■ 支配されない妖精
妖精メイドたちの噂好きは度を越しています。紅魔館の彼女たち一人ひとりが、出所も分からぬ奇譚を持ち運び、隣のメイドに伝え聞かせ、波のように広まっていく。語られる中には不可思議なものも少なくありません。
最近、こういう噂が広まっているようでした。我が紅魔館において、誰の知り合いでもない謎めいた一人の妖精メイドが、いつの間にか側にいたり、声をかけてくるというものです。人が襲われた、呪われた、などという展開はなく、ただそういうメイドがいるのだという単純な話でした。私はこの他愛のない噂を美鈴から聞かされましたが、しばらくは気にもかけていませんでした。
私がこのことを口にする理由をお話しましょう。
美鈴から噂を聞いた数日後のことです。私は毎日の業務である館の掃除を行なっていて、その日の午前中に北東二階の部屋におりました。妖精メイドの相部屋の一つで、私が片付けてあげなければ、彼女たちは見るに堪えない有様をすぐ作り上げてしまうのでした。
二段ベッドの真新しいシーツをきっちり直しているときでしょうか。
「メイド長」
「え、なに」
後ろからのふいな呼び声に、私はすかさず返事をして振り向きました。部屋には誰もおらず、扉さえ閉めきっていたままです。私を呼んだ者は廊下にいるのかなと思い、部屋を出てみたところ、外はがらんとしているではありませんか。しかし廊下を左右と見渡してみれば、左の曲がり角に吸い込まれていくスカートの端を見つけたのです。
「ねえ、何か用なの」
私はスカートの主に向かって声をかけましたが、返事はなく、こちらに戻ってもきませんでした。単なるイタズラかと思いましたが、館で耳にしたことのない声色だったことは多少引っ掛かりました。しかしそんな些細な印象は、すぐ記憶の片隅に追いやられてしまいます。
今思えばコレが例の妖精メイドとの出会いだったのでしょう。彼女との再会は案外はやく訪れました。
別の日、私は他の子を引き連れて厨房で皿洗いをしておりました。人数は私を入れると十人くらいでしたでしょうか。数だけ見れば大勢ですが、きちんと仕事に従事してくれる子は半分くらいです。加えて勝手に厨房を出入りしますから、人数以上の苦労が潜んでいると言えます。
そう、メイドたちは持ち場を行き来するので、気がつけば増えたり減っていたりします。とはいえ私は彼女たちの顔を覚えています。少なくとも正式に雇ったメイドたちならば、間違えはしません。
皿洗いの途中、私はメイドたちの声が一段と騒がしくなったのを感じ取りました。誰か新しい子が混じってきた証拠です。厨房を見渡して確認をとってみると、たしかに一人ぶん頭数が増えているようでした。けどそのときはなぜか、誰が入ってきた子かハッキリと区別できず、ただ増えたという感触を漠然と受け取るばかりでした。
そんな風によそ見をしていると、となりにいた子がサボっているだのと茶化してきます。私は気を取り直して、彼女らをしかりながら皿洗いを続けました。
洗い物を片付けたあと、フキンで両手を拭いながらメイドたちに尋ねました。
「そういえば、途中で一人増えたわよね。誰かしら」
メイドたちはそれぞれに顔を見合わせ、口々に囁きあいます。言われてみれば一人増えたような気がする、と。改めて厨房の人数を数えてみれば、当初と同じ十人に収まっていました。途中で増え、去っていったメイドのことを、誰もがぼんやりとしか覚えておりませんでした。
私がそのことに少し困っていると、メイドたちは噂の妖精メイドではないかと口々に言い始めました。怖がりあい、楽しみあって、余計に煩くなりはじめたので、無駄話をするなと叱責しなければなりませんでした。
二度も不思議な出来事に出会ってなお、私は噂に否定的でした。イタズラ好きなメイドたちだから、噂の種を撒くような馬鹿げた真似をしている子がいるだけに過ぎないと決めつけていたものです。あるいは外からの闖入者。以前には三妖精が侵入したこともありますし、幽霊がふらりと館に訪れることだって珍しくありません。ともかく私は、不思議なことなどでは決してないと思っていたのです。
気がついたら知らない子がいた。こんな体験はその後、身の回りで何度か起こりました。私はそれに与える冷やな視線を絶やさず、あわよくば犯人を捕まえる気でいました。
ある日のこと、私は廊下を歩いていたのですが、またしても例の子にまとわりつかれました。背後から見知らぬ声――何度か体験したにも関わらず耳に馴染ない声――に呼び止められました。普通のメイドに呼び止められるのとは違う感覚に、警戒の年が芽生えました。
相手の正体を見極めてやる。その気持ちはすぐに身に表れ、無意識のうちに時間停止の能力を使わせていました。音でさえも止まるこの世界において、私は悠然と振り返ったものです。
結果は拍子抜けするものでした。廊下の先、ある部屋の扉がわずかに開いていて、隙間から見知った子がこちらを覗いていたではありませんか。笑いをこらえた表情に、私はむしろ唖然としたほどです。
些細なイタズラに過ぎなかったかと呆れ、時間を動かそうとしました。そのとき、背後で起こったありえないことに、油断していた心がぎくりと跳ねました。なぜならこの世界で、私だけが動けるはずの場所で、足音が聞こえるなど、あってはならないことでしたから。
トコトコ……と離れていく足音を聞き、慌てて振り返りましたが、廊下には誰もいませんでした。いたとしても、動いているはずはありません。もしやと思って正面にいるイタズラメイドを観察しましたが、当然ながら一歩たりとも動いた気配はありません。
幻聴を聞いたのだ。私はそう考えることに決め、自分を落ち着かせながら時間を解き放ちました。動き出した世界では心をざわつかせるようなものはありませんでした。
私は扉にかくれていたメイドを捕ました。実は扉を開いて声をかけてきた子の他、裏に三人も待ち構えていました。問い正してみると、彼女たちはずいぶん前からこぞって声をかけるイタズラに興じていたのです。どこからともなく噂を耳にして、自分たちの遊びに組み込んだというわけでした。
彼女たちを引っ張りだして、みんなの前につきだした私は、こう口にしたものです。
「噂の妖精メイドを見つけたわよ」
集まった子の反応は様々でした。やっぱりと納得をする子、期待はずれだったと残念がる子、それは偽物だと疑う子。みんなを集めた食堂は一時、お祭りのような状態になりました。捕まった子も含めてメイドたちは楽しそうに噂の真相を語り合っていました。
これでよしという感じが、私にじわりと染みこみはじめていました。今思えば、噂をもとに活動しはじめた彼女たちを引っ張りだしても、元凶を断ってはいません。しかしそのときは充分仕事をしたと感じていたのです。
メイドたちを眺めている最中、私は横目にあるものを目撃しました。食堂の入り口に見え隠れするスカートの端でした。どうやら噂の中心になりたがっている困ったちゃんがもう一人いるようだ。そう呆れながらもすかさず時間を止めて、彼女も捕まえてしまおうと思いました。
騒いでいたメイドたちが一斉に止まり、食堂は一瞬にして静まり返りました。私はメイドたちを器用に避け、入り口に向かっていきました。ところが、途中で立ち止まることになったのです。私だけの世界で、スカートの主はあろうことか動き逃げ去っていきました。それを見せつけられたときの驚きは、今でも忘れられません。
目の前で常識だったものを打ち破られる感覚にギョッとしつつ、ありえないと心に言い聞かせました。走って入り口に向かい、廊下に出たなり左右をくまなく見渡しました。すると左の突き当りに、スカートがひるがえり、誰とも知れない太ももが、消えていこうとしています。あらためて動いている様を見せつけられた私は絶句しましたが、そんな存在を見過ごすわけにもいきません。全速力で後を追いました。しかし、突き当りまで行ってみると、相手の痕跡は一つとしてありませんでした。まるで蒸気です。
周辺の廊下をぐるりと見て回ったものの、怪しい子はおらず。私は自分が見たものが何だったのか、分からなくなっていたところでした。食堂に戻ろうかと考えはじめていた折、背後からある気配が近づいてきているのを感じました。
廊下に靴音が鳴り、衣擦れの音は絶え間なく、徐々に背後から近づいてくる。私は背筋に電流が走り、振り返ることができなくなる。その何者かは私と、私の能力をあざ笑うかのように、声をかけてきたのです。
「メイド長。フフ、メイド長」
高く涼しげなかわいらしい声が、私の耳を貫いてきました。彼女は何度も私を呼んできたのです。どうしても私を必要としているようでした。その楽しげな声色には、いかなる感情が込められていたのでしょうか。
結末は、分かりません。私は怖気づいて、振り向かずに時間を動かすことにしたのです。たちまち喧騒に包み込まれ、無音からくる緊張が過ぎ去りました。私はその勇気を盾に、ようやく背後に振り返ることができましたが、何もいませんでした。
焦心したまま食堂に戻ってみれば、メイドたちはまだ騒いでおりました。一部の子は私の異変に気づいて、心配の声をかけてくれもしましたが、私はただ大丈夫だと返すしかありません。いったい誰が、この不可解な事実を話せたでしょうか。そんなことをして、不要にメイドたちの不安を煽ったり、噂の種を増やすことなどできません。
既に話したように、私はこの妖精メイドをまったく知りません。知ろうとも思っていません。しかし、彼女は違うようで、私に何かを知ってもらいたいようです。この出来事以来、ときおり出没するようになりました。言わずもがな、止まった時間の中でさえも。私だけの安楽の世界に入り込む彼女の正体を突き止めようとする勇気は、これっきし表れることはないでしょう。
彼女は最近だと、私のことをメイド長とは呼ばず、名前を呼ぶようになってきています。これが何を意味しているのか、図りかねていますが、決して愉快なことではないのでしょう。
■ 霊夢とぬらりひょん
いつもどおりの一日になるはずだった。
霊夢は普段となんら変わらない本殿の掃除を終えて、一息つくため居間に戻るところだった。
居間に入ろうと障子戸に近づいたとき、ほのかに漂っている緑茶の香りに気づいた。今日は朝食のとき以来お茶を淹れていなかったので、怪しむべきことだった。
霊夢が恐る恐る障子戸を開いて居間を覗きこんでみると、まったく見覚えのない老人がくつろいでいた。妙にゴツゴツした坊主頭を光らせ、唇が分厚く耳たぶが大きく、顔はなんともいえず奇怪な風貌をしている。ちゃぶ台に向かい、自分で淹れたらしい緑茶をすすっている。
坊主が手にしていた水玉模様の湯のみは、霊夢のお気に入りで、そうと分かった途端に怒りが湧いた。茶葉も恐らく台所にあったものだろう。霊夢はこの無遠慮な坊主に立ち向かうため、居間に踊りでて、すかさず声をかけた。
「ちょっと、あんた何してんの」
坊主は口こそ動かさなかったが、首を曲げて霊夢をじっと見つめてきた。どことなく均等のとれていない双眸には、どんな気持ちも含まれていないように思えた。その不気味さと睨み合いをしつづけることは、霊夢とは言え耐え難く、あえなく目をそらした。
話し合いをする気がない以上、霊夢に手加減をするつもりはなくなった。掃除に用いていた箒を振り上げて威嚇しながら、坊主を縁側から外に追いだそうとする。坊主はいかにも困ったという調子で眉をくねらせながら、のろのろ逃げ出していった。しばらく追いかけっこが続いたが、坊主が神社の入り口の階段を駆け下りていったところでそれは終わった。
霊夢は満足して居間にもどったが、そこでかたまってしまう。いつの間にやら戻ってきた坊主がまたもや湯のみを傾けているなどと、想像もしていなかったからだ。ただならぬすばしこさは、ゾクとくるものがないこともなかったが、霊夢は怒りに任せてまた箒を振り回した。
また追い出して、いざ戻ってみると、むなしくも坊主がいた。同じことが何度か続けられたが、喜ばしい結末を迎えることはなかった。霊夢はへばって肩をあえがしながら、居間でくつろいでいる坊主を睨みつける。坊主はいたって涼しい顔をしたまま、我が物顔で緑茶を飲み続けていた。
「あんた、覚悟しておきなさいよ」
霊夢はそう捨て台詞を吐きながら、しぶしぶ自分のぶんのお茶を用意しはじめる。この坊主がただの人間でないことは分かったが、退治は後に持ち越すことにしたのだ。今はとりあえず、水分補給がしたかった。
図々しい怪人の正体を見抜けていないわけではなかった。勝手に人の家に上がり込んで、さも住人のように振る舞う。特質を見れば、ぬらりひょんという言葉が思い浮かぶ。それならば、放っておくといずれ去っていくだろう。気持ち悪さは一潮だが、害を及ぼす気配はなく、霊夢の辛抱強さはまだ絶えていない。
その日一日、いつまで経ってもぬらりひょんは居間にいつづけた。霊夢は仕方がないので、倉庫から漆塗りの御膳をわざわざ持ちだして、寝室で夕食を食べることになった。御膳で食事をするなど生まれてはじめての経験だった。自分の先祖も、こんな食事をしていたものだろうかと、多少は過去への想いに浸ったりもした。が、ぬらりひょんの顔を思い出してはムカムカした。
夕食を終え、片付けをし、風呂に入り、いろいろと時間を潰して、一向に帰る気配のない奇面にため息をつきながら床についた。寝室には念のため、奴が侵入できないよう結界を張るのを忘れない。明日になればいなくなっているはずだと、淡い期待を抱いて寝た。
翌日になって、霊夢は見事に落胆することになった。
目覚めて一番、寝間着姿のまま居間に向かった。いざ入ってみると、ぬらりひょんは去っていないどころか、増えているではないか。二人の坊主頭がちゃぶ台にむかって、緑茶をすすっていた始末だ。瓜二つな容姿ながら、目をこらしてみると微妙に別人のようだった。
霊夢は唖然として二人を見渡し、寝起きとは思えぬハッキリした声をあげた。
「なんのつもりよ、あんたたち。どこから来たのよ」
二人は声に応じてこちらに顔をむけてきた。梅干しのような面におさまっている不気味な四つの瞳が霊夢を射抜く。何を考えているのかさっぱり分からない表情は、霊夢の逆鱗をかすかに刺激した。
霊夢は一瞬、妖怪退治の札や針を持ち出すのもやぶさかではないと思った。だがぐっとこらえて、あくまで相手が自ら去っていくのを待つことにした。曲がりなりにも老人の姿をした者を邪険には扱えず、どうせ台風のような一過性にすぎないと、自分に言い聞かせたのだ。
心労を抱えながらも、いつもの生活を始めることにした。さしあたり、庭掃除に逃避するのが手頃だった。季節は春を迎えていたので、一日でも手を抜けば寺の庭はすぐさま桜の花びらで埋め尽くされてしまう。のんびりと庭を掃いている間だけは、いつもと変わらぬ至福のひとときだった。
掃除を続けていると、さほどトサカにこない訪問者がやってきた。誇らしげに箒に乗って現れた魔理沙が、霊夢がかき集めていた花びらを散らさぬよう注意しながら降り立ってきた。
「よう、早く終わらせろよ」
魔理沙はそう言いながら寺の中へ行こうとしたので、霊夢は慌てて止めに入った。
「中はダメよ。変な奴がいるから」
「え、お客さんか」
「居間に妖怪がいるの。面倒だから近づかないで」
「なんだそりゃ」
魔理沙は興味津々な様子で寄ってきたので、霊夢は二人の妖怪について包み隠さず話すことにした。ぬらりひょんと思しき者がいて、危害は加えてこないが邪魔で不気味でしかたがない。その事情を聞いた魔理沙はさっきよりも興味を薄めたようだった。とはいえ気にはなったようで、居間へと見学の足をのばした。
しばらくして戻ってきた魔理沙は、すっかり気分を盛り下げていた。
「期待外れだったな。まあ、害はないんだろ」
「そうよ。ただいるだけよ。それが嫌なの」
「あの爺さんたちを追い出すのもなんか可哀想だし、放っておこうぜ」
「だから、一応そうしてやってんだけどね」
この日も霊夢の期待は虚しく、ぬらりひょんはいつまで経っても居間にいつづけた。
翌日になり、霊夢は寝覚めの悪い中で一つの不安を抱えていた。もしかしたら今日もぬらりひょんが増えているのではないか。しかし居間に行ってみると、昨日と変わらない光景だった。ホッとしつつ、あらためて憤りつつ、無視を決め込んだ。
居間でのんびり時間を過ごすことはできなかったので、普段は滅多にやらないことをした。霊夢は手付かずだった倉庫の片付けを行いはじめ、かなり熱中した。
昼になった。倉庫の片付けをキリのいいところで中断した霊夢は、少し前から鳴り止まなくなったお腹をさすりながら台所に向かった。昼食を作ろうとウズウズしていた霊夢は、台所に入ったところで呆気にとられてしまう。
どういうわけか、台所にぬらりひょんが立っていた。流しで包丁をてきぱきとふるって野菜を切り、竈では火を炊いて何かを煮込んでいる。霊夢が慌てて居間を覗けば、以前からいた二人は相変わらずお茶を味わい続けている。この女房風情な者は、新しい参加者のようだった。状況を見定めようと混乱しているうちに、彼らは昼食の準備をすっかり終えて、ちゃぶ台をかこんで食事をはじめた。
霊夢のぶんはなかった。しかも台所にいってみると、食料品は当然減っていた。三人分、一人暮らしの霊夢からすれば背筋の凍る量が失われた。お昼がすぐには食べられないと分かったとき、彼女の不満はぐっと沸点に近づいた。しかし空腹で怒る気力もなかった。仏頂面で買い出しの準備をすると、のろのろと神社を後にする。
里に向かった霊夢は、めまぐるしい素早さで買い物を終える。途中、のどかな茶屋、活気ある飯屋などが目に映りこみ、生唾を飲み込むこともあった。が、ここで外食をするのは、自分の敗北を認めてしまったような気がしてならず、緩みそうな財布の紐をぐっと縛り上げた。
すぐさま神社へ舞い戻る。もう昼も過ぎて、お腹の虫も息絶えたか声を潜めているほどだった。食べることさえ嫌になっていたが、しかし何かを作って口に運ばないと済まなくなっていた。
神社にもどった霊夢は台所に品を置いたあと、図々しい化け物たちの様子を見るために居間を覗いた。そこで目を見開く。ちゃぶ台を囲んでいるぬらりひょんは、どう数えてみても五人に増えていた。お茶を飲み、霊夢がとっておいた煎餅を食べ散らかし、好き放題にのさばっている。一日で二倍以上になるとは夢にも思わなかったので、頭がくらくらしはじめた。
無気力な中でどうにか力を振り絞って簡易な料理を作ると、寝室にいって遅すぎる食事をはじめる。霊夢はぬらりひょんたちを追い出すことだけを考えながら、黙々と箸を進めていた。もう我慢ができない。相手が何であろうと、自分の城を奪われるのは許しておけない。
またふつふつと怒りが込みあげていた。そのさなか、縁側から足音が聞こえてきた。霊夢はぼんやりと顔をあげて、ギョッとさせられた。障子越しに縁側を歩くぬらりひょんの影が見えた。奴は左から右に寝室を横切っていくではないか。急いで廊下に出てみると、そのぬらりひょんはゆったりした足取りで本堂のほうに向かっているらしかった。
妖怪を本堂に入れさせるなんて! 霊夢はぬらりひょんを追いかけて、本堂へと近づける前に追い払う。奴が庭先へ逃げ延びていくのを見届けた後、肩を落として寝室に戻ったが、御膳がなくなっていた。もしやと思って台所に直行すると、別のぬらりひょんが片付けを行なっている有様だ。まだ食べきっていなかった料理は捨てられたか食べられた、見当たらない。
「もう、なんなのよ!」
霊夢は怒りに任せて御札を投げ払う。御札はぬらりひょんの後頭部にしっかと張り付き、たちまち聖なる力を発揮しはじめた。ぬらりひょんが耐えかねて台所の裏口から逃げ出していく。
つづけて居間に突撃した霊夢は、呑気している他のぬらりひょん共にも同じ制裁を加えていった。彼らを散り散りにさせたあと、もう決して入ってこれぬようにと居間の四隅に御札を貼る。さらに縁側や寝室や廊下、あらゆる場所に御札を貼り付けて回って、いつになく大規模な結界を張り巡らした。めっきりしなくなっていたお祈りを、簡易ながら本殿で執り行うほどの本気だった。おかげ様で、普段から溜まっていた俗霊や妖怪が神社から飛び出ていったが、構うことではなかった。
ひとしきりのことをやりおえ、霊夢はまた空きはじめた腹を気にしながら居間に戻り帰る。そこで彼女を待っていたものは、恐るべきぬらりひょん一家だった。
どうやって結界を乗り越えてきたのか、いつの間に集合したのか。ともかく、まったく想像もできなかった出来事に、霊夢はただ口を開くばかりだ。それどころか、自分の努力が空回りに終わったことで、不覚にも目が潤みだすのを止められなかった。
「どっか行きなさいよ!」
霊夢は縁側から居間にむかって絶叫する。ぬらりひょん一家はその能面を一斉に動かして、無言の圧力を放ってきた。まるで彼らのほうがそこにいるべき存在で、霊夢のほうが部外者であるかのような、そんな空気だった。彼らの言い知れぬ雰囲気に怖気づいて、霊夢は後ろ髪を引かれながらも神社から飛び出す。
神社を奪い返したいのはやまやまだが、今はまずゆっくりできる場所を確保したかった。そのために向かった場所は魔法の森、魔理沙の家だ。
霊夢は霧雨亭の玄関を叩いて、魔理沙が在宅中であることを願った。幸運にも魔理沙は玄関に出てきてくれて、思わぬ来訪者だったらしく、驚いた顔を見せた。
「お前かよ。珍しいな」
「今日、泊まるわよ」
「あ。はあ、いいぜ」
中にあがらせてもらいながら、事情を魔理沙に説明した。ぬらりひょんが現れたことは既に話していたので、それが減るどころか増えたこと、ぬけぬけと生活を始めたこと、退魔の力が効かないことを話した。
魔理沙はニヤニヤとしながらも、家が奪われるのは大変なことだと同情を示し、一緒に取り戻しにいこうと約束してくれた。霊夢はこのとき、奪い取られる危機に陥っている神社のことを「自分の家」とだけ表現したが、仲の良い魔理沙にはそれで通じていた。まだ、二人の会話はきちんと噛み合っていた。
翌日、霊夢と魔理沙は朝のうちから神社にむかった。まぶゆい朝日を斜に受けながら神社を上空から観察してみたが怪しい気配はない。ぬらりひょんは居間を好んでいて、それは朝でも変わらぬ習性らしかった。
霊夢は中庭に降り立つため魔理沙に合図を送る。すると、魔理沙は怪訝な顔をこちらにむけてきた。そんな顔をされる心当たりはなかったので、同じように眉を寄せながら口を開いた。
「なに、どうしたの」
「ここはお前の家じゃないだろ」
友人からの思いもよらぬ返しに、霊夢はきょとんとする。それが癪に障る内容でもあったので、怒りを口から出さずにはいられなかった。
「あんたねえ、馬鹿なこと言ってる暇はないわよ」
「いや、だって霊夢。ここは違うだろ」
「何が違うのよ。博麗神社よ」
「そうだよ。博麗神社だ。他所様の家だろ」
「ふざけないでよ!」
「お前こそ、ふざけてんのか」
これまで鬱積していた怒りは、友人が引き金となってついに爆発した。空中での言い争いは凄まじかった。霊夢はここが自分の居場所であることを譲らなかったが、魔理沙はそうじゃないと言い張る。どちらも引かなかったが、しまいには魔理沙のほうが呆れ果てて去っていった。霊夢はムカムカした気持ちを抑えきれぬままその背中を見送った。
落ち着いてから、事の重大さに気づいた。思い返してみると、魔理沙は冗談のつもりもなく先の主張を繰り返していたようだ。あの苦々しい表情を思い出すとゾッとさせられた。
なぜ魔理沙がこんなことを言い出したのか。霊夢は押し寄せてくる不安を振り払いながら神社に降り立ち、居間にむかった。外から中の様子を見てみると、ぬらりひょん一家は七人に増えていて、もはや呆れも通り越した。
彼らを見ているうちに、霊夢の不安が恐怖に変わっていく。魔理沙の言葉がじんじんと頭に響いた。もしかしたらここは本当に彼らの住居なのではないか? そんなありえない気持ちが湧いて出た。信じられないことだ。だがその気持は心を圧迫してくる。神社にいられなくなったらどうしようという、新たな不安も呼び起こす。
居間が視界に入る中庭にはとてもいられなかった。急いで庭に逃げ出した霊夢は、息を荒げて神社の立派な瓦屋根を見上げる。何をすればいいのか考えることもできず、立ち尽くした。
「霊夢、ひどい顔ね」
ふと、霊夢の頭上から呼び声が聞こえたかと思うと、八雲紫と、去っていったはずの魔理沙が降り立った。魔理沙は喧嘩を引きずったままの険しい顔つきでこう言った。
「紫に怒られて戻ってきたんだぜ」
紫は母性的な微笑をたたえながら、一歩前に出て話し始める。
「霊夢、貴方の居場所が奪われようとしている。彼らはそういう妖怪なの。ここが貴方の居場所であることを、知らしめなければならないわ。そのためには、他人の声がいる」
「それはどういうことよ」
「見ていなさい」
霊夢は紫の話を聞いてなお、不安を捨て去ることができなかった。しかし、ここは本当に私の居場所なのかと尋ねてみると、紫は笑顔で請け負ってくれた。今はこの些細な賛同だけでも、心を潤してくれるのだ。
しばらくすると空の彼方から八雲藍がやってきた。彼女は幾人かの少女を連れ立っていた。レミリアと咲夜、萃香、そしてお燐。曰く、普段の霊夢をよく知る者達を集めてきたというが、咲夜だけはレミリアのお釣りで付いてきたのだと。
レミリアが紫を見たなり顔をしかめて口を開く。
「いったい何の用かしらね。変なお遊びはゴメンよ」
「すぐ終わることよ。話してあげるわ」
紫が口にした事柄は、拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。ここに集ったみんなが神社を囲んで立ち「博麗霊夢さん、お邪魔します」と大声で唱え続けるのだという。たったこれだけで、奪われかけている霊夢の居場所を取り返すことができるのだそうな。
行うべきことは滑稽だ。しかし、名を呼ぶという行為に潜む力を、ここにいる者達が知らないわけではなかった。特に霊夢は、幽霊退治、妖怪退治に携わっている手前、たしかにこれならば異変を解決できるだろうと思ったものだ。
とはいえ不安は尽きぬ。皆がぞろ、神社を囲むため持ち場にうつりはじめたが、その前にお燐などは霊夢にこう話しかけてきた。
「ここって霊夢の家だったの?」
「そうよ……」
「うーん? まあいいや」
霊夢の気持ちをより締めつける言葉は、当人の鬱屈さとは裏腹にほがらかな口調で漏らされた。こういう態度をとったのはお燐だけではない。レミリアは神社と霊夢を見比べて首をひねり、咲夜と耳打ちで何やら話しはじめた。萃香はケラケラ笑っていたが、ほんの刹那、疑問の表情を浮かべたのが見て取れた。
霊夢が庭に立ってふさぎこんでいる間にも、いよいよ皆がばらけて、それを確認し終えた紫が合図を送った。家主はあとは見守るばかりだ。
「博麗霊夢さん、お邪魔します」
例の言葉が博麗神社に響き渡る。不揃いで、声色はまちまちだったが、声量の高さはよく空に通り、ふとすれば祭事の掛け声かと思われた。霊夢を落ち着かせなかったのは、自分の家の前で、自分の名前が呼ばれ続けるむず痒さだ。
「博麗霊夢さん、お邪魔します」
もっとも声を高めているのは、催し事が好きな萃香だった。太鼓のような勇ましさで神社に響きわたる様は、その効力をふつふつと実感させた。魔理沙の声も負けじとといった具合だ。神社の裏で見えてはいないが、友人が頑張ってくれているのはたまらない励みだった。
「博麗霊夢さん、お邪魔します」
言葉が三巡目に入ったとき変化が起きた。中庭側にいたお燐がなにやら叫び声をあげたかと思うと、続けざま、藍の掛け声がほんの一瞬とぎれた。そちらのほうから複数の足音がべたべた聞こえてきたかと思えば、庭先にぬらりひょんたちが殺到してきたではないか。彼らは血相を変えて神社から離れていくと、霊夢を横切って敷地の外へと逃げ出していく。その数は実に十人、ばらばらと通り過ぎていく一家の多さに、霊夢は何も口にすることができなかった。
足音が遠ざかっていく。いつしか霊夢を呼ぶ叫び声も薄まっていき、ぬらりひょんたちの気配が消え去ったことを霊夢は確信した。するうち、神社を囲んでいた皆が霊夢のもとに集まってくると、音頭をとっていた紫が満足気にこれで終わったと告げた。
かき集められた者達は、なんだか釈然としていない様子だった。だが一人、魔理沙だけは目を泳がせて、もじもじと霊夢に近づいていった。
「あー、悪かった。ここはお前の家だったな。うん、思い出したぜ」
「当たり前じゃない」
と言葉は尖らせながらも、霊夢は仲直りの兆しに嬉しくなってつい頬がゆるんだ。その表情を隠すように紫に向き直って、お礼を言った。
「ありがとう。ちょっと今回はダメかと思ったわ」
「まだまだ未熟ね。力だけでは敵わない妖怪がいて、こういう解決の仕方があるってこと、しっかり勉強しなさい」
紫は妖艶に微笑むと、つぎの一瞬にはその場から消え失せていた。霊夢はお説教をされて、最後まで締まりのつかないことを自覚しながらも、異変が解決したことに満足した。せっかく人が集まったのだからと、宴会を提案し、準備のために勇んで神社の中に向かっていった。
妖精メイドたちの噂好きは度を越しています。紅魔館の彼女たち一人ひとりが、出所も分からぬ奇譚を持ち運び、隣のメイドに伝え聞かせ、波のように広まっていく。語られる中には不可思議なものも少なくありません。
最近、こういう噂が広まっているようでした。我が紅魔館において、誰の知り合いでもない謎めいた一人の妖精メイドが、いつの間にか側にいたり、声をかけてくるというものです。人が襲われた、呪われた、などという展開はなく、ただそういうメイドがいるのだという単純な話でした。私はこの他愛のない噂を美鈴から聞かされましたが、しばらくは気にもかけていませんでした。
私がこのことを口にする理由をお話しましょう。
美鈴から噂を聞いた数日後のことです。私は毎日の業務である館の掃除を行なっていて、その日の午前中に北東二階の部屋におりました。妖精メイドの相部屋の一つで、私が片付けてあげなければ、彼女たちは見るに堪えない有様をすぐ作り上げてしまうのでした。
二段ベッドの真新しいシーツをきっちり直しているときでしょうか。
「メイド長」
「え、なに」
後ろからのふいな呼び声に、私はすかさず返事をして振り向きました。部屋には誰もおらず、扉さえ閉めきっていたままです。私を呼んだ者は廊下にいるのかなと思い、部屋を出てみたところ、外はがらんとしているではありませんか。しかし廊下を左右と見渡してみれば、左の曲がり角に吸い込まれていくスカートの端を見つけたのです。
「ねえ、何か用なの」
私はスカートの主に向かって声をかけましたが、返事はなく、こちらに戻ってもきませんでした。単なるイタズラかと思いましたが、館で耳にしたことのない声色だったことは多少引っ掛かりました。しかしそんな些細な印象は、すぐ記憶の片隅に追いやられてしまいます。
今思えばコレが例の妖精メイドとの出会いだったのでしょう。彼女との再会は案外はやく訪れました。
別の日、私は他の子を引き連れて厨房で皿洗いをしておりました。人数は私を入れると十人くらいでしたでしょうか。数だけ見れば大勢ですが、きちんと仕事に従事してくれる子は半分くらいです。加えて勝手に厨房を出入りしますから、人数以上の苦労が潜んでいると言えます。
そう、メイドたちは持ち場を行き来するので、気がつけば増えたり減っていたりします。とはいえ私は彼女たちの顔を覚えています。少なくとも正式に雇ったメイドたちならば、間違えはしません。
皿洗いの途中、私はメイドたちの声が一段と騒がしくなったのを感じ取りました。誰か新しい子が混じってきた証拠です。厨房を見渡して確認をとってみると、たしかに一人ぶん頭数が増えているようでした。けどそのときはなぜか、誰が入ってきた子かハッキリと区別できず、ただ増えたという感触を漠然と受け取るばかりでした。
そんな風によそ見をしていると、となりにいた子がサボっているだのと茶化してきます。私は気を取り直して、彼女らをしかりながら皿洗いを続けました。
洗い物を片付けたあと、フキンで両手を拭いながらメイドたちに尋ねました。
「そういえば、途中で一人増えたわよね。誰かしら」
メイドたちはそれぞれに顔を見合わせ、口々に囁きあいます。言われてみれば一人増えたような気がする、と。改めて厨房の人数を数えてみれば、当初と同じ十人に収まっていました。途中で増え、去っていったメイドのことを、誰もがぼんやりとしか覚えておりませんでした。
私がそのことに少し困っていると、メイドたちは噂の妖精メイドではないかと口々に言い始めました。怖がりあい、楽しみあって、余計に煩くなりはじめたので、無駄話をするなと叱責しなければなりませんでした。
二度も不思議な出来事に出会ってなお、私は噂に否定的でした。イタズラ好きなメイドたちだから、噂の種を撒くような馬鹿げた真似をしている子がいるだけに過ぎないと決めつけていたものです。あるいは外からの闖入者。以前には三妖精が侵入したこともありますし、幽霊がふらりと館に訪れることだって珍しくありません。ともかく私は、不思議なことなどでは決してないと思っていたのです。
気がついたら知らない子がいた。こんな体験はその後、身の回りで何度か起こりました。私はそれに与える冷やな視線を絶やさず、あわよくば犯人を捕まえる気でいました。
ある日のこと、私は廊下を歩いていたのですが、またしても例の子にまとわりつかれました。背後から見知らぬ声――何度か体験したにも関わらず耳に馴染ない声――に呼び止められました。普通のメイドに呼び止められるのとは違う感覚に、警戒の年が芽生えました。
相手の正体を見極めてやる。その気持ちはすぐに身に表れ、無意識のうちに時間停止の能力を使わせていました。音でさえも止まるこの世界において、私は悠然と振り返ったものです。
結果は拍子抜けするものでした。廊下の先、ある部屋の扉がわずかに開いていて、隙間から見知った子がこちらを覗いていたではありませんか。笑いをこらえた表情に、私はむしろ唖然としたほどです。
些細なイタズラに過ぎなかったかと呆れ、時間を動かそうとしました。そのとき、背後で起こったありえないことに、油断していた心がぎくりと跳ねました。なぜならこの世界で、私だけが動けるはずの場所で、足音が聞こえるなど、あってはならないことでしたから。
トコトコ……と離れていく足音を聞き、慌てて振り返りましたが、廊下には誰もいませんでした。いたとしても、動いているはずはありません。もしやと思って正面にいるイタズラメイドを観察しましたが、当然ながら一歩たりとも動いた気配はありません。
幻聴を聞いたのだ。私はそう考えることに決め、自分を落ち着かせながら時間を解き放ちました。動き出した世界では心をざわつかせるようなものはありませんでした。
私は扉にかくれていたメイドを捕ました。実は扉を開いて声をかけてきた子の他、裏に三人も待ち構えていました。問い正してみると、彼女たちはずいぶん前からこぞって声をかけるイタズラに興じていたのです。どこからともなく噂を耳にして、自分たちの遊びに組み込んだというわけでした。
彼女たちを引っ張りだして、みんなの前につきだした私は、こう口にしたものです。
「噂の妖精メイドを見つけたわよ」
集まった子の反応は様々でした。やっぱりと納得をする子、期待はずれだったと残念がる子、それは偽物だと疑う子。みんなを集めた食堂は一時、お祭りのような状態になりました。捕まった子も含めてメイドたちは楽しそうに噂の真相を語り合っていました。
これでよしという感じが、私にじわりと染みこみはじめていました。今思えば、噂をもとに活動しはじめた彼女たちを引っ張りだしても、元凶を断ってはいません。しかしそのときは充分仕事をしたと感じていたのです。
メイドたちを眺めている最中、私は横目にあるものを目撃しました。食堂の入り口に見え隠れするスカートの端でした。どうやら噂の中心になりたがっている困ったちゃんがもう一人いるようだ。そう呆れながらもすかさず時間を止めて、彼女も捕まえてしまおうと思いました。
騒いでいたメイドたちが一斉に止まり、食堂は一瞬にして静まり返りました。私はメイドたちを器用に避け、入り口に向かっていきました。ところが、途中で立ち止まることになったのです。私だけの世界で、スカートの主はあろうことか動き逃げ去っていきました。それを見せつけられたときの驚きは、今でも忘れられません。
目の前で常識だったものを打ち破られる感覚にギョッとしつつ、ありえないと心に言い聞かせました。走って入り口に向かい、廊下に出たなり左右をくまなく見渡しました。すると左の突き当りに、スカートがひるがえり、誰とも知れない太ももが、消えていこうとしています。あらためて動いている様を見せつけられた私は絶句しましたが、そんな存在を見過ごすわけにもいきません。全速力で後を追いました。しかし、突き当りまで行ってみると、相手の痕跡は一つとしてありませんでした。まるで蒸気です。
周辺の廊下をぐるりと見て回ったものの、怪しい子はおらず。私は自分が見たものが何だったのか、分からなくなっていたところでした。食堂に戻ろうかと考えはじめていた折、背後からある気配が近づいてきているのを感じました。
廊下に靴音が鳴り、衣擦れの音は絶え間なく、徐々に背後から近づいてくる。私は背筋に電流が走り、振り返ることができなくなる。その何者かは私と、私の能力をあざ笑うかのように、声をかけてきたのです。
「メイド長。フフ、メイド長」
高く涼しげなかわいらしい声が、私の耳を貫いてきました。彼女は何度も私を呼んできたのです。どうしても私を必要としているようでした。その楽しげな声色には、いかなる感情が込められていたのでしょうか。
結末は、分かりません。私は怖気づいて、振り向かずに時間を動かすことにしたのです。たちまち喧騒に包み込まれ、無音からくる緊張が過ぎ去りました。私はその勇気を盾に、ようやく背後に振り返ることができましたが、何もいませんでした。
焦心したまま食堂に戻ってみれば、メイドたちはまだ騒いでおりました。一部の子は私の異変に気づいて、心配の声をかけてくれもしましたが、私はただ大丈夫だと返すしかありません。いったい誰が、この不可解な事実を話せたでしょうか。そんなことをして、不要にメイドたちの不安を煽ったり、噂の種を増やすことなどできません。
既に話したように、私はこの妖精メイドをまったく知りません。知ろうとも思っていません。しかし、彼女は違うようで、私に何かを知ってもらいたいようです。この出来事以来、ときおり出没するようになりました。言わずもがな、止まった時間の中でさえも。私だけの安楽の世界に入り込む彼女の正体を突き止めようとする勇気は、これっきし表れることはないでしょう。
彼女は最近だと、私のことをメイド長とは呼ばず、名前を呼ぶようになってきています。これが何を意味しているのか、図りかねていますが、決して愉快なことではないのでしょう。
■ 霊夢とぬらりひょん
いつもどおりの一日になるはずだった。
霊夢は普段となんら変わらない本殿の掃除を終えて、一息つくため居間に戻るところだった。
居間に入ろうと障子戸に近づいたとき、ほのかに漂っている緑茶の香りに気づいた。今日は朝食のとき以来お茶を淹れていなかったので、怪しむべきことだった。
霊夢が恐る恐る障子戸を開いて居間を覗きこんでみると、まったく見覚えのない老人がくつろいでいた。妙にゴツゴツした坊主頭を光らせ、唇が分厚く耳たぶが大きく、顔はなんともいえず奇怪な風貌をしている。ちゃぶ台に向かい、自分で淹れたらしい緑茶をすすっている。
坊主が手にしていた水玉模様の湯のみは、霊夢のお気に入りで、そうと分かった途端に怒りが湧いた。茶葉も恐らく台所にあったものだろう。霊夢はこの無遠慮な坊主に立ち向かうため、居間に踊りでて、すかさず声をかけた。
「ちょっと、あんた何してんの」
坊主は口こそ動かさなかったが、首を曲げて霊夢をじっと見つめてきた。どことなく均等のとれていない双眸には、どんな気持ちも含まれていないように思えた。その不気味さと睨み合いをしつづけることは、霊夢とは言え耐え難く、あえなく目をそらした。
話し合いをする気がない以上、霊夢に手加減をするつもりはなくなった。掃除に用いていた箒を振り上げて威嚇しながら、坊主を縁側から外に追いだそうとする。坊主はいかにも困ったという調子で眉をくねらせながら、のろのろ逃げ出していった。しばらく追いかけっこが続いたが、坊主が神社の入り口の階段を駆け下りていったところでそれは終わった。
霊夢は満足して居間にもどったが、そこでかたまってしまう。いつの間にやら戻ってきた坊主がまたもや湯のみを傾けているなどと、想像もしていなかったからだ。ただならぬすばしこさは、ゾクとくるものがないこともなかったが、霊夢は怒りに任せてまた箒を振り回した。
また追い出して、いざ戻ってみると、むなしくも坊主がいた。同じことが何度か続けられたが、喜ばしい結末を迎えることはなかった。霊夢はへばって肩をあえがしながら、居間でくつろいでいる坊主を睨みつける。坊主はいたって涼しい顔をしたまま、我が物顔で緑茶を飲み続けていた。
「あんた、覚悟しておきなさいよ」
霊夢はそう捨て台詞を吐きながら、しぶしぶ自分のぶんのお茶を用意しはじめる。この坊主がただの人間でないことは分かったが、退治は後に持ち越すことにしたのだ。今はとりあえず、水分補給がしたかった。
図々しい怪人の正体を見抜けていないわけではなかった。勝手に人の家に上がり込んで、さも住人のように振る舞う。特質を見れば、ぬらりひょんという言葉が思い浮かぶ。それならば、放っておくといずれ去っていくだろう。気持ち悪さは一潮だが、害を及ぼす気配はなく、霊夢の辛抱強さはまだ絶えていない。
その日一日、いつまで経ってもぬらりひょんは居間にいつづけた。霊夢は仕方がないので、倉庫から漆塗りの御膳をわざわざ持ちだして、寝室で夕食を食べることになった。御膳で食事をするなど生まれてはじめての経験だった。自分の先祖も、こんな食事をしていたものだろうかと、多少は過去への想いに浸ったりもした。が、ぬらりひょんの顔を思い出してはムカムカした。
夕食を終え、片付けをし、風呂に入り、いろいろと時間を潰して、一向に帰る気配のない奇面にため息をつきながら床についた。寝室には念のため、奴が侵入できないよう結界を張るのを忘れない。明日になればいなくなっているはずだと、淡い期待を抱いて寝た。
翌日になって、霊夢は見事に落胆することになった。
目覚めて一番、寝間着姿のまま居間に向かった。いざ入ってみると、ぬらりひょんは去っていないどころか、増えているではないか。二人の坊主頭がちゃぶ台にむかって、緑茶をすすっていた始末だ。瓜二つな容姿ながら、目をこらしてみると微妙に別人のようだった。
霊夢は唖然として二人を見渡し、寝起きとは思えぬハッキリした声をあげた。
「なんのつもりよ、あんたたち。どこから来たのよ」
二人は声に応じてこちらに顔をむけてきた。梅干しのような面におさまっている不気味な四つの瞳が霊夢を射抜く。何を考えているのかさっぱり分からない表情は、霊夢の逆鱗をかすかに刺激した。
霊夢は一瞬、妖怪退治の札や針を持ち出すのもやぶさかではないと思った。だがぐっとこらえて、あくまで相手が自ら去っていくのを待つことにした。曲がりなりにも老人の姿をした者を邪険には扱えず、どうせ台風のような一過性にすぎないと、自分に言い聞かせたのだ。
心労を抱えながらも、いつもの生活を始めることにした。さしあたり、庭掃除に逃避するのが手頃だった。季節は春を迎えていたので、一日でも手を抜けば寺の庭はすぐさま桜の花びらで埋め尽くされてしまう。のんびりと庭を掃いている間だけは、いつもと変わらぬ至福のひとときだった。
掃除を続けていると、さほどトサカにこない訪問者がやってきた。誇らしげに箒に乗って現れた魔理沙が、霊夢がかき集めていた花びらを散らさぬよう注意しながら降り立ってきた。
「よう、早く終わらせろよ」
魔理沙はそう言いながら寺の中へ行こうとしたので、霊夢は慌てて止めに入った。
「中はダメよ。変な奴がいるから」
「え、お客さんか」
「居間に妖怪がいるの。面倒だから近づかないで」
「なんだそりゃ」
魔理沙は興味津々な様子で寄ってきたので、霊夢は二人の妖怪について包み隠さず話すことにした。ぬらりひょんと思しき者がいて、危害は加えてこないが邪魔で不気味でしかたがない。その事情を聞いた魔理沙はさっきよりも興味を薄めたようだった。とはいえ気にはなったようで、居間へと見学の足をのばした。
しばらくして戻ってきた魔理沙は、すっかり気分を盛り下げていた。
「期待外れだったな。まあ、害はないんだろ」
「そうよ。ただいるだけよ。それが嫌なの」
「あの爺さんたちを追い出すのもなんか可哀想だし、放っておこうぜ」
「だから、一応そうしてやってんだけどね」
この日も霊夢の期待は虚しく、ぬらりひょんはいつまで経っても居間にいつづけた。
翌日になり、霊夢は寝覚めの悪い中で一つの不安を抱えていた。もしかしたら今日もぬらりひょんが増えているのではないか。しかし居間に行ってみると、昨日と変わらない光景だった。ホッとしつつ、あらためて憤りつつ、無視を決め込んだ。
居間でのんびり時間を過ごすことはできなかったので、普段は滅多にやらないことをした。霊夢は手付かずだった倉庫の片付けを行いはじめ、かなり熱中した。
昼になった。倉庫の片付けをキリのいいところで中断した霊夢は、少し前から鳴り止まなくなったお腹をさすりながら台所に向かった。昼食を作ろうとウズウズしていた霊夢は、台所に入ったところで呆気にとられてしまう。
どういうわけか、台所にぬらりひょんが立っていた。流しで包丁をてきぱきとふるって野菜を切り、竈では火を炊いて何かを煮込んでいる。霊夢が慌てて居間を覗けば、以前からいた二人は相変わらずお茶を味わい続けている。この女房風情な者は、新しい参加者のようだった。状況を見定めようと混乱しているうちに、彼らは昼食の準備をすっかり終えて、ちゃぶ台をかこんで食事をはじめた。
霊夢のぶんはなかった。しかも台所にいってみると、食料品は当然減っていた。三人分、一人暮らしの霊夢からすれば背筋の凍る量が失われた。お昼がすぐには食べられないと分かったとき、彼女の不満はぐっと沸点に近づいた。しかし空腹で怒る気力もなかった。仏頂面で買い出しの準備をすると、のろのろと神社を後にする。
里に向かった霊夢は、めまぐるしい素早さで買い物を終える。途中、のどかな茶屋、活気ある飯屋などが目に映りこみ、生唾を飲み込むこともあった。が、ここで外食をするのは、自分の敗北を認めてしまったような気がしてならず、緩みそうな財布の紐をぐっと縛り上げた。
すぐさま神社へ舞い戻る。もう昼も過ぎて、お腹の虫も息絶えたか声を潜めているほどだった。食べることさえ嫌になっていたが、しかし何かを作って口に運ばないと済まなくなっていた。
神社にもどった霊夢は台所に品を置いたあと、図々しい化け物たちの様子を見るために居間を覗いた。そこで目を見開く。ちゃぶ台を囲んでいるぬらりひょんは、どう数えてみても五人に増えていた。お茶を飲み、霊夢がとっておいた煎餅を食べ散らかし、好き放題にのさばっている。一日で二倍以上になるとは夢にも思わなかったので、頭がくらくらしはじめた。
無気力な中でどうにか力を振り絞って簡易な料理を作ると、寝室にいって遅すぎる食事をはじめる。霊夢はぬらりひょんたちを追い出すことだけを考えながら、黙々と箸を進めていた。もう我慢ができない。相手が何であろうと、自分の城を奪われるのは許しておけない。
またふつふつと怒りが込みあげていた。そのさなか、縁側から足音が聞こえてきた。霊夢はぼんやりと顔をあげて、ギョッとさせられた。障子越しに縁側を歩くぬらりひょんの影が見えた。奴は左から右に寝室を横切っていくではないか。急いで廊下に出てみると、そのぬらりひょんはゆったりした足取りで本堂のほうに向かっているらしかった。
妖怪を本堂に入れさせるなんて! 霊夢はぬらりひょんを追いかけて、本堂へと近づける前に追い払う。奴が庭先へ逃げ延びていくのを見届けた後、肩を落として寝室に戻ったが、御膳がなくなっていた。もしやと思って台所に直行すると、別のぬらりひょんが片付けを行なっている有様だ。まだ食べきっていなかった料理は捨てられたか食べられた、見当たらない。
「もう、なんなのよ!」
霊夢は怒りに任せて御札を投げ払う。御札はぬらりひょんの後頭部にしっかと張り付き、たちまち聖なる力を発揮しはじめた。ぬらりひょんが耐えかねて台所の裏口から逃げ出していく。
つづけて居間に突撃した霊夢は、呑気している他のぬらりひょん共にも同じ制裁を加えていった。彼らを散り散りにさせたあと、もう決して入ってこれぬようにと居間の四隅に御札を貼る。さらに縁側や寝室や廊下、あらゆる場所に御札を貼り付けて回って、いつになく大規模な結界を張り巡らした。めっきりしなくなっていたお祈りを、簡易ながら本殿で執り行うほどの本気だった。おかげ様で、普段から溜まっていた俗霊や妖怪が神社から飛び出ていったが、構うことではなかった。
ひとしきりのことをやりおえ、霊夢はまた空きはじめた腹を気にしながら居間に戻り帰る。そこで彼女を待っていたものは、恐るべきぬらりひょん一家だった。
どうやって結界を乗り越えてきたのか、いつの間に集合したのか。ともかく、まったく想像もできなかった出来事に、霊夢はただ口を開くばかりだ。それどころか、自分の努力が空回りに終わったことで、不覚にも目が潤みだすのを止められなかった。
「どっか行きなさいよ!」
霊夢は縁側から居間にむかって絶叫する。ぬらりひょん一家はその能面を一斉に動かして、無言の圧力を放ってきた。まるで彼らのほうがそこにいるべき存在で、霊夢のほうが部外者であるかのような、そんな空気だった。彼らの言い知れぬ雰囲気に怖気づいて、霊夢は後ろ髪を引かれながらも神社から飛び出す。
神社を奪い返したいのはやまやまだが、今はまずゆっくりできる場所を確保したかった。そのために向かった場所は魔法の森、魔理沙の家だ。
霊夢は霧雨亭の玄関を叩いて、魔理沙が在宅中であることを願った。幸運にも魔理沙は玄関に出てきてくれて、思わぬ来訪者だったらしく、驚いた顔を見せた。
「お前かよ。珍しいな」
「今日、泊まるわよ」
「あ。はあ、いいぜ」
中にあがらせてもらいながら、事情を魔理沙に説明した。ぬらりひょんが現れたことは既に話していたので、それが減るどころか増えたこと、ぬけぬけと生活を始めたこと、退魔の力が効かないことを話した。
魔理沙はニヤニヤとしながらも、家が奪われるのは大変なことだと同情を示し、一緒に取り戻しにいこうと約束してくれた。霊夢はこのとき、奪い取られる危機に陥っている神社のことを「自分の家」とだけ表現したが、仲の良い魔理沙にはそれで通じていた。まだ、二人の会話はきちんと噛み合っていた。
翌日、霊夢と魔理沙は朝のうちから神社にむかった。まぶゆい朝日を斜に受けながら神社を上空から観察してみたが怪しい気配はない。ぬらりひょんは居間を好んでいて、それは朝でも変わらぬ習性らしかった。
霊夢は中庭に降り立つため魔理沙に合図を送る。すると、魔理沙は怪訝な顔をこちらにむけてきた。そんな顔をされる心当たりはなかったので、同じように眉を寄せながら口を開いた。
「なに、どうしたの」
「ここはお前の家じゃないだろ」
友人からの思いもよらぬ返しに、霊夢はきょとんとする。それが癪に障る内容でもあったので、怒りを口から出さずにはいられなかった。
「あんたねえ、馬鹿なこと言ってる暇はないわよ」
「いや、だって霊夢。ここは違うだろ」
「何が違うのよ。博麗神社よ」
「そうだよ。博麗神社だ。他所様の家だろ」
「ふざけないでよ!」
「お前こそ、ふざけてんのか」
これまで鬱積していた怒りは、友人が引き金となってついに爆発した。空中での言い争いは凄まじかった。霊夢はここが自分の居場所であることを譲らなかったが、魔理沙はそうじゃないと言い張る。どちらも引かなかったが、しまいには魔理沙のほうが呆れ果てて去っていった。霊夢はムカムカした気持ちを抑えきれぬままその背中を見送った。
落ち着いてから、事の重大さに気づいた。思い返してみると、魔理沙は冗談のつもりもなく先の主張を繰り返していたようだ。あの苦々しい表情を思い出すとゾッとさせられた。
なぜ魔理沙がこんなことを言い出したのか。霊夢は押し寄せてくる不安を振り払いながら神社に降り立ち、居間にむかった。外から中の様子を見てみると、ぬらりひょん一家は七人に増えていて、もはや呆れも通り越した。
彼らを見ているうちに、霊夢の不安が恐怖に変わっていく。魔理沙の言葉がじんじんと頭に響いた。もしかしたらここは本当に彼らの住居なのではないか? そんなありえない気持ちが湧いて出た。信じられないことだ。だがその気持は心を圧迫してくる。神社にいられなくなったらどうしようという、新たな不安も呼び起こす。
居間が視界に入る中庭にはとてもいられなかった。急いで庭に逃げ出した霊夢は、息を荒げて神社の立派な瓦屋根を見上げる。何をすればいいのか考えることもできず、立ち尽くした。
「霊夢、ひどい顔ね」
ふと、霊夢の頭上から呼び声が聞こえたかと思うと、八雲紫と、去っていったはずの魔理沙が降り立った。魔理沙は喧嘩を引きずったままの険しい顔つきでこう言った。
「紫に怒られて戻ってきたんだぜ」
紫は母性的な微笑をたたえながら、一歩前に出て話し始める。
「霊夢、貴方の居場所が奪われようとしている。彼らはそういう妖怪なの。ここが貴方の居場所であることを、知らしめなければならないわ。そのためには、他人の声がいる」
「それはどういうことよ」
「見ていなさい」
霊夢は紫の話を聞いてなお、不安を捨て去ることができなかった。しかし、ここは本当に私の居場所なのかと尋ねてみると、紫は笑顔で請け負ってくれた。今はこの些細な賛同だけでも、心を潤してくれるのだ。
しばらくすると空の彼方から八雲藍がやってきた。彼女は幾人かの少女を連れ立っていた。レミリアと咲夜、萃香、そしてお燐。曰く、普段の霊夢をよく知る者達を集めてきたというが、咲夜だけはレミリアのお釣りで付いてきたのだと。
レミリアが紫を見たなり顔をしかめて口を開く。
「いったい何の用かしらね。変なお遊びはゴメンよ」
「すぐ終わることよ。話してあげるわ」
紫が口にした事柄は、拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。ここに集ったみんなが神社を囲んで立ち「博麗霊夢さん、お邪魔します」と大声で唱え続けるのだという。たったこれだけで、奪われかけている霊夢の居場所を取り返すことができるのだそうな。
行うべきことは滑稽だ。しかし、名を呼ぶという行為に潜む力を、ここにいる者達が知らないわけではなかった。特に霊夢は、幽霊退治、妖怪退治に携わっている手前、たしかにこれならば異変を解決できるだろうと思ったものだ。
とはいえ不安は尽きぬ。皆がぞろ、神社を囲むため持ち場にうつりはじめたが、その前にお燐などは霊夢にこう話しかけてきた。
「ここって霊夢の家だったの?」
「そうよ……」
「うーん? まあいいや」
霊夢の気持ちをより締めつける言葉は、当人の鬱屈さとは裏腹にほがらかな口調で漏らされた。こういう態度をとったのはお燐だけではない。レミリアは神社と霊夢を見比べて首をひねり、咲夜と耳打ちで何やら話しはじめた。萃香はケラケラ笑っていたが、ほんの刹那、疑問の表情を浮かべたのが見て取れた。
霊夢が庭に立ってふさぎこんでいる間にも、いよいよ皆がばらけて、それを確認し終えた紫が合図を送った。家主はあとは見守るばかりだ。
「博麗霊夢さん、お邪魔します」
例の言葉が博麗神社に響き渡る。不揃いで、声色はまちまちだったが、声量の高さはよく空に通り、ふとすれば祭事の掛け声かと思われた。霊夢を落ち着かせなかったのは、自分の家の前で、自分の名前が呼ばれ続けるむず痒さだ。
「博麗霊夢さん、お邪魔します」
もっとも声を高めているのは、催し事が好きな萃香だった。太鼓のような勇ましさで神社に響きわたる様は、その効力をふつふつと実感させた。魔理沙の声も負けじとといった具合だ。神社の裏で見えてはいないが、友人が頑張ってくれているのはたまらない励みだった。
「博麗霊夢さん、お邪魔します」
言葉が三巡目に入ったとき変化が起きた。中庭側にいたお燐がなにやら叫び声をあげたかと思うと、続けざま、藍の掛け声がほんの一瞬とぎれた。そちらのほうから複数の足音がべたべた聞こえてきたかと思えば、庭先にぬらりひょんたちが殺到してきたではないか。彼らは血相を変えて神社から離れていくと、霊夢を横切って敷地の外へと逃げ出していく。その数は実に十人、ばらばらと通り過ぎていく一家の多さに、霊夢は何も口にすることができなかった。
足音が遠ざかっていく。いつしか霊夢を呼ぶ叫び声も薄まっていき、ぬらりひょんたちの気配が消え去ったことを霊夢は確信した。するうち、神社を囲んでいた皆が霊夢のもとに集まってくると、音頭をとっていた紫が満足気にこれで終わったと告げた。
かき集められた者達は、なんだか釈然としていない様子だった。だが一人、魔理沙だけは目を泳がせて、もじもじと霊夢に近づいていった。
「あー、悪かった。ここはお前の家だったな。うん、思い出したぜ」
「当たり前じゃない」
と言葉は尖らせながらも、霊夢は仲直りの兆しに嬉しくなってつい頬がゆるんだ。その表情を隠すように紫に向き直って、お礼を言った。
「ありがとう。ちょっと今回はダメかと思ったわ」
「まだまだ未熟ね。力だけでは敵わない妖怪がいて、こういう解決の仕方があるってこと、しっかり勉強しなさい」
紫は妖艶に微笑むと、つぎの一瞬にはその場から消え失せていた。霊夢はお説教をされて、最後まで締まりのつかないことを自覚しながらも、異変が解決したことに満足した。せっかく人が集まったのだからと、宴会を提案し、準備のために勇んで神社の中に向かっていった。
久々に妖怪の暴力ではない怖さというものを感じました。
堪能させていただきました。
それはともかく、今回も面白かった。
咲夜の話、いいですね。咲夜だから感じる恐怖なわけで、危険があるのかもわからないわけですが。
霊夢の心にまだ余裕が残っているうちに解決してよかった。
怖くはなかったけど、東方らしくってこれはこれでいいですよ。
ホラーとほのぼのの中間みたいな雰囲気で、これからどっちに傾くんだろう? とソワソワしながら読みました。
このシリーズ大好きです
ぬらりひょんは純粋に、日本昔話みたいで面白い。