めくるめく、世界が移り変わる。川縁、晴天の下で。移り変わる音の色彩は、どれも暗い。
ニコロ・パガニーニの二十四の奇想曲、第十七番、変ホ長調。その曲を弾きこなせるのは人間ではない――悪魔だけだと言う。
その曲を知らぬ者でも、ルナサの生み出す音を聞けば、人の手による物とは感じないだろう。
それ程に流麗で、陰惨な音。無論彼女は人ではない。ルナサの左手のスードストラディヴァリウス――彼女同様霊の、完璧な模造品――からは、完璧に弾きこなされた音が紡ぎ出される。
それは美しかった。弓が弦に触れるたびに、世界の色が変わっていく。だけれど、その色はどれも暗かった。鬱を司る騒霊の音では、暗色の彩以外は紡ぎ出せない。
いつの間にか、奇想曲は第二十一番に移り変わっていた。彼女自身、時間が経つのを忘れていた。無心に、音を奏でる。自らの腕で弓を慣らし、たった一つのバイオリンで、独奏曲を奏でる。
もし、心を持った観客がいれば、どれほどの感銘を受けたのだろう? 感銘の向かう先は鬱でしかないとしても。
ルナサの音に影響を受けないのは、彼女自身と、心を持たぬものだけだ。心を持つものが聞けば、聞き通すよりも、首を吊る方が速いだろう――仮に聞き通せられれば、首を吊る気力すら奪い去られるかもしれないが――心を持つ物が、その美しさを感じることは出来ない。
曲は最後の二十四番、イ単調。もの悲しげな短調の音が響く、同時に華やかで――やはり、薄暗い。曲のためではなく、演奏家のために、暗い。
曲の半ば、不協和音一歩手前の音が鳴り響き、いつしか壮大なものとなり――終わった。暗さを帯びたまま。
すっと、彼女の心に絶望がわき上がる。彼女には、そんな音しか鳴らすことは出来ない。
彼女は人ではないから。彼女は人間の形をしたまがい物。そのヴァイオリンもまがい物。騒霊。それが奏でるのは本来の音ではない。空気の振動ではなく、心にくる何か。
希に、本当に希だけれど、レイラへの憎悪を覚えるときもある。
彼女がルナサを作ったからだ。鬱の音を奏でる騒霊として。姉のまがい物として。
姉妹達の音に中和されることもなく、望む音も生み出せず――心を持つ観客など寄るわけもない中で弾いていれば、何かを思うときもある。
そうやって自分だけを見ていたからだろう――小石のように存在感の無い観客自身のせいもあるかもしれないが――ルナサは、観客がいるという事にようやく気がついた。バイオリンを置いて、その先には、一人の少女がいた。
(なんと言ったっけ?)
見覚えのある顔だ。幻想郷縁起で見たのだろう。だけれど名前は……
「こいし、古明地こいし。お上手ですね。ルナサさん」
ルナサが問いかけるより先に、彼女は答えた。古明地、と言われて、ああとルナサは得心する。覚り妖怪かと。
覚りと言うことに、恐怖は覚えなかった。むしろ心を見て欲しかった。どれだけ音にしようとも伝えられない、言葉にも出来ないその思いを、誰かに知って欲しかった。
鬱を司る騒霊だからと言って、喜びを感じないわけではない。パガニーニの奇想曲を奏で、悲しみを覚えれば、喜びを感じもする。
いや、そんな言葉では表せない感情も感じる。言葉に出来ない感情があるからこそ、音という抽象的な概念で表すと言うことは、音そのものである騒霊には、誰よりもわかっている。
己が表す音が、思いが、全て鬱の感情になるとしても。理解している。
「ええとね、私はお姉ちゃんと違って第三の目を閉じているから、心は見えないのです。ごめんなさい」
そう書いてあったような気がするわ。心を閉ざして、無意識で動く妖怪って。とルナサは思い出す。だけれど、
「ああ、私は表面上の事は慣れてるから。表情とかそういうのでだいたいはわかるよ。心なんて見えなくてもね。むしろお姉ちゃんよりわかるくらい」
そう答える様子自体が、まさに覚りそのものに思えた。でも、心を閉ざしていると言うことはよくわかった。
こいしは笑っていた。笑みという表情を貼り付けたように、その顔で作られた人形のように、笑っていた。
メルランだって笑っている。何があっても彼女は笑う。周りも笑う。決闘で負けても楽しそうに。そしてルナサなら、彼女を完膚無きまでに打ち負かした閻魔だって、暗い顔に出来る。させてしまう。
こいしの顔は、騒霊の生み出す表情よりももっと、作り物めいている。まがい物のようだとルナサは感じた。
幻想郷縁起を見て、知識としては知っていたことを実感できた。感情がない、と言うことを。心があれば、ルナサの音を聞きながら笑っていられるわけがない……
「無意識で動くにしては随分と普通に話せるのね」
「『こんにちは』って言われたら誰でも『こんにちは』って言うでしょ? ご飯が目の前に有ったら『いただきます』って言うでしょ? 『好きです』と言われたら……微妙だけど、まあ、熱いやかんに触れたら、手を引っ込めるでしょ? 考えなくても、そのくらいできるよ」
そうなのかもしれない、とは思った。実際にそうなのかは心を持つルナサには実感できない。でも、彼女の演奏を笑いながら聴いている時点で、無感情と認めてもいいとは思った。
「感情も無いの?」
「無いから貴方の音を聞けるんだ」
「そりゃあねえ。でも、何が楽しくて聞いてるの? 音楽って感情を揺さぶるための物でしょう?」
「貴方が、自分の感情を出せなくても音を奏でるように、私も聞くの。何も動かしてくれなくても」
と言って、こいしの笑みが少し変わった。微かに感情を吐露したとルナサには見えたけど、
「……って答えが貴方には欲しそうだったから。私は嫌われたくないから、相手の望み通りの事をいうの。『好きです』って聞かれたら、私は好きとも嫌いとも言ってあげる。相手の好みで変えてあげる。そうすれば嫌で嫌で仕方ないこの世界も少しは楽だから」
「それも私の望み通りの答え、かしら?」
こいしは答えなかった。にこにこと空を見やっているだけ。
「嫌で嫌で仕方ない、ね。お互い難儀な生まれよ。こういう風に生んだ相手が憎いわ」
「全くですよ。覚りなんて最悪です。でもねえ、いつかは聞けるといいよね。私の感情が、貴方の感情を」
「ええ。そういう希望だけは、持ち続けていたいわね」
それもまた私の思い通りに答えたのだろうか、とルナサは思う。でも心底そう思う。お互いが、感情を伝え会える日が来て欲しいと。
「もう少し、曲を聴きたい――ううん、聞いてくれない?」
「どうぞ」
彼女はバイオリンを天高く放り投げた。それは空中で止まり、周囲には弦楽器の騒霊が浮かぶ。手元には、騒霊の力で生み出されたギターの霊。
「アランフェス協奏曲、第二楽章……を演奏したいと思います」
不躾なのは投げたところまで。ルナサは佇まいを直し、口調を改め、ただ一つの観客に向けて呟く。ギターを奏でる。穏やかな、或いは陰鬱な音が鳴り響く。
空に浮かぶ弦楽器が、手もないままに奏でられ、ただ一人で協奏曲を奏でる――人には決して出来ないことだ。
「このフレーズは本当はホルンがメインなんですけど、私はギターでアレンジして弾いてます。三人でやるときは、メルランにホルンじゃなくてトランペットを吹かせてます。ジャズの人はそう言うアレンジが多くて、私たちもそちらが好きですね」
そして、騒霊をしても不完全な音だ。メルランがいればトランペットで、リリカがいれば、ウッドブロックの音で完全にしてくれるのだろう。何より、中和された「三人の音」になるだろう。
でも、ルナサは一人で弾き続ける。自分だけの感情を込めて、奏で続ける。
「この曲を作ったのはホアキン・ロドリーゴ。外の世界の人――スペインって国の人です」
感情は騒霊の力に塗りつぶされる。
「彼は、この曲に思いを込めました。内戦に揺れた祖国に思いを込めました」
音楽家としては下の下も下なのを承知で、ルナサは解説を口に出す。騒霊の音には、鬱の感情しか乗せられないけれど、必死に感情を持たぬ妖怪へと伝えたくて。
「みんなが仲良く、平和に暮らせますようにってね。貴方の表情はそんなとこかな、目は口よりも物を言うんです、で、作った人は盲目なんだね」
音も言葉も無縁に理解した、あるいはそう見えるこいしの言葉を耳に、奏で続ける。彼女の頭の中に浮かぶ情景を表そうとする。アランフェス協奏曲を聴いたときに描いた情景を――それはレイラと、"本物の"ルナサのものだとしても――第二楽章では悲しみを紡ぎ、
「続けて、第三楽章です」
第三楽章では悲しみの先に待つ安息を、平和を、その中に暮らす人々を紡ぐ。そして、自分の曲を聴きながら笑う観客達を、ルナサは描き始める。
もう、口も閉じたまま、決して伝わらない気持ちを、音に込め続ける。
盲目の作曲家が見た世界を思いながら、鬱の騒霊と心を閉ざした覚りが、心底から笑いあう世界を思いながら。希望を、抱きながら。
ニコロ・パガニーニの二十四の奇想曲、第十七番、変ホ長調。その曲を弾きこなせるのは人間ではない――悪魔だけだと言う。
その曲を知らぬ者でも、ルナサの生み出す音を聞けば、人の手による物とは感じないだろう。
それ程に流麗で、陰惨な音。無論彼女は人ではない。ルナサの左手のスードストラディヴァリウス――彼女同様霊の、完璧な模造品――からは、完璧に弾きこなされた音が紡ぎ出される。
それは美しかった。弓が弦に触れるたびに、世界の色が変わっていく。だけれど、その色はどれも暗かった。鬱を司る騒霊の音では、暗色の彩以外は紡ぎ出せない。
いつの間にか、奇想曲は第二十一番に移り変わっていた。彼女自身、時間が経つのを忘れていた。無心に、音を奏でる。自らの腕で弓を慣らし、たった一つのバイオリンで、独奏曲を奏でる。
もし、心を持った観客がいれば、どれほどの感銘を受けたのだろう? 感銘の向かう先は鬱でしかないとしても。
ルナサの音に影響を受けないのは、彼女自身と、心を持たぬものだけだ。心を持つものが聞けば、聞き通すよりも、首を吊る方が速いだろう――仮に聞き通せられれば、首を吊る気力すら奪い去られるかもしれないが――心を持つ物が、その美しさを感じることは出来ない。
曲は最後の二十四番、イ単調。もの悲しげな短調の音が響く、同時に華やかで――やはり、薄暗い。曲のためではなく、演奏家のために、暗い。
曲の半ば、不協和音一歩手前の音が鳴り響き、いつしか壮大なものとなり――終わった。暗さを帯びたまま。
すっと、彼女の心に絶望がわき上がる。彼女には、そんな音しか鳴らすことは出来ない。
彼女は人ではないから。彼女は人間の形をしたまがい物。そのヴァイオリンもまがい物。騒霊。それが奏でるのは本来の音ではない。空気の振動ではなく、心にくる何か。
希に、本当に希だけれど、レイラへの憎悪を覚えるときもある。
彼女がルナサを作ったからだ。鬱の音を奏でる騒霊として。姉のまがい物として。
姉妹達の音に中和されることもなく、望む音も生み出せず――心を持つ観客など寄るわけもない中で弾いていれば、何かを思うときもある。
そうやって自分だけを見ていたからだろう――小石のように存在感の無い観客自身のせいもあるかもしれないが――ルナサは、観客がいるという事にようやく気がついた。バイオリンを置いて、その先には、一人の少女がいた。
(なんと言ったっけ?)
見覚えのある顔だ。幻想郷縁起で見たのだろう。だけれど名前は……
「こいし、古明地こいし。お上手ですね。ルナサさん」
ルナサが問いかけるより先に、彼女は答えた。古明地、と言われて、ああとルナサは得心する。覚り妖怪かと。
覚りと言うことに、恐怖は覚えなかった。むしろ心を見て欲しかった。どれだけ音にしようとも伝えられない、言葉にも出来ないその思いを、誰かに知って欲しかった。
鬱を司る騒霊だからと言って、喜びを感じないわけではない。パガニーニの奇想曲を奏で、悲しみを覚えれば、喜びを感じもする。
いや、そんな言葉では表せない感情も感じる。言葉に出来ない感情があるからこそ、音という抽象的な概念で表すと言うことは、音そのものである騒霊には、誰よりもわかっている。
己が表す音が、思いが、全て鬱の感情になるとしても。理解している。
「ええとね、私はお姉ちゃんと違って第三の目を閉じているから、心は見えないのです。ごめんなさい」
そう書いてあったような気がするわ。心を閉ざして、無意識で動く妖怪って。とルナサは思い出す。だけれど、
「ああ、私は表面上の事は慣れてるから。表情とかそういうのでだいたいはわかるよ。心なんて見えなくてもね。むしろお姉ちゃんよりわかるくらい」
そう答える様子自体が、まさに覚りそのものに思えた。でも、心を閉ざしていると言うことはよくわかった。
こいしは笑っていた。笑みという表情を貼り付けたように、その顔で作られた人形のように、笑っていた。
メルランだって笑っている。何があっても彼女は笑う。周りも笑う。決闘で負けても楽しそうに。そしてルナサなら、彼女を完膚無きまでに打ち負かした閻魔だって、暗い顔に出来る。させてしまう。
こいしの顔は、騒霊の生み出す表情よりももっと、作り物めいている。まがい物のようだとルナサは感じた。
幻想郷縁起を見て、知識としては知っていたことを実感できた。感情がない、と言うことを。心があれば、ルナサの音を聞きながら笑っていられるわけがない……
「無意識で動くにしては随分と普通に話せるのね」
「『こんにちは』って言われたら誰でも『こんにちは』って言うでしょ? ご飯が目の前に有ったら『いただきます』って言うでしょ? 『好きです』と言われたら……微妙だけど、まあ、熱いやかんに触れたら、手を引っ込めるでしょ? 考えなくても、そのくらいできるよ」
そうなのかもしれない、とは思った。実際にそうなのかは心を持つルナサには実感できない。でも、彼女の演奏を笑いながら聴いている時点で、無感情と認めてもいいとは思った。
「感情も無いの?」
「無いから貴方の音を聞けるんだ」
「そりゃあねえ。でも、何が楽しくて聞いてるの? 音楽って感情を揺さぶるための物でしょう?」
「貴方が、自分の感情を出せなくても音を奏でるように、私も聞くの。何も動かしてくれなくても」
と言って、こいしの笑みが少し変わった。微かに感情を吐露したとルナサには見えたけど、
「……って答えが貴方には欲しそうだったから。私は嫌われたくないから、相手の望み通りの事をいうの。『好きです』って聞かれたら、私は好きとも嫌いとも言ってあげる。相手の好みで変えてあげる。そうすれば嫌で嫌で仕方ないこの世界も少しは楽だから」
「それも私の望み通りの答え、かしら?」
こいしは答えなかった。にこにこと空を見やっているだけ。
「嫌で嫌で仕方ない、ね。お互い難儀な生まれよ。こういう風に生んだ相手が憎いわ」
「全くですよ。覚りなんて最悪です。でもねえ、いつかは聞けるといいよね。私の感情が、貴方の感情を」
「ええ。そういう希望だけは、持ち続けていたいわね」
それもまた私の思い通りに答えたのだろうか、とルナサは思う。でも心底そう思う。お互いが、感情を伝え会える日が来て欲しいと。
「もう少し、曲を聴きたい――ううん、聞いてくれない?」
「どうぞ」
彼女はバイオリンを天高く放り投げた。それは空中で止まり、周囲には弦楽器の騒霊が浮かぶ。手元には、騒霊の力で生み出されたギターの霊。
「アランフェス協奏曲、第二楽章……を演奏したいと思います」
不躾なのは投げたところまで。ルナサは佇まいを直し、口調を改め、ただ一つの観客に向けて呟く。ギターを奏でる。穏やかな、或いは陰鬱な音が鳴り響く。
空に浮かぶ弦楽器が、手もないままに奏でられ、ただ一人で協奏曲を奏でる――人には決して出来ないことだ。
「このフレーズは本当はホルンがメインなんですけど、私はギターでアレンジして弾いてます。三人でやるときは、メルランにホルンじゃなくてトランペットを吹かせてます。ジャズの人はそう言うアレンジが多くて、私たちもそちらが好きですね」
そして、騒霊をしても不完全な音だ。メルランがいればトランペットで、リリカがいれば、ウッドブロックの音で完全にしてくれるのだろう。何より、中和された「三人の音」になるだろう。
でも、ルナサは一人で弾き続ける。自分だけの感情を込めて、奏で続ける。
「この曲を作ったのはホアキン・ロドリーゴ。外の世界の人――スペインって国の人です」
感情は騒霊の力に塗りつぶされる。
「彼は、この曲に思いを込めました。内戦に揺れた祖国に思いを込めました」
音楽家としては下の下も下なのを承知で、ルナサは解説を口に出す。騒霊の音には、鬱の感情しか乗せられないけれど、必死に感情を持たぬ妖怪へと伝えたくて。
「みんなが仲良く、平和に暮らせますようにってね。貴方の表情はそんなとこかな、目は口よりも物を言うんです、で、作った人は盲目なんだね」
音も言葉も無縁に理解した、あるいはそう見えるこいしの言葉を耳に、奏で続ける。彼女の頭の中に浮かぶ情景を表そうとする。アランフェス協奏曲を聴いたときに描いた情景を――それはレイラと、"本物の"ルナサのものだとしても――第二楽章では悲しみを紡ぎ、
「続けて、第三楽章です」
第三楽章では悲しみの先に待つ安息を、平和を、その中に暮らす人々を紡ぐ。そして、自分の曲を聴きながら笑う観客達を、ルナサは描き始める。
もう、口も閉じたまま、決して伝わらない気持ちを、音に込め続ける。
盲目の作曲家が見た世界を思いながら、鬱の騒霊と心を閉ざした覚りが、心底から笑いあう世界を思いながら。希望を、抱きながら。
曲を曲のままに持ち込む事は出来ないけど、それを彷彿させるくらい轟轟うなる文を目指して欲しかった。後半の文量は現状の三~五倍くらいは欲しい。でないと未来在るかも知れない物語にも厚みが出ない。たぶん。