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墨を流し込んだかのような灰色の空を仰ぎ見ながら、犬走椛は行き場のない溜息を吐き出した。呼気は吐き出された端から白く濁って、流れゆく風の底を墜ちていった。
外はひっそりと冷え込んでいる。まるで自分が叱責を受けていた数時間の隙を窺って、冬景色がこの御山へと一斉になだれ込んだかのようだ。
執務棟を辞した頃には、もう日は稜線の向こうに沈みかけていた。日没前の最後の陽光を浴びようとして、枯れ木が枝を大きく広げている。痩せ細って骨と皮だけになった雌鹿を思い出すような、寂しい佇まいだった。そうした木々を横目にして、椛は山の中腹へと下っていった。落ち葉を踏みしめる音が耳に痛かった。
幻想郷に厳しい冬がやってくる。葉はすっかり散ってしまい、空は灰色の厚い雲に覆われる。数日と経たずに雪も降り始めるだろう。これからしばらくの間、下っ端の白狼天狗達は満足な食事にありつけなくなる。誰も彼もが苛立ち、不満を吐き捨てている。
椛は立ち止まり、手近な古木に背中を預けた。宿舎に帰るのが億劫だった。独り歩いて帰ってくる自分を見つけた時の、同僚達の目を横切る得体の知れない光が、椛にとっては苦痛だったのだ。それは言葉で面と向かって云われるよりも、ずっと率直に当人の気持ちを物語っているように思えるのだった。
どうしようか迷っているところへ、ぱしゃり――と音が跳ねた。椛は反射的に盤刀の柄を握った。
「盗み撮りは趣味が悪いですよ」椛は耳を震わせた。「何用でしょうか?」
「機嫌が悪いところ申し訳ないんだけどさ」
姫海棠はたてが頭上の枝に腰掛けて、こちらを見下ろしていた。
「前に云ってたの書き上げたから、読んでくれないかな、いつもみたいに」
「以前の?」椛は答えに窮した。「いつでしたか……それは?」
「読めば分かるから」はたては云った――すぐに決まり悪そうに頭を掻いて「ごめんね。不躾で。締切が近くてさ。もうすぐ印刷所も閉まっちゃうから」と付け加えた。
椛は腕を伸ばして、垂れ下がった原稿を受け取る。
書き上げた記事の校正というか下読みが、いつの間にか彼女との毎度毎度の約束事のようになっていた。椛が読んでいる鴉天狗の新聞は、今では彼女の発行するものだけだった。
大蛇のように木の枝に巻き付いて、隈の浮いた目をしきりに擦る上司を一瞥してから、椛は原稿に視線を落とした。見出しはこうだ。
『燃えさかる火の玉から宇宙人? ――十尺の巨人現る!――』
「あぁ……鵺でしたっけ、確か」椛は息をついた。「相変わらず記事になるのが遅いですね」
「うるさいよ!」
ざっと目を通した椛は、原稿をはたてに返して、細かい表記の揺れを指摘した。教養があるわけでも、語学のセンスがあるわけでもない。「それでも好いから」と懇願してきたのは向こうの方だった。
はたては枝に寝転びながら赤ペンを走らせた。いくつかの頷きと、はにかんだような笑みが交互に現れた。
「ん――なるほどね、ありがとう」
「どういたしまして」
「何かさ、記事に出来そうなことあった?」
その時、意地の悪い考えが椛の頭を走り抜けた。
「……認可も無しに鹿を狩った連中がいまして」
「あちゃあ、そりゃいけないわね。なんて命知らず」
「私の部下です」
はたての笑みが瞬間的に凍り付いた。なかなか芸術的な急転直下だったので、椛はいたく感心した。
それは久々の失態だった。最近は……ああいう連中が増えたように思う。畏れを知らないというか、道徳を弁えていないというか。天狗としての自覚が足りない連中が、近年の若い輩には実に多いと椛は感じていた。自分は決して保守的ではないと思っているし、むしろ大天狗らと比べてリベラルな価値観を有しているという意識もあったが、何事につけても「目に余る行状」というのは、確かに存在する。
神聖なる御山が育んだ子鹿を、何の許可も得ずに射殺して、解体して、狼煙でもないのに焚き火まで使って――貪り喰った。それをやったのが、椛の新顔の部下達だった。
椛は責任を問われた。何時間も何時間も、たっぷりと叱責を頂戴した。
「そういえばさ」今風の念写記者は云う。「あれから何か見つかった、空を飛ぶ方法……?」
「姫海棠様のように、私の部下達も真摯な態度で務めを果たしてくれたら好いのですが」椛は質問を無視して、足下の落ち葉を睨みながら云った。「私にばかり厄介者が送り込まれてくるように感じます」
「みんな堅苦しいのが好い加減イヤになってきたのよ。私だってそうだけど」鴉天狗の少女は云う。「縛られるのが嫌いな奴、最近増えてきてるんじゃない?」
椛は噛みついた。「どいつもこいつも遊びたいだけなんですよ」
「ま……苛立つのも分かるけどさぁ」はたては原稿に目を走らせながら云う。「疲れてるんじゃない、あんた。最近ちゃんと寝てるの? 睡眠不足はお肌と思考の天敵よ」
「姫海棠様にだけは云われたくないです」
「違いない」
新聞記者は笑った。
椛は妖怪の山を出た。
明日もお勤めを果たさなければならないが、別に規則を破っているわけではないのだ――少しだけ、少しだけ、一杯やりたい気分だった。顔見知りが誰もいない場所で、いろいろな物事を休めたかった。そのままにしておきたかった。水槽から取り出して吟味するのは明日で好い。それで充分だ。
確か――夜雀が開いている屋台があったはずだ。はたての新聞に掲載されていた。八目鰻が美味いらしい……まさか酒くらいあるだろう、なにせ屋台なのだから。
御山から屋台までの道のりは、思ったよりも遠い。椛は林を抜けて、田園沿いを延々と歩いた。ときどき思い出したように空を仰いだ。静かな冬の宵だ。その静寂は、手に掬って味を確かめられそうなくらいに濃密だった。
夜風に当たれば少しは気持ちも安らぐだろうか。そう考えていたのだが、静まった心は平常線を通り越して滅入るばかりだった。「私は馬鹿じゃなかろうか」という煩いが消えずに、肺の辺りに滞留している。
道も半ばに至る。人里に灯った明かりが鬼火のように揺れている。千里を翔ける力を授かった瞳なら、そのひとつひとつが好く見渡せた。そこには家庭があった――繋がりがあった――温もりがあった。複雑な組織構造もない。厳しい上下関係もない。板挟みに悩まされることもない。少なくとも椛には……夜の里の風景は穏やかに流れているように視えた。
陽はすっかり沈んでしまった。その日の残り香が風にそよぐばかりだった。
子供達の声が聞こえたのは、人里の南東に位置する、小川の土手のすぐ近くだった。椛は顔を上げる。人間の少年少女らが五人ほど、妖怪の少女に向けて手を振っていた。ちょうど別れるところだったらしい。
その少女が妖怪だと分かったのは――もちろん少女の特異な容姿からも知れるのだが、それ以上に――先ほど下読みした記事に掲載される予定の写真を、椛は覚えていたからだった。「これでいこうと思って」と、はたてがわざわざ見せてくれたのだ。
妖怪の少女も軽く手を挙げて応えていた。子供達の姿が闇に紛れて見えなくなるまで、その手が下ろされることはなかった。椛は動くことも出来ないままに、その光景を見守っていた。やがて妖怪は腕を下ろすと、しばらく人里の明かりを見つめていた。
呼吸がひとつ、またひとつ、夜の露に溶けて消えた。少女は諦めたように肩を落として振り返り――ようやく、椛のことに気がついた。
二人の眼が合う。時間が静止する。何倍にも引き延ばされた数秒間が続く。椛は息をするのも忘れていた。刀の柄を握りしめていた。指が強ばっていた。何が自分を引き留めたのか、何が自分を引き付けたのか、椛には分からなかった。
ふと我に返る瞬間が訪れる。椛は口を開く。
「正体不明のあやかしが、こんなところで何をやっているんだ。里の子供と混じったりなんかして……」
妖怪は――封獣ぬえは肩をすくめた。「別に取って喰おうだなんて思ってないわ。人肉はとっくの昔に卒業したのよ。精進料理も悪くない」
瞬間的に椛は「嘘だ」と思った。そのように嘘をついて人間を騙し――誘惑し――喰らってきた妖怪が、過去に何人いたことだろう。
ぬえは三叉に分かれた槍に腰掛け、紅色の瞳を細めて椛のことを見つめる。その瞳には雲に隠れているはずの星がきらめいている。「ふぅん?」と唇の端を曲げて椛のことを見下ろしている。鵺妖怪の瞳に映るそれは、好奇心の星屑だった。
ぬえは云った。「あなたには正体をさらしていなかったはずなのに、どうして私のことが分かったの……?」くすくすと笑う。「この前なんか“十尺の宇宙人”とか噂されちゃってさ、愉快痛快とはこのことね」
「その噂とやらをすっぱ抜いた記事を、私が読んだからじゃないのか。お前の姿が写真に堂々と映っていた」
ぬえが笑みを引っ込める。今風記者の念写は、鵺にとっての天敵らしい。椛は記憶の引き出しを開く――古代の昔日、正体を暴かれた鵺は、たちまち人間達によって退治されたと聞く。恨みは深かろう。
「ここは厄介な連中が多くて敵わないわ、落ち着いて遊べやしない」ぬえは天を仰ぐ。「窮屈、退屈」
「大方、懐いたところを誘い出して喰おうって腹だろう。それなら止めておいた方が好い。前にも馬鹿な奴が一人いたんだが、御山の穴蔵に閉じ込められてそれっきりだ」
ぬえは応えなかった。不快そうに眉をひそめただけだった。椛も同じように顔をしかめていた。
こいつもか、と思う。近頃の妖怪は――いや、最近この世界に入ってきた妖怪は、常識に掛からない奴ばかりだ。哀れな子鹿を射殺した部下達にしても……猛り狂った人間達に射落とされた鵺にしても。彼ら/彼女らは共同体のルールに縛られずに、自由であろうとする。奔放であろうとする。妖怪であろうとする。それは埋めようのないジェネレーション・ギャップ。変貌してゆく幻想郷の在り様を思い知らされる瞬間が、椛の胸に訪れる。
椛は思念を打ち消す。そうしたくさくさした物事から離れたくてたまらなくて、私はわざわざ山から降りてきたのではなかったのか。
「まぁ……ほどほどにしておくことだな。また封印されたくはないだろう」
ぬえは再び肩をすくめる。「どういたしまして」
ミスティア・ローレライの屋台には今夜、二人の客が訪れている。片や白狼天狗、片や鵺。今にも雪が降り出しそうな冬空の下で、わざわざ外れの屋台にまで足を運ぼうとする者とは、寒さを物ともしない剛の輩か、もしくは他に居場所がない奴かのどちらかだった。
ミスティアは鼻歌を流しながら鰻を焼き続けている。時おり三角巾からはみ出した髪を整えたり、おしぼりで汗を拭ったりする。愚痴をこぼす客を鳶色の瞳で見守る様子には、一人前の女将の風格があった。ミスティアの屋台の陽気なのだが節度を乱さない居心地の好さは、客に云わでもの愚痴をこぼさせてしまうのだった。
「なにさ、どいつもこいつも妖怪らしくもない!」
ぬえはカベルネ・ソーヴィニヨンのワインが注がれたグラスを食台に置いた。それはミスティアが“常連客”に毎度お出ししている一品なのだそうだ。
「ムラサもムラサ、一輪も一輪よ! 口を開けば『聖、聖』って……私は鵺だ、妖怪なんだ、どいつもこいつも揃って除け者にしやがってぇ――!」ぬえは八目鰻を箸でつまみ、口に放り込んだ。「むぐ、どうして今日に限って来てないんだよぅ、藤原ぁ……」
「今夜は炭が足りてるからね、妹紅さんを呼んでなかったんだよ」女将が云う。「また今度の機会にさ、一杯やろうね」
ぐすん、という鼻息が隣で漏れた。椛はそれを聞きながら麦焼酎の水割りをあおった。西洋の酒を浴びるように呑むぬえのことが信じられない。先ほど試しに口にした時など、余りの渋味に椛は盛大にむせてしまったのだ。
「つまらないなら、出て行けば好いじゃないか」椛は視線を丸皿に留めたままに云った。「妖怪が仏道に専心する方がおかしいんだ。なにも付き合う必要なんかないだろう」
ぬえも顔を伏せたままに答える。「……借りが、あるからね、大きな」
ぬえの言葉はワインの水面に沈んだ。椛は声を重ねなかった。ミスティアも黙々と追加の鰻を焼き続けていた。屋台に面した雑木林が、夜風に吹かれて寂しい音色を奏でていた。それは奇妙な沈黙だった。
「あんたこそさ……」ふと思い出したように黒服の少女が云う。「なんで、あんな偏屈なところにいて平気なのよ。天狗って奴は滑稽ね。いちばん人間を見下している癖に、いちばん人間みたいに見える、私には」
椛は答えた。「ずっと御山で暮らしてきたんだ。今さら出ようとも思わないな」
「なんていうかさ、それって籠のなかの小鳥と同じじゃないの。与えられた環境が全てだって思いこんで……ねぇ、ミスティア?」
夜雀は串を器用に操って、鰻を皿に盛りつけ始めた。「どうかなぁ……私は今の生活に満足しているし、それが籠のなかなのかどうかって、あんまり気にしたことないかな。もしこれが籠のなかだとしても――少なくとも、私は飛べる」
椛は身じろぎした。酒精が嫌な巡り方をしている。ミスティアは後片づけの準備をし始めた。炭の火を消した。鰻が炙られる景気の好い音は消えてしまい、いっそう林の奏でる調べが耳を煩わせ始めた。いつもはそうした自然の音を耳にすると、心が安まるものだった。今は――心臓に釘を刺し込んでくるばかりに思える。
「今が満足か……満足ねぇ」
ぬえはそう云って、最後の鰻を咀嚼し始めた。
「あら珍しい。いつの間に晴れたんだろう?」
ミスティアの声に二人は顔を上げた。広大な星空が世界を覆い尽くしていた。半分の月は銀色に染め抜かれ、周辺のちぎれ雲の輪郭を露わにしていた。そこには宇宙があった。自由があった。同時にカオスが蹂躙[じゅうりん]する空間でもあった。星々は好き勝手に光り輝いていて、何光年という距離を飛び越えて地球にまで己の存在を主張していた。そのうちのいくつかは、すでに死んでいる星なのかもしれなかった。
椛も、恐らくはぬえも……頭上に広がる天穹に得体の知れない感慨を抱いた。椛は豆だらけの手のひらを胸に当てた。熱い動悸がビートを刻み続けていた。その脈は間違いなく、この身体が生きていることの証左だった。
「驚いた。地上に脱出して以来かな、こんな綺麗な星空」ぬえが頬に両手を当てて云う。「やだやだ、昔を思い出しちゃった……懐かしい」
「冬は寒いし、客の入りが悪くなるし、ほんと厭になる季節」ミスティアはすでに夜空から目を離していた。「ま、そんな中にも救いはあるものね――アーメン」
椛は感情に動かされて云った。「……『地球は優しく光る、淡い水色をしていた。だが神はいなかった』」
二人は椛を見つめた。椛は我に返り、気まずさに酒をあおった。
「なに、今の」ミスティアは云った。「誰の言葉?」
二人から視線をそらして答える。「紅魔の図書館で読んだんだ、以前」
「フランのとこ? あんたが?」
椛は頷いた。「ガガーリン。その人間の名前だけは覚えてる。とても好い本だった。書物から感銘を受けるだなんて初めてだったから、少し驚きもあったな」
それは人類が空へ飛び立ち、宇宙に辿り着くまでの歴史を叙述した文献だった。始めは眠い目をこすって読み始めていた。いつの間にか千里の眼を見開いて熱中していた。
気球からハングライダー、動力飛行機と続き、最後にはスプートニクからアポロ十一号にスペースシャトルまで――まるで別の世界のような話だった。結界を隔てた、陸続きに住んでいるだけの違いなのに、人間はいったい何処まで向かうのだろう、と読み終えた椛は沈思していた。
「人間もまた、ずいぶん遠くまで行っちゃったものね」使い魔らしき緑色の蛇の背を、指で撫でながら鵺妖怪は云う。「分からないことを次から次へと解明して、あんたの眼でも視えないところまで飛んで……」
ぬえは目を細めていた。酒精が回って眠くなっているのかもしれなかった。あるいは下弦の月に何かしらの想いを馳せているようにも見えた。ミスティアは黙りこくって片づけを続けていた。
「つまり……要するに、私の云いたいことはこういうことなんだ」酒の勢いに任せて椛は喋った。「人間は太古の昔から空に憧れ続けて、ついには飛んだ。そして月まで行った。いくつもいくつも世代を重ねて、長い長い年月をかけて――」そこで息をついた。「信じ続ければ――挑戦し続ければ――諦めの気持ちさえ起こさなかったら――生まれつき足が不自由な奴だって、いつかは自分の力で歩けるようになるだろうか――空を飛べなかった奴が、雲より高くまで飛ぶことが出来るようになるだろうかって……」
椛はうつむく。「そう思った、あの時」羞恥心に似た塊が胸の奥でうごめいている。「それを云おうとしたんだ」
かちゃん、と音が鳴る。ミスティアが酒瓶とワインボトルを洗っている。ぬえはカベルネ・ソーヴィニヨンの最後の一口を美味そうに呑む。椛も最後の酒を味わおうとする。すでにグラスは空だった。
「……絶対とは云わないわよ、私は」不意にぬえが云う。「出来ないもんは出来ないなんて身も蓋もないけれど、やっぱり世の中、そう上手くはいかないってこと、今まで何度も何度も見てきたし」
椛はうなずく。
「うーん、でもさ……でもね」ぬえは続けた。「私は待ったよ。それでも。待って待って待ち続けた。生きることそのものが、あの頃の私にとっては精一杯の努力だった。いつか絶対――いつか絶対って……そして温泉が湧いた」
ぬえが羽をうごめかせた。椛は視た。その二色三対の羽の付け根に、奇妙な帯状の跡があった。何かを巻き付けたかのような跡が、時の流れに逆らって残り続けていた。
「ま、ま、止めましょうよ、こんな話は。ささっ――ミスティア、勘定勘定! 今日もなんだかんだで楽しかったわ」
急に恥ずかしくなったらしく、ぬえは慌てて腰に提げていた巾着から代金を取り出す。
夜雀は「まいど」と金を受け取る。椛も懐から小銭をかき集めて食台に並べた。ミスティアは笑顔で小銭の束を懐に納めた。そして夜雀の少女はささやくように、さえずるように云った。
「『人事を尽くして天命を待つ。過ぎたるは猶[なお]及ばざるが如し』――考え過ぎは身体に毒だよ。やるべきことをやったらさ、あとはなるようにしかならない。前に妹紅さんと来た里の先生が云ってた」
物覚え悪いから自信ないんだけど――ミスティアはそう付け加えて、頭を深々と下げた。
「ご来店ありがとうございます。またのお越しを、お待ちしております」
椛は鵺妖怪と夜道を歩いた。二人で田園沿いを延々と歩いた。空には星が瞬いていた。冬の切れ目、ほんの束の間の晴れ間だった。明日を最後に、再び世界は灰と白に覆われる。それを椛は予感していた。
「じゃ……私こっちだから」
後ろを歩くぬえが云う。椛は振り向いてうなずく。
「夜道では気をつけろ……お前には不要な言葉か」
ぬえは笑った。「当然」
何にも例えようのない感情が、先ほどから椛のなかで底流している。正体を隠した何か底の知れない感情が。それは鵺がばら蒔いた種のようだった。いつかの時分に、今日のこの瞬間を思い返してみても、その感情の正体を客観的に見極めることは不可能なように椛には思えた。それは正体を見破った途端に力を失ってしまう――。
「天狗にも面白い奴がいるんだぬぇ。それだけでも今日は収穫があったかな。また呑もうね、たまにはさ」
椛は曖昧に首を動かした。今日のような機会がもう一度あると考えるには、椛は苦い思いに噛みつき過ぎていた。
それでも椛は答えた。「そうだな……たまには、好いかもしれないな」
ぬえは立ち去らない。火照った顔を椛の腰のあたりに向けている。ルビーの瞳が燃えている。羽が鬼火のように揺らめいている。
椛はすぐに察した。少しだけ迷ってから、屋台での会話を思い返して、仕方がないかと思い直した。くるりと身体を半回転させて、真っ白な――雪のような毛並みの尻尾を、ぬえの前に差し出した。
「ありがとう」
ぬえはおそるおそる触れた。すぐに両手で抱きしめてきた。指の感触が尻尾を通じて椛の頭を痺れさせた。椛はさせるがままにしておいた。自分も幼かった頃は、そうして父の尻尾を抱いて眠っていた。あの時の太陽の匂いが、冬の香りの合間を縫って椛の心に蘇り、響いた。
ぬえの呼吸と椛の呼吸が重なった。ぬえは夢中になって尻尾を抱きしめているようだった。椛はどうすれば好いのか分からなくて、夜空を見上げていた。星々は今も、千里の世界で瞬きを続けていた。
「うん……ありがと」
ぬえは礼を繰り返した。少女の腕が離れていった。同時に記憶の残照も厚い雲に閉ざされた。
椛は首だけをぬえに向ける。もう好いのか、と片目を細めてみせる。へにゃりとしたうなずきが返ってくる。
「お前、だいぶ酔ってるだろう」
「あんたこそ」
二人は唇を曲げて、ただ笑った。
ぬえと別れてからも、椛は歩き続ける。人里が見えなくなり――林を抜けて――生まれ育った御山に入る。ほろ酔いの頭にいくつかの言葉と、いくつかの記憶が漂う。けれども、やがて取り留めのない徒然草は寄り集まって、ひとつの大樹になる。それを椛は確かに感じている。
『私は待ったよ。それでも。待って待って待ち続けた。生きることそのものが、あの頃の私にとっては精一杯の努力だった。いつか絶対――いつか絶対って……そして温泉が湧いた』
ぬえの羽、その一本一本の動きを思い返した。酒に火照った、憂いを含んだ笑顔のことも。自分が山を駆け抜け、戦いに傷つき……時に笑い、時に泣いたりしていた頃、同じように彼女も、地底の何処かで笑い、泣き、傷ついていたはずだった。そして待った。その時はやってきた。それが彼女がこの世界にいる理由だった。
椛は山道を登り続けた。空を飛べる天狗は階段を必要としない。その踏み分けられた道とは、椛と、そして御山が育んだ獣達が歩んできた道だった。
夜更けの山中は凍てつく寒さに満たされている。息は白く濁っている。酒精は足の爪先まで巡っている。
それでも意識は明瞭だった。椛は一歩一歩を踏みしめて歩いた。そうして山道を登っていった。一歩ずつ、一歩ずつ……熱気球から飛行船へ――ハングライダーからレシプロ機へ――ジェット機からスペースシャトルへ……ステップ・バイ・ステップに登り詰めた先に、自分は何を視るのだろう。どんな景色が広がっているのだろう。
夜雀の言葉が、周回軌道に乗った人工衛星のように椛の脳裏を横切っていった。
人事を尽くして、天命を待て――。
初めて空を飛んだ記憶は、父の腕のなかだった。その時の椛は五歳と数ヶ月で、世界の「せ」の一画目すらも知らないような時分だったのだが、今でもその時に感じた尊い温もりを忘れずにいることは、椛にとってのささやかな誇りだった。
上空二百メートルの彼方。地平線まで緑の山々の連なりは続いていた。自分が生まれ育った御山が、地形の隆起が生み出した偶然の産物であることを思い知った時の、何か圧倒されたような心地を、幼い椛は感じていた。“私”という存在の小ささを思い知らされた瞬間だった。それでも――こんなにちっぽけな存在に、父を始めとして沢山の人々が手を差し伸べてくれていたということに、あの頃の自分は幸せを感じていたはずだった。幸福だった。それは間違いのないことだった。
私は自由ではなかった――だが満たされていた。その温もりが失われた今になって、私は自由という大空に恋い焦がれ続けている。どうしようもなく一方的な片思い。ワン・サイドに流れ続ける茫漠とした想い。父が授けてくれた自由の種は、椛の心に根を張って、花を咲かせないままに大樹となった。
叫びたかったのだろう、と思う。自分は叫びたかった。腹の底から叫びたかった。誰に向けて伝えたかったのか。誰に向けて訴えかけたかったのか。
白狼達は吠える。「百だか千だかに一つの確率」の外れクジを引いた、空を飛べない同胞達。「その多くは身分の低い白狼の中でも特に蔑まれ、埋没するように消えていった」と――。
生き残った椛は、幾千もの同胞達の胸に沈んできた言葉を、在りのままに叫ぼうとした。そうして泥沼のなかを這い上がってきた。たとえ空を飛べずとも、たとえ希望が閉ざされていても。
――絶たれていようとも――絶たれていても、なお。
『私は――私達は……』
籠のなかで、白い小鳥は高らかに叫ぶ。
『私達は自由だ!』
いつか檻をぶち破れるくらいの力を付けるまで。
『私達は――!』
白狼天狗は空に焦がれ、そして待ち続ける。
翌日のこと――椛は哨戒の任に就いていた。
空は晴れ渡っていた。しかし昨夜に予感したように、千里を翔ける瞳には既に、次の寒波を告げる灰色の雲の群れが映っていた。構わない、と椛は思う。投げやりな気持ちではなかった。ただ来るなら来いと、受けて立ってやるという熱情が胸に息づいていた。
椛は哨戒の際に好く使っている、崖に突き出した岩場で目を光らせていた。そこは見晴らしが好く、山の裏側を除けば幻想郷のほとんど全土を見渡すことができた。冬が溶け去り――春が芽吹けば――この岩場から幻想郷一の絶景を拝めること請け合いだった。
部下達も、それぞれの持ち場を飛び回っているはずだった。朝一番に椛が大天狗のもとへ嘆願しに行った甲斐があったのか、子鹿を射殺した新人達は全員が厳重注意だけで済んだ。それは下っ端の不満を抑えるための恩赦なのかもしれなかった。始めからそうと仕組まれていただけの話なのかもしれなかった。その可能性は充分にあった。でも今の椛は、出来れば誰のことも疑いたくはなかった。在りのままに事実を事実として受け止めたかった。
「もーみじ!」
羽音が降ってきた。姫海棠はたてが、新聞記事を抱えて傍らに降り立った。漆黒の羽がひとつ、椛の肩に寄り添った。
「完成しましたか?」
「もちっ! ほら――『花果子念報』師走の四! 昨日はありがとね。おかげで好い記事になった、と思う。個人的にはね」
椛は出来立ての新聞を受け取った。真新しいインクの匂いと、何処か懐かしい紙の手触りと……第一面に使われている写真に、椛の心は微かに震えた。椛は始めから終いまで、じっくりと完成した記事を読んだ。
「……好いと思います。ちゃんと考察を絡めて結ばれている。ただのゴシップに終わっていない。少なくとも、私は好きですよ」
はたては手を打ち合わせた。「ありがと!」
喜ぶ鴉天狗の少女から目を離して、もう一度、椛は記事を読み通した。写真に映っている封獣ぬえは、飛倉の破片を探して大空を飛んでいた。地底を抜け出し、かつての幸せを取り戻した今になってさえ、やはり彼女は何かしらの目標を見つめて、彼女なりの努力を続けているようだった。そのことは、不思議なくらいに椛の心を勇気づけた。心臓から送り込まれる血液に、冬の寒さにも負けない熱がこもっていた。
「姫海棠様」
はたてが振り返った。「どうしたの、椛」
「こいつのこと、どう思いました、取材してみて」
鴉天狗は指を顎に当てる。
「……難しい奴ね。警戒心が強い。私が正体を見破ったせいもあるんだろうけど、素直じゃないもんだから……取材の時もどれが本当で、どれが嘘なのか、見極めるのに苦労した感じ」
「そうですかね、私には何だか――」
続く言葉を、椛は呑み込んだ。身を乗り出して、岩肌に両手を突いて、遙か先の風景に眼を凝らした。はたてが軽く背中を叩いてきたが、椛は応えられなかった。
昨夜――ぬえと出会った人里の外れ、小川の土手のすぐ近くに、ほとんど同じ顔ぶれの子供達が、集まって手を振っているのが見えた。間髪入れずに、ぬえが子供達の傍に降り立った。昨日と同じ、二色三対の羽を生やした、黒い着物をまとった少女の姿だった。ぬえは子供達に何事か声をかけて、順番にその頭を撫でていった。ぬえも子供達も笑顔だった。子供の一人ひとりが、妖怪の持つ三叉の槍や――着物の裾や――奇怪な翼を触ったり掴んだりしていた。ぬえは、とても慕われているようだった。
そして椛は理解する。唐突に理解する瞬間が訪れる。青天の霹靂よろしく、電撃が身体の隅々まで駆け抜ける。ほとんど反射的に、椛は片手で口を覆って、溢れ出る声を抑えようとする。閃いた稲妻を頭のなかで反芻する。
――ぬえは、始めから子供達に正体を隠してなどいなかったのだ。
懐いたところを取って喰おうとか、怖がらせて心を食べてやろうとか――ぜんぜん見当違いだった。ただ彼女は自分の正体をさらけ出して、子供達と触れ合おうとしていただけだったのだ。正体不明の妖怪と、妖怪の恐ろしさを教えられ続けてきた子供達とが、どのようにして出会い、知り合い、そして触れ合えるようになっていったのか、その経緯は椛の知るところではなかった。椛はただ――自分が彼女に投げつけてしまった言葉の数々を思い返していた。苛立ちと――無理解と――偏見とが生み出した言葉の、数々を。
「姫海棠様……」椛は呻くように云う。「たぶん、たぶん、これは私の個人的な意見に過ぎないのですが」深呼吸を挟む。「彼女は――彼らは、本当は素直なんだと思います。一途なんだと思います。彼らなりに一所懸命にやろうとしてくれていたんだと思います……ただ、やり方を知らなかっただけで、私が教えなかっただけで――それだから、彼らはふて腐れてしまったんです。私が先に諦めてしまって……」
はたてが後ろで戸惑うように身じろぎする。
「椛――?」
また一日が終わる。陽が暮れてゆく。
椛は点呼をかける。笛の音に導かれて、鋭い聴覚を自慢とする彼ら/彼女らは、すぐに椛のもとに馳せ参じた。そこは椛が小隊の集合場所と定めた川の岩場だった。古株の部下らが真っ先に集った。遅れて新顔の――子鹿を射殺した新顔達がやってきた。
古株らは戸惑うように椛を見つめていた。新人達は耳をすっかり垂らしていて、時おり窺うように椛の表情に視線を向けた。椛が今朝に大天狗の屋敷まで嘆願しに行ったことを、誰もが知っていた。それが椛には分かった。椛は一人ひとりに眼差しを配った。そして初めて、部下達の顔をこのように詳しく観察したことのない自分に気がついた。千里を翔ける瞳は、こんな近いところにいる存在すらも見落としていた。
椛は息を吐き出した。それ以外には誰も口を開かなかった。清流が奏でるせせらぎだけが場に木霊していた。厳しく険しい冬を迎えてなお、たくましく生き続けようとする御山の動物達や――白狼天狗達を、川の流れは見守り続けていた。
沈黙に耐え切れなくなったのか、声を上げようとする新人を、椛は片手で制した。彼はすぐに押し黙った。椛はその顔を真っ直ぐに見つめた。彼は自分と変わらぬ――空を飛べること以外は――自分と決して違わぬ、御山への奉公を誓って今日まで生き抜いてきた、誇り高き白狼天狗の一人だった。
満足な食事にもありつけず――蓄積してゆく疲労と不満――虐げられることへの憤激と悲哀――そうした苦難の時を共に乗り越え、肩を組み合うべき仲間達が、確かな尊敬の眼差しを持って自分を見つめ続けてくれていたことに、椛はようやく気がついた。ぬえが蒔いてくれた種が、いよいよ花を咲かせようとしているのを、椛は感じていた。
息を胸の奥深くまで吸い込む。空を見上げる。冬の夕暮れの空は、地球の果てまで続いている。この優しく光る、淡い水色をした惑星の果てまで。
顔を正面に戻して、椛は口を開いた――。
(自分の正体をさらけ出して……)
「みんな、今日も一日、好くやってくれた――昨日の件については……私も色々と考えるべきことがあった」
部下達は顔を緊張で強ばらせていた。椛は出来るだけ自分の気持ちが伝わるようにと、言葉を選んだ。
「お前達にも、色々と思うところがあったのだと思う。残念なことだが、私はお前達のことを何から何まで知っているわけじゃないんだ。知る必要なんかないと思っていた。知らないままに通してきた。それでやって行けると思っていたんだ……たぶん――どうやら――私達は一度、腹を割って、深くまで話し合う必要があるようだ」
そこで椛は頷いた。得体の知れない熱情が再び喉の奥にまで駆け上がってきて、白い尻尾がくるりと円を描いた。空を求めて叫び出したい衝動をこらえて、椛は心を砕いて語り続けた。
「私は……私はお前達と話がしたい。誰にも邪魔をされずに、お前達と心から話がしたい――そこでだ。腹を割って話すには、まずは肝心の腹を満たす必要がある。みんな今日もほとんど何も食べてないだろう。今夜は私のおごりだ。好い屋台を知っているんだ――」
.
白狼天狗は鵺を視る
墨を流し込んだかのような灰色の空を仰ぎ見ながら、犬走椛は行き場のない溜息を吐き出した。呼気は吐き出された端から白く濁って、流れゆく風の底を墜ちていった。
外はひっそりと冷え込んでいる。まるで自分が叱責を受けていた数時間の隙を窺って、冬景色がこの御山へと一斉になだれ込んだかのようだ。
執務棟を辞した頃には、もう日は稜線の向こうに沈みかけていた。日没前の最後の陽光を浴びようとして、枯れ木が枝を大きく広げている。痩せ細って骨と皮だけになった雌鹿を思い出すような、寂しい佇まいだった。そうした木々を横目にして、椛は山の中腹へと下っていった。落ち葉を踏みしめる音が耳に痛かった。
幻想郷に厳しい冬がやってくる。葉はすっかり散ってしまい、空は灰色の厚い雲に覆われる。数日と経たずに雪も降り始めるだろう。これからしばらくの間、下っ端の白狼天狗達は満足な食事にありつけなくなる。誰も彼もが苛立ち、不満を吐き捨てている。
椛は立ち止まり、手近な古木に背中を預けた。宿舎に帰るのが億劫だった。独り歩いて帰ってくる自分を見つけた時の、同僚達の目を横切る得体の知れない光が、椛にとっては苦痛だったのだ。それは言葉で面と向かって云われるよりも、ずっと率直に当人の気持ちを物語っているように思えるのだった。
どうしようか迷っているところへ、ぱしゃり――と音が跳ねた。椛は反射的に盤刀の柄を握った。
「盗み撮りは趣味が悪いですよ」椛は耳を震わせた。「何用でしょうか?」
「機嫌が悪いところ申し訳ないんだけどさ」
姫海棠はたてが頭上の枝に腰掛けて、こちらを見下ろしていた。
「前に云ってたの書き上げたから、読んでくれないかな、いつもみたいに」
「以前の?」椛は答えに窮した。「いつでしたか……それは?」
「読めば分かるから」はたては云った――すぐに決まり悪そうに頭を掻いて「ごめんね。不躾で。締切が近くてさ。もうすぐ印刷所も閉まっちゃうから」と付け加えた。
椛は腕を伸ばして、垂れ下がった原稿を受け取る。
書き上げた記事の校正というか下読みが、いつの間にか彼女との毎度毎度の約束事のようになっていた。椛が読んでいる鴉天狗の新聞は、今では彼女の発行するものだけだった。
大蛇のように木の枝に巻き付いて、隈の浮いた目をしきりに擦る上司を一瞥してから、椛は原稿に視線を落とした。見出しはこうだ。
『燃えさかる火の玉から宇宙人? ――十尺の巨人現る!――』
「あぁ……鵺でしたっけ、確か」椛は息をついた。「相変わらず記事になるのが遅いですね」
「うるさいよ!」
ざっと目を通した椛は、原稿をはたてに返して、細かい表記の揺れを指摘した。教養があるわけでも、語学のセンスがあるわけでもない。「それでも好いから」と懇願してきたのは向こうの方だった。
はたては枝に寝転びながら赤ペンを走らせた。いくつかの頷きと、はにかんだような笑みが交互に現れた。
「ん――なるほどね、ありがとう」
「どういたしまして」
「何かさ、記事に出来そうなことあった?」
その時、意地の悪い考えが椛の頭を走り抜けた。
「……認可も無しに鹿を狩った連中がいまして」
「あちゃあ、そりゃいけないわね。なんて命知らず」
「私の部下です」
はたての笑みが瞬間的に凍り付いた。なかなか芸術的な急転直下だったので、椛はいたく感心した。
それは久々の失態だった。最近は……ああいう連中が増えたように思う。畏れを知らないというか、道徳を弁えていないというか。天狗としての自覚が足りない連中が、近年の若い輩には実に多いと椛は感じていた。自分は決して保守的ではないと思っているし、むしろ大天狗らと比べてリベラルな価値観を有しているという意識もあったが、何事につけても「目に余る行状」というのは、確かに存在する。
神聖なる御山が育んだ子鹿を、何の許可も得ずに射殺して、解体して、狼煙でもないのに焚き火まで使って――貪り喰った。それをやったのが、椛の新顔の部下達だった。
椛は責任を問われた。何時間も何時間も、たっぷりと叱責を頂戴した。
「そういえばさ」今風の念写記者は云う。「あれから何か見つかった、空を飛ぶ方法……?」
「姫海棠様のように、私の部下達も真摯な態度で務めを果たしてくれたら好いのですが」椛は質問を無視して、足下の落ち葉を睨みながら云った。「私にばかり厄介者が送り込まれてくるように感じます」
「みんな堅苦しいのが好い加減イヤになってきたのよ。私だってそうだけど」鴉天狗の少女は云う。「縛られるのが嫌いな奴、最近増えてきてるんじゃない?」
椛は噛みついた。「どいつもこいつも遊びたいだけなんですよ」
「ま……苛立つのも分かるけどさぁ」はたては原稿に目を走らせながら云う。「疲れてるんじゃない、あんた。最近ちゃんと寝てるの? 睡眠不足はお肌と思考の天敵よ」
「姫海棠様にだけは云われたくないです」
「違いない」
新聞記者は笑った。
□ □ □
椛は妖怪の山を出た。
明日もお勤めを果たさなければならないが、別に規則を破っているわけではないのだ――少しだけ、少しだけ、一杯やりたい気分だった。顔見知りが誰もいない場所で、いろいろな物事を休めたかった。そのままにしておきたかった。水槽から取り出して吟味するのは明日で好い。それで充分だ。
確か――夜雀が開いている屋台があったはずだ。はたての新聞に掲載されていた。八目鰻が美味いらしい……まさか酒くらいあるだろう、なにせ屋台なのだから。
御山から屋台までの道のりは、思ったよりも遠い。椛は林を抜けて、田園沿いを延々と歩いた。ときどき思い出したように空を仰いだ。静かな冬の宵だ。その静寂は、手に掬って味を確かめられそうなくらいに濃密だった。
夜風に当たれば少しは気持ちも安らぐだろうか。そう考えていたのだが、静まった心は平常線を通り越して滅入るばかりだった。「私は馬鹿じゃなかろうか」という煩いが消えずに、肺の辺りに滞留している。
道も半ばに至る。人里に灯った明かりが鬼火のように揺れている。千里を翔ける力を授かった瞳なら、そのひとつひとつが好く見渡せた。そこには家庭があった――繋がりがあった――温もりがあった。複雑な組織構造もない。厳しい上下関係もない。板挟みに悩まされることもない。少なくとも椛には……夜の里の風景は穏やかに流れているように視えた。
陽はすっかり沈んでしまった。その日の残り香が風にそよぐばかりだった。
子供達の声が聞こえたのは、人里の南東に位置する、小川の土手のすぐ近くだった。椛は顔を上げる。人間の少年少女らが五人ほど、妖怪の少女に向けて手を振っていた。ちょうど別れるところだったらしい。
その少女が妖怪だと分かったのは――もちろん少女の特異な容姿からも知れるのだが、それ以上に――先ほど下読みした記事に掲載される予定の写真を、椛は覚えていたからだった。「これでいこうと思って」と、はたてがわざわざ見せてくれたのだ。
妖怪の少女も軽く手を挙げて応えていた。子供達の姿が闇に紛れて見えなくなるまで、その手が下ろされることはなかった。椛は動くことも出来ないままに、その光景を見守っていた。やがて妖怪は腕を下ろすと、しばらく人里の明かりを見つめていた。
呼吸がひとつ、またひとつ、夜の露に溶けて消えた。少女は諦めたように肩を落として振り返り――ようやく、椛のことに気がついた。
二人の眼が合う。時間が静止する。何倍にも引き延ばされた数秒間が続く。椛は息をするのも忘れていた。刀の柄を握りしめていた。指が強ばっていた。何が自分を引き留めたのか、何が自分を引き付けたのか、椛には分からなかった。
ふと我に返る瞬間が訪れる。椛は口を開く。
「正体不明のあやかしが、こんなところで何をやっているんだ。里の子供と混じったりなんかして……」
妖怪は――封獣ぬえは肩をすくめた。「別に取って喰おうだなんて思ってないわ。人肉はとっくの昔に卒業したのよ。精進料理も悪くない」
瞬間的に椛は「嘘だ」と思った。そのように嘘をついて人間を騙し――誘惑し――喰らってきた妖怪が、過去に何人いたことだろう。
ぬえは三叉に分かれた槍に腰掛け、紅色の瞳を細めて椛のことを見つめる。その瞳には雲に隠れているはずの星がきらめいている。「ふぅん?」と唇の端を曲げて椛のことを見下ろしている。鵺妖怪の瞳に映るそれは、好奇心の星屑だった。
ぬえは云った。「あなたには正体をさらしていなかったはずなのに、どうして私のことが分かったの……?」くすくすと笑う。「この前なんか“十尺の宇宙人”とか噂されちゃってさ、愉快痛快とはこのことね」
「その噂とやらをすっぱ抜いた記事を、私が読んだからじゃないのか。お前の姿が写真に堂々と映っていた」
ぬえが笑みを引っ込める。今風記者の念写は、鵺にとっての天敵らしい。椛は記憶の引き出しを開く――古代の昔日、正体を暴かれた鵺は、たちまち人間達によって退治されたと聞く。恨みは深かろう。
「ここは厄介な連中が多くて敵わないわ、落ち着いて遊べやしない」ぬえは天を仰ぐ。「窮屈、退屈」
「大方、懐いたところを誘い出して喰おうって腹だろう。それなら止めておいた方が好い。前にも馬鹿な奴が一人いたんだが、御山の穴蔵に閉じ込められてそれっきりだ」
ぬえは応えなかった。不快そうに眉をひそめただけだった。椛も同じように顔をしかめていた。
こいつもか、と思う。近頃の妖怪は――いや、最近この世界に入ってきた妖怪は、常識に掛からない奴ばかりだ。哀れな子鹿を射殺した部下達にしても……猛り狂った人間達に射落とされた鵺にしても。彼ら/彼女らは共同体のルールに縛られずに、自由であろうとする。奔放であろうとする。妖怪であろうとする。それは埋めようのないジェネレーション・ギャップ。変貌してゆく幻想郷の在り様を思い知らされる瞬間が、椛の胸に訪れる。
椛は思念を打ち消す。そうしたくさくさした物事から離れたくてたまらなくて、私はわざわざ山から降りてきたのではなかったのか。
「まぁ……ほどほどにしておくことだな。また封印されたくはないだろう」
ぬえは再び肩をすくめる。「どういたしまして」
□ □ □
ミスティア・ローレライの屋台には今夜、二人の客が訪れている。片や白狼天狗、片や鵺。今にも雪が降り出しそうな冬空の下で、わざわざ外れの屋台にまで足を運ぼうとする者とは、寒さを物ともしない剛の輩か、もしくは他に居場所がない奴かのどちらかだった。
ミスティアは鼻歌を流しながら鰻を焼き続けている。時おり三角巾からはみ出した髪を整えたり、おしぼりで汗を拭ったりする。愚痴をこぼす客を鳶色の瞳で見守る様子には、一人前の女将の風格があった。ミスティアの屋台の陽気なのだが節度を乱さない居心地の好さは、客に云わでもの愚痴をこぼさせてしまうのだった。
「なにさ、どいつもこいつも妖怪らしくもない!」
ぬえはカベルネ・ソーヴィニヨンのワインが注がれたグラスを食台に置いた。それはミスティアが“常連客”に毎度お出ししている一品なのだそうだ。
「ムラサもムラサ、一輪も一輪よ! 口を開けば『聖、聖』って……私は鵺だ、妖怪なんだ、どいつもこいつも揃って除け者にしやがってぇ――!」ぬえは八目鰻を箸でつまみ、口に放り込んだ。「むぐ、どうして今日に限って来てないんだよぅ、藤原ぁ……」
「今夜は炭が足りてるからね、妹紅さんを呼んでなかったんだよ」女将が云う。「また今度の機会にさ、一杯やろうね」
ぐすん、という鼻息が隣で漏れた。椛はそれを聞きながら麦焼酎の水割りをあおった。西洋の酒を浴びるように呑むぬえのことが信じられない。先ほど試しに口にした時など、余りの渋味に椛は盛大にむせてしまったのだ。
「つまらないなら、出て行けば好いじゃないか」椛は視線を丸皿に留めたままに云った。「妖怪が仏道に専心する方がおかしいんだ。なにも付き合う必要なんかないだろう」
ぬえも顔を伏せたままに答える。「……借りが、あるからね、大きな」
ぬえの言葉はワインの水面に沈んだ。椛は声を重ねなかった。ミスティアも黙々と追加の鰻を焼き続けていた。屋台に面した雑木林が、夜風に吹かれて寂しい音色を奏でていた。それは奇妙な沈黙だった。
「あんたこそさ……」ふと思い出したように黒服の少女が云う。「なんで、あんな偏屈なところにいて平気なのよ。天狗って奴は滑稽ね。いちばん人間を見下している癖に、いちばん人間みたいに見える、私には」
椛は答えた。「ずっと御山で暮らしてきたんだ。今さら出ようとも思わないな」
「なんていうかさ、それって籠のなかの小鳥と同じじゃないの。与えられた環境が全てだって思いこんで……ねぇ、ミスティア?」
夜雀は串を器用に操って、鰻を皿に盛りつけ始めた。「どうかなぁ……私は今の生活に満足しているし、それが籠のなかなのかどうかって、あんまり気にしたことないかな。もしこれが籠のなかだとしても――少なくとも、私は飛べる」
椛は身じろぎした。酒精が嫌な巡り方をしている。ミスティアは後片づけの準備をし始めた。炭の火を消した。鰻が炙られる景気の好い音は消えてしまい、いっそう林の奏でる調べが耳を煩わせ始めた。いつもはそうした自然の音を耳にすると、心が安まるものだった。今は――心臓に釘を刺し込んでくるばかりに思える。
「今が満足か……満足ねぇ」
ぬえはそう云って、最後の鰻を咀嚼し始めた。
□ □ □
「あら珍しい。いつの間に晴れたんだろう?」
ミスティアの声に二人は顔を上げた。広大な星空が世界を覆い尽くしていた。半分の月は銀色に染め抜かれ、周辺のちぎれ雲の輪郭を露わにしていた。そこには宇宙があった。自由があった。同時にカオスが蹂躙[じゅうりん]する空間でもあった。星々は好き勝手に光り輝いていて、何光年という距離を飛び越えて地球にまで己の存在を主張していた。そのうちのいくつかは、すでに死んでいる星なのかもしれなかった。
椛も、恐らくはぬえも……頭上に広がる天穹に得体の知れない感慨を抱いた。椛は豆だらけの手のひらを胸に当てた。熱い動悸がビートを刻み続けていた。その脈は間違いなく、この身体が生きていることの証左だった。
「驚いた。地上に脱出して以来かな、こんな綺麗な星空」ぬえが頬に両手を当てて云う。「やだやだ、昔を思い出しちゃった……懐かしい」
「冬は寒いし、客の入りが悪くなるし、ほんと厭になる季節」ミスティアはすでに夜空から目を離していた。「ま、そんな中にも救いはあるものね――アーメン」
椛は感情に動かされて云った。「……『地球は優しく光る、淡い水色をしていた。だが神はいなかった』」
二人は椛を見つめた。椛は我に返り、気まずさに酒をあおった。
「なに、今の」ミスティアは云った。「誰の言葉?」
二人から視線をそらして答える。「紅魔の図書館で読んだんだ、以前」
「フランのとこ? あんたが?」
椛は頷いた。「ガガーリン。その人間の名前だけは覚えてる。とても好い本だった。書物から感銘を受けるだなんて初めてだったから、少し驚きもあったな」
それは人類が空へ飛び立ち、宇宙に辿り着くまでの歴史を叙述した文献だった。始めは眠い目をこすって読み始めていた。いつの間にか千里の眼を見開いて熱中していた。
気球からハングライダー、動力飛行機と続き、最後にはスプートニクからアポロ十一号にスペースシャトルまで――まるで別の世界のような話だった。結界を隔てた、陸続きに住んでいるだけの違いなのに、人間はいったい何処まで向かうのだろう、と読み終えた椛は沈思していた。
「人間もまた、ずいぶん遠くまで行っちゃったものね」使い魔らしき緑色の蛇の背を、指で撫でながら鵺妖怪は云う。「分からないことを次から次へと解明して、あんたの眼でも視えないところまで飛んで……」
ぬえは目を細めていた。酒精が回って眠くなっているのかもしれなかった。あるいは下弦の月に何かしらの想いを馳せているようにも見えた。ミスティアは黙りこくって片づけを続けていた。
「つまり……要するに、私の云いたいことはこういうことなんだ」酒の勢いに任せて椛は喋った。「人間は太古の昔から空に憧れ続けて、ついには飛んだ。そして月まで行った。いくつもいくつも世代を重ねて、長い長い年月をかけて――」そこで息をついた。「信じ続ければ――挑戦し続ければ――諦めの気持ちさえ起こさなかったら――生まれつき足が不自由な奴だって、いつかは自分の力で歩けるようになるだろうか――空を飛べなかった奴が、雲より高くまで飛ぶことが出来るようになるだろうかって……」
椛はうつむく。「そう思った、あの時」羞恥心に似た塊が胸の奥でうごめいている。「それを云おうとしたんだ」
かちゃん、と音が鳴る。ミスティアが酒瓶とワインボトルを洗っている。ぬえはカベルネ・ソーヴィニヨンの最後の一口を美味そうに呑む。椛も最後の酒を味わおうとする。すでにグラスは空だった。
「……絶対とは云わないわよ、私は」不意にぬえが云う。「出来ないもんは出来ないなんて身も蓋もないけれど、やっぱり世の中、そう上手くはいかないってこと、今まで何度も何度も見てきたし」
椛はうなずく。
「うーん、でもさ……でもね」ぬえは続けた。「私は待ったよ。それでも。待って待って待ち続けた。生きることそのものが、あの頃の私にとっては精一杯の努力だった。いつか絶対――いつか絶対って……そして温泉が湧いた」
ぬえが羽をうごめかせた。椛は視た。その二色三対の羽の付け根に、奇妙な帯状の跡があった。何かを巻き付けたかのような跡が、時の流れに逆らって残り続けていた。
「ま、ま、止めましょうよ、こんな話は。ささっ――ミスティア、勘定勘定! 今日もなんだかんだで楽しかったわ」
急に恥ずかしくなったらしく、ぬえは慌てて腰に提げていた巾着から代金を取り出す。
夜雀は「まいど」と金を受け取る。椛も懐から小銭をかき集めて食台に並べた。ミスティアは笑顔で小銭の束を懐に納めた。そして夜雀の少女はささやくように、さえずるように云った。
「『人事を尽くして天命を待つ。過ぎたるは猶[なお]及ばざるが如し』――考え過ぎは身体に毒だよ。やるべきことをやったらさ、あとはなるようにしかならない。前に妹紅さんと来た里の先生が云ってた」
物覚え悪いから自信ないんだけど――ミスティアはそう付け加えて、頭を深々と下げた。
「ご来店ありがとうございます。またのお越しを、お待ちしております」
□ □ □
椛は鵺妖怪と夜道を歩いた。二人で田園沿いを延々と歩いた。空には星が瞬いていた。冬の切れ目、ほんの束の間の晴れ間だった。明日を最後に、再び世界は灰と白に覆われる。それを椛は予感していた。
「じゃ……私こっちだから」
後ろを歩くぬえが云う。椛は振り向いてうなずく。
「夜道では気をつけろ……お前には不要な言葉か」
ぬえは笑った。「当然」
何にも例えようのない感情が、先ほどから椛のなかで底流している。正体を隠した何か底の知れない感情が。それは鵺がばら蒔いた種のようだった。いつかの時分に、今日のこの瞬間を思い返してみても、その感情の正体を客観的に見極めることは不可能なように椛には思えた。それは正体を見破った途端に力を失ってしまう――。
「天狗にも面白い奴がいるんだぬぇ。それだけでも今日は収穫があったかな。また呑もうね、たまにはさ」
椛は曖昧に首を動かした。今日のような機会がもう一度あると考えるには、椛は苦い思いに噛みつき過ぎていた。
それでも椛は答えた。「そうだな……たまには、好いかもしれないな」
ぬえは立ち去らない。火照った顔を椛の腰のあたりに向けている。ルビーの瞳が燃えている。羽が鬼火のように揺らめいている。
椛はすぐに察した。少しだけ迷ってから、屋台での会話を思い返して、仕方がないかと思い直した。くるりと身体を半回転させて、真っ白な――雪のような毛並みの尻尾を、ぬえの前に差し出した。
「ありがとう」
ぬえはおそるおそる触れた。すぐに両手で抱きしめてきた。指の感触が尻尾を通じて椛の頭を痺れさせた。椛はさせるがままにしておいた。自分も幼かった頃は、そうして父の尻尾を抱いて眠っていた。あの時の太陽の匂いが、冬の香りの合間を縫って椛の心に蘇り、響いた。
ぬえの呼吸と椛の呼吸が重なった。ぬえは夢中になって尻尾を抱きしめているようだった。椛はどうすれば好いのか分からなくて、夜空を見上げていた。星々は今も、千里の世界で瞬きを続けていた。
「うん……ありがと」
ぬえは礼を繰り返した。少女の腕が離れていった。同時に記憶の残照も厚い雲に閉ざされた。
椛は首だけをぬえに向ける。もう好いのか、と片目を細めてみせる。へにゃりとしたうなずきが返ってくる。
「お前、だいぶ酔ってるだろう」
「あんたこそ」
二人は唇を曲げて、ただ笑った。
ぬえと別れてからも、椛は歩き続ける。人里が見えなくなり――林を抜けて――生まれ育った御山に入る。ほろ酔いの頭にいくつかの言葉と、いくつかの記憶が漂う。けれども、やがて取り留めのない徒然草は寄り集まって、ひとつの大樹になる。それを椛は確かに感じている。
『私は待ったよ。それでも。待って待って待ち続けた。生きることそのものが、あの頃の私にとっては精一杯の努力だった。いつか絶対――いつか絶対って……そして温泉が湧いた』
ぬえの羽、その一本一本の動きを思い返した。酒に火照った、憂いを含んだ笑顔のことも。自分が山を駆け抜け、戦いに傷つき……時に笑い、時に泣いたりしていた頃、同じように彼女も、地底の何処かで笑い、泣き、傷ついていたはずだった。そして待った。その時はやってきた。それが彼女がこの世界にいる理由だった。
椛は山道を登り続けた。空を飛べる天狗は階段を必要としない。その踏み分けられた道とは、椛と、そして御山が育んだ獣達が歩んできた道だった。
夜更けの山中は凍てつく寒さに満たされている。息は白く濁っている。酒精は足の爪先まで巡っている。
それでも意識は明瞭だった。椛は一歩一歩を踏みしめて歩いた。そうして山道を登っていった。一歩ずつ、一歩ずつ……熱気球から飛行船へ――ハングライダーからレシプロ機へ――ジェット機からスペースシャトルへ……ステップ・バイ・ステップに登り詰めた先に、自分は何を視るのだろう。どんな景色が広がっているのだろう。
夜雀の言葉が、周回軌道に乗った人工衛星のように椛の脳裏を横切っていった。
人事を尽くして、天命を待て――。
□ □ □
初めて空を飛んだ記憶は、父の腕のなかだった。その時の椛は五歳と数ヶ月で、世界の「せ」の一画目すらも知らないような時分だったのだが、今でもその時に感じた尊い温もりを忘れずにいることは、椛にとってのささやかな誇りだった。
上空二百メートルの彼方。地平線まで緑の山々の連なりは続いていた。自分が生まれ育った御山が、地形の隆起が生み出した偶然の産物であることを思い知った時の、何か圧倒されたような心地を、幼い椛は感じていた。“私”という存在の小ささを思い知らされた瞬間だった。それでも――こんなにちっぽけな存在に、父を始めとして沢山の人々が手を差し伸べてくれていたということに、あの頃の自分は幸せを感じていたはずだった。幸福だった。それは間違いのないことだった。
私は自由ではなかった――だが満たされていた。その温もりが失われた今になって、私は自由という大空に恋い焦がれ続けている。どうしようもなく一方的な片思い。ワン・サイドに流れ続ける茫漠とした想い。父が授けてくれた自由の種は、椛の心に根を張って、花を咲かせないままに大樹となった。
叫びたかったのだろう、と思う。自分は叫びたかった。腹の底から叫びたかった。誰に向けて伝えたかったのか。誰に向けて訴えかけたかったのか。
白狼達は吠える。「百だか千だかに一つの確率」の外れクジを引いた、空を飛べない同胞達。「その多くは身分の低い白狼の中でも特に蔑まれ、埋没するように消えていった」と――。
生き残った椛は、幾千もの同胞達の胸に沈んできた言葉を、在りのままに叫ぼうとした。そうして泥沼のなかを這い上がってきた。たとえ空を飛べずとも、たとえ希望が閉ざされていても。
――絶たれていようとも――絶たれていても、なお。
『私は――私達は……』
籠のなかで、白い小鳥は高らかに叫ぶ。
『私達は自由だ!』
いつか檻をぶち破れるくらいの力を付けるまで。
『私達は――!』
白狼天狗は空に焦がれ、そして待ち続ける。
◆ ◆ ◆
翌日のこと――椛は哨戒の任に就いていた。
空は晴れ渡っていた。しかし昨夜に予感したように、千里を翔ける瞳には既に、次の寒波を告げる灰色の雲の群れが映っていた。構わない、と椛は思う。投げやりな気持ちではなかった。ただ来るなら来いと、受けて立ってやるという熱情が胸に息づいていた。
椛は哨戒の際に好く使っている、崖に突き出した岩場で目を光らせていた。そこは見晴らしが好く、山の裏側を除けば幻想郷のほとんど全土を見渡すことができた。冬が溶け去り――春が芽吹けば――この岩場から幻想郷一の絶景を拝めること請け合いだった。
部下達も、それぞれの持ち場を飛び回っているはずだった。朝一番に椛が大天狗のもとへ嘆願しに行った甲斐があったのか、子鹿を射殺した新人達は全員が厳重注意だけで済んだ。それは下っ端の不満を抑えるための恩赦なのかもしれなかった。始めからそうと仕組まれていただけの話なのかもしれなかった。その可能性は充分にあった。でも今の椛は、出来れば誰のことも疑いたくはなかった。在りのままに事実を事実として受け止めたかった。
「もーみじ!」
羽音が降ってきた。姫海棠はたてが、新聞記事を抱えて傍らに降り立った。漆黒の羽がひとつ、椛の肩に寄り添った。
「完成しましたか?」
「もちっ! ほら――『花果子念報』師走の四! 昨日はありがとね。おかげで好い記事になった、と思う。個人的にはね」
椛は出来立ての新聞を受け取った。真新しいインクの匂いと、何処か懐かしい紙の手触りと……第一面に使われている写真に、椛の心は微かに震えた。椛は始めから終いまで、じっくりと完成した記事を読んだ。
「……好いと思います。ちゃんと考察を絡めて結ばれている。ただのゴシップに終わっていない。少なくとも、私は好きですよ」
はたては手を打ち合わせた。「ありがと!」
喜ぶ鴉天狗の少女から目を離して、もう一度、椛は記事を読み通した。写真に映っている封獣ぬえは、飛倉の破片を探して大空を飛んでいた。地底を抜け出し、かつての幸せを取り戻した今になってさえ、やはり彼女は何かしらの目標を見つめて、彼女なりの努力を続けているようだった。そのことは、不思議なくらいに椛の心を勇気づけた。心臓から送り込まれる血液に、冬の寒さにも負けない熱がこもっていた。
「姫海棠様」
はたてが振り返った。「どうしたの、椛」
「こいつのこと、どう思いました、取材してみて」
鴉天狗は指を顎に当てる。
「……難しい奴ね。警戒心が強い。私が正体を見破ったせいもあるんだろうけど、素直じゃないもんだから……取材の時もどれが本当で、どれが嘘なのか、見極めるのに苦労した感じ」
「そうですかね、私には何だか――」
続く言葉を、椛は呑み込んだ。身を乗り出して、岩肌に両手を突いて、遙か先の風景に眼を凝らした。はたてが軽く背中を叩いてきたが、椛は応えられなかった。
昨夜――ぬえと出会った人里の外れ、小川の土手のすぐ近くに、ほとんど同じ顔ぶれの子供達が、集まって手を振っているのが見えた。間髪入れずに、ぬえが子供達の傍に降り立った。昨日と同じ、二色三対の羽を生やした、黒い着物をまとった少女の姿だった。ぬえは子供達に何事か声をかけて、順番にその頭を撫でていった。ぬえも子供達も笑顔だった。子供の一人ひとりが、妖怪の持つ三叉の槍や――着物の裾や――奇怪な翼を触ったり掴んだりしていた。ぬえは、とても慕われているようだった。
そして椛は理解する。唐突に理解する瞬間が訪れる。青天の霹靂よろしく、電撃が身体の隅々まで駆け抜ける。ほとんど反射的に、椛は片手で口を覆って、溢れ出る声を抑えようとする。閃いた稲妻を頭のなかで反芻する。
――ぬえは、始めから子供達に正体を隠してなどいなかったのだ。
懐いたところを取って喰おうとか、怖がらせて心を食べてやろうとか――ぜんぜん見当違いだった。ただ彼女は自分の正体をさらけ出して、子供達と触れ合おうとしていただけだったのだ。正体不明の妖怪と、妖怪の恐ろしさを教えられ続けてきた子供達とが、どのようにして出会い、知り合い、そして触れ合えるようになっていったのか、その経緯は椛の知るところではなかった。椛はただ――自分が彼女に投げつけてしまった言葉の数々を思い返していた。苛立ちと――無理解と――偏見とが生み出した言葉の、数々を。
「姫海棠様……」椛は呻くように云う。「たぶん、たぶん、これは私の個人的な意見に過ぎないのですが」深呼吸を挟む。「彼女は――彼らは、本当は素直なんだと思います。一途なんだと思います。彼らなりに一所懸命にやろうとしてくれていたんだと思います……ただ、やり方を知らなかっただけで、私が教えなかっただけで――それだから、彼らはふて腐れてしまったんです。私が先に諦めてしまって……」
はたてが後ろで戸惑うように身じろぎする。
「椛――?」
◆ ◆ ◆
また一日が終わる。陽が暮れてゆく。
椛は点呼をかける。笛の音に導かれて、鋭い聴覚を自慢とする彼ら/彼女らは、すぐに椛のもとに馳せ参じた。そこは椛が小隊の集合場所と定めた川の岩場だった。古株の部下らが真っ先に集った。遅れて新顔の――子鹿を射殺した新顔達がやってきた。
古株らは戸惑うように椛を見つめていた。新人達は耳をすっかり垂らしていて、時おり窺うように椛の表情に視線を向けた。椛が今朝に大天狗の屋敷まで嘆願しに行ったことを、誰もが知っていた。それが椛には分かった。椛は一人ひとりに眼差しを配った。そして初めて、部下達の顔をこのように詳しく観察したことのない自分に気がついた。千里を翔ける瞳は、こんな近いところにいる存在すらも見落としていた。
椛は息を吐き出した。それ以外には誰も口を開かなかった。清流が奏でるせせらぎだけが場に木霊していた。厳しく険しい冬を迎えてなお、たくましく生き続けようとする御山の動物達や――白狼天狗達を、川の流れは見守り続けていた。
沈黙に耐え切れなくなったのか、声を上げようとする新人を、椛は片手で制した。彼はすぐに押し黙った。椛はその顔を真っ直ぐに見つめた。彼は自分と変わらぬ――空を飛べること以外は――自分と決して違わぬ、御山への奉公を誓って今日まで生き抜いてきた、誇り高き白狼天狗の一人だった。
満足な食事にもありつけず――蓄積してゆく疲労と不満――虐げられることへの憤激と悲哀――そうした苦難の時を共に乗り越え、肩を組み合うべき仲間達が、確かな尊敬の眼差しを持って自分を見つめ続けてくれていたことに、椛はようやく気がついた。ぬえが蒔いてくれた種が、いよいよ花を咲かせようとしているのを、椛は感じていた。
息を胸の奥深くまで吸い込む。空を見上げる。冬の夕暮れの空は、地球の果てまで続いている。この優しく光る、淡い水色をした惑星の果てまで。
顔を正面に戻して、椛は口を開いた――。
(自分の正体をさらけ出して……)
「みんな、今日も一日、好くやってくれた――昨日の件については……私も色々と考えるべきことがあった」
部下達は顔を緊張で強ばらせていた。椛は出来るだけ自分の気持ちが伝わるようにと、言葉を選んだ。
「お前達にも、色々と思うところがあったのだと思う。残念なことだが、私はお前達のことを何から何まで知っているわけじゃないんだ。知る必要なんかないと思っていた。知らないままに通してきた。それでやって行けると思っていたんだ……たぶん――どうやら――私達は一度、腹を割って、深くまで話し合う必要があるようだ」
そこで椛は頷いた。得体の知れない熱情が再び喉の奥にまで駆け上がってきて、白い尻尾がくるりと円を描いた。空を求めて叫び出したい衝動をこらえて、椛は心を砕いて語り続けた。
「私は……私はお前達と話がしたい。誰にも邪魔をされずに、お前達と心から話がしたい――そこでだ。腹を割って話すには、まずは肝心の腹を満たす必要がある。みんな今日もほとんど何も食べてないだろう。今夜は私のおごりだ。好い屋台を知っているんだ――」
~ おしまい ~
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ちょっと地の文がかたいけど
内容は好きだなぁ
ヘリに乗って初めて空を舞ったときを思い出しました。夢見れば、いつか叶うかもしれない。
ありがとうございます、とても面白かったです。
いきなり偉そうでスイマセン! 天狗社会の窮屈さ 下っ端の悲惨さは
人間社会に通じる物がありますよね ぬえが蒔いた種がようやく椛の中
で花を咲かせたって所でなんか泣いちゃいました 椛の籠が広くなっていく事を願います
私は鬼同士の関係に凄い憧れを感じます 利益関係なしにお互いを想い それなのに
独立心が強いから 仲間とは疎遠になっちゃうって なんか素敵です 鬼になりたいなぁ
擁護施設のぬえちゃんの件は心が暖かくなると同時に正体不明が名前明しちゃ
いかんだろw ってなんとも微妙でいい気分になりましたw
しかし伏線を散りばめられるとどうしても「なまくら&へっぽこ」のラストエピソードが
楽しみになって仕方ありません プレッシャーを掛けてしまいますが楽しみにしてます!
今回みたいな短編ももちろん楽しみにしてます! では!
人物がどの空間に立ち何処に視点を持ち何を思うか。そのあたり前の事が確り綴られている。
その一つ一つが表現として膨らまされている。
思わず唸らされる物が幾つもあった。
私は文を書きませんが、創作者の端くれとして今後氏の躍進を楽しみにさせて貰います。
ご馳走様でした。
それはそうと、
あおみす氏の飛べない白狼の話はその発想に驚かされたのが記憶に新しいです。
この様なコラボレーション企画は夢が広がりますね。