状況はどうだい? 僕は僕に尋ねる
バンプ・オブ・チキン / ロストマン
千年。
幻想郷。
ごおん、ごおん、と、鐘の音が響くような音を立てて、鉄さびた色の舟が一隻、頭の上をゆっくりと飛んでいく。
「……」
ナズーリンは、肩にかついだロッドを、とんとん、と鳴らすと、さて、ともなんとも言わないが、なんの前触れもなく歩きだした。
(に、してもここはまた、暑さの堪えるところだわね)
思いつつ、服のすそをぱたぱたと扇ぐ。
元の姿が毛玉なので、そのぶん、ナズーリンは、暑いのが好きでない。肩まで駆けあがってきたネズミの喉もとを、適当な手つきでなでて、もの思いしながら、どこか目的のなさげな足どりをとる。
もちろんのこと、具体的な予定もなしに、わざわざ彼女は出歩いたりしないたちなので、今日も、これから、なにやら、妖怪の山と呼ばれる、この里でも風光明媚でしられる、まあそのかわりこの里の妖怪どもの拠点のひとつでもあるらしいのだが、そこへ足を向けることになっていた。
(まぁ、余暇つぶしぐらいにはなるよね。……気は進まないが)
ナズーリンは思いながら、のらくらとした歩調で道を歩きだした。
約束の時間まではまだまだだったし、たまには寺の連中と顔をつきあわさずに過ごすのもよかった。
(まあ、なんだ)
伸びをしつつ、ナズーリンは涙ぐんだ目をまたたいた。初夏をむかえたばかりの緑は、若々しく光り、獣の変化に特有の、瞳のなかに縦にさけたような眼球のある目を、ゆるく、まぶしく射してくる。
「……。……」
ふぁ、と、ちいさくあくびの余韻をのこす口を閉じつつ、ナズーリンはもう一度肩のロッドを鳴らした。年寄りくさい。
「自分でいってりゃ世話ないっつうの……」
悪態をつきつつ、ナズーリンは、森の小道を歩いていった。
同刻。
霧の湖。
そのまんなかの島にちんまりとたたずむ屋敷。
門前。
「たのもぉーーーーーーーーうっ!!!」
と、とつぜんドでかい声をはりあげた僧服(といっても男ものだ)姿の娘のまえに、この屋敷の門番をつとめる中華娘然とした妖怪が、動きを止めつつ、対応や反応のしかたにこまった顔をして、立ちつくしていた。
「……。あ、失礼しました。ええと、紅魔の主さまの館というのは、こちらでしょうか」
「は。え。あ、ああ……」
「どうもいきなり失礼をいたしました」
「いえ、まあ失礼というかなんというか」
「どうも、申し遅れまして。わたくし、近頃里のはずれに引っ越してきた寺の僧でございます。このたびは新参ものとしてせんえつですが、挨拶回りなどしていまして、あ、ちなみにお屋敷の主さまはお出かけでしょうか?」
「えぇ……いまちょっと恒例のお茶会に行ってるみたいだけど」
「そうですか、それは失礼をいたしました。ところで、こちらの主人さまは檀家はどちらにお持ちでしょう? 仏法に興味はおありでしょうか? わたくしどもの寺尊では――」
別所。
幽冥の結界をこえたさきにある桜の名所。白玉楼とよばれる、冥界の屋敷の庭。その門前。
「どうも、急に失礼をいたします。私、近頃こちらの里に処を移して参りました、里外れの寺の者でございまして。――ええ、失礼ながら、ご主人さまがたは在宅でありますでしょうか? 昨今、新参者の礼儀として挨拶回りを兼ねまして、ぜひとも私共の仏法の経を上げさしていただきたいと思いまして、僭越ながらですが、お目通り願えればと思っておる次第でございます。ええ、この縁をきっかけに、よろしけるなら、私共の寺で催す種々の説法会にも足を運んでいただきたいと――」
目の前でとつとつともうしのべる仏天様のような服を着た娘に目をぱちくりとさせつつ、たまたま応対にあたった白髪の少女が、「はあ」と、返事し、ちょっと顔を曇らせぎみにして口を開いた。
「あのう、こちらは冥界ですので、そういうのはちょっと困るというか、なんというか、ええ――ほら、線香の香りとか、わたしたち成仏たりしますし――」
また別所。
とある高い峰々の上に建つドでかい神社。
境内。
「……」
「あら、どうもあらためまして」
実に風変わりな、というか奇抜な髪色をした、僧服を思わせる、黒い長衣の娘が、目の前で微妙な顔をしている、これまた奇抜な、白と青の衣装に身を包んだ、まだ年若い娘を相手に、かるく手をあわせながら言った。
「えーと……」
「はい。あらためてご挨拶にあがりました。今日は、近頃、里の近くに寺をかまえましたもので、その住職につく身としてごあいさつと、それとできれば説法をあげさせていただきたく思いまして」
「ここ神社なんですが……」
蒼と白の服の娘は遠慮ぎみに言ったが、めのまえの長い髪の女性には、通じず、(あるいは通じないふりをされたか)
「あら。仏の道を広めるに、神道も妖魔もございません。神がたがそうであるように、仏道もこの世に悪をつくらず、ただ平等に接するばかりでございます。仏の道に帰依すれば、あなたも、またこちらにおわす二柱のかたがた様も、みな仏門、あるいは仏神となられることでしょう」
「私はまだそんな気はないんだけどね」
と、蒼と白の娘の隣に立っていたこれまたその蒼に似た深い色の髪をしめ縄のような飾りで結いあげた娘、いや、女、といったほうがいい、妙に貫禄と近寄りがたそうな気を発している女が、娘の横から、にがにがしげ、かつちょっと面白そうに口をはさんだ。
「全く、いい度胸の聖どのだとは聞いていたが、百聞は一見にしかずよね。早苗。気圧されるのはわかるけど、油断しちゃだめよ。こういうくわせ者は」
「べつに私は」
「これは失礼をば、そのような印象をあたえたとは悟りの道行く者として、あまりに迂闊でございました。どうぞひらに」
不可思議髪の女が手を合わせて礼をするのを、くわぁ、と言いたげな顔で、蒼髪の女は微妙に微妙な顔をして、しっしっと女に手の平を振る仕草をした。
「あんたのような輩は苦手だな。さ、いいから帰った帰った。坊主の言うことに聞く耳持つほど、こっちはまだまだ安くないのよ。勧誘ならもっとこちらが衰えてから頭ごなしに救いの手をのべなさいな。それが仏道ってものでしょ?」
「まあ、そのようではありまするが、それは言わないのがまたしきたりというものでございます。――それでは、今日のところは挨拶ばかりに。どうぞわが寺の寺尊、毘沙門天様の御名をばよろしくお願いいたしますよう」
「……。あん?」
「はい? ですから、わが寺の神、毘沙門天をよろしくと」
「早苗。ちょっと塩をもってきなさい」
「え?」
「なるほど。そういうことか。うん、うん。わかった。わかったから、いまから半刻またずにここの敷地からその足を退けて回れ右をしろ」
と、いうわけで。
数刻後。
聖輦船。
内部。
「ふぅ……。まったくいきなりなにされるのかと思ったわ。急に怒りだすんですもの」
「すいません、聖。うっかり教えておくのを忘れていました」
「いや、そこはうっかりしていいところなの?」
船の内部にもうけられた乗船用のスペースに、白蓮、村紗、寅丸、雲居ら、命蓮寺に住まう面々が、冴えない顔で(村紗だけはしれっとした呑気顔で、ちいさく欠伸などしているが)あつまって座を組んでいた。
「……、で、なに? 結局今日も収穫なし?」
村紗が欠伸を終えた涙目顔で言うと、いつもこういうことに目をとがめる雲居が、さっそく眉をひそめ気味にした。
「あんたにどーこー言われたくないわよ。ていうか、なんであんたは動いてないの。ちょっと働けよ」
「わたし、キャプテンなので……まぁ、そういうのは抜きにしてわたしの仕事じゃないし、そういう宗教的な勧誘とかは」
「はたらかざる者くうべからずって人間の偉い人が言ってるわよ」
「妖怪だし」
「てい」
「痛っ」
「ほら、一輪、やめなさい、聖の前で見苦しい」
寅丸が注意するが、その肝心の白蓮は、もの思いにふけっているのか、なにか考えこみながら目を伏せがちにしていた。とにかく目下のところ、新参者の命蓮寺勢にとっていま重要なのは、里においての人間たちの信仰を得ることだった。
最初のほうこそ、ものめずらしさとこの里特有らしい、ものみ高さ(ヒマだからであるが、ようするに)がてつだっての噂の広まりでどうにかこうにか繁盛してきたのだが、まぁ、人も妖怪も薄情なもので、一時期のがやがや騒ぎがおさまると、騒ぎの中心となったものに対する興味も、さざ波が引くように失われて無くなっていくようで、一時は盛り上がった信仰の波も、ひとところに根を張るということなく、結果として命蓮寺の面々が期待していたような人の心のよりどころというものも、思うとおりには得られなかった、というわけである。そのようなことが目下の白蓮の、または命蓮寺そのものの心がかりの種だったし、目の前でくりひろげられるいつもの雲居のしかめ面と村紗の雲居の手に拮抗する歯ぎしり顔と、それをたしなめる寅丸の眉をひそめた顔というほかの者が見たらわりと心がかりになる光景さえもまったくの素通りで考えさせる原因だった。
「ん? そういや、ところで、星さんとこのネズミの大将は? このいそがしいのにまさかサボり? けしからない!」
「あんたが言うんじゃねえ」
という村紗と雲居の歯ぎしり合いをしながらの言葉に、白蓮は、ふと顔をあげた。
「ああ、ナズーリンなら、今日は所用で出かけるとか言ってましたよ」
「え? そうなんですか?」
寅丸が、二人をひきはがそうとしながら白蓮に言うと、ぎりぎりフシャアーッ、ナォーッと歯ぎしり合いをしていた村紗が、半眼になって寅丸を見た。
「え? て、星さん、ナズーリンの上司でしょ……行動把握してなくていいの?」
「……まぁ、白蓮が知ってればいいことだし」
「いいのかな~。あ、いいわよそんなに仕事してないとか疑ってるんなら案くらいは出すわ。名づけて命蓮寺信仰☆復活☆ドキッ! 水着だらけの聖大会! ~ポロリもあるよ! 大作戦! まずは……聖が 服を」
「そこまでだァーッ!! フシャァーッ!!」
「ギャァー!! フカーッ! フカーッ!」
ついに寅丸も村紗に襲いかかるのを見つつ、白蓮はふうむ、とまた考えこむ顔になり、何事か深い思索にふける様子になった。
同刻ごろ。
妖怪の山。
滝。
滝、というか、正確にいえばその裏にある水しぶきの届かない洞窟のなか、ぴちょん、と落ちる水滴をちょっとながめて、ナズーリンは話の続きをつづけた。
「ま、なんだ、だから仕事なんてのはさ、おりあいなんだよね。やっかいなもんだよ。そう、やってるほうもやらせてるほうも、別に恨みつらみでやるわけじゃなく、仕事だからってことでさ。仕事、仕事、仕事。こまったもんだよね。わたしが思うにこんな言葉自体が無くなったほうがいいんじゃないかと思うわけだよ。どっかの偉いあの世のお方もそう言ってると仏法は言ってるわけだけど、まあ、これも思うにだけど、無くせるならとっくの昔に無くなっているもので、無くならないのは、これが言いわけとしても理由としても金をかせぐはけ口としても殺生にいたる口実としても気軽で便利で、ものごとの重さというものを、ぐんと軽くしてしまう狂ったもので、この世にあるのが間違いだということを、まぁうすうすは気づいている者がいたとしても、そこから外せないもので、なくしたとしてもなくせないものなんだと、そして、もし無くなったとしてもだーれも損する者がいないんだとしても、その重要性が底上げされすぎてて、又は ――こっちのほうがきっと本音に近いんだと、たぶん言われんだろうけど、もう惰性だよ。我が本尊様はそういうことはわかっていても口に出さないことだ。お前が口は喋りがすぎる口で、そのほとんどはお前が頭のよさのうえに、本質に近いところをついてしまうだろうが、そのほとんどはお前が身には、よくないこととしてふりかかる。口を閉じることをこころがけ、真面目にときには悪行とすら思える、たとえば「仕事」でさえも黙々とやることだ。それが渡世というものだ。わかってくれたら、わが少々たりない弟子者の面倒を見てくれりゃ。……などと言ったものだけど」
「ふーん。なるほどねぇ」
河童の河城にとりは、それにふたつにくくった青い髪のうえの帽子の中をこりこりとかきながら、聞いているんだか、それとも話半分に聞き流しているんだかわからないようすで応えつつ、ぱちん、と大きな将棋盤をならして、あごの下に手をやった。
「もちろんわたしは本尊様に帰依されて仏法の世界にはいった身だから、たのまれずとも本尊様の言うことに従わない気なんかないわけだし、こいつを仕事とも思っていないんだけど、まあ仕事っていわれりゃ仕事ってことでウチの上司さまのおひざ元をちょろちょろしながらいろいろとこまいことをやってるわけだし、――まあ、またこういうこと言うとうちの本尊様はにが笑いしてたしなめなさるんだけどね、とにかくそういう、うん、『渡世』? 渡世だよね。はあー、まぁ面倒だよね」
「うんうん、なるほどねぇ。……。ん。そうくるか。んー。……そうかぁ。なるほどなー。うんうん。なかなかおもしろい考えごとをしているんだねぇ、ナズちゃんは。わたしら妖怪のなかでもそんなこと考えてるのなんて天狗さまとナズちゃんくらいじゃないかねぇ。ほら、わたしら河童は腕はあっても、頭がアレだから」
むかいにいる仏頂顔の相手がパチンと将棋盤を鳴らすのを、あごをさすりながら考えつつ、河城が言う。ナズーリンはふんむ、とちょっと感じ入ったような半眼でちらりと将棋盤を見ながら、ちょっと話をとぎらせた。ちち、と、肩のネズミがちょっと退屈そうに感じるような鳴き声をあげるが、それを無視してまたかわかないのどをすべらして、話をつづける。
「たしかに妖怪にはこんな考えをするやつはあまりいない、というか、むしろこまいことを考えないのが妖怪という生き物であって、最初から格差社会や厳格な掟のなかでもないかぎり、考えごとをしながら生きるのは妖怪という生き物にとっては無駄だし大袈裟にいったら自分の存在そのものを否定している、理屈にあわない道はずれものさね。あの世のお偉いお方が見たら、もっと妖怪らしい生きかたをしなさいと説法されるところを、本尊様のご光明により、かんべんしていただいている、あさましくもおありがたいと、仏法に感謝しながら生きる小者というのが、わたしのような輩だよ。そも、妖怪というのは」
「ちょっと。にとり」
ナズーリンがまた長話をはじめかけるのを、別にさえぎる意図もなかったようだが、不機嫌そうに、河童の大将棋の相手、偉げに胡坐をかいて将棋盤をみていた白狼天狗が声をあげた。河童のほうはと言うと、それにパチリ、と盤を鳴らしながら、「うん?」と耳つきの頭のほうを見て、ちょっと考えた目をしてから、間をおいて口をひらいた。
「ああ、もみちゃんの番だよ」
「そうじゃなくて。何なのそのネズミ頭は」
「あれ? 自己紹介しなかった? ナズちゃんよ」
「そのナズちゃんてのはやめてほしいなぁ」
「それもじゃない。というかなんでいきなり説明もなしにそいつはここにいるのよ。よそもの立入禁止ってのはお山の原則で」
「えー? なにいうのさ今ごろ。てかせっかく私が友達連れてきたのにケチつくようなこと言うかなー。にとり悲しいよ」
「そういうことを言ってるんじゃないんだが……」
もみちゃんと呼ばれた白狼天狗は言いつつも、あまり友好的でない視線をナズーリンに飛ばした。
ナズーリンも、ちょっと肩をすくめると、この天狗が好きでないことをあらわしつつ、仕方なしに、といった様子をよそおって口を開いた。
「なんだい、いまさら帰れって? この山の天狗様方も結構頭の固いのがいるんだな。べつに山の住人がまねいているんだからいいんじゃないかね、ま、私も実のところ天狗は苦手だけどさ」
「ほほう」
白狼天狗は半眼の目をやぶにらみぎみにすると、袖に片手をかつがせる腕の組みかたで、威圧的な様子をしめしてきた。
ナズーリンもそれを見ながら、やれやれと両手を顔のわきにあげておてあげ、と、やや挑発ぎみにして、態度をしめしてやった。
「ほらほらよくないなーそーいう威圧的な態度。天狗というのは、とまれ木っ端に至るまでとにかく大酒のみの法螺ずき大言ずきで、きみら白狼天狗でさえ上にはへこへこしながら下賤な妖怪や妖魅や化生、人間たちには、驚かしたり悪戯をしたりする、存外たちの悪いところがあると聞く。そういったものには知恵のある高等な者には、もうちょっと自分をよそおったり平等を騙ったりと、個々に差が出ると聞くけど、これだとそのかぎりじゃないかもな。ま、きみ一人をあて馬にしてあげ足をとるようなのはどうかだけど」
「なるほど、風のうわさによれば郷のお寺の最近越してきた面々は、ちょっとふうがわりなことはいうが、あの天宝の守護者を任じ、軍事、軍学に志を与う鎧武者姿の武人と謳われる毘沙門天尊の方がその本尊にして縁深し、また使いの者も志深し、とのことだったが、こうも礼をたがえる者がその正体とあらば、もう一度調査の必要もあるやしれないな。まず第一に口の悪さがうたがわしいが」
「この程度でケンカ売ってるとか因縁ふっかけるようじゃもう天狗だめじゃないかな。ちなみにわたしはケンカは嫌いだ。この郷とあの弾幕とやらのたまあて遊びのごとき無意味さがそこにはあるからね。万難を排しての時の流れとのお別れを果たす姿はおのが要求をがんとして張ってそのくせ変革をきらうわらし子にもにているけど、そのうえでお山の大将きどる文字通りのお山連中には、まず水そうのなかで飼われる緑亀や雨蛙の存在意義をいちど思いやってほしいもんだね。ま、それも渡世ってやつなのかな、あえて考えないのは」
「ようし、ここは一発、すっかり白黒つけようじゃないか。といって弾幕遊びは私は無粋さ。こいつで決着をつけるのでどうだ」
天狗は言いながら、どこかからとりだした、こちらはふつうの大きさの将棋盤を置き、じゃらら、と白い桐の箱から、その上に将棋ゴマをぶちまけた。
「武辺天尊様のお使いと言うならば、策や謀には長けてるだろう? ま、否やというなら剣で決めても私は構やしないけどな」
「あらら」
大将棋の盤のまえで、半眼で難色をしめす控え目な河童をちょっと無視ぎみにしつつ、ナズーリンは無言でコマをとり、ぱちぱちとならべはじめた。
やれやれ。
まぁ、半刻をちょっとすぎたか、それくらいで勝負はついた。
「ぬぅ……」「……んん?」と、将棋盤(さっきまでナズーリンが面していたほうの盤だ。当然いまは天狗一人なのが、勝敗の結果をひかえめにものがたっている)のまえで一人途方にくれる犬耳頭は置いといて、ナズーリンは、また他方の将棋盤の前で、この隙にと長考の構えでいる河童の横に、あぐらをかいた。
「ま、さっきも言ったけど、地獄のおえらい方のお言葉をまぬがれて大手をふって歩くことをかろうじて許しいただいている小者がわたしだよ。そも、妖怪などというのは、その生まれが木のまたや草の根っこかから変じて生まれたようなもので、そのためにものの死も知らず、おのれの生の有難みも知らず、好き勝手、生のままにほん放する迷惑なやからで、仏の道ではこれに許しを与え、情けをすら乞えば与えるのが、この世の道理、とされている、では妖怪の妖怪による道理はなにかと言ったら、生のままに生き、仏にのみ情けを乞うようにするのが道理、としている。わたしら妖怪物の怪、畜生などというやつは、そもそも仏の道など覚えようとしてもその教えを受けられないのが常で、それはそも、妖怪が先にも言ったとおり、生も知らず死も知らず、生を疎み憎み死も知らず、といったものであって、もとからそういうようにできていて、その輩に仏の道を説いても、理解しようにも理解しないようにできていて、だからこそ、仏の情けを受け、人の情けを受けられない、か弱く、可哀想なものとされるのだ、と仏の道は説いているんだね。それじゃあわたしのようなものは、つまり仏の道に触れ、あえて帰依して罰に触れて在るものはなぜ在るのかといえば、それは妖怪は知恵、つまり仏の情けに触れるものであるがあまり、己の浅ましさに気づき、仏の情けに気づき、己のありように、どうしようもない憎しみ、可哀想というあわれみを気づき、はん悶し、ゆがみ苦しみ悲鳴をあげることができるのだ、ということなんだね。
生や死をしらず、その喜び悲しみ、怒り楽しみをもちえない者でも、長く生き、仏に救いを求めれば、あさましい己でありながら、帰依するきっかけを目覚めることができる。そのためにはまず自己を否定し、人を食うえつ楽を排し、行をかさね、己の頭で考えることをなさい、妖怪としても最も苦痛となり、罪となるおこないをかさね、苦しみなさい。そうして”苦”を知ったときに、はじめて仏の道に帰依し、神や化身、またはその使いとなることができるだろう、そう仰るのが、みほとけ様の教え、万物を赦す道と法なのだ、というのが、わたしが天尊様から賜ったお言葉でね。まあそれのために、いまわたしのような者がこうしてあることもできている、赦されているという理屈らしいね。ウチの上司どのはそこらへんを端折ってしゃべったりするけど。本人曰くうっかり」
「ほほー。うーん。何だか、たしかに少なくとも私ら河童にゃ、ほほー、というしかない話だなぁ。なるほどーといったら地獄のこわーいお方にお褒めの言葉をいただけそうだけど」
「まぁ人間たべなきゃわたしみたいな身分になれるかもって話だよ。どれが悪でどれが善かって話は仏法じゃしちゃいけないんんだってさ。たしか」
「ふーん。っても、この郷にいるやつらはムリそうだねぇ。人間はおいしいし、豊富に安定した食糧が供給されるおかげで今じゃその食のありようってものも変わってきてるくらいだし。ナズちゃんの話だと山にある加工工場とか良質カンヅメとか、そういうのは褒められたことなのかねぇ、それとも微妙なセン? 最近外から入ってきたまよねえずってやつのおかげで、いま、加工食のほうがブームなんだけどねぇ」
「缶詰はあまり好きじゃないな。若い連中は好みがかけ離れてるよ。それはいいけどおかげで外食業界のほうが衰勢なのが嘆かわしいわね」
「ま、このみとかあるからねぇ。私も外食派かなー。あ、ナズちゃん今度おいしい店紹介してあげよっか? 山で今度つくる新しい工場でも試作品のモニター探してるらしいし。ずっとここに住むんなら、行っといて損ないよ」
「いや、わるいがわたしはもうずっと絶ってるんだ。里のスイーツならつきあうよ」
「お、いいねぇ。今度もみちゃんといっしょいこっかねぇ」
「そうだな……」
二匹の人外がさわがしく歓談しはじめたのを横に聞きながら、なんとなくふうと息をもらしつつ、ナズーリンは大将棋の盤をながめた。ついでに言うと河童の方が劣勢のようだったが、言わないでおこう、と思いながらもの思いにふけった。
命蓮寺。
時は多少進む。で、さらにその三日前のことだ。
この日、白蓮は、妙にうれしそうな寅丸の顔をみて不自然におもったが、「聖」と、朗報をかくしきれてない長い付き合いの妖怪を見つつ、なんとなくだが、不安げな心をふりはらって笑った。
「何?」というと、寅丸は話があると言って、あらためて白蓮の正面に座した。
「よい話があるのです」
と言い、「実は」ときりだしたところによると、その話というのは、里のある寺についてのことだった。寺、といってもながらくこの里には、人の常時いる寺がなく、その寺も、住みこみで管理する者がいるわけでない、本尊をまつり、役を継いだ家が、付近の里の者たちと、外部から手入れや一時的な管理を行う、いわゆる仮寺で、幻想郷の各里におおくみられる形の寺だということだった。話、というのは、その寺の管理のことについてである。
「引退、ですか?」
と、白蓮が言ったのは、要するに、寅丸の話によれば、件の寺の管理にあたる者が、近々、体の不振を理由などにして、白蓮がいま言ったように引退のような形で寺を手放す、ということで、これもまた寅丸曰く、この管理する者に当たってみた結果、何やらその管理とまた、その寺自体をこちら、つまり命蓮寺の側に移譲したいという運びになった、ということだった。
「……。ふむ……」
話を聞いて白蓮は心ならず、うなって考えこんだ。寅丸はえらく乗り気のようだが、白蓮としては、こういうときの寅丸は、うっかりを起こしやすく、それは彼女が、白蓮が毘沙門天尊のもとに寅丸をつれていくまえから、優秀でよく温厚な気質と認めながらも、やや視野狭さく気味になりがちである、と、欠点として認めていることではあった。浮かれるのであるが、要するに。
とはいえ、彼女は天尊の代理とはいえである、この寺では立場上住職の身である白蓮よりも、寅丸のほうが形のうえでは、上、ということになり、正直彼女の言うことを無碍にあつかうということは白蓮にはできない。まあ寅丸のいうことなら……と、一がいすぐには言えないのが心情ではあるが、だからといって、立場上一番責任のある者が決めて言いだしたことはいいだしたことである。
とにかく、後日、その管理する者に会って話を聞きたい、と申し出ると、寅丸がこころよく同意してくれたところで、時は進み、そして今に至る。
(あんまりよい予感はしない、かな……)
とは思いつつも、その日白蓮は命蓮寺を昼ごろに出て、人里には昼のちょうど下がりには着いて訪ねるつもりでいた。
(おや)
で、昼ごろ、ちょうど出るときになって、とことこと小柄な手足を動かしながら、件の寅丸の部下である、ネズミ耳の頭が、こちらに向かってくるのがみえた。
ナズーリン。
「ナズーリン」
「ああ、これは聖。いまからおでかけで?」
「ええ、ちょっと人里にね。あなたはいま帰り?」
「ええ。しかし、お一人で? 説法会ですか?」
「いえ……」
白蓮は言いかけて、ふとちょっと考えた。
「ねぇ、ナズーリン。実は今日出かけるのは、寅丸が持ってきた話についてなのですけど」
「はあ。ご主人さまがですか?」
ナズーリンは、ちょっと片目をとじて、少女めいた顔をすましたようにした。それを見て、白蓮は、何となく曇っていた心情を、またすこしゆらめかせざるを得なかった。ただ、それを口には上らせなかった。
「里の方で、なにやらこちらに檀家を譲っていただけるとかいう方がいるそうで、今日はその人に会って、挨拶をしてくる予定なのよ。ちなみに……ええと、寅丸からもしかして聞いていなかった?」
「ええ。たぶん、ご主人さまがご自分でお進めになった話じゃないですかね。ま、そういうことでしたら、どうぞ行ってらっしゃいませ。お帰りお待ちしております」
「ええ、ありがとう」
白蓮は言うと、ナズーリンの見送りを背中にうけて、独特の形状の法衣を揺らし、寺のしき地をぬけでていった。
「……」
寺のしき地をでていく、独特の法衣を着た不可思議色の髪を見ながら、ナズーリンは、ちょっとつむっていた片目を開き、半眼で寺の方を見あげた。それから、寺の土間をまたぎ、「ただいま戻りました」と言い、勝手にあがりこんですたすたと勝手にあがりこんですたすたと廊下を進んだ。そして、本堂へつうじる通路で、何やら雲居と話しあっている寅丸を見かけ、その様子をちらっと見てから、なんのけない足どりで近づいていくと、話が終わるのを待った。やがて、話を終えたらしく、雲居がくるりときびすをかえして向こうへ行くと、寅丸は、ようやくナズーリンに気づいて、「ああ、おかえりなさい、ナズーリン」と、いつもののんきな――ナズーリンが実は「くわー」と言いたげな心地を抱くにこりとした顔で、こちらに意識を向けてきたのを確認しつつ、「やあ、ただいま戻りました」と、これもいつもの調子で応じてやった。内心では、ぶすりとした顔をかくしながらだが。
「さっき玄関で聖と会ったんですが、ご主人さま、聖がお出かけになった理由は例の人里のことで? わたしが探ってきた話ですけど」
「え、ええ。そうだけれど……。ああ、そう。聖と会ったのね」
などとなんの気なく言いながら、寅丸はちょっと動揺した様子を見せた。それを見つつナズーリンは「そうですか」などと無難に言い、
「では、わたしは奥の間に行ってますので、あ、昼げは食べてきました。夕刻から、また友人の誘いで出てくるかもしれませんが」
「ええ。いってらっしゃい。今日は特に忙しいこともないですから」
寅丸が言うのをちょっと礼をして見つつ、ナズーリンはやれやれと思った。
(まぁた、このバカ寅は。知らないからね、わたしは)
と、今さらながらに思い、すたすたと自分の上司の横を抜けていった。
人里。
とある場所。
少し里の中からは外れた一角。
寺からは少しばかり遠出になるので、とあらかじめ言われていたとおり、わりと時間をかけて白蓮はやっとその寺を管理するという件の人の家にたどり着いた。
(ふぅ)
初夏もはじめの風は汗をかくというほどにはぬるくなく、心地よく行路を過ごしてくれた。千年間の封印から覚めて、歩きらしい歩きをしたのも久しぶりだが体はなまっておらず、むしろ快調がたたって息を荒げるのが心配なほどで、白蓮はそれを気をつけながら、道中、ちょっと乱れたかを確認してから、風変わりな衣の裾を揺らし、そのなんということのない一軒屋の前に立った。
(ふつうの家ね)
「――ご免下さい」
普通の感想を抱きながら、白蓮は胸のまえで両手をあわせて、無難な挨拶を口にした。「はい」、と中からこもった声が聞こえ、からから、と、木戸が開く。出てきた少し年若い娘に礼をして、白蓮は、少し目をふせがちにして挨拶を述べた。
「どうも、わたく、今日の今時分にもうしあげておりました、命蓮寺、という寺尊の住職にございます。はじめまして。せんえつではございますが、当主様と早速お話し合いがしとうございます」
「ああ、聞いています。どうぞ、こちらに」
娘は、相手の容姿(まあこれは道理だろうが)がちょっと意外だったという顔をして、丁寧な品の有る態度で白蓮をまねきいれる段取りをとってくれた。客間に招かれたあと、茶を出され、ほんのしばしの間、ぱたぱたと足音が聞こえ、声のようなものや物音がしたあと、それからほどなく、すっすっと静かな足音をたてて、がらり、とふすまを開けて、年かさながら、背すじのしゃっきりとした禿頭の男が姿を見せ、
「やあ、これはどうも、ご足労いただきまして」
と、年の見かけのわりには屈たくの見えない笑顔で言った。
「とんでもございません。本日はお招きをお許しいただき、謝辞をのべさせていただきます」
「はは。まあ、そうかたくるしくならんで。楽にしてくださいませ。そうかしこまるような話でもありませんから。今、茶菓子を持ってこさせます。いや、しかし、お若いとはお聞きしておりましたが、多少面喰らいましたわ」
「いえ」
白蓮は述べながら、この御仁に、まだ初見ではあるが好意的なものを見いだしていた。同時に、うその言えない人であるな、と、そのようにも感じた。やがて、茶菓子と、向かいあった御仁のぶんの茶が運ばれ、場がしずまると、あらたまった様子で、目のまえの御仁が白蓮に体をむけた。
「紹介遅れもうしました。わたくし、この近こうの寺をあずかる身分で、名を蓮因と申しまする。一応の僧ではございますが、いまは仏の道を休んでおります」
御仁――蓮因が紹介していうのに、白蓮もかるく自分の名と身分をとつとのべた。同じ蓮の字をいただく僧であるということから、何らかの関連はある、と思われたが、それは触れることではないようだった。
(まぁ、千年も眠っていたねぼすけ者だものね。わざわざ気まずくすることもないわ)
にこやかに世間話に応じながら、そのように思いつつ、やがて白蓮は話を本題にすこしづつもっていった。
「――そうですか。それでは、お年で、ということで」
「ええ。別段、子に恵まれんというわけではありません。さきほどご覧になったでしょうが、わたくしにもかのひとり娘がおります。――しかしながら、遅生まれの子にて、この時分、年頃を迎えまして。……ま、本人はまだそのような話はないなどとうそぶきますが、あれはあれで、しっかりとしたものでしてな……。いずれそのようなことにはなるでしょうが、そのときにこの預かった寺というのが少しばかり重荷、ということもないでしょうが――いえ、失礼。とにかく口実ですな、これは。娘可愛さ、というわけではありませんが……」
蓮因は話すとき、年かさの男親特有の目をしていたが、その中にはほんの少しの罪悪感もかいま見えた。この寺を継いだ手前、その重さを自覚し、それを手離すのに若干のためらいもあるのだろう。
(とはいえ、それをおもんばかることもないか)
白蓮は思いつつ、蓮因の話に耳をかたむけ、それから、ことの本人からどうやら、本題の収束するきっかけを聞くことができるのを感じていた。
そのときだった。
「しかし、お若い身空で仏道とは大変でございましょう。いや、私などは、ご感心をばさせていただくにしか恥のないことではありますが――聞けば、お亡くなりになられた弟君の菩提のために、寺を建立し、そのうえ、人ばかりでなく、妖怪たちにも道を説いていらっしゃるとか。いやいや、ご立派なことだ」
(……。何?)
白蓮はそこでふと、ぴん、と頭にひっかかりを寄せるものを感じ、「あの」と、気づくと蓮因に問うていた。
「あの、少々お聞きしたいことがあるのですが――いえ、ひょっとすると失礼に思わせるだけかもしれませんが、ご容赦を。いま、いえ、わたしのことについてなのですが……、そうですね。こちらには、どのような者が来ましたか?」
「はあ……? いえ、どのような、と言われますと……? ああ……たしか娘の話では、最初に来たのは、たいそう、いやいや少々風変わりな装いながら、そちらの僧を名乗っておられたとか。そうそう、どうも妖怪の方らしく、はじめは面食らったと言っておりましたな。たしか後ろから鼠のような長い尻尾が生えていたとか。それに獣耳もあったというから変化のたぐいでしょうな。まぁ、もっとも、お噂は存じあげておりましたから、命蓮寺の方と聞くと安心したようで……その折にあなた様の話をお聞きして、それでその方はお帰りになられましたな。それからしばらくして、今度も少々人外ぎみながら、仏の気の感じられる方が来まして、それで話がまとまったのですが」
(星、ね……。あぁ……そういうことか……)
白蓮は心静かに思うと、沈黙して、しばし黙想するように目を閉じた。それから、目を開け、こちらの様子にやや妙な心地を抱いたふうな男の顔を見た。
「蓮因様、と仰りましたね。御坊様においては大変な失礼をさしあげました。全てを打ち明けます前に、それだけは申し上げさせていただきます」
「はぁ、と、仰ると……?」
「わたくしは、破戒僧です。それはお聞きになりましたか?」
「は?」
「わたくしは、破戒僧なのです。いまより生まれたのも遠い昔、この里では馴染みがあるのかもしれませんが、自分の命を惜しみ、死を恐れるあまり、魔界のふかくにおいて力を仰ぎ、万里の寿命を得、また、そのことを、法力のためと周囲に偽って生きてまいりました。故に年若いのではなく、すでに千年以上の時を人ではないものとして生きておりまする。そのことを周囲に知られ、さらには昔のことです、妖怪にもかかわる者であり、そのことすらも偽っていたとして、とがを受け、責めを受け、そうしてふさわしきところへ封ぜられよと、罰を受け、力を得た魔界へとこの身を落とされました。……妖魔の者たちとのかかわり云々は、ここでは言ってもせんなきことですが、当初の私は、己の寿命を保つため、妖魔の者たちと混じり入ることで、命を保つ生気を受けて過ごしておりました。そうして現世に帰りたった今も、かわらず妖魔の者たちと混じりながら過ごしております」
一気に話し終えると、白蓮は改めて目のまえの男を見た。さすがに面食らったらしいが、その目に困惑の色が見えるのは少しだけだった。それ以上は見れないのも自分の弱さだと自覚はしていた。
「どうも、耳に毒な話をお聞かせし、心苦しく思っております」
「いや、もういい」
男が言うのが聞こえ、ゆっくりと畳を立つのが聞こえた。
「悪いが今日のところはお引き取り願いたい。この件、一度まとまったこととして、まことに勝手ではあるが、少々考えさせてほしい。それだけだ。さぁ、精一杯のことは言った。早く帰ってくれ。あんたの顔は、二度と見たくない」
男は言うと、ぴしゃり、と穏やかにふすまを閉め、廊下を足早に歩いていった。白蓮は顔をあげず、しばらくその音を聞いていたが、やがて、立ち上がり、誰もいない客間に礼をして、家を辞した。
「ふーん」
外で見ていたぬえは、くわ、とあくびをして、寝ころがっていたかわらの上で、ごろんと寝がえりをうち、それから尻尾をにょろにょろと動かした。
そして、ぽそり、とバカみたい、と呟いた。
命蓮寺。
夜半。
「ばっかだよな、まったく」
ぶつぶつと呟きつつ、ナズーリンが寺近くの道を歩いていた。屋台にでも寄り道していっそべろっと時間をけずりたい気分だったが、彼女はそういうとこ割としっかりしているというか愚直げで、どんなに気分が悪くても、おおげさに自分をうしなうということはなかった。そのかわり口数が多かった。
(全く馬鹿だわ、馬っ鹿みたい、あんなのババアにばれないわけないだろ、あのえせ坊主ときたらそういうとこだけは妙にカンが冴えてるっていうのにさ。あんだけ長くつきあってそんなこともわからないかね全く馬鹿。バカ寅。バカ寅は。うっかりですむことだと思ってんのか今に見とけ、きっついしっぺ返しを食らうんだから。あの因業ババアがどういうやつなのかまだ分かんないのか、はっ、さすがだね。さすがのうっかりバカ寅ちゃんだ。バカ寅丸さまさまだ。これでババアのヒス受ける寅決定ですね、全くの自業自得。自演お疲れ。天尊様の汚名もこれで挽回されることでしょうね。本来返上するはずのものを一回転させて挽回するのがバカのさすがバカなところってやつね。あいつ本当に分かってんだろうか、誰の看板を背負ってると思ってんだ? そんで傷だらけどころか肥溜めまみれだってことをすでにして分かってないのか? 分かってないんだろうなバカだから。全くバカ寅め。バカ寅め)
ぶつぶつとつぶやき声になって悪態がもれているのも構わずにナズーリンはさらに続けていた。獣というか、変化の眼光丸出し(気が立っているためだ)なので、くらい夜道もまっ昼間のようにあかるく見える。
(いったいあの因業ババアのどこがそんなにいいんだか千年経った今のいままで執着しやがって、天尊様のお心じゃなかったらとっくにシリけっとばして顔にバカってらくがきをまっ黒になるまで重ねてやってついでにケツの穴に筆ぶっ刺して「あばよバカ寅」っていってるとこだわバカ寅め、まあ天尊様の御名にキズがつくからやらないけど思うだけならタダですよね? そうですねタダですよ。あのくそババアときたらわたしらや天尊様に大うそかたってたあげくに肥溜めぬりたくってくれたっていうくらいのクソだぞ、びっちだぞ。執着する義理も未練も情けもないんだよ、本当は! いつまで見苦しく生きていやがってはずかしくも厭らしくも寺尊まで建立してその本尊をウチの天尊様を仮にもいただくなんざ、すじ違いにもほどがあるだろまあそれもウチのバカ寅様がいいだしたんですけどもね、まったくバカ寅め。まんまとのせられやがって、ほだされやがって、なにが千年前はなにもできなかった自分をだよ、あんな連中がいまさら泣きついてきたからってひっかき回してもとの旧地獄にでもぶち落としてスマキで川に流して封印して、二度と出てこれないようにってなんだかよく分かんなくなってきたわ、そう落ちつけオーケー? ったく馬鹿め、バカ寅め、バカ寅め)
そこでつぶやきを止め、ナズーリンはピタリと足をとめた。どうやら寺についたようで、今日はもう舟になるのはやめたらしい門前の大きな木戸が、帰りを待ちうけて口をおっ広げている。
(バカ寅め)
それを最後の呟きにして、ナズーリンはその中へと足を踏み入れてやった。
そして。
同刻。
命蓮寺の奥間。
「星」
白蓮がふすまの外から声をかけると、ろうそくの灯りを受けた寅丸の顔がこちらを見た。
「話があります。部屋へきてください」
「……はい」
寅丸は表情のうかがえない顔で、整理していた巻帳の類を文机に置くと、背あわせで同じ作業に取りくんでいた雲居の視線と、寝こけかけていた村紗が気がついてむけた視線を残し、ふすまを閉めて部屋を出た。
なにも話さずに暗くなった廊下を、白蓮の持ったがんどうに照らされながら歩く。白蓮の私室にはすぐに着いた。散らかっていたはずの床はいっさい片づけられており、ちょうど二人分は座れるほどのスペースができている。
「座りなさい」
言うと、白蓮は敷いた座布団に自分も座り、むかいに先に座した寅丸を見すえ、文机の上にがんどうから移した灯りを置いた。
「星。あなたはわたしに嘘をつきましたね」
ちょっと、ひと呼吸するような、その程度の間で、白蓮は口を開いた。
「……はい」
寅丸はおとなしく認めた。ただし、その表情は硬く、灯りに照らされ、揺らめく間にも、何か含むものを感じさせて見せた。
「……もう承知でしょうが、件の御仁とお会いして、全ての話は聞き、またこちらの話すべきことも伝えました。その結果、かの御仁は一度まとまった話で申しわけないが、とわたしに謝辞を述べ、考えさせてほしい、と仰りました。破談かどうかはこれから次第ですが――」
「そんな……すでにまとまった話ですよ!?」
寅丸はいきなり過剰に反応して、怒鳴るような声をあげた。それを聞きつつも、「星」と、白蓮は制した。
「なぜあの御仁に全てを語らなかったのです」
寅丸は沈黙したが、困惑と、それと何か津波の来る寸前のような怒気をはらんで、白蓮を見ていた。
「そのようなやり方でからめとったのでは、卑怯、とそしりを受けるのはまかりないことではないです」
か、と言おうとして、その前に、白蓮は、寅丸の手に服のえり元を捕えられ、言葉に詰まっていた。
「何を……何を言ったのです、聖。いえ白蓮! 何を言ったのです!? 私が語らなかったこと全てですね!? そうに決まっている、あなたはそういう人だ!」
寅丸は興奮して縦に長い瞳孔をむき出しにしたまま、ぎりぎりと白蓮のえり元を握った。
「それの何が――」
「それの何がですって!!? 分かっているでしょう! そうだ、あなたは分かっていてそういうことをあえて言う人だ! なぜ。なぜ、なぜ、もっと! なぜ考えないのですか! なぜ!」
「考えていますよ、星。ですがこのような結論しか出ないのです、あなたのやり方では――」
「何があなたのやり方ではだ! それはこっちの言うことだ! あなたのやり方ではですって、ではどうなんです。あなたのやり方では、語るべきこと、語らずともよいこと、全て語ってしまうのが――そのようなやり方で――」
「星」
少し落ちつきなさい、と言いかけた言葉を、それよりも強く、また荒々しい力が襟をしめあげて止めた。
「これが落ちついていられるかっ!! 何が、あなたのやり方ではだ! あなたのそういう――昔から、昔から、そう、昔も、あのときもそうだ!! 全てを明るみにされた直後、あなたは逃げも隠れもしなかった!! 罪人としてあの愚鈍な、嫉妬ぶかく、まぬけな、愚図な人間たちに! 脅威でもなんでもないものに難くせつけるのだけがとりえの血のめぐりの悪い馬鹿な人間どもに――」
「星、やめなさい。あなたは人間を守護する仏天の代理、その弟子なのですよ。それがっ……!」
がくりと揺さぶられ、白蓮はまた言葉をとぎらせた。えり元をつかむ寅丸の力は、すでに化生のそれに完全にもどっている。妖気が湯気のようにゆらめいて見えそうなほど尖っている。怒気。
「だまれ、白蓮、あなたはいつもどうだ! なぜもっと自分のことを考えない! なぜいつも正しいことを求める! 痛みをうけるのはあなたで傷をうけるのはあなたで損をこうむるのはあなたでいつか、いつか死ぬのもきっとあなただ! ……自分が綺麗な人間だとでも思っているのか……わたしを裏切り、信仰を失いかけさせ、他の多くの者も同様に、全く同じように変わらず、そうして、裏切ってきた! その手を見ろ、その身体を見下ろせ!! あなたは罪深いことをもっと自分に言い聞かせろ!! そうしてふさわしい態度を身につけろ!! ――」
怒りのあまり呼吸が詰まったのか、ひくっとのどを震わせ、寅丸は口を噤み、一旦言葉をとぎらせた。しかし白蓮の襟をしめあげる力は変わらず、人外のそれに変わった形相も、まるで終わりを見せていない。やがて、力が緩み、代わりにするしと白蓮の身体に寅丸の腕が巻かれた。今度は壊すほどの力が嘘のように、やさしく。
どく、どく、どく、どく、と、力強い鼓動が、白蓮の胸にかさなりその乳房を圧迫してひびく。寅丸の体はまるで獣そのもののようだった。怒れる獣の。怯えて咬みつく獣の。
「わたしは、あなたのことを愛しています」
寅丸は静かな声で言い、しだいに荒げていた怒気や人外の気がうすれ、元の寅丸の様子に戻ってきている。白蓮は自由になる腕を上げ、少しきつめに体を抱いてくる寅丸の背中に触れ、少しだけなでる程度に弱くふれた。
「星」
「わたしは二度とあなたにいなくなってほしくない。そのためなら人間を騙りもしますし、この里に根づきたいというのなら、二度とあのような、昔のようなことが起こらないようにしたい。あなたのことを知れば、そう、正に今回のように、昔のあなたを、今のあなたがどうしてあるかを知る者がいれば、また、昔のように――」
「星、この里でそのような心配はしなくていい。たしかに異形の者を受けいれるのにどこまでも寛容とは言えないが、寛容と言えるほどの器はここには備わっている。私はあのような目にあうことはないの。そしてこの郷のあり方がとても気にいっている。根を下ろすのにこの場所以外あり得ないようにも、今、思っているところです。あなたが人を騙るような必要はないのです」
「わたしは、わたしは、かつてあなたに裏切られ、そのことで、信仰を失いかけもした。あなたが去ってから信仰にまよい、廃寺に身を潜め、籠っていたのも、わたしが天尊様から授かる信仰を掲げ、人間達に教え説く資格があるのかどうか、それを迷っていたからだ。わたしはかつてあなたが説く信仰を信じ、その身に宿る法力は神々しいばかりだと信じ、何ひとつ疑わなかった。――村紗達がわたしの元に来たときも、本当は、口にする言葉ほどの覚悟は無かった。あなたをこの手で封印することに手を貸した恐怖、あなたに会うことへの恐怖、そういったものがわたしのなかでない交ぜになり、なにを信じることもできず、自分で立つことさえも信じることができなかった。そして、そして……わたしは、あのとき、宝塔をだれにも見られないところで、舟から地上へとなげ捨てた。恐怖と不信からそうした。わたしは自分に負けた。なにも変わらなかった。今、こうしてあなたを抱きすくめるこの気持ちでさえ、なにかにすがらなければ立てない幼子のそれかもしれない……」
「星。そのことに対しては、わたしは何もかける言葉がない。その答えを見つけるのは、自分、あなた自身がやるべきことだから。それまでにすがるのなら、たとえあなたの納得のいかないことであっても、こうしてあなたを受け入れましょう。今のわたしは――」
白蓮は途中で言葉を止めて、寅丸の髪を優しく撫でた。寅丸の体の震えは止まり、やがて、寅丸の手は白蓮の体を離した。
寅丸は、そのまま黙って畳を立ち、やがて肩を落としたような立ち方で、ふすまを開き、廊下へと出ていった。
白蓮は黙し、そのままただ座していた。
やがて、後ろから、べつの腕がその体にからみつき、抱きつくように体を密着させてきた。
「見ィちゃった♪」
耳元で悪戯っぽい声がささやき、白蓮は後ろにいる相手の名を「ぬえ」と口にした。
「はい、ぬえですよー。寅ちゃんもしかしいろいろ大胆ね? 昔からあんなことをしていたの? 趣味?」
「のぞき見なんて趣味が悪いわよ。人のこと言えた義理じゃないけれど。――」
つぷ、という感触を、首と肩の間に感じて、白蓮は、ほんの少し眉間を寄せて、「ぬえ」と、咎めるような、あるいはそれ以上を留めるような、そんな言いかたで、この封獣の悪戯をしかった。クス、と鼻のあいだから出た息が、素肌を温らめた。ぬえの唇の間から赤い血が一すじ、そしてもう一すじ細く垂れ、ぬえの牙から糸を引く。
「私も愛してないけど、白蓮のことが大好き。妖怪の好きって、だって、こういうことでしょ?」
「そうね」
白蓮は認めながらも、流れる血をちゅ、と吸うぬえの唇に、ほんの少し体の芯を疼かせた。妖怪に倫理観はない。そういうことだ。昔から知っている。
やがて、ぬえは体を離し、少しかがんで、最後のひと舐めを舌の先でとって、それでひと通り満足したらしく、すっとほん放な足どりで、部屋の出口を出ていこうとしながら、こちらを向いた。
「あなたも難儀なのね。でもそういうところが好きなのよ、私は。あなたの、正直で優しくて、温いところがね」
ぬえは言うと、にっこりと笑って、ふすまを閉めた。そのうち、ずだん!! という音がほどなくして、外から雲居の声が聞こえ、それに応じるぬえの声が聞こえてきた。
白蓮は、反射的に立ちあがり、足早に外に出ていた。予想したとおりの光景がそこにあるのを見て、白蓮は熱いものがこみ上げるのを、かろうじて抑えた。
刀を構えた雲居、それに対峙する形でいるぬえ。
「何をしているの」
そう言うと、だいぶ気楽な表情でいたぬえが、「さーぁ?」という意味にとれる仕草をした。
「私は――」
「うるさい、黙れ。口を閉じろ」
「一輪。止めて」
「姐さんに何をした、と聞いているんだ」
雲居はだいぶ気が立っているらしく、刃を向けた相手を今にも斬ろうという気迫を見せて、廊下の板を踏んでいる。場違いな虫の音の廻る音。場違いに呑気なぬえの顔。いやな結果しか思いおこさせない、その様子に、白蓮は自分を抑えて雲居に語りかけた。
「刀を収めてください。一輪。あなたは誤解をしている。このような状況になっているのもわたしは分からないわけではありません。――お願い。刀を退いて」
「姐さん。こいつは危険な妖怪です。姐さんの考えだからと今まで放っておきましたが、今回ばかりは許せない」
「止めてください」
「姐さん!」
「そうよ、何もそんなにとがめるようなことしてないわよ。ねえ白蓮?」
「ぬえ。あなたも止めて」
「私は何もしてないってば」
ぬらりくらりと会話している間に、雲居が踏みこみをわずかに詰めるのを見て、白蓮はそちらに目を配り、けん制した。
「何もしてないだと? あんた血の臭いがするのよ」
「ふぅん?」
ぬえが面白がるように言うのに、白蓮は「ぬえ。お願い、少し喋らないで」と、やや咎めるような口調になって言い、「一輪、
」と、雲居に語りかけるように諭した。
「お願い。刀を退いて」
「できません!」
「一輪!」
白蓮は少しきつめな口調で言い、それがやや恫喝ぎみになったことも、自覚し、後悔した。そう、雲居は自分が妖怪たちをいまだにこちらへ招きいれようとする白蓮の姿勢が、納得できていないのだ。
かといって、彼女の頭が聡くないというわけでは決してない。愚鈍はわたし。
そのうちに、廊下の騒ぎを聞きつけてか、「おわ、何?」と、奥の間から走ってきた村紗が言い、星が無言で立ちどまり、また、こちらは何の音もさせずに、いつのまにか、ロッドを肩にかついだナズーリンも、ちょうど村紗達とは反対側の廊下に来ている。
「一輪。あなたには言ったことがありますね。あなたは聡いが、それゆえに、何もかもを早々と見限り、その情ゆえに、見限らないものもあるのだと。ならば情に従って生きなさい、と。今のぬえを斬ることは、その言葉に反することです。あなたは、愚鈍な者を見限る正しさを持っている。だからこそ、そればかりに生きてはいけないのです。それでもまだ分かってはくれませんか?」
ぎり、と歯を軋る音が響き、徐々に雲居の気勢が弱まり、やがて、刃だけが宙ぶらりんのような状態になった。
「お願い、ぬえ。あなたもやめて。そう、わたしの言葉は聞けずとも、お願いは聞いてくれるでしょう?」
ぬえは、危なげな眼差しで、隙を見せかける(あわよくばその隙を狙って、その爪を閃かせようとしている、それも気まぐれに)一輪の様子から目をはなし、笑ったままの目でちらりと白蓮を見た。
「……うん♪ ふん? そうね。白蓮のお願いなら、しょうがないかなぁ。やめる理由にはならないけど、やめてあげる口実にはなるものね。へへ。実は意外とケンカもしたくない気分だったところよ」
白蓮の方を見てうそぶくと、ちら、と雲居の方を見て、ぬえは翼をはためかせ、縁側の方へとふわりと浮きあがっていった。
いつのまにか外には雨が降っている。ぬえの姿はそんなことには委細せず、すぐ空に溶けて消えた。
「……ふん」
雲居が、忌々しげに吐きすてた。刀を納めて、その場の空気を断ちきるような足どりで、白蓮の方へと歩いてくる。そして、迷いの浮かんだ表情で顔を見、視線を白蓮の肩すじへとすべらせた。
「聖。お部屋へ。治療くらいはさせてください」
「ええ」
間。
憤まんやるかたない様子で戻ってきた雲居が、がちゃ、と乱暴に、はいていた太刀を鳴らした。さすがにそのままでは座りづらかったらしく、腰から抜いて脇に置く。
普段は入道を扱って空を駆る身だが、護法童子を模す姿を与えられた後に授けられた刀を、雲居は今も振るうことがある。
「はぁ~」
村紗がため息をつくのを、雲居はじろりと見やった。顔見知りにして長いつきあいの舟幽霊は、なにか言いたげに寝転がったまま、しかし何も言おうとしない。
元々、寅丸と白蓮の様子があまりにひっ迫、というか、ひしひしと二人の間にひしめくような何かが見えたため、というのを口実に、いやしくも後をつけたのは雲居である。その後、室内の様子をやや離れて聞き、出てくる寅丸を隠れて見送ったえ、それに続いて出てきたぬえが、いやしげに血のにじんだ指を舐めとる仕草を見せたことで、思わず邪推(とも言えないようではあったが)して、気づけば斬りかかっていたという次第だ。村紗のはっきりしないが何か言いたげな様子をあらわに見て、文句の出る口もない。
「なにやってんのよ、あんた」
村紗はのんきな口調で、のべんと寝っころんだまま言った。雲居は沈黙を保ち、文机に座って、その横で聞いていた寅丸は沈黙を保ち、壁によりかかっていたナズーリは、半ばに足を投げだしたまんま、これも何も言わない。何か言いたげではあったが。
沈黙が重く落ちた室内に、もう一度、村紗がスゥーッとため息をついて、ごろんと寝がえりをうつのが聞こえた。
「こんなことなら、聖を封印から解かない方がよかったかしらねぇ」
「あん? 何よ、いきなり」
「私はさぁ、いや、ま、だってこんなんじゃねぇ。ほら、別に私だって元々、封印から解けたからって、だからって聖を迎えにいこーなんて、そんなこと初めっから思ってたわけじゃないし」
「何言いだすのよ」
「聖が可哀想だってのはあったしさぁ。まったく千年も経ちゃあ、目ぼしいやつらもみんな死んじゃって、誰か封印解こーかなって気になっているかと思いきや、あの薄情もん共ときたら、封印したらしっぱなしでさぁ。このまんまだと放っとかれちゃうんじゃないか? ってことで、星さんに拝みたおしてあーやって色々騒ぎ起こしたわけだけど、はぁーっ」
村紗がのたくたと言うのが気にさわったのか、表情をしかめ面にして何か言いかける雲居をまるで無視したまま、村紗はごろごろと畳を転げながら、だるそうに続きを口にした。
「それが何かさー、さっきの一輪もだけど、その前も? 何か怒らすようなことしてたみたいだしさ、星さんが。まぁ星さんのうっかりとか先ばしりは昔で慣れてるけど、だからって、それで聖が……。あーもう。本当にねぇ、あんたら何やってんの、なに、そんなに聖が心配なわけ? 心配殺しにしたいわけ? どーなのよ、お? うん? 聖がのんびりやろうってところをそんなに邪魔したいわけ? ま、邪魔ってのも大げさだけど……あーもう。聖がいいわよって連れてきたのを危険だの何だのなん癖つけて光り物さらっと抜くわ。はぁー。何、何、あんたら聖をどうしたいわけよ」
「だぁから!!」
「だぁからっ!!」
雲居が怒鳴るのに怒鳴りかえして、村紗は寝転がったままの体を起こして、すたん、と立ちあがった。
「私は聖が可哀想だから助けに行ったっつってんの!! 同情してんの!! 別に好きとか嫌いとかそんなんじゃなくて!! ったく! あんたも、星さんも、何だかうじうじうじうじうじうじうじうじうじと昔のことにこだわってさ。肝心の聖がどうかっつうのが頭から抜けてるっつーか、おう、もっと熱くなれよ! 昔を思い出せよ!! 何!? 私らが聖と一緒にいたのは何で、今一緒にこうしているのはなんで? 聖と一緒に暮らしたいからでしょ!? 聖の笑顔が見たいからでしょ!? 聖の悲しむ顔なんか見たくなかったでしょ!? 忘れたのか!? え!? おい!? それを、それを望む私が、あんたが、私たちが、聖を困らして、どうすんのよ!?」
「なっ、なっ、そっ……」
「村紗――」
「はい!」と村紗は言って、びし、と指を突きつけて、雲居、寅丸、ついでにナズーリンも制するように(ナズーリンはなんか勢いだったようだが。当の本人は目を不機嫌そうにまたたかせている)指してから、ばん、ばん、ばん、と手をたたいた。なんか無暗に眉を吊りあげて、きっ! とした顔をして。
「はい! 黙れそこ。言い訳すんな。はいはいはい、とりあえず立って。はーい! たのしい命蓮寺、聖いらずの非常召集会議始めます!! はい、それでは皆さん奥の間へゴー。レッツゴー。はい、立って立って」
「なによ全く……」
ぶつぶつと雲居が言うのに、ナズーリンがさっさと立ちあがって、肩のロッドを鳴らしながら部屋を出ていく村紗についていくのに、やがて戸惑い気味に立ちあがった寅丸が続き、「……ったく」と、最後に、仕方なげに雲居が雲山を肩にのせて続いた。
ぱたんとふすまが閉められる。
外。
「……おん?」
折りからの雨にも気にせず、屋根の上でぐーすか寝ていたぬえは、急に動きだした寺の屋根に放りだされるように、ふわんと浮きあがり、そしてもう一度、今度はあっという間に姿を変えた舟の甲板に降り立ち、またごろんと寝転がった。
「この夜中に騒がしいわね~」
「ぎゃあ~っ!」
と、悲鳴が聞こえたので思わずそちら側を見ると、どうも同じように昼寝をしていた唐傘娘が、気づかずに転げ落とされたようだった。
「あー」
ぬえは言いつつも助けず、また夜雨の中をすうーっと気持ち良さげに眠りこけはじめた。
船内。
あらかじめ、白蓮の部屋の前を通り、「あ、聖ー。ちょっとこれから舟動かしますねー。気をつけてくださいねー」と言いっきりで、「え? ええ」という白蓮の返事も待たずに舟を動かしはじめた村紗は、今、奥の間の、ちょうど座を組んだ形の(といって、各自座布団ももたずに、村紗がどこからか持ってきた白板の前にばらばら散らばっているだけだが)面々に向かって何やら話を始めていた(舟の操縦については、雲居が聞くと、この間、いつのまにか里の賢者とかいう金髪の妖怪と取りきめた安全運航速度を守っている、ときりっとして返してきた)。
「それはともかく」と、きゅきゅきゅ、と黒ペンで書きあげた文字は、「交流会」という単語となって、白板に浮かんでいた。
「というか、親睦会ね」
「親睦会? そんならいつもあんたがやってるじゃない、ほら舟の体験搭乗会とか」
「そういうんじゃなく、酒。つまりぶっちゃけて言っちゃうと宴会です」
きゅきゅ、と、酒、宴会と書いて、ぐるぐると宴会の部分を強調して、村紗はびしばしとした口調で言った。
「宴会ィ?」
「そうよ。鬼も妖怪も人も、くさくさしてることを忘れてふっとばすには酒と宴会が一番」
「そんなのあんまり現実的じゃないんじゃない? ほら、この里の」
「まぁ、黙って聞きなさい。ここでの上官は私です、ここ私のなかなので」
「上官……」
「あ、返事の前と後にはサーとかつけなくて結構です、私らが用意したもんじゃたしかにここの里の住民達も警戒するでしょうし、そういったものは私のツテである里の賢者様と亡霊の姫様にお願いしたいと思います。上白沢っていう人にお願いしてもいいんだけど頭が固いって噂だから仲立ちなしじゃそうそうほいほいと動いてくれないでしょう。で、私らも当日には説法とかそういうことはしないで、各自演しものをやります。聖は話が長くて頭が古いので客席に座って、里の住人達と近いところで楽しんでもらいます。交流会当日には皆さん聖を楽しませるつもりで、一所懸命励みましょう」
村紗の言うことに頭がついていってないというわけではないが、各自、いきなりペラペと話が進んだことに、あまりかんばしくない反応を示しているようだった。
「はい」
「はい」
「里の賢者様と上官どのがどういう経緯でコネを持ったのかが気になるんですが、そこは聞くところですか?」
「聞くところではないです。ご想像にお任せします。まぁ当日は私のこねくしょんの広さをぶちあげてやるからよまぁ見てな。何度も言いますけど演しものはちゃんと見れるレベルに練習しとくように。あ、舞台とかもやりましょうか」
「サー・イエス・サー」
「舞台?」
「ポールダンスはだめですよ」
「ぽーるだんす?」
「何かこう、棒に捕まって腰をこう、ぐいん、と動かしたり性的にいろいろ問題のある踊りのことです。人を集めるのは夜遅くになるより浅宵くらいで終わるのがいいでしょうからそこらへんを段取って調整していきましょう。私らがまず考えるのは演しもののことですね」
「ぽーるだんす……」
「はい」
「はい、またナズーリンさん」
「わたしたちも広報とか周知とかしたりするの?」
「もちろん。実はすでにそのための案も用意してあるわ。……あ。ありがとう。いや、ご苦労。はい、各自見といてください。これがそのための広報用用紙見本」
「こ、これは……なぜ半脱ぎのふしだらそうな聖が来てね(はあとまあくなどといかにも社会道徳的に問題ありそうに」
「いえ、こないだちょっと仲良くなったはたっちゃんていう烏天狗にお願いして念写してもらったものでこれはイメージ映像です。実物とは胸とかボリュームに若干の」
「最後まで聞いてやろうかと思ったがやめだぁーッ!! フシャァァーッ!!」
「ギャァァーッ!! フ、フカーッ!! フカーッ!!」
「ナァォォーッ!」
「まぁこれは刷り直しの方向で」
「そう言いつつ何で仕舞ってるんですかね」
「え? いや、ほ、ほら。これはこれで貴重かな、っていうか」
「あー。はいはい。れずれず。すいません変態の方はこの線から下がって話してくださいね」
「あっ…」
「ちょっと誰がヘンタイ女色者よ!? わたしが聖に抱いているのはあくまで」
「はいはい、あ、すいません声でかくしないで目と耳を塞いでていただけますか」
「少数派がでかい声立てるとへこむわー。ギャーッ! フ、フシャーッ!! ナォォン!! オォン!!」
「フシャァァァァァァ!!」
「話を聞けよ! だからわたしが」
「あっ! ちょっと、ぬえ。あんたもはまりなさいよ。今大事な話しあいしてるから!」
「は? やーよ。私お風呂入る。わかすわよー」
「あーあー勝手なやつねー」
ぎりぎりと寅丸と取っ組み合いを演じつつ村紗が言うのを、「わたしは正常だ!」とか騒いでいた雲居が思わずと言ったていでじっとりと見とがめたが、なにか言おうとするのを、がらっとふすまが開く音と、「ちょっと!!」という、若い娘っぽさげな声が遮って、ついでぎゃーぎゃーわめきだした。
「何いきなり舟飛ばしてんのよ! 事前に連絡しないから屋根で寝こけてた私が泥まみれじゃない! 私が妖怪でなかったら死んでるところよ!」
「おや、船長。人手が来たみたいだよ。主に見た目的な意味で」
「は?」
「あら本当ですね……! うん……!? ひょっとして、聖使わないんならこの子を広報用に使えばいいんじゃないかしら、派手さでは負けてないし」
「は? 何だか知らないけど謝罪を要求するわ! あとお風呂貸して!!」
「いいわよ、どーぞどーぞ」
「ふむ。体型的なボリュームでは負けるが、逆にそこがいいという人が多い気がするね。控えめかつ無邪気な妖怪らしさとちょっと余裕ない下っ端ぽさがあわさってチャーミングかつあいどるマスコット的な可愛らしさというものを体現している。グッド」
「そうね。明日にでもはたっちゃん呼んで撮影して刷りましょう。あ! 季節的に水着かしら」
「何でそっちの方向にいきたがるんだァーッ!!」
「ヒャア!!」
「いや、普通にあのまんまでいいんじゃないかな。船長、人はときに健康的な美しさを求めるものだよ。で、水着は黄色のビキニかな?」
「オッケーグッドよ同志。念のために何パターンか撮りましょう。ついでにあの子にもなんか演しものをやってもらうってことで、どうかしらん!?」
「君ならきっとそう言ってくれると思っていたよ、オーケー船長。聖にいい報告ができそうだ」
「もちろんよ同志!」
ぎりぎりと、取っ組み合いを続けながら、村紗はぱちん、と、何かを通じ合った顔で、ナズーリンとタッチをかわした。
で。
間。
しばしして後。
夜の奥間。
「失礼いたします」
ナズーリンは、中に声をかけて、ふすまを開いた。白蓮は書き物の途中のようで、寅丸達が送ってきた巻帳を見ながら、こちらは古い紙でできた帳面に、何か書きつけていたが、ナズーリンの声を聞くと、「はい」と、返事をして、姿が見えると、筆を置いて、膝をナズーリンの方に向けてきた。
「よろしかったですか?」
「ええ。何かありましたか」
「ええ」
ナズーリンは穏やかに答えて、白蓮の顔をまっすぐに見た。特に意味があってのことではない。
(ふん)
「船長達が何か聖のために催しものを、と。今、その準備と調整を進めているところです」
「催しもの、ですか?」
「ええ、何でも、人間の里との交流会だとか。発案者は船長ですが」
「交流会、ですか。へぇ……」
「先刻よりあまり良くない気が漂っていましたから。それを酒と宴でさっぱり洗い流そうということのようです。聖にはまだ言う気はないようですが、固まってからまた船長あたりが来ると思いますから、その時はよろしくお願いいたします」
「そうですね。交流会ですか。楽しい話でよろしいですね。酒も宴も、人妖共に相容れるのにはよろしい場ですから」
「聖の同意を得れば、がぜん皆も張り切るでしょう。このような里の中です。一時くらいは人と妖の垣根を近くするのも、必要なことではないかと」
「ええ、このような里の中だからこそ、ですね。この里の人々は、皆生まれてよりそのことを知っている。それが今の世でいいことかどうかは別にして」
「いいことだとは思っていない、というのですか?」
「いいことではないでしょう。人も妖怪も、そこにあるものは有りのままで。在るがままで。人から堕ちた者も怨みにさ迷う者も、ただ流れの中で。この世で良きことはただ一つ、虚無であることです。有為であることです。残念ながら、無為たるものはそこには入らない。この里もその一つ」
「この里も、ということは、あなたは、この里のことを良きものとは思っていないのですね?」
「思ってはいません。しかし、また言うこともない。それは渡世、というものです。この哀れな郷で暮らすための」
「哀れな郷、ということは、あなたはこの里で暮らしていることを、心良し、とは思っていない、ということですか?」
「もちろん、思ってはいません。しかし、それを言わぬことも、また渡世であると思っています。仏の教え、法界の光の中に生きる影、その影をこそ許し、情けを施すことが仏の道。わたしは、まだその中に在る者であると、自分自身に言い聞かせ、また、他人にもそう言い聞かせることで、ここに在ることができている、そのような小さき者です」
「それは、仏の教えに則っているわけではないですね? あなたは、すでに仏の教えを説く資格が、自分の体には存在していないと、自分で決めている。そして、それは、決して強さや潔さがためではない。そのことも、また同様に知っている」
「知っています」
「しかし、知っていると同時に、あなたはまた、自分自身が自棄を起こしてここに居るのでないことも、自分で決めている。だが、同時に、決然とした目標がもはや見えないことも、また知っている。自分が全てを失ったまま、取り戻せない者であることを知っているのですね?」
「知っています」
「では、あなたは、なぜまだ生きているのですか?」
「なぜわたしがまだ生きているのかは、それはわたし自身が、自分がなぜにまだ生きているかということを自分に問い求めていないからです。それは、自分自身ではなく、他人に問い求めているからです。それも、そのことを声には出さずに」
「……。……なるほど。あなたが声に出さなければ、確かにあなたはまだ生きていられる。しかし、声に出せば、きっとそれは失われ、ばらばらに砕け散り、やはり失われてしまう。いや――」
「そう、声に出さなければ無くならないという類のものではない。ならば、わたしが声に出さなければ無くならないというのは大嘘で、それがそこにあると思うのも、また幻想といえるでしょう。しかし、わたしはそれも知り、また自分が知っているということにもまた、知らないふりをして、そうして、生きている」
白蓮は穏かな物腰で答えた。
「それもまたあなた曰くであるところの渡世、ですか。いや、違うな。――そうか」
ナズーリンは少し考えてから改めて言った。
「渡世は、この世を渡り歩くためのもの、それは決して悪というわけではなく、むろん、仏法には悪は存在すれど、何かを悪徒にするということはなく、同じく善徒とすることもなく、そもそも善と悪を分けるのは人の考え、この世の考えであり、あの世の考え、仏の考えではない。仏とすれば善と悪とはただの幻想である……」
「仏にすれば善と悪とはただの幻想である。概念はあれど実態は存在しない。実がない。あるのはあの世で仏が授ける、人がこの世で犯した罪の為の罰、魂の穢れをそそぐための裁き。閻魔大王天尊様のお言葉、そして魂の贖罪と、大いなる方々の赦し。その前には、この世で犯した罪など、手の平を這いのぼる蟻ほどにも、いえ、命はみな手の平の上に平等とするならば塵芥のごときと言えましょうか」
「ならばこそ教えてください、あなたは……、いや、そうか。……あなたは、自分がこの世に生きていることに、何の価値も見出していない。つまりは、そういうことですか?」
「ええ」
微笑んで、白蓮はそう言った。淋しげでも、悟りでもない、ただの空ろな笑み。そうナズーリンには見えた。
「何も、草や木と、花や鳥と、そこに在るのが自然である、そのように、自分も在りたいと、何も、そのように言っているのではありません。この世が無常であるとも。あるいは、虚であるとも、わたしは少しも思ってはいないのです。虚は、そう、虚は、わたし、そう、虚は、無常は、虚無は、そう、このわたし、このわたしの、この私の中にこそある。心の虚(うろ)。永遠に失われた痛みのない心。全てのかかる心を払いのける心」
白蓮は、大げさな身ぶりもなく、ただ語るべきことを語る風に、ナズーリンに、いや、それと共に、自分自身に応えかけていた。虚無。
「払いのける、ではなく、何も感じないのでしょう。あなたはあなたの周りにいる者達の心も……。そうか、だから、……だから、生きていられる。あなたは、人の心を受けてなおそれを吸いこんで、何もない、法の光の射さない、まっ暗な、その胸の内に、何もない胸の内に吸いこんでいて、なおかつそれを感じさせない、普通の人間としてこの世にある姿として、決定的に、壊れ失われている人。そしてそれでもなおかつ人間の姿である人。人外になることを自ら選び人外になった、聖白蓮という者の、ぬけがら。人の形。あなたは、もう生きても死んでもいない、その姿はまさしく『本物の』妖怪そのものだ……」
ナズーリンは淡々と述べた。その間も、白蓮は何も感じず――いや、感じているようなふりをしてはいた。本人にとって、実に無自覚に。
……。妖怪。
柄にもなく、ナズーリンは、もしも自分が人間だったら、と考え、くだらないことを、それがくだらないことを自覚した。
もしも人間だったら、今の話を理解していたのなら、そういう聡い人間であったなら、この女性の前で、吐瀉物(へど)をぶちまけていただろう、と思った。
妖怪。人ではないもの。正真正銘の。
「あなたは、なぜ、今ここに生きているのですか?」
「分かりません。しかし理解はできます。わたしは」
白蓮は、ふっと目を閉じた。
「わたしは、わたしの周りにいる者達からの価値によって、日々を聖白蓮として生きている。あなたや、いえ、あなたはいなくてもいい、そう、あなたの上司である星や、一輪や、ムラサがわたしを、もう何もないわたしを聖白蓮としている。昔のように。もしわたしが消えるとしたら、それらの、人から受ける価値の形が無くなったとき。わたし自身は、この里の有様に自分の理想が正しい形で実現されているのを見て、満足をしたと確信し、そのときに消えた。残りのわたしが消えるのもそう遠くない話だろうと思う。そのときまでは、決して死なないだろう」
「あなたは、自分がこの世にいることに価値を見いだしていないのですね、もう」
「そのわたしは、とうに失われました」
「そうですか、ありがとうございます」
ナズーリンは、話を切りあげて、にこりと笑うと立ちあがった。そして、また一つ礼をした。
「お話が聞けてよかった。それでは、残りの余生を、どうぞお楽しみに」
ナズーリンは深く頭を下げ、部屋を辞した。
間。
命蓮寺。
屋根の上。
後日。
「……むにゃ……、……それから、どしたぁ……」
屋根の上で呑気に寝ていたぬえが、むにゅむにゅと寝言を言った。
初夏。
交流会、もとい親睦会の話は、けっこう順調に進んだ。
過日。
同じく命蓮寺。
ぬえが寝そべって寝言にうつつを抜かしている屋根の下では、今日、この命蓮寺本堂を使っての盛大な宴会、もとい発表会もとい交流会のために、慌ただしく準備が進められ、この度のことに賛同したり便乗したり、様々な立場や理由を見せる人妖達が、準備の手伝い、あるいはその手伝いの邪魔になりに命蓮寺の敷地内をところ狭しと占領し、動きまわっていた。
「は~、ったく。忙しいったらありゃしないわね。あれ、星さん! ぬえは?」
「見てないわ。え~と料理の手配は、と……あら、座布団の数足りてたかしら? 確認してこないと」
「あ~そういうのは誰かに任せてよ。星さんはこっち来て!」
「ナズちゃんこいつはこっちでいいのかい?」
「ああ、悪いね」
「まったくだ。にとり、覚えてなさいよ、いくら木っ端とはいえ天狗をこきつかうとはいくらお山の同友とはいえ」
「口うるさいもみちゃんだねぇ」
賑わいを見せる寺の境内に、本堂の会場設営、演しものの準備、料理、呑みもの、飲み物の手配。
「ふぅ」
白蓮はその中にまぎれてこっそり息をついた。さすがに、あれこれと気をまわし、最近にはまったくなかった活気の中に身を置くと、気に充てられて、まるで春の陽だまりの中に身をさらしたような、むくんだ心が洗われるような心地がする。
時が経ち、あっという間に夜となり、命蓮寺は多くの人で賑わっていた。噂の尊い、(かつ若いということで邪な気持ちでもちろん来る者もいるが、おおむねはそういうことを表向きにしつつ)尼僧様、聖の名を持つお方がいるとは聞きつけていたが、まだ目にはしていなかった人々も加わり、会場の本堂、そして境内は、酒の匂いも、いやいや、「般若」の匂いも相まって、わいわいがやがや、とっぷり日も暮れたというのに、夜の妖魔もつられて足を踏みいれてきそうな、そんなよい気につつまれたもりあがりを見せていた。
(よい気……)
「えぇ、流行りの寺とかけまして、姐さんの白い御々足とときます。その心は」
高座(急きょ、本堂に設えられた幕つきのものだ。村紗が知り合いの河童を連れてきたら、たったの一昼頃でやってくれたらしい)にのぼった雲居の演しものを興ずる声を聞きつつ、特に当てがあったわけではないが、白蓮はつ、と座を立って、人々の集まる本堂を抜けだし、寺の中を歩いていった。宵気。
空にうす陽炎のほとぼり月が色を掠めて上がり、暮れなずむ景色が色褪せた記憶を呼び起こす宵だ。酒を嗜む趣味のあった弟を思い出し、ふと奥の間にひっそりと置いてある、まだ作ってもらったばかりの弟の戒名を彫った木の棒に、こっそりと酒を捧げ、自らも袖に隠してきた小さな猪口で、誰もいない暗い部屋で、人目を気にするそぶりだけわざとしつつ、持ちだしてたた酒を嗜み、過ぎ去った日々に記憶を馳せる。
最後に、ほんのほろ酔い程度に呑んだ気を隠しつつ、また本堂の座へ戻る途中、ふと、目に入った人影が、こちらを見ているのを見て、白蓮はそちらへ目をやった。
蓮因だった。
御仁は、どうやら本堂から出てくるところのようで、酔い気混じりに外を歩いていた白蓮と、偶然目が合ってしまったらしい。
蓮因はじっと、ほんのつかの間、白蓮を見ると、やがて両手を合わせて会釈をした。
白蓮は、それに思わずながら会釈を返し、そうして御仁が、宵気の混じった、先程、白蓮も、また、同じようにして見上げた空と、空の色とに目をやり、やがて、白蓮に背を見せ、帰っていくようだった。
それをじっと見ていた。
暮れなずむ空に馳せた想いが、今の御仁と、同じであることを祈りながら。
バンプ・オブ・チキン / ロストマン
千年。
幻想郷。
ごおん、ごおん、と、鐘の音が響くような音を立てて、鉄さびた色の舟が一隻、頭の上をゆっくりと飛んでいく。
「……」
ナズーリンは、肩にかついだロッドを、とんとん、と鳴らすと、さて、ともなんとも言わないが、なんの前触れもなく歩きだした。
(に、してもここはまた、暑さの堪えるところだわね)
思いつつ、服のすそをぱたぱたと扇ぐ。
元の姿が毛玉なので、そのぶん、ナズーリンは、暑いのが好きでない。肩まで駆けあがってきたネズミの喉もとを、適当な手つきでなでて、もの思いしながら、どこか目的のなさげな足どりをとる。
もちろんのこと、具体的な予定もなしに、わざわざ彼女は出歩いたりしないたちなので、今日も、これから、なにやら、妖怪の山と呼ばれる、この里でも風光明媚でしられる、まあそのかわりこの里の妖怪どもの拠点のひとつでもあるらしいのだが、そこへ足を向けることになっていた。
(まぁ、余暇つぶしぐらいにはなるよね。……気は進まないが)
ナズーリンは思いながら、のらくらとした歩調で道を歩きだした。
約束の時間まではまだまだだったし、たまには寺の連中と顔をつきあわさずに過ごすのもよかった。
(まあ、なんだ)
伸びをしつつ、ナズーリンは涙ぐんだ目をまたたいた。初夏をむかえたばかりの緑は、若々しく光り、獣の変化に特有の、瞳のなかに縦にさけたような眼球のある目を、ゆるく、まぶしく射してくる。
「……。……」
ふぁ、と、ちいさくあくびの余韻をのこす口を閉じつつ、ナズーリンはもう一度肩のロッドを鳴らした。年寄りくさい。
「自分でいってりゃ世話ないっつうの……」
悪態をつきつつ、ナズーリンは、森の小道を歩いていった。
同刻。
霧の湖。
そのまんなかの島にちんまりとたたずむ屋敷。
門前。
「たのもぉーーーーーーーーうっ!!!」
と、とつぜんドでかい声をはりあげた僧服(といっても男ものだ)姿の娘のまえに、この屋敷の門番をつとめる中華娘然とした妖怪が、動きを止めつつ、対応や反応のしかたにこまった顔をして、立ちつくしていた。
「……。あ、失礼しました。ええと、紅魔の主さまの館というのは、こちらでしょうか」
「は。え。あ、ああ……」
「どうもいきなり失礼をいたしました」
「いえ、まあ失礼というかなんというか」
「どうも、申し遅れまして。わたくし、近頃里のはずれに引っ越してきた寺の僧でございます。このたびは新参ものとしてせんえつですが、挨拶回りなどしていまして、あ、ちなみにお屋敷の主さまはお出かけでしょうか?」
「えぇ……いまちょっと恒例のお茶会に行ってるみたいだけど」
「そうですか、それは失礼をいたしました。ところで、こちらの主人さまは檀家はどちらにお持ちでしょう? 仏法に興味はおありでしょうか? わたくしどもの寺尊では――」
別所。
幽冥の結界をこえたさきにある桜の名所。白玉楼とよばれる、冥界の屋敷の庭。その門前。
「どうも、急に失礼をいたします。私、近頃こちらの里に処を移して参りました、里外れの寺の者でございまして。――ええ、失礼ながら、ご主人さまがたは在宅でありますでしょうか? 昨今、新参者の礼儀として挨拶回りを兼ねまして、ぜひとも私共の仏法の経を上げさしていただきたいと思いまして、僭越ながらですが、お目通り願えればと思っておる次第でございます。ええ、この縁をきっかけに、よろしけるなら、私共の寺で催す種々の説法会にも足を運んでいただきたいと――」
目の前でとつとつともうしのべる仏天様のような服を着た娘に目をぱちくりとさせつつ、たまたま応対にあたった白髪の少女が、「はあ」と、返事し、ちょっと顔を曇らせぎみにして口を開いた。
「あのう、こちらは冥界ですので、そういうのはちょっと困るというか、なんというか、ええ――ほら、線香の香りとか、わたしたち成仏たりしますし――」
また別所。
とある高い峰々の上に建つドでかい神社。
境内。
「……」
「あら、どうもあらためまして」
実に風変わりな、というか奇抜な髪色をした、僧服を思わせる、黒い長衣の娘が、目の前で微妙な顔をしている、これまた奇抜な、白と青の衣装に身を包んだ、まだ年若い娘を相手に、かるく手をあわせながら言った。
「えーと……」
「はい。あらためてご挨拶にあがりました。今日は、近頃、里の近くに寺をかまえましたもので、その住職につく身としてごあいさつと、それとできれば説法をあげさせていただきたく思いまして」
「ここ神社なんですが……」
蒼と白の服の娘は遠慮ぎみに言ったが、めのまえの長い髪の女性には、通じず、(あるいは通じないふりをされたか)
「あら。仏の道を広めるに、神道も妖魔もございません。神がたがそうであるように、仏道もこの世に悪をつくらず、ただ平等に接するばかりでございます。仏の道に帰依すれば、あなたも、またこちらにおわす二柱のかたがた様も、みな仏門、あるいは仏神となられることでしょう」
「私はまだそんな気はないんだけどね」
と、蒼と白の娘の隣に立っていたこれまたその蒼に似た深い色の髪をしめ縄のような飾りで結いあげた娘、いや、女、といったほうがいい、妙に貫禄と近寄りがたそうな気を発している女が、娘の横から、にがにがしげ、かつちょっと面白そうに口をはさんだ。
「全く、いい度胸の聖どのだとは聞いていたが、百聞は一見にしかずよね。早苗。気圧されるのはわかるけど、油断しちゃだめよ。こういうくわせ者は」
「べつに私は」
「これは失礼をば、そのような印象をあたえたとは悟りの道行く者として、あまりに迂闊でございました。どうぞひらに」
不可思議髪の女が手を合わせて礼をするのを、くわぁ、と言いたげな顔で、蒼髪の女は微妙に微妙な顔をして、しっしっと女に手の平を振る仕草をした。
「あんたのような輩は苦手だな。さ、いいから帰った帰った。坊主の言うことに聞く耳持つほど、こっちはまだまだ安くないのよ。勧誘ならもっとこちらが衰えてから頭ごなしに救いの手をのべなさいな。それが仏道ってものでしょ?」
「まあ、そのようではありまするが、それは言わないのがまたしきたりというものでございます。――それでは、今日のところは挨拶ばかりに。どうぞわが寺の寺尊、毘沙門天様の御名をばよろしくお願いいたしますよう」
「……。あん?」
「はい? ですから、わが寺の神、毘沙門天をよろしくと」
「早苗。ちょっと塩をもってきなさい」
「え?」
「なるほど。そういうことか。うん、うん。わかった。わかったから、いまから半刻またずにここの敷地からその足を退けて回れ右をしろ」
と、いうわけで。
数刻後。
聖輦船。
内部。
「ふぅ……。まったくいきなりなにされるのかと思ったわ。急に怒りだすんですもの」
「すいません、聖。うっかり教えておくのを忘れていました」
「いや、そこはうっかりしていいところなの?」
船の内部にもうけられた乗船用のスペースに、白蓮、村紗、寅丸、雲居ら、命蓮寺に住まう面々が、冴えない顔で(村紗だけはしれっとした呑気顔で、ちいさく欠伸などしているが)あつまって座を組んでいた。
「……、で、なに? 結局今日も収穫なし?」
村紗が欠伸を終えた涙目顔で言うと、いつもこういうことに目をとがめる雲居が、さっそく眉をひそめ気味にした。
「あんたにどーこー言われたくないわよ。ていうか、なんであんたは動いてないの。ちょっと働けよ」
「わたし、キャプテンなので……まぁ、そういうのは抜きにしてわたしの仕事じゃないし、そういう宗教的な勧誘とかは」
「はたらかざる者くうべからずって人間の偉い人が言ってるわよ」
「妖怪だし」
「てい」
「痛っ」
「ほら、一輪、やめなさい、聖の前で見苦しい」
寅丸が注意するが、その肝心の白蓮は、もの思いにふけっているのか、なにか考えこみながら目を伏せがちにしていた。とにかく目下のところ、新参者の命蓮寺勢にとっていま重要なのは、里においての人間たちの信仰を得ることだった。
最初のほうこそ、ものめずらしさとこの里特有らしい、ものみ高さ(ヒマだからであるが、ようするに)がてつだっての噂の広まりでどうにかこうにか繁盛してきたのだが、まぁ、人も妖怪も薄情なもので、一時期のがやがや騒ぎがおさまると、騒ぎの中心となったものに対する興味も、さざ波が引くように失われて無くなっていくようで、一時は盛り上がった信仰の波も、ひとところに根を張るということなく、結果として命蓮寺の面々が期待していたような人の心のよりどころというものも、思うとおりには得られなかった、というわけである。そのようなことが目下の白蓮の、または命蓮寺そのものの心がかりの種だったし、目の前でくりひろげられるいつもの雲居のしかめ面と村紗の雲居の手に拮抗する歯ぎしり顔と、それをたしなめる寅丸の眉をひそめた顔というほかの者が見たらわりと心がかりになる光景さえもまったくの素通りで考えさせる原因だった。
「ん? そういや、ところで、星さんとこのネズミの大将は? このいそがしいのにまさかサボり? けしからない!」
「あんたが言うんじゃねえ」
という村紗と雲居の歯ぎしり合いをしながらの言葉に、白蓮は、ふと顔をあげた。
「ああ、ナズーリンなら、今日は所用で出かけるとか言ってましたよ」
「え? そうなんですか?」
寅丸が、二人をひきはがそうとしながら白蓮に言うと、ぎりぎりフシャアーッ、ナォーッと歯ぎしり合いをしていた村紗が、半眼になって寅丸を見た。
「え? て、星さん、ナズーリンの上司でしょ……行動把握してなくていいの?」
「……まぁ、白蓮が知ってればいいことだし」
「いいのかな~。あ、いいわよそんなに仕事してないとか疑ってるんなら案くらいは出すわ。名づけて命蓮寺信仰☆復活☆ドキッ! 水着だらけの聖大会! ~ポロリもあるよ! 大作戦! まずは……聖が 服を」
「そこまでだァーッ!! フシャァーッ!!」
「ギャァー!! フカーッ! フカーッ!」
ついに寅丸も村紗に襲いかかるのを見つつ、白蓮はふうむ、とまた考えこむ顔になり、何事か深い思索にふける様子になった。
同刻ごろ。
妖怪の山。
滝。
滝、というか、正確にいえばその裏にある水しぶきの届かない洞窟のなか、ぴちょん、と落ちる水滴をちょっとながめて、ナズーリンは話の続きをつづけた。
「ま、なんだ、だから仕事なんてのはさ、おりあいなんだよね。やっかいなもんだよ。そう、やってるほうもやらせてるほうも、別に恨みつらみでやるわけじゃなく、仕事だからってことでさ。仕事、仕事、仕事。こまったもんだよね。わたしが思うにこんな言葉自体が無くなったほうがいいんじゃないかと思うわけだよ。どっかの偉いあの世のお方もそう言ってると仏法は言ってるわけだけど、まあ、これも思うにだけど、無くせるならとっくの昔に無くなっているもので、無くならないのは、これが言いわけとしても理由としても金をかせぐはけ口としても殺生にいたる口実としても気軽で便利で、ものごとの重さというものを、ぐんと軽くしてしまう狂ったもので、この世にあるのが間違いだということを、まぁうすうすは気づいている者がいたとしても、そこから外せないもので、なくしたとしてもなくせないものなんだと、そして、もし無くなったとしてもだーれも損する者がいないんだとしても、その重要性が底上げされすぎてて、又は ――こっちのほうがきっと本音に近いんだと、たぶん言われんだろうけど、もう惰性だよ。我が本尊様はそういうことはわかっていても口に出さないことだ。お前が口は喋りがすぎる口で、そのほとんどはお前が頭のよさのうえに、本質に近いところをついてしまうだろうが、そのほとんどはお前が身には、よくないこととしてふりかかる。口を閉じることをこころがけ、真面目にときには悪行とすら思える、たとえば「仕事」でさえも黙々とやることだ。それが渡世というものだ。わかってくれたら、わが少々たりない弟子者の面倒を見てくれりゃ。……などと言ったものだけど」
「ふーん。なるほどねぇ」
河童の河城にとりは、それにふたつにくくった青い髪のうえの帽子の中をこりこりとかきながら、聞いているんだか、それとも話半分に聞き流しているんだかわからないようすで応えつつ、ぱちん、と大きな将棋盤をならして、あごの下に手をやった。
「もちろんわたしは本尊様に帰依されて仏法の世界にはいった身だから、たのまれずとも本尊様の言うことに従わない気なんかないわけだし、こいつを仕事とも思っていないんだけど、まあ仕事っていわれりゃ仕事ってことでウチの上司さまのおひざ元をちょろちょろしながらいろいろとこまいことをやってるわけだし、――まあ、またこういうこと言うとうちの本尊様はにが笑いしてたしなめなさるんだけどね、とにかくそういう、うん、『渡世』? 渡世だよね。はあー、まぁ面倒だよね」
「うんうん、なるほどねぇ。……。ん。そうくるか。んー。……そうかぁ。なるほどなー。うんうん。なかなかおもしろい考えごとをしているんだねぇ、ナズちゃんは。わたしら妖怪のなかでもそんなこと考えてるのなんて天狗さまとナズちゃんくらいじゃないかねぇ。ほら、わたしら河童は腕はあっても、頭がアレだから」
むかいにいる仏頂顔の相手がパチンと将棋盤を鳴らすのを、あごをさすりながら考えつつ、河城が言う。ナズーリンはふんむ、とちょっと感じ入ったような半眼でちらりと将棋盤を見ながら、ちょっと話をとぎらせた。ちち、と、肩のネズミがちょっと退屈そうに感じるような鳴き声をあげるが、それを無視してまたかわかないのどをすべらして、話をつづける。
「たしかに妖怪にはこんな考えをするやつはあまりいない、というか、むしろこまいことを考えないのが妖怪という生き物であって、最初から格差社会や厳格な掟のなかでもないかぎり、考えごとをしながら生きるのは妖怪という生き物にとっては無駄だし大袈裟にいったら自分の存在そのものを否定している、理屈にあわない道はずれものさね。あの世のお偉いお方が見たら、もっと妖怪らしい生きかたをしなさいと説法されるところを、本尊様のご光明により、かんべんしていただいている、あさましくもおありがたいと、仏法に感謝しながら生きる小者というのが、わたしのような輩だよ。そも、妖怪というのは」
「ちょっと。にとり」
ナズーリンがまた長話をはじめかけるのを、別にさえぎる意図もなかったようだが、不機嫌そうに、河童の大将棋の相手、偉げに胡坐をかいて将棋盤をみていた白狼天狗が声をあげた。河童のほうはと言うと、それにパチリ、と盤を鳴らしながら、「うん?」と耳つきの頭のほうを見て、ちょっと考えた目をしてから、間をおいて口をひらいた。
「ああ、もみちゃんの番だよ」
「そうじゃなくて。何なのそのネズミ頭は」
「あれ? 自己紹介しなかった? ナズちゃんよ」
「そのナズちゃんてのはやめてほしいなぁ」
「それもじゃない。というかなんでいきなり説明もなしにそいつはここにいるのよ。よそもの立入禁止ってのはお山の原則で」
「えー? なにいうのさ今ごろ。てかせっかく私が友達連れてきたのにケチつくようなこと言うかなー。にとり悲しいよ」
「そういうことを言ってるんじゃないんだが……」
もみちゃんと呼ばれた白狼天狗は言いつつも、あまり友好的でない視線をナズーリンに飛ばした。
ナズーリンも、ちょっと肩をすくめると、この天狗が好きでないことをあらわしつつ、仕方なしに、といった様子をよそおって口を開いた。
「なんだい、いまさら帰れって? この山の天狗様方も結構頭の固いのがいるんだな。べつに山の住人がまねいているんだからいいんじゃないかね、ま、私も実のところ天狗は苦手だけどさ」
「ほほう」
白狼天狗は半眼の目をやぶにらみぎみにすると、袖に片手をかつがせる腕の組みかたで、威圧的な様子をしめしてきた。
ナズーリンもそれを見ながら、やれやれと両手を顔のわきにあげておてあげ、と、やや挑発ぎみにして、態度をしめしてやった。
「ほらほらよくないなーそーいう威圧的な態度。天狗というのは、とまれ木っ端に至るまでとにかく大酒のみの法螺ずき大言ずきで、きみら白狼天狗でさえ上にはへこへこしながら下賤な妖怪や妖魅や化生、人間たちには、驚かしたり悪戯をしたりする、存外たちの悪いところがあると聞く。そういったものには知恵のある高等な者には、もうちょっと自分をよそおったり平等を騙ったりと、個々に差が出ると聞くけど、これだとそのかぎりじゃないかもな。ま、きみ一人をあて馬にしてあげ足をとるようなのはどうかだけど」
「なるほど、風のうわさによれば郷のお寺の最近越してきた面々は、ちょっとふうがわりなことはいうが、あの天宝の守護者を任じ、軍事、軍学に志を与う鎧武者姿の武人と謳われる毘沙門天尊の方がその本尊にして縁深し、また使いの者も志深し、とのことだったが、こうも礼をたがえる者がその正体とあらば、もう一度調査の必要もあるやしれないな。まず第一に口の悪さがうたがわしいが」
「この程度でケンカ売ってるとか因縁ふっかけるようじゃもう天狗だめじゃないかな。ちなみにわたしはケンカは嫌いだ。この郷とあの弾幕とやらのたまあて遊びのごとき無意味さがそこにはあるからね。万難を排しての時の流れとのお別れを果たす姿はおのが要求をがんとして張ってそのくせ変革をきらうわらし子にもにているけど、そのうえでお山の大将きどる文字通りのお山連中には、まず水そうのなかで飼われる緑亀や雨蛙の存在意義をいちど思いやってほしいもんだね。ま、それも渡世ってやつなのかな、あえて考えないのは」
「ようし、ここは一発、すっかり白黒つけようじゃないか。といって弾幕遊びは私は無粋さ。こいつで決着をつけるのでどうだ」
天狗は言いながら、どこかからとりだした、こちらはふつうの大きさの将棋盤を置き、じゃらら、と白い桐の箱から、その上に将棋ゴマをぶちまけた。
「武辺天尊様のお使いと言うならば、策や謀には長けてるだろう? ま、否やというなら剣で決めても私は構やしないけどな」
「あらら」
大将棋の盤のまえで、半眼で難色をしめす控え目な河童をちょっと無視ぎみにしつつ、ナズーリンは無言でコマをとり、ぱちぱちとならべはじめた。
やれやれ。
まぁ、半刻をちょっとすぎたか、それくらいで勝負はついた。
「ぬぅ……」「……んん?」と、将棋盤(さっきまでナズーリンが面していたほうの盤だ。当然いまは天狗一人なのが、勝敗の結果をひかえめにものがたっている)のまえで一人途方にくれる犬耳頭は置いといて、ナズーリンは、また他方の将棋盤の前で、この隙にと長考の構えでいる河童の横に、あぐらをかいた。
「ま、さっきも言ったけど、地獄のおえらい方のお言葉をまぬがれて大手をふって歩くことをかろうじて許しいただいている小者がわたしだよ。そも、妖怪などというのは、その生まれが木のまたや草の根っこかから変じて生まれたようなもので、そのためにものの死も知らず、おのれの生の有難みも知らず、好き勝手、生のままにほん放する迷惑なやからで、仏の道ではこれに許しを与え、情けをすら乞えば与えるのが、この世の道理、とされている、では妖怪の妖怪による道理はなにかと言ったら、生のままに生き、仏にのみ情けを乞うようにするのが道理、としている。わたしら妖怪物の怪、畜生などというやつは、そもそも仏の道など覚えようとしてもその教えを受けられないのが常で、それはそも、妖怪が先にも言ったとおり、生も知らず死も知らず、生を疎み憎み死も知らず、といったものであって、もとからそういうようにできていて、その輩に仏の道を説いても、理解しようにも理解しないようにできていて、だからこそ、仏の情けを受け、人の情けを受けられない、か弱く、可哀想なものとされるのだ、と仏の道は説いているんだね。それじゃあわたしのようなものは、つまり仏の道に触れ、あえて帰依して罰に触れて在るものはなぜ在るのかといえば、それは妖怪は知恵、つまり仏の情けに触れるものであるがあまり、己の浅ましさに気づき、仏の情けに気づき、己のありように、どうしようもない憎しみ、可哀想というあわれみを気づき、はん悶し、ゆがみ苦しみ悲鳴をあげることができるのだ、ということなんだね。
生や死をしらず、その喜び悲しみ、怒り楽しみをもちえない者でも、長く生き、仏に救いを求めれば、あさましい己でありながら、帰依するきっかけを目覚めることができる。そのためにはまず自己を否定し、人を食うえつ楽を排し、行をかさね、己の頭で考えることをなさい、妖怪としても最も苦痛となり、罪となるおこないをかさね、苦しみなさい。そうして”苦”を知ったときに、はじめて仏の道に帰依し、神や化身、またはその使いとなることができるだろう、そう仰るのが、みほとけ様の教え、万物を赦す道と法なのだ、というのが、わたしが天尊様から賜ったお言葉でね。まあそれのために、いまわたしのような者がこうしてあることもできている、赦されているという理屈らしいね。ウチの上司どのはそこらへんを端折ってしゃべったりするけど。本人曰くうっかり」
「ほほー。うーん。何だか、たしかに少なくとも私ら河童にゃ、ほほー、というしかない話だなぁ。なるほどーといったら地獄のこわーいお方にお褒めの言葉をいただけそうだけど」
「まぁ人間たべなきゃわたしみたいな身分になれるかもって話だよ。どれが悪でどれが善かって話は仏法じゃしちゃいけないんんだってさ。たしか」
「ふーん。っても、この郷にいるやつらはムリそうだねぇ。人間はおいしいし、豊富に安定した食糧が供給されるおかげで今じゃその食のありようってものも変わってきてるくらいだし。ナズちゃんの話だと山にある加工工場とか良質カンヅメとか、そういうのは褒められたことなのかねぇ、それとも微妙なセン? 最近外から入ってきたまよねえずってやつのおかげで、いま、加工食のほうがブームなんだけどねぇ」
「缶詰はあまり好きじゃないな。若い連中は好みがかけ離れてるよ。それはいいけどおかげで外食業界のほうが衰勢なのが嘆かわしいわね」
「ま、このみとかあるからねぇ。私も外食派かなー。あ、ナズちゃん今度おいしい店紹介してあげよっか? 山で今度つくる新しい工場でも試作品のモニター探してるらしいし。ずっとここに住むんなら、行っといて損ないよ」
「いや、わるいがわたしはもうずっと絶ってるんだ。里のスイーツならつきあうよ」
「お、いいねぇ。今度もみちゃんといっしょいこっかねぇ」
「そうだな……」
二匹の人外がさわがしく歓談しはじめたのを横に聞きながら、なんとなくふうと息をもらしつつ、ナズーリンは大将棋の盤をながめた。ついでに言うと河童の方が劣勢のようだったが、言わないでおこう、と思いながらもの思いにふけった。
命蓮寺。
時は多少進む。で、さらにその三日前のことだ。
この日、白蓮は、妙にうれしそうな寅丸の顔をみて不自然におもったが、「聖」と、朗報をかくしきれてない長い付き合いの妖怪を見つつ、なんとなくだが、不安げな心をふりはらって笑った。
「何?」というと、寅丸は話があると言って、あらためて白蓮の正面に座した。
「よい話があるのです」
と言い、「実は」ときりだしたところによると、その話というのは、里のある寺についてのことだった。寺、といってもながらくこの里には、人の常時いる寺がなく、その寺も、住みこみで管理する者がいるわけでない、本尊をまつり、役を継いだ家が、付近の里の者たちと、外部から手入れや一時的な管理を行う、いわゆる仮寺で、幻想郷の各里におおくみられる形の寺だということだった。話、というのは、その寺の管理のことについてである。
「引退、ですか?」
と、白蓮が言ったのは、要するに、寅丸の話によれば、件の寺の管理にあたる者が、近々、体の不振を理由などにして、白蓮がいま言ったように引退のような形で寺を手放す、ということで、これもまた寅丸曰く、この管理する者に当たってみた結果、何やらその管理とまた、その寺自体をこちら、つまり命蓮寺の側に移譲したいという運びになった、ということだった。
「……。ふむ……」
話を聞いて白蓮は心ならず、うなって考えこんだ。寅丸はえらく乗り気のようだが、白蓮としては、こういうときの寅丸は、うっかりを起こしやすく、それは彼女が、白蓮が毘沙門天尊のもとに寅丸をつれていくまえから、優秀でよく温厚な気質と認めながらも、やや視野狭さく気味になりがちである、と、欠点として認めていることではあった。浮かれるのであるが、要するに。
とはいえ、彼女は天尊の代理とはいえである、この寺では立場上住職の身である白蓮よりも、寅丸のほうが形のうえでは、上、ということになり、正直彼女の言うことを無碍にあつかうということは白蓮にはできない。まあ寅丸のいうことなら……と、一がいすぐには言えないのが心情ではあるが、だからといって、立場上一番責任のある者が決めて言いだしたことはいいだしたことである。
とにかく、後日、その管理する者に会って話を聞きたい、と申し出ると、寅丸がこころよく同意してくれたところで、時は進み、そして今に至る。
(あんまりよい予感はしない、かな……)
とは思いつつも、その日白蓮は命蓮寺を昼ごろに出て、人里には昼のちょうど下がりには着いて訪ねるつもりでいた。
(おや)
で、昼ごろ、ちょうど出るときになって、とことこと小柄な手足を動かしながら、件の寅丸の部下である、ネズミ耳の頭が、こちらに向かってくるのがみえた。
ナズーリン。
「ナズーリン」
「ああ、これは聖。いまからおでかけで?」
「ええ、ちょっと人里にね。あなたはいま帰り?」
「ええ。しかし、お一人で? 説法会ですか?」
「いえ……」
白蓮は言いかけて、ふとちょっと考えた。
「ねぇ、ナズーリン。実は今日出かけるのは、寅丸が持ってきた話についてなのですけど」
「はあ。ご主人さまがですか?」
ナズーリンは、ちょっと片目をとじて、少女めいた顔をすましたようにした。それを見て、白蓮は、何となく曇っていた心情を、またすこしゆらめかせざるを得なかった。ただ、それを口には上らせなかった。
「里の方で、なにやらこちらに檀家を譲っていただけるとかいう方がいるそうで、今日はその人に会って、挨拶をしてくる予定なのよ。ちなみに……ええと、寅丸からもしかして聞いていなかった?」
「ええ。たぶん、ご主人さまがご自分でお進めになった話じゃないですかね。ま、そういうことでしたら、どうぞ行ってらっしゃいませ。お帰りお待ちしております」
「ええ、ありがとう」
白蓮は言うと、ナズーリンの見送りを背中にうけて、独特の形状の法衣を揺らし、寺のしき地をぬけでていった。
「……」
寺のしき地をでていく、独特の法衣を着た不可思議色の髪を見ながら、ナズーリンは、ちょっとつむっていた片目を開き、半眼で寺の方を見あげた。それから、寺の土間をまたぎ、「ただいま戻りました」と言い、勝手にあがりこんですたすたと勝手にあがりこんですたすたと廊下を進んだ。そして、本堂へつうじる通路で、何やら雲居と話しあっている寅丸を見かけ、その様子をちらっと見てから、なんのけない足どりで近づいていくと、話が終わるのを待った。やがて、話を終えたらしく、雲居がくるりときびすをかえして向こうへ行くと、寅丸は、ようやくナズーリンに気づいて、「ああ、おかえりなさい、ナズーリン」と、いつもののんきな――ナズーリンが実は「くわー」と言いたげな心地を抱くにこりとした顔で、こちらに意識を向けてきたのを確認しつつ、「やあ、ただいま戻りました」と、これもいつもの調子で応じてやった。内心では、ぶすりとした顔をかくしながらだが。
「さっき玄関で聖と会ったんですが、ご主人さま、聖がお出かけになった理由は例の人里のことで? わたしが探ってきた話ですけど」
「え、ええ。そうだけれど……。ああ、そう。聖と会ったのね」
などとなんの気なく言いながら、寅丸はちょっと動揺した様子を見せた。それを見つつナズーリンは「そうですか」などと無難に言い、
「では、わたしは奥の間に行ってますので、あ、昼げは食べてきました。夕刻から、また友人の誘いで出てくるかもしれませんが」
「ええ。いってらっしゃい。今日は特に忙しいこともないですから」
寅丸が言うのをちょっと礼をして見つつ、ナズーリンはやれやれと思った。
(まぁた、このバカ寅は。知らないからね、わたしは)
と、今さらながらに思い、すたすたと自分の上司の横を抜けていった。
人里。
とある場所。
少し里の中からは外れた一角。
寺からは少しばかり遠出になるので、とあらかじめ言われていたとおり、わりと時間をかけて白蓮はやっとその寺を管理するという件の人の家にたどり着いた。
(ふぅ)
初夏もはじめの風は汗をかくというほどにはぬるくなく、心地よく行路を過ごしてくれた。千年間の封印から覚めて、歩きらしい歩きをしたのも久しぶりだが体はなまっておらず、むしろ快調がたたって息を荒げるのが心配なほどで、白蓮はそれを気をつけながら、道中、ちょっと乱れたかを確認してから、風変わりな衣の裾を揺らし、そのなんということのない一軒屋の前に立った。
(ふつうの家ね)
「――ご免下さい」
普通の感想を抱きながら、白蓮は胸のまえで両手をあわせて、無難な挨拶を口にした。「はい」、と中からこもった声が聞こえ、からから、と、木戸が開く。出てきた少し年若い娘に礼をして、白蓮は、少し目をふせがちにして挨拶を述べた。
「どうも、わたく、今日の今時分にもうしあげておりました、命蓮寺、という寺尊の住職にございます。はじめまして。せんえつではございますが、当主様と早速お話し合いがしとうございます」
「ああ、聞いています。どうぞ、こちらに」
娘は、相手の容姿(まあこれは道理だろうが)がちょっと意外だったという顔をして、丁寧な品の有る態度で白蓮をまねきいれる段取りをとってくれた。客間に招かれたあと、茶を出され、ほんのしばしの間、ぱたぱたと足音が聞こえ、声のようなものや物音がしたあと、それからほどなく、すっすっと静かな足音をたてて、がらり、とふすまを開けて、年かさながら、背すじのしゃっきりとした禿頭の男が姿を見せ、
「やあ、これはどうも、ご足労いただきまして」
と、年の見かけのわりには屈たくの見えない笑顔で言った。
「とんでもございません。本日はお招きをお許しいただき、謝辞をのべさせていただきます」
「はは。まあ、そうかたくるしくならんで。楽にしてくださいませ。そうかしこまるような話でもありませんから。今、茶菓子を持ってこさせます。いや、しかし、お若いとはお聞きしておりましたが、多少面喰らいましたわ」
「いえ」
白蓮は述べながら、この御仁に、まだ初見ではあるが好意的なものを見いだしていた。同時に、うその言えない人であるな、と、そのようにも感じた。やがて、茶菓子と、向かいあった御仁のぶんの茶が運ばれ、場がしずまると、あらたまった様子で、目のまえの御仁が白蓮に体をむけた。
「紹介遅れもうしました。わたくし、この近こうの寺をあずかる身分で、名を蓮因と申しまする。一応の僧ではございますが、いまは仏の道を休んでおります」
御仁――蓮因が紹介していうのに、白蓮もかるく自分の名と身分をとつとのべた。同じ蓮の字をいただく僧であるということから、何らかの関連はある、と思われたが、それは触れることではないようだった。
(まぁ、千年も眠っていたねぼすけ者だものね。わざわざ気まずくすることもないわ)
にこやかに世間話に応じながら、そのように思いつつ、やがて白蓮は話を本題にすこしづつもっていった。
「――そうですか。それでは、お年で、ということで」
「ええ。別段、子に恵まれんというわけではありません。さきほどご覧になったでしょうが、わたくしにもかのひとり娘がおります。――しかしながら、遅生まれの子にて、この時分、年頃を迎えまして。……ま、本人はまだそのような話はないなどとうそぶきますが、あれはあれで、しっかりとしたものでしてな……。いずれそのようなことにはなるでしょうが、そのときにこの預かった寺というのが少しばかり重荷、ということもないでしょうが――いえ、失礼。とにかく口実ですな、これは。娘可愛さ、というわけではありませんが……」
蓮因は話すとき、年かさの男親特有の目をしていたが、その中にはほんの少しの罪悪感もかいま見えた。この寺を継いだ手前、その重さを自覚し、それを手離すのに若干のためらいもあるのだろう。
(とはいえ、それをおもんばかることもないか)
白蓮は思いつつ、蓮因の話に耳をかたむけ、それから、ことの本人からどうやら、本題の収束するきっかけを聞くことができるのを感じていた。
そのときだった。
「しかし、お若い身空で仏道とは大変でございましょう。いや、私などは、ご感心をばさせていただくにしか恥のないことではありますが――聞けば、お亡くなりになられた弟君の菩提のために、寺を建立し、そのうえ、人ばかりでなく、妖怪たちにも道を説いていらっしゃるとか。いやいや、ご立派なことだ」
(……。何?)
白蓮はそこでふと、ぴん、と頭にひっかかりを寄せるものを感じ、「あの」と、気づくと蓮因に問うていた。
「あの、少々お聞きしたいことがあるのですが――いえ、ひょっとすると失礼に思わせるだけかもしれませんが、ご容赦を。いま、いえ、わたしのことについてなのですが……、そうですね。こちらには、どのような者が来ましたか?」
「はあ……? いえ、どのような、と言われますと……? ああ……たしか娘の話では、最初に来たのは、たいそう、いやいや少々風変わりな装いながら、そちらの僧を名乗っておられたとか。そうそう、どうも妖怪の方らしく、はじめは面食らったと言っておりましたな。たしか後ろから鼠のような長い尻尾が生えていたとか。それに獣耳もあったというから変化のたぐいでしょうな。まぁ、もっとも、お噂は存じあげておりましたから、命蓮寺の方と聞くと安心したようで……その折にあなた様の話をお聞きして、それでその方はお帰りになられましたな。それからしばらくして、今度も少々人外ぎみながら、仏の気の感じられる方が来まして、それで話がまとまったのですが」
(星、ね……。あぁ……そういうことか……)
白蓮は心静かに思うと、沈黙して、しばし黙想するように目を閉じた。それから、目を開け、こちらの様子にやや妙な心地を抱いたふうな男の顔を見た。
「蓮因様、と仰りましたね。御坊様においては大変な失礼をさしあげました。全てを打ち明けます前に、それだけは申し上げさせていただきます」
「はぁ、と、仰ると……?」
「わたくしは、破戒僧です。それはお聞きになりましたか?」
「は?」
「わたくしは、破戒僧なのです。いまより生まれたのも遠い昔、この里では馴染みがあるのかもしれませんが、自分の命を惜しみ、死を恐れるあまり、魔界のふかくにおいて力を仰ぎ、万里の寿命を得、また、そのことを、法力のためと周囲に偽って生きてまいりました。故に年若いのではなく、すでに千年以上の時を人ではないものとして生きておりまする。そのことを周囲に知られ、さらには昔のことです、妖怪にもかかわる者であり、そのことすらも偽っていたとして、とがを受け、責めを受け、そうしてふさわしきところへ封ぜられよと、罰を受け、力を得た魔界へとこの身を落とされました。……妖魔の者たちとのかかわり云々は、ここでは言ってもせんなきことですが、当初の私は、己の寿命を保つため、妖魔の者たちと混じり入ることで、命を保つ生気を受けて過ごしておりました。そうして現世に帰りたった今も、かわらず妖魔の者たちと混じりながら過ごしております」
一気に話し終えると、白蓮は改めて目のまえの男を見た。さすがに面食らったらしいが、その目に困惑の色が見えるのは少しだけだった。それ以上は見れないのも自分の弱さだと自覚はしていた。
「どうも、耳に毒な話をお聞かせし、心苦しく思っております」
「いや、もういい」
男が言うのが聞こえ、ゆっくりと畳を立つのが聞こえた。
「悪いが今日のところはお引き取り願いたい。この件、一度まとまったこととして、まことに勝手ではあるが、少々考えさせてほしい。それだけだ。さぁ、精一杯のことは言った。早く帰ってくれ。あんたの顔は、二度と見たくない」
男は言うと、ぴしゃり、と穏やかにふすまを閉め、廊下を足早に歩いていった。白蓮は顔をあげず、しばらくその音を聞いていたが、やがて、立ち上がり、誰もいない客間に礼をして、家を辞した。
「ふーん」
外で見ていたぬえは、くわ、とあくびをして、寝ころがっていたかわらの上で、ごろんと寝がえりをうち、それから尻尾をにょろにょろと動かした。
そして、ぽそり、とバカみたい、と呟いた。
命蓮寺。
夜半。
「ばっかだよな、まったく」
ぶつぶつと呟きつつ、ナズーリンが寺近くの道を歩いていた。屋台にでも寄り道していっそべろっと時間をけずりたい気分だったが、彼女はそういうとこ割としっかりしているというか愚直げで、どんなに気分が悪くても、おおげさに自分をうしなうということはなかった。そのかわり口数が多かった。
(全く馬鹿だわ、馬っ鹿みたい、あんなのババアにばれないわけないだろ、あのえせ坊主ときたらそういうとこだけは妙にカンが冴えてるっていうのにさ。あんだけ長くつきあってそんなこともわからないかね全く馬鹿。バカ寅。バカ寅は。うっかりですむことだと思ってんのか今に見とけ、きっついしっぺ返しを食らうんだから。あの因業ババアがどういうやつなのかまだ分かんないのか、はっ、さすがだね。さすがのうっかりバカ寅ちゃんだ。バカ寅丸さまさまだ。これでババアのヒス受ける寅決定ですね、全くの自業自得。自演お疲れ。天尊様の汚名もこれで挽回されることでしょうね。本来返上するはずのものを一回転させて挽回するのがバカのさすがバカなところってやつね。あいつ本当に分かってんだろうか、誰の看板を背負ってると思ってんだ? そんで傷だらけどころか肥溜めまみれだってことをすでにして分かってないのか? 分かってないんだろうなバカだから。全くバカ寅め。バカ寅め)
ぶつぶつとつぶやき声になって悪態がもれているのも構わずにナズーリンはさらに続けていた。獣というか、変化の眼光丸出し(気が立っているためだ)なので、くらい夜道もまっ昼間のようにあかるく見える。
(いったいあの因業ババアのどこがそんなにいいんだか千年経った今のいままで執着しやがって、天尊様のお心じゃなかったらとっくにシリけっとばして顔にバカってらくがきをまっ黒になるまで重ねてやってついでにケツの穴に筆ぶっ刺して「あばよバカ寅」っていってるとこだわバカ寅め、まあ天尊様の御名にキズがつくからやらないけど思うだけならタダですよね? そうですねタダですよ。あのくそババアときたらわたしらや天尊様に大うそかたってたあげくに肥溜めぬりたくってくれたっていうくらいのクソだぞ、びっちだぞ。執着する義理も未練も情けもないんだよ、本当は! いつまで見苦しく生きていやがってはずかしくも厭らしくも寺尊まで建立してその本尊をウチの天尊様を仮にもいただくなんざ、すじ違いにもほどがあるだろまあそれもウチのバカ寅様がいいだしたんですけどもね、まったくバカ寅め。まんまとのせられやがって、ほだされやがって、なにが千年前はなにもできなかった自分をだよ、あんな連中がいまさら泣きついてきたからってひっかき回してもとの旧地獄にでもぶち落としてスマキで川に流して封印して、二度と出てこれないようにってなんだかよく分かんなくなってきたわ、そう落ちつけオーケー? ったく馬鹿め、バカ寅め、バカ寅め)
そこでつぶやきを止め、ナズーリンはピタリと足をとめた。どうやら寺についたようで、今日はもう舟になるのはやめたらしい門前の大きな木戸が、帰りを待ちうけて口をおっ広げている。
(バカ寅め)
それを最後の呟きにして、ナズーリンはその中へと足を踏み入れてやった。
そして。
同刻。
命蓮寺の奥間。
「星」
白蓮がふすまの外から声をかけると、ろうそくの灯りを受けた寅丸の顔がこちらを見た。
「話があります。部屋へきてください」
「……はい」
寅丸は表情のうかがえない顔で、整理していた巻帳の類を文机に置くと、背あわせで同じ作業に取りくんでいた雲居の視線と、寝こけかけていた村紗が気がついてむけた視線を残し、ふすまを閉めて部屋を出た。
なにも話さずに暗くなった廊下を、白蓮の持ったがんどうに照らされながら歩く。白蓮の私室にはすぐに着いた。散らかっていたはずの床はいっさい片づけられており、ちょうど二人分は座れるほどのスペースができている。
「座りなさい」
言うと、白蓮は敷いた座布団に自分も座り、むかいに先に座した寅丸を見すえ、文机の上にがんどうから移した灯りを置いた。
「星。あなたはわたしに嘘をつきましたね」
ちょっと、ひと呼吸するような、その程度の間で、白蓮は口を開いた。
「……はい」
寅丸はおとなしく認めた。ただし、その表情は硬く、灯りに照らされ、揺らめく間にも、何か含むものを感じさせて見せた。
「……もう承知でしょうが、件の御仁とお会いして、全ての話は聞き、またこちらの話すべきことも伝えました。その結果、かの御仁は一度まとまった話で申しわけないが、とわたしに謝辞を述べ、考えさせてほしい、と仰りました。破談かどうかはこれから次第ですが――」
「そんな……すでにまとまった話ですよ!?」
寅丸はいきなり過剰に反応して、怒鳴るような声をあげた。それを聞きつつも、「星」と、白蓮は制した。
「なぜあの御仁に全てを語らなかったのです」
寅丸は沈黙したが、困惑と、それと何か津波の来る寸前のような怒気をはらんで、白蓮を見ていた。
「そのようなやり方でからめとったのでは、卑怯、とそしりを受けるのはまかりないことではないです」
か、と言おうとして、その前に、白蓮は、寅丸の手に服のえり元を捕えられ、言葉に詰まっていた。
「何を……何を言ったのです、聖。いえ白蓮! 何を言ったのです!? 私が語らなかったこと全てですね!? そうに決まっている、あなたはそういう人だ!」
寅丸は興奮して縦に長い瞳孔をむき出しにしたまま、ぎりぎりと白蓮のえり元を握った。
「それの何が――」
「それの何がですって!!? 分かっているでしょう! そうだ、あなたは分かっていてそういうことをあえて言う人だ! なぜ。なぜ、なぜ、もっと! なぜ考えないのですか! なぜ!」
「考えていますよ、星。ですがこのような結論しか出ないのです、あなたのやり方では――」
「何があなたのやり方ではだ! それはこっちの言うことだ! あなたのやり方ではですって、ではどうなんです。あなたのやり方では、語るべきこと、語らずともよいこと、全て語ってしまうのが――そのようなやり方で――」
「星」
少し落ちつきなさい、と言いかけた言葉を、それよりも強く、また荒々しい力が襟をしめあげて止めた。
「これが落ちついていられるかっ!! 何が、あなたのやり方ではだ! あなたのそういう――昔から、昔から、そう、昔も、あのときもそうだ!! 全てを明るみにされた直後、あなたは逃げも隠れもしなかった!! 罪人としてあの愚鈍な、嫉妬ぶかく、まぬけな、愚図な人間たちに! 脅威でもなんでもないものに難くせつけるのだけがとりえの血のめぐりの悪い馬鹿な人間どもに――」
「星、やめなさい。あなたは人間を守護する仏天の代理、その弟子なのですよ。それがっ……!」
がくりと揺さぶられ、白蓮はまた言葉をとぎらせた。えり元をつかむ寅丸の力は、すでに化生のそれに完全にもどっている。妖気が湯気のようにゆらめいて見えそうなほど尖っている。怒気。
「だまれ、白蓮、あなたはいつもどうだ! なぜもっと自分のことを考えない! なぜいつも正しいことを求める! 痛みをうけるのはあなたで傷をうけるのはあなたで損をこうむるのはあなたでいつか、いつか死ぬのもきっとあなただ! ……自分が綺麗な人間だとでも思っているのか……わたしを裏切り、信仰を失いかけさせ、他の多くの者も同様に、全く同じように変わらず、そうして、裏切ってきた! その手を見ろ、その身体を見下ろせ!! あなたは罪深いことをもっと自分に言い聞かせろ!! そうしてふさわしい態度を身につけろ!! ――」
怒りのあまり呼吸が詰まったのか、ひくっとのどを震わせ、寅丸は口を噤み、一旦言葉をとぎらせた。しかし白蓮の襟をしめあげる力は変わらず、人外のそれに変わった形相も、まるで終わりを見せていない。やがて、力が緩み、代わりにするしと白蓮の身体に寅丸の腕が巻かれた。今度は壊すほどの力が嘘のように、やさしく。
どく、どく、どく、どく、と、力強い鼓動が、白蓮の胸にかさなりその乳房を圧迫してひびく。寅丸の体はまるで獣そのもののようだった。怒れる獣の。怯えて咬みつく獣の。
「わたしは、あなたのことを愛しています」
寅丸は静かな声で言い、しだいに荒げていた怒気や人外の気がうすれ、元の寅丸の様子に戻ってきている。白蓮は自由になる腕を上げ、少しきつめに体を抱いてくる寅丸の背中に触れ、少しだけなでる程度に弱くふれた。
「星」
「わたしは二度とあなたにいなくなってほしくない。そのためなら人間を騙りもしますし、この里に根づきたいというのなら、二度とあのような、昔のようなことが起こらないようにしたい。あなたのことを知れば、そう、正に今回のように、昔のあなたを、今のあなたがどうしてあるかを知る者がいれば、また、昔のように――」
「星、この里でそのような心配はしなくていい。たしかに異形の者を受けいれるのにどこまでも寛容とは言えないが、寛容と言えるほどの器はここには備わっている。私はあのような目にあうことはないの。そしてこの郷のあり方がとても気にいっている。根を下ろすのにこの場所以外あり得ないようにも、今、思っているところです。あなたが人を騙るような必要はないのです」
「わたしは、わたしは、かつてあなたに裏切られ、そのことで、信仰を失いかけもした。あなたが去ってから信仰にまよい、廃寺に身を潜め、籠っていたのも、わたしが天尊様から授かる信仰を掲げ、人間達に教え説く資格があるのかどうか、それを迷っていたからだ。わたしはかつてあなたが説く信仰を信じ、その身に宿る法力は神々しいばかりだと信じ、何ひとつ疑わなかった。――村紗達がわたしの元に来たときも、本当は、口にする言葉ほどの覚悟は無かった。あなたをこの手で封印することに手を貸した恐怖、あなたに会うことへの恐怖、そういったものがわたしのなかでない交ぜになり、なにを信じることもできず、自分で立つことさえも信じることができなかった。そして、そして……わたしは、あのとき、宝塔をだれにも見られないところで、舟から地上へとなげ捨てた。恐怖と不信からそうした。わたしは自分に負けた。なにも変わらなかった。今、こうしてあなたを抱きすくめるこの気持ちでさえ、なにかにすがらなければ立てない幼子のそれかもしれない……」
「星。そのことに対しては、わたしは何もかける言葉がない。その答えを見つけるのは、自分、あなた自身がやるべきことだから。それまでにすがるのなら、たとえあなたの納得のいかないことであっても、こうしてあなたを受け入れましょう。今のわたしは――」
白蓮は途中で言葉を止めて、寅丸の髪を優しく撫でた。寅丸の体の震えは止まり、やがて、寅丸の手は白蓮の体を離した。
寅丸は、そのまま黙って畳を立ち、やがて肩を落としたような立ち方で、ふすまを開き、廊下へと出ていった。
白蓮は黙し、そのままただ座していた。
やがて、後ろから、べつの腕がその体にからみつき、抱きつくように体を密着させてきた。
「見ィちゃった♪」
耳元で悪戯っぽい声がささやき、白蓮は後ろにいる相手の名を「ぬえ」と口にした。
「はい、ぬえですよー。寅ちゃんもしかしいろいろ大胆ね? 昔からあんなことをしていたの? 趣味?」
「のぞき見なんて趣味が悪いわよ。人のこと言えた義理じゃないけれど。――」
つぷ、という感触を、首と肩の間に感じて、白蓮は、ほんの少し眉間を寄せて、「ぬえ」と、咎めるような、あるいはそれ以上を留めるような、そんな言いかたで、この封獣の悪戯をしかった。クス、と鼻のあいだから出た息が、素肌を温らめた。ぬえの唇の間から赤い血が一すじ、そしてもう一すじ細く垂れ、ぬえの牙から糸を引く。
「私も愛してないけど、白蓮のことが大好き。妖怪の好きって、だって、こういうことでしょ?」
「そうね」
白蓮は認めながらも、流れる血をちゅ、と吸うぬえの唇に、ほんの少し体の芯を疼かせた。妖怪に倫理観はない。そういうことだ。昔から知っている。
やがて、ぬえは体を離し、少しかがんで、最後のひと舐めを舌の先でとって、それでひと通り満足したらしく、すっとほん放な足どりで、部屋の出口を出ていこうとしながら、こちらを向いた。
「あなたも難儀なのね。でもそういうところが好きなのよ、私は。あなたの、正直で優しくて、温いところがね」
ぬえは言うと、にっこりと笑って、ふすまを閉めた。そのうち、ずだん!! という音がほどなくして、外から雲居の声が聞こえ、それに応じるぬえの声が聞こえてきた。
白蓮は、反射的に立ちあがり、足早に外に出ていた。予想したとおりの光景がそこにあるのを見て、白蓮は熱いものがこみ上げるのを、かろうじて抑えた。
刀を構えた雲居、それに対峙する形でいるぬえ。
「何をしているの」
そう言うと、だいぶ気楽な表情でいたぬえが、「さーぁ?」という意味にとれる仕草をした。
「私は――」
「うるさい、黙れ。口を閉じろ」
「一輪。止めて」
「姐さんに何をした、と聞いているんだ」
雲居はだいぶ気が立っているらしく、刃を向けた相手を今にも斬ろうという気迫を見せて、廊下の板を踏んでいる。場違いな虫の音の廻る音。場違いに呑気なぬえの顔。いやな結果しか思いおこさせない、その様子に、白蓮は自分を抑えて雲居に語りかけた。
「刀を収めてください。一輪。あなたは誤解をしている。このような状況になっているのもわたしは分からないわけではありません。――お願い。刀を退いて」
「姐さん。こいつは危険な妖怪です。姐さんの考えだからと今まで放っておきましたが、今回ばかりは許せない」
「止めてください」
「姐さん!」
「そうよ、何もそんなにとがめるようなことしてないわよ。ねえ白蓮?」
「ぬえ。あなたも止めて」
「私は何もしてないってば」
ぬらりくらりと会話している間に、雲居が踏みこみをわずかに詰めるのを見て、白蓮はそちらに目を配り、けん制した。
「何もしてないだと? あんた血の臭いがするのよ」
「ふぅん?」
ぬえが面白がるように言うのに、白蓮は「ぬえ。お願い、少し喋らないで」と、やや咎めるような口調になって言い、「一輪、
」と、雲居に語りかけるように諭した。
「お願い。刀を退いて」
「できません!」
「一輪!」
白蓮は少しきつめな口調で言い、それがやや恫喝ぎみになったことも、自覚し、後悔した。そう、雲居は自分が妖怪たちをいまだにこちらへ招きいれようとする白蓮の姿勢が、納得できていないのだ。
かといって、彼女の頭が聡くないというわけでは決してない。愚鈍はわたし。
そのうちに、廊下の騒ぎを聞きつけてか、「おわ、何?」と、奥の間から走ってきた村紗が言い、星が無言で立ちどまり、また、こちらは何の音もさせずに、いつのまにか、ロッドを肩にかついだナズーリンも、ちょうど村紗達とは反対側の廊下に来ている。
「一輪。あなたには言ったことがありますね。あなたは聡いが、それゆえに、何もかもを早々と見限り、その情ゆえに、見限らないものもあるのだと。ならば情に従って生きなさい、と。今のぬえを斬ることは、その言葉に反することです。あなたは、愚鈍な者を見限る正しさを持っている。だからこそ、そればかりに生きてはいけないのです。それでもまだ分かってはくれませんか?」
ぎり、と歯を軋る音が響き、徐々に雲居の気勢が弱まり、やがて、刃だけが宙ぶらりんのような状態になった。
「お願い、ぬえ。あなたもやめて。そう、わたしの言葉は聞けずとも、お願いは聞いてくれるでしょう?」
ぬえは、危なげな眼差しで、隙を見せかける(あわよくばその隙を狙って、その爪を閃かせようとしている、それも気まぐれに)一輪の様子から目をはなし、笑ったままの目でちらりと白蓮を見た。
「……うん♪ ふん? そうね。白蓮のお願いなら、しょうがないかなぁ。やめる理由にはならないけど、やめてあげる口実にはなるものね。へへ。実は意外とケンカもしたくない気分だったところよ」
白蓮の方を見てうそぶくと、ちら、と雲居の方を見て、ぬえは翼をはためかせ、縁側の方へとふわりと浮きあがっていった。
いつのまにか外には雨が降っている。ぬえの姿はそんなことには委細せず、すぐ空に溶けて消えた。
「……ふん」
雲居が、忌々しげに吐きすてた。刀を納めて、その場の空気を断ちきるような足どりで、白蓮の方へと歩いてくる。そして、迷いの浮かんだ表情で顔を見、視線を白蓮の肩すじへとすべらせた。
「聖。お部屋へ。治療くらいはさせてください」
「ええ」
間。
憤まんやるかたない様子で戻ってきた雲居が、がちゃ、と乱暴に、はいていた太刀を鳴らした。さすがにそのままでは座りづらかったらしく、腰から抜いて脇に置く。
普段は入道を扱って空を駆る身だが、護法童子を模す姿を与えられた後に授けられた刀を、雲居は今も振るうことがある。
「はぁ~」
村紗がため息をつくのを、雲居はじろりと見やった。顔見知りにして長いつきあいの舟幽霊は、なにか言いたげに寝転がったまま、しかし何も言おうとしない。
元々、寅丸と白蓮の様子があまりにひっ迫、というか、ひしひしと二人の間にひしめくような何かが見えたため、というのを口実に、いやしくも後をつけたのは雲居である。その後、室内の様子をやや離れて聞き、出てくる寅丸を隠れて見送ったえ、それに続いて出てきたぬえが、いやしげに血のにじんだ指を舐めとる仕草を見せたことで、思わず邪推(とも言えないようではあったが)して、気づけば斬りかかっていたという次第だ。村紗のはっきりしないが何か言いたげな様子をあらわに見て、文句の出る口もない。
「なにやってんのよ、あんた」
村紗はのんきな口調で、のべんと寝っころんだまま言った。雲居は沈黙を保ち、文机に座って、その横で聞いていた寅丸は沈黙を保ち、壁によりかかっていたナズーリは、半ばに足を投げだしたまんま、これも何も言わない。何か言いたげではあったが。
沈黙が重く落ちた室内に、もう一度、村紗がスゥーッとため息をついて、ごろんと寝がえりをうつのが聞こえた。
「こんなことなら、聖を封印から解かない方がよかったかしらねぇ」
「あん? 何よ、いきなり」
「私はさぁ、いや、ま、だってこんなんじゃねぇ。ほら、別に私だって元々、封印から解けたからって、だからって聖を迎えにいこーなんて、そんなこと初めっから思ってたわけじゃないし」
「何言いだすのよ」
「聖が可哀想だってのはあったしさぁ。まったく千年も経ちゃあ、目ぼしいやつらもみんな死んじゃって、誰か封印解こーかなって気になっているかと思いきや、あの薄情もん共ときたら、封印したらしっぱなしでさぁ。このまんまだと放っとかれちゃうんじゃないか? ってことで、星さんに拝みたおしてあーやって色々騒ぎ起こしたわけだけど、はぁーっ」
村紗がのたくたと言うのが気にさわったのか、表情をしかめ面にして何か言いかける雲居をまるで無視したまま、村紗はごろごろと畳を転げながら、だるそうに続きを口にした。
「それが何かさー、さっきの一輪もだけど、その前も? 何か怒らすようなことしてたみたいだしさ、星さんが。まぁ星さんのうっかりとか先ばしりは昔で慣れてるけど、だからって、それで聖が……。あーもう。本当にねぇ、あんたら何やってんの、なに、そんなに聖が心配なわけ? 心配殺しにしたいわけ? どーなのよ、お? うん? 聖がのんびりやろうってところをそんなに邪魔したいわけ? ま、邪魔ってのも大げさだけど……あーもう。聖がいいわよって連れてきたのを危険だの何だのなん癖つけて光り物さらっと抜くわ。はぁー。何、何、あんたら聖をどうしたいわけよ」
「だぁから!!」
「だぁからっ!!」
雲居が怒鳴るのに怒鳴りかえして、村紗は寝転がったままの体を起こして、すたん、と立ちあがった。
「私は聖が可哀想だから助けに行ったっつってんの!! 同情してんの!! 別に好きとか嫌いとかそんなんじゃなくて!! ったく! あんたも、星さんも、何だかうじうじうじうじうじうじうじうじうじと昔のことにこだわってさ。肝心の聖がどうかっつうのが頭から抜けてるっつーか、おう、もっと熱くなれよ! 昔を思い出せよ!! 何!? 私らが聖と一緒にいたのは何で、今一緒にこうしているのはなんで? 聖と一緒に暮らしたいからでしょ!? 聖の笑顔が見たいからでしょ!? 聖の悲しむ顔なんか見たくなかったでしょ!? 忘れたのか!? え!? おい!? それを、それを望む私が、あんたが、私たちが、聖を困らして、どうすんのよ!?」
「なっ、なっ、そっ……」
「村紗――」
「はい!」と村紗は言って、びし、と指を突きつけて、雲居、寅丸、ついでにナズーリンも制するように(ナズーリンはなんか勢いだったようだが。当の本人は目を不機嫌そうにまたたかせている)指してから、ばん、ばん、ばん、と手をたたいた。なんか無暗に眉を吊りあげて、きっ! とした顔をして。
「はい! 黙れそこ。言い訳すんな。はいはいはい、とりあえず立って。はーい! たのしい命蓮寺、聖いらずの非常召集会議始めます!! はい、それでは皆さん奥の間へゴー。レッツゴー。はい、立って立って」
「なによ全く……」
ぶつぶつと雲居が言うのに、ナズーリンがさっさと立ちあがって、肩のロッドを鳴らしながら部屋を出ていく村紗についていくのに、やがて戸惑い気味に立ちあがった寅丸が続き、「……ったく」と、最後に、仕方なげに雲居が雲山を肩にのせて続いた。
ぱたんとふすまが閉められる。
外。
「……おん?」
折りからの雨にも気にせず、屋根の上でぐーすか寝ていたぬえは、急に動きだした寺の屋根に放りだされるように、ふわんと浮きあがり、そしてもう一度、今度はあっという間に姿を変えた舟の甲板に降り立ち、またごろんと寝転がった。
「この夜中に騒がしいわね~」
「ぎゃあ~っ!」
と、悲鳴が聞こえたので思わずそちら側を見ると、どうも同じように昼寝をしていた唐傘娘が、気づかずに転げ落とされたようだった。
「あー」
ぬえは言いつつも助けず、また夜雨の中をすうーっと気持ち良さげに眠りこけはじめた。
船内。
あらかじめ、白蓮の部屋の前を通り、「あ、聖ー。ちょっとこれから舟動かしますねー。気をつけてくださいねー」と言いっきりで、「え? ええ」という白蓮の返事も待たずに舟を動かしはじめた村紗は、今、奥の間の、ちょうど座を組んだ形の(といって、各自座布団ももたずに、村紗がどこからか持ってきた白板の前にばらばら散らばっているだけだが)面々に向かって何やら話を始めていた(舟の操縦については、雲居が聞くと、この間、いつのまにか里の賢者とかいう金髪の妖怪と取りきめた安全運航速度を守っている、ときりっとして返してきた)。
「それはともかく」と、きゅきゅきゅ、と黒ペンで書きあげた文字は、「交流会」という単語となって、白板に浮かんでいた。
「というか、親睦会ね」
「親睦会? そんならいつもあんたがやってるじゃない、ほら舟の体験搭乗会とか」
「そういうんじゃなく、酒。つまりぶっちゃけて言っちゃうと宴会です」
きゅきゅ、と、酒、宴会と書いて、ぐるぐると宴会の部分を強調して、村紗はびしばしとした口調で言った。
「宴会ィ?」
「そうよ。鬼も妖怪も人も、くさくさしてることを忘れてふっとばすには酒と宴会が一番」
「そんなのあんまり現実的じゃないんじゃない? ほら、この里の」
「まぁ、黙って聞きなさい。ここでの上官は私です、ここ私のなかなので」
「上官……」
「あ、返事の前と後にはサーとかつけなくて結構です、私らが用意したもんじゃたしかにここの里の住民達も警戒するでしょうし、そういったものは私のツテである里の賢者様と亡霊の姫様にお願いしたいと思います。上白沢っていう人にお願いしてもいいんだけど頭が固いって噂だから仲立ちなしじゃそうそうほいほいと動いてくれないでしょう。で、私らも当日には説法とかそういうことはしないで、各自演しものをやります。聖は話が長くて頭が古いので客席に座って、里の住人達と近いところで楽しんでもらいます。交流会当日には皆さん聖を楽しませるつもりで、一所懸命励みましょう」
村紗の言うことに頭がついていってないというわけではないが、各自、いきなりペラペと話が進んだことに、あまりかんばしくない反応を示しているようだった。
「はい」
「はい」
「里の賢者様と上官どのがどういう経緯でコネを持ったのかが気になるんですが、そこは聞くところですか?」
「聞くところではないです。ご想像にお任せします。まぁ当日は私のこねくしょんの広さをぶちあげてやるからよまぁ見てな。何度も言いますけど演しものはちゃんと見れるレベルに練習しとくように。あ、舞台とかもやりましょうか」
「サー・イエス・サー」
「舞台?」
「ポールダンスはだめですよ」
「ぽーるだんす?」
「何かこう、棒に捕まって腰をこう、ぐいん、と動かしたり性的にいろいろ問題のある踊りのことです。人を集めるのは夜遅くになるより浅宵くらいで終わるのがいいでしょうからそこらへんを段取って調整していきましょう。私らがまず考えるのは演しもののことですね」
「ぽーるだんす……」
「はい」
「はい、またナズーリンさん」
「わたしたちも広報とか周知とかしたりするの?」
「もちろん。実はすでにそのための案も用意してあるわ。……あ。ありがとう。いや、ご苦労。はい、各自見といてください。これがそのための広報用用紙見本」
「こ、これは……なぜ半脱ぎのふしだらそうな聖が来てね(はあとまあくなどといかにも社会道徳的に問題ありそうに」
「いえ、こないだちょっと仲良くなったはたっちゃんていう烏天狗にお願いして念写してもらったものでこれはイメージ映像です。実物とは胸とかボリュームに若干の」
「最後まで聞いてやろうかと思ったがやめだぁーッ!! フシャァァーッ!!」
「ギャァァーッ!! フ、フカーッ!! フカーッ!!」
「ナァォォーッ!」
「まぁこれは刷り直しの方向で」
「そう言いつつ何で仕舞ってるんですかね」
「え? いや、ほ、ほら。これはこれで貴重かな、っていうか」
「あー。はいはい。れずれず。すいません変態の方はこの線から下がって話してくださいね」
「あっ…」
「ちょっと誰がヘンタイ女色者よ!? わたしが聖に抱いているのはあくまで」
「はいはい、あ、すいません声でかくしないで目と耳を塞いでていただけますか」
「少数派がでかい声立てるとへこむわー。ギャーッ! フ、フシャーッ!! ナォォン!! オォン!!」
「フシャァァァァァァ!!」
「話を聞けよ! だからわたしが」
「あっ! ちょっと、ぬえ。あんたもはまりなさいよ。今大事な話しあいしてるから!」
「は? やーよ。私お風呂入る。わかすわよー」
「あーあー勝手なやつねー」
ぎりぎりと寅丸と取っ組み合いを演じつつ村紗が言うのを、「わたしは正常だ!」とか騒いでいた雲居が思わずと言ったていでじっとりと見とがめたが、なにか言おうとするのを、がらっとふすまが開く音と、「ちょっと!!」という、若い娘っぽさげな声が遮って、ついでぎゃーぎゃーわめきだした。
「何いきなり舟飛ばしてんのよ! 事前に連絡しないから屋根で寝こけてた私が泥まみれじゃない! 私が妖怪でなかったら死んでるところよ!」
「おや、船長。人手が来たみたいだよ。主に見た目的な意味で」
「は?」
「あら本当ですね……! うん……!? ひょっとして、聖使わないんならこの子を広報用に使えばいいんじゃないかしら、派手さでは負けてないし」
「は? 何だか知らないけど謝罪を要求するわ! あとお風呂貸して!!」
「いいわよ、どーぞどーぞ」
「ふむ。体型的なボリュームでは負けるが、逆にそこがいいという人が多い気がするね。控えめかつ無邪気な妖怪らしさとちょっと余裕ない下っ端ぽさがあわさってチャーミングかつあいどるマスコット的な可愛らしさというものを体現している。グッド」
「そうね。明日にでもはたっちゃん呼んで撮影して刷りましょう。あ! 季節的に水着かしら」
「何でそっちの方向にいきたがるんだァーッ!!」
「ヒャア!!」
「いや、普通にあのまんまでいいんじゃないかな。船長、人はときに健康的な美しさを求めるものだよ。で、水着は黄色のビキニかな?」
「オッケーグッドよ同志。念のために何パターンか撮りましょう。ついでにあの子にもなんか演しものをやってもらうってことで、どうかしらん!?」
「君ならきっとそう言ってくれると思っていたよ、オーケー船長。聖にいい報告ができそうだ」
「もちろんよ同志!」
ぎりぎりと、取っ組み合いを続けながら、村紗はぱちん、と、何かを通じ合った顔で、ナズーリンとタッチをかわした。
で。
間。
しばしして後。
夜の奥間。
「失礼いたします」
ナズーリンは、中に声をかけて、ふすまを開いた。白蓮は書き物の途中のようで、寅丸達が送ってきた巻帳を見ながら、こちらは古い紙でできた帳面に、何か書きつけていたが、ナズーリンの声を聞くと、「はい」と、返事をして、姿が見えると、筆を置いて、膝をナズーリンの方に向けてきた。
「よろしかったですか?」
「ええ。何かありましたか」
「ええ」
ナズーリンは穏やかに答えて、白蓮の顔をまっすぐに見た。特に意味があってのことではない。
(ふん)
「船長達が何か聖のために催しものを、と。今、その準備と調整を進めているところです」
「催しもの、ですか?」
「ええ、何でも、人間の里との交流会だとか。発案者は船長ですが」
「交流会、ですか。へぇ……」
「先刻よりあまり良くない気が漂っていましたから。それを酒と宴でさっぱり洗い流そうということのようです。聖にはまだ言う気はないようですが、固まってからまた船長あたりが来ると思いますから、その時はよろしくお願いいたします」
「そうですね。交流会ですか。楽しい話でよろしいですね。酒も宴も、人妖共に相容れるのにはよろしい場ですから」
「聖の同意を得れば、がぜん皆も張り切るでしょう。このような里の中です。一時くらいは人と妖の垣根を近くするのも、必要なことではないかと」
「ええ、このような里の中だからこそ、ですね。この里の人々は、皆生まれてよりそのことを知っている。それが今の世でいいことかどうかは別にして」
「いいことだとは思っていない、というのですか?」
「いいことではないでしょう。人も妖怪も、そこにあるものは有りのままで。在るがままで。人から堕ちた者も怨みにさ迷う者も、ただ流れの中で。この世で良きことはただ一つ、虚無であることです。有為であることです。残念ながら、無為たるものはそこには入らない。この里もその一つ」
「この里も、ということは、あなたは、この里のことを良きものとは思っていないのですね?」
「思ってはいません。しかし、また言うこともない。それは渡世、というものです。この哀れな郷で暮らすための」
「哀れな郷、ということは、あなたはこの里で暮らしていることを、心良し、とは思っていない、ということですか?」
「もちろん、思ってはいません。しかし、それを言わぬことも、また渡世であると思っています。仏の教え、法界の光の中に生きる影、その影をこそ許し、情けを施すことが仏の道。わたしは、まだその中に在る者であると、自分自身に言い聞かせ、また、他人にもそう言い聞かせることで、ここに在ることができている、そのような小さき者です」
「それは、仏の教えに則っているわけではないですね? あなたは、すでに仏の教えを説く資格が、自分の体には存在していないと、自分で決めている。そして、それは、決して強さや潔さがためではない。そのことも、また同様に知っている」
「知っています」
「しかし、知っていると同時に、あなたはまた、自分自身が自棄を起こしてここに居るのでないことも、自分で決めている。だが、同時に、決然とした目標がもはや見えないことも、また知っている。自分が全てを失ったまま、取り戻せない者であることを知っているのですね?」
「知っています」
「では、あなたは、なぜまだ生きているのですか?」
「なぜわたしがまだ生きているのかは、それはわたし自身が、自分がなぜにまだ生きているかということを自分に問い求めていないからです。それは、自分自身ではなく、他人に問い求めているからです。それも、そのことを声には出さずに」
「……。……なるほど。あなたが声に出さなければ、確かにあなたはまだ生きていられる。しかし、声に出せば、きっとそれは失われ、ばらばらに砕け散り、やはり失われてしまう。いや――」
「そう、声に出さなければ無くならないという類のものではない。ならば、わたしが声に出さなければ無くならないというのは大嘘で、それがそこにあると思うのも、また幻想といえるでしょう。しかし、わたしはそれも知り、また自分が知っているということにもまた、知らないふりをして、そうして、生きている」
白蓮は穏かな物腰で答えた。
「それもまたあなた曰くであるところの渡世、ですか。いや、違うな。――そうか」
ナズーリンは少し考えてから改めて言った。
「渡世は、この世を渡り歩くためのもの、それは決して悪というわけではなく、むろん、仏法には悪は存在すれど、何かを悪徒にするということはなく、同じく善徒とすることもなく、そもそも善と悪を分けるのは人の考え、この世の考えであり、あの世の考え、仏の考えではない。仏とすれば善と悪とはただの幻想である……」
「仏にすれば善と悪とはただの幻想である。概念はあれど実態は存在しない。実がない。あるのはあの世で仏が授ける、人がこの世で犯した罪の為の罰、魂の穢れをそそぐための裁き。閻魔大王天尊様のお言葉、そして魂の贖罪と、大いなる方々の赦し。その前には、この世で犯した罪など、手の平を這いのぼる蟻ほどにも、いえ、命はみな手の平の上に平等とするならば塵芥のごときと言えましょうか」
「ならばこそ教えてください、あなたは……、いや、そうか。……あなたは、自分がこの世に生きていることに、何の価値も見出していない。つまりは、そういうことですか?」
「ええ」
微笑んで、白蓮はそう言った。淋しげでも、悟りでもない、ただの空ろな笑み。そうナズーリンには見えた。
「何も、草や木と、花や鳥と、そこに在るのが自然である、そのように、自分も在りたいと、何も、そのように言っているのではありません。この世が無常であるとも。あるいは、虚であるとも、わたしは少しも思ってはいないのです。虚は、そう、虚は、わたし、そう、虚は、無常は、虚無は、そう、このわたし、このわたしの、この私の中にこそある。心の虚(うろ)。永遠に失われた痛みのない心。全てのかかる心を払いのける心」
白蓮は、大げさな身ぶりもなく、ただ語るべきことを語る風に、ナズーリンに、いや、それと共に、自分自身に応えかけていた。虚無。
「払いのける、ではなく、何も感じないのでしょう。あなたはあなたの周りにいる者達の心も……。そうか、だから、……だから、生きていられる。あなたは、人の心を受けてなおそれを吸いこんで、何もない、法の光の射さない、まっ暗な、その胸の内に、何もない胸の内に吸いこんでいて、なおかつそれを感じさせない、普通の人間としてこの世にある姿として、決定的に、壊れ失われている人。そしてそれでもなおかつ人間の姿である人。人外になることを自ら選び人外になった、聖白蓮という者の、ぬけがら。人の形。あなたは、もう生きても死んでもいない、その姿はまさしく『本物の』妖怪そのものだ……」
ナズーリンは淡々と述べた。その間も、白蓮は何も感じず――いや、感じているようなふりをしてはいた。本人にとって、実に無自覚に。
……。妖怪。
柄にもなく、ナズーリンは、もしも自分が人間だったら、と考え、くだらないことを、それがくだらないことを自覚した。
もしも人間だったら、今の話を理解していたのなら、そういう聡い人間であったなら、この女性の前で、吐瀉物(へど)をぶちまけていただろう、と思った。
妖怪。人ではないもの。正真正銘の。
「あなたは、なぜ、今ここに生きているのですか?」
「分かりません。しかし理解はできます。わたしは」
白蓮は、ふっと目を閉じた。
「わたしは、わたしの周りにいる者達からの価値によって、日々を聖白蓮として生きている。あなたや、いえ、あなたはいなくてもいい、そう、あなたの上司である星や、一輪や、ムラサがわたしを、もう何もないわたしを聖白蓮としている。昔のように。もしわたしが消えるとしたら、それらの、人から受ける価値の形が無くなったとき。わたし自身は、この里の有様に自分の理想が正しい形で実現されているのを見て、満足をしたと確信し、そのときに消えた。残りのわたしが消えるのもそう遠くない話だろうと思う。そのときまでは、決して死なないだろう」
「あなたは、自分がこの世にいることに価値を見いだしていないのですね、もう」
「そのわたしは、とうに失われました」
「そうですか、ありがとうございます」
ナズーリンは、話を切りあげて、にこりと笑うと立ちあがった。そして、また一つ礼をした。
「お話が聞けてよかった。それでは、残りの余生を、どうぞお楽しみに」
ナズーリンは深く頭を下げ、部屋を辞した。
間。
命蓮寺。
屋根の上。
後日。
「……むにゃ……、……それから、どしたぁ……」
屋根の上で呑気に寝ていたぬえが、むにゅむにゅと寝言を言った。
初夏。
交流会、もとい親睦会の話は、けっこう順調に進んだ。
過日。
同じく命蓮寺。
ぬえが寝そべって寝言にうつつを抜かしている屋根の下では、今日、この命蓮寺本堂を使っての盛大な宴会、もとい発表会もとい交流会のために、慌ただしく準備が進められ、この度のことに賛同したり便乗したり、様々な立場や理由を見せる人妖達が、準備の手伝い、あるいはその手伝いの邪魔になりに命蓮寺の敷地内をところ狭しと占領し、動きまわっていた。
「は~、ったく。忙しいったらありゃしないわね。あれ、星さん! ぬえは?」
「見てないわ。え~と料理の手配は、と……あら、座布団の数足りてたかしら? 確認してこないと」
「あ~そういうのは誰かに任せてよ。星さんはこっち来て!」
「ナズちゃんこいつはこっちでいいのかい?」
「ああ、悪いね」
「まったくだ。にとり、覚えてなさいよ、いくら木っ端とはいえ天狗をこきつかうとはいくらお山の同友とはいえ」
「口うるさいもみちゃんだねぇ」
賑わいを見せる寺の境内に、本堂の会場設営、演しものの準備、料理、呑みもの、飲み物の手配。
「ふぅ」
白蓮はその中にまぎれてこっそり息をついた。さすがに、あれこれと気をまわし、最近にはまったくなかった活気の中に身を置くと、気に充てられて、まるで春の陽だまりの中に身をさらしたような、むくんだ心が洗われるような心地がする。
時が経ち、あっという間に夜となり、命蓮寺は多くの人で賑わっていた。噂の尊い、(かつ若いということで邪な気持ちでもちろん来る者もいるが、おおむねはそういうことを表向きにしつつ)尼僧様、聖の名を持つお方がいるとは聞きつけていたが、まだ目にはしていなかった人々も加わり、会場の本堂、そして境内は、酒の匂いも、いやいや、「般若」の匂いも相まって、わいわいがやがや、とっぷり日も暮れたというのに、夜の妖魔もつられて足を踏みいれてきそうな、そんなよい気につつまれたもりあがりを見せていた。
(よい気……)
「えぇ、流行りの寺とかけまして、姐さんの白い御々足とときます。その心は」
高座(急きょ、本堂に設えられた幕つきのものだ。村紗が知り合いの河童を連れてきたら、たったの一昼頃でやってくれたらしい)にのぼった雲居の演しものを興ずる声を聞きつつ、特に当てがあったわけではないが、白蓮はつ、と座を立って、人々の集まる本堂を抜けだし、寺の中を歩いていった。宵気。
空にうす陽炎のほとぼり月が色を掠めて上がり、暮れなずむ景色が色褪せた記憶を呼び起こす宵だ。酒を嗜む趣味のあった弟を思い出し、ふと奥の間にひっそりと置いてある、まだ作ってもらったばかりの弟の戒名を彫った木の棒に、こっそりと酒を捧げ、自らも袖に隠してきた小さな猪口で、誰もいない暗い部屋で、人目を気にするそぶりだけわざとしつつ、持ちだしてたた酒を嗜み、過ぎ去った日々に記憶を馳せる。
最後に、ほんのほろ酔い程度に呑んだ気を隠しつつ、また本堂の座へ戻る途中、ふと、目に入った人影が、こちらを見ているのを見て、白蓮はそちらへ目をやった。
蓮因だった。
御仁は、どうやら本堂から出てくるところのようで、酔い気混じりに外を歩いていた白蓮と、偶然目が合ってしまったらしい。
蓮因はじっと、ほんのつかの間、白蓮を見ると、やがて両手を合わせて会釈をした。
白蓮は、それに思わずながら会釈を返し、そうして御仁が、宵気の混じった、先程、白蓮も、また、同じようにして見上げた空と、空の色とに目をやり、やがて、白蓮に背を見せ、帰っていくようだった。
それをじっと見ていた。
暮れなずむ空に馳せた想いが、今の御仁と、同じであることを祈りながら。
それにしてもよく名前の変わるお方だw