賀茂川の流れは、今夜も速かった。
夜気は寒く凍えているが、風は吹いていない。朝から昼にかけて、慟哭のように吹き荒んでいた風は、夕刻に差し掛かった途端、ぴたりと止んでいた。
嘶きのような風だった。
龍が天高く舞い、嘶くかのような風だ。
昼に目覚めた私が、最初に思ったことだった。夜も更けた今では、吹き荒んでいたその気配すら、綺麗さっぱり失せていた。
そんなところも含めて、龍の嘶きのような風だと思った。
大通り――三条河原の周辺は、多くの人で賑わっていた。子連れの夫婦、年若く中睦まじい男女、男仲間や女仲間。それだけに留まらず、異様な雰囲気を醸し出す組み合わせも、ちらほら見受けられる。
独り身なのは、不思議と私だけだった。
そのことが、奇妙な心地良さを感じさせた。
何のことはない、ただの肌寒い夜である。もう数時間も経てば陽が昇り始めて、普段と寸分違わぬ朝が始まる。それだけの、何の変哲もない夜である。
だと言うのに、人の往来は激しい。
普段よりも多くの人で、三条河原は賑わっている。誰も彼もが、群れとも連れ合いとも言える他の人間たちと、歩幅を合わせながら歩いている。
憧憬。
浮かんだのは、取りとめもない感想だった。
普段と変わらず、流れの急な賀茂川に沿って歩いた。丁度、遡上するかたちである。夜も遅いと言うのに、道を行く人影は多い。和気藹々と擦れ違う人々を横目にしながら、私は街並みへと目をやった。
京都の街並みは古い。
煌々と灯される人工の明かりは新しい。
いつもよりも、多くの明かりが灯されていた。ただの夜だと言うのに、姦しいくらいの明かりが窺える。浮き足立ち、はしゃぐように群れを成している人々と、同じように思えた。
ふわっと、心地良さが去来する。
先程感じた奇妙な心地良さと、まったく同じだった。
人知れず笑う。苦笑いとは、まさにこういう笑いのことを言うのだろう。擦れ違う人に悟られないよう、マフラーで隠した。風が止んでいるとは言え、今夜はやはり寒かった。冬の京都が寒いという言葉に、嘘偽りはなかった。
通りから、河縁へと降りる。
此処にも人は多い。
幸い、空いているベンチはすぐに見つかった。深く腰を下ろしてから、白い息を吐き出した。尻に走った冷たさには、かすかに目をつぶった。
火を灯す。
対岸に見える人工の明かりと比べると、いかにも頼りなく思えた。
「ふう」
紫煙が充分に昇ってから、溜め息のようにそれだけを言った。
「缶珈琲でも買ってくれば良かったかな」
にべもない言葉だった。
辺りに自販機でもないかと頭を巡らすが、それらしき明かりは見当たらなかった。ベンチに座り込み、談話に花を咲かせる人々の姿しか、見つけられなかった。
背もたれに身体を預ける。
自然と首は傾き、私は夜空を見上げる格好になった。
少し欠けた月が白く染まっている。
凍えるような夜には相応しいと、それだけを思った。
賀茂川の、せせらぎとは言い難い水音が聞こえる。時折、嬌声のようにはしゃぐ人々の声が、私の耳朶を打つ。溜め息のように呟くことは、もうなかった。煙草をくわえて、音もなく細く吐き出す。口に広がる苦味は、嫌いではない。こめかみにまで昇って、凍えるような夜気を一層鋭くしてくる。この感覚もまた、私は嫌いではなかった。
手のひらサイズほどの灰皿に、丁寧に灰を落とす。
吸殻も灰皿に投じてから、私は改めて、対岸の街並みへと視線を下ろした。
人工の明かりは、いつになく姦しい。
目を凝らすと、対岸を往く人の影がうっすらと見えた。当然のように、その数は多い。
ただの夜だと言うのに。
肌寒く、寝具に身を包んで暖かく惰眠を貪ることこそ、一番賢い行動だと言うのに。
人の往来は、何処もかしこも激しかった。
もう一度、夜空を仰ぐ。
白く染まった月を、目を細めながら見つめた。
何処か遠くで、鐘の音が鳴った。
「はい」
月に影が差した。
よく見ると、横手から差し出された手だった。缶珈琲が握られている。
「私の奢り」
見知った顔だった。
波打った金髪は、真っ白な月明かりによって、上質な金細工のようにも見えた。笑みのかたちに細められた金色の瞳には、九割ほどの親しみと、一割ほどのそれ以外とが覗いている。傍らに昇った吐息は、紫煙のように白かった。
「ありがとう」
受け取った缶珈琲を開ける。
よく冷えているといった、姑息な悪戯はなかった。ほんのりと暖かく、喉を潤すのには程好かった。
「本当、放浪癖があるわよね」
マエリベリー・ハーンは、私の隣に腰掛けた。
「蓮子って」
中身が充分に残っている缶を、傍らに置いた。火を灯して煙草をくわえる。
缶珈琲特有の甘ったるさが、一服には丁度良かった。
「今」
メリーの口から、白い息が昇る。
「何時?」
少し欠けた白い月を、私は見つめた。
宝石とも言えないほど、小さく輝く星々も見つめた。
「零時一分五十八秒」
「正確ね」
「それがモットーだから」
「その割には、時間を守るのは苦手よね」
「それもモットーだから」
「何よそれ」
メリーに怒った様子はなかった。口元に手を寄せて、面白そうに笑っている。
わざとらしい仕草だった。
メリーを尻目に、傍らの缶珈琲を手に取る。
甘味が広がった。煙草の苦味や夜気の酸味と、とても良く合っていた。
賀茂川の流れが聞こえてくる。
姦しい話し声が、方々から届いてくる。
対岸の明かりは煌々と灯っており、夜空の星月は控えめに照り輝いていた。
なるべく音を立てず、鼻で息を吸う。
冬の夜気は鋭く、そして不思議と心地良かった。
どれくらい、そうしていただろう。時刻を見るようなことはしなかった。
「ねえ、蓮子」
「あのさ、メリー」
口を開いたのは、ほぼ同時だった。
「あけましておめでとう」
夜気は寒く凍えているが、風は吹いていない。朝から昼にかけて、慟哭のように吹き荒んでいた風は、夕刻に差し掛かった途端、ぴたりと止んでいた。
嘶きのような風だった。
龍が天高く舞い、嘶くかのような風だ。
昼に目覚めた私が、最初に思ったことだった。夜も更けた今では、吹き荒んでいたその気配すら、綺麗さっぱり失せていた。
そんなところも含めて、龍の嘶きのような風だと思った。
大通り――三条河原の周辺は、多くの人で賑わっていた。子連れの夫婦、年若く中睦まじい男女、男仲間や女仲間。それだけに留まらず、異様な雰囲気を醸し出す組み合わせも、ちらほら見受けられる。
独り身なのは、不思議と私だけだった。
そのことが、奇妙な心地良さを感じさせた。
何のことはない、ただの肌寒い夜である。もう数時間も経てば陽が昇り始めて、普段と寸分違わぬ朝が始まる。それだけの、何の変哲もない夜である。
だと言うのに、人の往来は激しい。
普段よりも多くの人で、三条河原は賑わっている。誰も彼もが、群れとも連れ合いとも言える他の人間たちと、歩幅を合わせながら歩いている。
憧憬。
浮かんだのは、取りとめもない感想だった。
普段と変わらず、流れの急な賀茂川に沿って歩いた。丁度、遡上するかたちである。夜も遅いと言うのに、道を行く人影は多い。和気藹々と擦れ違う人々を横目にしながら、私は街並みへと目をやった。
京都の街並みは古い。
煌々と灯される人工の明かりは新しい。
いつもよりも、多くの明かりが灯されていた。ただの夜だと言うのに、姦しいくらいの明かりが窺える。浮き足立ち、はしゃぐように群れを成している人々と、同じように思えた。
ふわっと、心地良さが去来する。
先程感じた奇妙な心地良さと、まったく同じだった。
人知れず笑う。苦笑いとは、まさにこういう笑いのことを言うのだろう。擦れ違う人に悟られないよう、マフラーで隠した。風が止んでいるとは言え、今夜はやはり寒かった。冬の京都が寒いという言葉に、嘘偽りはなかった。
通りから、河縁へと降りる。
此処にも人は多い。
幸い、空いているベンチはすぐに見つかった。深く腰を下ろしてから、白い息を吐き出した。尻に走った冷たさには、かすかに目をつぶった。
火を灯す。
対岸に見える人工の明かりと比べると、いかにも頼りなく思えた。
「ふう」
紫煙が充分に昇ってから、溜め息のようにそれだけを言った。
「缶珈琲でも買ってくれば良かったかな」
にべもない言葉だった。
辺りに自販機でもないかと頭を巡らすが、それらしき明かりは見当たらなかった。ベンチに座り込み、談話に花を咲かせる人々の姿しか、見つけられなかった。
背もたれに身体を預ける。
自然と首は傾き、私は夜空を見上げる格好になった。
少し欠けた月が白く染まっている。
凍えるような夜には相応しいと、それだけを思った。
賀茂川の、せせらぎとは言い難い水音が聞こえる。時折、嬌声のようにはしゃぐ人々の声が、私の耳朶を打つ。溜め息のように呟くことは、もうなかった。煙草をくわえて、音もなく細く吐き出す。口に広がる苦味は、嫌いではない。こめかみにまで昇って、凍えるような夜気を一層鋭くしてくる。この感覚もまた、私は嫌いではなかった。
手のひらサイズほどの灰皿に、丁寧に灰を落とす。
吸殻も灰皿に投じてから、私は改めて、対岸の街並みへと視線を下ろした。
人工の明かりは、いつになく姦しい。
目を凝らすと、対岸を往く人の影がうっすらと見えた。当然のように、その数は多い。
ただの夜だと言うのに。
肌寒く、寝具に身を包んで暖かく惰眠を貪ることこそ、一番賢い行動だと言うのに。
人の往来は、何処もかしこも激しかった。
もう一度、夜空を仰ぐ。
白く染まった月を、目を細めながら見つめた。
何処か遠くで、鐘の音が鳴った。
「はい」
月に影が差した。
よく見ると、横手から差し出された手だった。缶珈琲が握られている。
「私の奢り」
見知った顔だった。
波打った金髪は、真っ白な月明かりによって、上質な金細工のようにも見えた。笑みのかたちに細められた金色の瞳には、九割ほどの親しみと、一割ほどのそれ以外とが覗いている。傍らに昇った吐息は、紫煙のように白かった。
「ありがとう」
受け取った缶珈琲を開ける。
よく冷えているといった、姑息な悪戯はなかった。ほんのりと暖かく、喉を潤すのには程好かった。
「本当、放浪癖があるわよね」
マエリベリー・ハーンは、私の隣に腰掛けた。
「蓮子って」
中身が充分に残っている缶を、傍らに置いた。火を灯して煙草をくわえる。
缶珈琲特有の甘ったるさが、一服には丁度良かった。
「今」
メリーの口から、白い息が昇る。
「何時?」
少し欠けた白い月を、私は見つめた。
宝石とも言えないほど、小さく輝く星々も見つめた。
「零時一分五十八秒」
「正確ね」
「それがモットーだから」
「その割には、時間を守るのは苦手よね」
「それもモットーだから」
「何よそれ」
メリーに怒った様子はなかった。口元に手を寄せて、面白そうに笑っている。
わざとらしい仕草だった。
メリーを尻目に、傍らの缶珈琲を手に取る。
甘味が広がった。煙草の苦味や夜気の酸味と、とても良く合っていた。
賀茂川の流れが聞こえてくる。
姦しい話し声が、方々から届いてくる。
対岸の明かりは煌々と灯っており、夜空の星月は控えめに照り輝いていた。
なるべく音を立てず、鼻で息を吸う。
冬の夜気は鋭く、そして不思議と心地良かった。
どれくらい、そうしていただろう。時刻を見るようなことはしなかった。
「ねえ、蓮子」
「あのさ、メリー」
口を開いたのは、ほぼ同時だった。
「あけましておめでとう」
実際は寒いんだろうけどなあ・・