彼女が望めば、何もかも与えられた。
お気に入りのリボン。何でも言う事を聞く従者。そして、魔界全土を掌握する神の愛。
彼女は――幼きアリスは、幸せだった。自分の欲しいものがわからなくても、何もかもが手に入る。
家族、友人、究極の魔法を記した魔導書、自分の部屋……。
温もりはいつも彼女を包み、最上を与え続ける。
だが見方を変えれば、それは彼女を閉じ込める檻だった。
言わずとも伝わる想いは、彼女から思考を奪う。絶え間なく与えられる愛は、それだけ彼女を縛る。
だがそれでも彼女は幸せだった。なぜなら、それを知ることができない。
――彼女には、自我がなかった。
自我。別に、彼女が人形の如き少女だったというのではない。
その点、神は優秀だった。家族愛を持ち、友愛に富み、表情豊か。一見して完璧な少女。まさに、至高の少女。
そう、神にとって『それ』は確かに至高だった。たとえ彼女が、与えられた役割以外には動かないのだとしても、神は大いに満足していた。それだけに、彼女は幸せだった。
だが、幸か不幸か、彼女は自我を得てしまった。
寒い夜のことだった。神――彼女にとっては母である――と寝る前のキスをして、別れの挨拶を済ませた彼女は、いつになく冷たいベッドに潜り込んだ。
なかなか寝付けなかった。幾度か姿勢を変え、胎児のように体を丸めてみても、眠気は訪れない。
魔界の夜は長い。いつしか彼女は、天蓋から垂れるカーテンを眺めながら、退屈しのぎに胸の内で言葉を紡いでいた。
今日あった出来事。したこと、されたこと。その暖かさ。そしてその中に、唐突にわいた疑問。
それを自分へと投げかけ、自答した時、彼女は自分を真に認識した。
そして、自分の境遇までもを正しく認識した。
その日から、彼女の世界は一変した。
自分を包む温もりは、自分の歩みを阻む檻。注ぎ込まれる愛情は、しかし彼女にではなく、彼女の横を落ちていく。
母は自分を見ていない……そう、彼女は思った。
それは、彼女の思い違いではあったが、彼女を見つめ続ける母が、彼女の思い違いを正すことはついぞなかった。
彼女の足元に広がる薄い膜をうつ愛情は、たやすく膜を突き破り、彼女をまっさかさまに落としていった。
愛情という名の底なし沼に。
もはや彼女は、確たる意思を持って、自ら歩むことができる。
だが神は、彼女の母は、それを奪おうとする。彼女は愕然とした。
今までにそんな仕打ちを受けたことなど、ただの一度もなかったからだ。
そしてそれ以上に、ただ一つ求めた自由への羨望を固め、追いかけて行こうとした。いまや、与えられるものは彼女の枷だ。どんなに求めても得られないのは、それがあるせいだ。
何もかもを与えられた少女は、それゆえの虚無感を胸に、日々を過ごしていった。
芽生えかけた自我は胸の中に戻る。泥沼に沈みきった彼女は、また与えられた役割のために動く『至高の少女』へと戻っていった。
遠く遠く、小さくなっていく出口。彼女の求めたもの。それごと彼女を引き上げてくれる者は、どこにもいなかった。
――魔界の、どこにも。
それはまた、ある日のことだった。魔界で暴れる侵入者を退治する役割を得た彼女が現場に向かった時、彼女は『それ』と衝撃的な出会いをはたした。
それは、人間。どこまでも生命に満ちた、とてつもなく大きな存在。
彼女には、それらがどうしようもなく眩しく見えた。大きく動くそれらは、たやすく彼女の世界を壊し、また、いとも簡単に彼女を引き上げて見せた。すぽんと、気持ち良いくらいに。
絶対だと思えた母まで打ち倒したそれらは、彼女に新たな世界を与えた。
『与えられる』というのは、今の彼女にとって煩わしいものだったが、天から降り注ぐ外の世界の光が彼女の全身を満たすと、どうでもよくなった。
そして彼女は、人間の虜になった。
なぜ与えられずに歩める? どうして貪欲に求められる?
興味は尽きず、彼女は魔界を飛び出した。与えられたものは投げだして、自らの手で作り上げたものだけを手にして。
そうして、今。魔法の森に、一人の魔法使いがいる。
人形の如き精巧な美しさを持つ少女は、しかし、どこまでも人間くさかったという。
お気に入りのリボン。何でも言う事を聞く従者。そして、魔界全土を掌握する神の愛。
彼女は――幼きアリスは、幸せだった。自分の欲しいものがわからなくても、何もかもが手に入る。
家族、友人、究極の魔法を記した魔導書、自分の部屋……。
温もりはいつも彼女を包み、最上を与え続ける。
だが見方を変えれば、それは彼女を閉じ込める檻だった。
言わずとも伝わる想いは、彼女から思考を奪う。絶え間なく与えられる愛は、それだけ彼女を縛る。
だがそれでも彼女は幸せだった。なぜなら、それを知ることができない。
――彼女には、自我がなかった。
自我。別に、彼女が人形の如き少女だったというのではない。
その点、神は優秀だった。家族愛を持ち、友愛に富み、表情豊か。一見して完璧な少女。まさに、至高の少女。
そう、神にとって『それ』は確かに至高だった。たとえ彼女が、与えられた役割以外には動かないのだとしても、神は大いに満足していた。それだけに、彼女は幸せだった。
だが、幸か不幸か、彼女は自我を得てしまった。
寒い夜のことだった。神――彼女にとっては母である――と寝る前のキスをして、別れの挨拶を済ませた彼女は、いつになく冷たいベッドに潜り込んだ。
なかなか寝付けなかった。幾度か姿勢を変え、胎児のように体を丸めてみても、眠気は訪れない。
魔界の夜は長い。いつしか彼女は、天蓋から垂れるカーテンを眺めながら、退屈しのぎに胸の内で言葉を紡いでいた。
今日あった出来事。したこと、されたこと。その暖かさ。そしてその中に、唐突にわいた疑問。
それを自分へと投げかけ、自答した時、彼女は自分を真に認識した。
そして、自分の境遇までもを正しく認識した。
その日から、彼女の世界は一変した。
自分を包む温もりは、自分の歩みを阻む檻。注ぎ込まれる愛情は、しかし彼女にではなく、彼女の横を落ちていく。
母は自分を見ていない……そう、彼女は思った。
それは、彼女の思い違いではあったが、彼女を見つめ続ける母が、彼女の思い違いを正すことはついぞなかった。
彼女の足元に広がる薄い膜をうつ愛情は、たやすく膜を突き破り、彼女をまっさかさまに落としていった。
愛情という名の底なし沼に。
もはや彼女は、確たる意思を持って、自ら歩むことができる。
だが神は、彼女の母は、それを奪おうとする。彼女は愕然とした。
今までにそんな仕打ちを受けたことなど、ただの一度もなかったからだ。
そしてそれ以上に、ただ一つ求めた自由への羨望を固め、追いかけて行こうとした。いまや、与えられるものは彼女の枷だ。どんなに求めても得られないのは、それがあるせいだ。
何もかもを与えられた少女は、それゆえの虚無感を胸に、日々を過ごしていった。
芽生えかけた自我は胸の中に戻る。泥沼に沈みきった彼女は、また与えられた役割のために動く『至高の少女』へと戻っていった。
遠く遠く、小さくなっていく出口。彼女の求めたもの。それごと彼女を引き上げてくれる者は、どこにもいなかった。
――魔界の、どこにも。
それはまた、ある日のことだった。魔界で暴れる侵入者を退治する役割を得た彼女が現場に向かった時、彼女は『それ』と衝撃的な出会いをはたした。
それは、人間。どこまでも生命に満ちた、とてつもなく大きな存在。
彼女には、それらがどうしようもなく眩しく見えた。大きく動くそれらは、たやすく彼女の世界を壊し、また、いとも簡単に彼女を引き上げて見せた。すぽんと、気持ち良いくらいに。
絶対だと思えた母まで打ち倒したそれらは、彼女に新たな世界を与えた。
『与えられる』というのは、今の彼女にとって煩わしいものだったが、天から降り注ぐ外の世界の光が彼女の全身を満たすと、どうでもよくなった。
そして彼女は、人間の虜になった。
なぜ与えられずに歩める? どうして貪欲に求められる?
興味は尽きず、彼女は魔界を飛び出した。与えられたものは投げだして、自らの手で作り上げたものだけを手にして。
そうして、今。魔法の森に、一人の魔法使いがいる。
人形の如き精巧な美しさを持つ少女は、しかし、どこまでも人間くさかったという。
あれはしかし、自分の中の愛情とか愛着とか、試しているのかもしれませんね。
そんなことを、拝読しつつ思いました。