ミヤコは夢を見続ける。
何時頃か、彼女は永遠の眠りに就いた。最早目が覚めることはない。
眠りには体を休めるレム睡眠と脳を休めるノンレム睡眠に二種類がある。一般に夢を見るのはレム睡眠時と言われるがノンレム睡眠時でも見ることがある。ただし内容はより曖昧で覚醒時には記憶を失う。
もっとも彼女、覚醒とは無縁であるからして、常時夢に犯され続けている。
しかし永遠に起きないのであれば体を休める必要もなく、したがってレム睡眠に至らないのではないか。ところが起きないだけで運動しないとは限らないのだ。彼女は夢遊病患者であり体は意思とは関係なく動く。
一方でレム睡眠行動障害も併発している。こちらでは夢の内容と同じ行動をとる。
ところで脳の腐敗が進むほどにレム睡眠の時間をノンレム睡眠が上回るようになっていった。つまり、睡眠時の行動の無意識化が進行したということだ。それは彼女にとって幸福でもあり不幸でもあった。
何故幸福か、というとレム睡眠時の夢の殆どは悪夢であったからだ。何故不幸か、ということについては言うまでもない。
ミヤコは屍の上を歩く。テンプレートと化した悪夢の一つだ。あまりに繰り返されるのは、それが深く刻まれた記憶を基にしているからかもしれない。
赤い川に築かれた赤い人間の山。そこでは神々が祟り殺され、仏が昇天していた。何時か何処かで彼女が見た、悲しい悲しい宗教戦争。この世に体現された地獄。
矢の雨が降る。それにうたれながら、彼女は血の雨を降らせる。しかし足取りは止まらない。倒れては起き上がり、倒れては起き上がり、ひたすら歩く。
何の為に、何処へ向かっているかさえわからない。彼女はただただ歩く。そうしている内に青い蛾に憑かれる。蛾はどんどん集まってきて数が増やし、たちまち彼女の全身を覆い尽くす。
蛾の大群はやがて人の形を成し、彼女を抱き留める。そして口付けをする。
「オヤスミミヤコ」
「你早芳香」
この夢は決まってここで再生を止めた。他の夢を見ている間に巻き戻されて、またの機会に流される。
ミヤコは稀に明晰夢を見ることができた。明晰夢とは夢を見ている主体が内容をある程度思い通りに変化させることができる夢のことである。
この時彼女は決まって詩歌を作った。情景を思い浮かべ、それに即して詠む。それだけが、彼女に残された意思であり趣味であり欲であったと言えようか。
ごく稀には彼女が上の句を詠んだ時に、他の誰かが下の句を付け加えた。明晰夢と言えどそれは彼女の意思ではなく、彼女以外の意思の介入によるものだった。
赤い門を見上げた時に「気霽風梳新柳髪」と詠めば、赤い鬼神曰く「氷消波洗旧苔鬚」と。
青い湖を見下した時に「三千世界眼前侭」と詠めば、青い天女曰く「十二因縁心裏空」と。
彼女は夢を見る度これを復誦し、耽溺した。それだけが、彼女に残された慰めなのか。
ミヤコは夢の世界で孤独だった。
際限なく繰り返される悪夢の間に人と触れ合えたとしても、所詮は夢。全ては彼女自身が無意識に作り上げた幻影に過ぎない。
それに仮初の癒しの機会すら、回ってはこない。彼女の夢は毒で満たされていた。
これも定番の夢だが、対岸に立っている赤い人が「氷消波洗旧苔鬚」と口ずさむのが聞こえてくることがある。
彼女は赤い人が件の詩歌を知っていることに興味を持ち、青い川に架かる橋を渡って会いに行こうとする。しかし必ず途中で橋に穴が開いて川に落ち、いつもその人とは会えない。
いくらもがいても川を渡りきることはできず、波に洗われて別の夢へと至る。
逆に彼女が「気霽風梳新柳髪」の句を口ずさんでいると、対岸の赤い人が橋を渡って向かってくる場合もあった。
しかし赤い人もまた決して渡りきることができない。途中で片腕が千切れ、倒れる。腕だけが風に攫われて彼女の下に辿り着く。それに触ろうとすると、彼女の腕までもが削り取られていくので、怖くなって投げ捨ててしまうのだ。
あるいは腕から逃れようとして青い川に飛び込むこともある。そうすると深い眠りに堕ちるので、彼女は不思議と安心を覚えるのであった。
こうして彼女は同じ夢を繰り返すたび思い知る。自分は永遠に一人だということを。
ミヤコはいつからか墓地を守るようになった。そこに彼女の意思はない。
だがある時、彼女は久々の明晰夢に突入した。墓地には紅葉の絨毯が敷かれ真っ赤に爛れている。
例のごとくその光景を詩に詠もうとする。しかし出てきたのはそれとは関係ない、かつて詠んだ句だった。
「守家一犬迎人吠」
彼女の脳の腐敗はどんどん進行し、思考レベルは低下していく。やがてはただ何も考えず吠えるだけの駄犬と化すだろう。その前に彼女は何とか詩を紡ごうとするが、繰り返しをなぞることしか叶わない。
「気霽風梳新柳髪」
「氷消波洗旧苔鬚」
彼女がいつもの上の句を吟じると、いつもの赤い人が現れ下の句を加えた。だがここには二人を隔てる青い川はなく、崩れ落ちる橋もない。恐ろしき片腕も最初からなかった。
赤い人が一歩一歩彼女に近づく。やっと、望んだ逢瀬を夢見ることができる。なのに、彼女の足は一歩一歩後退し始めた。
見えない鎖に引っ張られ、彼女は茨の森へと入っていく。暗い方へ、黒い方へ。その後を赤い炎が木々を燃やしながら追っていく。
だがそれを青い雨が打ち消した。彼女の影も赤い人の影もすべて飲み込まれ、有耶無耶になってしまう。
彼女は森の中で迷子になっていたが、よく知る青い人を見つけてその胸に飛び込んだ。そうしてまた、深い眠りへと誘われていく。鎖を繋いだ眼前の青い人の思惑通りに。しかし、最初に一歩下がったのは彼女の意思に他ならない。
もし赤く染まるならば一瞬で悪夢からは解放されるだろう。けれど青く染まってゆったり昏睡していく方が安心できることも彼女は知っていた。どちらを選べば不幸中の幸いか。この時こそ青に傾いたものの、次の機会ではどうか……
ただどちらにせよ、彼女が目覚めることだけは決してない。
僵尸心閑緩々眠。
ミヤコは今日も夢を見る。
何時頃か、彼女は永遠の眠りに就いた。最早目が覚めることはない。
眠りには体を休めるレム睡眠と脳を休めるノンレム睡眠に二種類がある。一般に夢を見るのはレム睡眠時と言われるがノンレム睡眠時でも見ることがある。ただし内容はより曖昧で覚醒時には記憶を失う。
もっとも彼女、覚醒とは無縁であるからして、常時夢に犯され続けている。
しかし永遠に起きないのであれば体を休める必要もなく、したがってレム睡眠に至らないのではないか。ところが起きないだけで運動しないとは限らないのだ。彼女は夢遊病患者であり体は意思とは関係なく動く。
一方でレム睡眠行動障害も併発している。こちらでは夢の内容と同じ行動をとる。
ところで脳の腐敗が進むほどにレム睡眠の時間をノンレム睡眠が上回るようになっていった。つまり、睡眠時の行動の無意識化が進行したということだ。それは彼女にとって幸福でもあり不幸でもあった。
何故幸福か、というとレム睡眠時の夢の殆どは悪夢であったからだ。何故不幸か、ということについては言うまでもない。
ミヤコは屍の上を歩く。テンプレートと化した悪夢の一つだ。あまりに繰り返されるのは、それが深く刻まれた記憶を基にしているからかもしれない。
赤い川に築かれた赤い人間の山。そこでは神々が祟り殺され、仏が昇天していた。何時か何処かで彼女が見た、悲しい悲しい宗教戦争。この世に体現された地獄。
矢の雨が降る。それにうたれながら、彼女は血の雨を降らせる。しかし足取りは止まらない。倒れては起き上がり、倒れては起き上がり、ひたすら歩く。
何の為に、何処へ向かっているかさえわからない。彼女はただただ歩く。そうしている内に青い蛾に憑かれる。蛾はどんどん集まってきて数が増やし、たちまち彼女の全身を覆い尽くす。
蛾の大群はやがて人の形を成し、彼女を抱き留める。そして口付けをする。
「オヤスミミヤコ」
「你早芳香」
この夢は決まってここで再生を止めた。他の夢を見ている間に巻き戻されて、またの機会に流される。
ミヤコは稀に明晰夢を見ることができた。明晰夢とは夢を見ている主体が内容をある程度思い通りに変化させることができる夢のことである。
この時彼女は決まって詩歌を作った。情景を思い浮かべ、それに即して詠む。それだけが、彼女に残された意思であり趣味であり欲であったと言えようか。
ごく稀には彼女が上の句を詠んだ時に、他の誰かが下の句を付け加えた。明晰夢と言えどそれは彼女の意思ではなく、彼女以外の意思の介入によるものだった。
赤い門を見上げた時に「気霽風梳新柳髪」と詠めば、赤い鬼神曰く「氷消波洗旧苔鬚」と。
青い湖を見下した時に「三千世界眼前侭」と詠めば、青い天女曰く「十二因縁心裏空」と。
彼女は夢を見る度これを復誦し、耽溺した。それだけが、彼女に残された慰めなのか。
ミヤコは夢の世界で孤独だった。
際限なく繰り返される悪夢の間に人と触れ合えたとしても、所詮は夢。全ては彼女自身が無意識に作り上げた幻影に過ぎない。
それに仮初の癒しの機会すら、回ってはこない。彼女の夢は毒で満たされていた。
これも定番の夢だが、対岸に立っている赤い人が「氷消波洗旧苔鬚」と口ずさむのが聞こえてくることがある。
彼女は赤い人が件の詩歌を知っていることに興味を持ち、青い川に架かる橋を渡って会いに行こうとする。しかし必ず途中で橋に穴が開いて川に落ち、いつもその人とは会えない。
いくらもがいても川を渡りきることはできず、波に洗われて別の夢へと至る。
逆に彼女が「気霽風梳新柳髪」の句を口ずさんでいると、対岸の赤い人が橋を渡って向かってくる場合もあった。
しかし赤い人もまた決して渡りきることができない。途中で片腕が千切れ、倒れる。腕だけが風に攫われて彼女の下に辿り着く。それに触ろうとすると、彼女の腕までもが削り取られていくので、怖くなって投げ捨ててしまうのだ。
あるいは腕から逃れようとして青い川に飛び込むこともある。そうすると深い眠りに堕ちるので、彼女は不思議と安心を覚えるのであった。
こうして彼女は同じ夢を繰り返すたび思い知る。自分は永遠に一人だということを。
ミヤコはいつからか墓地を守るようになった。そこに彼女の意思はない。
だがある時、彼女は久々の明晰夢に突入した。墓地には紅葉の絨毯が敷かれ真っ赤に爛れている。
例のごとくその光景を詩に詠もうとする。しかし出てきたのはそれとは関係ない、かつて詠んだ句だった。
「守家一犬迎人吠」
彼女の脳の腐敗はどんどん進行し、思考レベルは低下していく。やがてはただ何も考えず吠えるだけの駄犬と化すだろう。その前に彼女は何とか詩を紡ごうとするが、繰り返しをなぞることしか叶わない。
「気霽風梳新柳髪」
「氷消波洗旧苔鬚」
彼女がいつもの上の句を吟じると、いつもの赤い人が現れ下の句を加えた。だがここには二人を隔てる青い川はなく、崩れ落ちる橋もない。恐ろしき片腕も最初からなかった。
赤い人が一歩一歩彼女に近づく。やっと、望んだ逢瀬を夢見ることができる。なのに、彼女の足は一歩一歩後退し始めた。
見えない鎖に引っ張られ、彼女は茨の森へと入っていく。暗い方へ、黒い方へ。その後を赤い炎が木々を燃やしながら追っていく。
だがそれを青い雨が打ち消した。彼女の影も赤い人の影もすべて飲み込まれ、有耶無耶になってしまう。
彼女は森の中で迷子になっていたが、よく知る青い人を見つけてその胸に飛び込んだ。そうしてまた、深い眠りへと誘われていく。鎖を繋いだ眼前の青い人の思惑通りに。しかし、最初に一歩下がったのは彼女の意思に他ならない。
もし赤く染まるならば一瞬で悪夢からは解放されるだろう。けれど青く染まってゆったり昏睡していく方が安心できることも彼女は知っていた。どちらを選べば不幸中の幸いか。この時こそ青に傾いたものの、次の機会ではどうか……
ただどちらにせよ、彼女が目覚めることだけは決してない。
僵尸心閑緩々眠。
ミヤコは今日も夢を見る。
この三人のシリアス系は原作でも見たいけどあのほのぼの雰囲気には似合わないんだよなぁ・・・w