あ、私って、クズかも。
なんて事実に気がついたのは、この間。台所のに積み上げられた、汚れた食器たちを見たときのことだ。
炊事・洗濯・掃除に買出し、それに近所付き合いなど。そういった、人が文化的な生活を送る上で避けては通れないことはいくつかある。
私は人間ではないし、隣人も居ないのでので、炊事や近所付き合いは本来なら省くことができるはずなのだが、世の中そうそう上手くはいかない。
食事という娯楽はまさに麻薬で、やめることは考えられないし。隣人というには遠くに住んでいるくせに、度々やって来る厄介な顔見知りもいる。
そんなわけで、私も一般的な人と同じように日々の半分を家事に費やさざるを得ないわけだ。
人形を操ってそれらをこなせばいいと試してみたこともあるのだけれど、これが案外難しい。一度に複数のことをやるのは、非常に神経を使うのだ。
人形たちに家事をさせながら、本を片手に椅子の上で優雅に過ごす、なんて端からは見えるのだろうが。
その実は優雅とは程遠いもので、本の内容は上辺をなぞっているだけで、何度も前のページを確認しなおさなければならないし、人形たちの仕事は雑という字の体現だ。
楽を知る。とは実に罪深いことで、一度それを味わってしまうと、なかなか元の生活には戻れない。
そのうち、そのうち、と自分に言い聞かせながら私は今日も食器たちに見送られながら出掛けるのだった。
申し訳程度に備え付けられた廊下の窓は、茜色と青黒色を混ぜた色を透過している。今は午後の六時のちょっと前くらい。
この館の住人たちが皆一様に静かになる、昼と夜の合間の時間帯だ。使用人たちにとっては休憩時間というありがたい時間帯になる。
傷があるわけでもなく、塗装もしっかりとされているのに、どこかくたびれた雰囲気を帯びた木の扉。この扉の向こう側が咲夜の部屋である。
拳を振ると木の硬い音が廊下に響く。響いた音は壁と壁とに弾かれて遠くへと飛んで、その軌跡が耳に切ない。
廊下の端。日当たりの悪い角の位置。本来なら物置にでも使われるであろう場所。なんとなく肌に湿気を感じるそんな場所から乾いた音が飛んで去る。
私の衣服が擦れる音の以外には、響く音に答える音はなく、耳に苔むした岩を見るような寂しさを感じるのだった。
そんな音の軌跡すらも消え去ると、やれやれと溜息を吐かずにはいられなくて。目の前の木の扉を重たい溜息で押し開けるのだった。
敷居を跨ぐと同時に、暖かい空気が肌を流れ通り、鼻の奥の奥に僅かに甘い香りが訪れる。
この感覚は嫌いではない。嫌いではないというよりも、どちらかといえば好きだ。癖になるというのが良いだろうか。
癖になる空気を胸に溜めて、代わりに溜まっていた言葉を吐き出す。
「ほら、ちょっと、ちゃんと居るんなら返事してよ」
「ん、あ、こんばんは」
「おーそーいー」
「コンバンハ」
「早口で言えば良いってものでもない」
そんなやり取りをしながら部屋の中心へと移動する。とはいっても、この中心というのが数歩とかからずに辿りつけてしまうのだが。
そう、この部屋は狭い。ある物といえば、部屋に入った人物を正面で出迎える細い衣装棚と一人用にしても小さい寝具と壁に向かった小ぢんまりとした机だけ。
僅かしかない家具だけでも部屋の殆どの部分が埋められてしまって、自由に移動できる隙間など存在しないも同然だ。
来客者自体が邪魔になるほどであるから、当然ながら来客用の机もなければ椅子もない。
となれば、くつろぐことができる場所といえば、限られているわけで。
ベッドの真ん中に座る部屋主に「奥、つめてよ」と頼むと、返事をすることもなく、お尻一個分を横へとずらす。
空いた隙間に腰を下ろして、ほうと一息。やたらとフカフカしているこのベッドに座ると、特別に疲れているだとかはないのだけど、心の芯から癒される気がするのだ。
そうして狭苦しいベッドの上で満足すぎるほどに柔らかさを堪能したら、ここからが本番だ。
私など居ないかのように隣りで、文字の大きな本のページを捲っている咲夜を見詰める。もちろん見ているだけではなくて、触れるほど近くに顔を寄せて。
じっと横顔を見詰めていると流石に居心地が悪いのか、身体をこちらとは反対に傾けて逃げる。
あくまでも私のことを無視するつもりならば、と、耳に息を吹きかけてやれば、流石に鬱陶しかったのだろうか。
やれやれと、手の平にあった本をベッドへと閉じ放ったと思えば、こちらへフッと息を吹き返してくるのだった。
「なにかしら」
「甘いものが欲しいなあって」
そんなことを言うと、身体の芯にベッドの揺れる感覚がして、咲夜の姿が消える。それと同時にどこからか甘い香りが漂ってくるのだった。
一人になったベッドに上がり込んで、枕と戯れる。日頃から使われているせいか、あまり跳ね返りの良くないけれど、首元に抱くには最適だったりするのが不思議だ。
枕の感触を堪能しながら、今日はなんだろうかと想いを馳せる。そう、私がこの部屋を訪れる理由の一つがこれだ。この匂いの発生源こそが理由だ。
甘いもの。つまりはお菓子。甘い、お菓子だ。「食事は麻薬」と、いったが「甘味は麻薬」と言い換えてもいいかもしれない。
特に洋菓子あたりは想像しただけで頬のあたりが弛んでいるのではないかと心配になる。このあたり、私も一応、乙女というやつなんだなと安心するのは内緒だ。
そんなことを考えながら、足をばたつかせている僅かの時間に咲夜は帰ってくる。ベッドは私が占領しているから、その脇に。パッと消えたと思えば、またパッと現れるのはいつものことだ。
素早いことは良いことなのだが、もう少しばかり待つ楽しみというやつを味わいたいと思うのは我が侭だろうか。ふてぶてしい自分がちょっと嫌になるが、乙女ならば許されるだろう。
「ねえ、退いてくれないかしら」
「やだ」
頭をグリグリと揺さぶってくる手に負けないようにと、枕をさらに引き寄せる。ふてぶてしい私は、快適なベッドの上は動きたくないのだ。
ぐいと寄せてあげた枕に顔を埋めると、これがまたちょうど良い感じに収まるから、ますます動きたくなくなる。
諦めない咲夜のせいで髪の毛がぐしゃぐしゃになっていく。ぐしゃぐしゃ度合いが酷くなるにつれて、枕もより深く凹んでいく。私の顔を包みながらだ。
顔を丸ごと埋めてしまっているせいか、息がしにくいという状態を通り越してしまっているのがつらい。本当に。つらい。本当に。
手を退かそうと顔を動かしてみても意味はないし、腕で抗議しようにも枕と頭のせいで拘束されていて動かせない。
「欲しいんでしょう。これ」
あ、これやばいかも。なんてことになっている人の気も知らないで、唐突に頭から手が離れる。離れたと思えば、手の代わりに硬い物が頭の上に置かれるのだった。
中身の少なくなっていた肺に空気が戻るのと同時に感じる甘い香り。それはきっと私の頭の上から漂ってきているのだろう。
それほど重たくないけれど、落とさないように頭をなるだけ動かず、上に乗っかっている物を取る。
縁の浅めの小さなバスケット。中には薄紙の上にクッキーが縦にたくさん並べられている。
そう、これが、これこそが、私が此処を訪れる理由だ。
ベッドの上に横たわったまま、本のページを捲る。捲り終えると同時に脇にあるクッキーを摘まんで歯に挟む。絶対に家ではやらない行動だ。
背徳なんていうと大げさだし、意味も違うかもしれない。でも、どうにも病みつきになってしまう快適さだ。
飲み物がないのが、口にちょっと辛いけれど、紅茶はどんなに頼んでも持ってきてはくれない。曰く、こぼされたら面倒だから。とのことだが、私はそこまでどんくさくはないから遺憾だ。
シーツの上に粉々と落ちている食べかすを、人差し指と中指で弾くように払う。ベッドの端に申し訳程度に腰掛けた部屋の主は私のことを気にすることもなく、私と同じように本のページを捲るだけだ。
今までに何度もこうやって過ごしてきた。普通ならば怒られて当然のはずなのだが、怒られるどころか、皮肉の一つも言われたことはない。
自分で言うのもおかしいが。図々しい客人の私のことを、不思議にも彼女は好いてくれているらしい。
そもそも、こうして私がこの部屋を訪れるきっかけも彼女が最初に誘ってきたのが始まりだ。どうして誘ったのかと理由を聞いてみても、なんとなく、という返事しかもらったことはない。
そうやって誘われて餌付けされているうちに、自分から訪ねるようになってしまったというわけだ。
ただ確かのは、一つだけ。前髪の癖の強いところを弄りながらページを捲る咲夜の服の裾をチョイチョイと引っ張る。最初は無視されてしまうのだけれど、諦めずに続けることが大事だ。
「めんどくさいなあ」を貼り付けて振り返る顔を待って。それに向けて、齧り割ったクッキーを差し出すと、意外にも素直に口に入れる。
そう、それくらいには。それくらいには、彼女は私を好いてくれているのだ。
これは一般的に何というのだろうか。知り合いというのは少し淡白すぎる気がするけれど、知己なんて言葉はそれこそ大げさ極まりない。
ただ今以上を求める気も、必要もない。あちらも、同じことを思っているに違いない。くっついているような離れているような。それが私たちの関係だ。
ページを捲る。この部屋には時計は無いけれど、きっと針は大きく進んでいるに違いない。ゆっくり、を意識しながら口にしていたのに、バスケットの中身は無くなっているのがその証拠だ。
私がページを捲るのに合わせて、もう一つの本も捲られる。本棚の一つもないこの部屋において、その本は唯一のもので、もう随分とくたびれてしまっている。
何の本なのかと尋ねても照れくさそうに誤魔化されるだけで、詳しいことを教えてもらったことはない。
ただ、昔の持ち物なの、と私の魔道書を人差し指で叩きながら言ったときの、気味の良くない笑みは忘れられない。
本のタイトルは書かれていない。タイトルは知らないけれど、内容は知っている。どこかで聞いたような、おとぎ話の寄せ集めだ。
これでも一応は魔法使いを名乗るくらいにはすごいのだ。本の中身を知るくらい、わけはない。覗き見をしただけなのは内緒だが。
今日も今日とて、咲夜は本を読むわけだが、いつも、いつも、いつも。変わることのない内容。本なのだから当たり前なのだが。
もうきっと、何回も。もうきっと、数え切れないくらいに読んだに違いない。ずっと気になっていた。
自分の本は読み止めるにちょうど良いところまできたから。だから、本を閉じて、ねえ、と呼び掛けて聞いた。
「面白いの」
と。
返事はなかった。返事ではなくて、ほうっと息が吐かれるのが聞こえた。
咲夜は振り返ると、ねえ、と私に問いかけて。
面白いかしら、と。同じ問いを返してくるのだった。
どういうことだろうか、と考えるための瞬きを二度ほどする間があって、それから。
「私といるの」
と、彼女は言葉を補った。
気色が悪い顔だ。そんなことを思った。我ながらなかなかに失礼なことだが、思ってしまったものは仕方がない。
どんな顔かというと、喜んでいるわけでも、怒っているわけでもなく。かといって、悲しんでいるわけでも、笑っているのでもなく、ましてや泣いているのでもない。
僅かに小さくなった目は、近くを見詰めているのに、遥かに遠くを眺めている。それに合わせるように緩まった口元はいつもより薄い色をしていた。
気色が悪い顔だ。こんな顔は一度も見たことがない。いつも微笑んでいる顔ばかり見ていたから。だから、胸の奥から押し上げてくるよく分からない感情に任せ、彼女の腕を引っ張った。
驚くほどに簡単に倒れてきた身体を抱きしめると、何故だか、落ち着いた。
「友達なんていなかったからね、どうしたらいいのかね、よくわからないの」
そんな風に目を閉じる身体を、ほんの少し力を強めて胸に引き寄せる。
「物語の主人公って、幸せになるじゃない。最後には。格好の良い王子様や、素敵なお姫様とかって」
「うん」
「不幸なんてなかったように、たくさんの人に囲まれて幸せになるじゃない。でも、やっぱりそういうのって物語のだけなのかなって。やっぱり子どもの頃から慣れてないと、どうしたらいいのかなんて分からない」
「うん。そうね。私もね。よく分からないわ」
なんて、慰めよりも自分の本音に近い言葉を囁く。本当はもう少し気の利いたことを言えればいいのだろうけれど。
「今、自分で幸せだなって思うから、満足なんだけどね。だけど、ちょっとだけ、友達ってほしいなって思ったの」
「今度、うちに遊びに来なさいよ」
駄目だったかしらと、ふざけ損なった笑みを作る顔に、そんな誘い文句を口にする。そんな自分自身にも驚いたが、それに素直に頷く咲夜にも驚いた。
本気かどうかは私自身にも分からないけれど、悪い気はしなかった。
ちゃんと台所、片付けないとなあ。
なんて思うってしまう、ちょっとばかりずれた思考は自分でも困ったものだ。
困ったものだ、と苦笑いをしてしまう。苦笑いをしている私を見て、もう一つ笑いができたから、悪くない。うん、悪くない。
これが私たちの関係だ。
凸凹なようで、実は相性ピッタリだったみたいですねw 素晴らしい咲アリを有り難うございました!
是非続きを