして、視線をとなりの布団へと移した。
 一輪は、彼女を見つけて微笑んだ。
「おはよう、村紗」




『白と黒、碧と紅』


     14

 お風呂に浸かると、村紗水蜜は溶けてしまう。だから、ぬえは水蜜といっしょに入浴するのが好きではなかった。姿の見えない友人が、お湯に混じってそこら中に漂っていて、その液体に自分も浸かっているのだという感覚は、ちょっとしたホラーだった。
 今も、水蜜はぬえの視界から消え失せている。湯煙のなかに舟幽霊の姿はない。ぬえは湯船の隅っこに身を寄せて、肩まで浸かることもできないままに、揺れる水面を見つめていた。
 こんなことならさっさと先に入ってしまえば好かった、とぬえは髪を掻いた。「おーい、ムラサ」と呼びかけてみる。「頑張ればさぁ、なんとか維持できるんでしょ? 正直いって落ち着かないのよ。そろそろ戻ってくれない?」
 返事はなかった。


     15

 ちょうど好い加減に保たれているはずのお湯が、なんだか生ぬるく思える。ぬえは指先をお湯から出したり引っこめたりした。それでも悪寒に似た痺れは肌から去らなかった。片栗粉でも入っているみたいに、お湯にとろみがついているようにさえ感じた。
 ぬえは二の腕をさする。もういちど名前を呼んでみたけれど、水蜜は答えない。試しに指先を口のなかに含ませてみると、やはりというか潮の味がした。ぬえは身震いした。


     16

「ごめんごめん、あんまり気持ちが好くて」
「船幽霊にとっちゃ、海ってそんなもんなの?」
 水蜜はうなずく。「ぬえも試しに幽霊になってみたら。水に溶けるのって、すごく安心できるのよ」
「遠慮しとく。磯臭くなるじゃん」
「ひどい」
 ぬえは手桶にお湯をすくって、水蜜の背中を流す。泡が流れ落ちていって、彼女の背中があらわになる。骨の輪郭が浮きあがった背中。どれだけ食べても脂肪のつかない、痩せた背中だった。
 水蜜が振り返って云う。「つぎ、洗ったげるわ」
「よろしく」

 せっけんを含ませた水蜜の指が、二色三対の羽をすべってゆく。ぬえは背中を丸めて、くすぐったさのあまり漏れてしまいそうになる声を抑えていた。
「ぬえもたいがい痩せてるね」
「む、ムラサに云われたかないわ」
「やっぱり自分では洗えないの?」
「どうしても届かない場所があるのよ。ケアが大切なの」
「……ちょうちょ結びにして好い?」
「おいやめろ」


     17

 脱衣所で身体をふいて、寝間着に替える。水蜜は幽霊よろしく白い浴衣に。ぬえはワンピースと同じ黒い浴衣に。二人で互いの帯を締め合った。きゅっと結ばれた帯が、自分とぬえとの繋がりを暗示してくれているように、水蜜には思われた。
 隣にいるぬえが、膝を使って器用にワンピースを折り畳んでいる。以前に教えてやった畳み方をご丁寧にも実行していた。水蜜は口のなかで笑いを噛み殺す。まったくこいつは、と思いながら、水蜜もセーラー服を手に取った。

 ぬえと同じように畳んでいると、視線を感じた。ヒスイの瞳と、ルビーの瞳がめぐり逢った。ぬえは上気した頬に手のひらを当てながら、すぐに目をそらした。三対の羽がきれいなラインを描いて、床へと向けて垂れている。
「どうしたの?」
「いや、なんだかね……なんだかなぁ」
 ぬえは繰り返した。


     18

 梅雨の合間にも晴れ渡る日は確かにある。わずかな晴れ間を待ちに待って、太陽の光を全身に浴びようとする植物と同じように……水蜜もぬえも、そのわずかな晴れ間を待ちに待って、二人で月の光を浴びていた。
 幸いにも、縁側からは月の姿がよく見えた。六月はじめの、下弦の月。陰と陽。半分に欠けた月を見ていると、水蜜は決まって昔のことを思い出す。どこかに行ってしまったもう半分の自分。それを探して、この世界に住まう誰もが駆けまわっていた時代のことを。

「ムラサ」隣に腰かけたぬえが云う。「やっぱりさ、幽霊の身体って不便?」
「どうしたの、急に」水蜜は団扇(うちわ)をあおぎながら答える。「ぬえも幽体になる気になった?」
「ンなわけないだろ。ただ……なんとなく、ね。ずっと前から気になっててさ」
「心配?」
「冗談」とぬえが笑う。「今さら心配なんて」
「そうね、云われてみれば、ほんと今さらね」
「まったくよ」
 水蜜も口を開けて笑った。本当に今さらなことだった。しばらく二人で隣どうし、愉快な気持ちを交換してから、水蜜は質問に答えた。
「もう慣れちゃった……かなぁ。これが私なんだって受け容れるしかないし。それがお前なんだって、みんなが受け容れてくれてるわけだし。そう思うとさ、あーだこーだ云うのも、バカらしいっていうか」
「……大人になったね」
「船長ですから」
「頼りにしてるよ」
 水蜜は笑顔で敬礼のポーズをとる。


     19

 月は流れてきた雲に隠れてしまった。それを見届けてから、ぬえは立ち上がった。もう少しだけ、と水蜜が駄々をこねてくる。明日に響くだろ、と叱ってやる。ムラサ船長は本当に月が好きらしい。
 手を貸して立ち上がらせる。まるで酔っぱらっているかのように足下がふらついている。月の狂気にでもあてられてしまったのだろうか。今は半分なのに。
 肩を支えて、部屋まで送ることにした。ぬえは水蜜といっしょになって縁側を伝っていった。板のきしむ音に、蛙の鳴き声、そして舟幽霊の息づかいが夜気に溶けあう。不思議なことに、二人でバカ騒ぎをしているときよりも、こんな風にささやかな時間を分けあっているときの方が――生きている、と感じることができた。

 船長の部屋、そこへ至る最後の曲がり角。「ぬえ」と声が聞こえて……「なに」と声を返す――水蜜が真っ直ぐにこちらを見つめていた。ぬえは、癖で、すぐに視線をそらそうとしたけれど、水蜜の両手がそれを許さなかった。
「……ん」
 ふたたび月明かりが縁側に差しこむ。彼女の頬は、青白い月の光のなかでも、健康的な紅に染まっていた。それこそ今も生きているかのような――ぬえは身じろぎを繰り返したが、舟幽霊の濡れた手が、濡れたくちびるが、離れることはなかった。黒い浴衣と、白い浴衣が、陰陽の太極図のように混じりあった。
 やがて、手は背中へと回されて、二色の羽まで届く。せっけんで洗ってもらったばかりの……自慢の翼。赤い羽に空いている穴へと、水蜜の指がもぐり込み――青い羽の矢印状の先端を、水蜜の指が包んだ。ぬえは出口の塞がった口のなかで、喘ぎ声を溶かしていった。


     20

 時間は過ぎ去る。蛙の鳴き声が戻ってくる。生ぬるい夜気の温度もまた帰ってくる。水蜜がぬえからくちびるを離す。互いの肩に手を置いて、ぬえと水蜜はしばらくの間、視線を交わし合い、呼気を混ぜ合わせる。
「ムラサぁ」ぬえは云った。「こんなことして……高くつくわよ」
「ぬえが悪いんだから」
「なんだって?」
「ぬえが先にしてきたんじゃない」
「まっさか――」
「したわよ」水蜜が目尻にたまった海水をぬぐう。「した……お風呂のとき」
 ぬえは視線を下げて、ひとつひとつ思い起こしていった。水蜜が羽を洗ってくれたこと、背中を流してくれたこと、お湯に溶けていた水蜜のこと、そして。
「――あ」ぬえは指をくちびるに当てた。「えっ、あ……だ、だって、でも」
 一瞬で、顔が熟れたトマトみたいになる。口のなかに潮まじりのお湯の味があふれ返る。指先に甘い痺れが走る。
「分かったでしょう?」
「恥ずかし……そ、それなら、ムラサも悪いんじゃない。あんたが溶けたりしなきゃあんなこと」
「うん、だから」水蜜が手に力を込めてくる。「どっちも悪いってことで好いじゃない」
 もう舟幽霊の眼を見ることが、ぬえには出来なかった。


     21

 今夜は眠れそうになかった。水蜜とぬえは、また縁側に腰かけて月見を続けることにした。下弦の月。半分に欠けた月。陽と陰。白い浴衣と、黒い浴衣。すべてが隣あわせになる。ひとつになりそうでならなくて、境界線もあいまいになって、混じり合った色と色が夜空にたゆたう。
 水蜜は、となりに腰かけたぬえに肩を寄せていた。それだけで今は充分だった。満たされていた。互いに結び合った浴衣の帯も、似通った普段着の畳み方も、月に照らされたふた房の黒い髪も……そのどれもが、彼女との間で分かち合ったものだった。だから、水蜜は満足だった。
 暖かい息が吹き渡る。
「はやく……夏になれば好いのにね」
「最近は“梅雨も悪くない”って思えてきたけれど」
「そうね」水蜜は笑顔だった。「そうね」




『後日談、そして始まり』


     22

 久々の晴天だった。一輪は雲山の背に寝転がっていた。眼下には幻想郷の全景が収まっていた。博麗神社の鳥居から、軒を連ねた人里の家々、妖怪の山に被さった白雲まで、すべてが視界にきらめいていた。風が吹き渡る音や、雲のすきまを潜りぬける空気のうなりのほかには、なにも鼓膜を震わせるものはなかった。大気のにおいさえも感じとれた。一輪は時間をかけて呼吸に親しみながら、いちばんの息抜きである昼寝を楽しんだ。


     23

 目蓋のうらが暗くなる。一輪は目をうっすらと開ける。舟幽霊と鵺妖怪の顔が映りこむ。水蜜は愛用のイカリを携え、ぬえは三叉槍に腰かけていた。
「……なに、村紗達も昼寝?」
「まっさか」水蜜は笑顔で手を振った。「また挑戦者だよ、一輪」
「へ?」
 一輪は半身を起こした。材木の音を派手にきしませて、雲のなかから宝船が浮かび上がってきた。随伴するように空を飛んでいるのは幾人もの妖怪達。その先頭を切って、真っ直ぐにこちらに向かってくる少女の姿があった。
「あいつは……」
「『今度はかならず勝つ!』ってさ」ぬえが頬杖を突いて、顔を覗きこんできた。「どうすんの、観客はもう集まってきてるけど?」
「寝起きは勘弁してもらいたいわね」
「向こうは待ったなしみたい」
「やれやれ」
 法輪を両手に持って、一輪は風を切った。幻想郷の風景は変わらずに眼下に広がっていた。若い葉を茂らせた田園の列、山を覆いつくした萌木の群れ。緑にかがやく絨毯のような眺望だった。もうすぐ蝉の鳴き声も聞こえ始めるだろう。始まりゆく夏の風を全身に浴びて、一輪は初夏の空気を思う存分に吸いこんだ。


     24

 二人に肩を叩かれる。「ガンバレ」と口が動く。水蜜も、ぬえも、梅雨を乗り越えて、何処か憑き物が落ちたような笑みを浮かべている。そんな二人を見ているうちに、一輪は気だるい眠気が何処か遠くに去ってゆくのを感じていた。今、胸のなかにあるのは――今、この時だけだった。この青空だけが全てだった。
「いくわよ、雲山」
 相棒と拳骨を交わしてから、一輪は空色の髪をなびかせて、そこにある風を蹴った。



~ 対戦開始! ~


.
 ここまで読んで下さった方へ。本当にありがとうございました。

―――――――――――――――――――――――――
 以下、コメント返信になります。長文を失礼します。

>>1
 によによして頂いて私もにやにやが止まりません。お読み頂きありがとうございます。
 少しばかりえっちぃ><だなんてお恥ずかしい。二人が可愛いからいけないんですね。

 いろいろとチャレンジしているうちに当初の方向性を忘れてしまいがちになるので、
 「とても優しい」「元気がでる」との言葉を頂くことで、私のお話にとって大切なことを
 思い出せるのです。「ありがとう」とコメントして頂き、私からも深い感謝を!

>>2
 「ほっこり」を頂きました! いつもこの言葉を残して頂けることは大きな励みになります。
 また、二次創作をさせて頂いている身としては、「キャラクターへの愛が伝わってくる」
 というご感想は、とっても嬉しいことです。それが伝わった、ということですから。
 この三人が好きで好きで、書いているときは夢中でした。お読み頂きありがとうございました。

>>3
 今回もコメントを残して頂き、ありがとうございます。
 中身も形式的なところも、いろいろと挑戦してみました。

>>4
 ご感想を残して下さり感謝いたします。雰囲気を壊さないようにユーモアを散りばめるのが
 難しくて、ぬえと水蜜のところでくすりと笑って頂けたらなぁ、という期待がありました。
 村紗船長はこの特技を生かして、大いにぬえちゃんと戯れていて欲しいものです。ムラぬえ!

 ぬえちゃんと一輪さんの二人は以前から書いてみたかったんです。その矢先に心綺楼の例の
 勝利台詞ですから、カッとなって勢いで書き上げました。なんだか新作や書籍が出る度に
 ぬえちゃんが不幸になってゆくようで、可愛いながらもちょっぴり心が痛みますぬぇ。
 そんな訳で三人の繋がりというものが書きたくなったのです。お読み下さり重ねて感謝を!

>>5
 米太郎氏、今回もコメントを残して頂いて、どうもありがとうございます。大好きです。
 風呂湯プレイだなんて! そこまでは考えてなかった。衝撃の新ジャンルですね!
 ぬえちゃんは千年前も今も少女のつもりで書いています。妹紅との時も水蜜との時も。

 一輪さんと水蜜船長の「長年付き添った夫婦」みたいな関係は、まさにその通りで、素敵という
 言葉を頂けて大変に嬉しく思います。ずっと二人っきりだったみたいですから……。
 この三人は本当に仲好くあって欲しいですね。お読み頂き、重ねて深い感謝を!

>>6
 コメントを残して頂き、感謝いたします。ありがとうございます。
 円熟した関係のムラいちと、瑞々しい関係のムラぬえと……なんだかメロンとスイカみたいですね!
 同じキャラクターでも組み合わせ次第でこうも違う側面が描けるのかと、新鮮な驚きがありました。

 前々からこの三人のお話を書いてみたかったんです。でも、水蜜と一輪、一輪とぬえの組み合わせ
 では書いたことがなかったので、まずは三つに分割して二人ずつの関係から探っていったら、
 最後(後日談)で上手いこと形になってくれるんじゃないかなぁ、という期待がありました。

 お姉さんな一輪と、やんちゃな妹のぬえちゃんと――これも、また新鮮な間柄ですね!
かべるね
コメント



1.名前が無い程度の能力削除
始終ニヨニヨしながら読ませて頂きました。
少しだけえっちぃ><のに とても優しい・・・元気でました。ありがとう。
2.名前が無い程度の能力削除
ほっこりさせていただきました
キャラクターへの愛が伝わってきますね~
3.奇声を発する程度の能力削除
良いですねぇ
4.名前が無い程度の能力削除
お風呂で溶けられてしまっては、ぬえも困りますねw
ぬえと一輪さんの絡みも良かったです。
3人とも仲良くて幸せ。
5.米太郎削除
風呂湯プレイ!そんなのもあるのか!
ぬえちゃんはじつに少女ですなあ
一輪さんとみっちゃんの長年付き添った夫婦みたいな感じが素敵です
6.名前が無い程度の能力削除
ムラいちは熟年夫婦、ムラぬえは若いカップル
まではよくありますが、いち―ぬえを結んでくれてwin-win-win。
いいなぁ