妹に請われて一緒に地上へと上がった。
「日差し……あつ……」
鳥や虫たちの喧騒。それは地下にはない物だ。
聞きなれない騒音が、無性に耳に障る。
「お姉ちゃんも帽子かぶってくればよかったのに」
何が嬉しいのか、くるくると回る妹のこいし。
「……」
妹の正論に言葉が出ない。
久しぶりの地上に、すっかり感覚を忘れていた。
「どこか、日陰に行きましょう……」
「えぇ~、折角地上に来たのに、もう休むの?」
こいしは、不服そうに口を窄める。
だったら最初から人を誘わずに、いつものように一人で出かければよかったものを、とさとりは思うが口には出さない。
「ん?」
木陰を求めて歩き始めたさとりの上に、不意に大きな影が掛かった。
一瞬、太陽が雲に隠れたのかと思ったが、目を細め、上を見上げたさとりはそれが間違いだったことに気付いた。
「あ……な、なに?」
逆行のなか聳え立つのは、巨大な人間……いや、人形だった。
突如現れたそれが、さとりの上に影を落としていたのだ。
「それ、非想天則だよ」
さとりの隣に並びながら、こいしが喜びの声を上げた。
「うわー、こんな近くで初めて見た。おっきー!」
「ひそう……てんそく?」
その名前にはさとりも聞き覚えがあった。
「たしか、蒸気で動くとか言うバルーン人形……」
なにかの広告塔として設けられたとかなんとかいう話を、ペット達から聞いたことがある気がする。
話を聞いた時は、そんな人形で一体何をそんなに興奮しているのか理解に苦しむところだったが……
(なるほど……)
こうして間近で見ると、さすがに圧倒されるものがある。これほどのスケールの物は、旧地獄でもお目に掛かれない。
「まぁ、だからって興奮はしないけれど……」
小さく漏らすさとりに、となりのこいしが「うん?」と僅かに首を傾げたが、すぐに視線を上方へ戻した。
「すごいねぇ、おねぇちゃん!」
(だから、何がすごいのよ)
興奮気味の妹に、さとりは呆れながらも非想天則を見つめ続ける。
そうこうしているうちにも、非想天則はゆっくりと歩みを進める。
のしん。
のしん。
身体を大きく左右に傾かせながら、それでもきちんと歩いているのが分かる。
「……」
さとりはその姿を、ジッと見詰める。
(……なんだろう、これ)
なんとなく、目が放せない。
決して興奮しているとか、そういう訳ではないのだけれど……
「行っちゃったね」
こいしの言葉でハッとした。
こいしですら見限ってしまうような遠くに行ってしまった非想天則を、さとりはぼぉっと見つめ続けていた。
遠くにあってもまだまだ大きく見える非想天則だったが、さすがにこれ以上は見ることも無い。……それは分かっているのだけれど……
(気になる……)
その後、地上を色々とこいしに連れ回されたさとりだったけれど、結局その日一日最初に見た非想天則のことが頭から離れることは無かった。
地霊殿に戻り、さとりは一日歩き詰めの身体を風呂で癒した。
その後、自室でベッドに腰をおろし、息を吐く。
(……まだ、あれが頭から離れない……)
非想天則。
一体何故あれがこんなにも気になるのか……自分自身にも理解できない。
そんな憑りつかれた思考を振り払う様に頭を振ると、さとりはサイドボードに目をやった。
その上に、書籍と並んで置かれているガラス製の置物がある。
ガラスの中は透明の液体で満ちている。そして、置物の底ではその透明の液体の中に、青い液体と赤い液体が仕切られるようにして溜まっている。
油時計。
いつぞや地上に上がっていたこいしが土産と言って部屋に勝手に置いて行った。
『お姉ちゃん、こういうの好きだよね』
何故心も読めないこいしが、そうも断定的に言えるのか理解に苦しむが、しかし癪なことに確かにさとりはこれを気に入っていた。
置物を逆さまに置く。
すると表面張力により小さく分離する様に細工されている油が、ぽこぽこと瓶の底に向かって少しずつ零れ落ちる。
赤と青の油が交差しながら落ちていく仕掛けは見た目にも綺麗で、さとりは時計としての機能ではなく、もっぱら観賞用のオブジェとしてこの油時計を利用していた。
(ぽこん、ぽこん、ぽこん……)
油が零れるのに合わせて、さとりは知らず知らずのうちに心の中でリズムを取る。
(青の方は少し早い。ぽこ、ぽこ、ぽこ……)
間隔の違う二つの油。
それが落下するだけと言う、あまりにも単純な仕掛け。それなのに、何故そんなものをジッと全て落ち終わるまで見続けてしまうのか……
(自分でも、不思議)
しばらくそのリズムを刻んでいるうちに、いつしかさとりは夢の中に落ち込んでいた。
もう一度非想天則が見たい。
そう明確思ったのはこいしとの外出から一週間ほどが過ぎてからだった。
一週間、何をしていてもあの巨体の歩く姿が脳裏をよぎった。放っておけばいつしか忘れるだろうと思っていたけれど、その思いが消えることは無かった。
その段になって、さとりも認めざるを得なかった。
(わたしは、あれがもう一度見たいんだ)
外出しておらず、運よく捕まったこいしに、さとりはもう一度地上りたい旨を告げた。少々恥ずかしいことではあったけれど、地上に関してはこいしの方が確実に詳しい。同行が欲しかった。
さとりの話を聞いたこいしは、驚いたんだから呆れたんだか判断に困る表情を見せ、それから、
「お姉ちゃんって、肝心の心の声が全然聞こえてないよね」
と言った。
知った風な口を利くな、と思ったけれど、さすがに今はお願いをしている立場上口を噤む。
ともかくこいしは同行を了承してくれた。
「じゃあ明後日ね。雨が降ったら中止ってことで」
さとりも頷く。雨に濡れてまで見たいとはさとりも思わない。
果たして二日後。
地上の天気は嫌味なほどの快晴。
さとりはこいしと連れ立って再び地上へと上がった。
前回目撃した場所に着いて、ふとさとりは思う。
「そう言えば、非想天則って毎日確実に歩いているのかしら?」
今になってそんなことを言う姉に、呆れたように妹が言う。
「そんなわけないよ。お姉ちゃん抜けてるなぁ。でも、昨日きちんとお願いしてきてあげたから、今日は絶対に大丈夫」
「え?」
どうして?と訊ねようとするさとりの背後から、声がした。
「それは持ち主である私が動かしてあげてるからだよ」
振り返った先にいたのは、守矢の神。洩矢諏訪子だった。
「……」
思わずさとりは苦虫を噛み締めた様な顔をしてしまう。
本来妹の気転には感謝するところ大なのだが……単純に、他人に非想天則を見たがっているという事実を知られるのが嫌だった。
『いや~、あんなデクノボーが見たいなんて、地霊殿の主も案外子供っぽいところあるんだな~』
「いや~、あんなデクノボーが見たいなんて、地霊殿の主ってすっごいガキだね」
思ったことを平然と諏訪子が口にした。
……というより、口にした方がニュアンスがやや悪くなっていないだろうか?一体どういうことだ。……と、さとりは思うが黙って我慢する。あまりこの神の相手はしたくなかった。
簡単な挨拶と感謝だけを告げて、さとりは非想天則を待つ。
「もうすぐ来るよ」
諏訪子の言葉の通り、ゆっくりとした足取りの非想天則が遠方から姿を現した。
のしり。
のしり。
前回見た時と変わらぬリズムで、身体を揺らしながら、ゆっくりと歩いてくる。
(のしり、のしり……)
さとりは、知らず心の中でリズムを取る。
この気持ちは、興奮するだとか、面白いだとか、そんな感情じゃない。
さとり自身にも表現しきれない、純粋なる欲求。
「あれはね」
不意に、諏訪子が言った。
「非想天則は、ただのデクノボーだよ。想わず、ただ定めに則るだけ。そこに意味なんてないよ」
「……デクノボー……」
何となく、思う。
人が作ったのではない。
自然と生まれた、一定のリズム。
そこに想いなどなく……
だからこそ、さとりはそこに癒しを求めるのかもしれない。
油時計も、
非想天則も。
ぽこん、ぽこんと……
のしり、のしりと……
遠ざかっていく非想天則の背を見送りながら、さとりは諏訪子に頭を下げた。
「お手数おかけして……今日はありがとうございました」
諏訪子はパタパタと手を振った。
『いやいや、気にすることはないよ。どうせ今日も歩かせるつもりだったし』
「全くとんだ手間だったよね。はぁ骨折り骨折り」
「……その、心と口でばらっばらのこと言うの止めて貰えません?」
この人の場合はどっちがどっちなんだかわけがわからなくなる。
諏訪子はケラケラ笑うと、何かペラペラの物をさとりに差し出した。
「はい、良い子の見学者に神様からの施しです」
「?」
さとりは受け取って、ペラペラの物を拡げてみる。
「……ああ」
さとりは、理解した。
地霊殿、さとりの部屋。
のし、のし、のし、と机の上を小さな人形が歩いている。
諏訪子が最後にくれた小型の非想天則。
すぐに止まってしまう粗悪品だけれど、それでもしっかり歩いていた。
(のし、のし、のし。やっぱり、かなり早いわね)
油時計の隣で、小型の非想天則は、今日もリズムを刻んでいる。
《終わり》
「日差し……あつ……」
鳥や虫たちの喧騒。それは地下にはない物だ。
聞きなれない騒音が、無性に耳に障る。
「お姉ちゃんも帽子かぶってくればよかったのに」
何が嬉しいのか、くるくると回る妹のこいし。
「……」
妹の正論に言葉が出ない。
久しぶりの地上に、すっかり感覚を忘れていた。
「どこか、日陰に行きましょう……」
「えぇ~、折角地上に来たのに、もう休むの?」
こいしは、不服そうに口を窄める。
だったら最初から人を誘わずに、いつものように一人で出かければよかったものを、とさとりは思うが口には出さない。
「ん?」
木陰を求めて歩き始めたさとりの上に、不意に大きな影が掛かった。
一瞬、太陽が雲に隠れたのかと思ったが、目を細め、上を見上げたさとりはそれが間違いだったことに気付いた。
「あ……な、なに?」
逆行のなか聳え立つのは、巨大な人間……いや、人形だった。
突如現れたそれが、さとりの上に影を落としていたのだ。
「それ、非想天則だよ」
さとりの隣に並びながら、こいしが喜びの声を上げた。
「うわー、こんな近くで初めて見た。おっきー!」
「ひそう……てんそく?」
その名前にはさとりも聞き覚えがあった。
「たしか、蒸気で動くとか言うバルーン人形……」
なにかの広告塔として設けられたとかなんとかいう話を、ペット達から聞いたことがある気がする。
話を聞いた時は、そんな人形で一体何をそんなに興奮しているのか理解に苦しむところだったが……
(なるほど……)
こうして間近で見ると、さすがに圧倒されるものがある。これほどのスケールの物は、旧地獄でもお目に掛かれない。
「まぁ、だからって興奮はしないけれど……」
小さく漏らすさとりに、となりのこいしが「うん?」と僅かに首を傾げたが、すぐに視線を上方へ戻した。
「すごいねぇ、おねぇちゃん!」
(だから、何がすごいのよ)
興奮気味の妹に、さとりは呆れながらも非想天則を見つめ続ける。
そうこうしているうちにも、非想天則はゆっくりと歩みを進める。
のしん。
のしん。
身体を大きく左右に傾かせながら、それでもきちんと歩いているのが分かる。
「……」
さとりはその姿を、ジッと見詰める。
(……なんだろう、これ)
なんとなく、目が放せない。
決して興奮しているとか、そういう訳ではないのだけれど……
「行っちゃったね」
こいしの言葉でハッとした。
こいしですら見限ってしまうような遠くに行ってしまった非想天則を、さとりはぼぉっと見つめ続けていた。
遠くにあってもまだまだ大きく見える非想天則だったが、さすがにこれ以上は見ることも無い。……それは分かっているのだけれど……
(気になる……)
その後、地上を色々とこいしに連れ回されたさとりだったけれど、結局その日一日最初に見た非想天則のことが頭から離れることは無かった。
地霊殿に戻り、さとりは一日歩き詰めの身体を風呂で癒した。
その後、自室でベッドに腰をおろし、息を吐く。
(……まだ、あれが頭から離れない……)
非想天則。
一体何故あれがこんなにも気になるのか……自分自身にも理解できない。
そんな憑りつかれた思考を振り払う様に頭を振ると、さとりはサイドボードに目をやった。
その上に、書籍と並んで置かれているガラス製の置物がある。
ガラスの中は透明の液体で満ちている。そして、置物の底ではその透明の液体の中に、青い液体と赤い液体が仕切られるようにして溜まっている。
油時計。
いつぞや地上に上がっていたこいしが土産と言って部屋に勝手に置いて行った。
『お姉ちゃん、こういうの好きだよね』
何故心も読めないこいしが、そうも断定的に言えるのか理解に苦しむが、しかし癪なことに確かにさとりはこれを気に入っていた。
置物を逆さまに置く。
すると表面張力により小さく分離する様に細工されている油が、ぽこぽこと瓶の底に向かって少しずつ零れ落ちる。
赤と青の油が交差しながら落ちていく仕掛けは見た目にも綺麗で、さとりは時計としての機能ではなく、もっぱら観賞用のオブジェとしてこの油時計を利用していた。
(ぽこん、ぽこん、ぽこん……)
油が零れるのに合わせて、さとりは知らず知らずのうちに心の中でリズムを取る。
(青の方は少し早い。ぽこ、ぽこ、ぽこ……)
間隔の違う二つの油。
それが落下するだけと言う、あまりにも単純な仕掛け。それなのに、何故そんなものをジッと全て落ち終わるまで見続けてしまうのか……
(自分でも、不思議)
しばらくそのリズムを刻んでいるうちに、いつしかさとりは夢の中に落ち込んでいた。
もう一度非想天則が見たい。
そう明確思ったのはこいしとの外出から一週間ほどが過ぎてからだった。
一週間、何をしていてもあの巨体の歩く姿が脳裏をよぎった。放っておけばいつしか忘れるだろうと思っていたけれど、その思いが消えることは無かった。
その段になって、さとりも認めざるを得なかった。
(わたしは、あれがもう一度見たいんだ)
外出しておらず、運よく捕まったこいしに、さとりはもう一度地上りたい旨を告げた。少々恥ずかしいことではあったけれど、地上に関してはこいしの方が確実に詳しい。同行が欲しかった。
さとりの話を聞いたこいしは、驚いたんだから呆れたんだか判断に困る表情を見せ、それから、
「お姉ちゃんって、肝心の心の声が全然聞こえてないよね」
と言った。
知った風な口を利くな、と思ったけれど、さすがに今はお願いをしている立場上口を噤む。
ともかくこいしは同行を了承してくれた。
「じゃあ明後日ね。雨が降ったら中止ってことで」
さとりも頷く。雨に濡れてまで見たいとはさとりも思わない。
果たして二日後。
地上の天気は嫌味なほどの快晴。
さとりはこいしと連れ立って再び地上へと上がった。
前回目撃した場所に着いて、ふとさとりは思う。
「そう言えば、非想天則って毎日確実に歩いているのかしら?」
今になってそんなことを言う姉に、呆れたように妹が言う。
「そんなわけないよ。お姉ちゃん抜けてるなぁ。でも、昨日きちんとお願いしてきてあげたから、今日は絶対に大丈夫」
「え?」
どうして?と訊ねようとするさとりの背後から、声がした。
「それは持ち主である私が動かしてあげてるからだよ」
振り返った先にいたのは、守矢の神。洩矢諏訪子だった。
「……」
思わずさとりは苦虫を噛み締めた様な顔をしてしまう。
本来妹の気転には感謝するところ大なのだが……単純に、他人に非想天則を見たがっているという事実を知られるのが嫌だった。
『いや~、あんなデクノボーが見たいなんて、地霊殿の主も案外子供っぽいところあるんだな~』
「いや~、あんなデクノボーが見たいなんて、地霊殿の主ってすっごいガキだね」
思ったことを平然と諏訪子が口にした。
……というより、口にした方がニュアンスがやや悪くなっていないだろうか?一体どういうことだ。……と、さとりは思うが黙って我慢する。あまりこの神の相手はしたくなかった。
簡単な挨拶と感謝だけを告げて、さとりは非想天則を待つ。
「もうすぐ来るよ」
諏訪子の言葉の通り、ゆっくりとした足取りの非想天則が遠方から姿を現した。
のしり。
のしり。
前回見た時と変わらぬリズムで、身体を揺らしながら、ゆっくりと歩いてくる。
(のしり、のしり……)
さとりは、知らず心の中でリズムを取る。
この気持ちは、興奮するだとか、面白いだとか、そんな感情じゃない。
さとり自身にも表現しきれない、純粋なる欲求。
「あれはね」
不意に、諏訪子が言った。
「非想天則は、ただのデクノボーだよ。想わず、ただ定めに則るだけ。そこに意味なんてないよ」
「……デクノボー……」
何となく、思う。
人が作ったのではない。
自然と生まれた、一定のリズム。
そこに想いなどなく……
だからこそ、さとりはそこに癒しを求めるのかもしれない。
油時計も、
非想天則も。
ぽこん、ぽこんと……
のしり、のしりと……
遠ざかっていく非想天則の背を見送りながら、さとりは諏訪子に頭を下げた。
「お手数おかけして……今日はありがとうございました」
諏訪子はパタパタと手を振った。
『いやいや、気にすることはないよ。どうせ今日も歩かせるつもりだったし』
「全くとんだ手間だったよね。はぁ骨折り骨折り」
「……その、心と口でばらっばらのこと言うの止めて貰えません?」
この人の場合はどっちがどっちなんだかわけがわからなくなる。
諏訪子はケラケラ笑うと、何かペラペラの物をさとりに差し出した。
「はい、良い子の見学者に神様からの施しです」
「?」
さとりは受け取って、ペラペラの物を拡げてみる。
「……ああ」
さとりは、理解した。
地霊殿、さとりの部屋。
のし、のし、のし、と机の上を小さな人形が歩いている。
諏訪子が最後にくれた小型の非想天則。
すぐに止まってしまう粗悪品だけれど、それでもしっかり歩いていた。
(のし、のし、のし。やっぱり、かなり早いわね)
油時計の隣で、小型の非想天則は、今日もリズムを刻んでいる。
《終わり》
さとり様ペロペロ