雨のにおいには降る直前ににおうものと、降った後ににおうものがある。さらに梅雨にはふたつのにおいが混じり合った、独特の香りがあった。
めいっぱいに息を吸い込み、それからゆっくりと吐き出そうとすると、浅く長い溜息になった。「ふぅ」と息を吐き出し切ってしまうと、博麗霊夢は自分が溜息を吐きたくて息を吸ったのかがわからなくなっていた。
――いや、まちがいなく憂鬱ではあるのだが。もしかしたら癇癪でも起こして、叫びだしたかったのかもしれない。
今年は迎え梅雨がほとんど見られなかったから、油断していたのだろう。もう少しの間は大丈夫、と傘を持たずに出かけたのが間違いだった。……あるいははずれの茶店で団子にうつつをのかしていたのが拙かったか。いずれにせよ、霊夢は道端を歩いている間に梅雨のだらだらとした、細かい長雨に降られていた。
ちょっとした用足しで人里に向かう途中だった。そう、まだ「途中」。用はまだ済んでいないのだ。これが帰り道であったら足も少し早かったろう。
「…………」
黙って空を見上げる。灰一色の空から降り注ぐ雫が、頬に当たり、額を穿ち、目玉に染み込んできてようやく視線を前に向き直して歩き始める。
よほど帰ろうかと思ったが、来た道を手ぶらで帰っていくのは癪だ。さっさと用を済ませて、ついでに傘を買って帰ろう。そう思って道を行っているのだが、気分がどうにもダラリとしていて足取りに覇気がない。
(やっぱり、まずかったわ)
団子が―― ではなく。
溜息ではなくて、恨み言のひとつでも天に向かって吐き出してやればよかった。そうすればこんなにもたついた気分にはならなかったろう。天に唾すで雨足を強められたりでもしたらたまったものではないが、そんなことをいちいち聞き遂げるほど、神も細かな器ではあるまい。
しかしもう気分は変わりそうにない。現に今からでも雑言のひとつでも吐いてやろうと思った霊夢であったが、天井から目薬を喰っただけで気持ちが萎えてしまって、何も言う気がしなくなってしまった。
そのまま雨の中をごくゆっくりとした調子で歩いて行き、目的の店まで着く頃には、衣服はずっしりと水分を吸って重くなっていた。嗜みとして手ぬぐいを持ち歩いてはいるが、今使うには小さすぎるし、そもそも服と一緒に雨水を吸ってしまっていて懐でぐしゃぐしゃに縮こまっていた。
店の軒先まで入っていってからそれに気づいた霊夢は、今度は盛大な溜息を吐く。せめて顔だけでも拭いておきたかったのに――。
「ずいぶん濡れているじゃないか。手ぬぐいは要るかい? 安くしておくがね」
店先でもたついていると、奥からそんな声が聴こえてくる。霊夢は水でヒタヒタになった靴の中をムズがるように二、三度つま先で床を鳴らしてから、
「貸してくれるならありがたく受け取るけど、売りつけようってンなら、要らないわ」
と返して奥へと進む。少し薄暗い店内でひときわ明るいオレンジ色の光を放つランプが置かれた座敷。漆塗りの立派な台に行儀悪く頬杖を突いて座る、中年男性の顔がはっきりと視認できるまで近づくと、霊夢は憮然と腕組みをして立ち止まった。
広い店内にはほとんど動くものがなく、ときおり火が揺らめく気配と雨音だけに浸されている。いつもは数十人単位で店を賑やかしているのだが、今日は厭に静かであった。
中年男性―― 店の主人は、霊夢の不承面を前にニヤリと笑って姿勢を正す。
「そりゃ、残念だなあ。今の時期、拭き布の類はよく売れるからって、せっかく」
「濡れて風邪引きそうな客を捕まえて、せっかくもなにもない」
「おまえさん、どうにも風邪はひきそうにもないけれど」
「ところで――」
霊夢は会話を振り切るように改めて回りを見渡す”フリ”をした。
「人が少ないわね」
「ああ、今日はもう雨が止みそうにないから、皆さっさと帰してしまった」
こともなげにそんなことを言ってのける店主。霊夢は呆れた。
晴耕雨読の農夫ではないのだから。仮にも里一番の道具店を張っているのに、そんな適当な商売で立ち行くのだろうか。
「雨が降れば客が来ないとでも思ったの?」
「いや? そんな道理はないよ。だってホラ―― 現にこうして、来たじゃないか。自分で今、客と名乗ったろう?」
店主は顎でもって「ウヌだ」と示してくる。
この男、道具店の主人というよりはどこぞの飄逸な御隠居とでもいった風である。無論まだそんな年齢ではないのだが、もともとそういう質なのかもしれない。常時なにかをやらかしてやろうという、周囲にとっては迷惑に他ならない気概を持っている。なんとなく嫌いになれない雰囲気も併せ持つが、霊夢はこの男を前にするといつも無性に喰ってかかりたくなってくる。
「だったら、別に帰さなくたっていいじゃない」
「まあ、別に帰す必要もなかったが、おまえさんひとりなら、アタシだけでも充分対応できるだろうよ」
「そういう意味じゃないとくらいわかってるでしょうが。気にくわないわね」
店主は「ハハ」と朗らかに軽く笑うと、
「身内のものでもたまにはこうやって驚かしておかないと、だんだんアタシという人間が読まれてきてしまうからね」
とぼんやりした口調で嘯く。――いや、本当のことか。そのためにわざわざ全員帰してしまったのかと考えると、ほんとうに他愛がない。霊夢は肩を竦めた。
「べつに読まれたっていいじゃない。相手が勝手にあれこれと考えて、対応してくれるわけだし。楽だわ」
「ま、楽かもしれないがねェ。アタシは『あの人はこうだからこうだ!』……だとか、語られるのがあまり好きじゃないのだね。『あの人はわからん』と言われていた方が嬉しいよ」
「変な人」
容赦の無いひとことに、店主は穏やかな微笑みを返した。常時この表情を張りつけておけば、もっと商売が繁盛するのではなかろうか。それくらいには笑い皺の映える、優しげな善人面になる。
「あとは、単純にひとがキツネにつままれたような顔をするのが面白いというのもある」
が、その笑顔のままそんなことを言い出すのだから始末が悪い。
「つまるところ、そこに集約しているわけじゃないの。タチが悪い」
「きっとそうだろうね。――さて、そろそろ要件を聞こうか。こんな雨の日に濡れて来て、どうしたね?」
やっと本題だ。霊夢は溜息を吐きかけて呑みこむ。他人やものごとに呆れが過ぎると、そのうち自分にも呆れが来るとは誰の教えだったか。溜息はつかぬことに越したことはない。
両者仕切り直しとばかりにまた一度話題を寸断する。霊夢は腕を組みかえ、重心をかける足も変えた。ずっと同じ姿勢で居ると、服にしみ込んだ水分がじんわりと生ぬるくなってくる感覚を厭でも味わう羽目になるからだ。
「うちの菜刀(ながたん)が使いものにならなくなったの。だから、それが欲しくて」
「菜刀……?」
所望を聞いた店主は、心底わからないと言った表情を作る。霊夢は実際、この男がさほど驚いていないことはわかっていた。大げさというわけでもないが、所作ひとつとっても、おどけるのが上手いのだ。
「なんだってそんなもの、うちに探しに来るんだい? 職人のところにいけばいいじゃあないか」
「まぁ、そうなんだけど」
一度視線を逸らし、濡れて深みを増したようになっている黒髪に指を差し入れ、いたずらをする。最近の霊夢の、逡巡した時の癖であった。
「……包丁の類が、すぐに錆びちゃってかなわないのよ。それで一番ひどいのから買い替えようって話になったんだけど――」
「そりゃ、おまえさんの扱いの方がひどいんじゃないのかね?」
鋼の類で造られた包丁は、錆に弱く放っておくとすぐ使いものにならなくなってしまう。困ったことに、いいものの方がより錆に侵されやすい。「そんなことはわかっている」とでも言うように、霊夢は小さく一度、首を捻った。
「私の扱いどうこうなんてこの際、どうでもいいの。……で、こないだお弟子さんのお店に行って、「包丁が錆びて困る」って話をしたのよ」
「ほう」
霊夢の言う「弟子」とは、だいぶ昔にこの店で修業をしていた、店主にとって”年上の”弟子のことである。普段、霊夢が多く世話になっているのはこっちの弟子の方で、彼も大概ヘンクツだが、ヘンクツの元がこの師匠であるかどうかは謎である。半妖の身でなまじ霊夢よりも何倍にも余計に生きているものだから、どこで性格が歪んだのかどうかなど確かめる術がない。
「それで、アイツはなんと言っていたかね?」
「同じこと。『それはきみの扱いがひどいからだろう』って」
「さすが我が弟子。商売より先に物の心だ」
物質に心があるものか。――いや、憑喪神というものがあるし。モノを売るだけしていればいい商人だが、物の心を知らねば祟られでもするのだろうか。霊夢は店主の少し誇らしげな顔を見ながらそんなことを思ったが、話にはまだ続きがあった。
「ちなみに、そのあとにはこんなことも言ってたわ」
「ふむ?」
「私が『少しくらい扱いが悪くとも、錆びにくい包丁はないのかしら』って言ったら、『そんなものがあればすぐに普及するだろうね。でも、聞いた話ではまったく錆びない包丁もあるらしいよ。もっとも、切れ味は良くないらしいけど』って」
そんなものがあればぜひ欲しい。霊夢はそう言ったが、いくらなんでもそんなあてはない―― と返されてしまった。
「……まさかとは思うが、そんなものがうちにあると思ってやってきたのかい?」
さしもの店主も、少し驚いたように目を剥いて訊ねてきた。
霊夢は半ばこの反応を予想していたが、万が一にもそんなものがあるかもしれない、という期待はあったのだ。どうせなくとも普通の包丁を買っていけばいいし―― とやってきたのだが、雨の所為で徒労感が強い。
「里一番の店でしょ?」
「やれやれ。彼の店に無いものが、ましてやアタシの店にある道理はないよ」
「お師匠なのに?」
「それとこれとは、別さ……」
店主は腕組みをして、煙草の煙を吐き出すかのように長々と息を吐き出すと、続けた。
「アタシの店は、この里での『常識』を取り扱っているのさ。だから一番たりえるんだよ。扱えないものがないよう、知らぬものがないよう、取り計らっている。……とまあ、こんなことを言っても理解してくれないものもいるがね」
「実の娘とか?」
「……そのあたりを突かれると、弱ってしまうなあ」
霊夢は彼の娘を良く知っている。根は実直なくせに、ヒネた娘だ。父娘の云々は霊夢の預かり知るところではないが、派手な悶着があったことは知っている。互いに気にくわないことがあったらしく、今は絶縁中であるという。両者ともに別の意味で素直ではないので、相手の話を持ちだすと忸怩たる念を隠そうとはしないくせに、和解する気はないようだ。
「とにかく、そんな有耶無耶なものはうちには置いてないよ」
「客の度肝は抜いてくれないわけね。『この店はあの程度』って言われちゃうわよ?」
別に仕返しのつもりではなかったが、そんなことを言ってやると、店主は初めてあからさまな渋面を作った。彼のそんな表情を見るのは娘の話をしたとき以外になかったので、霊夢は笑いだしそうになるのをこらえた。
「客の度肝を抜くのは商人の役目じゃない。商売は、客の期待に応えることで成り立つ。でも、こっちの度肝を抜くような期待には応えられないよ。あくまでもアタシはアタシ。店は店、さ」
これ以上与太話には付き合っていられない、とばかりの言葉に霊夢は肩を竦めて「面白くない」とぼやいた。
――まあ、ないものはないのだ。出し渋りなら突っついてでも出させるところだが、そういうものでもない。交渉が成り立たないであろうことはすでに承知済みであったので、霊夢はそれ以上は何も言わなかった。やれやれ、”とんだ散歩”になってしまった、と心うちでは何度も今朝の自分に悪態を突きながら。
「――傘でも買っていくかい」
いつの間にか元の頬杖に戻った店主が胡乱にそう訊いてくるので、霊夢は何も言わずに店を出ていった。
背中に「毎度あり」の言葉が投げつけられたが、それがどれだけ嫌味たらしく聞こえたことか。もとはと言えば、嫌味を先にふっかけたのは霊夢であるから、道理で言えば腹を立てることでもないのだが。
気分が悪いのは雨の所為として、霊夢はそのまま鍛冶屋にもよらず家路につくことにした。考えてもみれば、こんな日に包丁など買って帰れば、持ち帰る前に錆ついてしまいそうなものである。いかに自分が『錆びない包丁』という幻想に踊らされていたかを知って、彼女は余計に腹を立てた。
そんなものはないとは思いつつ、実はそれなりの期待を寄せていたことになる。これではまるっきり、外の世界における『非常識な事象』の構図と同じではないか。ありもしないものに寄せる期待。ばかばかしい。こんな正体の無い期待を押しつけられれば、商売人もさぞ困るだろう。
「無駄足もいいところだわ」
結局傘も買わずに濡れて歩く。もう体中おもりでもぶらさがっているのではないかというくらいに重く、濡れそぼってしまっている。
雨脚は店に入るころよりも強まり、ザアザアとやかましく音を立てるようになったが、霊夢は憮然とただ歩を進めた。――水が滴るような美女でも、このざまでは”カタナシ”もいいところだ。
空回りに終わった用足しのことはなるべく考えないようにして、早く帰って湯浴みをすることを考えるようにする。そうすると、こうも甲斐の無い状況にもかかわらず、少しだけ心が躍った。が、相変わらず歩調は鈍い。
この日は里一番の道具屋が火が消えたように静かだっただけではなく、里全体が静かだった。さながら半夏生の物忌みの如く、誰ひとり傘をさして歩く者も見当たらない。そんな中を濡れながら一人歩くのは、なんの謂れもないのに罪深いことをしているような気持ちになる。
普段は何に対しても我関せずといった立場を崩さない霊夢であるが、この時はよく目玉が動いた。人影を探しているわけでもなく彷徨う視線が―― 唐突に某何朗の軒先で所在なさげに“雨宿り”をしているなすび色の唐傘を見つけ出した。
「はっ」と疑問の吐息が洩れた。
なにせその唐傘―― もとい唐傘が時間を経て化生となった妖怪多々良小傘は、分け身とも言える少女の体をぶら下げている。ゆえに軒先で傘を差した少女が雨宿りをしているという、なんとも不可思議な構図がその場に出来あがっているのだ。
そのちぐはぐな光景に、霊夢はなんとも名状しがたい視線を数十秒送り続けたが、さすがに寒くなってきたと見えて肩をぶるりと震わせると、元のようにまっすぐ歩いて小傘の前を素通りした。
しかし、前を通り過ぎようかという時に視界の端っこだけを動かして様子を見たのが災いした。わずかコンマ数秒単位で動かされた視線が、小傘の何気ない視線と合わさってしまったのだ。
霊夢は気付かないふりをしてそのまま歩を進めたが、どうやら彼女は小傘の「焦点」と化してしまったようである。それまでただ漠然と立ち尽くしていただけの小傘は、雨の中にカラコロと下駄の音を混ぜ込みながら、霊夢の後ろをくっついて歩き始めた。
「…………」
「うらめしやー」
しばらくすると、後ろから声がする。
なんとなく言っていたという風情。いったい何がうらめしいのか。
「うーらーめーしーやー」
「…………」
興が乗ってきたのか、少しだけ声にうるおいが加わった。
そして何度も何度も、しつこく繰り返される。霊夢が素知らぬ顔で受け流せたのは最初の一、二回が限度だったに違いない。内心の憤りを隠しながら、自分は視線が合ってしまったことがうらめしい、とばかり考えていた。
やがて里も抜けようかところになると、小傘は霊夢が反応しないことをいいことに、ついに耳元で囁きかけるようになってきていた。
霊夢は辛抱たまらず足を止めた。あれほど無視すると肚で決め込んだというのに、まっすぐ振り返って小傘の左右で色が違う双眸を睨めつける。
「うらめし」
「なにがそんなにうらめしいってのよ」
我慢のしすぎで怒声が出なかった。締めていた表情が崩れる。
その覇気の無い吐息のような言葉がようやく自分に向けられたのだとわかると、小傘は一瞬だけ満足そうな表情を浮かべて、すぐに思案顔になった。
「ええと、この雨の中傘の私を無視したこと?」
「つまり雨よけにあんたを使えってことね。なかなか気が利くじゃない」
「そうじゃなくて」
「そうじゃないなら、ほかにどうとればいいのかしら」
答えを用意していなかったことは明白だった。
小傘は良くも悪くも無害な妖怪だ。人をおどかすことだけを生業としてよく人里にまで顔を出すが、考えなしの上に真にマンネリズムに則った手法しかとらないため、なかなかおどろいてはもらえないらしい。彼女の場合、「うらめしや」と言って人の背後からおどかしにかかるのは一種の礼儀のようなものであるようだ。……もっとも、新鮮味に欠ける以前の話に、そう何度も繰り返されてはただ鬱陶しいだけなのだが。
答えに窮して黙りこむ小傘を持て余して、霊夢は眉間に人差し指と中指を這わせる。多少頭痛がしていた。
「……あのねぇ。人をおどかすにしたって、もうちょいやり方があるでしょうが」
「そ、そう?」
困ったような笑顔を浮かべる小傘。
「だって、私はあんたと眼が合ってるのよ? 後ろからついて来てるのもわかってるのに、下手に後ろで恨めしいだのって繰り返されて、おどろくわけないじゃないの」
「ああ、やっぱり気付いてたのね。あんまり無視するもんだから、気付いてないのかと思ったわ」
「……あんた、おどろいてほしかったのか、構ってほしかったのか、どっちよ?」
霊夢の腐ったものを見るような視線に、小傘は「両方かなっ」と元気よく答えると、だしぬけに傘をくるっと一回転させる。傘にはじかれて舞う雨の飛沫が、霊夢の顔や胸に降りかかった。
「おどろいた? ねぇ」
「イラッとした」
まつ毛にこびりついた滴を指先で拭いながら、憮然と答える霊夢。もうすでに全身濡れネズミの所為もあって、跳ねた水に対してはなんのおどろきもなかった。
「やっぱりあなたは何してもおどろかないから、やりづらいわ。里の人間はなんでひとりも出てこないのかしら」
「知らないわよ。そんな日もあるでしょ。……それに、里の人間にしたって、あんたでおどろくようなヤツはいないんじゃない」
「そんなことないよ。最近じゃ、おどろいた? って訊くと『うん』って言ってくれる」
「あんたさ、やっぱりほんとうにばかなんじゃないの?」
「……そうかもしれない」
「頭が痛いわ」
比喩ではなく、ほんとうに頭が痛む。さっきから寒気も酷い。……これは本格的に風邪を召したか。
止まっていた足を動かす。少しおぼつかない。フラフラと歩みを再開した霊夢の後を、小傘はまだ追ってくる。
「それじゃあ、ほんとうはおどろいてないっていうの?」
「当り前でしょう。そもそも『おどろいた?』っておどろかした相手に聞いてどうするのよ。ほんとうにおどろいてたら、相手はまともな返事なんてできないんじゃない?」
「む、そうかも」
「そうかも、じゃなくて”そう”なのよ」
「じゃあ、”そうだとしたら”さ」
霊夢の足が再び止まる。
そうだとしたら? だから”そう”なのよ、と不毛な切り返しを口にしようと考えてやめた。
脳裏に過った口上を喉の奥へ通し返してやったら、自然に足が止まってしまって、同じく足を止めた小傘と無言で数秒見つめ合う羽目になる。
「そうだとしたら、私、どうやっておどかしてやればいいの?」
「……あんたね」
さきほど道具屋の中でもう吐くまいとしていた溜息が、もう堪らないと鼻から抜けていった。袋を縛る緒が切れるよりも先に底に穴が空いてしまったかのように。
「それくらい、自分で考えなさいよ」
「でも」
「でももだってもないでしょうが。私をおどかすつもりだったのよね? どうやったらおどろくんだ、っておどかそうとした相手に訊くなんて、おどろいた? って訊くよりもまぬけなことだとは思わないの?」
「そう……かも?」
「ハァ」
今日一番、はっきりとした溜息が霊夢の口から洩れた。とうとう緒もほどけた様子である。
それ以上続けるべき言葉も見つからず、霊夢は三度歩を進めようとするが、今度は二三歩進んだだけで足を止めてしまった。小傘がその場を動かずに、視線だけを投げかけてくる気配を感じ取ったからだ。
……なんだか悪いことをしている気がする。霊夢は小傘に背を向けたまま、たまたま記憶に残っていた話と、今しがた道具屋の主人とした話を思い出していた。
「……結構前に霖之助さんに聞いた話なんだけど」
「うん?」
「黙って聞いてなさい。……外の世界には、お化け屋敷っていうのがあるらしいのよ」
「お化け屋敷? 妖怪がたくさん住んでる屋敷のこと? そんなものが外にまだ残ってるとは思えないけど」
「もちろん、偽モンよ。人間が妖怪のフリをして、人間をおどかしているんだって。で、おどかされる側の人間はお金を払うらしいわ。つまりそういう商売なのね」
「え、なんでよ。おどかす側は愉しいけど、おどかされるほうはおどかされ損じゃない。それにお金払うだなんて、人間って変」
「私も同じことを思ったわよ。でも、霖之助さん曰く、『外の人間はありもしないことを想像して喜ぶフシがあるようだけど、たまにそれじゃあ満足できなくなる。だから、そういった施設で疑似的な非日常を味わって誤魔化しているのさ』、だとか」
「なにそれ、あの店主のモノマネ?」
「そんなつもりはなかったけど。……で、そういう商売が普通にあるってことは、外の人間はそこに行けばおどかされるってのを、知ってることになるじゃない?」
「たしかに」
「おどかされることを知ってるのにそんなところに行くってことは、期待しているんだわ」
「なにをさ?」
「予想を裏切られること―― うぅん、”度肝を抜かれることを”、かしら。予想してた手で来られても、おどろかない。だからまったく予想もしてなかった手でおどろかされるのを愉しみにしてるんだと思う」
「なるほど。……おどろかされて愉しいのかどうかは、私にはちょっとわかんないけどなぁ」
「私もわかんないわよ、そんなの。……まぁ、つまりはそういうことなのよ」
「えっ、つまりどういうこと?」
「あんた、ほんとうにばかね。つまりは、人をおどかすには人の予想を裏切って度肝を抜くのがいい、って話よ」
「そういう話だったかなぁ」
「そういう話だったの。客をおどろかしたい商売人は、客に言われるでもなく錆びない包丁を出すくらいの気概がなきゃ」
「……それこそなんの話?」
「こっちの話」
そこまで一気に話してしまうと、霊夢は人心地というようにゆっくりと深い呼吸を繰り返した。
口の中に梅雨特有の芳香が充ちる。あまりいい匂いではない。危うくむせかえるところだった。
「ともかく、おどかす相手である私にどうおどかせばいいか―― なんて訊いているようじゃ、あんたの商売あがったりよ?」
「商売してるつもりはないけど、そういうものなのか。……うーん、度肝を抜く、ねぇ」
小傘は眼を閉じたまま、未だ雨を吐きだし続ける空を仰ぐ。
霊夢は小傘が微動だにしないことを確認すると、黙ってその場を歩き去ろうとした。
相も変わらず衣服は雨を吸って重く、さきほどからの体調不良も相まって足取りはさらに重い。のたのたと道を行きながら時折振り返るも、小傘はやはりその場で動かずに何かを必死で考えているようだった。
「度肝を抜く…… 錆びない包丁?」
頼りない呟きが雨の音にかき消される前にかろうじて耳に飛び込んできたが、もう構っていられない。
霊夢はなんとか重い体を引きずるようにして、いつもより十倍は長く見えている帰途につくのであった。
後日。
その日も朝から陰惨な鈍色をした雲が、糸くずのような雨を飽きもせず降らせていた。
普段なら人通りもまばらになろうという道具屋のある通りは、しかしなぜか大量の人で埋め尽くされており、そのほとんどは老いも若きも女性であった。主に朱塗りの唐傘がひとつの軒先に集う様は、圧巻の一言であったと言う。
さて、この珍事の原因は、朝も早くから人里の住居という住居の戸の向こうから走りまわる下駄の音が響き渡り、それに『里一番の道具屋にまったく錆びない包丁が並んでいる』という文句がついてまわっていたことだった。それを聞き遂げた人々が、そんなものがあればさぞ便利―― とばかりに一斉に道具屋に詰めかけたのである。
これには飄逸な主人も大層肝をつぶした。錆びない包丁など一本たりとも扱ってはいないのだから、当たり前だった。彼はどうしてこんなことが起こったか考える間もなく、集まった客に「その情報は誤りだ」と説明するのに何度も大声を張り上げる羽目になる。ある客は憤慨し、ある客は呆れ、ある客はなるほど担がれたのか、と呵呵と笑って帰っていった。
引き波のように人が去っていくと、店主はなんども溜息をつきながらようやく事の次第に思案を巡らせる。
――よもや、昨日訪ねて来た巫女の仕業か?
錆びない包丁云々の話をしたのは彼女のほかにないのだから、彼女を疑うのは道理と言えた。
しかし店主は、その彼女が無害である意味可愛らしい妖怪に、無暗に知恵を与えてしまった―― ということは知る由もないのである。
かくしてなんの落ち度もない店主は、おどかされ―― もとい大いに“おびやかされる”こととなったのだった。
さらにあだしごとを言えば、この日博麗霊夢は早朝に走りまわるような真似は出来ようはずもなかった。長時間雨に濡れていたことが幸いして、季節外れの大風邪を引いてしまっていたのである。
彼女がようやく表に出てきて、めずらしく憤慨した様子の道具屋店主から珍騒動の顛末を聞かされたのは、カタシログサが霧の湖周辺を一気に白く染め上げたころのことだった。
めいっぱいに息を吸い込み、それからゆっくりと吐き出そうとすると、浅く長い溜息になった。「ふぅ」と息を吐き出し切ってしまうと、博麗霊夢は自分が溜息を吐きたくて息を吸ったのかがわからなくなっていた。
――いや、まちがいなく憂鬱ではあるのだが。もしかしたら癇癪でも起こして、叫びだしたかったのかもしれない。
今年は迎え梅雨がほとんど見られなかったから、油断していたのだろう。もう少しの間は大丈夫、と傘を持たずに出かけたのが間違いだった。……あるいははずれの茶店で団子にうつつをのかしていたのが拙かったか。いずれにせよ、霊夢は道端を歩いている間に梅雨のだらだらとした、細かい長雨に降られていた。
ちょっとした用足しで人里に向かう途中だった。そう、まだ「途中」。用はまだ済んでいないのだ。これが帰り道であったら足も少し早かったろう。
「…………」
黙って空を見上げる。灰一色の空から降り注ぐ雫が、頬に当たり、額を穿ち、目玉に染み込んできてようやく視線を前に向き直して歩き始める。
よほど帰ろうかと思ったが、来た道を手ぶらで帰っていくのは癪だ。さっさと用を済ませて、ついでに傘を買って帰ろう。そう思って道を行っているのだが、気分がどうにもダラリとしていて足取りに覇気がない。
(やっぱり、まずかったわ)
団子が―― ではなく。
溜息ではなくて、恨み言のひとつでも天に向かって吐き出してやればよかった。そうすればこんなにもたついた気分にはならなかったろう。天に唾すで雨足を強められたりでもしたらたまったものではないが、そんなことをいちいち聞き遂げるほど、神も細かな器ではあるまい。
しかしもう気分は変わりそうにない。現に今からでも雑言のひとつでも吐いてやろうと思った霊夢であったが、天井から目薬を喰っただけで気持ちが萎えてしまって、何も言う気がしなくなってしまった。
そのまま雨の中をごくゆっくりとした調子で歩いて行き、目的の店まで着く頃には、衣服はずっしりと水分を吸って重くなっていた。嗜みとして手ぬぐいを持ち歩いてはいるが、今使うには小さすぎるし、そもそも服と一緒に雨水を吸ってしまっていて懐でぐしゃぐしゃに縮こまっていた。
店の軒先まで入っていってからそれに気づいた霊夢は、今度は盛大な溜息を吐く。せめて顔だけでも拭いておきたかったのに――。
「ずいぶん濡れているじゃないか。手ぬぐいは要るかい? 安くしておくがね」
店先でもたついていると、奥からそんな声が聴こえてくる。霊夢は水でヒタヒタになった靴の中をムズがるように二、三度つま先で床を鳴らしてから、
「貸してくれるならありがたく受け取るけど、売りつけようってンなら、要らないわ」
と返して奥へと進む。少し薄暗い店内でひときわ明るいオレンジ色の光を放つランプが置かれた座敷。漆塗りの立派な台に行儀悪く頬杖を突いて座る、中年男性の顔がはっきりと視認できるまで近づくと、霊夢は憮然と腕組みをして立ち止まった。
広い店内にはほとんど動くものがなく、ときおり火が揺らめく気配と雨音だけに浸されている。いつもは数十人単位で店を賑やかしているのだが、今日は厭に静かであった。
中年男性―― 店の主人は、霊夢の不承面を前にニヤリと笑って姿勢を正す。
「そりゃ、残念だなあ。今の時期、拭き布の類はよく売れるからって、せっかく」
「濡れて風邪引きそうな客を捕まえて、せっかくもなにもない」
「おまえさん、どうにも風邪はひきそうにもないけれど」
「ところで――」
霊夢は会話を振り切るように改めて回りを見渡す”フリ”をした。
「人が少ないわね」
「ああ、今日はもう雨が止みそうにないから、皆さっさと帰してしまった」
こともなげにそんなことを言ってのける店主。霊夢は呆れた。
晴耕雨読の農夫ではないのだから。仮にも里一番の道具店を張っているのに、そんな適当な商売で立ち行くのだろうか。
「雨が降れば客が来ないとでも思ったの?」
「いや? そんな道理はないよ。だってホラ―― 現にこうして、来たじゃないか。自分で今、客と名乗ったろう?」
店主は顎でもって「ウヌだ」と示してくる。
この男、道具店の主人というよりはどこぞの飄逸な御隠居とでもいった風である。無論まだそんな年齢ではないのだが、もともとそういう質なのかもしれない。常時なにかをやらかしてやろうという、周囲にとっては迷惑に他ならない気概を持っている。なんとなく嫌いになれない雰囲気も併せ持つが、霊夢はこの男を前にするといつも無性に喰ってかかりたくなってくる。
「だったら、別に帰さなくたっていいじゃない」
「まあ、別に帰す必要もなかったが、おまえさんひとりなら、アタシだけでも充分対応できるだろうよ」
「そういう意味じゃないとくらいわかってるでしょうが。気にくわないわね」
店主は「ハハ」と朗らかに軽く笑うと、
「身内のものでもたまにはこうやって驚かしておかないと、だんだんアタシという人間が読まれてきてしまうからね」
とぼんやりした口調で嘯く。――いや、本当のことか。そのためにわざわざ全員帰してしまったのかと考えると、ほんとうに他愛がない。霊夢は肩を竦めた。
「べつに読まれたっていいじゃない。相手が勝手にあれこれと考えて、対応してくれるわけだし。楽だわ」
「ま、楽かもしれないがねェ。アタシは『あの人はこうだからこうだ!』……だとか、語られるのがあまり好きじゃないのだね。『あの人はわからん』と言われていた方が嬉しいよ」
「変な人」
容赦の無いひとことに、店主は穏やかな微笑みを返した。常時この表情を張りつけておけば、もっと商売が繁盛するのではなかろうか。それくらいには笑い皺の映える、優しげな善人面になる。
「あとは、単純にひとがキツネにつままれたような顔をするのが面白いというのもある」
が、その笑顔のままそんなことを言い出すのだから始末が悪い。
「つまるところ、そこに集約しているわけじゃないの。タチが悪い」
「きっとそうだろうね。――さて、そろそろ要件を聞こうか。こんな雨の日に濡れて来て、どうしたね?」
やっと本題だ。霊夢は溜息を吐きかけて呑みこむ。他人やものごとに呆れが過ぎると、そのうち自分にも呆れが来るとは誰の教えだったか。溜息はつかぬことに越したことはない。
両者仕切り直しとばかりにまた一度話題を寸断する。霊夢は腕を組みかえ、重心をかける足も変えた。ずっと同じ姿勢で居ると、服にしみ込んだ水分がじんわりと生ぬるくなってくる感覚を厭でも味わう羽目になるからだ。
「うちの菜刀(ながたん)が使いものにならなくなったの。だから、それが欲しくて」
「菜刀……?」
所望を聞いた店主は、心底わからないと言った表情を作る。霊夢は実際、この男がさほど驚いていないことはわかっていた。大げさというわけでもないが、所作ひとつとっても、おどけるのが上手いのだ。
「なんだってそんなもの、うちに探しに来るんだい? 職人のところにいけばいいじゃあないか」
「まぁ、そうなんだけど」
一度視線を逸らし、濡れて深みを増したようになっている黒髪に指を差し入れ、いたずらをする。最近の霊夢の、逡巡した時の癖であった。
「……包丁の類が、すぐに錆びちゃってかなわないのよ。それで一番ひどいのから買い替えようって話になったんだけど――」
「そりゃ、おまえさんの扱いの方がひどいんじゃないのかね?」
鋼の類で造られた包丁は、錆に弱く放っておくとすぐ使いものにならなくなってしまう。困ったことに、いいものの方がより錆に侵されやすい。「そんなことはわかっている」とでも言うように、霊夢は小さく一度、首を捻った。
「私の扱いどうこうなんてこの際、どうでもいいの。……で、こないだお弟子さんのお店に行って、「包丁が錆びて困る」って話をしたのよ」
「ほう」
霊夢の言う「弟子」とは、だいぶ昔にこの店で修業をしていた、店主にとって”年上の”弟子のことである。普段、霊夢が多く世話になっているのはこっちの弟子の方で、彼も大概ヘンクツだが、ヘンクツの元がこの師匠であるかどうかは謎である。半妖の身でなまじ霊夢よりも何倍にも余計に生きているものだから、どこで性格が歪んだのかどうかなど確かめる術がない。
「それで、アイツはなんと言っていたかね?」
「同じこと。『それはきみの扱いがひどいからだろう』って」
「さすが我が弟子。商売より先に物の心だ」
物質に心があるものか。――いや、憑喪神というものがあるし。モノを売るだけしていればいい商人だが、物の心を知らねば祟られでもするのだろうか。霊夢は店主の少し誇らしげな顔を見ながらそんなことを思ったが、話にはまだ続きがあった。
「ちなみに、そのあとにはこんなことも言ってたわ」
「ふむ?」
「私が『少しくらい扱いが悪くとも、錆びにくい包丁はないのかしら』って言ったら、『そんなものがあればすぐに普及するだろうね。でも、聞いた話ではまったく錆びない包丁もあるらしいよ。もっとも、切れ味は良くないらしいけど』って」
そんなものがあればぜひ欲しい。霊夢はそう言ったが、いくらなんでもそんなあてはない―― と返されてしまった。
「……まさかとは思うが、そんなものがうちにあると思ってやってきたのかい?」
さしもの店主も、少し驚いたように目を剥いて訊ねてきた。
霊夢は半ばこの反応を予想していたが、万が一にもそんなものがあるかもしれない、という期待はあったのだ。どうせなくとも普通の包丁を買っていけばいいし―― とやってきたのだが、雨の所為で徒労感が強い。
「里一番の店でしょ?」
「やれやれ。彼の店に無いものが、ましてやアタシの店にある道理はないよ」
「お師匠なのに?」
「それとこれとは、別さ……」
店主は腕組みをして、煙草の煙を吐き出すかのように長々と息を吐き出すと、続けた。
「アタシの店は、この里での『常識』を取り扱っているのさ。だから一番たりえるんだよ。扱えないものがないよう、知らぬものがないよう、取り計らっている。……とまあ、こんなことを言っても理解してくれないものもいるがね」
「実の娘とか?」
「……そのあたりを突かれると、弱ってしまうなあ」
霊夢は彼の娘を良く知っている。根は実直なくせに、ヒネた娘だ。父娘の云々は霊夢の預かり知るところではないが、派手な悶着があったことは知っている。互いに気にくわないことがあったらしく、今は絶縁中であるという。両者ともに別の意味で素直ではないので、相手の話を持ちだすと忸怩たる念を隠そうとはしないくせに、和解する気はないようだ。
「とにかく、そんな有耶無耶なものはうちには置いてないよ」
「客の度肝は抜いてくれないわけね。『この店はあの程度』って言われちゃうわよ?」
別に仕返しのつもりではなかったが、そんなことを言ってやると、店主は初めてあからさまな渋面を作った。彼のそんな表情を見るのは娘の話をしたとき以外になかったので、霊夢は笑いだしそうになるのをこらえた。
「客の度肝を抜くのは商人の役目じゃない。商売は、客の期待に応えることで成り立つ。でも、こっちの度肝を抜くような期待には応えられないよ。あくまでもアタシはアタシ。店は店、さ」
これ以上与太話には付き合っていられない、とばかりの言葉に霊夢は肩を竦めて「面白くない」とぼやいた。
――まあ、ないものはないのだ。出し渋りなら突っついてでも出させるところだが、そういうものでもない。交渉が成り立たないであろうことはすでに承知済みであったので、霊夢はそれ以上は何も言わなかった。やれやれ、”とんだ散歩”になってしまった、と心うちでは何度も今朝の自分に悪態を突きながら。
「――傘でも買っていくかい」
いつの間にか元の頬杖に戻った店主が胡乱にそう訊いてくるので、霊夢は何も言わずに店を出ていった。
背中に「毎度あり」の言葉が投げつけられたが、それがどれだけ嫌味たらしく聞こえたことか。もとはと言えば、嫌味を先にふっかけたのは霊夢であるから、道理で言えば腹を立てることでもないのだが。
気分が悪いのは雨の所為として、霊夢はそのまま鍛冶屋にもよらず家路につくことにした。考えてもみれば、こんな日に包丁など買って帰れば、持ち帰る前に錆ついてしまいそうなものである。いかに自分が『錆びない包丁』という幻想に踊らされていたかを知って、彼女は余計に腹を立てた。
そんなものはないとは思いつつ、実はそれなりの期待を寄せていたことになる。これではまるっきり、外の世界における『非常識な事象』の構図と同じではないか。ありもしないものに寄せる期待。ばかばかしい。こんな正体の無い期待を押しつけられれば、商売人もさぞ困るだろう。
「無駄足もいいところだわ」
結局傘も買わずに濡れて歩く。もう体中おもりでもぶらさがっているのではないかというくらいに重く、濡れそぼってしまっている。
雨脚は店に入るころよりも強まり、ザアザアとやかましく音を立てるようになったが、霊夢は憮然とただ歩を進めた。――水が滴るような美女でも、このざまでは”カタナシ”もいいところだ。
空回りに終わった用足しのことはなるべく考えないようにして、早く帰って湯浴みをすることを考えるようにする。そうすると、こうも甲斐の無い状況にもかかわらず、少しだけ心が躍った。が、相変わらず歩調は鈍い。
この日は里一番の道具屋が火が消えたように静かだっただけではなく、里全体が静かだった。さながら半夏生の物忌みの如く、誰ひとり傘をさして歩く者も見当たらない。そんな中を濡れながら一人歩くのは、なんの謂れもないのに罪深いことをしているような気持ちになる。
普段は何に対しても我関せずといった立場を崩さない霊夢であるが、この時はよく目玉が動いた。人影を探しているわけでもなく彷徨う視線が―― 唐突に某何朗の軒先で所在なさげに“雨宿り”をしているなすび色の唐傘を見つけ出した。
「はっ」と疑問の吐息が洩れた。
なにせその唐傘―― もとい唐傘が時間を経て化生となった妖怪多々良小傘は、分け身とも言える少女の体をぶら下げている。ゆえに軒先で傘を差した少女が雨宿りをしているという、なんとも不可思議な構図がその場に出来あがっているのだ。
そのちぐはぐな光景に、霊夢はなんとも名状しがたい視線を数十秒送り続けたが、さすがに寒くなってきたと見えて肩をぶるりと震わせると、元のようにまっすぐ歩いて小傘の前を素通りした。
しかし、前を通り過ぎようかという時に視界の端っこだけを動かして様子を見たのが災いした。わずかコンマ数秒単位で動かされた視線が、小傘の何気ない視線と合わさってしまったのだ。
霊夢は気付かないふりをしてそのまま歩を進めたが、どうやら彼女は小傘の「焦点」と化してしまったようである。それまでただ漠然と立ち尽くしていただけの小傘は、雨の中にカラコロと下駄の音を混ぜ込みながら、霊夢の後ろをくっついて歩き始めた。
「…………」
「うらめしやー」
しばらくすると、後ろから声がする。
なんとなく言っていたという風情。いったい何がうらめしいのか。
「うーらーめーしーやー」
「…………」
興が乗ってきたのか、少しだけ声にうるおいが加わった。
そして何度も何度も、しつこく繰り返される。霊夢が素知らぬ顔で受け流せたのは最初の一、二回が限度だったに違いない。内心の憤りを隠しながら、自分は視線が合ってしまったことがうらめしい、とばかり考えていた。
やがて里も抜けようかところになると、小傘は霊夢が反応しないことをいいことに、ついに耳元で囁きかけるようになってきていた。
霊夢は辛抱たまらず足を止めた。あれほど無視すると肚で決め込んだというのに、まっすぐ振り返って小傘の左右で色が違う双眸を睨めつける。
「うらめし」
「なにがそんなにうらめしいってのよ」
我慢のしすぎで怒声が出なかった。締めていた表情が崩れる。
その覇気の無い吐息のような言葉がようやく自分に向けられたのだとわかると、小傘は一瞬だけ満足そうな表情を浮かべて、すぐに思案顔になった。
「ええと、この雨の中傘の私を無視したこと?」
「つまり雨よけにあんたを使えってことね。なかなか気が利くじゃない」
「そうじゃなくて」
「そうじゃないなら、ほかにどうとればいいのかしら」
答えを用意していなかったことは明白だった。
小傘は良くも悪くも無害な妖怪だ。人をおどかすことだけを生業としてよく人里にまで顔を出すが、考えなしの上に真にマンネリズムに則った手法しかとらないため、なかなかおどろいてはもらえないらしい。彼女の場合、「うらめしや」と言って人の背後からおどかしにかかるのは一種の礼儀のようなものであるようだ。……もっとも、新鮮味に欠ける以前の話に、そう何度も繰り返されてはただ鬱陶しいだけなのだが。
答えに窮して黙りこむ小傘を持て余して、霊夢は眉間に人差し指と中指を這わせる。多少頭痛がしていた。
「……あのねぇ。人をおどかすにしたって、もうちょいやり方があるでしょうが」
「そ、そう?」
困ったような笑顔を浮かべる小傘。
「だって、私はあんたと眼が合ってるのよ? 後ろからついて来てるのもわかってるのに、下手に後ろで恨めしいだのって繰り返されて、おどろくわけないじゃないの」
「ああ、やっぱり気付いてたのね。あんまり無視するもんだから、気付いてないのかと思ったわ」
「……あんた、おどろいてほしかったのか、構ってほしかったのか、どっちよ?」
霊夢の腐ったものを見るような視線に、小傘は「両方かなっ」と元気よく答えると、だしぬけに傘をくるっと一回転させる。傘にはじかれて舞う雨の飛沫が、霊夢の顔や胸に降りかかった。
「おどろいた? ねぇ」
「イラッとした」
まつ毛にこびりついた滴を指先で拭いながら、憮然と答える霊夢。もうすでに全身濡れネズミの所為もあって、跳ねた水に対してはなんのおどろきもなかった。
「やっぱりあなたは何してもおどろかないから、やりづらいわ。里の人間はなんでひとりも出てこないのかしら」
「知らないわよ。そんな日もあるでしょ。……それに、里の人間にしたって、あんたでおどろくようなヤツはいないんじゃない」
「そんなことないよ。最近じゃ、おどろいた? って訊くと『うん』って言ってくれる」
「あんたさ、やっぱりほんとうにばかなんじゃないの?」
「……そうかもしれない」
「頭が痛いわ」
比喩ではなく、ほんとうに頭が痛む。さっきから寒気も酷い。……これは本格的に風邪を召したか。
止まっていた足を動かす。少しおぼつかない。フラフラと歩みを再開した霊夢の後を、小傘はまだ追ってくる。
「それじゃあ、ほんとうはおどろいてないっていうの?」
「当り前でしょう。そもそも『おどろいた?』っておどろかした相手に聞いてどうするのよ。ほんとうにおどろいてたら、相手はまともな返事なんてできないんじゃない?」
「む、そうかも」
「そうかも、じゃなくて”そう”なのよ」
「じゃあ、”そうだとしたら”さ」
霊夢の足が再び止まる。
そうだとしたら? だから”そう”なのよ、と不毛な切り返しを口にしようと考えてやめた。
脳裏に過った口上を喉の奥へ通し返してやったら、自然に足が止まってしまって、同じく足を止めた小傘と無言で数秒見つめ合う羽目になる。
「そうだとしたら、私、どうやっておどかしてやればいいの?」
「……あんたね」
さきほど道具屋の中でもう吐くまいとしていた溜息が、もう堪らないと鼻から抜けていった。袋を縛る緒が切れるよりも先に底に穴が空いてしまったかのように。
「それくらい、自分で考えなさいよ」
「でも」
「でももだってもないでしょうが。私をおどかすつもりだったのよね? どうやったらおどろくんだ、っておどかそうとした相手に訊くなんて、おどろいた? って訊くよりもまぬけなことだとは思わないの?」
「そう……かも?」
「ハァ」
今日一番、はっきりとした溜息が霊夢の口から洩れた。とうとう緒もほどけた様子である。
それ以上続けるべき言葉も見つからず、霊夢は三度歩を進めようとするが、今度は二三歩進んだだけで足を止めてしまった。小傘がその場を動かずに、視線だけを投げかけてくる気配を感じ取ったからだ。
……なんだか悪いことをしている気がする。霊夢は小傘に背を向けたまま、たまたま記憶に残っていた話と、今しがた道具屋の主人とした話を思い出していた。
「……結構前に霖之助さんに聞いた話なんだけど」
「うん?」
「黙って聞いてなさい。……外の世界には、お化け屋敷っていうのがあるらしいのよ」
「お化け屋敷? 妖怪がたくさん住んでる屋敷のこと? そんなものが外にまだ残ってるとは思えないけど」
「もちろん、偽モンよ。人間が妖怪のフリをして、人間をおどかしているんだって。で、おどかされる側の人間はお金を払うらしいわ。つまりそういう商売なのね」
「え、なんでよ。おどかす側は愉しいけど、おどかされるほうはおどかされ損じゃない。それにお金払うだなんて、人間って変」
「私も同じことを思ったわよ。でも、霖之助さん曰く、『外の人間はありもしないことを想像して喜ぶフシがあるようだけど、たまにそれじゃあ満足できなくなる。だから、そういった施設で疑似的な非日常を味わって誤魔化しているのさ』、だとか」
「なにそれ、あの店主のモノマネ?」
「そんなつもりはなかったけど。……で、そういう商売が普通にあるってことは、外の人間はそこに行けばおどかされるってのを、知ってることになるじゃない?」
「たしかに」
「おどかされることを知ってるのにそんなところに行くってことは、期待しているんだわ」
「なにをさ?」
「予想を裏切られること―― うぅん、”度肝を抜かれることを”、かしら。予想してた手で来られても、おどろかない。だからまったく予想もしてなかった手でおどろかされるのを愉しみにしてるんだと思う」
「なるほど。……おどろかされて愉しいのかどうかは、私にはちょっとわかんないけどなぁ」
「私もわかんないわよ、そんなの。……まぁ、つまりはそういうことなのよ」
「えっ、つまりどういうこと?」
「あんた、ほんとうにばかね。つまりは、人をおどかすには人の予想を裏切って度肝を抜くのがいい、って話よ」
「そういう話だったかなぁ」
「そういう話だったの。客をおどろかしたい商売人は、客に言われるでもなく錆びない包丁を出すくらいの気概がなきゃ」
「……それこそなんの話?」
「こっちの話」
そこまで一気に話してしまうと、霊夢は人心地というようにゆっくりと深い呼吸を繰り返した。
口の中に梅雨特有の芳香が充ちる。あまりいい匂いではない。危うくむせかえるところだった。
「ともかく、おどかす相手である私にどうおどかせばいいか―― なんて訊いているようじゃ、あんたの商売あがったりよ?」
「商売してるつもりはないけど、そういうものなのか。……うーん、度肝を抜く、ねぇ」
小傘は眼を閉じたまま、未だ雨を吐きだし続ける空を仰ぐ。
霊夢は小傘が微動だにしないことを確認すると、黙ってその場を歩き去ろうとした。
相も変わらず衣服は雨を吸って重く、さきほどからの体調不良も相まって足取りはさらに重い。のたのたと道を行きながら時折振り返るも、小傘はやはりその場で動かずに何かを必死で考えているようだった。
「度肝を抜く…… 錆びない包丁?」
頼りない呟きが雨の音にかき消される前にかろうじて耳に飛び込んできたが、もう構っていられない。
霊夢はなんとか重い体を引きずるようにして、いつもより十倍は長く見えている帰途につくのであった。
後日。
その日も朝から陰惨な鈍色をした雲が、糸くずのような雨を飽きもせず降らせていた。
普段なら人通りもまばらになろうという道具屋のある通りは、しかしなぜか大量の人で埋め尽くされており、そのほとんどは老いも若きも女性であった。主に朱塗りの唐傘がひとつの軒先に集う様は、圧巻の一言であったと言う。
さて、この珍事の原因は、朝も早くから人里の住居という住居の戸の向こうから走りまわる下駄の音が響き渡り、それに『里一番の道具屋にまったく錆びない包丁が並んでいる』という文句がついてまわっていたことだった。それを聞き遂げた人々が、そんなものがあればさぞ便利―― とばかりに一斉に道具屋に詰めかけたのである。
これには飄逸な主人も大層肝をつぶした。錆びない包丁など一本たりとも扱ってはいないのだから、当たり前だった。彼はどうしてこんなことが起こったか考える間もなく、集まった客に「その情報は誤りだ」と説明するのに何度も大声を張り上げる羽目になる。ある客は憤慨し、ある客は呆れ、ある客はなるほど担がれたのか、と呵呵と笑って帰っていった。
引き波のように人が去っていくと、店主はなんども溜息をつきながらようやく事の次第に思案を巡らせる。
――よもや、昨日訪ねて来た巫女の仕業か?
錆びない包丁云々の話をしたのは彼女のほかにないのだから、彼女を疑うのは道理と言えた。
しかし店主は、その彼女が無害である意味可愛らしい妖怪に、無暗に知恵を与えてしまった―― ということは知る由もないのである。
かくしてなんの落ち度もない店主は、おどかされ―― もとい大いに“おびやかされる”こととなったのだった。
さらにあだしごとを言えば、この日博麗霊夢は早朝に走りまわるような真似は出来ようはずもなかった。長時間雨に濡れていたことが幸いして、季節外れの大風邪を引いてしまっていたのである。
彼女がようやく表に出てきて、めずらしく憤慨した様子の道具屋店主から珍騒動の顛末を聞かされたのは、カタシログサが霧の湖周辺を一気に白く染め上げたころのことだった。
キャラクターがみんないい味出してて好きなSSです
タグ登録には特に決まりはないので、どっちでもいい気がしますね
登場人物の目線が、微妙にかみ合うようで合わない、その感じがいいです。
魔理沙の父親は大抵頑固親父に書かれることが多いですけれど、こういう軽快さのある人物も面白いですね。