Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

天狗の狼狽

2013/01/12 15:36:45
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*ジェネ作品集54「天狗の油断」の一応、続きとなります。

 








 馬肥ゆる秋です。まあ、そこら辺にいる馬の体重なんぞ見た目じゃわかりませんけれど、健全な青少年たる私もまた、日々成長しております。
「阿求さん。太ったでしょ、二キロくらい」
 正解です。
 だからって、口に出すのはどうなんでしょう。デリケートな乙女の秘密を。
「背が伸びたんです」
 あわてず騒がず、別の視点を提案する私。逆に考えるんだっ。
「残念ながら、そっちは変化なしですね。私にはわかるんですよ」
 こうやって抱きかかえて飛んでいれば、と文さんは笑いました。
 馬と私の目方はともかく、空は高いです。山も雲も抜けたずっと奥の奥に、コバルト青をそのまま溶かしたような深淵が横たわり、地表に近づくにつれて少しずつ薄まっていくのです。どんな匠の筆さばきでも、その微妙な変化は、再現できそうにありません。
「んー……。紅葉には、まだちょっと早かったですかね」
 私の膝の裏に通した右の腕を、文さんはもぞもぞと直して、左の肩を少し下げます。こうすると、私にも下の様子が、よく見えるのです。
「でも、ほら。山の上の方は、もうすっかり色が」
 私の指さした方に、文さんはちらりと目を向けました。
「ええ。変わってますね。というか私はあの辺から来ているわけですが」
 折から、午後にさしかかった日差しを浴びて、山肌の赤や橙が鮮やかに、生き生きと躍動します。
 錦秋というやつでしょうか。燃えているみたい。
「でも、あの辺りって、言ってみれば文さんのご近所なんじゃ」
「ええ、まあ。案外身近の風物には目が向かないもんですよ」
 そういうものかもしれません。
 文さんが上体を倒し私に密着します。彼女の左手が、襟足から首の後ろをやわらかく抑え、私は逆らわず文さんの肩に頬をくっつけます。
 下降するよ、という合図。
 山の三角がぐるりとひっくり返って視界の上に。顔料の青が一面に広がります。文さんの黒く腰のしっかりした髪が、私の頬を叩きます。


「阿求さん。寒くないですか?」
 耳元で文さんの声が、風に混ざります。
「ええ、大丈夫。みっともないですけど、内着を二枚かさねてますからね」
「賢明です」
 魔法の森の木々は全体まだ黒々としています。けれど、夏のあの、むせ返るような湿っぽさはなくなって、透明な静謐に塗り込められているかのよう。そういえば、もう蝉の声もしませんね。
 突き出した枝葉を、右に左に時には下に掻い潜り、文さんは森を飛び過ぎていきます。
「誰も見てませんしね」
「そうでもないですよ。少なくとも、私は見てます」
「文さんだって」
 毛糸の下着くらい穿いてるんじゃないですかー? なんて言いかけて、気恥ずかしくなりました。着膨れた私の格好じゃなくって、体型とか、体温とか、体臭とか、全部わかっちゃう距離にいることを、いまさら思い出して。
「私は、平気なんですよ。風すらも天狗の前には恐れをなして道をあける、といった寸法で」
 ぐねぐね折れ曲がった小川を、最短距離で遡ります。仕留めた獲物、あれは兎? 鴨? をぶら下げた猟師が、川原を歩いて私たちの来た方向に帰ってゆきます。
「面の皮が厚いから平気、と。メモメモ」
 書き付ける振り。
「面の皮なら、阿求さんには及びませんよ。残念ながら」  
「あら。言いますね」
「阿礼乙女は、代を重ねるごとに厚顔になるのではないか、とお偉方の間ではもっぱら噂ですよ?」
「ほうほう。記憶にとどめておきます」
「余計なこと書かないでくださいよ? 怒られるのは結局、私らなんですから」
 霧の湖が見えてきました。とはいえ、今日の湖の上は晴れ渡り、その名にそぐわぬすっきりした眺めです。
 湖の縁にそって文さんは飛びます。そのうち、湿原の手前のひょうたん型にくびれた淀みに、気になるものが見えてきました。
 その一角が、妙にぼやけているのです。手前に葦の茂みでもあるのかと思いましたが、近づくにつれて、違うとわかります。
「霧……ですね」
「ああ、ここは阿求さんにもまだ見せていませんでしたね」
 急停止して、反動で前に流れる私の体を、文さんは胸元に引き寄せました。
「あそこには島があるのです。ほんの小さな、猫の額ぐらいのね」
 ぴとりぺたりと、文さんの唇の合わさる音が声に混じります。
「島ですか」
「ええ。湖に霧のないときでも、不思議なことにあそこには常に、薄いもやがかかっているのです。調べたことはありませんけれど、ひょっとしたら新種の妖怪でもいるのかもしれませんね」
 目を凝らせばそこにあるのはただ突き出た岩で、広さは私の部屋ほどもなさそうでしたが、私の好奇心は水を得た魚になってぱくぱく呼吸しています。
 狭い幻想郷、でもまだきっと知らないことはたくさんあるはず。


 私と文さんが連れ立って出かけるようになって、しばらくになります。
 はじめ、どちらから言い出したのか、文さんが誘ったのか、私があちこち見せて欲しいとお願いしたのか。
 いつもそれは、ちょっとした舌戦の種になります。言った言わないの、収拾のつかない。
 夫婦の馴れ初めとか、プロポーズの話と同じです。脱線しますけど、あれってどうしてお互い、「先に好きだって言ったのは相手の方」と言い張るんでしょうね? 意味なくないですか? 私にはよくわかりません。
 森を迂回するように少し戻ると、半妖の店主の道具屋が見えてきます。店の裏手に、板塀で囲った中に、倉庫に入りきらないのか、大きめの雑貨や石像、壊れた機械のようなものが雑多に置かれています。
「みっともないですね……」
「ええ」
 文さんは私のお尻のあたりを両手で抱え、ほとんど直立してゆっくり飛んでいます。
「これはね。飛べない者特有といってもいいです。出かけるとき、里でも見たでしょう」
「というと?」
「ほら、いるでしょう。家の前や店の商品棚はきれいに整頓しているのに、階上の部屋や裏庭なんかに、ごみを積んだり足の踏み場もないほど散らかしていたり……と」
「ああ、いますね」
 忘却を知らない私の記憶は、それらしいいくつかの光景を思い出しました。
「あれは、上から見られるという発想がないからです。空を飛んだことがないから、上空からの目線というものに想像力が働かないのですね。清楚で貞淑だと評判の若奥さんが、裏手の軒下に大胆な下着を干していたり、ね」
 おっと。それは気をつけなければいけません。まあ、私は清楚ですけど、そんなもの持っていませんから、問題ありませんけどね。
「飛べる者たちは、とっくにそこに気づいていますから、上から見られても恥ずかしくないよう、もしくは都合の悪いものは隠すようにしているものですよ」
「え、でも、森の黒白魔法使いの家なんて、飛べない目線で見ても酷いものと聞きますが」
「私がどうかしたか?」
 四時の方角から声が。当の本人が、箒に跨ってふわふわ浮かんでいます。
「おや。どちらに?」
 薄笑いから察するに、文さんは彼女の近づいてくることに気がついていたようですね。
「ちょっと神社までな。――ところで、ブン屋」
 話しながら、魔法使いは帽子を直し、私をちらりと見て、箒の柄を握ります。
「何かしら」
 文さんの笑みが深くなります。嫌な予感、が。
「先に鳥居をくぐった方が勝ちな!」
 尻すぼみに叫び声が遠ざかっていきます。言い置いて競走を仕掛けたのです。いや、競飛?
 文さんがすぅっと息を吸い込みました。
「スターターが選手を兼ねるのは、公正とはいえませんねえ」
 そしてゆっくり吐き出すと、きっかけのように、周囲の風の音が一気に大きくなります。文さんが、どんどん加速しているのです。
「お、来たな!」
 風の唸りにまぎれ、魔理沙さんの声が聞こえます。そちらに顔を向けようとしましたが、文さんの腕が背中をがっちり固めて、身じろぎもできません。見えるのは、私たちの背後に遠ざかっていく風景だけ。
 それでも、スピードが上がっているのはわかります。山も川も森も、みるみる過ぎていきます。切り裂かれた風の怒号が、耳にくらいつき、引きちぎらんばかりに髪を引っ張ります。背中一面が冷えてこわばってきます。細かいヒビでも入ったかのように、ピリピリ痺れてくるのです。
「ふっ」
 暖かい吐息が耳をくるみます。体に当たる風が、急に弱まりました。私を軸にして体をくの字に曲げ、ゆるやかに文さんは減速します。
 首が動いたので前を見ると、魔法使いの背中は神社の手前の森の彼方へ消えていくところでした。
「まあ、ハンデがあるのに一度は追いついたんだから、私の勝ちみたいなもんでしょう」
 文さんは得意げに片目をつぶります。私は自分の鼻に指を向けました。
「ハンデ?」
「ハンデ」
「じゃあ、私たちの勝ち、というべきですね」
 確かに、と文さんは優しく背中をさすってくれました。
 文さんは間違いなく、私がいる「から」、魔理沙さんの挑発に乗ったのです。文句をつけたかったのですけれど、ひとまずチャラにしてあげることにします。

 


      -----

 いつの間にか、けっこうな高みまで昇っています。
 黄昏時の雲の上は幽霊が多いのですよ、なんて文さんが話していたところで、出くわしました。
 騒霊三姉妹のバイオリニストが、黒い服を着て、ぽかりと浮かんでいます。
 私たちに驚くでもなく、彼女は近くを漂っていましたが、そのうちあらぬ方を指さして、独り言のように呟きました。
「地球って、丸いのね」
 我々としては、おこぼれに一曲拝聴できるかとひそかに期待していたのです。けれど、ルナサさん愛用の楽器は、反対の手にだらりと垂れ下がったまま。
 ゆるくカーヴした地平線は、われわれの大地が球体である証だと、聞いたことがあります。
「人間が海に乗り出す前から、天狗にとっては常識でしたよ。そんなこと」
 得意満面な文さんには答えず、ルナサさんは私に目を移します。
「御阿礼の子。……やっと死んだの?」
「いえ、まだピンピンしてますよ」
 やっと、とは失礼な。
「そう。よかったわ」
 おぼろに微笑むと、そのままふわふわと、彼女の姿は煙のように空を昇り、うす雲の合間に吸い込まれていきます。
「お弁当。分けてあげたら、弾いてくれましたかね」
 懐にしのばせてきた私の「お弁当」は、小瓶の形をしています。文さんがぱあっと目を輝かせました。
「阿求さん。私にもひとくち」
「飲酒飛行はいけません」
 んー、と近づいてくる顔からそむけて、コルク栓を抜いて瓶を傾けます。去年仕込んでついこの前蔵出ししたばかりの新酒です。喉奥がふくらんで、かあっと熱くなります。
 それ、博麗の巫女あたりが真っ先にひっかかるルールですよ。ふくれっ面で言い立てるのをよそにもう一口含んで、「はい」と差し出しました。
 ためらいなく文さんは、飲み口をくわえてぐびりと喉を鳴らします。
「かぁ~、青い。青いねこりゃどうも」
 そう言いつつ、機嫌よく宙返りなぞするものだから、文さんのお腹のあたりまで頭がずり下がって、ちょっとばかり逆立ち状態。
 山腹の照り返しで、薄く何層にも重なった大気が赤く染まり、巨大な氷柱の底にいるみたい。ああ、お酒がまわる。
 風が起こります。文さんが呼んでいるのです。びゅうびゅうと鳴っているのに、なぜか身体には少しも当たってきません。
「ふふふ。面白いでしょ?」
 文さんの返してくれた瓶に、お酒はいくらも残っていません。
 つないだ手を、頭の上に。驚きました。文さんは、私を支えていません。私は二本の足で立っているのです、高い高い、空の上で!
 足の裏が奇妙な感覚。ぷるぷるした透明な豆腐を踏んづけているような。
 正体は風だと気づきました。凝縮した風が束になり、水の流れよりもねっとりと隆起して、柔らかく受け止めているのです。
「天狗的イリュージョン。まあ、長くは保ちませんが」
「わあ……」
 勇気を出して一歩踏み出します。ぐらぐらして、歩くのはおぼつきません。
 よろめく私の手をひいて、文さんは空の表面をすべるように、すい、すいと足を運びます。
 腰をひいて、上目遣い、それから胸をはり、私を抱きとめて、くるりくるりと小回り。今度は私を中心に、時計の針みたいに身体を伸ばして、ぐるり一巡りして戻ってきたり。
 くっついて離れて、満ちて引いて。
 まるでダンスみたいに。
 世界はまるで、一本繋ぎの長い長いフィルムです。赤くにじむ山、地平線に流れる蜜柑色。ゴマ粒ほどの人家に、雄大な雲。飛び過ぎていく鳥。途切れることなく、いつまでも続いているのです。
 そのうち、風景たちの継ぎ目がゆるみ、お互いの領域を侵していくような感覚に襲われます。目が回っているのでしょうか? 森は川と混じり、空は地面と混じり、赤は青に混じり……人はあやかしに交じり。
 ああ、いい気分だわ。どくんどくんと脈拍が耳に篭り、文さんの声はどこか遠いです。
「どうせなら、毎回持ってきて欲しいなあ、『お弁当』。私としては阿求さんに付き合ってあげているわけで、そのくらいしてくれてもバチはあたらんと思う次第ですよ」
 生まれたての仔鹿みたいにふらついて、空を踏む私を先導し、逆光に笑う文さん。
 彼女と私は、どのくらい混じりあっているのでしょう。混じるとは、傷つけるとも同義なのでしょうか。
「連れ出したのは、文さんじゃないですか」
「今日はね。でも、はじめに私に、あちらこちら連れてけーってお願いしたのは、間違いなく阿求さんですよ」
「捏造乙ー」
「えー?」
 傷つけて欲しいな。
 ふと、浮かんだ思いは溶けた鉄みたいに熱く、とろりとしたたります。
「一番最初は文さんですよ。忘れたんですか? 私が何者かを。記憶に誤りなんてあるわけないでしょう」
 そう。だから、文さんもきっとわかっているはずなんです。
 私が嘘をついていることを。
「おっかしいですねえー」なんて、わざとらしく首をひねってみたりしなくっても。
 そのとき、腰帯にさしておいた青い小瓶が、つるりと滑り落ちました。反射的に、私は文さんの手を振りほどいて、大きく身を乗り出します。
 とたんに、ばたりと風の音が止みました。
 足元の抵抗が消失します。ぐらっと傾いた視界から、空のてっぺんを鱗模様で彩る雲と、見下ろす文さんの顔とが、みるみる遠くなっていくのです。
 ふたたび流れ出した風は、今度は容赦なく全身に叩きつけてきます。髪も服も激しくはためいて、水の中で揉まれているようで、ただ差し伸べた両腕の間の空だけが、ひたすら青く深く、静かに広がっているのです。
「……ぁっきゅうううさああん!」
 叫びが、私を追い越しました。
 腋の下に、乱暴にねじ込まれてくるものがあります。それも一瞬、痛いほどの圧力が腹腔を押し上げ、肺から押し出された空気が舌を震わせます。
 一本釣りの魚みたいになって見上げると、困ったような、無理に笑ったような曖昧な表情の、見たこともない文さんがそこにいました。
「……瓶が、落ちて。それで」
「これです」
 抱き上げた私の胸の合わせに、文さんは瓶をさし込み、呼吸を忘れていたかのように「ふうー」と大きく長く、息を吐きかけました。
 前髪を揺らす、かすかな酒精の香り。
「飛びました! 私」
 興奮する私に、文さんはげんなりとうな垂れました。
「ああいうのは飛んだといいません。落ちたんです」
 確かにそうなのでしょう。ちらと見下ろした地面はさっきより大分近くにありました。
 今さら、少し怖くなりますけど、でも、最中は平気だったのです。落ちるんじゃなくって上っていくようで、空の水面に向かって真っ直ぐ、身体の重みを脱ぎ捨てて、飛び込んでいくみたいで。
 頭巾がずれるのもかまわず、荒っぽく傾けた文さんの首が、こきりと鳴りました。
「ごめんなさい」
 なんとなく、謝ったほうがいい気がしました。
「いやあ。こちらの不注意ですよ」健康そうな歯並びをむき出し、攻撃的な笑顔です。「無事でよかった。ここで阿求さんに何事かあったら、ねえ。大変不味いことになっちゃいます。私の立場もあったもんじゃない。人里と山との間で大問題になるし、新聞だって読んでもらえなくなる。記者も廃業ですよ」
 地底に暮らすサトリの妖怪についての記事を、先だって執筆した私ですが、心の中を読む、というその能力については、想像するしかないわけで。
 けれど文さんの言っていることを、ここは信じなくても良いと、淡々と思えたのです。
「妖怪連中の中には、名高い阿礼乙女を食ってみたい、と密かに願っている輩もおりまして」鼻を鳴らして、意地の悪い声です。「私のせいで阿求さんが、ってことになれば、そいつらにもさぞ恨まれたでしょうねえ。いや、よかったよかった」
 右の腕に密着した文さんの、胸から伝わる鼓動は、私より少し早い程度。それでも私は、彼女を安心させなくっちゃいけないと、本能みたいに思ったのです。
 一番近くにあるのは、少し乾いたまま健気にしゃべりつづける唇だから。
 慎重に、狙いを定めます。





 遠く煮炊きの煙が風にたなびいています。里はもうすぐそこ、大空にくらべればあまりにちっぽけな私の部屋、馴染んだ文机に重ねた書物、蓄音機にティーポット。私の歴史のしみついたものたちが、目に浮かびます。
「射命丸じゃない。なにやってるのー?」
 ところへ雲間からさっと飛び降りてきたのは、私は面識がないけれど文さんの馴染みらしい、烏天狗の娘です。ごついカメラを胸にさげ、やはり記者なのでしょう。
 文さんは大きく肩をすくめます。演技なのだと、すぐわかりました。
「なにって、取材よ取材。ついでにお姫様のご要望で、幻想郷諸方漫遊ってところね」
「あっは。なにそれ、大変そうね」
 愛想よく声をはずませ、けれど天狗の目はじっと私に注がれています。きっと私が何者か知っているのでしょう、指先は落ち着き無くカメラの目盛りをいじっています。
 根掘り葉掘り訊かれるのも面倒だなあ、と思っていると、
「あら? なにかしら」
 雲の出てきた上空から振りかかってきたのは、雨だれより自在な音符たちの舞踏。バイオリン、ですねこれは。
 天狗の記者の目の色が変わります。
「これは特ダネの香り、いや音色ね。文、じゃあまたね!」
 きりもみ急上昇、あっという間に彼女の姿は見えなくなりました。
 演奏は少しずつ遠ざかっていきます。ルナサさんにしてはアップテンポな曲ですが、きっと彼女でしょう。
「今さら、ですか。まあ助かりましたけど」
 私がわざと、陽気な声を張り上げると、そうですね、と消え入りそうな声が戻ります。
 さっきからずっとこんな感じ、文さんはお通夜モードなのです。
 なんといいますか、理不尽です。これじゃまるで、私が悪いことをしたみたいじゃないですか?
「じゃ、そろそろ降りますね」
 陰気なのは変わらず、けれどいつもの慣れた手つきが、私の襟足を後ろから押さえて、それから。
 文さんは少し俯くのです。わかっています。
 さし出した唇は、寸前でかわされました。
「えへへ。やっぱり、二度は通用しないかあ」
 けらけら笑う私を、文さんは穴が開きそうなほど見つめています。見開かれた二つの瞳に炯炯と夕日が映えて、人ごとながら、眩しくないのでしょうか。
「阿求さん!」
「はい」
 真面目に引きつった声だから、思わず背筋を正しちゃいました。
「もっと自分を大切にしないと!」
 はい?
 ええと。おっしゃる意味が、分かりかねます。
 文さんが先、だったじゃないですか。これについては嘘偽り無く。
 日付だって言えます。どこでどんな格好でされたのか、私がどう感じたのかまで、詳細に文字にだって起こせますよ。未来の御阿礼に読まれるのも癪なので、残しませんけれど。
 ねえ、文さん。
 私は怒っていません。後ろめたくもない。
 ただあなたの気持ちを、知りたかっただけなのです。
 なのにそれ以来、まるでそんなことがなかったかのように知らん顔をしてるものだから、腹立たしいやら悔しいやら、どうにかして白状させてやろうと、私はずっとやきもきしていたのです。
 ひときわ、暖かな風が吹き上がり、私たちを包みます。久しく忘れていた土の気配に、雑木林の落ち葉が舞って、文さんの唇に寄った縦皺に、くっきり影ができています。
「隙あり」
 今度は、文さんは避けませんでした。
 観念したような長い、長いため息が私の唇に沿って流れ、あごの方へつたっていきます。
 私は勝ち誇っていました。文さんにではなく、これまでの私自身に。
 空を飛び越えていく憧れを、ただむなしく見上げていた眼差しは、もう私のものじゃない。虚ろに手を伸ばして、届かない距離を確認するだけで、できることよりできないことを指折り数えた時間は、すべて過去へと流れたのです。
「あ、阿求さん?」
 それなのにどうして、私は震えているのでしょう。笑顔をつくろうとすると歯がかちあって、がちりごちりと鬱陶しいのです。
 空から落っこちたときよりも、文さんはあわてています。
「やっぱり怖かった? そうよね、ごめん。ごめんね」
 遮二無二抱き寄せられました。違うんです、という言葉は文さんの胸に吸われましたけど、それでよかった気もします。
 醤油の煮えるにおいがほのかに漂ってきます。屋敷に着くまでには震えがおさまるかと、今はそれが気がかりです。




【了】
地に足のついていないお話。


前作は3年ばかり前、まったく今更ですね。
お付き合いくださりありがとうございます。
鹿路
コメント



1.euclid削除
偶然にもつい先日に天狗の油断の方を読み直していましたので、まさかの続きに驚き喜んでいます。
「慎重に、狙いを定めます。」のくだりは本当にもうドキドキものでした。
2.名前が無い程度の能力削除
わ、わー!わー!すごい!
3.奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
4.名前が無い程度の能力削除
これはよいものですね
5.名前が無い程度の能力削除
雰囲気が素敵すぎる・・・!ご馳走様でした
6.伊勢削除
「天狗の油断」は、鹿路様の作品の中で最も抽んでた圧巻だと思って居ります。
その続篇の拝誦が適いますとは。本当に、夢の様です。
7.名前が無い程度の能力削除
阿求が落下するシーンの描写に痺れた。