「お嬢様、お茶をお持ちいたしまし……た……?」
銀のトレイに白亜のティー・カップを乗せたまま、十六夜咲夜は訝しげに眼を細めた。
雲のない日の午後のテラス。丸テーブルに一脚だけ添えられた小さな椅子。それに腰掛けて悠然としているはずのレミリア・スカーレットは、まったく明後日の方―― 日の沈む方を憮然と睨みつけて微動だにしない。
その膝もとには畏れ知らずの白い小動物が、丸くなって喉を鳴らしている。ソレはレミリアの細い指がなんの気なしに首周りを撫でると、満足そうに体を震わせてにゃあと鳴いた。
この構図はなんだ。しばらく咲夜は反応がない主を観察し続けた。どうやら高貴なレディは、膝もとに居座られるという経験をあまりしたことがないらしい。
地面に届かずに宙ぶらりになった両足が、たまにびくりと震えている。……緊張しているのだろうか。
なんだか黙って見ているのも悪い気がして、咲夜は控えめにもう一度声をかける。
「お嬢様」
ああ、とけだるげな返事と共に、首だけで振り返るレミリア。やはりその表情には困惑で彩られていた。
「咲夜、これをなんとかしなさい」
「なんとか、と仰られましても。……いったいどういった経緯でそんなことに」
「どうしたもこうしたもないわ。こいつがいきなり、下からとび乗って来たのよ。おかげで足跡がついたわ。足跡!」
咲夜が身を乗り出して見てみると、たしかにドレスの裾、それからちょうど膝の皿のあたりに、可愛らしい猫の足形がくっきり残っている。
足跡の小ささからもわかるとおり、白猫はまだ生まれて間もないらしい。ようやく目つきに鋭さが出てくるか来ないか、といった時期の様子。
咲夜がうっかり「かわいい……」と女性らしい感想を洩らせば、
「他に言うべきことと、するべきことがあるでしょう」
と厳かにたしなめられた。
たしなめた張本人であるレミリアはと言えば、咲夜に意識を向けていたばっかりに前足で左手を捕まえられ、人差し指を舐められたりしゃぶられたりしており、眉が小刻みに痙攣している。
しばらく左手だけでささやかに抵抗を続けていたが、中指の付け根をガブリとやられて後は諦めたらしい。こうして吸血鬼の左指は猫のおしゃぶりと化した。
「私がなにもせずとも、普通に引き剥がせばいいだけなのでは?」
「私だって最初はそうしようとしたわ。けど―― まぁ、やってみるがいいわ。こいつを早く地面に下ろして」
お嬢様の命令ならば仕方がない。咲夜はまだまだなりゆきを見守っていたい欲求をすっぱりと切り捨てて、子猫の腹を優しく包み込むように手を差し入れて、持ち上げようとした。――しかし。
「!?」
子猫は物凄い反応でレミリアの衣服にしっかと爪を立てた。
その動きたるや、野生そのものである。咲夜は目を白黒とさせ、仕方なしに手を離す。と、猫は元通りくつろいだ様子で喉を鳴らしだした。
「うーん、これでは、力づくで剥がしたら服に傷が……」
「――そういうわけよ。どうしたらいいのかしらね、これ」
ふ、と浅い息をついて、レミリアは自由な右手の人差し指を唇に当てがって思案する。その様子はとても毅然としていて矜持に溢れるものなのだが、いかんせん左手は子猫にいいようにされているので、肝心な部分で恰好がつかない。
咲夜はどうやらレミリアがこの子猫を「色々な意味で」持て余しているのだと悟り、思わず失笑した。レミリアは憮然と「何よ」と言い返すが、それ以上はなにも言い返してこようとはしない。
「……要するに、この子を穏便に退かせればいいのですよね。穏便に」
「そう、穏便に。私の服が傷つかないように!」
咲夜はくすくすと笑いながら「承知いたしました」と一度屋敷の中へ戻っていく。
彼女の脳裏には、「外の世界では猫よけに『ぺっとぼとる』という透明な容器に水を入れて置いておくのだそうだ」という話が過っていた。猫は水が苦手―― ということは、水を見せれば逃げて行くのではないか。
まもなく戻ってきた咲夜の手に収まっていたのは、グラス一杯の水だった。レミリアはそれを見とめ、訝しんで訪ねる。
「咲夜? それをどうするつもり。まさかバシャっとぶちまけるつもりじゃあ――」
「そんな無礼は致しませんよ。猫は水が苦手と聞きます。これを見せれば逃げていくのでは、と」
「なるほど」
説明を特に疑うこともなく、レミリアはグラスを慎重に掲げて接近してくる咲夜を許した。
しかし、猫はグラスに見向きもしない。
「あら、おかしいですわね」
「もっと近づけてみればいいんじゃないかしら」
レミリアの提案に従い、咲夜はそおっと慎重に、慎重に、グラスを猫に向かって近づけていく。
右手で口の辺りを掴み、左手を底を支えるように添える。万が一ぶちまけてしまっては大変なことになる。レミリア・スカーレットは吸血鬼。どんな形でも流水に弱いのだ。
猫に近づける限界の位置で、咲夜は動きを止める。あとは猫がこのグラスの中身を知れば――
二人が無意味に息を潜める中、猫の視線が―― グラスの中身を捉えた。
と思った刹那。
予想外に素早い猫パンチが、細長いグラスの中央にヒットした。
不自然に屈んだ体制でいた咲夜の指が滑り、グラスはあっけなく地球を包み込む容赦ない重力に晒された。
「あッ」
最初に避けたのはレミリア。次に動いたのは猫だ。
レミリアはグラスの中の液体が自分の弱点に変わる瞬間に身を引いた。しかし、猫に拘束されていた左手は少しばかり挙動が遅れて、わずかな量の流水を浴びてしまった。「熱ッ」という悲鳴とともに、灰色の蒸気が手の甲から立ち昇る。
いきなり頼りにしていたものが動いたうえに水を思いっきり浴びせられた猫は、地面にもんどり打って、ぎゃあと喚いて走り去っていってしまった。
咲夜はあまりのことに驚いて立ち上がった拍子に、背中をテーブルにぶつけてしまった。トレイの上に乗せたままにしてあった白亜のカップがひっくりかえって、中から深い飴色の液体が溢れだす。ついでに手放したグラスは、無残に甲高い音を立てて砕け散った。
倒れた椅子。落ちて割れたグラス。水たまり。ひっくり返ったトレイの上のティー・カップ。
しばらく呆然と顔を見合わせていた主従の二人は、どちらかともなく首を傾げた。
片や苦笑い。片ややれやれと溜息をつく。
「とんだ茶番だったわね」
足元でじわじわと広がる水たまりから靴の先を避け、レミリアはハンカチで左手を覆いながらそう呟いた。
レミリア・スカーレット嬢はその日の夕暮までテラスで過ごした。
彼女の左手は、膝の上でときおり妖しく空虚を撫でていたというが、誰が見たという話でもないので、定かではない。
銀のトレイに白亜のティー・カップを乗せたまま、十六夜咲夜は訝しげに眼を細めた。
雲のない日の午後のテラス。丸テーブルに一脚だけ添えられた小さな椅子。それに腰掛けて悠然としているはずのレミリア・スカーレットは、まったく明後日の方―― 日の沈む方を憮然と睨みつけて微動だにしない。
その膝もとには畏れ知らずの白い小動物が、丸くなって喉を鳴らしている。ソレはレミリアの細い指がなんの気なしに首周りを撫でると、満足そうに体を震わせてにゃあと鳴いた。
この構図はなんだ。しばらく咲夜は反応がない主を観察し続けた。どうやら高貴なレディは、膝もとに居座られるという経験をあまりしたことがないらしい。
地面に届かずに宙ぶらりになった両足が、たまにびくりと震えている。……緊張しているのだろうか。
なんだか黙って見ているのも悪い気がして、咲夜は控えめにもう一度声をかける。
「お嬢様」
ああ、とけだるげな返事と共に、首だけで振り返るレミリア。やはりその表情には困惑で彩られていた。
「咲夜、これをなんとかしなさい」
「なんとか、と仰られましても。……いったいどういった経緯でそんなことに」
「どうしたもこうしたもないわ。こいつがいきなり、下からとび乗って来たのよ。おかげで足跡がついたわ。足跡!」
咲夜が身を乗り出して見てみると、たしかにドレスの裾、それからちょうど膝の皿のあたりに、可愛らしい猫の足形がくっきり残っている。
足跡の小ささからもわかるとおり、白猫はまだ生まれて間もないらしい。ようやく目つきに鋭さが出てくるか来ないか、といった時期の様子。
咲夜がうっかり「かわいい……」と女性らしい感想を洩らせば、
「他に言うべきことと、するべきことがあるでしょう」
と厳かにたしなめられた。
たしなめた張本人であるレミリアはと言えば、咲夜に意識を向けていたばっかりに前足で左手を捕まえられ、人差し指を舐められたりしゃぶられたりしており、眉が小刻みに痙攣している。
しばらく左手だけでささやかに抵抗を続けていたが、中指の付け根をガブリとやられて後は諦めたらしい。こうして吸血鬼の左指は猫のおしゃぶりと化した。
「私がなにもせずとも、普通に引き剥がせばいいだけなのでは?」
「私だって最初はそうしようとしたわ。けど―― まぁ、やってみるがいいわ。こいつを早く地面に下ろして」
お嬢様の命令ならば仕方がない。咲夜はまだまだなりゆきを見守っていたい欲求をすっぱりと切り捨てて、子猫の腹を優しく包み込むように手を差し入れて、持ち上げようとした。――しかし。
「!?」
子猫は物凄い反応でレミリアの衣服にしっかと爪を立てた。
その動きたるや、野生そのものである。咲夜は目を白黒とさせ、仕方なしに手を離す。と、猫は元通りくつろいだ様子で喉を鳴らしだした。
「うーん、これでは、力づくで剥がしたら服に傷が……」
「――そういうわけよ。どうしたらいいのかしらね、これ」
ふ、と浅い息をついて、レミリアは自由な右手の人差し指を唇に当てがって思案する。その様子はとても毅然としていて矜持に溢れるものなのだが、いかんせん左手は子猫にいいようにされているので、肝心な部分で恰好がつかない。
咲夜はどうやらレミリアがこの子猫を「色々な意味で」持て余しているのだと悟り、思わず失笑した。レミリアは憮然と「何よ」と言い返すが、それ以上はなにも言い返してこようとはしない。
「……要するに、この子を穏便に退かせればいいのですよね。穏便に」
「そう、穏便に。私の服が傷つかないように!」
咲夜はくすくすと笑いながら「承知いたしました」と一度屋敷の中へ戻っていく。
彼女の脳裏には、「外の世界では猫よけに『ぺっとぼとる』という透明な容器に水を入れて置いておくのだそうだ」という話が過っていた。猫は水が苦手―― ということは、水を見せれば逃げて行くのではないか。
まもなく戻ってきた咲夜の手に収まっていたのは、グラス一杯の水だった。レミリアはそれを見とめ、訝しんで訪ねる。
「咲夜? それをどうするつもり。まさかバシャっとぶちまけるつもりじゃあ――」
「そんな無礼は致しませんよ。猫は水が苦手と聞きます。これを見せれば逃げていくのでは、と」
「なるほど」
説明を特に疑うこともなく、レミリアはグラスを慎重に掲げて接近してくる咲夜を許した。
しかし、猫はグラスに見向きもしない。
「あら、おかしいですわね」
「もっと近づけてみればいいんじゃないかしら」
レミリアの提案に従い、咲夜はそおっと慎重に、慎重に、グラスを猫に向かって近づけていく。
右手で口の辺りを掴み、左手を底を支えるように添える。万が一ぶちまけてしまっては大変なことになる。レミリア・スカーレットは吸血鬼。どんな形でも流水に弱いのだ。
猫に近づける限界の位置で、咲夜は動きを止める。あとは猫がこのグラスの中身を知れば――
二人が無意味に息を潜める中、猫の視線が―― グラスの中身を捉えた。
と思った刹那。
予想外に素早い猫パンチが、細長いグラスの中央にヒットした。
不自然に屈んだ体制でいた咲夜の指が滑り、グラスはあっけなく地球を包み込む容赦ない重力に晒された。
「あッ」
最初に避けたのはレミリア。次に動いたのは猫だ。
レミリアはグラスの中の液体が自分の弱点に変わる瞬間に身を引いた。しかし、猫に拘束されていた左手は少しばかり挙動が遅れて、わずかな量の流水を浴びてしまった。「熱ッ」という悲鳴とともに、灰色の蒸気が手の甲から立ち昇る。
いきなり頼りにしていたものが動いたうえに水を思いっきり浴びせられた猫は、地面にもんどり打って、ぎゃあと喚いて走り去っていってしまった。
咲夜はあまりのことに驚いて立ち上がった拍子に、背中をテーブルにぶつけてしまった。トレイの上に乗せたままにしてあった白亜のカップがひっくりかえって、中から深い飴色の液体が溢れだす。ついでに手放したグラスは、無残に甲高い音を立てて砕け散った。
倒れた椅子。落ちて割れたグラス。水たまり。ひっくり返ったトレイの上のティー・カップ。
しばらく呆然と顔を見合わせていた主従の二人は、どちらかともなく首を傾げた。
片や苦笑い。片ややれやれと溜息をつく。
「とんだ茶番だったわね」
足元でじわじわと広がる水たまりから靴の先を避け、レミリアはハンカチで左手を覆いながらそう呟いた。
レミリア・スカーレット嬢はその日の夕暮までテラスで過ごした。
彼女の左手は、膝の上でときおり妖しく空虚を撫でていたというが、誰が見たという話でもないので、定かではない。
病原菌説に従うならば、感染に有効な群集団を維持できなくなってしまう、ということになるけど……お嬢様は吸血鬼として完全にカテゴライズできるわけじゃ無さそうですし……納豆は食べるわ十字架は平気だわ、考えてみれば恐ろしくフリーダムな存在ですね。
ふんわりとしたお話で平和な気持ちになりました。