西行寺幽々子に叩き起こされたのは冬と春の境界、冥界に桜咲く時であった。
まだまだ厳しい寒さを残していたものだからもう少し寝ていたかったと抗議したが、何でも私の古い知り合いが復活するとかで早く目を覚ませの一点張りだった。
旧知の者とは一体誰のことだろうか。長い冬眠明けで惚けていたこともあって咄嗟に思い出せなかったところ、会いに行けばわかる、従者の魂魄妖夢を向かわせたから後を付ければいい、として送り出された。
辺りは不思議なくらい神霊で溢れていた。それもただ漂っているのではなくどこかへ向かっている。それは妖夢の向かった先と一致していた。その後を追いながら私は懐かしい匂いを嗅ぎ取っていた。
異変の春。しかし最近自分と幽々子が起こしたソレを思い出したわけではない。それよりずっと前の、千年以上前の……ここ幻想郷ではないどこかの春。
そしてその場所がどこであるかを思い出すより先に『古い知り合い』が眼前に現れた。
姿形は当時とは少々変わっていたが、一目で誰かわかった。驚きはなかった。彼女がこうして復活する準備をしていたことを思い出したからだ。そうかこの時が来たのか、と少しの感慨に耽りつつ声をかけようとしたところ、向こうが先に口を開いた。
「初めまして。私はトヨサトミミノミコと言います。貴方……そうかここの管理者ですか。これから厄介になることになりそうです、ヤクモユカリさん」
完全にこちらの再会の挨拶を封じられてしまった。そうして私は彼女の話に合わせざるを得なくなった。
「こちらこそよろしくお願いします、ミコさん。目覚めたばかりのようですが私のことをご存知なので?」
「私は人の欲を覚ることができるのですよ。欲を知ればその者が何者かわかります」
それは知っている。だから昔の馴染みだとは言い出せない。
「それはそれは素晴らしい能力ですね。ところでミコさんの名前はどう書くのですか?」
「ええと……こうですね」
彼女は木簡と筆をさっと取り出して、自分の名前を書いて見せた。そこには『豊聡耳神子』とあった。それでもう現状を把握するには十分だった。
「神子……今の貴方は神子なんですね。因みに私は八つの雲の紫色で八雲紫です。初めまして、豊聡耳神子」
私は八雲紫です、と繰り返し言った。その意味を相手がわからないわけがない。彼女は少し困ったような寂しいような、そんな表情をして会釈した。『豊聡耳神子』は私の『古い知り合い』ではなかった。それさえわかればもう用はない。私は同様に会釈した後そそくさと退散した。
自分の屋敷に戻るまでの間、忘れかけていた記憶が次々と鮮明に浮かんでいた。それに混じって一つの質問がさも大事なことの様に頭の中に現れる。
「紫はさ、いつから八雲紫なんだ?」
知的好奇心の塊のような人間、霧雨魔理沙が最近した質問だ。その時はなんとなく答えを濁したが、ちょうどいい機会だしあとで教えてやってもいいかもしれない。八百年前、生前の幽々子から訊かれた時にした話を同じようにしてやればいい。
話は遡ること千八百年前、『八雲紫』以前の私と『ミコ』との関係の起こりとともに始まる。
何のために生まれて何をして生きるのか。いつからかそういった疑問を抱えるようになって、その時にはすでにこの極東の島にいた。
ある哲学者は言った。疑え、ただし疑っている自分というのは疑いようがない。我思我有と。ならば思索するようになったこの時に私という個が確立していたことになる。
けれど個としての名前はなかった。物の怪などと呼ばれたがそれは種としての名前であった。暗闇に潜めば暗闇の妖怪と呼ばれ、影に潜めば影の妖怪と呼ばれ、隙間に潜めば隙間の妖怪と呼ばれた。
ちなみに私はその最後の呼ばれ方が多かった。よく人間の住居に潜んでいたから自然と隙間妖怪という扱いになったのだが、ではなぜそうしていたのか。それには先程の命題が絡んでくる。
どうして生まれてきたのか。考えに考えていたら一つの仮説……というよりはそれを調べるための指針なのだが、妖怪は人の心が生み出す幻想から生まれるのではないか、では人を知れば妖を知り己を知ることができるのではないか、と思いついた。
そうなれば人間の集落に接近して観察しよう、というわけである。勿論見つかったなら追い払われる。だから隙間に隠れて……である。
ところがこれは中々上手くいかない。というのも当時の人間の住居なんて藁の屋根でできた粗末なもので狭く、隠れるところは壺の中とかその程度だ。昼間はすぐに見つかった。見つかっても構わず居座れるほどの実力も当時はなかった。
かといって夜は人間が活動していない。そこで私は人間観察を行うために考えを練らねばならなくなった。どんどん考えることが増えていったが、そうして知性というものが鍛えられていったことを後で知った。
思い切って人間の幼子を攫ってみたりもした。そうすると神隠しなどという肩書が追加されたがそれはまた別の話である。けれど攫ったところで泣き喚かれるだけで会話にもならないため、食事にしてしまう他なかった。人間を食うことは人間の世界では普通ではないことを遺族の反応から知った時、そうか人間を食うからこそ私は妖怪なんだ、とわかったのは収穫の一つではあったが。
もう一つの収穫としては人間の身体の作りがわかったことだった。おかげで私は人間の姿を模す、ということを覚えた。人に化けるのはとくに努力もせずにできてしまったことで妖怪、いや少なくとも自分は不定形だということを知った。
もっとも姿だけ真似たところで人間として人間の村で生活することは中々難しかった。試行錯誤を繰り返し人間らしく振る舞うノウハウを徐々に身に付けていった。すなわち人間とは何たるかがわかってきたということである。人を知れば知るほど人を知るための環境を得られる。別に人間についてに限ったことではなく、あらゆる雑多な知識が入ってくる。そうするとますます思考する能力自体も鍛えられていくわけで、良い循環だ。
しかし現実はそう甘くない。私が人間社会に溶け込もうと努力する一方で、人間側にもそうした妖怪を見破り退治するための技を身に付けた者が現れた。それがいわゆる『ミコ』――巫女というわけだ。私もまた度々彼女らに敗れ辛酸を舐めさせられたのである。
巫女は神の力を借り妖を退けるが、同時に人を導く村落の長でもあった。村の規模が大きくなりやがて国と呼ばれるようになったのが千八百年前ぐらいで、不思議なことに人間の国同士が様々な利権を巡って争うようになっていた。例のごとく何か手はないかと巫女対策を考えていた私は、その諍いにこそ付け入る隙があるのではないかとに思い至った。
ちょうど目を付けていた人物がいた。ある国を治める巫女の弟である。その者は大層な野心家で人知れないところで酒を飲みつつ姉を思うがままに操って国を動かしたい、けれど姉は驕った態度で言うことを聞かない、とぼやいていた。それを耳にしていた私は彼に近づき、こう囁いた。
「私と姉君とをすり替えよ。私は物の怪ゆえ姉君の姿を取ることができる。私は政治などに興味はないので君が巫女の言葉を捏造し国を治めるがよい」
その日も弟君は酔っ払っていたこともあって、あっさり話に乗ってきた。翌日彼はすぐ行動に移した。いくら妖怪相手には絶大な力を振るう巫女であっても同族、特に肉親に対しては警戒心が薄いようだった。仇敵の間抜けな死に顔を見て、私は胸が空くような気持ちで化けた。
こうして巫女を消してその地位を手に入れることで、ついに人間社会の、それもトップに居座ることに成功したのである。もっとも弟君が用心深い性格で、私が偽物の巫女とバレないように人に会わせることを制限したため、人間観察という面ではあまり実りはなかった。とはいえ知識は格段に得られるようになったし、何よりも巫女との戦いに割いてきた時間を思索に使えるようになったのはプラスであった。
弟君はやたらと戦争をした。そんな彼を見ていて、人間はなぜ人間同士争うのか、人間の敵は妖怪ではなかったのか、そういった疑問が新たに浮かび上がった。せっかくなので直接訊いてみたところ、彼は利のためだと答えた。妖怪は自然災害のようなもので防ぐことは必要だが、倒しても得られるものがない。しかし隣の国を倒せば土地と米と人が得られると。
彼の損得勘定などはどうでもいいが、問題は彼の妖怪に対する考え方である。すなわち自然災害のようなもの、という見方だ。それまで私は人間が何か必要に迫られて妖怪という幻想を作りだした、ということを前提にしていた。それは人間の歴史が始まるとともに自我に目覚めた自身の経験に基づくものであった。しかし当の人間にとっては妖怪とは自然のもので人為的なものではないというのだ。
それはこの男固有の考え方に過ぎないのかもしれない。けれど同様に私の考え方も固有のものに過ぎないわけで真理に近づいているようで遠ざかっていく可能性もある。今までの考えを改めるいい機会だった。
毎日思考実験を繰り返していたが、それでも尚暇を持て余した。たまに巫女の真似事をして弟君を手助けしてやったりもしたが、これが中々面白く、もっと本格的に巫女の技を研究したいと思った。スタンスとしては件の人を知れば妖を知り己を知ると似ている。敵の使う技を身に付ければ自分の身を守る術にもなろうというものだ。
ある時弟君が海の向こうにある大国魏の威光を借りようと使いを送ったことがあって、向こうの進んだ技術が入ってきた。その中には占術や呪術の類も含まれていた。それらに魅了されたのは言うまでもない。日に日にこの異国の地へ行って色んな知識・技術を吸収したいという欲が強まっていた。
そんな思いが募る内、共犯者の弟君が死んだ。国が乱れた。そして新たな巫女が現れて偽りの巫女は駆逐された。
命からがら逃げおおせた私は大陸へと渡った。冬から春へと変わる頃、桜が咲く時期のことである。後世の歴史書では時代区分の境界とされた。
それからこの島に戻ってきたのは約千四百年前のことだ。それまで私は中華と呼ばれる大陸を練り歩いて見識を広めていた。
易や鬼道などを身に付けられたのも勿論だが、最大の収穫は自分の能力を知ったことだった。
「お主が隙間に溶け込めたり人に化けたりできるのは物事の境界を弄れるからのようじゃな。万物は本来一つのものでソレを境界で区切ることにより個々が成り立っておる。境界を敷いたり取っ払ったりすることでお主は別のお主へとなれるのであろう」
これは成り行きでしばし行動を共にすることになったある賢者の言葉だ。それを聞いて初めて自分が今まで当たり前のように行ってきたことの仕組みを理解した。仕組みを知らずして技を使うのと知って使うのには雲泥の差がある。それは応用ができるかできないか、ということに繋がる。その老賢人はこうも言った。
「お主は妖怪にしては珍しく可能性がある。大抵の妖怪には成長がない。生まれた時からその妖怪として完成されているようだ。しかしお主には成長する余地がある。これは人間に近い性質じゃ。人間を知ることは妖怪たる己を知る手がかりになるかもしれぬと言っておったな、それは正しいかもしれん。なにしろお主は妖怪か人間かも定かではない混沌よ」
自分には可能性がある。その言葉は私を道の追求へと駆り立てた。そしてあらかた諸学を修めた時、一度は追い落とされた古巣へ戻る決心をした。もう『ミコ』などにその身を脅かされることはないという自信、実際にはただの驕りであったが、に満ち溢れていたのだった。
中華北方の新興国隋を後にして半島にある百済という国に辿り着いた私は、そこの王に仕える日羅という官僚があの島国出身であること、その者が島国の長の要請でまもなく帰国予定にあることを耳にした。ならばこれを利用しない手はないというわけである。
彼に小間使いとして一月仕えた後、始末して成り変わった。多少の違和感を周囲が感じたとしても、すぐにこの国を出て行くのだから問題ない。見破られることはなく全ての手続きは終えた。
こうして『日羅』は故郷に帰ってきた。初夏の凱旋は否応なしに晴れやかな気分にさせた。
流石に数百年も経てば様相も変わるもので、私が国を治めていた頃の群雄割拠の時代は過ぎ去りヤマトという国が諸国を統一していた。流石に東の方は無法地帯らしかったが。そして国が変われば統治者も変わる。かつて国々を支配していた巫女は姿を消し、男の大王が君臨していた。
これには少々驚いたが、巫女がいないとなるとむしろ好都合である。時の大王は神の力を借りて妖怪を退治するような能力は備わっていない俗人で、何の疑いもなく私を百済の高官『日羅』として迎え入れた。張り合いがないとさえ感じた。
それから私は日羅の父と所縁のある一族で大王の家臣、大伴氏の屋敷に食客として居座ることにした。その間大王の相談に応じたり、仏教を厚く信じていた日羅がやりそうなこととして寺を建てる指示を出したりする必要はあったが、そういった業務以外では主に情報収集に時間を費やすことができた。
まずこの国は大王を中心にその一族と由緒ある家柄の臣下達の支えによって治められていること。臣下達の中でも特に蘇我氏と物部氏という豪族が力を持っていること。その二つは仏教を受け入れるか否かで対立関係にあること。
とりわけ蘇我氏についての噂はよく聞いた。物部氏や大伴氏と違い新興勢力であるにもかかわらず今では大王に迫る権勢を誇っているのには裏で敵対者を暗殺しているからだとか、大王家と血縁関係を結ぶのはいずれ自ら大王になろうとしているためだとか、渡来系の一族で大陸の進んだ文化を保有しているとか、若き当主の馬子は愛妻家だとか、色々だ。
もっともそんなことは私の興味をたいして惹かなかった。立場上蘇我馬子と会う機会はそれなりにあったが、政治の話や宗教の話などをされてもこちらは適当に頷くしかないのである。中々に気前のいい人物で美味しい酒を振る舞ってくれた時には気をよくしたが。
ところでその馬子との話の中で一つ面白い情報を得た。それは大王の一族のうち、大王以外の男には『ミコ』――皇子、女には『ヒメミコ』――皇女という肩書が付く、ということだ。『ミコ』は巫女ではなくなったが皇子としていまだ国を治める立場にある。そして『ヒメミコ』とは私がかつて成り代わった巫女の名前であった。
それを知った時、なんという因果だろう、と思うと自然に笑いがこぼれた。事情を知らない馬子は不思議そうに首を傾げたのもまた私にはおかしくて、クスッときたのだった。
これをきっかけに私は皇子皇女達となるべく会うようにした。中には名前の通り巫女としての能力を持つ者がいるかもしれない。巫女は妖怪の敵、実際に出くわしたら大変だ。だったらなんで……というのは結局のところ飽きてきたのだ。ただ食客として大伴の屋敷で暮らす日々に。本来の目的を忘れて刺激を求めたくなるのも仕方なかった
しかし期待とは裏腹に誰もかれも普通の人間だった。やはり私の知る『ミコ』は絶滅してしまったのか。つまらないなと思いながらも何だかんだで安心し、宮中での人間観察につとめ、半年が経とうとしていた。
そんな雪の降る季節の頃である。私は『ミコ』と出会い、一度分解された。
闇夜に紛れて、ひたすらに駆ける。追手はすぐそこまで迫っていた。
「出てこい逆賊日羅! 成敗してくれる!」
遠くで私を呼ぶ声がする。『日羅』が連れてきた百済人のものだ。だがそんなことはどうでもいい。彼らは私が築いた結界の中へ入れないのだから。
しかしどうにも中に入れるものが一人いた。足音がどんどん近づいてくる。本能が警告していた。コイツは危険だ。ハッキリ言って恐怖していた。
不意に足音が消え、代わりにヒュンと鋭い音が鳴った。矢を放ったのかと思い慌てて回避行動を取ろうとしたその時、だった。轟音と共に私の体を雷が貫いた。
妖怪の体は人間よりはるかに頑丈ゆえ致命傷には至らない、とはいえ直撃を受けて、私はその場に倒れこむしかなかった。そして顔をあげた時にはすでに目の前に剣が振り下ろされようとしていた。
とっさに防御しようと護符をかざすも、札ごと腕を切り裂かれた。私は激痛に顔を歪めながら目の前で見下ろしているそいつを睨んだ。
その顔には見覚えがあった。齢五十になる年に違わぬ白髪とそぐわぬ若々しい端正な面立ち。蘇我馬子と並ぶ権力者にして荒事を司る武の大連。物部氏現当主、物部守屋の姿がそこにあった。
「無駄、無駄、無駄。布都御魂剣は神から承った宝剣よ。斬れぬ物など無い。豊聡耳皇子様に目をつけられたのが運の尽きだったな。観念するがいい妖怪」
そう言って守屋は手にした剣を私の胸に突き立てた。咄嗟に体内の境界を弄って心臓の位置を変え急所を外す。しかし男は剣をさっと抜くと念入りに首を刎ねようとした。ただの刀ならともかく由緒正しき宝剣に首を切断されれば致命傷足り得る。それを防ぐために剣が振り下ろされるタイミングに合わせ首を切り離した。
そうして死んだふりをしてやり過ごすことにした。この状態で相手が油断したところを反撃する、というのも一瞬思いついたかがそれで仕留められなければ今度こそこちらが殺られる。よってじっとしている他なかった。
幸い守屋は私を殺しきったと思ったらしく、『日羅』の首を拾うとその場を後にして消えた。去り際にふと振り返って私の方を見たが、その時のまるで踏み潰された虫けらを見るような目線に恐怖と憤怒を覚えた。そして何よりも、『ミコ』でもないただの人間に細切れにされたことが悔しくて仕方なかった。
物部守屋。この男こそが私の感情を強く揺り動かした最初の人間である。
私は夜に溶け込んで、誰からも気配を悟られないように慎重に敗走した。意味もなく叫びたかったが、もし守屋らに気づかれたらと思って声を押し殺した。なんと情けないことか。自分自身の力を過信していた。ある意味それに気づけたことは今後の身の振り方においてプラスになるだろう。そう思考を切り替えるようにした。
それにしても守屋は何故自分が妖怪だとわかったのか。交流はほとんどなかったとはいえ顔を合わす機会はいくらでもあったろうに、今になってどうして……いや彼自身は自力で私に気づいたわけではないのではないか?
豊聡耳皇子様に目を付けられたのが運の尽きだ、彼はそう言った。『日羅』を見破ったのはおそらくそいつだ。豊聡耳皇子。『ミコ』。
ついこの昨日のことだ。ある宮中の行事で大王の一族が全員集まることになっていて、現大王の弟橘豊日皇子が子、豊聡耳皇子も参列していた。その皇子は神童としていろんな噂を聞いていたものの滅多に人前に姿を現さないことでも有名で、私が目撃したのもそれが最初だった。
一応皇子らしいが皇女と言われても納得する、中性的で美しい童子。それが豊聡耳の第一印象だった。
そんな豊聡耳と話をしてみたいと思い、人をかき分けて近づこうとしていたところふと目があったが、表情こそ柔和だったもののその瞳は人間の物とは思えないほど冷たく、全てを見透かしているようで、声をかけるのを躊躇ってしまった。その後すぐ彼は蘇我馬子らと談笑しながら姿を消した。
思えばあの時に私の正体を悟られていたのだろう。そして国防を司る物部守屋らに報告した。『日羅』の部下が反旗を翻して私を襲ってきたのもおそらく豊聡耳の差し金に違いない。
そうだ。やはり私の敵は『ミコ』だ。この島国は数百年でがらりと姿を変えてしまったがその一点だけは変わらない、ということがわかって私は不思議と安堵した。
「オンベイシラマンダヤソワカ」
その時だ。どこからともなく聞こえてきた声と共に光の洪水が流れてきた。それに飲み込まれて、私は気を失った。
意識を取り戻した時には、見知らぬ小屋にいた。
体が動かない。守屋から受けたダメージが残っているとはいえ動けないほどではないはずだ。それもそうで、縛られている感覚があった。おそらく封印術の類だろう。とすると生け捕りにされたのか。誰に? いやおおよそ予想はついていた。近づく足音は軽い。
「お目覚めですか、化物」
小屋の戸を開けて、一人の子供が姿を現した。姿を見たのはこれで二度目だが、見間違えようがなかった。
「初めまして、私は豊聡耳皇子と言います。君を退治させていただきました」
そう言って、彼はニコッと笑った。あの時と同じ、全てを見透かすような眼差しで。身の毛がよだつようだった。
「怖いですか? こんな子供に存在を脅かされるのは、恐ろしくてたまりませんか? 物部守屋に追い詰められて戦慄しましたか? これから君を殺すと言ったらどうです? 妖怪も死ぬのは嫌ですか?」
その笑みは嗜虐的だった。豊聡耳がパチンと指を鳴らすと突如として鎧を纏い棍棒を携えた巨人が姿を現す。そいつには見覚えがあった。なにしろ『日羅』は仏教を厚く信仰していたのだから。
「多聞天」
「なんだねミコ。私も忙しいのだが……なんだ、昨夜私に倒させたソレ、まだ生かしてるのか」
「ソレなんですが、どうしようかなと」
「仏敵だ。滅ぼせばいいだろう」
多聞天は棍棒を私に向かって突きつける。嫌だ。こんな結末は望んでいない。まだ、まだ……
「何のために生まれて、何をして生きるのか。わからないまま終わる、そんなのは嫌ですか?」
それは私が発した言葉ではなかった。けれど私が言いたかった言葉だ。困惑した。それを目の前の童が口にしたのだから。
「多聞天、やっぱりコイツ殺さなくていいです。帰ってください」
「ミコさぁ……」
「すみません、この埋め合わせは後程」
「ちゃんと寺立てて敬えよ。あと仏像な」
平謝りする豊聡耳の頭を多聞天は小突くと、たちまち消えた。さっきまでの緊迫感はどこへ行ったのか。彼はふぅと一息つくと私に語り始めた。
「なんでわかるかって不思議そうですね。大丈夫、ちゃんと説明してあげます。私はですね、生まれつき感覚がめっちゃ鋭いんですよ。十人の話を同時に聞いてわかるくらい耳がいいし、あ、それで豊聡耳って名前なんですけどね。あと河勝とかは、河勝ってのは私の家来なんですけどね、私のことを厩戸って呼ぶのですが、なんか馬小屋で生まれた聖人にあやかってるらしいのですが、私としては不本意で……だって馬小屋って臭うし好きじゃないんですよ! ここも馬小屋なんですけどね。臭いません? 私鼻もいいから結構辛いんですよ……」
話が逸れている、と突っ込むべきかどうか迷っていたが、彼もそれを悟ったか、コホンと咳払いをしてすみませんと謝った。そこでなんとなく彼の能力というものを私も理解しかけていた。
「ちょっと話を戻しますね、それで感覚が鋭いわけなんですが、その副産物として人の欲を察することができるんです。何を欲していて、どうして欲しているかがわかる。君は人を知り、己を知りたいという知識欲に満ちているな。それを悟ったから君が『日羅』じゃなくてどこぞの妖怪だと気付きました。これは心を読む能力に近いですが、あくまで読み取れるのは欲望だけ。ただ欲を知れば自ずとその者が何者かわかるというもの」
欲を知ればその者を知る。ならば豊聡耳は私自身の知らない、私が知りたいと願う、私の正体を知っているのだろうか。
「知りたいかい? 君が何者か。君という妖怪がどうして生まれ、どのように果てるのか」
何もかもお見通しのようだった。ならば教えて欲しい。
「いいだろう。君は人が人らしさを獲得する中で零れ落ちた何か。具体的に何なのかはよくわからない。ただ君は混沌に境界線が引かれ人間が人間として定義された時、人間じゃなかった側にいた。だから君という妖怪はある種人間が生んだものだし、人間に拒絶されて生まれた。ゆえに君は人間を求めるのかな、かつての半身を。そうして君は人間に化け、人間を学び、人間に近づくことを欲するんですよ」
人から分かたれた混沌が形を成したもの。それが私なのか。私は人間の成り損ないか。だから人間を志向していたのか。
言われてみればそうなのかもしれない。だが人間になろうなんてことは思っていない。人真似は自分を知る、いや自分を定義づけると言った方が正しいか、のための手段でしかないはずだ。
「そうだね、君は人間になりたいわけじゃない。なろうと思えばなれるんだろうけどね。君の本質は分化される前の混沌で、境界で区切る能力を持っているが故に今の『君』という人格があり得るくらいだから。君は当たり前のように使っているけど君が思っている以上にすごい能力なんですよそれは。物事の境界を弄れば何にだってなれるし何もかもなせる。可能性の獣だ」
可能性。いつぞやの竹林の賢人も同じことを言っていた。私には可能性があると。だから私は――
「可能性を追求したい。何のために生きるのかと疑問に思っていたようだけど、一応の答えはとっくに出ているじゃないですか。まだまだ曖昧な指針ですけどね」
豊聡耳皇子は見事に私の長年の疑問を解決してしまった。この小さな子供がとても大きな存在のように思えた。豊聡耳はここで一呼吸置いてから、今まで以上に真剣な目で口説き始めた。
「さて、君の問題を解き明かしたところで、君という存在は混沌で、可能性があると言ってもまだ何者にもなれていない。そんなままで終わるのは、やはり嫌だろう? そーこーでーなんですが」
君と取引がしたい、と私に指を差して言った。
「私はですね、君の境界を操る能力に至極興味がある。それから君が学んだ大陸の術にもね。だから率直に言えば君が欲しい。拒否するという選択肢もありますがまぁその時は仕方ない、斬り捨てますけど」
豊聡耳は脇に差した剣に軽く手を掛けた。おそらく守屋が持っていたものと似た物であろう。彼は脅しをかけているつもりだったが、そんなものは不要だった。私もまた、同じ思いだったのだ。
それを悟って、彼は満面の笑みを作ってみせた。するとふと私を縛る感覚は消え去り、傷が癒えていくようであった。
「取引成立ですね! 今日から君は私の舎人です。ふうむ……いつまでも『君』だといささか不便か。名前、まだないんですよね」
日羅、と言おうとして、やめた。そいつはおそらく死んでいることになっている。そういえば、この時まで私自身の本名というようなものはなかった。豊聡耳は少し考え込むと、何かを閃いたのか、木簡と筆を取り出してさらさらと字を書いて見せた。
そこには『迹見赤檮』の四文字があった。
「名は存在を確固たるものとするに必要だ。というわけで今日から君はトミノイチイだ。字はこの通り」
「迹見赤檮……それが私の名前……」
ここで初めて私は声を発することができた。それまで人の形を保てていなかったが、自分の名前を口にして、急速に人間の、それも若い男性の姿を形成していくのがわかった。これは自分の意思ではない。付けられた名の力だ。成程、確かに名は存在を確定させるものだと思った。
「そうだ。ではよろしくお願いしますね、赤檮」
「はい、ええと……トヨサトミミの……ウマヤド?」
「私のことはミコと呼んでください。近しい者はそう呼びますし」
「しかし、皇子は他にも……」
「君の『ミコ』は私だけだ。私だけを見ればいい。違うかい? 赤檮」
それもそうだと私は笑った。私の愛しい宿敵の『ミコ』はこの時代にはただ一人、これから仕えることになる目の前の相手しかいない。昨夜の時点でそう思っていたのだから。
「ミコ」
その名を力強く呼んだ。すると彼もまた、確認するかのように私の名を投げかけた。
かくして私はミコと出会い、迹見赤檮になった。二人の関係は八雲紫が誕生するまでの約二十年間続くこととなる。
「お主、どことなく守屋の若い時に似ているな」
会う人会う人にこう言われたが、そんなにあの物部守屋と似た風貌なのだろうか。私が『迹見赤檮』の名を貰って以来この姿を取っている。なんてことはない、彼に敗北したことを引きずっているということだ。私以外で唯一事情を知っているミコはこう言われるのを聞くたびくすくすと笑った。
年が明け、そして長かった冬も終わろうとしていた。それまでには私もある程度ミコの住まう双槻宮での生活に馴染んでいた。
表向きの仕事は馬の世話とミコの護衛。そして裏の仕事は諜報活動とミコの道術の教師であった。
「陰陽五行八卦か、成程……赤檮はその全てを極めたのですか?」
「いえ、極めたという程ではありません。私は正規の仙人ではありませんし、ちょっと齧っただけの知識では物部殿に太刀打ちできませんでしたから」
「ははは、それは相手が悪いだけですから。この霊符というのは誰にでも使えます?」
「ええ、そのための札です。ただし作成するのは道を極めた神仙でなければ」
ミコは好奇の目で手にした札を眺めた。私が大陸から持ち込んだものの一つである。
「君は作れるかい? これ」
「紛い物でしたら。それも特定の効果に偏っていますが」
「ほう。して?」
「人を思い通りに操る、だとか呪い殺す、とかですかね」
「それは面白い!」
ケラケラとミコは笑った。彼はとかくよく笑う。けれどその目は決して笑っていないことには出会った当初から気づいていた。笑顔の仮面を被り、真意を隠す。皇子として生まれ育った環境がそうさせたのか、それとも生来のものか。
そんなことは私にとってどうでもいいこと、のはずだ。彼とはあくまで互いに利用し合う関係に過ぎない。けれどどこか気になってしまう。彼は心から笑ったことはないのだろうか。笑えないのか。
ミコへの関心は尽きなかった。生まれついて特異な能力を持ち、勤勉で大人顔負けの学識を持ち、賢く、将来を有望されている皇子。とはいえ性格は意外と軽く、年相応の子供らしいところもある。だがそれらは全て彼自身が演出した虚像に過ぎないのではないか。自分が何者かであるか以上に彼が何者か知りたいという欲は、無きにしも非ずであった。
勿論そんなことは悟られている。なので彼は中々隙を見せてくれない。では外堀から埋めていこう、ということでミコと他の者との交流関係を調べてみた。
まず家族。双槻宮はミコの父豊日の構えた邸宅であるが、ミコは何故か家族と離れた独立の屋敷をもらってそこを拠点としており、あまり家族に会いに行こうとはしなかった。
ならばミコは家族と不仲なのか。そうでもないようで豊日やミコの弟の来目らはよく訪れたし、ミコも邪険に扱うような態度は見せなかった。ただミコの母、穴穂部間人皇女だけは何故か姿を見せることがなかった。
そこで間人皇女の様子をこっそり覗いたが、いたって普通の母親に見えた。昼間はミコ除く息子達の姿を眺め、夜は夫豊日に寄り添う。しかし彼女の生活の中にミコだけがいない。そして同様にミコの生活の中にも母の姿だけがなかった。それがどうにも奇妙で仕方がなかった。双槻宮で働く同僚に聞いてもどうにも要領を得なかったので、私はもうそういうものだと思うことにした。
それから現大王の弟ということで色んな豪族が出入りしていたが、ミコと直接関わりのある者は数人だった。その一人が秦氏の若者、秦河勝である。誠実で裏表のない好青年でミコからの信頼も厚いようだった。私にとってはどうにも暑苦しくて苦手なタイプであったが。
ちなみに彼はこの国では珍しく景教を信仰していた。遥か西から伝わった宗教で件の馬小屋で生まれた聖人を崇めているらしい。それでその聖人にあやかった十字のお守りを常に携帯していたのだが、些細ながら妖怪を遠ざける効能があった。そういうわけで尚更彼のことは苦手だったのである。
秦氏などはたんに豊日やミコとの主従関係で結ばれていたが、それ以上に強い繋がりで結ばれた豪族がいる。すなわち血の繋がりで結ばれた蘇我氏である。豊日の母は蘇我氏の娘であの蘇我馬子の姉である。ミコからすれば馬子は大叔父に当たる。
当然馬子は双槻宮にもよく顔を出した。ミコの舎人迹見赤檮として挨拶する機会はあったわけだが、幸い私が元『日羅』であることは悟られなかった。それもそのはず、あくまで彼は普通の人間で『日羅』として接していた時も妖怪とは見破られなかったのだから。
彼に対する印象はあまり変わらない。一見気のいいおじさんだが腹の底では何を考えているかわからない典型的な政治屋。そういう意味ではミコとよく似ている。というかミコが馬子の影響でああなったのか。
ミコと馬子もそれなりに付き合いがあったが、いかんせん年が離れすぎていて恭しく社交辞令を交わし合うだけが多かった。ミコとの付き合いが深いのは馬子よりもその家族の方である。妻の布都姫と息子のエミシ、それから娘のトジコの三人だ。
布都姫はなんと物部守屋の妹だという。それだけで政略結婚だとは深く考えずともわかった。今は対立が目立つ蘇我氏と物部氏だが、時には利害が一致して足並みを揃えることもあったのだろう。彼女はその時代の残り香である
それにしても不思議なことに守屋の妹にしては若々しかった。夫の馬子も若いとよく言われていたがそれは宮廷の重臣の中ではという意味であって三十代を過ぎている。しかし布都はどう見ても十代の少女でミコと大差ないのだ。守屋も年の割には若く見えたが限度というものがある。
興味がそそられないこともないが、年の離れた妹か、あるいは何らかの術を使っているのだろうとしてそれ以上考えないようにした。詮索したところで何にもならない。妖怪の私に若返りだとかそういう類の術は無縁だからだ。
えてしてこういう者は見た目の若さに反して中身は大人だったりするのだが、この布都姫の場合は中身も幼かった。というよりはどこかズレているというか。ミコは彼女をちぐはぐで面白い、と称した。見ていて飽きない、だから彼女を手元に置いておきたいのだと。ミコの言葉には彼女には利用価値があるとも読めた。ある意味私と近しい存在なのかもしれない、というのが布都姫に対する印象だ。
最後に蘇我兄妹についてだが、おそらくミコと同年代で最も親しい間柄であろう。兄のエミシは大人しい文学青年であるのに対し妹のトジコは活動的なお転婆娘と対称的な性格であったが、二人ともミコを大いに慕っており、ミコもまた彼らを実の家族のように接していた。
ただ一つ、不可解な点はあった。よく目を凝らさなければ見落とすような些細なことだ。ある時ミコが庭で転んだ時、二人が心配して駆け寄り、手を差し伸べた。そこでミコはエミシの手を払いトジコの手を取った。それからというもののミコは終始浮かない顔をしていて、見かねたエミシが体調が悪いなら休んだ方がいいとしてミコの面倒を私にお願いした。その時ミコはずっとエミシに謝っていた。
エミシは気づいていなかったがミコは彼の手を跳ね除けたことを謝っているようだった。問題はそこじゃない。何故ミコはわざわざ彼の手を払ったのか、それが問題だ。トジコと同様にエミシにも好意を持っていたのではなかったのか。実際彼を拒絶したのはその一回だけしかない。それでも私にはその一回の行動にミコの本質が現れているのではないか、と勘繰らずにはいられなかった。
「……ねぇ。赤檮。聞いていますか赤檮。迹見赤檮!」
「ひゃあい!? あ、すいませんぼんやりしていました」
つい考え事をしていてミコの話を聞いていなかったようだ。私の悪い癖である。
「全く。君はすぐ『ぼんやり』しますね。困るよ」
「申し訳ありません。この季節は寒くてすぐ頭が『ぼんやり』するんですよ。できれば冬の間は寝ていたいです」
「おいおい」
「今すぐ寝たいです」
「せめて講義の途中はちゃんとしてください、先生」
札をビラビラと動かしながらミコは呆れた様子で言った。そう、彼に道術を教えていたところであった。
「それはそうと、大陸で道術を学んだからには不老不死の方法とかも知っているんですか?」
「専門外です。前にも言った通り私は仙人じゃないですから。道術も攻撃手段と護身用に学んだだけですし。不老不死とかはその……妖怪には必要なくて」
「え~~~~」
ミコは口を尖らせ、大袈裟に肩を落としてみせた。いかにもガッカリだというような演出。だが私にはそれが、わざとらしすぎて逆に本当にガッカリしているように思えた。
「妖怪だって死ぬでしょうよ。不老不死、必要ないことないのでは?」
「そりゃ退治されれば消えるでしょうよ。ただ寿命は人間と違って遥かに長いですから。年を取っているという実感がないくらいには。伸ばすこともなし」
「そうですか。いいですね。妖怪はお気楽で」
「ミコは興味あるんですか、不老不死」
「人並みには、ですけど」
そう言った時、ミコは今までにないような表情を垣間見せた。悲しいような、それでいてどこか怒ったような、そんな表情を。本当に一瞬ですぐにいつもの笑顔の仮面を被ったが、ここで初めて彼の真に迫った気がして、私はもっと突っ込んでみることにした。
「ということは興味はあるんですね。ミコは不老不死になって何かしたいんですか?」
「いや特に思いつかないですけど……ただ数十年したら死ぬのって嫌じゃないですか? それは万人に共通の感情でしょう。死にたいと口にする人間は少なくないですが本当に死にたい人間なんていませんでしたよ。皆死にたくないってうるさいですよ」
ミコはツンツンと自分の耳をつついた。その欲望が聞こえてくるんだと暗に示していた。しかしそんなことは論点のすり替えだ。私がミコのことを訊いた途端不特定多数の他者を持ち出して一般論に逃げようとしている。でもこの時の私はイケイケモードで、彼を逃す気はなかった。
「死にたくないのは皆同じ、でもその理由は千差万別じゃないですか。じゃあミコは何で死にたくないんですか?」
「さぁ、何ででしょうね。というかそもそも私、不老不死になりたいとか一言も言ってませんよ? ただの知的好奇心です。君が知らないなら別にいいです。知ってることを教えてください」
のらりくらりとかわすミコ。このままでは話題を変えられてしまう。そこで私は一つカマをかけてみることにした。
「じゃあ不老不死になりたいのはミコでなくて、知り合いの方とかがってことですか? たとえば蘇我の娘さんとか……」
「トジコは死ぬんだよ!!」
予想以上の反応に私は驚いてしまった。もう目の前に仮面を被って大人ぶる皇子はいない。そこには等身大の、剥き出しの、ミコという感情がいた。
「トジコは死ぬ。彼女の子供も死ぬ。父上も死ぬ。布都も馬子も守屋も、エミシとその子供も死ぬ。皆死ぬんですよ。争って死ぬ。苦しみながら、生まれてきたことを呪い死ぬ。なんで死ななきゃいけないんでしょうね、人間は。何で死ななきゃいけないんですか! 私達は!」
人の心は複雑怪奇。それは長年人間観察を続けて得た結論の一つ。だからわかっていたはずだった。些細なことでもそれをきっかけに爆発してしまうことがある。今の状況は正にそれであった。
だが考えても見れば、ミコの本質を知りたがっていた私にとって事態が好転していると言えるのではないか。ミコの急変につい面喰ってしまったがこれは望んでいた展開に他ならない。
彼は叫ぶ。獣のように。
「物を考えない畜生はそりゃ死も受け入れてしまうでしょうよ! でも私達は神から同等の知性を授けられた! なのに、死を受け入れなきゃいけないんですか! そんなの糞食らえだ! トジコが死ぬのを黙って見ていろと! 私とトジコの子が次々に殺されていくのがわかっていて子を作れと! ふざけるなです。ふざけるな。人間を、この私を、冒涜しているにも程があります」
「トジコさんとお子さんが死ぬって、なんでわかるんです?」
「はい? あぁ……私の能力は他者の欲を知り、その人の本質を悟る。よって時にはその人の未来まで見通せてしまう。近しい程にね。トジコは蘇我の娘だ、馬子殿は私が将来大王になると思っていて、だから彼女を私の妻にと……それがなくても私は彼女を娶るつもりですけど。まぁそれはさておき、あの子はその性格から長生きできないんですよ。私の目の前で、私の代わりに死んでいくんだ」
ミコは拳を震わせて睨む。私ではなく、私の瞳に映る彼自身に向けて。
「それでエミシ。あいつ自身は悪い奴じゃないんですけど、やがて馬子殿亡き後の蘇我を背負っていくことになります。その時政治的判断から私とトジコの血族を滅ぼすことになる。あいつはそれ以外の道を選べないから。本当はそんなことわかりたくなかった。知らなければ、きっとあいつのことも好きのままでいられたんだ……」
あの時のエミシに対する反応はそういうことだったのかと納得した。今のミコはありのままのミコだ。どんどん本音を喋ってくれる。しかし興奮状態でところどころ支離滅裂でもある。だから少し落ち着かせようとした。
「成程わかりました。ただまぁ、そうは言っても人は死ぬからこそ人ですからね。死なない人間は化物なので」
しかしこの発言は不適切だったようだ。うっかり口を滑らせたことをすぐに後悔したが遅い。ミコは露骨に機嫌を害したようでこちらを睨んでいた。
「失せろ赤檮。今日の授業はおしまいでいい。だから今すぐ視界から消えろ」
「すみません、力になれなくて。今度本場の仙人を紹介しましょう。ですからご機嫌を」
「喋るな。これ以上喋るな。そしてさっきのことを他人に喋るな。いいですか、余計な真似をしたら物部守屋に突き出しますから。君の命なんて蚤よりも軽いと、肝に銘じておくのですね」
守屋の名前を出されて身構える。これでは大人しく引き下がるしかなかった。怒らせてしまったのは不本意ではあったが、彼の本心が聞けて良かったと楽天的に考えることにした。
しかしすべてが終わった後に振り返ってみれば、これが自分の犯した最初にして最大の間違いに違いなかった。
西洋の神話にこういう話がある。飛ぶことを覚えて調子に乗った少年は、太陽に近づきすぎて蝋で出来た翼をもがれ、墜落したという。
何しろ当時の私はまだまだ未熟で、あまりにも愚かだった。そうであるからして、ミコとの決別を避けることはできなかったのである。
一年という期間は長いようで短く、あっという間に過ぎる。老い先短い人間ですらそう感じるそうだから妖怪の私にとっては尚更だ。
季節が一巡しても相変わらず双槻宮でミコの舎人をやっていたが、特に何か進展があったわけではない。結局のところミコが本音をぶつけてきたのはあの時の一回だけだった。それ以外では一切隙を見せてくれなかったのである。
ところでミコは私が教えた道術をすぐにマスターした。そういうわけで彼の師の役は解かれ、諜報の仕事に専念することになった。次第に、少しずつだが、彼と顔を合わせる機会は減っていった。おそらくミコの意志で。
やはりあの時不興を買ってしまったことが原因なのだろうか。そのことを考えると『ぼんやり』としてしまう。なのであまり考えないようにした。実際には仕事が中々忙しく、考える余裕がなかったのだが。
細々としたことはあまり覚えていないが、とある一日のことは鮮明に思い出せた。それは蘇我夫妻に招かれて石川の邸宅にお邪魔した時のことである。
馬子は若者を度々連れてきては持て成すというようなことをした。将来的に自分の力になるよう人材を抱き込もうという魂胆は見え見えであったが、ともかく美味しい食事とお酒が出るならと喜んで行った。ミコから蘇我の動向を逐一報告せよと言われていたので仕事も兼ねてである。
馬子と飲むのは『日羅』の時にも経験したが、相手が百済の高級官僚ではなくただの舎人だということもあってか、以前よりも馴れ馴れしく語りかけてきた。ほとんどが他愛のない話で記憶に留めておく価値もなかったが、宴もたけなわというところで彼は意外な愚痴を漏らした。
「はぁ~あ。本当は儂だってなぁ、こうやって美味い飯食って美味い酒を飲み、君みたいな若人と狩りに行ったり、綺麗な女とまぐわいたいだけなんだよ。けどこういう立場にいるとままならんものでな」
「何を言っておる。馬子殿はこんな風に毎日遊んでおるではないか」
「うるせえ毎日じゃないわ。お前ちょっと席外せ」
「はいはい。寝室で待っているぞ。馬子殿は甘えん坊だからな」
口を挟む妻を追い出すと、馬子は声のトーンを落として、話を続けた。本題に入ったことを悟った。
「やりたいことなんてごまんとあるさ。けど儂らはこういう立場にいるからやらなきゃいけないことを優先させなきゃならない。やりたいことだけやってたら原始の頃と変わらん。法を整備し宗教で民を一つにし、この国に秩序をもたらさねば。そうでなきゃあっという間に大陸の国に征服されるぞ。奴らはすぐそこまで来てる」
大陸の国、隋。私も滞在していたことがあったが、聞くところによればあれからさらに勢力を伸ばし中華の統一を目前としているそうだ。外交問題はこれから重要になっていくだろう。思えば日羅という男がこの国に召還されたのも少なからず関係があった。
しかしそんなことを表向きはミコの馬の世話をしているに過ぎない舎人に話すのか。不思議に思えた。
「今この国はごちゃごちゃだ。だから一つにまとまらなきゃいけない。そのためにはいずれ廃仏派の守屋を排除しないわけにはいかんだろう。そうなりゃ布都ともいられなくなるがな……」
そう言って馬子はふと遠い目であらぬ方を向いた。以前彼が愛妻家だという噂を聞いていたが、それが事実であることはこの日の彼と妻とのやり取りを見れば疑いようがなかった。
だが元々蘇我と物部の連携という政治的判断によって結びついた関係、両家の断絶は夫婦の破局と同義だろう。愛する妻との別れを惜しむ気持ちは共感はできないものの理解は容易い。なので自然とお悔やみの言葉が出た。
「お気の毒に」
「別に儂はいいんだよ。本当に気の毒なのはあいつだ……それにしても面白い返し方だな。普通は物部と戦争する気があるのかってことに驚くものだろう」
それもそうだ。この件はミコに伝えないといけないくらい重要な物だろう。しかし生憎私には人と人との争いなどは全く興味が持てなかったのである。それは巫女を騙り国を治めていた頃から変わらない。
「いや、私は豊聡耳様の舎人に過ぎぬゆえ……」
「関係ないか? いやあるんだ。だから今日呼んでこういう話をしているのだが」
「確かにそうですね。して?」
「儂はな、あの子を大王にするつもりだ。まずは中継ぎに父君を立てるが、その後な。あの子しか適格者がいない。他の奴らは阿呆ばかりで国を滅ぼしかねん。そこでだ赤檮、そなたには彼をよく助けてやってほしい」
馬子殿は私を王にする、そのために娘を差し出す。かつてミコ自身が口にした言葉を思い出していた。あの時の、激情に飲み込まれたミコの姿と共に。
「ミコは、多分王になりたくないと思って……」
だからかこんな言葉が出てきてしまった。邪推だ。けれど馬子はそれに同調した。
「そう、だろうな。あの子に大王の責務は重すぎるだろうな。けれどなってもらわねばならない。だからその時に彼を支えてやってほしいんだ。儂ではその役はできん。有力豪族の長だ。むしろ彼とは立場上対立することの方が多いだろう。でもそれでいい、儂には儂にしかできない役割を果たす。だからそなたもそなたの役割を果たせ」
「どうして、私なんです。別に私じゃなくてもいいのでは……ミコに仕える者は他にもいますし、例えば秦氏の河勝殿などはミコの信頼も厚く……」
率直な感想だった。私は一度ミコに拒絶された。あれから彼の領域に近づけていない。そんな私に頼むことかと。
もっともあの時の話は他言無用なので馬子に説明するわけにはいかなかった。そうして言葉を濁す私だが、馬子の態度は変わらなかった。
「あぁ河勝君にもお願いしてるし、他にも司馬の止利君とか。だがね、これは儂の勘でしかないのだが、そなたが一番皇子に近しい気がする。きっとあの子を救えるのはそなただけなんじゃないかって、そう思うんだ。それだけそなたのことを気に入っているってことだ! 天下の蘇我馬子にここまで言わせる男子はそうおらんぞ! な?」
そう言って馬子は陽気そうにバンバン私の肩を叩いた。これで話は終了だという合図でもあった。
さっきの話は紛れもなく馬子の本心だろう。けれど彼は見せていい部分だけ見せ必要以上には曝け出さなかった。それはあの時のミコの態度と比べれば明らかだった。その辺は大人と子供の違いなんだろうなと私は思った。
夜も遅いので泊まっていけという言葉に甘えて、その日は石川邸に留まることにした。こうなることを見越してミコも外泊の許可を出していた。
縁側に座って馬子がした話、そしてあの時ミコがした話を反芻して『ぼんやり』していたところ、たまたま通りかかったと思われる布都姫が私に気づいて隣に座りこんだ。
「赤檮殿、どうしたのだ? こんなところで」
「あ、これはこれは布都姫様。お邪魔させていただいてます。少し考え事をしていました」
「ほう」
布都姫はじろじろ舐めまわすように私を見た。それから一息つくと、興奮気味にすっとぼけたことを言った。
「お主……恋煩いをしているであろう! 相手はミコ様か?」
「はい!?」
驚いて声が裏返った。布都姫は構わず続ける。
「お主ぐらいの年であれば無理もなかろう。我も若い頃は恋をしたものだ。あぁ、これは馬子殿には内緒でな」
「いえ私は恋など……」
「恥ずかしがる必要はなかろうて。むむ、もしかして男同士ということで遠慮しておるのか? しかし変なことではないぞ、ミコ様相手ならばな。あの方は男だろうと女だろうと妖だろうと虜にする。うちのエミシとてそうであるからな! あぁ、これはエミシには内緒でな」
そう言って笑う布都姫に合わせて私も笑うしかなかった。彼女には思い込みの激しいところがあって一度そうだと決めつけると頑なに考えを変えなかった。そういう相手には適当に話を合わせておくのが処世術というやつである。
ちなみに当時の私はいまだ人間の恋愛感情という物がよくわかっていなかった。五十も過ぎれば死んでしまう人間の、子孫を残す必要に迫られて備えられた機能、くらいの捉え方をしていた。
「まぁミコのことは好きですよ。それが恋かどうかはわかりませんが」
「恋と断言できよう。お主はずっと人間に恋してきたのであろう?」
引っかかる言い方だった。まるで私が人間ではないかのような。ミコの舎人となった時彼がしたような言い方だった。
妖怪だとバレているのではないか、そんな不安が頭をよぎった。それはすぐに確信に変わった。
「すまぬ、何もお主をどうこうしようというつもりはないのだ。身構えなくてくれ。ただお主からミコ様と同じ匂いがしたのでな。あぁ、これはミコ様には内緒でな」
「ミコと同じ匂い、とは?」
「本当に内緒でお願いする、あの方はそういう扱いを何よりも嫌うお方でな……いやすまぬ何でもない忘れてくれ」
布都姫はぼかした言い方をしたが、ようはこうだ。お前は人外だろう、超常的な能力を持つミコに近いからと。
となると一つ気になることがあった。ミコはそういう扱い……つまり化物扱いを嫌う、ということだ。
あっと思わず声をあげてしまった。そうか、あの時ミコの機嫌を損ねてしまったのはそういうことかと。不老不死を志向する彼の前で死なぬ人間は化物だと言ってしまった、それがよくなかったのだ。
「ミコ様は結構繊細な方でな……おそらく馬子殿からも言われたと思うが、あの方を助けてやってはくれぬか」
そうして馬子に引き続き布都姫からもミコのことを頼まれてしまった。だが私は苦い顔をすることしかできない。その時は彼らの期待に沿うことは自分には出来ないだろうと思っていたし、実際にできなかった。
私とミコはすでにすれ違い始めていた。いや、境界線が引かれていようしていたと言った方がいいか。
迹見赤檮が生まれてから二度目の春を迎える直前、桜が蕾を膨らませる頃、ミコは私を呼びだして告げた。
「赤檮、君を押坂彦人大兄皇子殿の舎人に推薦しました。大王の第一皇子です。先方から是非にと。名残惜しくはありますがそれだけ君が評価されていることは私としても鼻が高いですよ。決して主君の名に恥じぬ働きを期待します」
突然の解雇。けれどなんとなくこうなるんじゃないかとは予想していた。逆らうという選択肢はないので承諾した。この時もミコは目は冷ややかなまま笑顔を作っていた。
双槻宮の庭の桜がちょうど満開を迎えた日、私はここを去ろうとした。門を潜ればこれからは境界の向こう側となる。ミコの居ない世界へと一歩一歩近づき、ついに足を踏み出そうとしたその時、背後から私を呼び止める声がした。
振り向くと、そこにはミコ……ではなくて蘇我兄妹の片割れ、トジコが突っ立っていた。
「おい待てよ赤檮、本当に出て行くのか?」
「はい。ミコから彦人大兄様の舎人の推薦を頂きまして、めでたくお仕えすることになりまして」
「知ってる、ミコから聞いたから。だけどさ、ちょっと待ってくれよ。考え直してくれないか、ソレ」
この娘は何を言っているんだろうと思った。私が『考え直して』行かないと言ったところでどうにかなると思っているのだろうか。
「私からもミコにお願いするからさ、頼む。ミコにはアンタが必要なんだ。あいつ自身もそう思ってるんだ、ただ天邪鬼だからこんなことしちまって、あとで後悔するのにさ」
こんな風に言われるのは三回目だった。だが馬子や布都姫の言い分と違って、ミコも私を必要としている、という言説が付け加えられていた。もっとも当時の私は完全にミコから突き放されたと思っていたからそれも疑ってかかった。
「ミコがそう思っているって、本当ですか。疑いようがないと証明できるのですか。本人ではない貴方が」
「ええと、そう言われるとだな……ただあいつが自分から人を雇ったのはアンタが初めてだったから……」
いつになく強い口調で問いかけると、トジコはたじろぎ言葉を濁した。
「仮にミコが私を手放したくはないとして、けれど先方の要請でもありますから。拒否すれば政治的な問題となりましょう。違いますか」
「……んなこたわかってるよ」
「出て行くしかないですよ、私は」
俯くトジコ。私はもう話すことはないと踵を返し、再び歩き出そうとするが、しつこく呼び止められた。
「待てよ……それでも、それでもさぁ、アンタにいなくなられると困るんだよ! 何度だって言うが、あいつにはアンタが必要なんだって。あいつはさ、ああ見えて実はすげー寂しがりでさ、生まれつき人とは違うことができるからそれで孤立しててさ、母親から遠ざけられてさ……」
ミコがその母間人皇女と上手くいっていないのはなんとなくわかっていた。宮に仕える者が皆してその話題に知らぬふりするのはそれだけ根深い問題なんだろうと。
「でも私じゃ駄目なんだ。私が心配すればするほどミコのやつは私を心配してしまう。だから……!」
「ミコの目の前で、ミコの代わりに死んでいく。そんな貴方をミコは見たくない」
「あん!? どういうことだそれ。赤檮アンタ、なんか知ってるだろ」
他言無用の約束ではあったがこの娘にこれ以上付きまとわれるのは面倒になったので、あの時のミコとのやり取りを私が道術を教えていたということ、兄のエミシがミコとトジコの一族を滅ぼすこと、この二点は伏せつつ教えてやった。
全てを聞き終えたトジコは諦めの境地に至っていた。それでいてなお、私に縋るように言った。
「確かに禁句を言っちまったらどうしようもないか……でも、あいつはひねくれ者で、今はへそを曲げてるだけなんだ。だからさ、向こうに行ってもあいつのこと、気にかけてくれないか。もしあいつが助けを求めて来たら、応じてやってくれないか。頼む赤檮。頼むよ」
彼女の懇願に応えぬまま、私は歩き出した。応えられぬから歩き出した。決して振り向かず、そして双槻宮を出た。
もし私が彼女の頼みを聞き入れてミコの元に戻ったなら、異なる結末を迎えることができたのだろうか。もしもの話の類ほど無駄なものは無いのではあるが。
もっともチャンスはもう一度だけ訪れた。けれどそれも、後に迹見赤檮が歴史上から姿を消したことからもわかるだろうが、私は棒に振った。
この時桜咲き乱れる道を行く私は、生まれて初めて雨が降ってもいないのに頬が濡れている、という経験をした。人間であれば誰しも一度は経験する現象。
すなわち、涙を流した。
彦人の舎人となってからは今まで以上に『ぼんやり』することが多くなった。ただ今までとは真逆で、何も考えられなくて『ぼんやり』していたのである。
一方で世相は目まぐるしく動く。疫病が流行り、大王が死んだ。次の王は馬子が言っていた通り豊日が選ばれた。だがそれを快く思わない者もいた。穴穂部皇子という若い皇族と、物部守屋ら蘇我と対立する豪族である。両者は結びついた。
穴穂部もまた蘇我の血を引く者ではいたが、自分が選ばれると信じていたところ豊日が王位を継いだので蘇我馬子に裏切られたと逆恨みしていたのである。血気盛んな若者で、亡き大王の妃炊屋姫を強姦しようとしたり、止めに入った臣下を守屋に成敗させたりと素行の悪さが目立った。ついに彼は現大王を暗殺せんと宮廷を襲撃したがこれは失敗に終わり、逆に馬子らに抹殺された。
ところでそんな問題行動を起こすような皇子を守屋たちは抱え込まなければいかなかったか。蘇我の血を引かず、前大王との血縁が濃い人物が他にもいたというのに。すなわち我が主、押坂彦人大兄である。
最初守屋は彦人を押しに来た。しかし彦人は王の器ではないだの体調がよろしくないだの難癖付けて王位を継ぐことを拒否したのである。あまりにみっともなく懇願するから守屋も渋々引き下がった。そういうわけで彼らは穴穂部を担ぐしかなかったのである。
私もその場にいたが、彦人の情けない姿を見て臆病な凡夫だという感想を抱いた。一方で守屋の方は二年前の冬の日以来まともにその姿を見たが、毅然としていて有力豪族の長としての風格を備え、そしてギラギラと光る眼差しに畏怖を感じた。
守屋をあしらった後彦人はどうしたかというと、馬子との内通をはかった。蘇我の血筋ではない彦人が蘇我に付いても得られるメリットは少ない。せいぜい蘇我の方が優勢だから生き残れる確率は高いというだけだ。生き残ったところで権力とは無縁の侘しい生活が待っている。
死にたくないのは皆同じ、かつてミコはそう言った。しかしこの彦人にはミコのように理不尽な運命に立ち向かおうとするような気概は見られなかった。政治に関わろうとせず、学問に興味もなく、信心深くもなく、ただ財産を蓄えることに熱を上げる。そんな新しい主人を私は還俗的な小物と見なしていた。
それはさておき、彦人の命で蘇我の屋敷へ出入りすることが多くなった。馬子は何かにつけて自分に頼みごとを押し付けるので、もうどちらに仕えているのかわからなくなったのは笑える話である。
ちょうど穴穂部が蛮行を繰り返していた頃である。馬子は反蘇我側が彦人を引き込もうとする動きを察知したと言ってその手の輩が来たら始末するよう私に依頼した。ハッキリとそちらの立場を示せ、と彦人の覚悟を問う意図、それからもう物部らとの全面対決は避けられないことを示していた。
すぐに動きはあった。物部側の豪族、中臣勝海が彦人の屋敷に訪れた。それは守屋の意向か、彼の独断かはわからないが、そんなことはこの際どうでもいいことだ。手筈通りそいつを射殺した。部下も数人手練れの者を連れていたがことごとく殺った。
一応人間として仕えている手前、彦人に道術を見せるわけにはいかなかった。なので弓矢を用いたが、別に腕がいいわけでない。適当に撃った後境界を操る能力で軌道修正して当ててやっただけである。
彦人からべらぼうに褒められたがこれぐらいのことは朝飯前だった。ただの人間相手に手こずるわけにいかない。ただの人間相手になら。
その翌日、物部守屋が単身訪れた。中臣が『勝手に乗り込んで』無礼な行いをしたと謝った上でもう一度彦人に王位を継がないかと持ちかけたのである。気弱な彦人なら揺らぎかねないか、と思ったが意外に頑固で首を振らなかった。守屋もしぶとく交渉を続けた。
途中彦人は私に目くばせした。『守屋を殺れ』相手はたった一人、千載一遇のチャンスであった。これは馬子の依頼でもある。やらない理由などなかった。
だが結局、私は守屋を殺さなかった。殺せなかったのだ。昨日同士が殲滅された場所に、それも護衛もつけずに一人で来た。普通はそんな危険を冒さない。なのに来た。裏を返せば『一人で十分』である。それを証明するかのように尋常じゃない殺気を纏い、腰には件の宝剣を差して、こちらを威圧していた。それの威力は体感済みだ。だから、動けなかった。体が動かなかったのだ。
臆病風に吹かれたのは彦人ではなく、私の方だった。いまだにあの夜を引きずっていたのだ。そんな自分が心底情けなかった。
守屋は諦めて帰る際、私の目線に気づいて声をかけてきた。心臓が高鳴った。
「お前が勝海を殺った舎人か。名は何という?」
「今は、迹見赤檮と申します」
「赤檮、次に会う時は戦場だ。我を追うならば備えておけ」
そう言うと守屋は颯爽と立ち去った。その背中を見据えて、私は決意した。この男に勝つ。それは恐怖を克服することであり、過去の自分と決別することでもある。
物部守屋を倒して真に迹見赤檮になる。なりたい。ならなければならない。ならば、なってみせる。どんな手を使ってでもだ。私は彼の言葉通り、その準備を始めた。
それから大王豊日が死んだ。穴穂部による襲撃の際受けた傷が原因だった。王位が空白となり、世は乱れ、蘇我と物部の対立もついに一大戦争にまで発展することとなった。後に丁未の乱と呼ばれるそれは大王の後継者争いでもあり、有力豪族間の権力闘争でもあり、仏と神の宗教戦争でもあり、私と守屋との個人的な決着の場でもあった。
また、ミコと再会したのもその時である。
蘇我をはじめとする豪族連合軍が河内の守屋の館を攻めに進軍を開始したのは、梅雨が明けたばかりの頃であった。両軍は川を隔ててあいまみえることとなった。
連合軍の総大将、蘇我馬子は軍を二手に分けていた。数で勝るとはいえ国防を任されてきた物部の精鋭達と比べれば烏合の衆、無策で勝てる相手ではない。地の利も向こうにある。そこで彼が取ったのは伏兵を使った後退戦術であった。
まず主戦力を抜いた第一軍をぶつけ、わざと物部軍に押されるようにする。そして徐々に下がりながら敵軍の進出を促し、自軍に有利な地形に誘い込む。そこで隠していた本命の第二軍を横から突撃させ一気に叩こうというわけだ。
正確には第二軍をさらに二つに分けていた。精鋭で固めた実働部隊と、それより後方で皇族を守護する部隊の二つだ。馬子は大王に仇なす逆賊守屋を討つという大義を掲げるために大王候補の皇子達をこぞって戦場に連れ出していた。当然そこに彦人も含まれていて、私も護衛として付き従っていた。
主戦場に加わって守屋の首を獲りに行きたくて仕方なかったのだが、彦人はどうしても自分に居てくれと懇願するものだから後方待機である。この自己保身ばかり考える主人を忌々しく思ったがどうしようもない。
戦が始まって、後方と言えど慌ただしい雰囲気が取り巻いた。戦局は『馬子の作戦通り』物部軍の優勢らしく、何も知らぬ末端には不安が広がっていた。特に皇子達は非戦闘員で年も若いため、どうなっているんだと怒声を挙げる者や泣き出す者までいた。
そんな中で一人妙に落ち着いている者がいた。豊聡耳皇子――ミコである。彼の元には入れ代わり立ち代わり配下の者が訪れて何やら報告をしていたが、それを聞くミコの表情は穏やかで時に笑みさえこぼした。
そんな彼の様子を遠目で眺めていたところ、彦人に気づかれた。
「どうしたのかね赤檮……なんだ豊聡耳君を見ていたのか。そう言えば君は彼の元舎人であったな、挨拶をしてきてもよいぞ」
「よろしいのでしょうか、持ち場を離れて」
私に散々傍で守れと言っていたのに、と内心思い少し馬鹿にして言った。彦人も嫌味と受け取って怪訝な顔をした。
「それぐらいは許すわ……ただしなるべく早く戻れよ」
「お気遣い感謝いたします」
一礼して、彦人の元を離れた。しかし挨拶と言っても何を話せばいいのやら。もうミコとは二年会っていないことになる。いつかの激情に顔を歪ませたミコの姿が頭をかすめた。そうだ、まずはあの時のことを謝ろう。
一歩、また一歩とミコに近づく。彼はちょうど河勝と談笑していた。ふと相手と目があった。ミコは私の顔を見るとクスリと笑い、河勝を下げさせて、こちらに向かってきた。
お互い手が届くほどの距離で、私達は対面した。先に口を開いたのはミコの方だった。
「久しいな赤檮。二年ぶりですね。やっぱり変わってないな君は」
「ミコは随分成長されましたね。出会った頃は華奢で女子のようでしたが、逞しくなられました。先王の件は残念でした。ですがその御意志はしかと受け継がれているようです」
「前言撤回。君は変わりましたね。お世辞を並べるのが上手くなった」
「ご褒めに預かり感謝の極み」
深々と頭を下げつつ、ミコの身体をじっと見つめる。さっきの文句は考えるよりも先に飛び出したのであったが、確かに背も伸び、体つきも男らしくなったように思えた。しかし相変わらず華奢なのには変わらないなと思った。まるで別人のようになっているのではと危惧していたので少し安心した。
「何ですかまじまじと見つめて。恥ずかしいじゃないですか」
「す、すみません……私はそんな変な気などは……」
「くすくす。乙女ですか君は」
ミコはニヤニヤとさせてからかった。こういうところも変わらない。そして笑顔であっても本心から笑っているわけではないところも、変わっていないのだろうと思った。
「さてさて、ちょうどいいところに来ましたね。そろそろこちらから呼ぼうかと思っていたんですよ。君の欲望を叶えるためにね」
「……どういうことです?」
「申し訳ないが私には筒抜けですよ。赤檮、物部守屋を討ちたいか」
ミコの欲を悟る能力も当然健在であった。私はコクリと頷く。
「私の作戦にも君の存在が不可欠となった。君の願いを叶えよう、だから私に付き従ってくれますか?」
「勿論。ですが作戦とは一体……」
「これから説明します。その前に場所を移しましょう。付いてきてください」
「あ、ちょっとお待ちを」
私は振り返って彦人の居る方を見た。
「彦人様の許可を頂いてもよろしいですか」
「許可を出すのは私です。アレじゃない。わかりましたか、迹見赤檮」
ミコは強引に私の手を引いて、陣を抜けようとした。私は面食らってしまった。まさかミコがこういう態度に出るとは思っていなかったからだ。
「今しばらくは私の舎人に戻ってもらいますから」
ミコにそう言われた時は少し嬉しかったが、同時に言いようのない不安に駆られた。どこか自分の知っているミコではない気がして。それから彼は、抑揚のない声で告げた。
「それと私への謝罪は必要ありません」
どのことを指して言っているかはわからないはずもなかった。こうして私は、あの時自分がしたことへの許しを得る機会を、永久に失った。
「さて、この辺でいいでしょうか」
ミコに連れられて歩き回っていたところ、小高い丘の上に辿り着いた。見晴らしがよく、戦場を一望できた。物部軍は順当に大和連合軍を押していた。
「こんなところに来ていいのですか。自軍から大分離れていますよ。いざという時……」
「なんとかするのは君の役目だろう? 私が考えなしに行動すると思います?」
「失敬」
「では作戦を説明するよ、まずはこれを見てくれますか」
ミコは腰に差していた巻物を取り出して広げると、なんとそこから様々な武具が飛び出してきた。これは仏法の封印術だと彼は言った。よく見ると剣や弓、棍棒だけでなく勾玉や鏡などの祭具もある。その中に見覚えのある一振りの太刀を見つけ、私は驚愕した。
「その剣、守屋の……!」
「布都御魂剣。勇猛な雷神タケミカヅチが遣わした宝剣にして物部の切り札の一つですね。これらは全て八十あると言われる物部の神宝、の一部です。流石に全てを回収することはできませんでしたが」
ミコ曰く、守屋は普段は妖怪退治のみに使用するこれらを解禁して、数で勝る連合軍を蹴散らそうと考えていた。神の力が宿る宝具は対人においても絶大な威力を誇る。そんなものを使われたのでは流石に勝ち目がない。だから使われる前に奪ったのだと。
しかしながらよくもこんな数を揃えたものだと思った。ミコは全部で八十あると言ったが、ざっと数えて六十三。四分の三を超えている。数はまぁいいとしても、あの物部守屋から布都御魂剣まで盗んだなどと到底信じられなかった。そんなことを許す相手には見えない。だから不思議で仕方がなかった。
「いったいどうやって……」
「布都にお願いしました」
布都姫。蘇我馬子の妻であり物部守屋の妹。ミコはさらっと言ってのけたが、それは彼女に実家を裏切らせたということだ。いくら蘇我に嫁いだ身とはいえ兄を滅ぼす手伝いなど並大抵のことではないはずだ。
ミコは笑みを崩さない。そんな彼が少し恐ろしく思えた。
「まぁここまでは良かったんですけど、ちょっと事態が悪い方に進んでしまいましてね、物部の秘宝を奪われたと気付いた守屋は慌てて代替策を打ち出しました。まず丸腰になった自分は前線へ出ず奥へ引っ込んだ。そして今度は神様そのものを戦場に送り込んだのですよ。あ、あそこ、よく見てください。わかりますか?」
ミコが指差した方は主戦場だった。そこで旋風が吹き荒れ、連合軍の兵士をまるで塵かのように吹き飛ばしていた。
「布都御魂剣を授けた雷神タケミカヅチに比類する実力を持ち、東方を征服したという風神ヤサカカミナです。ハッキリ言いましょう、我々とは格が違いすぎる。あんなの反則です」
「ヤサカね……確かに」
ヤサカカミナ、古くはタケミナカタと呼ばれたそれの実力はよく知っていた。かつて私を追い払った巫女の一人がヤサカを祀りその力を借りた者だったのである。ヤサカの巫女にすら手酷い目に遭わされたのだから本人ともなれば圧倒的だろう。もっとも当時の私は今より格段に弱かったのではあるが。
「しかしこちらも仏教の神様を味方に付けているのでは?」
昔の記憶を引っ張り出していたらふと多聞天のことを思い出したので訊いてみた。戦力としてどうなのかと。だがミコの反応は芳しくない。
「それはそうです。何のために彼らを敬ってきたかといえばそれは旧来の神々に対抗するためですから。多聞天ら四天王は全員出撃させました。しかしこちらは四。向こうは八百万ですよ。今度はこちらが多勢に無勢ですね」
流石にヤサカ程格の高いのはそうそういませんが、と付け足したもの、良い状況と言えないのは明白であった。馬子の策はあくまで人対人を想定したものだ。荒ぶる神々に力づくで押し切られる可能性が高い。
「まずいですね」
「あぁまずいよ。そういうわけで急遽守屋暗殺を企てました。神々はどうも守屋と個人で契約しているらしいので、守屋さえ殺せば戦う理由がなくなると。それで隠密部隊を送り込んだのですが……全滅したとの報告を受けました」
「守屋はこの剣を持っていなかったのに?」
「そう。だから簡単に殺れるかなと思ったんですが甘かったですね。奴は神様を護衛に付けてたらしいです。それもヤサカ並みの。襲撃の失敗は手痛いです。こちらが暗殺を狙っていることが悟られたので今まで以上に警戒して、多分同じ場所にはもういませんね」
「守屋を仕留めなければ神様軍団は引かないというのにその守屋は神様に守られている。万事休すではないので?」
素でそう思った。攻撃は最大の防御とは言われるが、この場合は防御が最大の攻撃である。事態は思っていた以上に悪かった。これではこの戦、負けるのではないか。
しかしミコはにやりと笑ってみせる。まるで兎を追い詰めた時の狼のように。
「それがですね、そうでもないんです。守屋が逃げ隠れるのであれば場所を特定すればいい、神が護衛についているなら神さえ欺けばいい。そのために今、ここに二人でいるじゃあないですか。私と君とでやるんです」
「私と、ミコとで……?」
「はい。まず私がこの耳を極限まで研ぎ澄ませて守屋の鼓動を聴き取り、その位置を特定します。これはすでに一回目の暗殺作戦で試しているので確実だと思ってください。そしてその場所を伝えますので赤檮は護衛の間合いの外、つまりここから守屋を射殺してください。これが本作戦の概要になります。理解しましたか?」
いやいやいや。その理屈はおかしい。何がおかしいって私がここから遠く離れた守屋を射殺すことが前提になっているのがおかしかった。普通に考えて無理だ。
「いやいやいや、君は普通なんかじゃないでしょ……私知ってるんですよ? 君が矢を射る時小細工してるの。空間を歪めて当てる。それをやればいいだけじゃないですか」
「しかし、相手の姿も見えないのにそんな、遠距離射撃なんてやったことないですし」
ごねる私をミコは諭すように、力強く言った。
「場所は教えると言ってるじゃないか。そこへ向かって撃てばいいんです。距離が遠いというのであれば縮めればいいだけのこと。いいですか、君はそういう能力なんです。この世の物は境界で成り立っている、それを弄れるということは万物を思うがままにしうるということだ。その弄り方がイマイチわからないというのであれば教えよう。安心していい、君にとっては守屋の首を獲ることなど本来朝飯前なんですから」
ミコの言葉には魔力がある。初めて会った時からそういう印象を抱いていた。彼がそう言うならできる気がする。その時思いついたのが、空間に裂け目を作ってそこに矢を放ち、その出口を守屋の居る所に作るということだった。そんなことはやったことなかったが、不可能ではないはずだ。その案を伝えたところ、彼も同じことを考えていたようだ。
「そうそう、当てりゃいいんだから途中で何度も軌道修正する必要ないんですよ、過程をすっ飛ばして発射と着地を繋げればいいだけ。見た目としては瞬間移動ですか。それにもっと早く気づいていたら彦人邸で守屋を暗殺できなくもなかったのに」
「ところで何で知ってるんです? 私はこの二年程ミコとは会っていませんが」
「それは私も同じですよ。ただずっと見てました。間者を彦人の屋敷に潜り込ませていましたから。君のことを気にかけない日なんてなかったんですよ」
そう言われると悪い気はしなかった。てっきりミコからは嫌われて追い出されたものだと思っていたので嬉しかった。ただ一方で、自分に利用価値があったから目を付けていたにすぎないということも理解していた。
元よりそういう関係だったのから構わない。私にとって重要なのは関係が続いていることであった。
ミコは私に名前をくれたあの日のように、甘い声で誘った。
「というわけで次に会う時はこう言うと決めていた。迹見赤檮、君が必要だ。私を助けてくれますか」
「ミコ、私でよろしければ」
跪き、恭順の意を示す。それを見てミコはふふっと笑った。心なしか、本心から笑っているように思えた。
「それでは最終準備といきますか。ちょっと待っててください、今から守屋の声を聴き取ります」
そう言うとミコは深呼吸して、気を練り始めた。道術で己の能力を高めているようだった。彼の髪はふわりと逆立ち、まるで獣の耳のようになった。アンテナ、と言った方が相応しいか。聴力の拡張を視覚的に表していた。
「物部殿は現在西の……守屋様はどちらへ……屋敷の……」
ブツブツと呟くミコ。膨大な音の中から必要な情報を一つ一つ掬い上げるように。やがて彼の逆立った髪はぺたんとしなった。情報の選別を終えたようだった。
「守屋はあそこの木に登って戦場を見ているようですね」
ミコは森の中を指差すが、正直どの木のことなのかわからなかった。それを察してミコはこう言った。
「まぁ指差したところでわからないでしょうから、私の得た情報を君の頭の中に直接送り込みます」
「頭の中に直接って、どうやってですか」
「私と君との境界を緩めてください。ようするに一心同体になるってやつです。言葉通りにできるのは君ぐらいでしょうけど。ただし一瞬だけですよ、一生君と合体したままなんて嫌ですから」
はたして彼の言うようなことが自分にできるのかと疑問が浮かんだが、深く考えるよりも先にミコが私の胸元に飛び込んできた。
生暖かい感触が伝わる。人を抱くというのは、けっこう長く生きてきたとはいえこの時が初めてで、奇妙な感覚を覚えた。ミコの体は柔らかく、そして細かった。強く力を入れたら折れてしまいそうだった。
いいから早く、と急かされて私は自分を形作る境界を弄り、彼との同化を試みた。緩やかに自分が自分でなくなるような感覚が訪れる。そして異物が流れ込んでくる。
真っ先に受け取ったのは木の上に腰掛ける物部守屋の視覚イメージだった。遅れてその座標が送られてくる。その場所がどこかが認識できた。
情報を送信受信しているというよりは共有していると言った方が正しいか。私とミコは徐々に溶け合って、一つになろうとしていた。
これはミコのことを知るチャンスだと思った。今までミコはその能力で相手を見透かしてきたが、自身の思いは晒そうとしなかった。あの一回を除いて。今ならミコという人間を理解できると思った。
しかしそんな私の欲をミコは許さず、拒否した。意思の奔流に弾かれて私は元の迹見赤檮という一個体へと戻っていく。気が付けば、尻餅をついて倒れていた。そんな私をミコは見下ろしていた。いつもの冷たい笑顔で。
「駄目じゃないですか、一瞬って言ったでしょう。覗き見は程が過ぎると嫌われますよ」
「すみません」
自分はいつも人の欲を覗き見ているじゃないかと反論したくなったが、飲み込んだ。そんなことよりさっきミコの意思に弾かれた時に、かすかに聞こえた声が気になっていた。声というか思念ではあるが、聴覚的に捉えたので声でいいだろう。ミコの心の声。おそらく本音。
「タスケテ」
と彼は言った。確かにそう聞こえた。いつかの蘇我邸での馬子や布都姫や、双槻宮を去る際のトジコの言葉を思い出した。ミコを助けてやってくれ、あいつは助けを求めている。
「……どうしました、赤檮。こんな時に『ぼんやり』しないでください。守屋が動く前に仕留めないと」
深く考え込もうとしていたところミコに中断させられた。確かに『ぼんやり』している場合ではない。頭の中を切り替えて立ち上がる。
私はふと目に付いた物部の宝の中から矢を手に取った。普通の妖怪であれば神の加護を受けた宝具に触れることさえかなわない。だが私は神の力を馴染ませる術を数週間かけて編み出していた。勿論守屋の宝剣対策だった。
謂れのある矢を使えば成功率が上がる、そんな気がした。験担ぎでもある。ミコもこれを狙って物部の宝具を盗ませたのかもしれない。そうだとすれば孫子や孔明に並ぶ策士だなと思ってクスリときた。
弓を構えて遠くを見据えた。ぶっつけ本番だが、不思議と上手くいく気がした。なにせミコがついている。かつて守屋はミコの力を借りて私を追い詰めた。今度は私の番だ。宿敵を討ち取り、因縁を断ち切る。
虚空へ向かって射た。放った先の空間が割れ、その中へ矢が吸い込まれていく。そしてそれを守屋の居ると思しき所へと繋げる。無事当たったかどうかはわからなかった。けれど私は当てたと信じ込んだ。
ミコの方を見る。すると彼の髪は逆立っていた。おそらく守屋の生死を確認するためだろう。しばらくして彼は口を開いた。
「よくやってくれました。そしておめでとう。君は勝った」
それを聞いて、一気に力が抜けてへたり込んでしまった。やった、やってやった。この時まで私は一度足りとも守屋のことを忘れはしなかった。強敵だった。多分ミコの協力なしに前線で対峙していたなら、勝てたかどうかわからなかった。
歓喜に打ち震えていた。守屋と過去の自分に引導を渡したことに。自分の新たな可能性を見出したことに。そして何よりも、ミコと共に得た勝利だったことに。
それと同時に今まで自分を構成する要素の一部であった守屋への対抗心が抜け落ちてしまい、放心していた。だから、そいつが現れた時、反応が一歩遅れた。
「よおおおおくううううもおおおおやああああってくれたなああああ」
突然大地が裂け、中から巨大な蛙が飛び出して私の体を跳ね飛ばした。蛙は姿を変化させて小さくなり、人間の少女の姿になって私の首根っこを掴み、持ち上げてまた投げ飛ばした。
童女の髪は金色で、神々しくも荒々しい闘気に満ちていた。一目で人外であることはわかった。おそらく守屋の護衛をしていた神だろう。それも祟り神の部類の。
「恥知らずな卑怯者めが。影でこそこそ這いずりまわりやがって。二度はないと思っていたが、今度は外道を連れてきてズルしたな? 私がこのような輩を許したことは今までに一度だってない。ミジャグジの名に於いて、お前らを八つ裂きの刑に処す!」
祟り神はそう言うと地面を蹴った、すると錆びた鉄の輪が飛び出した。それを祟り神は掴むと私に向かって投げた。
急所を狙ってくることがわかっていたから走って避けようとするのではなく、当たる直前に体を分離してかわした。輪はそのまま遥か彼方へと木々を薙ぎ倒しながら飛んで行く。祟り神はふん、と鼻を鳴らした。
「小細工は得意なようだな、化物。まさかお前みたいなのがいたとは守屋も想定外だったろうな。だが安心しろ、ちゃんと殺してやるから。その前に……」
ブン、と風を切る音が近づく。振り返ると、飛んで行った鉄の輪が戻ってきていた。そして私ではなく、ミコの方を狙っていた。慌てて近くにあった布都御魂剣を手にして輪とミコとの間に入り、叩き落とした。斬ることはできなかった。ただの鉄の輪ではないのだろう。弾かれた輪は突然消え、祟り神の手元に戻っていた。
「布都御魂剣……! どこまでも卑怯な奴だ、お前たちが姑息にも盗まなければ守屋が負けるはずなかったんだ! 許さない、絶対に許さないぞ……祟り殺してやる……」
「どうか御気を静め下さい、東国の神よ。物部守屋殿はすでにこの世に居られません。然らば私達と貴方が争う理由はないはずです」
「あぁん? お前らが姑息なやり方で守屋を殺したから追って来てんだよ。そりゃ真っ当に戦ってあいつが負けたならおとなしく帰るさ。でも違うだろうが。あまり舐めた口きくようなら閻魔に代わって舌を抜くぞ、糞餓鬼」
守屋が死んだら神々は引き下がると思っていたミコは甘かったのだろう。敵の大将を討ち取ったものの状況は好転していない。むしろ神を怒らせて悪化したと言える。私はミコを背中に隠し、剣を構えて祟り神を睨んだ。向こうもまた輪を投擲しようとポーズを取った。
その時。眩い光が辺りを照らした。光はやがて収束し、見覚えのある形になった。白髪の割に若々しい顔立ち、武人らしい毅然とした佇まい。ただし体は透けていて、足はなかった。
「守屋!」
「物部殿……」
紛れもなく、物部守屋その人……の亡霊であった。守屋の霊は祟り神に向かって腰を深く曲げて拝んだ。
「モリヤ様。どうかお引き取りください」
「な、何故だ守屋!? あいつらはお前を卑怯な手で葬ったんだぞ! 不本意であろう。よって私がお前の代わりに雪辱を晴らしてやろうとな」
「どんな手であろうと、我が負けたことには変わりません。契約は切れております。ここでモリヤ様が手を汚せば、その名まで汚すこととなります。どうかお引き取りください」
「あ……う……わかったよ。お前がそういう潔い男だからこそ私らも手を貸したんだ。わかったからそんな子犬のような目で見ないでくれ」
モリヤと呼ばれた神は渋りながらも手にした輪を離した。輪は地面に落ちた後溶けて消えた。気が付けば、戦場の方で吹き荒れていた風はすっかり止んでおり、ヤサカを始めとする神々は撤収を始めたようだった。
守屋は振り向いて私の方を見た。そして何かに気づいて、驚いたように言った。
「我の首を獲ったのは、あの時の妖だったか。よくも我を倒すほどにまで成長したな。もっともあの時殺せなかった時点で我の負けだったのかもしれん」
「いや、私一人では勝てなかった。ミコのおかげです」
率直な感想を述べた。だが守屋はそれでも貴様の手柄には変わらないと敵である私に賛辞を送った。そんな調子であるから、ますます私はこの男には敵わないな、と思ってしまうのであった。
それから守屋はミコに向かって頭を下げた。ミコは困惑してその旨を問うた。
「此度はこうして敵対することとなりましたが、今もなお我も皇族に仕える身であると思っております。ゆえにこれから茨の道を行く豊聡耳様をお助けできないこと、悔やみます」
「やめてください……私は貴方の未来を、物部の未来を奪ったのです……それも己が欲のために」
ミコはひどく申し訳なさそうに守屋を見た。そんな辛そうな表情のミコは初めて見た。
顔を上げてくださいとミコは懇願するが、守屋は深々とお辞儀したまま話を続けた。
「しかも我はこれから貴方様にまた一つ重しを載せることになります。それをどうかお許しください。勝手な願いではありますがどうか……布都を頼みます」
「わかりました。彼女は私にとっても大切な人です。絶対に悪いようにしません。だから謝らないでください……!」
泣きながらミコは守屋の肩を掴もうとするが、空しく空振りした。守屋の姿は目に見えて希薄となっていく。そして最後は頭を上げて、笑って、消えた。
私にはその笑顔が作り物だとわかった。ミコのソレと全く同じだったからだ。口ではああ言っていても、やはり思うところはあるだろう。志半ばで倒れた悔しさだとか、次々と部下を家族を討たれていくことへの怒りだとか、残された妹の将来に対する不安だとか、色々だ。けれど彼はそれを飲み込んで、怨霊と化す前に、逝った。
そんな守屋を立派だと褒め称えるのは人間の尺度によるものだ。だが人間ではない私にも、いや人外だからこそか、尊敬に値する人物だと確かに思えた。
守屋が消えるのを見送って、モリヤもその場を立ち去ろうとした。その際、膝をついて項垂れているミコに向かってこう言い残した。
「守屋に免じて今日のところは帰らせてもらうがな。それでもお前とお前の一族を呪わずにはいられないぞ。覚悟しておけ」
「……わかってますよ。そんなこと」
祟り神が消えた後、ミコはぼそりと呟いた。その表情はよく見えない。私には見せてくれなかった。
静寂は長くは続かなかった。馬が土を蹴る音がどんどん近づいてきたからだ。やってきたのは河勝だった。彼は息を切らしながら馬から降り、大声で状況を報告した。
「はぁはぁ、探しましたですぞ! 厩戸様、戦局が大きく動きました。物部軍の神々が突如として退きまして、馬子殿が第二軍を突撃させました。物部軍は崩れ、こちらの優勢となっています。それとこれは未確認情報ですが、物部守屋を討ち取ったと……」
「守屋を討ち取ったのはここの赤檮ですよ、河勝」
「な、それは真ですか! すごいじゃないですか赤檮君! いやぁかねがね君は何か大きなことをしてくれると思っていました! 赤檮君すごいすごい!」
むさ苦しいのがこちらに抱き着いてきた。ミコと違ってただただ鬱陶しい。汗臭い。そして十字架が当たるたびにチクチク痛む。この国の神器とはまた別系統の魔除けなので対策が効かなかった。
「河勝、馬を借りますよ。赤檮、後で大将首を」
ミコは無情にも私と河勝を置いて先に本陣に戻っていった。まとわりつく馬鹿をなんとか引き剥がすと、ミコの言う通り守屋の首の回収に向かった。
陣に戻る頃には、あらかたの決着がついていた。総指揮官の馬子を始め、皆が私を熱狂的に迎え入れた。大歓声の矢に撃たれて、私も段々熱を帯びていった。
そのまま勝利の宴になだれ込んだ。主人の彦人に抱き着かれて無事戻って良かったと言われた。その日抱いた三人目である。そこから先は覚えていない。いろんな人に揉みくちゃにされた。私からも何人か抱き着いたかもしれない。浴びるように酒を飲まされたから羽目を外していたとしても不思議ではなかった。
その席に馬子はいなかった。物部の残党狩りを指揮するため抜けたらしい。そのため代わりに息子のエミシが周りの豪族たちに担がれて幹事を務めていた。おとなしい印象があったからこういうどんちゃん騒ぎは苦手かと思いきや意外、率先して酒を仰ぎ音頭を取っていた。それを見て叔父の魔理勢などはエミシも蘇我の男になってきたななどと評した。
馬子の他にも、先に戻ったであろうミコの姿も終始見えなかった。
今にして思えば、この時ミコを探しに行けば良かったのだろう。けれど守屋との決戦を終えて興奮状態にあった私はすっかり忘れてしまっていたのだ。
助けて、という言葉を。いろんな人に言われた言葉。そして何よりもミコ自身が言った言葉を。
結論から言って、私はミコを助けられなかった。否、助けなかった。あんなに願われていたのにもかかわらず。
もしかすると、最初から助ける気などなかったのかもしれない。そう指摘したのは、最も真実に遠いところにいたと思われた、物部の姫君であった。
戦後、大将を討ち取った功績で物部氏の遺領の一部を与えられた。しかし相変わらず私は彦人の元で舎人を続けていた。
次の大王にはあの穴穂部の弟泊瀬部皇子が選ばれた。我が主は相変わらず権力とは無縁である。そもそも豊日の時にしろこの時にしろ、彼は率先して蘇我系の皇子を推薦して回っていたらしい。
泊瀬部は兄と違い始めは馬子に恭順の意を示していた。どうも天皇になって享楽的な生活を送りたかっただけらしかった。しかしそんな者をいつまでも王位に留まらせておく馬子ではない。あまり将来を見通せないところは兄譲りなのか、馬子の煽りに乗せられて蘇我を滅ぼそうとする意思を見せたために、正当防衛という文句で馬子に暗殺された。即位してから五年後の話である。
次の大王はいよいよ本命のミコか、あるいはひょっとして彦人なのかと思いきや、意外にも先々代の皇后炊屋姫が選ばれた。彼女も蘇我の血は引いていたし、皇后として政務を取り仕切った実績もある。本当は彼女の息子である竹田皇子も候補に挙がっていたが直前に亡くなっていた。
ミコはやはり大王になりたくなかったのか。それでも一応皇太子、次の大王位を約束された者、として女帝の補佐に回った。こうして炊屋姫・ミコ・馬子の三頭体制ができあがり、いまだに混迷の中にあるこの国の安定化を図っていた。ミコや馬子、その子らや河勝などと会う機会は立場上ほとんどなかった。彼らは最早遠い存在となっていた。
ところで主人についてだが、この頃には評価を改めていた。以前私は彦人を『臆病な俗物』と見なしていた。しかし彼はただ我が身可愛さのために保身に走っていたわけではなかったのだ。全ては次世代に望みを繋ぐためであったのだ。
彼が頑なに王位を拒んだのは、権力闘争に巻き込まれて穴穂部・泊瀬部兄弟のような末路を避けるためであった。彼は馬子やミコが生きている間は王になれない、なろうとしてもろくなことにならない、と冷静に分析していた。だから自分は一族を守ることに徹し自分の息子や孫に託そうというわけだ。
財を蓄えることに執心したのもそういう理由だった。財政基盤を整えることは後の世代が王となり国家を動かす際きっと役に立つだろうと。
彦人はただの凡人ではなかった。その実『普通の人間の範疇で』賢明な人物であった。そうであると段々わかってきたものだから、私も以前ほど彼に仕えることに不満を持たなくなった。むしろ彼のこうした行いがのちに実を結ぶか否か見てみたくて、仕え続けている面はあった。
もっとも私が彦人の屋敷、正確に言えば都に留まり続けた理由は他にもあった。戦後大和の国では妖怪の出現数が急激に増えた。理由は簡単、それまで妖怪退治を任されていた物部・中臣氏がいなくなったからだ。そこで戦の英雄迹見赤檮は妖怪退治の英雄でもあらざるを得なくなった。
私は物部の仕事だけでなくその秘宝も受け継いだ。そういうわけでこと戦闘で苦労することはなかった。神の力を使いこなす術も改良し、宝具はますます馴染んでいった。もっともそうした神器を使うまでもない相手が大半だったが。
「貴様も同じ妖怪の癖に何故人間の味方をするのだぁぁぁぁ!」
こういう今際の言葉は何度も聞いた。しかしだからなんだと私は思っていた。同じ妖怪と言っても種族は違うし、見ず知らずの相手に仲間意識など持てるはずもない。それは人間に対しても同じで特別見方をしているという意識はなく、ただ仕事だからこうして妖怪を狩っていたにすぎなかった。
中には私を妖怪と見抜いた上で、降参して助けを乞う奴、人間社会で生き抜く術を教わろうとする奴もいた。私もかつてはそういう経験をしたため命を取るまではせず、彼らに知恵を授けてやったりもした。
すなわち組織的に行動し、人間を食う時は少数で隠密に、恐怖を示す時は大勢で露出せよと。そうすれば人間も容易に手を出せなくなると。これは私の仕事にとってマイナスではなく、むしろプラスになるように考えてのことだった。お蔭で何も考えずに突っ込んでくる馬鹿が減って楽になった。
人間の世界以上に無秩序だった妖怪の世界も、数年で原始的なムラを形成するようになった。もっともヤマトの中央部だけの話だが。そして表向きは妖怪退治屋の私が裏で妖怪の賢者などと持て囃されたりした。人間からだろうと妖怪からだろうと、感謝されることは嫌いではない。馴れ合うつもりは毛頭なかったが。
こういう根回しが高じて仕事量は年々減ったが、他にも仕事が減る理由はあった。他の妖怪退治屋が台頭してきたのである。石上神宮を基盤とする石上氏。石上神宮は元々物部氏の神社であり、石上氏は戦後逃げ延びた物部氏が姓名を変えたものだという噂があった。
実際に妖怪退治の腕からもその噂の信憑性は高かった。当主は守屋の弟贄子とも言われていたが決して姿を現さなかった。それもそのはず蘇我氏が権勢を誇るこの時代、大手を振って歩けるはずもなかろうというものだ。
ところがその当主が突然彦人の屋敷に連絡をよこした。同業者の私と直接会って相談がしたいという旨であった。あの丁未の乱から十五年くらい経った頃のことである。
石上がもし物部の残党なら、守屋を討った迹見赤檮は一族の仇。彦人は私の身を案じて申し出を断れと言ったが心配無用と単身石上神宮に向かった。たとえこれが罠であったとしても謎の石上の当主に会ってみたかったのだ。むしろ罠であることを期待していたくらいだった。
あの戦い以来、私を強烈に惹きつけるような好敵手と出会えておらず、退屈だった。妖怪を寄せ付けない強さと評判の石上当主であれば期待十分である。かつて『ミコ』を求めて守屋にバラバラにされたことはたいして反省していなかった。リスクを冒すことにスリルを感じるのはもう自分ではどうしようもない性分だと諦めていた。
石上神宮は山の麗にあって人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。当主に仕えていると思しき老婆が一人鳥居の前に立っていて、その案内で奥の拝殿へと進んだ。人気はこの老婆以外になく、彼女もまた私を部屋に連れて座らせると直に当主がお越しになりますとだけ言い残してすぐに消えた。
鬼が出るか蛇が出るか。期待を膨らませてそわそわとしていたところしばらくして、石上当主が姿を現した。そいつを見て、予想外の相手に驚いた。顔見知りだったのだ。
「久しぶりだな、赤檮殿」
「布都姫……!」
噂では当主は物部守屋の弟と言われていた。それはある意味惜しかった。石上の当主は弟ではなく妹の方だったのである。
「お主はあんまり変わらんな。最後に会ってから十五年以上経っておるというのに」
「それを言うならば、姫様こそ……」
布都姫は見た目だけだと全く年を取っていないようだった。記憶の中にある童女の姿と一致していた。ただし髪だけは白くなっていた。まるで守屋のように。
不審がる私に向かって彼女は不敵な笑みを浮かべ、質問した。
「のうお主、我の年はいくつだと思うか?」
「ええと初めてお見かけした時は大王が三代前の時で、その時にはこれぐらいに見えましたから、最低でも三十路前でないと……」
「ちょうど五十である」
「ご、五十!?」
ということは初めて会った時にはすでに三十代であったということだ。しかも蘇我馬子より年上である。この見た目で。
もっともそういう想像をしなかったこともない。守屋の妹なのだから見た目より年老いていて、なんらかの術で若く見せていると。
布都姫はざっくりと説明した。曰く物部の祖先は神であった。人に力を貸そうと人と交わって、今の我々がいる。そういうわけで一族の中には先祖返りして神のごとき力を持ち若さを保つ者が現れる、と。
「それが我や兄上だ。特に我にいたっては血が濃すぎてこの有様だな」
彼女は苦笑いをしながら吐き捨てるように言った。自分で望んだことではないのだろう。かつてミコのことを化物扱いを厭うと評したが、彼女自身もそういう扱いを受けて苦労したに違いなかった。
「もっとも年を取っていることには変わらぬ。物部の一族で百年も生きた者はおらぬしな。兄上も件の戦がなければそろそろ死神の誘いが来る頃であろう」
お主が兄を殺さなければ、と咎められている気がした。だが慌てて布都姫は訂正した。
「すまぬ、誤解を与えるような言い方をした。けっして我はお主を恨んだりとかはなくてだな……そもそも兄上を殺したのは我のようなものだ。我が裏切ったから物部の者は死んでいったのだ」
腰に差した布都御魂剣を始めとする物部の秘宝。これを持ち出したのは目の前の布都姫だとミコから聞かされていた。間接的にだが彼女は守屋暗殺に加担していることになる。だからか自責の念に駆られていたようだ。
しかしそれはミコの指示によるものだし、布都姫はこのような結末を迎えるとは知らなかったのではないか。そう言ってみたら、彼女はブンブンと首を横に振って否定した。
「そうではないそうではない、我がミコ様に物部滅亡の企てを持ちかけたのだ。全ては仏教を隆盛させるために」
この言い分は妙だと思った。私の知る限りミコはともかく布都姫は仏教徒ではない。むしろ仏像を怖がって燃やしてしまい夫や子に怒られていたくらいだ。何か裏があるのだろう。その辺を突いてみようと思ったが相手は話題を逸らした。
「まぁそれはともかくだ。我はお主に恨みなど微塵も感じておらぬ。むしろ感謝しておるくらいだ。此度もお主を害する謀のために呼んだわけではない、ただ話がしたくて呼んだのだ。どうか安心してくれ」
石上当主との一騎打ちを密かに期待していた私にとっては少し残念であった。
「お主……何故不満そうなのだ」
「い、いえ。不満など何も」
「まぁよいがな。では赤檮殿、まずはお主に訊きたいことがあるのだが、よいか?」
「何でしょう」
「兄上の最期が如何様であったか、教えてくれぬか」
どうせ彼女には私の正体も感付かれている。だからまず守屋と出会った時から遡って、ミコの協力を得て守屋を暗殺したこと、怒った祟り神と対決したこと、守屋の亡霊が神の怒りを鎮め、妹のことをミコに頼み、昇天したこと、全て包み隠さず話した。それを布都姫は静かに聞いていた。話が終わった時にはぼろぼろと涙を溢していたが、表情は穏やかであった。
「……ふむ。そうか。兄上は我のことを……よくぞ、よくぞ話してくれた! やはりお主でよかった。兄上を討ったのがお主で。感謝してもし尽せぬわ」
「感謝されるほどではありません……そうだ、こちらお返しします」
そう言って私は布都御魂剣を差し出した。自分にとって因縁のある物だったからあれ以来ずっと持ち歩いていたが、やはり本来の持ち主たる物部の者に返すべきだろう。話をしているうちにそう思うようになっていた。
「今はこれだけですが、いずれ物部の宝は全てお返しさせていただきます」
「おお……いや別に良いのだぞ、使える者が使ってくれた方が兄上も喜ぶような気がするのでな」
「いえいえ、私は剣は得意ではなくて宝の持ち腐れでしたし」
「そうか? なら有難く頂いておこうか。そう言えば赤檮殿、この剣と我の名前が同じことに気づいたか」
「はい。それが如何しました?」
「物部は神の末裔であるとは言ったな、そういうわけで一族の者は神の名前にあやかって名付けられることが多い。我の場合はこの剣に宿る神霊が由来である。そう思うと、何かこう、しっくりとくるであろう……あぁ、それだけのことだがなうん」
布都御魂剣を手に持ってじっと見つめる布都姫。守屋が常々この剣を持ち歩いていたのはもしかすると妹のことを気にかけてのことだったのか? 想像の域を出ないが。
守屋というとあの祟り神の名前もモリヤだったが、ちょうど布都姫と布都御魂剣の関係と同じかもしれない。そう考えると『しっくりときた』。
あの神については興味本位で少し調べた。なんでもこの辺りより遥か東にある諏訪湖という湖の神様らしく、神でありながら土着神の力を借りて祟りを成す巫女のような神だという。かつて中央からやってきたヤサカに敗れ征服されたが、持ちつ持たれつの関係で信仰を集めているとも聞いた。
ちなみにヤサカに関連して物部八坂という人物もいた。戦いの少し前に守屋の使いで蘇我邸に出入りしていたため知っていたというだけであるが。
そう言えば戦後布都姫はどうしていたのだろうかと思い訊いてみた。風の噂で馬子から離縁されたとは聞いていたが、その後の消息は全くもって不明であった。彼女は話すのはあまり気が進まないし面白い話でも何でもない、と前置きした上で重い口を開いた。
噂通りすぐに馬子とは別れたという。蘇我の当主がいつまでも物部の姫を手元に置いていたのでは面子が立たない。とはいえ馬子は元妻に旧物部の領地であるここ石上神宮を住処に与え、密かに支援を送ったので生活に困ることはなかったようだ。いつかの酒の席を思い出す。彼にも彼なりの苦悩があり、布都姫もその辺は理解していると言った。
ただここからの話が驚きであった。なんとその後大王泊瀬部に無理やり連れ出され、妃になっていたというのだ。当時のことを彼女は苦々しい面持ちで語った。
「……それでな、アレは大層な好き者であったのよ。我のような幼い体を痛めつけるのが趣味で……我は縄で柱に縛られて木簡が折れるまで叩かれたりな、泣き疲れた頃にはアレのものを……のしかかられて腹を殴られたり、小便をかけられたり、あと裸で庭を歩かされたりもしたかな。畜生同然の扱いよ。アレからしたら愛でているつもりらしかったがな」
確かにあまり聞いていて気分のいい話ではなかった。人を食う妖怪に言えたことではないが人間という生き物は時折無駄に残虐で邪悪を成す。同情したり義憤に駆られたりといった人情味は持ち合わせていないが、少なくとも自分の趣味に合わないことだけは確かだった。
そんな地獄のような生活も泊瀬部暗殺によって終わったという。彼女の言い方によるなら『馬子殿とミコ様が我を助けてくれた』である。大王暗殺事件は政治的な理由が大きいことには変わらないのだろうが、布都姫救出という性格もあったのかもしれない。
それからは石上神宮に戻り、物部の残党を束ねる当主になってこうしていると言った。名目上は兄弟の贄子の妻になっているらしかった。その贄子は少し前に亡くなったという。
馬子と寄りを戻すつもりはないかと訊いてみた。布都姫は一瞬寂しげな表情を浮かべ、それをかき消すように笑顔を作って否定した。
「それはないな。それだけはない」
「大臣のことはもう嫌いになったと?」
「そういうわけではない。馬子殿は個人としては好きなことに変わらない。けれど我は物部で、馬子殿は蘇我なのだ。そういうことなのだ」
「もう『蘇我布都姫』ではないと」
「そうだ。かつて我は物部を滅茶苦茶にした。今はその贖罪のために生きておるのだ。こんな我でも皆当主として一族を率いることを望み、慕ってくれている。我はもう二度と物部を裏切れぬ。通り名こそ石上だが我は『物部布都』よ」
布都姫、いや物部布都は力強く言い放った。かつてミコは名は存在を確固たるものにすると言った。彼女はこれから『物部布都』として生きていくことを選んだのだ。私が『迹見赤檮』になったように。
「して、お主はどうなのだ? 今はどうしておる」
「相も変わらず彦人様の舎人をやっておりますよ。たいして変わったことは……しいて言えばどこへ行っても英雄扱いで、それがまた都合よく使われております。曰く英雄殿の腕を見込んでお願いである、妖怪を退治してくれないか、などど」
「ミコ様から仕事をか?」
「いえ、あの戦いからミコとお話しする機会などはありませんでした。今ではこの国の太子に在らせられる。雲の上の存在ですよ」
それを聞いて布都は怪訝な表情を浮かべた。
「ミコ様と会っておらぬと? トジコとの祝儀の時もか?」
蘇我トジコがミコに嫁いだのはまだ大王が泊瀬部の頃だ。そのことについては勿論知っていたし次の年には子供が生まれたことも人づてに聞いた。しかし当時の私は物部の仕事を引き継いだばかりにつき多忙で、抱えている案件を優先せざるを得なかった。
布都は私の話を聞きながら神妙な顔でブツブツ呟いていた。
「……そうか、通りでミコ様がますます……いや邪仙めが……」
「なんでしょう?」
「いやまぁそのだな、お主、ミコ様に会って話をしたくはないのか?」
「それは勿論、そういう気持ちはあります。しかしミコはお忙しい身、それに立場上そうそう会えることも……」
「あぁ、もっとハッキリ言わないと駄目のようだな。お主、ミコ様を助けようとは思わぬのか?」
布都の眼差しは私を糾弾していた。
「赤檮、そなたには彼をよく助けてやってほしい」
「ミコ様は結構繊細な方でな……おそらく馬子殿からも言われたと思うが、あの方を助けてやってはくれぬか」
「もしあいつが助けを求めて来たら、応じてやってくれないか。頼む赤檮。頼むよ」
「迹見赤檮、君が必要だ。私を助けてくれますか」
「タスケテ」
繰り返される言葉。何時度となく求められてきた行為。そして、長らく忘れていた記憶。
「そうか、そうなのだな。お主はミコ様を助けたいと思わぬのだな」
「そ、そんなことはありません! 私はミコの助けになろうと思っているし、実際ミコのために働いた……つもりです」
「ふ、お主はまだまだ人のことも己のこともわかっておらぬようだ」
咄嗟に出た私の否定の言葉を布都は嘲笑った。人のことも己のこともわかっていない? それはどういう意味か。自然と強い口調で詰問したら彼女は溜息一つついて答えた。
「人はな、時に嘘を吐く。言葉に裏を含む。その上本心から矛盾していることもある。お主はミコ様の言われた通りしていればミコ様を助けたことになる、とでも思っておるか? いや表面上は確かにそうであろう。しかしだな、我らがかつてお主にお願いしたのは、そんなことを期待していたわけではおらぬ」
「それは、つまり私が真にミコ様を助けられていないと?」
「助ける、というか救う、だな。そうだ。お主はミコ様を救えていないし、救う気もないのであろう」
「どうして、そうだと言える」
「お主がその気であればミコ様は今ああなっておらぬからな、としか言えぬ。直接対話せぬお主にはわからぬであろうがな」
布都に睨まれて、私も睨み返した。ここまで言われて良い気がするはずもない。
「私がミコを助けたい、というのは偽りだと仰るか」
「違うな。ふむ、お主にわかるように順を追って説明しよう。まず人の在り方とはな、人らしく生きるならお主も含むが、やらねばならぬこととやりたいこと、即ち義務と欲の二種類で構成されておる。我の場合、義務とは一族を裏切った罪を償い物部を再興させること。そして欲とはミコ様にお供したい、だ」
やれねばならぬこと、やりたいこと。では私の場合はと考える前に彼女はこう言った。
「さてお主の場合だがな、ミコ様を救うことを欲だと思っているであろう。だがそうではない。それはお主の義務よ。ミコ様に救われた『迹見赤檮』のな。そしてお主の真の欲はだな、ただ興味があるものを眺めていたい、だ。しかもお主、その欲は義務と相反しておるだろう?」
そんなのは決めつけだ。そう反論しようと喉元まで言葉がせり上がったところで止まった。もしかしたら布都の言う通りなのかもしれない。そう思ってしまう部分はあった。経験上彼女の言うことの九割はでたらめだが、一割は核心を付く。
確かに興味本位で動くところは認められるだろう。昔からの人間観察がそれだ。ミコからも人間を知り己を知りたいのが私の欲だと言われている。
興味のために対象に介入することはしないこともない、だが深入りはしてこなかった。ミコ以外は……と思っていたが、それも布都の言う通り違うのか? 私は結局のところ傍観者なのか?
頭が『ぼんやり』としてくる。私がこうなるのは決まってミコ絡みだ。それだけ彼の存在は迹見赤檮たる私にとって大きいはずだ。
やっと喉から言葉が出た。しかし自分が言おうとしていたことと少し違うものになった。
「ミコは……今でも私を求めているのか?」
多分、本心。この瞬間最も不安に思い、解を得たいことだった。だが布都の返しは曖昧であった。
「それは、何とも言えぬ。かつては、確かにそうであった。しかし時すでに遅しなのかもしれぬ。ミコ様自身が割と引き返せぬ位置まで来ておるからな……」
一体ミコがどうなったのか。彼女は決して明言せず、その上でおそらく最後の頼みごとをした。
「我はミコ様に一生ついていくつもりだ。それがたとえ外れた道であってもな。ついていくので精一杯で、ミコ様を導くことはできぬし、するつもりもない。だがもしミコ様が本心では望まぬ道に進まざるを得なくなってもがくとして、それを救うとしたら迹見赤檮以外有りえぬ。しかしそれが叶わぬ段階ではもうないかもしれぬし、お主自身が『迹見赤檮』であることを拒否するかもしれぬ。ゆえに期待はせぬ。それでも我の言ったことをよく考えておいてはくれぬか?」
その後も布都との会話自体は題を変えて続いた。しかしよく覚えていない。お互いどうでもいいことを話しているという感覚があった。
日も暮れるので断りを入れてその場を退散した。鳥居を潜って振り返った時には、石上物部布都の気配すらしなくなっていた。まるで夢を見ていたようだという感想を抱いた。
けれど決して白昼夢などではない。行きは腰に差していた布都御魂剣は確かになくなっていたのだから。
私はもう一度自分を定義づけなければならない。自分のやるべきことは何なのか、やりたいことは何なのか、考えて答えを出さなければならない。帰り際、馬を走らせながら思った。
夜が降りてくる頃には答えが出た、が一旦保留した。最後の決断を下すのはミコと会ってからにしようと。そういうわけであとは機会を待つことにした。
それから二年後の正月、新たな冠位制度を施行するということで大王の臣下は皆例外なく太子――ミコの前に参列することとなった。公に彼と会う機会が巡ってきた。
当時飛鳥の地に造営されたばかりの小墾田宮に者共集められ、名を呼ばれると太子・大臣の前に出でて、位に合った冠を受け取って帰る。これを昼前から流れ作業で繰り返していた。
この時ほど色々な人物と再会した日はなかった。秦河勝は私を見つけるやいなや抱き着き……はしなかったが相変わらず暑苦しかった。彼は薄紫の冠を貰ってきたが小徳といって二番目に偉い位らしい。彼も太子の側近として重役になっていたのである。ちなみに位は十二あって、わかりやすいように色分けされていた。
蘇我エミシもいたので話しかけてみたが、代々大臣の役職にある蘇我氏は今回の冠位制とは無縁で、しかも大徳より上だと言っていた。だからといって驕りはせず、もし自分が蘇我の跡取り息子でなければ第七位の大信が関の山だと謙遜した。
石上当主、物部布都もこの時初めて衆目の前にその身を晒した。その場にいた私以外の者は皆驚いたのは言うまでもない。蘇我大臣の、前大王の元妻にして、亡き物部大連の妹。その肩書きを持つ彼女が注目を浴びるのは必然だった。ちなみに位は濃青の大仁で上から三番目。先の戦での没落からよくここまで持ち直したものだと思った。
「母上! お久しゅうございます!」
エミシは子供ような無邪気さで布都に駆け寄った。一方布都は少し困った様子で応対した。
「お、おうエミシか。随分と大きくなったな……うむ、大きくなることは良いことだ。しかしだな、その、母と呼ぶのは問題であろう。お主は蘇我の男子であろう」
「ははう、いえ、石上殿。しかし私にとっては……」
「わかっておる。が、気を付けてくれぬか。それがお主の為でもある」
たしなめられて気を落とすエミシ。時代の流れによって溝ができてしまった二人の様子を見て、私にも思うところがあった。
空がやや赤味を含み始める頃、ようやく私の名が呼ばれた。正午には溢れかえるほどいた人も手で数えられるほどに少なくなっていた。
戴冠を行う部屋に入ると、二人の人物が待ち受けていた。一人は大臣、蘇我馬子。そしてもう一人は太子、豊聡耳皇子――ミコであった。
馬子の方はすっかり老け込んでおり、丁未の乱の頃より少し痩せていた。しかし全体としてはあの頃とそこまで変わらない印象であった。いや、自然な年の取り方をしていると言うべきか。
一方でミコの方は完全に別人であった。記憶の中にあった華奢な童子の姿から一変して長身かつ筋骨隆々とした体つきで一瞬誰だかわからなかった。その割に顔立ちは幼く、とても三十代に差し掛かったように見えない。また少しやつれているようだ。どことなくちぐはぐで、不安定な印象を覚えた。
「おお、迹見赤檮! 久しぶりだな。なんだかんだであの時以来かね」
「久しぶりですね赤檮。君の活躍は常日頃耳にしています」
「お久しゅうございます、大臣殿、太子殿。迹見赤檮、お呼びとありて参りました」
意外とフランクな挨拶に戸惑いつつ返した。馬子はニッと歯を見せて笑ってみせ、ミコも微笑む。二人ともどことなく作り物くさい表情をするのは相変わらずであった。
馬子はコホンと一つ咳払いをすると、あらたまった調子で手にした巻物の内容を読み上げる。
「……迹見赤檮。先の戦において国家に仇成す怨敵中臣勝海・物部守屋を討ち取り、近年では大和の安全に多大な貢献をしている。その功績を大王も高く評価しており、よって、大徳の冠を授ける」
濃紫の冠をミコが取る。彼がそれを差し出すと、私は傅いて受け取った。
その時私はミコが察知するように一つの欲を内に示した。ミコはすぐに理解して、小声で囁きかけた。
「わかりました。後で」
「有難うございます」
これで会って話をする約束を取り付けることができた。私はそそくさと退散して、行事が終わるのを待った。
最後の大夫が冠を貰い帰った後もしばらく南門あたりで待機していたが、日が沈みかけというところでまた名前を呼ばれた。その声の主がどんどん近づいてくる。今度はミコが一人でこちらに来た。
「すみません、お待たせ、しました」
ミコは軽く走ってきたので息を切らしながら言った。
「いえこちらこそ無理を言って時間を取らせてしまい申し訳ありません」
「いやいやいいんですよ。後の仕事は大臣殿に押し付けたので大丈夫です、はい。しかし……君はあんまり変わらないですね。そりゃそうか」
「これでも年を取っているように見えるよう、姿を弄っているつもりなのですが。自然な風にするのは中々難しいもので」
皮肉のつもりで言った。近くでまじまじとミコの体を見つめて、より違和感を強めたからだ。確証はないが、彼は自分の体を無理やり作り変えているのではないかと思った。
「そう言えば石上殿も来ておられましたが、あの方は変わりませんね。いやはや、道術という物は便利ですな」
早速カマをかけてみた。勿論布都の外見が若々しいのは流れる血のせいだとわかった上である。ミコ、貴方は道術で体を弄っている。その仮定を確信へと変える発言を期待して。
「違いますよ、布都の場合は物部の呪いみたいなもので生来ああですよ」
そしてこの欲は当然見透かされる、よってかわされるわけだが、そんなことは織り込み済みだ。
ミコと会話する時はどうしても主導権を握られがちだ。それでは対等な会話にはならない。だからこうして攻めていく。聞きたいことを聞き言いたいことは言われる前に言う。
「ではミコの場合とは。貴方は何を思ってそんな体になったのか」
「何が言いたいんです? ちょっと待って君の欲を……」
「お主……化物になるつもりであろう」
「あ? 戯れているのか?」
あの布都の口調を真似て、ミコの急所を突いた。案の定彼は一瞬で血相を変えた。笑顔の仮面は意外と脆い。私は本題に入るために、あえて彼のデリケートな部分に踏み込んだ。
「その体、明らかに不自然なんですよ。何らかの目的で改造しているとしか思えないですし、何らかのというかやっぱり不老不死ですか。貴方はソレを目指している。けれど前にも言いましたよね、死なない人間は化物だ」
いつかの問答を頭に浮かべつつ畳み掛けるように言う。これからの話は、あの時の続きだ。それをやってしまえばもう今までの関係ではいられないことははっきりわかっていた。本当は平行線のまま眺めていたいくらいだ。
それでもそろそろ決着を付けなければならない。これは石上神宮から帰る時に決めたことだ。私のやるべきこととして。
「……大きく出たな赤檮。今黙れば私は何も聞かなかったことにして帰るが」
ミコはあの時と同じ形で話を終わらせようとする。だがそうさせるわけにはいかない。
「黙りませんよ。そして黙らないで答えてください。ミコは不老不死を得ようとしてあれこれしている、違いますか?」
「そうですが」
「物部布都と協力して?」
「よく調べたものだ。感心するよ。それとも彼女が口を滑らせたかな」
「いえ、憶測です。彼女はミコの目的に関する明言は避けていましたし。私には欲を悟る能力なんてありませんので彼女の行動から判断して」
「じゃああの蘇我と物部の戦の真相にも辿り着いているのかい?」
「お二人が仕組んだ仏教対神道の宗教戦争とは聞いています、が彼女は仏教徒ではないし貴方もどうもそうではなさそうだ」
パチパチ、とミコは大袈裟に拍手した。
「仏教なんて国を治めるために利用しただけさ。私達が信奉するのは道教だよ。君が教えてくれた道教だ。今は君以上の専門家から学んでいるよ。不老不死を会得するために!」
「それがミコの欲ですか?」
「そうだ」
「あれだけ化物扱いを厭う癖に人間をやめるんですか?」
しばしの沈黙が流れる。これでミコに逃げられたらと思うと心配になったが、彼は乗ってきた。
「赤檮、君は勘違いしている。死ななくなるだけだ。私は化物じゃない。だって人間が死ぬことが間違っているんだ」
「ミコこそ間違えてる。いやそうやって矛盾から気が付かないふりをしているだけ。人は死ぬからこそ人たりえる。だから貴方は化物になりたくないのになろうとしているんだ」
決めつけでしかないのはわかっていた。でも多分そうだと思う。布都は時に責務と欲は相反すると言ったがミコは欲ですら矛盾している。だから彼は『タスケテ』欲しいのだと。そして私が助けられるとしたらその矛盾を指摘することだと。
曖昧なものを曖昧なままにしておけるならどんなにいいことだろう、と思う。けれど私達が私達で在るためにはそうしておけない。ここで彼に矛盾を解決させる。ただ、その結果によって今すぐかいつかは分岐するが、私は彼と別れることになるだろう。決着を付けるということはそういうことだ。
しかしミコもその意図を悟ったか、結果を出すのを引き延ばそうと喚いた。
「わかったような口をきくな……何もわかんないくせに、不完全な人間に生まれてしまった私の気持ちなんてわかんないだろうが妖怪のお前には!!!!ゲホッゲホッ」
苦しそうに咳をしてミコは倒れこむ。これは全くの想定外だった。
慌てて彼の体をさする。顔色は悪く、咳が中々止まらない。一体どうしたのかと心配になって人を呼ぶことを考えたが、日も落ちかけているこの宮にはもう人気がしない。
やがて咳が治まったミコは、嘲るような口調で事情を説明した。
「ハハッ世の中ままならぬものでねぇ、そう簡単に不老不死にはなれぬみたいだ。色々と研究を重ねているがその過程で毒も多く含んでね、むしろ寿命を縮めているよ。お笑い種だろう? いっそのこと一回死んで復活する尸解仙の術を採用するかって言われたよ」
尸解仙の術。肉体を捨てて別の物体に魂を宿らせることで仙人となり不老不死を実現する。中華で修行していた頃に聞いたことがあった。復活に時間がかかるし失敗したらそのまま死亡、成功しても仙人としては格が低い、とあまりスマートなやり方ではなかった。
「そこまでして、得る価値があるんですか? 不老不死。得たいと? 本当に?」
「そうだよ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「ミコは自分に嘘を吐いている」
「私は嘘を吐いていないし、私のことが何もわからないくせになんで嘘だなんて言える!」
私はミコの気持ちを完全に理解できない。理解しようとするのが過ちだった。だからこう言う。
「わからない。わかるわけがない。ミコだってわからないように仮面を被り心を閉ざしてきたじゃない。けれど本当はわかってほしいのですか? 貴方は矛盾の塊だ。そのことをどうか認めてください」
ミコは苦虫を潰したような顔をして唸った。そして諦めて、ついに、折れた。
「あぁ……決して死にたくないわけじゃない。君の言う通り化物扱い程辛いこともなかった。母に子と認められていないことを知った時は絶望したな。けど人間五十、しかもその五十年ぽっちを全部国を治めることに捧げられてしまうんだよ! 私はただ何にも縛られず、欲望に素直で、トジコや布都と楽しく暮らしていたいだけなのに……じゃあこうするしかないじゃない! こうするしかないじゃないか!」
結果は出た。念のために確認する。
「ミコはやはり、人間をやめるのですね」
「やめる、ことになる。そうだよ、本物の化物になるのさ。でも、矛盾しているとはわかってるけど、それも嫌。助けてよ赤檮。何とかしてよ赤檮。そのための赤檮だろう!」
ミコが子供のように縋りつこうとする。だがそれを私は払う。どうして、と言いたげな彼の眼差しが私に突き刺さった。それがとても痛かった。
けれど結果は出てしまったのだ。だから私も覚悟を決めなければならなかった。
「私はミコを助けない」
「なん、で……」
「私は貴方を遠目で眺めていれば良かったんです。貴方があまりに魅力的な人間だったから、身の程を弁えず近づきすぎてしまった。そうして人間としての貴方を壊してしまった。残酷で身勝手だけど、だからもういいんです。これからはただの妖怪として、夜を生きることにします」
それが、私の決断。愚か者と詰られても仕方がなかった。大切なものを傷つけて、そして去るしかない。彼がまだ人間としていられるならその死まで見届けようと思ったが、もう何もかもが遅かった。そうなってしまったのはやはり、私がどうしようもなく愚かだったからに他ならない。
ミコはボロボロと涙を流していた。私も多分、この時泣いていたと思う。
「私はな、出会った時からずっと憧れてたんだよ。君のように人間と妖怪との境界線上で立っていられたらと……」
「私も、出会った時から貴方に憧れていました。貴方のような人間のままで妖怪を凌駕する存在に」
「でもそうはいられないんだな」
「そうはいられないんですね」
二人の間にはもう越えることのできない線ができていた。壁、と形容した方がいいだろう。おそらくこの先交わることは、ない。そんなのは嫌だけどそれが最良だった。だから私は『迹見赤檮』として最後の仕事を果たす。
「だから、私は『迹見赤檮』をお返しします」
体をドロドロに溶かす。そして土をこねる要領で再構築する。手を、足を、目を、鼻を、耳を、口を、一から作り直していく。そうしてできたのは少女の姿だった。昔のミコのように華奢で、物部布都のような幼くも長くを生きる形。かつてあった守屋の面影は消したが、モリヤ神のように金髪を蓄えて、それを赤い布で結んだ。服も体に合わせて女性用に作り変え、受け取った紫冠を混ぜてその色に染めた。
これからを生きていく上で礎となる形。『迹見赤檮』でない、新しい私が私であるために、自ら名前を付けた。
「私の名前はヤクモユカリ。八つの雲の紫色で八雲紫です。貴方が今日与えてくれた冠を名として受け取ります」
「それは嬉しいな。でも赤から紫か、君は境界の向こう側に行ってしまうんですね」
「はい」
そう言って私は微笑みかけた。泣きながらではあるが。それでも初めて、私自身心から笑えた気がした。
ミコと出会って色々なことを教えられた。それを私は忘れるわけではない。『八雲紫』の最も根っこの部分で生き続けるだろう。けれどミコと『迹見赤檮』とはここでお別れだ。
「私は八雲紫です。だから、さようならです」
「さようなら、迹見赤檮」
空の色がもう私の色になっていた。私は南門を通り抜けて、ミコの居ない世界へと歩き出した。
目的を果たすためには決して振り返ってはいけない。黄泉比良坂のイザナギイザナミの話が教えてくれている。ふと双槻宮を去る時のことを思い出した。あの時振り向かずこうなったのだから、今度もそうするしかないのだ。
以来、ミコとは一度も会わなかった。
その翌日には彦人の舎人を辞めて、摂津の領地へと引き籠った。
彼と会う時は一時的に『迹見赤檮』に戻った。彼には人間と騙って仕えたのだし最後までそれを突き通すのが礼儀だと思ったからだ。
主人は突然の申し出にも狼狽えず、すんなりと了承した。必要以上のことは言わず、ただ簡潔に功を労い感謝の言葉を述べた。しかし最後の最後で彼からは一つ仕事を押し付けられてしまった。
「もし私の末裔が君の力を借りに来ることがあれば、手助けしてやってくれないか」
どうにも完全に妖怪だとばれていたようである。その上でこのお願いである。きっと彦人は子孫代々私のことを言い伝える気だ。そして末代まで利用しようというのだ。
私の中での彼の評価は愚者から凡人、賢人と二転三転してきたが、この時には『狡猾な狸親父』になった。してやられたと悔しがる一方でこの人間に仕えることができて良かったとも思った。
実際に彦人の子孫とは時に関わりを持つことになったが、それはまた別の話である。
飛鳥から離れる際には、周辺の妖怪を引き連れることにした。彼らを野放しにして去り仕事を全部石上の姫君に押し付けるのは申し訳なかったし、新生活を始める上で人手ならぬ妖手が欲しかったのもあった。
思えばこれが最初の幻想郷建設なのかもしれない。摂津での生活はそこまで長くなかったがそこで蓄積されたノウハウは後に役に立ったし、当時共に暮らしていた妖怪の中には今なお関係が続いている者もいる。
冬眠の習慣もこの時からだった。冬から春先の時期は、『迹見赤檮』として印象に残っていたことが多すぎて、『八雲紫』が馴染まなかった。そういうわけで睡眠に頼ったのである。今ではちゃんと気持ちに整理がついたから別に寝る必要などないのだが、すっかり習慣になってしまってやめるにやめられなかった。それに寒いのはやはり苦手なのだ。
摂津に移って間もない頃、まずトジコが死んだ。かつてミコが言った通りだった。それから時は流れ彦人が死んだ。暗殺されたという噂も聞いたが定かではない。だとしても寿命で死んでもおかしくない歳までは生きられた。物部布都も死んだらしかった。
そして豊聡耳皇子が歴史の舞台から姿を消し、馬子も女王も死んで、次の大王に彦人の息子が立った時には、私はどうしようもなく八雲紫になっていた。
「あらおはよう、紫」
朝焼けの博麗神社。屋敷に帰る前にふらりと立ち寄ったところ、私の姿を見つけた巫女が挨拶をかけた。
「あら霊夢、起きてたの」
「徹夜よ。色々と大変だったんだから。変な奴らが復活したとかで。あんたが起きてきたのも関係あるのかしら」
「起きてこなければよかったのにと悪態はつかないのね」
「もう諦めた。むしろあんたが寝てる間に面倒事起きたら困るからさっさと起きてくれた方がいいわ」
霊夢は溜息を吐く。その後ろからバタバタと足音がして、二人の少女が現れた。
「あ、紫さんお目覚めですか。お邪魔させていただいてます」
一人は守矢神社の巫女、東風谷早苗だ。おそらく件の異変で霊夢同様解決に走り、その後博麗神社に留まったのであろう。ではもう一人は霧雨魔理沙かというと、違った。
「あら、魔理沙は?」
「魔理沙さんは……」
「魔理沙殿ならば我らの弟子となり修業を始めたわ。しばらくは戻らぬであろう」
早苗の隣の少女が答えた。濃青の帽に古式ゆかしき礼装、そして幼い面立ちにそぐわぬ白髪には見覚えがあった。間違いない、彼女である。
「ところでお主、何者だ? いや、先に名乗るのが礼儀か。我は物部布都と申す」
「さっき変な奴らが復活したって言ったでしょう。コイツよコイツ。千四百年かぶりに起きてきたんだって」
「私のご先祖様の関係者の方らしいです」
自他ともに紹介されたがご存知である。しかも彼女はまるで変わっておらず、記憶の中の物部布都そのままであった。
その布都は私をじろじろと見ると、何かに気づいたものの確証が持てないといった感じで問いかけた。
「お主……もしや我の知り合いか? どこかで会ったような気がするのだが……いや、まさかな……」
変わったのは私の方だ。だから、感付かれる前に彼女の勘違いにしておく。
「人違いでしょう。千四百年前、となると生まれたばかりですので」
「おお、そうか……では何者ぞ?」
嘘は言っていない。確かに物部布都は八雲紫とは会っていないのだから。八雲紫が豊聡耳神子と会うのが初めてであったように。
もう昔には戻れない。ならば、これから新しい関係を築けばいいだけのことだ。博麗と守矢の巫女をちらりと見る。私と『ミコ』との関係も形を変え、今に至るまで続いている。
布都に目線を移して、私は高らかに宣言した。
「初めまして、八雲紫と申します。これからよろしくお願いしますわ」
まだまだ厳しい寒さを残していたものだからもう少し寝ていたかったと抗議したが、何でも私の古い知り合いが復活するとかで早く目を覚ませの一点張りだった。
旧知の者とは一体誰のことだろうか。長い冬眠明けで惚けていたこともあって咄嗟に思い出せなかったところ、会いに行けばわかる、従者の魂魄妖夢を向かわせたから後を付ければいい、として送り出された。
辺りは不思議なくらい神霊で溢れていた。それもただ漂っているのではなくどこかへ向かっている。それは妖夢の向かった先と一致していた。その後を追いながら私は懐かしい匂いを嗅ぎ取っていた。
異変の春。しかし最近自分と幽々子が起こしたソレを思い出したわけではない。それよりずっと前の、千年以上前の……ここ幻想郷ではないどこかの春。
そしてその場所がどこであるかを思い出すより先に『古い知り合い』が眼前に現れた。
姿形は当時とは少々変わっていたが、一目で誰かわかった。驚きはなかった。彼女がこうして復活する準備をしていたことを思い出したからだ。そうかこの時が来たのか、と少しの感慨に耽りつつ声をかけようとしたところ、向こうが先に口を開いた。
「初めまして。私はトヨサトミミノミコと言います。貴方……そうかここの管理者ですか。これから厄介になることになりそうです、ヤクモユカリさん」
完全にこちらの再会の挨拶を封じられてしまった。そうして私は彼女の話に合わせざるを得なくなった。
「こちらこそよろしくお願いします、ミコさん。目覚めたばかりのようですが私のことをご存知なので?」
「私は人の欲を覚ることができるのですよ。欲を知ればその者が何者かわかります」
それは知っている。だから昔の馴染みだとは言い出せない。
「それはそれは素晴らしい能力ですね。ところでミコさんの名前はどう書くのですか?」
「ええと……こうですね」
彼女は木簡と筆をさっと取り出して、自分の名前を書いて見せた。そこには『豊聡耳神子』とあった。それでもう現状を把握するには十分だった。
「神子……今の貴方は神子なんですね。因みに私は八つの雲の紫色で八雲紫です。初めまして、豊聡耳神子」
私は八雲紫です、と繰り返し言った。その意味を相手がわからないわけがない。彼女は少し困ったような寂しいような、そんな表情をして会釈した。『豊聡耳神子』は私の『古い知り合い』ではなかった。それさえわかればもう用はない。私は同様に会釈した後そそくさと退散した。
自分の屋敷に戻るまでの間、忘れかけていた記憶が次々と鮮明に浮かんでいた。それに混じって一つの質問がさも大事なことの様に頭の中に現れる。
「紫はさ、いつから八雲紫なんだ?」
知的好奇心の塊のような人間、霧雨魔理沙が最近した質問だ。その時はなんとなく答えを濁したが、ちょうどいい機会だしあとで教えてやってもいいかもしれない。八百年前、生前の幽々子から訊かれた時にした話を同じようにしてやればいい。
話は遡ること千八百年前、『八雲紫』以前の私と『ミコ』との関係の起こりとともに始まる。
何のために生まれて何をして生きるのか。いつからかそういった疑問を抱えるようになって、その時にはすでにこの極東の島にいた。
ある哲学者は言った。疑え、ただし疑っている自分というのは疑いようがない。我思我有と。ならば思索するようになったこの時に私という個が確立していたことになる。
けれど個としての名前はなかった。物の怪などと呼ばれたがそれは種としての名前であった。暗闇に潜めば暗闇の妖怪と呼ばれ、影に潜めば影の妖怪と呼ばれ、隙間に潜めば隙間の妖怪と呼ばれた。
ちなみに私はその最後の呼ばれ方が多かった。よく人間の住居に潜んでいたから自然と隙間妖怪という扱いになったのだが、ではなぜそうしていたのか。それには先程の命題が絡んでくる。
どうして生まれてきたのか。考えに考えていたら一つの仮説……というよりはそれを調べるための指針なのだが、妖怪は人の心が生み出す幻想から生まれるのではないか、では人を知れば妖を知り己を知ることができるのではないか、と思いついた。
そうなれば人間の集落に接近して観察しよう、というわけである。勿論見つかったなら追い払われる。だから隙間に隠れて……である。
ところがこれは中々上手くいかない。というのも当時の人間の住居なんて藁の屋根でできた粗末なもので狭く、隠れるところは壺の中とかその程度だ。昼間はすぐに見つかった。見つかっても構わず居座れるほどの実力も当時はなかった。
かといって夜は人間が活動していない。そこで私は人間観察を行うために考えを練らねばならなくなった。どんどん考えることが増えていったが、そうして知性というものが鍛えられていったことを後で知った。
思い切って人間の幼子を攫ってみたりもした。そうすると神隠しなどという肩書が追加されたがそれはまた別の話である。けれど攫ったところで泣き喚かれるだけで会話にもならないため、食事にしてしまう他なかった。人間を食うことは人間の世界では普通ではないことを遺族の反応から知った時、そうか人間を食うからこそ私は妖怪なんだ、とわかったのは収穫の一つではあったが。
もう一つの収穫としては人間の身体の作りがわかったことだった。おかげで私は人間の姿を模す、ということを覚えた。人に化けるのはとくに努力もせずにできてしまったことで妖怪、いや少なくとも自分は不定形だということを知った。
もっとも姿だけ真似たところで人間として人間の村で生活することは中々難しかった。試行錯誤を繰り返し人間らしく振る舞うノウハウを徐々に身に付けていった。すなわち人間とは何たるかがわかってきたということである。人を知れば知るほど人を知るための環境を得られる。別に人間についてに限ったことではなく、あらゆる雑多な知識が入ってくる。そうするとますます思考する能力自体も鍛えられていくわけで、良い循環だ。
しかし現実はそう甘くない。私が人間社会に溶け込もうと努力する一方で、人間側にもそうした妖怪を見破り退治するための技を身に付けた者が現れた。それがいわゆる『ミコ』――巫女というわけだ。私もまた度々彼女らに敗れ辛酸を舐めさせられたのである。
巫女は神の力を借り妖を退けるが、同時に人を導く村落の長でもあった。村の規模が大きくなりやがて国と呼ばれるようになったのが千八百年前ぐらいで、不思議なことに人間の国同士が様々な利権を巡って争うようになっていた。例のごとく何か手はないかと巫女対策を考えていた私は、その諍いにこそ付け入る隙があるのではないかとに思い至った。
ちょうど目を付けていた人物がいた。ある国を治める巫女の弟である。その者は大層な野心家で人知れないところで酒を飲みつつ姉を思うがままに操って国を動かしたい、けれど姉は驕った態度で言うことを聞かない、とぼやいていた。それを耳にしていた私は彼に近づき、こう囁いた。
「私と姉君とをすり替えよ。私は物の怪ゆえ姉君の姿を取ることができる。私は政治などに興味はないので君が巫女の言葉を捏造し国を治めるがよい」
その日も弟君は酔っ払っていたこともあって、あっさり話に乗ってきた。翌日彼はすぐ行動に移した。いくら妖怪相手には絶大な力を振るう巫女であっても同族、特に肉親に対しては警戒心が薄いようだった。仇敵の間抜けな死に顔を見て、私は胸が空くような気持ちで化けた。
こうして巫女を消してその地位を手に入れることで、ついに人間社会の、それもトップに居座ることに成功したのである。もっとも弟君が用心深い性格で、私が偽物の巫女とバレないように人に会わせることを制限したため、人間観察という面ではあまり実りはなかった。とはいえ知識は格段に得られるようになったし、何よりも巫女との戦いに割いてきた時間を思索に使えるようになったのはプラスであった。
弟君はやたらと戦争をした。そんな彼を見ていて、人間はなぜ人間同士争うのか、人間の敵は妖怪ではなかったのか、そういった疑問が新たに浮かび上がった。せっかくなので直接訊いてみたところ、彼は利のためだと答えた。妖怪は自然災害のようなもので防ぐことは必要だが、倒しても得られるものがない。しかし隣の国を倒せば土地と米と人が得られると。
彼の損得勘定などはどうでもいいが、問題は彼の妖怪に対する考え方である。すなわち自然災害のようなもの、という見方だ。それまで私は人間が何か必要に迫られて妖怪という幻想を作りだした、ということを前提にしていた。それは人間の歴史が始まるとともに自我に目覚めた自身の経験に基づくものであった。しかし当の人間にとっては妖怪とは自然のもので人為的なものではないというのだ。
それはこの男固有の考え方に過ぎないのかもしれない。けれど同様に私の考え方も固有のものに過ぎないわけで真理に近づいているようで遠ざかっていく可能性もある。今までの考えを改めるいい機会だった。
毎日思考実験を繰り返していたが、それでも尚暇を持て余した。たまに巫女の真似事をして弟君を手助けしてやったりもしたが、これが中々面白く、もっと本格的に巫女の技を研究したいと思った。スタンスとしては件の人を知れば妖を知り己を知ると似ている。敵の使う技を身に付ければ自分の身を守る術にもなろうというものだ。
ある時弟君が海の向こうにある大国魏の威光を借りようと使いを送ったことがあって、向こうの進んだ技術が入ってきた。その中には占術や呪術の類も含まれていた。それらに魅了されたのは言うまでもない。日に日にこの異国の地へ行って色んな知識・技術を吸収したいという欲が強まっていた。
そんな思いが募る内、共犯者の弟君が死んだ。国が乱れた。そして新たな巫女が現れて偽りの巫女は駆逐された。
命からがら逃げおおせた私は大陸へと渡った。冬から春へと変わる頃、桜が咲く時期のことである。後世の歴史書では時代区分の境界とされた。
それからこの島に戻ってきたのは約千四百年前のことだ。それまで私は中華と呼ばれる大陸を練り歩いて見識を広めていた。
易や鬼道などを身に付けられたのも勿論だが、最大の収穫は自分の能力を知ったことだった。
「お主が隙間に溶け込めたり人に化けたりできるのは物事の境界を弄れるからのようじゃな。万物は本来一つのものでソレを境界で区切ることにより個々が成り立っておる。境界を敷いたり取っ払ったりすることでお主は別のお主へとなれるのであろう」
これは成り行きでしばし行動を共にすることになったある賢者の言葉だ。それを聞いて初めて自分が今まで当たり前のように行ってきたことの仕組みを理解した。仕組みを知らずして技を使うのと知って使うのには雲泥の差がある。それは応用ができるかできないか、ということに繋がる。その老賢人はこうも言った。
「お主は妖怪にしては珍しく可能性がある。大抵の妖怪には成長がない。生まれた時からその妖怪として完成されているようだ。しかしお主には成長する余地がある。これは人間に近い性質じゃ。人間を知ることは妖怪たる己を知る手がかりになるかもしれぬと言っておったな、それは正しいかもしれん。なにしろお主は妖怪か人間かも定かではない混沌よ」
自分には可能性がある。その言葉は私を道の追求へと駆り立てた。そしてあらかた諸学を修めた時、一度は追い落とされた古巣へ戻る決心をした。もう『ミコ』などにその身を脅かされることはないという自信、実際にはただの驕りであったが、に満ち溢れていたのだった。
中華北方の新興国隋を後にして半島にある百済という国に辿り着いた私は、そこの王に仕える日羅という官僚があの島国出身であること、その者が島国の長の要請でまもなく帰国予定にあることを耳にした。ならばこれを利用しない手はないというわけである。
彼に小間使いとして一月仕えた後、始末して成り変わった。多少の違和感を周囲が感じたとしても、すぐにこの国を出て行くのだから問題ない。見破られることはなく全ての手続きは終えた。
こうして『日羅』は故郷に帰ってきた。初夏の凱旋は否応なしに晴れやかな気分にさせた。
流石に数百年も経てば様相も変わるもので、私が国を治めていた頃の群雄割拠の時代は過ぎ去りヤマトという国が諸国を統一していた。流石に東の方は無法地帯らしかったが。そして国が変われば統治者も変わる。かつて国々を支配していた巫女は姿を消し、男の大王が君臨していた。
これには少々驚いたが、巫女がいないとなるとむしろ好都合である。時の大王は神の力を借りて妖怪を退治するような能力は備わっていない俗人で、何の疑いもなく私を百済の高官『日羅』として迎え入れた。張り合いがないとさえ感じた。
それから私は日羅の父と所縁のある一族で大王の家臣、大伴氏の屋敷に食客として居座ることにした。その間大王の相談に応じたり、仏教を厚く信じていた日羅がやりそうなこととして寺を建てる指示を出したりする必要はあったが、そういった業務以外では主に情報収集に時間を費やすことができた。
まずこの国は大王を中心にその一族と由緒ある家柄の臣下達の支えによって治められていること。臣下達の中でも特に蘇我氏と物部氏という豪族が力を持っていること。その二つは仏教を受け入れるか否かで対立関係にあること。
とりわけ蘇我氏についての噂はよく聞いた。物部氏や大伴氏と違い新興勢力であるにもかかわらず今では大王に迫る権勢を誇っているのには裏で敵対者を暗殺しているからだとか、大王家と血縁関係を結ぶのはいずれ自ら大王になろうとしているためだとか、渡来系の一族で大陸の進んだ文化を保有しているとか、若き当主の馬子は愛妻家だとか、色々だ。
もっともそんなことは私の興味をたいして惹かなかった。立場上蘇我馬子と会う機会はそれなりにあったが、政治の話や宗教の話などをされてもこちらは適当に頷くしかないのである。中々に気前のいい人物で美味しい酒を振る舞ってくれた時には気をよくしたが。
ところでその馬子との話の中で一つ面白い情報を得た。それは大王の一族のうち、大王以外の男には『ミコ』――皇子、女には『ヒメミコ』――皇女という肩書が付く、ということだ。『ミコ』は巫女ではなくなったが皇子としていまだ国を治める立場にある。そして『ヒメミコ』とは私がかつて成り代わった巫女の名前であった。
それを知った時、なんという因果だろう、と思うと自然に笑いがこぼれた。事情を知らない馬子は不思議そうに首を傾げたのもまた私にはおかしくて、クスッときたのだった。
これをきっかけに私は皇子皇女達となるべく会うようにした。中には名前の通り巫女としての能力を持つ者がいるかもしれない。巫女は妖怪の敵、実際に出くわしたら大変だ。だったらなんで……というのは結局のところ飽きてきたのだ。ただ食客として大伴の屋敷で暮らす日々に。本来の目的を忘れて刺激を求めたくなるのも仕方なかった
しかし期待とは裏腹に誰もかれも普通の人間だった。やはり私の知る『ミコ』は絶滅してしまったのか。つまらないなと思いながらも何だかんだで安心し、宮中での人間観察につとめ、半年が経とうとしていた。
そんな雪の降る季節の頃である。私は『ミコ』と出会い、一度分解された。
闇夜に紛れて、ひたすらに駆ける。追手はすぐそこまで迫っていた。
「出てこい逆賊日羅! 成敗してくれる!」
遠くで私を呼ぶ声がする。『日羅』が連れてきた百済人のものだ。だがそんなことはどうでもいい。彼らは私が築いた結界の中へ入れないのだから。
しかしどうにも中に入れるものが一人いた。足音がどんどん近づいてくる。本能が警告していた。コイツは危険だ。ハッキリ言って恐怖していた。
不意に足音が消え、代わりにヒュンと鋭い音が鳴った。矢を放ったのかと思い慌てて回避行動を取ろうとしたその時、だった。轟音と共に私の体を雷が貫いた。
妖怪の体は人間よりはるかに頑丈ゆえ致命傷には至らない、とはいえ直撃を受けて、私はその場に倒れこむしかなかった。そして顔をあげた時にはすでに目の前に剣が振り下ろされようとしていた。
とっさに防御しようと護符をかざすも、札ごと腕を切り裂かれた。私は激痛に顔を歪めながら目の前で見下ろしているそいつを睨んだ。
その顔には見覚えがあった。齢五十になる年に違わぬ白髪とそぐわぬ若々しい端正な面立ち。蘇我馬子と並ぶ権力者にして荒事を司る武の大連。物部氏現当主、物部守屋の姿がそこにあった。
「無駄、無駄、無駄。布都御魂剣は神から承った宝剣よ。斬れぬ物など無い。豊聡耳皇子様に目をつけられたのが運の尽きだったな。観念するがいい妖怪」
そう言って守屋は手にした剣を私の胸に突き立てた。咄嗟に体内の境界を弄って心臓の位置を変え急所を外す。しかし男は剣をさっと抜くと念入りに首を刎ねようとした。ただの刀ならともかく由緒正しき宝剣に首を切断されれば致命傷足り得る。それを防ぐために剣が振り下ろされるタイミングに合わせ首を切り離した。
そうして死んだふりをしてやり過ごすことにした。この状態で相手が油断したところを反撃する、というのも一瞬思いついたかがそれで仕留められなければ今度こそこちらが殺られる。よってじっとしている他なかった。
幸い守屋は私を殺しきったと思ったらしく、『日羅』の首を拾うとその場を後にして消えた。去り際にふと振り返って私の方を見たが、その時のまるで踏み潰された虫けらを見るような目線に恐怖と憤怒を覚えた。そして何よりも、『ミコ』でもないただの人間に細切れにされたことが悔しくて仕方なかった。
物部守屋。この男こそが私の感情を強く揺り動かした最初の人間である。
私は夜に溶け込んで、誰からも気配を悟られないように慎重に敗走した。意味もなく叫びたかったが、もし守屋らに気づかれたらと思って声を押し殺した。なんと情けないことか。自分自身の力を過信していた。ある意味それに気づけたことは今後の身の振り方においてプラスになるだろう。そう思考を切り替えるようにした。
それにしても守屋は何故自分が妖怪だとわかったのか。交流はほとんどなかったとはいえ顔を合わす機会はいくらでもあったろうに、今になってどうして……いや彼自身は自力で私に気づいたわけではないのではないか?
豊聡耳皇子様に目を付けられたのが運の尽きだ、彼はそう言った。『日羅』を見破ったのはおそらくそいつだ。豊聡耳皇子。『ミコ』。
ついこの昨日のことだ。ある宮中の行事で大王の一族が全員集まることになっていて、現大王の弟橘豊日皇子が子、豊聡耳皇子も参列していた。その皇子は神童としていろんな噂を聞いていたものの滅多に人前に姿を現さないことでも有名で、私が目撃したのもそれが最初だった。
一応皇子らしいが皇女と言われても納得する、中性的で美しい童子。それが豊聡耳の第一印象だった。
そんな豊聡耳と話をしてみたいと思い、人をかき分けて近づこうとしていたところふと目があったが、表情こそ柔和だったもののその瞳は人間の物とは思えないほど冷たく、全てを見透かしているようで、声をかけるのを躊躇ってしまった。その後すぐ彼は蘇我馬子らと談笑しながら姿を消した。
思えばあの時に私の正体を悟られていたのだろう。そして国防を司る物部守屋らに報告した。『日羅』の部下が反旗を翻して私を襲ってきたのもおそらく豊聡耳の差し金に違いない。
そうだ。やはり私の敵は『ミコ』だ。この島国は数百年でがらりと姿を変えてしまったがその一点だけは変わらない、ということがわかって私は不思議と安堵した。
「オンベイシラマンダヤソワカ」
その時だ。どこからともなく聞こえてきた声と共に光の洪水が流れてきた。それに飲み込まれて、私は気を失った。
意識を取り戻した時には、見知らぬ小屋にいた。
体が動かない。守屋から受けたダメージが残っているとはいえ動けないほどではないはずだ。それもそうで、縛られている感覚があった。おそらく封印術の類だろう。とすると生け捕りにされたのか。誰に? いやおおよそ予想はついていた。近づく足音は軽い。
「お目覚めですか、化物」
小屋の戸を開けて、一人の子供が姿を現した。姿を見たのはこれで二度目だが、見間違えようがなかった。
「初めまして、私は豊聡耳皇子と言います。君を退治させていただきました」
そう言って、彼はニコッと笑った。あの時と同じ、全てを見透かすような眼差しで。身の毛がよだつようだった。
「怖いですか? こんな子供に存在を脅かされるのは、恐ろしくてたまりませんか? 物部守屋に追い詰められて戦慄しましたか? これから君を殺すと言ったらどうです? 妖怪も死ぬのは嫌ですか?」
その笑みは嗜虐的だった。豊聡耳がパチンと指を鳴らすと突如として鎧を纏い棍棒を携えた巨人が姿を現す。そいつには見覚えがあった。なにしろ『日羅』は仏教を厚く信仰していたのだから。
「多聞天」
「なんだねミコ。私も忙しいのだが……なんだ、昨夜私に倒させたソレ、まだ生かしてるのか」
「ソレなんですが、どうしようかなと」
「仏敵だ。滅ぼせばいいだろう」
多聞天は棍棒を私に向かって突きつける。嫌だ。こんな結末は望んでいない。まだ、まだ……
「何のために生まれて、何をして生きるのか。わからないまま終わる、そんなのは嫌ですか?」
それは私が発した言葉ではなかった。けれど私が言いたかった言葉だ。困惑した。それを目の前の童が口にしたのだから。
「多聞天、やっぱりコイツ殺さなくていいです。帰ってください」
「ミコさぁ……」
「すみません、この埋め合わせは後程」
「ちゃんと寺立てて敬えよ。あと仏像な」
平謝りする豊聡耳の頭を多聞天は小突くと、たちまち消えた。さっきまでの緊迫感はどこへ行ったのか。彼はふぅと一息つくと私に語り始めた。
「なんでわかるかって不思議そうですね。大丈夫、ちゃんと説明してあげます。私はですね、生まれつき感覚がめっちゃ鋭いんですよ。十人の話を同時に聞いてわかるくらい耳がいいし、あ、それで豊聡耳って名前なんですけどね。あと河勝とかは、河勝ってのは私の家来なんですけどね、私のことを厩戸って呼ぶのですが、なんか馬小屋で生まれた聖人にあやかってるらしいのですが、私としては不本意で……だって馬小屋って臭うし好きじゃないんですよ! ここも馬小屋なんですけどね。臭いません? 私鼻もいいから結構辛いんですよ……」
話が逸れている、と突っ込むべきかどうか迷っていたが、彼もそれを悟ったか、コホンと咳払いをしてすみませんと謝った。そこでなんとなく彼の能力というものを私も理解しかけていた。
「ちょっと話を戻しますね、それで感覚が鋭いわけなんですが、その副産物として人の欲を察することができるんです。何を欲していて、どうして欲しているかがわかる。君は人を知り、己を知りたいという知識欲に満ちているな。それを悟ったから君が『日羅』じゃなくてどこぞの妖怪だと気付きました。これは心を読む能力に近いですが、あくまで読み取れるのは欲望だけ。ただ欲を知れば自ずとその者が何者かわかるというもの」
欲を知ればその者を知る。ならば豊聡耳は私自身の知らない、私が知りたいと願う、私の正体を知っているのだろうか。
「知りたいかい? 君が何者か。君という妖怪がどうして生まれ、どのように果てるのか」
何もかもお見通しのようだった。ならば教えて欲しい。
「いいだろう。君は人が人らしさを獲得する中で零れ落ちた何か。具体的に何なのかはよくわからない。ただ君は混沌に境界線が引かれ人間が人間として定義された時、人間じゃなかった側にいた。だから君という妖怪はある種人間が生んだものだし、人間に拒絶されて生まれた。ゆえに君は人間を求めるのかな、かつての半身を。そうして君は人間に化け、人間を学び、人間に近づくことを欲するんですよ」
人から分かたれた混沌が形を成したもの。それが私なのか。私は人間の成り損ないか。だから人間を志向していたのか。
言われてみればそうなのかもしれない。だが人間になろうなんてことは思っていない。人真似は自分を知る、いや自分を定義づけると言った方が正しいか、のための手段でしかないはずだ。
「そうだね、君は人間になりたいわけじゃない。なろうと思えばなれるんだろうけどね。君の本質は分化される前の混沌で、境界で区切る能力を持っているが故に今の『君』という人格があり得るくらいだから。君は当たり前のように使っているけど君が思っている以上にすごい能力なんですよそれは。物事の境界を弄れば何にだってなれるし何もかもなせる。可能性の獣だ」
可能性。いつぞやの竹林の賢人も同じことを言っていた。私には可能性があると。だから私は――
「可能性を追求したい。何のために生きるのかと疑問に思っていたようだけど、一応の答えはとっくに出ているじゃないですか。まだまだ曖昧な指針ですけどね」
豊聡耳皇子は見事に私の長年の疑問を解決してしまった。この小さな子供がとても大きな存在のように思えた。豊聡耳はここで一呼吸置いてから、今まで以上に真剣な目で口説き始めた。
「さて、君の問題を解き明かしたところで、君という存在は混沌で、可能性があると言ってもまだ何者にもなれていない。そんなままで終わるのは、やはり嫌だろう? そーこーでーなんですが」
君と取引がしたい、と私に指を差して言った。
「私はですね、君の境界を操る能力に至極興味がある。それから君が学んだ大陸の術にもね。だから率直に言えば君が欲しい。拒否するという選択肢もありますがまぁその時は仕方ない、斬り捨てますけど」
豊聡耳は脇に差した剣に軽く手を掛けた。おそらく守屋が持っていたものと似た物であろう。彼は脅しをかけているつもりだったが、そんなものは不要だった。私もまた、同じ思いだったのだ。
それを悟って、彼は満面の笑みを作ってみせた。するとふと私を縛る感覚は消え去り、傷が癒えていくようであった。
「取引成立ですね! 今日から君は私の舎人です。ふうむ……いつまでも『君』だといささか不便か。名前、まだないんですよね」
日羅、と言おうとして、やめた。そいつはおそらく死んでいることになっている。そういえば、この時まで私自身の本名というようなものはなかった。豊聡耳は少し考え込むと、何かを閃いたのか、木簡と筆を取り出してさらさらと字を書いて見せた。
そこには『迹見赤檮』の四文字があった。
「名は存在を確固たるものとするに必要だ。というわけで今日から君はトミノイチイだ。字はこの通り」
「迹見赤檮……それが私の名前……」
ここで初めて私は声を発することができた。それまで人の形を保てていなかったが、自分の名前を口にして、急速に人間の、それも若い男性の姿を形成していくのがわかった。これは自分の意思ではない。付けられた名の力だ。成程、確かに名は存在を確定させるものだと思った。
「そうだ。ではよろしくお願いしますね、赤檮」
「はい、ええと……トヨサトミミの……ウマヤド?」
「私のことはミコと呼んでください。近しい者はそう呼びますし」
「しかし、皇子は他にも……」
「君の『ミコ』は私だけだ。私だけを見ればいい。違うかい? 赤檮」
それもそうだと私は笑った。私の愛しい宿敵の『ミコ』はこの時代にはただ一人、これから仕えることになる目の前の相手しかいない。昨夜の時点でそう思っていたのだから。
「ミコ」
その名を力強く呼んだ。すると彼もまた、確認するかのように私の名を投げかけた。
かくして私はミコと出会い、迹見赤檮になった。二人の関係は八雲紫が誕生するまでの約二十年間続くこととなる。
「お主、どことなく守屋の若い時に似ているな」
会う人会う人にこう言われたが、そんなにあの物部守屋と似た風貌なのだろうか。私が『迹見赤檮』の名を貰って以来この姿を取っている。なんてことはない、彼に敗北したことを引きずっているということだ。私以外で唯一事情を知っているミコはこう言われるのを聞くたびくすくすと笑った。
年が明け、そして長かった冬も終わろうとしていた。それまでには私もある程度ミコの住まう双槻宮での生活に馴染んでいた。
表向きの仕事は馬の世話とミコの護衛。そして裏の仕事は諜報活動とミコの道術の教師であった。
「陰陽五行八卦か、成程……赤檮はその全てを極めたのですか?」
「いえ、極めたという程ではありません。私は正規の仙人ではありませんし、ちょっと齧っただけの知識では物部殿に太刀打ちできませんでしたから」
「ははは、それは相手が悪いだけですから。この霊符というのは誰にでも使えます?」
「ええ、そのための札です。ただし作成するのは道を極めた神仙でなければ」
ミコは好奇の目で手にした札を眺めた。私が大陸から持ち込んだものの一つである。
「君は作れるかい? これ」
「紛い物でしたら。それも特定の効果に偏っていますが」
「ほう。して?」
「人を思い通りに操る、だとか呪い殺す、とかですかね」
「それは面白い!」
ケラケラとミコは笑った。彼はとかくよく笑う。けれどその目は決して笑っていないことには出会った当初から気づいていた。笑顔の仮面を被り、真意を隠す。皇子として生まれ育った環境がそうさせたのか、それとも生来のものか。
そんなことは私にとってどうでもいいこと、のはずだ。彼とはあくまで互いに利用し合う関係に過ぎない。けれどどこか気になってしまう。彼は心から笑ったことはないのだろうか。笑えないのか。
ミコへの関心は尽きなかった。生まれついて特異な能力を持ち、勤勉で大人顔負けの学識を持ち、賢く、将来を有望されている皇子。とはいえ性格は意外と軽く、年相応の子供らしいところもある。だがそれらは全て彼自身が演出した虚像に過ぎないのではないか。自分が何者かであるか以上に彼が何者か知りたいという欲は、無きにしも非ずであった。
勿論そんなことは悟られている。なので彼は中々隙を見せてくれない。では外堀から埋めていこう、ということでミコと他の者との交流関係を調べてみた。
まず家族。双槻宮はミコの父豊日の構えた邸宅であるが、ミコは何故か家族と離れた独立の屋敷をもらってそこを拠点としており、あまり家族に会いに行こうとはしなかった。
ならばミコは家族と不仲なのか。そうでもないようで豊日やミコの弟の来目らはよく訪れたし、ミコも邪険に扱うような態度は見せなかった。ただミコの母、穴穂部間人皇女だけは何故か姿を見せることがなかった。
そこで間人皇女の様子をこっそり覗いたが、いたって普通の母親に見えた。昼間はミコ除く息子達の姿を眺め、夜は夫豊日に寄り添う。しかし彼女の生活の中にミコだけがいない。そして同様にミコの生活の中にも母の姿だけがなかった。それがどうにも奇妙で仕方がなかった。双槻宮で働く同僚に聞いてもどうにも要領を得なかったので、私はもうそういうものだと思うことにした。
それから現大王の弟ということで色んな豪族が出入りしていたが、ミコと直接関わりのある者は数人だった。その一人が秦氏の若者、秦河勝である。誠実で裏表のない好青年でミコからの信頼も厚いようだった。私にとってはどうにも暑苦しくて苦手なタイプであったが。
ちなみに彼はこの国では珍しく景教を信仰していた。遥か西から伝わった宗教で件の馬小屋で生まれた聖人を崇めているらしい。それでその聖人にあやかった十字のお守りを常に携帯していたのだが、些細ながら妖怪を遠ざける効能があった。そういうわけで尚更彼のことは苦手だったのである。
秦氏などはたんに豊日やミコとの主従関係で結ばれていたが、それ以上に強い繋がりで結ばれた豪族がいる。すなわち血の繋がりで結ばれた蘇我氏である。豊日の母は蘇我氏の娘であの蘇我馬子の姉である。ミコからすれば馬子は大叔父に当たる。
当然馬子は双槻宮にもよく顔を出した。ミコの舎人迹見赤檮として挨拶する機会はあったわけだが、幸い私が元『日羅』であることは悟られなかった。それもそのはず、あくまで彼は普通の人間で『日羅』として接していた時も妖怪とは見破られなかったのだから。
彼に対する印象はあまり変わらない。一見気のいいおじさんだが腹の底では何を考えているかわからない典型的な政治屋。そういう意味ではミコとよく似ている。というかミコが馬子の影響でああなったのか。
ミコと馬子もそれなりに付き合いがあったが、いかんせん年が離れすぎていて恭しく社交辞令を交わし合うだけが多かった。ミコとの付き合いが深いのは馬子よりもその家族の方である。妻の布都姫と息子のエミシ、それから娘のトジコの三人だ。
布都姫はなんと物部守屋の妹だという。それだけで政略結婚だとは深く考えずともわかった。今は対立が目立つ蘇我氏と物部氏だが、時には利害が一致して足並みを揃えることもあったのだろう。彼女はその時代の残り香である
それにしても不思議なことに守屋の妹にしては若々しかった。夫の馬子も若いとよく言われていたがそれは宮廷の重臣の中ではという意味であって三十代を過ぎている。しかし布都はどう見ても十代の少女でミコと大差ないのだ。守屋も年の割には若く見えたが限度というものがある。
興味がそそられないこともないが、年の離れた妹か、あるいは何らかの術を使っているのだろうとしてそれ以上考えないようにした。詮索したところで何にもならない。妖怪の私に若返りだとかそういう類の術は無縁だからだ。
えてしてこういう者は見た目の若さに反して中身は大人だったりするのだが、この布都姫の場合は中身も幼かった。というよりはどこかズレているというか。ミコは彼女をちぐはぐで面白い、と称した。見ていて飽きない、だから彼女を手元に置いておきたいのだと。ミコの言葉には彼女には利用価値があるとも読めた。ある意味私と近しい存在なのかもしれない、というのが布都姫に対する印象だ。
最後に蘇我兄妹についてだが、おそらくミコと同年代で最も親しい間柄であろう。兄のエミシは大人しい文学青年であるのに対し妹のトジコは活動的なお転婆娘と対称的な性格であったが、二人ともミコを大いに慕っており、ミコもまた彼らを実の家族のように接していた。
ただ一つ、不可解な点はあった。よく目を凝らさなければ見落とすような些細なことだ。ある時ミコが庭で転んだ時、二人が心配して駆け寄り、手を差し伸べた。そこでミコはエミシの手を払いトジコの手を取った。それからというもののミコは終始浮かない顔をしていて、見かねたエミシが体調が悪いなら休んだ方がいいとしてミコの面倒を私にお願いした。その時ミコはずっとエミシに謝っていた。
エミシは気づいていなかったがミコは彼の手を跳ね除けたことを謝っているようだった。問題はそこじゃない。何故ミコはわざわざ彼の手を払ったのか、それが問題だ。トジコと同様にエミシにも好意を持っていたのではなかったのか。実際彼を拒絶したのはその一回だけしかない。それでも私にはその一回の行動にミコの本質が現れているのではないか、と勘繰らずにはいられなかった。
「……ねぇ。赤檮。聞いていますか赤檮。迹見赤檮!」
「ひゃあい!? あ、すいませんぼんやりしていました」
つい考え事をしていてミコの話を聞いていなかったようだ。私の悪い癖である。
「全く。君はすぐ『ぼんやり』しますね。困るよ」
「申し訳ありません。この季節は寒くてすぐ頭が『ぼんやり』するんですよ。できれば冬の間は寝ていたいです」
「おいおい」
「今すぐ寝たいです」
「せめて講義の途中はちゃんとしてください、先生」
札をビラビラと動かしながらミコは呆れた様子で言った。そう、彼に道術を教えていたところであった。
「それはそうと、大陸で道術を学んだからには不老不死の方法とかも知っているんですか?」
「専門外です。前にも言った通り私は仙人じゃないですから。道術も攻撃手段と護身用に学んだだけですし。不老不死とかはその……妖怪には必要なくて」
「え~~~~」
ミコは口を尖らせ、大袈裟に肩を落としてみせた。いかにもガッカリだというような演出。だが私にはそれが、わざとらしすぎて逆に本当にガッカリしているように思えた。
「妖怪だって死ぬでしょうよ。不老不死、必要ないことないのでは?」
「そりゃ退治されれば消えるでしょうよ。ただ寿命は人間と違って遥かに長いですから。年を取っているという実感がないくらいには。伸ばすこともなし」
「そうですか。いいですね。妖怪はお気楽で」
「ミコは興味あるんですか、不老不死」
「人並みには、ですけど」
そう言った時、ミコは今までにないような表情を垣間見せた。悲しいような、それでいてどこか怒ったような、そんな表情を。本当に一瞬ですぐにいつもの笑顔の仮面を被ったが、ここで初めて彼の真に迫った気がして、私はもっと突っ込んでみることにした。
「ということは興味はあるんですね。ミコは不老不死になって何かしたいんですか?」
「いや特に思いつかないですけど……ただ数十年したら死ぬのって嫌じゃないですか? それは万人に共通の感情でしょう。死にたいと口にする人間は少なくないですが本当に死にたい人間なんていませんでしたよ。皆死にたくないってうるさいですよ」
ミコはツンツンと自分の耳をつついた。その欲望が聞こえてくるんだと暗に示していた。しかしそんなことは論点のすり替えだ。私がミコのことを訊いた途端不特定多数の他者を持ち出して一般論に逃げようとしている。でもこの時の私はイケイケモードで、彼を逃す気はなかった。
「死にたくないのは皆同じ、でもその理由は千差万別じゃないですか。じゃあミコは何で死にたくないんですか?」
「さぁ、何ででしょうね。というかそもそも私、不老不死になりたいとか一言も言ってませんよ? ただの知的好奇心です。君が知らないなら別にいいです。知ってることを教えてください」
のらりくらりとかわすミコ。このままでは話題を変えられてしまう。そこで私は一つカマをかけてみることにした。
「じゃあ不老不死になりたいのはミコでなくて、知り合いの方とかがってことですか? たとえば蘇我の娘さんとか……」
「トジコは死ぬんだよ!!」
予想以上の反応に私は驚いてしまった。もう目の前に仮面を被って大人ぶる皇子はいない。そこには等身大の、剥き出しの、ミコという感情がいた。
「トジコは死ぬ。彼女の子供も死ぬ。父上も死ぬ。布都も馬子も守屋も、エミシとその子供も死ぬ。皆死ぬんですよ。争って死ぬ。苦しみながら、生まれてきたことを呪い死ぬ。なんで死ななきゃいけないんでしょうね、人間は。何で死ななきゃいけないんですか! 私達は!」
人の心は複雑怪奇。それは長年人間観察を続けて得た結論の一つ。だからわかっていたはずだった。些細なことでもそれをきっかけに爆発してしまうことがある。今の状況は正にそれであった。
だが考えても見れば、ミコの本質を知りたがっていた私にとって事態が好転していると言えるのではないか。ミコの急変につい面喰ってしまったがこれは望んでいた展開に他ならない。
彼は叫ぶ。獣のように。
「物を考えない畜生はそりゃ死も受け入れてしまうでしょうよ! でも私達は神から同等の知性を授けられた! なのに、死を受け入れなきゃいけないんですか! そんなの糞食らえだ! トジコが死ぬのを黙って見ていろと! 私とトジコの子が次々に殺されていくのがわかっていて子を作れと! ふざけるなです。ふざけるな。人間を、この私を、冒涜しているにも程があります」
「トジコさんとお子さんが死ぬって、なんでわかるんです?」
「はい? あぁ……私の能力は他者の欲を知り、その人の本質を悟る。よって時にはその人の未来まで見通せてしまう。近しい程にね。トジコは蘇我の娘だ、馬子殿は私が将来大王になると思っていて、だから彼女を私の妻にと……それがなくても私は彼女を娶るつもりですけど。まぁそれはさておき、あの子はその性格から長生きできないんですよ。私の目の前で、私の代わりに死んでいくんだ」
ミコは拳を震わせて睨む。私ではなく、私の瞳に映る彼自身に向けて。
「それでエミシ。あいつ自身は悪い奴じゃないんですけど、やがて馬子殿亡き後の蘇我を背負っていくことになります。その時政治的判断から私とトジコの血族を滅ぼすことになる。あいつはそれ以外の道を選べないから。本当はそんなことわかりたくなかった。知らなければ、きっとあいつのことも好きのままでいられたんだ……」
あの時のエミシに対する反応はそういうことだったのかと納得した。今のミコはありのままのミコだ。どんどん本音を喋ってくれる。しかし興奮状態でところどころ支離滅裂でもある。だから少し落ち着かせようとした。
「成程わかりました。ただまぁ、そうは言っても人は死ぬからこそ人ですからね。死なない人間は化物なので」
しかしこの発言は不適切だったようだ。うっかり口を滑らせたことをすぐに後悔したが遅い。ミコは露骨に機嫌を害したようでこちらを睨んでいた。
「失せろ赤檮。今日の授業はおしまいでいい。だから今すぐ視界から消えろ」
「すみません、力になれなくて。今度本場の仙人を紹介しましょう。ですからご機嫌を」
「喋るな。これ以上喋るな。そしてさっきのことを他人に喋るな。いいですか、余計な真似をしたら物部守屋に突き出しますから。君の命なんて蚤よりも軽いと、肝に銘じておくのですね」
守屋の名前を出されて身構える。これでは大人しく引き下がるしかなかった。怒らせてしまったのは不本意ではあったが、彼の本心が聞けて良かったと楽天的に考えることにした。
しかしすべてが終わった後に振り返ってみれば、これが自分の犯した最初にして最大の間違いに違いなかった。
西洋の神話にこういう話がある。飛ぶことを覚えて調子に乗った少年は、太陽に近づきすぎて蝋で出来た翼をもがれ、墜落したという。
何しろ当時の私はまだまだ未熟で、あまりにも愚かだった。そうであるからして、ミコとの決別を避けることはできなかったのである。
一年という期間は長いようで短く、あっという間に過ぎる。老い先短い人間ですらそう感じるそうだから妖怪の私にとっては尚更だ。
季節が一巡しても相変わらず双槻宮でミコの舎人をやっていたが、特に何か進展があったわけではない。結局のところミコが本音をぶつけてきたのはあの時の一回だけだった。それ以外では一切隙を見せてくれなかったのである。
ところでミコは私が教えた道術をすぐにマスターした。そういうわけで彼の師の役は解かれ、諜報の仕事に専念することになった。次第に、少しずつだが、彼と顔を合わせる機会は減っていった。おそらくミコの意志で。
やはりあの時不興を買ってしまったことが原因なのだろうか。そのことを考えると『ぼんやり』としてしまう。なのであまり考えないようにした。実際には仕事が中々忙しく、考える余裕がなかったのだが。
細々としたことはあまり覚えていないが、とある一日のことは鮮明に思い出せた。それは蘇我夫妻に招かれて石川の邸宅にお邪魔した時のことである。
馬子は若者を度々連れてきては持て成すというようなことをした。将来的に自分の力になるよう人材を抱き込もうという魂胆は見え見えであったが、ともかく美味しい食事とお酒が出るならと喜んで行った。ミコから蘇我の動向を逐一報告せよと言われていたので仕事も兼ねてである。
馬子と飲むのは『日羅』の時にも経験したが、相手が百済の高級官僚ではなくただの舎人だということもあってか、以前よりも馴れ馴れしく語りかけてきた。ほとんどが他愛のない話で記憶に留めておく価値もなかったが、宴もたけなわというところで彼は意外な愚痴を漏らした。
「はぁ~あ。本当は儂だってなぁ、こうやって美味い飯食って美味い酒を飲み、君みたいな若人と狩りに行ったり、綺麗な女とまぐわいたいだけなんだよ。けどこういう立場にいるとままならんものでな」
「何を言っておる。馬子殿はこんな風に毎日遊んでおるではないか」
「うるせえ毎日じゃないわ。お前ちょっと席外せ」
「はいはい。寝室で待っているぞ。馬子殿は甘えん坊だからな」
口を挟む妻を追い出すと、馬子は声のトーンを落として、話を続けた。本題に入ったことを悟った。
「やりたいことなんてごまんとあるさ。けど儂らはこういう立場にいるからやらなきゃいけないことを優先させなきゃならない。やりたいことだけやってたら原始の頃と変わらん。法を整備し宗教で民を一つにし、この国に秩序をもたらさねば。そうでなきゃあっという間に大陸の国に征服されるぞ。奴らはすぐそこまで来てる」
大陸の国、隋。私も滞在していたことがあったが、聞くところによればあれからさらに勢力を伸ばし中華の統一を目前としているそうだ。外交問題はこれから重要になっていくだろう。思えば日羅という男がこの国に召還されたのも少なからず関係があった。
しかしそんなことを表向きはミコの馬の世話をしているに過ぎない舎人に話すのか。不思議に思えた。
「今この国はごちゃごちゃだ。だから一つにまとまらなきゃいけない。そのためにはいずれ廃仏派の守屋を排除しないわけにはいかんだろう。そうなりゃ布都ともいられなくなるがな……」
そう言って馬子はふと遠い目であらぬ方を向いた。以前彼が愛妻家だという噂を聞いていたが、それが事実であることはこの日の彼と妻とのやり取りを見れば疑いようがなかった。
だが元々蘇我と物部の連携という政治的判断によって結びついた関係、両家の断絶は夫婦の破局と同義だろう。愛する妻との別れを惜しむ気持ちは共感はできないものの理解は容易い。なので自然とお悔やみの言葉が出た。
「お気の毒に」
「別に儂はいいんだよ。本当に気の毒なのはあいつだ……それにしても面白い返し方だな。普通は物部と戦争する気があるのかってことに驚くものだろう」
それもそうだ。この件はミコに伝えないといけないくらい重要な物だろう。しかし生憎私には人と人との争いなどは全く興味が持てなかったのである。それは巫女を騙り国を治めていた頃から変わらない。
「いや、私は豊聡耳様の舎人に過ぎぬゆえ……」
「関係ないか? いやあるんだ。だから今日呼んでこういう話をしているのだが」
「確かにそうですね。して?」
「儂はな、あの子を大王にするつもりだ。まずは中継ぎに父君を立てるが、その後な。あの子しか適格者がいない。他の奴らは阿呆ばかりで国を滅ぼしかねん。そこでだ赤檮、そなたには彼をよく助けてやってほしい」
馬子殿は私を王にする、そのために娘を差し出す。かつてミコ自身が口にした言葉を思い出していた。あの時の、激情に飲み込まれたミコの姿と共に。
「ミコは、多分王になりたくないと思って……」
だからかこんな言葉が出てきてしまった。邪推だ。けれど馬子はそれに同調した。
「そう、だろうな。あの子に大王の責務は重すぎるだろうな。けれどなってもらわねばならない。だからその時に彼を支えてやってほしいんだ。儂ではその役はできん。有力豪族の長だ。むしろ彼とは立場上対立することの方が多いだろう。でもそれでいい、儂には儂にしかできない役割を果たす。だからそなたもそなたの役割を果たせ」
「どうして、私なんです。別に私じゃなくてもいいのでは……ミコに仕える者は他にもいますし、例えば秦氏の河勝殿などはミコの信頼も厚く……」
率直な感想だった。私は一度ミコに拒絶された。あれから彼の領域に近づけていない。そんな私に頼むことかと。
もっともあの時の話は他言無用なので馬子に説明するわけにはいかなかった。そうして言葉を濁す私だが、馬子の態度は変わらなかった。
「あぁ河勝君にもお願いしてるし、他にも司馬の止利君とか。だがね、これは儂の勘でしかないのだが、そなたが一番皇子に近しい気がする。きっとあの子を救えるのはそなただけなんじゃないかって、そう思うんだ。それだけそなたのことを気に入っているってことだ! 天下の蘇我馬子にここまで言わせる男子はそうおらんぞ! な?」
そう言って馬子は陽気そうにバンバン私の肩を叩いた。これで話は終了だという合図でもあった。
さっきの話は紛れもなく馬子の本心だろう。けれど彼は見せていい部分だけ見せ必要以上には曝け出さなかった。それはあの時のミコの態度と比べれば明らかだった。その辺は大人と子供の違いなんだろうなと私は思った。
夜も遅いので泊まっていけという言葉に甘えて、その日は石川邸に留まることにした。こうなることを見越してミコも外泊の許可を出していた。
縁側に座って馬子がした話、そしてあの時ミコがした話を反芻して『ぼんやり』していたところ、たまたま通りかかったと思われる布都姫が私に気づいて隣に座りこんだ。
「赤檮殿、どうしたのだ? こんなところで」
「あ、これはこれは布都姫様。お邪魔させていただいてます。少し考え事をしていました」
「ほう」
布都姫はじろじろ舐めまわすように私を見た。それから一息つくと、興奮気味にすっとぼけたことを言った。
「お主……恋煩いをしているであろう! 相手はミコ様か?」
「はい!?」
驚いて声が裏返った。布都姫は構わず続ける。
「お主ぐらいの年であれば無理もなかろう。我も若い頃は恋をしたものだ。あぁ、これは馬子殿には内緒でな」
「いえ私は恋など……」
「恥ずかしがる必要はなかろうて。むむ、もしかして男同士ということで遠慮しておるのか? しかし変なことではないぞ、ミコ様相手ならばな。あの方は男だろうと女だろうと妖だろうと虜にする。うちのエミシとてそうであるからな! あぁ、これはエミシには内緒でな」
そう言って笑う布都姫に合わせて私も笑うしかなかった。彼女には思い込みの激しいところがあって一度そうだと決めつけると頑なに考えを変えなかった。そういう相手には適当に話を合わせておくのが処世術というやつである。
ちなみに当時の私はいまだ人間の恋愛感情という物がよくわかっていなかった。五十も過ぎれば死んでしまう人間の、子孫を残す必要に迫られて備えられた機能、くらいの捉え方をしていた。
「まぁミコのことは好きですよ。それが恋かどうかはわかりませんが」
「恋と断言できよう。お主はずっと人間に恋してきたのであろう?」
引っかかる言い方だった。まるで私が人間ではないかのような。ミコの舎人となった時彼がしたような言い方だった。
妖怪だとバレているのではないか、そんな不安が頭をよぎった。それはすぐに確信に変わった。
「すまぬ、何もお主をどうこうしようというつもりはないのだ。身構えなくてくれ。ただお主からミコ様と同じ匂いがしたのでな。あぁ、これはミコ様には内緒でな」
「ミコと同じ匂い、とは?」
「本当に内緒でお願いする、あの方はそういう扱いを何よりも嫌うお方でな……いやすまぬ何でもない忘れてくれ」
布都姫はぼかした言い方をしたが、ようはこうだ。お前は人外だろう、超常的な能力を持つミコに近いからと。
となると一つ気になることがあった。ミコはそういう扱い……つまり化物扱いを嫌う、ということだ。
あっと思わず声をあげてしまった。そうか、あの時ミコの機嫌を損ねてしまったのはそういうことかと。不老不死を志向する彼の前で死なぬ人間は化物だと言ってしまった、それがよくなかったのだ。
「ミコ様は結構繊細な方でな……おそらく馬子殿からも言われたと思うが、あの方を助けてやってはくれぬか」
そうして馬子に引き続き布都姫からもミコのことを頼まれてしまった。だが私は苦い顔をすることしかできない。その時は彼らの期待に沿うことは自分には出来ないだろうと思っていたし、実際にできなかった。
私とミコはすでにすれ違い始めていた。いや、境界線が引かれていようしていたと言った方がいいか。
迹見赤檮が生まれてから二度目の春を迎える直前、桜が蕾を膨らませる頃、ミコは私を呼びだして告げた。
「赤檮、君を押坂彦人大兄皇子殿の舎人に推薦しました。大王の第一皇子です。先方から是非にと。名残惜しくはありますがそれだけ君が評価されていることは私としても鼻が高いですよ。決して主君の名に恥じぬ働きを期待します」
突然の解雇。けれどなんとなくこうなるんじゃないかとは予想していた。逆らうという選択肢はないので承諾した。この時もミコは目は冷ややかなまま笑顔を作っていた。
双槻宮の庭の桜がちょうど満開を迎えた日、私はここを去ろうとした。門を潜ればこれからは境界の向こう側となる。ミコの居ない世界へと一歩一歩近づき、ついに足を踏み出そうとしたその時、背後から私を呼び止める声がした。
振り向くと、そこにはミコ……ではなくて蘇我兄妹の片割れ、トジコが突っ立っていた。
「おい待てよ赤檮、本当に出て行くのか?」
「はい。ミコから彦人大兄様の舎人の推薦を頂きまして、めでたくお仕えすることになりまして」
「知ってる、ミコから聞いたから。だけどさ、ちょっと待ってくれよ。考え直してくれないか、ソレ」
この娘は何を言っているんだろうと思った。私が『考え直して』行かないと言ったところでどうにかなると思っているのだろうか。
「私からもミコにお願いするからさ、頼む。ミコにはアンタが必要なんだ。あいつ自身もそう思ってるんだ、ただ天邪鬼だからこんなことしちまって、あとで後悔するのにさ」
こんな風に言われるのは三回目だった。だが馬子や布都姫の言い分と違って、ミコも私を必要としている、という言説が付け加えられていた。もっとも当時の私は完全にミコから突き放されたと思っていたからそれも疑ってかかった。
「ミコがそう思っているって、本当ですか。疑いようがないと証明できるのですか。本人ではない貴方が」
「ええと、そう言われるとだな……ただあいつが自分から人を雇ったのはアンタが初めてだったから……」
いつになく強い口調で問いかけると、トジコはたじろぎ言葉を濁した。
「仮にミコが私を手放したくはないとして、けれど先方の要請でもありますから。拒否すれば政治的な問題となりましょう。違いますか」
「……んなこたわかってるよ」
「出て行くしかないですよ、私は」
俯くトジコ。私はもう話すことはないと踵を返し、再び歩き出そうとするが、しつこく呼び止められた。
「待てよ……それでも、それでもさぁ、アンタにいなくなられると困るんだよ! 何度だって言うが、あいつにはアンタが必要なんだって。あいつはさ、ああ見えて実はすげー寂しがりでさ、生まれつき人とは違うことができるからそれで孤立しててさ、母親から遠ざけられてさ……」
ミコがその母間人皇女と上手くいっていないのはなんとなくわかっていた。宮に仕える者が皆してその話題に知らぬふりするのはそれだけ根深い問題なんだろうと。
「でも私じゃ駄目なんだ。私が心配すればするほどミコのやつは私を心配してしまう。だから……!」
「ミコの目の前で、ミコの代わりに死んでいく。そんな貴方をミコは見たくない」
「あん!? どういうことだそれ。赤檮アンタ、なんか知ってるだろ」
他言無用の約束ではあったがこの娘にこれ以上付きまとわれるのは面倒になったので、あの時のミコとのやり取りを私が道術を教えていたということ、兄のエミシがミコとトジコの一族を滅ぼすこと、この二点は伏せつつ教えてやった。
全てを聞き終えたトジコは諦めの境地に至っていた。それでいてなお、私に縋るように言った。
「確かに禁句を言っちまったらどうしようもないか……でも、あいつはひねくれ者で、今はへそを曲げてるだけなんだ。だからさ、向こうに行ってもあいつのこと、気にかけてくれないか。もしあいつが助けを求めて来たら、応じてやってくれないか。頼む赤檮。頼むよ」
彼女の懇願に応えぬまま、私は歩き出した。応えられぬから歩き出した。決して振り向かず、そして双槻宮を出た。
もし私が彼女の頼みを聞き入れてミコの元に戻ったなら、異なる結末を迎えることができたのだろうか。もしもの話の類ほど無駄なものは無いのではあるが。
もっともチャンスはもう一度だけ訪れた。けれどそれも、後に迹見赤檮が歴史上から姿を消したことからもわかるだろうが、私は棒に振った。
この時桜咲き乱れる道を行く私は、生まれて初めて雨が降ってもいないのに頬が濡れている、という経験をした。人間であれば誰しも一度は経験する現象。
すなわち、涙を流した。
彦人の舎人となってからは今まで以上に『ぼんやり』することが多くなった。ただ今までとは真逆で、何も考えられなくて『ぼんやり』していたのである。
一方で世相は目まぐるしく動く。疫病が流行り、大王が死んだ。次の王は馬子が言っていた通り豊日が選ばれた。だがそれを快く思わない者もいた。穴穂部皇子という若い皇族と、物部守屋ら蘇我と対立する豪族である。両者は結びついた。
穴穂部もまた蘇我の血を引く者ではいたが、自分が選ばれると信じていたところ豊日が王位を継いだので蘇我馬子に裏切られたと逆恨みしていたのである。血気盛んな若者で、亡き大王の妃炊屋姫を強姦しようとしたり、止めに入った臣下を守屋に成敗させたりと素行の悪さが目立った。ついに彼は現大王を暗殺せんと宮廷を襲撃したがこれは失敗に終わり、逆に馬子らに抹殺された。
ところでそんな問題行動を起こすような皇子を守屋たちは抱え込まなければいかなかったか。蘇我の血を引かず、前大王との血縁が濃い人物が他にもいたというのに。すなわち我が主、押坂彦人大兄である。
最初守屋は彦人を押しに来た。しかし彦人は王の器ではないだの体調がよろしくないだの難癖付けて王位を継ぐことを拒否したのである。あまりにみっともなく懇願するから守屋も渋々引き下がった。そういうわけで彼らは穴穂部を担ぐしかなかったのである。
私もその場にいたが、彦人の情けない姿を見て臆病な凡夫だという感想を抱いた。一方で守屋の方は二年前の冬の日以来まともにその姿を見たが、毅然としていて有力豪族の長としての風格を備え、そしてギラギラと光る眼差しに畏怖を感じた。
守屋をあしらった後彦人はどうしたかというと、馬子との内通をはかった。蘇我の血筋ではない彦人が蘇我に付いても得られるメリットは少ない。せいぜい蘇我の方が優勢だから生き残れる確率は高いというだけだ。生き残ったところで権力とは無縁の侘しい生活が待っている。
死にたくないのは皆同じ、かつてミコはそう言った。しかしこの彦人にはミコのように理不尽な運命に立ち向かおうとするような気概は見られなかった。政治に関わろうとせず、学問に興味もなく、信心深くもなく、ただ財産を蓄えることに熱を上げる。そんな新しい主人を私は還俗的な小物と見なしていた。
それはさておき、彦人の命で蘇我の屋敷へ出入りすることが多くなった。馬子は何かにつけて自分に頼みごとを押し付けるので、もうどちらに仕えているのかわからなくなったのは笑える話である。
ちょうど穴穂部が蛮行を繰り返していた頃である。馬子は反蘇我側が彦人を引き込もうとする動きを察知したと言ってその手の輩が来たら始末するよう私に依頼した。ハッキリとそちらの立場を示せ、と彦人の覚悟を問う意図、それからもう物部らとの全面対決は避けられないことを示していた。
すぐに動きはあった。物部側の豪族、中臣勝海が彦人の屋敷に訪れた。それは守屋の意向か、彼の独断かはわからないが、そんなことはこの際どうでもいいことだ。手筈通りそいつを射殺した。部下も数人手練れの者を連れていたがことごとく殺った。
一応人間として仕えている手前、彦人に道術を見せるわけにはいかなかった。なので弓矢を用いたが、別に腕がいいわけでない。適当に撃った後境界を操る能力で軌道修正して当ててやっただけである。
彦人からべらぼうに褒められたがこれぐらいのことは朝飯前だった。ただの人間相手に手こずるわけにいかない。ただの人間相手になら。
その翌日、物部守屋が単身訪れた。中臣が『勝手に乗り込んで』無礼な行いをしたと謝った上でもう一度彦人に王位を継がないかと持ちかけたのである。気弱な彦人なら揺らぎかねないか、と思ったが意外に頑固で首を振らなかった。守屋もしぶとく交渉を続けた。
途中彦人は私に目くばせした。『守屋を殺れ』相手はたった一人、千載一遇のチャンスであった。これは馬子の依頼でもある。やらない理由などなかった。
だが結局、私は守屋を殺さなかった。殺せなかったのだ。昨日同士が殲滅された場所に、それも護衛もつけずに一人で来た。普通はそんな危険を冒さない。なのに来た。裏を返せば『一人で十分』である。それを証明するかのように尋常じゃない殺気を纏い、腰には件の宝剣を差して、こちらを威圧していた。それの威力は体感済みだ。だから、動けなかった。体が動かなかったのだ。
臆病風に吹かれたのは彦人ではなく、私の方だった。いまだにあの夜を引きずっていたのだ。そんな自分が心底情けなかった。
守屋は諦めて帰る際、私の目線に気づいて声をかけてきた。心臓が高鳴った。
「お前が勝海を殺った舎人か。名は何という?」
「今は、迹見赤檮と申します」
「赤檮、次に会う時は戦場だ。我を追うならば備えておけ」
そう言うと守屋は颯爽と立ち去った。その背中を見据えて、私は決意した。この男に勝つ。それは恐怖を克服することであり、過去の自分と決別することでもある。
物部守屋を倒して真に迹見赤檮になる。なりたい。ならなければならない。ならば、なってみせる。どんな手を使ってでもだ。私は彼の言葉通り、その準備を始めた。
それから大王豊日が死んだ。穴穂部による襲撃の際受けた傷が原因だった。王位が空白となり、世は乱れ、蘇我と物部の対立もついに一大戦争にまで発展することとなった。後に丁未の乱と呼ばれるそれは大王の後継者争いでもあり、有力豪族間の権力闘争でもあり、仏と神の宗教戦争でもあり、私と守屋との個人的な決着の場でもあった。
また、ミコと再会したのもその時である。
蘇我をはじめとする豪族連合軍が河内の守屋の館を攻めに進軍を開始したのは、梅雨が明けたばかりの頃であった。両軍は川を隔ててあいまみえることとなった。
連合軍の総大将、蘇我馬子は軍を二手に分けていた。数で勝るとはいえ国防を任されてきた物部の精鋭達と比べれば烏合の衆、無策で勝てる相手ではない。地の利も向こうにある。そこで彼が取ったのは伏兵を使った後退戦術であった。
まず主戦力を抜いた第一軍をぶつけ、わざと物部軍に押されるようにする。そして徐々に下がりながら敵軍の進出を促し、自軍に有利な地形に誘い込む。そこで隠していた本命の第二軍を横から突撃させ一気に叩こうというわけだ。
正確には第二軍をさらに二つに分けていた。精鋭で固めた実働部隊と、それより後方で皇族を守護する部隊の二つだ。馬子は大王に仇なす逆賊守屋を討つという大義を掲げるために大王候補の皇子達をこぞって戦場に連れ出していた。当然そこに彦人も含まれていて、私も護衛として付き従っていた。
主戦場に加わって守屋の首を獲りに行きたくて仕方なかったのだが、彦人はどうしても自分に居てくれと懇願するものだから後方待機である。この自己保身ばかり考える主人を忌々しく思ったがどうしようもない。
戦が始まって、後方と言えど慌ただしい雰囲気が取り巻いた。戦局は『馬子の作戦通り』物部軍の優勢らしく、何も知らぬ末端には不安が広がっていた。特に皇子達は非戦闘員で年も若いため、どうなっているんだと怒声を挙げる者や泣き出す者までいた。
そんな中で一人妙に落ち着いている者がいた。豊聡耳皇子――ミコである。彼の元には入れ代わり立ち代わり配下の者が訪れて何やら報告をしていたが、それを聞くミコの表情は穏やかで時に笑みさえこぼした。
そんな彼の様子を遠目で眺めていたところ、彦人に気づかれた。
「どうしたのかね赤檮……なんだ豊聡耳君を見ていたのか。そう言えば君は彼の元舎人であったな、挨拶をしてきてもよいぞ」
「よろしいのでしょうか、持ち場を離れて」
私に散々傍で守れと言っていたのに、と内心思い少し馬鹿にして言った。彦人も嫌味と受け取って怪訝な顔をした。
「それぐらいは許すわ……ただしなるべく早く戻れよ」
「お気遣い感謝いたします」
一礼して、彦人の元を離れた。しかし挨拶と言っても何を話せばいいのやら。もうミコとは二年会っていないことになる。いつかの激情に顔を歪ませたミコの姿が頭をかすめた。そうだ、まずはあの時のことを謝ろう。
一歩、また一歩とミコに近づく。彼はちょうど河勝と談笑していた。ふと相手と目があった。ミコは私の顔を見るとクスリと笑い、河勝を下げさせて、こちらに向かってきた。
お互い手が届くほどの距離で、私達は対面した。先に口を開いたのはミコの方だった。
「久しいな赤檮。二年ぶりですね。やっぱり変わってないな君は」
「ミコは随分成長されましたね。出会った頃は華奢で女子のようでしたが、逞しくなられました。先王の件は残念でした。ですがその御意志はしかと受け継がれているようです」
「前言撤回。君は変わりましたね。お世辞を並べるのが上手くなった」
「ご褒めに預かり感謝の極み」
深々と頭を下げつつ、ミコの身体をじっと見つめる。さっきの文句は考えるよりも先に飛び出したのであったが、確かに背も伸び、体つきも男らしくなったように思えた。しかし相変わらず華奢なのには変わらないなと思った。まるで別人のようになっているのではと危惧していたので少し安心した。
「何ですかまじまじと見つめて。恥ずかしいじゃないですか」
「す、すみません……私はそんな変な気などは……」
「くすくす。乙女ですか君は」
ミコはニヤニヤとさせてからかった。こういうところも変わらない。そして笑顔であっても本心から笑っているわけではないところも、変わっていないのだろうと思った。
「さてさて、ちょうどいいところに来ましたね。そろそろこちらから呼ぼうかと思っていたんですよ。君の欲望を叶えるためにね」
「……どういうことです?」
「申し訳ないが私には筒抜けですよ。赤檮、物部守屋を討ちたいか」
ミコの欲を悟る能力も当然健在であった。私はコクリと頷く。
「私の作戦にも君の存在が不可欠となった。君の願いを叶えよう、だから私に付き従ってくれますか?」
「勿論。ですが作戦とは一体……」
「これから説明します。その前に場所を移しましょう。付いてきてください」
「あ、ちょっとお待ちを」
私は振り返って彦人の居る方を見た。
「彦人様の許可を頂いてもよろしいですか」
「許可を出すのは私です。アレじゃない。わかりましたか、迹見赤檮」
ミコは強引に私の手を引いて、陣を抜けようとした。私は面食らってしまった。まさかミコがこういう態度に出るとは思っていなかったからだ。
「今しばらくは私の舎人に戻ってもらいますから」
ミコにそう言われた時は少し嬉しかったが、同時に言いようのない不安に駆られた。どこか自分の知っているミコではない気がして。それから彼は、抑揚のない声で告げた。
「それと私への謝罪は必要ありません」
どのことを指して言っているかはわからないはずもなかった。こうして私は、あの時自分がしたことへの許しを得る機会を、永久に失った。
「さて、この辺でいいでしょうか」
ミコに連れられて歩き回っていたところ、小高い丘の上に辿り着いた。見晴らしがよく、戦場を一望できた。物部軍は順当に大和連合軍を押していた。
「こんなところに来ていいのですか。自軍から大分離れていますよ。いざという時……」
「なんとかするのは君の役目だろう? 私が考えなしに行動すると思います?」
「失敬」
「では作戦を説明するよ、まずはこれを見てくれますか」
ミコは腰に差していた巻物を取り出して広げると、なんとそこから様々な武具が飛び出してきた。これは仏法の封印術だと彼は言った。よく見ると剣や弓、棍棒だけでなく勾玉や鏡などの祭具もある。その中に見覚えのある一振りの太刀を見つけ、私は驚愕した。
「その剣、守屋の……!」
「布都御魂剣。勇猛な雷神タケミカヅチが遣わした宝剣にして物部の切り札の一つですね。これらは全て八十あると言われる物部の神宝、の一部です。流石に全てを回収することはできませんでしたが」
ミコ曰く、守屋は普段は妖怪退治のみに使用するこれらを解禁して、数で勝る連合軍を蹴散らそうと考えていた。神の力が宿る宝具は対人においても絶大な威力を誇る。そんなものを使われたのでは流石に勝ち目がない。だから使われる前に奪ったのだと。
しかしながらよくもこんな数を揃えたものだと思った。ミコは全部で八十あると言ったが、ざっと数えて六十三。四分の三を超えている。数はまぁいいとしても、あの物部守屋から布都御魂剣まで盗んだなどと到底信じられなかった。そんなことを許す相手には見えない。だから不思議で仕方がなかった。
「いったいどうやって……」
「布都にお願いしました」
布都姫。蘇我馬子の妻であり物部守屋の妹。ミコはさらっと言ってのけたが、それは彼女に実家を裏切らせたということだ。いくら蘇我に嫁いだ身とはいえ兄を滅ぼす手伝いなど並大抵のことではないはずだ。
ミコは笑みを崩さない。そんな彼が少し恐ろしく思えた。
「まぁここまでは良かったんですけど、ちょっと事態が悪い方に進んでしまいましてね、物部の秘宝を奪われたと気付いた守屋は慌てて代替策を打ち出しました。まず丸腰になった自分は前線へ出ず奥へ引っ込んだ。そして今度は神様そのものを戦場に送り込んだのですよ。あ、あそこ、よく見てください。わかりますか?」
ミコが指差した方は主戦場だった。そこで旋風が吹き荒れ、連合軍の兵士をまるで塵かのように吹き飛ばしていた。
「布都御魂剣を授けた雷神タケミカヅチに比類する実力を持ち、東方を征服したという風神ヤサカカミナです。ハッキリ言いましょう、我々とは格が違いすぎる。あんなの反則です」
「ヤサカね……確かに」
ヤサカカミナ、古くはタケミナカタと呼ばれたそれの実力はよく知っていた。かつて私を追い払った巫女の一人がヤサカを祀りその力を借りた者だったのである。ヤサカの巫女にすら手酷い目に遭わされたのだから本人ともなれば圧倒的だろう。もっとも当時の私は今より格段に弱かったのではあるが。
「しかしこちらも仏教の神様を味方に付けているのでは?」
昔の記憶を引っ張り出していたらふと多聞天のことを思い出したので訊いてみた。戦力としてどうなのかと。だがミコの反応は芳しくない。
「それはそうです。何のために彼らを敬ってきたかといえばそれは旧来の神々に対抗するためですから。多聞天ら四天王は全員出撃させました。しかしこちらは四。向こうは八百万ですよ。今度はこちらが多勢に無勢ですね」
流石にヤサカ程格の高いのはそうそういませんが、と付け足したもの、良い状況と言えないのは明白であった。馬子の策はあくまで人対人を想定したものだ。荒ぶる神々に力づくで押し切られる可能性が高い。
「まずいですね」
「あぁまずいよ。そういうわけで急遽守屋暗殺を企てました。神々はどうも守屋と個人で契約しているらしいので、守屋さえ殺せば戦う理由がなくなると。それで隠密部隊を送り込んだのですが……全滅したとの報告を受けました」
「守屋はこの剣を持っていなかったのに?」
「そう。だから簡単に殺れるかなと思ったんですが甘かったですね。奴は神様を護衛に付けてたらしいです。それもヤサカ並みの。襲撃の失敗は手痛いです。こちらが暗殺を狙っていることが悟られたので今まで以上に警戒して、多分同じ場所にはもういませんね」
「守屋を仕留めなければ神様軍団は引かないというのにその守屋は神様に守られている。万事休すではないので?」
素でそう思った。攻撃は最大の防御とは言われるが、この場合は防御が最大の攻撃である。事態は思っていた以上に悪かった。これではこの戦、負けるのではないか。
しかしミコはにやりと笑ってみせる。まるで兎を追い詰めた時の狼のように。
「それがですね、そうでもないんです。守屋が逃げ隠れるのであれば場所を特定すればいい、神が護衛についているなら神さえ欺けばいい。そのために今、ここに二人でいるじゃあないですか。私と君とでやるんです」
「私と、ミコとで……?」
「はい。まず私がこの耳を極限まで研ぎ澄ませて守屋の鼓動を聴き取り、その位置を特定します。これはすでに一回目の暗殺作戦で試しているので確実だと思ってください。そしてその場所を伝えますので赤檮は護衛の間合いの外、つまりここから守屋を射殺してください。これが本作戦の概要になります。理解しましたか?」
いやいやいや。その理屈はおかしい。何がおかしいって私がここから遠く離れた守屋を射殺すことが前提になっているのがおかしかった。普通に考えて無理だ。
「いやいやいや、君は普通なんかじゃないでしょ……私知ってるんですよ? 君が矢を射る時小細工してるの。空間を歪めて当てる。それをやればいいだけじゃないですか」
「しかし、相手の姿も見えないのにそんな、遠距離射撃なんてやったことないですし」
ごねる私をミコは諭すように、力強く言った。
「場所は教えると言ってるじゃないか。そこへ向かって撃てばいいんです。距離が遠いというのであれば縮めればいいだけのこと。いいですか、君はそういう能力なんです。この世の物は境界で成り立っている、それを弄れるということは万物を思うがままにしうるということだ。その弄り方がイマイチわからないというのであれば教えよう。安心していい、君にとっては守屋の首を獲ることなど本来朝飯前なんですから」
ミコの言葉には魔力がある。初めて会った時からそういう印象を抱いていた。彼がそう言うならできる気がする。その時思いついたのが、空間に裂け目を作ってそこに矢を放ち、その出口を守屋の居る所に作るということだった。そんなことはやったことなかったが、不可能ではないはずだ。その案を伝えたところ、彼も同じことを考えていたようだ。
「そうそう、当てりゃいいんだから途中で何度も軌道修正する必要ないんですよ、過程をすっ飛ばして発射と着地を繋げればいいだけ。見た目としては瞬間移動ですか。それにもっと早く気づいていたら彦人邸で守屋を暗殺できなくもなかったのに」
「ところで何で知ってるんです? 私はこの二年程ミコとは会っていませんが」
「それは私も同じですよ。ただずっと見てました。間者を彦人の屋敷に潜り込ませていましたから。君のことを気にかけない日なんてなかったんですよ」
そう言われると悪い気はしなかった。てっきりミコからは嫌われて追い出されたものだと思っていたので嬉しかった。ただ一方で、自分に利用価値があったから目を付けていたにすぎないということも理解していた。
元よりそういう関係だったのから構わない。私にとって重要なのは関係が続いていることであった。
ミコは私に名前をくれたあの日のように、甘い声で誘った。
「というわけで次に会う時はこう言うと決めていた。迹見赤檮、君が必要だ。私を助けてくれますか」
「ミコ、私でよろしければ」
跪き、恭順の意を示す。それを見てミコはふふっと笑った。心なしか、本心から笑っているように思えた。
「それでは最終準備といきますか。ちょっと待っててください、今から守屋の声を聴き取ります」
そう言うとミコは深呼吸して、気を練り始めた。道術で己の能力を高めているようだった。彼の髪はふわりと逆立ち、まるで獣の耳のようになった。アンテナ、と言った方が相応しいか。聴力の拡張を視覚的に表していた。
「物部殿は現在西の……守屋様はどちらへ……屋敷の……」
ブツブツと呟くミコ。膨大な音の中から必要な情報を一つ一つ掬い上げるように。やがて彼の逆立った髪はぺたんとしなった。情報の選別を終えたようだった。
「守屋はあそこの木に登って戦場を見ているようですね」
ミコは森の中を指差すが、正直どの木のことなのかわからなかった。それを察してミコはこう言った。
「まぁ指差したところでわからないでしょうから、私の得た情報を君の頭の中に直接送り込みます」
「頭の中に直接って、どうやってですか」
「私と君との境界を緩めてください。ようするに一心同体になるってやつです。言葉通りにできるのは君ぐらいでしょうけど。ただし一瞬だけですよ、一生君と合体したままなんて嫌ですから」
はたして彼の言うようなことが自分にできるのかと疑問が浮かんだが、深く考えるよりも先にミコが私の胸元に飛び込んできた。
生暖かい感触が伝わる。人を抱くというのは、けっこう長く生きてきたとはいえこの時が初めてで、奇妙な感覚を覚えた。ミコの体は柔らかく、そして細かった。強く力を入れたら折れてしまいそうだった。
いいから早く、と急かされて私は自分を形作る境界を弄り、彼との同化を試みた。緩やかに自分が自分でなくなるような感覚が訪れる。そして異物が流れ込んでくる。
真っ先に受け取ったのは木の上に腰掛ける物部守屋の視覚イメージだった。遅れてその座標が送られてくる。その場所がどこかが認識できた。
情報を送信受信しているというよりは共有していると言った方が正しいか。私とミコは徐々に溶け合って、一つになろうとしていた。
これはミコのことを知るチャンスだと思った。今までミコはその能力で相手を見透かしてきたが、自身の思いは晒そうとしなかった。あの一回を除いて。今ならミコという人間を理解できると思った。
しかしそんな私の欲をミコは許さず、拒否した。意思の奔流に弾かれて私は元の迹見赤檮という一個体へと戻っていく。気が付けば、尻餅をついて倒れていた。そんな私をミコは見下ろしていた。いつもの冷たい笑顔で。
「駄目じゃないですか、一瞬って言ったでしょう。覗き見は程が過ぎると嫌われますよ」
「すみません」
自分はいつも人の欲を覗き見ているじゃないかと反論したくなったが、飲み込んだ。そんなことよりさっきミコの意思に弾かれた時に、かすかに聞こえた声が気になっていた。声というか思念ではあるが、聴覚的に捉えたので声でいいだろう。ミコの心の声。おそらく本音。
「タスケテ」
と彼は言った。確かにそう聞こえた。いつかの蘇我邸での馬子や布都姫や、双槻宮を去る際のトジコの言葉を思い出した。ミコを助けてやってくれ、あいつは助けを求めている。
「……どうしました、赤檮。こんな時に『ぼんやり』しないでください。守屋が動く前に仕留めないと」
深く考え込もうとしていたところミコに中断させられた。確かに『ぼんやり』している場合ではない。頭の中を切り替えて立ち上がる。
私はふと目に付いた物部の宝の中から矢を手に取った。普通の妖怪であれば神の加護を受けた宝具に触れることさえかなわない。だが私は神の力を馴染ませる術を数週間かけて編み出していた。勿論守屋の宝剣対策だった。
謂れのある矢を使えば成功率が上がる、そんな気がした。験担ぎでもある。ミコもこれを狙って物部の宝具を盗ませたのかもしれない。そうだとすれば孫子や孔明に並ぶ策士だなと思ってクスリときた。
弓を構えて遠くを見据えた。ぶっつけ本番だが、不思議と上手くいく気がした。なにせミコがついている。かつて守屋はミコの力を借りて私を追い詰めた。今度は私の番だ。宿敵を討ち取り、因縁を断ち切る。
虚空へ向かって射た。放った先の空間が割れ、その中へ矢が吸い込まれていく。そしてそれを守屋の居ると思しき所へと繋げる。無事当たったかどうかはわからなかった。けれど私は当てたと信じ込んだ。
ミコの方を見る。すると彼の髪は逆立っていた。おそらく守屋の生死を確認するためだろう。しばらくして彼は口を開いた。
「よくやってくれました。そしておめでとう。君は勝った」
それを聞いて、一気に力が抜けてへたり込んでしまった。やった、やってやった。この時まで私は一度足りとも守屋のことを忘れはしなかった。強敵だった。多分ミコの協力なしに前線で対峙していたなら、勝てたかどうかわからなかった。
歓喜に打ち震えていた。守屋と過去の自分に引導を渡したことに。自分の新たな可能性を見出したことに。そして何よりも、ミコと共に得た勝利だったことに。
それと同時に今まで自分を構成する要素の一部であった守屋への対抗心が抜け落ちてしまい、放心していた。だから、そいつが現れた時、反応が一歩遅れた。
「よおおおおくううううもおおおおやああああってくれたなああああ」
突然大地が裂け、中から巨大な蛙が飛び出して私の体を跳ね飛ばした。蛙は姿を変化させて小さくなり、人間の少女の姿になって私の首根っこを掴み、持ち上げてまた投げ飛ばした。
童女の髪は金色で、神々しくも荒々しい闘気に満ちていた。一目で人外であることはわかった。おそらく守屋の護衛をしていた神だろう。それも祟り神の部類の。
「恥知らずな卑怯者めが。影でこそこそ這いずりまわりやがって。二度はないと思っていたが、今度は外道を連れてきてズルしたな? 私がこのような輩を許したことは今までに一度だってない。ミジャグジの名に於いて、お前らを八つ裂きの刑に処す!」
祟り神はそう言うと地面を蹴った、すると錆びた鉄の輪が飛び出した。それを祟り神は掴むと私に向かって投げた。
急所を狙ってくることがわかっていたから走って避けようとするのではなく、当たる直前に体を分離してかわした。輪はそのまま遥か彼方へと木々を薙ぎ倒しながら飛んで行く。祟り神はふん、と鼻を鳴らした。
「小細工は得意なようだな、化物。まさかお前みたいなのがいたとは守屋も想定外だったろうな。だが安心しろ、ちゃんと殺してやるから。その前に……」
ブン、と風を切る音が近づく。振り返ると、飛んで行った鉄の輪が戻ってきていた。そして私ではなく、ミコの方を狙っていた。慌てて近くにあった布都御魂剣を手にして輪とミコとの間に入り、叩き落とした。斬ることはできなかった。ただの鉄の輪ではないのだろう。弾かれた輪は突然消え、祟り神の手元に戻っていた。
「布都御魂剣……! どこまでも卑怯な奴だ、お前たちが姑息にも盗まなければ守屋が負けるはずなかったんだ! 許さない、絶対に許さないぞ……祟り殺してやる……」
「どうか御気を静め下さい、東国の神よ。物部守屋殿はすでにこの世に居られません。然らば私達と貴方が争う理由はないはずです」
「あぁん? お前らが姑息なやり方で守屋を殺したから追って来てんだよ。そりゃ真っ当に戦ってあいつが負けたならおとなしく帰るさ。でも違うだろうが。あまり舐めた口きくようなら閻魔に代わって舌を抜くぞ、糞餓鬼」
守屋が死んだら神々は引き下がると思っていたミコは甘かったのだろう。敵の大将を討ち取ったものの状況は好転していない。むしろ神を怒らせて悪化したと言える。私はミコを背中に隠し、剣を構えて祟り神を睨んだ。向こうもまた輪を投擲しようとポーズを取った。
その時。眩い光が辺りを照らした。光はやがて収束し、見覚えのある形になった。白髪の割に若々しい顔立ち、武人らしい毅然とした佇まい。ただし体は透けていて、足はなかった。
「守屋!」
「物部殿……」
紛れもなく、物部守屋その人……の亡霊であった。守屋の霊は祟り神に向かって腰を深く曲げて拝んだ。
「モリヤ様。どうかお引き取りください」
「な、何故だ守屋!? あいつらはお前を卑怯な手で葬ったんだぞ! 不本意であろう。よって私がお前の代わりに雪辱を晴らしてやろうとな」
「どんな手であろうと、我が負けたことには変わりません。契約は切れております。ここでモリヤ様が手を汚せば、その名まで汚すこととなります。どうかお引き取りください」
「あ……う……わかったよ。お前がそういう潔い男だからこそ私らも手を貸したんだ。わかったからそんな子犬のような目で見ないでくれ」
モリヤと呼ばれた神は渋りながらも手にした輪を離した。輪は地面に落ちた後溶けて消えた。気が付けば、戦場の方で吹き荒れていた風はすっかり止んでおり、ヤサカを始めとする神々は撤収を始めたようだった。
守屋は振り向いて私の方を見た。そして何かに気づいて、驚いたように言った。
「我の首を獲ったのは、あの時の妖だったか。よくも我を倒すほどにまで成長したな。もっともあの時殺せなかった時点で我の負けだったのかもしれん」
「いや、私一人では勝てなかった。ミコのおかげです」
率直な感想を述べた。だが守屋はそれでも貴様の手柄には変わらないと敵である私に賛辞を送った。そんな調子であるから、ますます私はこの男には敵わないな、と思ってしまうのであった。
それから守屋はミコに向かって頭を下げた。ミコは困惑してその旨を問うた。
「此度はこうして敵対することとなりましたが、今もなお我も皇族に仕える身であると思っております。ゆえにこれから茨の道を行く豊聡耳様をお助けできないこと、悔やみます」
「やめてください……私は貴方の未来を、物部の未来を奪ったのです……それも己が欲のために」
ミコはひどく申し訳なさそうに守屋を見た。そんな辛そうな表情のミコは初めて見た。
顔を上げてくださいとミコは懇願するが、守屋は深々とお辞儀したまま話を続けた。
「しかも我はこれから貴方様にまた一つ重しを載せることになります。それをどうかお許しください。勝手な願いではありますがどうか……布都を頼みます」
「わかりました。彼女は私にとっても大切な人です。絶対に悪いようにしません。だから謝らないでください……!」
泣きながらミコは守屋の肩を掴もうとするが、空しく空振りした。守屋の姿は目に見えて希薄となっていく。そして最後は頭を上げて、笑って、消えた。
私にはその笑顔が作り物だとわかった。ミコのソレと全く同じだったからだ。口ではああ言っていても、やはり思うところはあるだろう。志半ばで倒れた悔しさだとか、次々と部下を家族を討たれていくことへの怒りだとか、残された妹の将来に対する不安だとか、色々だ。けれど彼はそれを飲み込んで、怨霊と化す前に、逝った。
そんな守屋を立派だと褒め称えるのは人間の尺度によるものだ。だが人間ではない私にも、いや人外だからこそか、尊敬に値する人物だと確かに思えた。
守屋が消えるのを見送って、モリヤもその場を立ち去ろうとした。その際、膝をついて項垂れているミコに向かってこう言い残した。
「守屋に免じて今日のところは帰らせてもらうがな。それでもお前とお前の一族を呪わずにはいられないぞ。覚悟しておけ」
「……わかってますよ。そんなこと」
祟り神が消えた後、ミコはぼそりと呟いた。その表情はよく見えない。私には見せてくれなかった。
静寂は長くは続かなかった。馬が土を蹴る音がどんどん近づいてきたからだ。やってきたのは河勝だった。彼は息を切らしながら馬から降り、大声で状況を報告した。
「はぁはぁ、探しましたですぞ! 厩戸様、戦局が大きく動きました。物部軍の神々が突如として退きまして、馬子殿が第二軍を突撃させました。物部軍は崩れ、こちらの優勢となっています。それとこれは未確認情報ですが、物部守屋を討ち取ったと……」
「守屋を討ち取ったのはここの赤檮ですよ、河勝」
「な、それは真ですか! すごいじゃないですか赤檮君! いやぁかねがね君は何か大きなことをしてくれると思っていました! 赤檮君すごいすごい!」
むさ苦しいのがこちらに抱き着いてきた。ミコと違ってただただ鬱陶しい。汗臭い。そして十字架が当たるたびにチクチク痛む。この国の神器とはまた別系統の魔除けなので対策が効かなかった。
「河勝、馬を借りますよ。赤檮、後で大将首を」
ミコは無情にも私と河勝を置いて先に本陣に戻っていった。まとわりつく馬鹿をなんとか引き剥がすと、ミコの言う通り守屋の首の回収に向かった。
陣に戻る頃には、あらかたの決着がついていた。総指揮官の馬子を始め、皆が私を熱狂的に迎え入れた。大歓声の矢に撃たれて、私も段々熱を帯びていった。
そのまま勝利の宴になだれ込んだ。主人の彦人に抱き着かれて無事戻って良かったと言われた。その日抱いた三人目である。そこから先は覚えていない。いろんな人に揉みくちゃにされた。私からも何人か抱き着いたかもしれない。浴びるように酒を飲まされたから羽目を外していたとしても不思議ではなかった。
その席に馬子はいなかった。物部の残党狩りを指揮するため抜けたらしい。そのため代わりに息子のエミシが周りの豪族たちに担がれて幹事を務めていた。おとなしい印象があったからこういうどんちゃん騒ぎは苦手かと思いきや意外、率先して酒を仰ぎ音頭を取っていた。それを見て叔父の魔理勢などはエミシも蘇我の男になってきたななどと評した。
馬子の他にも、先に戻ったであろうミコの姿も終始見えなかった。
今にして思えば、この時ミコを探しに行けば良かったのだろう。けれど守屋との決戦を終えて興奮状態にあった私はすっかり忘れてしまっていたのだ。
助けて、という言葉を。いろんな人に言われた言葉。そして何よりもミコ自身が言った言葉を。
結論から言って、私はミコを助けられなかった。否、助けなかった。あんなに願われていたのにもかかわらず。
もしかすると、最初から助ける気などなかったのかもしれない。そう指摘したのは、最も真実に遠いところにいたと思われた、物部の姫君であった。
戦後、大将を討ち取った功績で物部氏の遺領の一部を与えられた。しかし相変わらず私は彦人の元で舎人を続けていた。
次の大王にはあの穴穂部の弟泊瀬部皇子が選ばれた。我が主は相変わらず権力とは無縁である。そもそも豊日の時にしろこの時にしろ、彼は率先して蘇我系の皇子を推薦して回っていたらしい。
泊瀬部は兄と違い始めは馬子に恭順の意を示していた。どうも天皇になって享楽的な生活を送りたかっただけらしかった。しかしそんな者をいつまでも王位に留まらせておく馬子ではない。あまり将来を見通せないところは兄譲りなのか、馬子の煽りに乗せられて蘇我を滅ぼそうとする意思を見せたために、正当防衛という文句で馬子に暗殺された。即位してから五年後の話である。
次の大王はいよいよ本命のミコか、あるいはひょっとして彦人なのかと思いきや、意外にも先々代の皇后炊屋姫が選ばれた。彼女も蘇我の血は引いていたし、皇后として政務を取り仕切った実績もある。本当は彼女の息子である竹田皇子も候補に挙がっていたが直前に亡くなっていた。
ミコはやはり大王になりたくなかったのか。それでも一応皇太子、次の大王位を約束された者、として女帝の補佐に回った。こうして炊屋姫・ミコ・馬子の三頭体制ができあがり、いまだに混迷の中にあるこの国の安定化を図っていた。ミコや馬子、その子らや河勝などと会う機会は立場上ほとんどなかった。彼らは最早遠い存在となっていた。
ところで主人についてだが、この頃には評価を改めていた。以前私は彦人を『臆病な俗物』と見なしていた。しかし彼はただ我が身可愛さのために保身に走っていたわけではなかったのだ。全ては次世代に望みを繋ぐためであったのだ。
彼が頑なに王位を拒んだのは、権力闘争に巻き込まれて穴穂部・泊瀬部兄弟のような末路を避けるためであった。彼は馬子やミコが生きている間は王になれない、なろうとしてもろくなことにならない、と冷静に分析していた。だから自分は一族を守ることに徹し自分の息子や孫に託そうというわけだ。
財を蓄えることに執心したのもそういう理由だった。財政基盤を整えることは後の世代が王となり国家を動かす際きっと役に立つだろうと。
彦人はただの凡人ではなかった。その実『普通の人間の範疇で』賢明な人物であった。そうであると段々わかってきたものだから、私も以前ほど彼に仕えることに不満を持たなくなった。むしろ彼のこうした行いがのちに実を結ぶか否か見てみたくて、仕え続けている面はあった。
もっとも私が彦人の屋敷、正確に言えば都に留まり続けた理由は他にもあった。戦後大和の国では妖怪の出現数が急激に増えた。理由は簡単、それまで妖怪退治を任されていた物部・中臣氏がいなくなったからだ。そこで戦の英雄迹見赤檮は妖怪退治の英雄でもあらざるを得なくなった。
私は物部の仕事だけでなくその秘宝も受け継いだ。そういうわけでこと戦闘で苦労することはなかった。神の力を使いこなす術も改良し、宝具はますます馴染んでいった。もっともそうした神器を使うまでもない相手が大半だったが。
「貴様も同じ妖怪の癖に何故人間の味方をするのだぁぁぁぁ!」
こういう今際の言葉は何度も聞いた。しかしだからなんだと私は思っていた。同じ妖怪と言っても種族は違うし、見ず知らずの相手に仲間意識など持てるはずもない。それは人間に対しても同じで特別見方をしているという意識はなく、ただ仕事だからこうして妖怪を狩っていたにすぎなかった。
中には私を妖怪と見抜いた上で、降参して助けを乞う奴、人間社会で生き抜く術を教わろうとする奴もいた。私もかつてはそういう経験をしたため命を取るまではせず、彼らに知恵を授けてやったりもした。
すなわち組織的に行動し、人間を食う時は少数で隠密に、恐怖を示す時は大勢で露出せよと。そうすれば人間も容易に手を出せなくなると。これは私の仕事にとってマイナスではなく、むしろプラスになるように考えてのことだった。お蔭で何も考えずに突っ込んでくる馬鹿が減って楽になった。
人間の世界以上に無秩序だった妖怪の世界も、数年で原始的なムラを形成するようになった。もっともヤマトの中央部だけの話だが。そして表向きは妖怪退治屋の私が裏で妖怪の賢者などと持て囃されたりした。人間からだろうと妖怪からだろうと、感謝されることは嫌いではない。馴れ合うつもりは毛頭なかったが。
こういう根回しが高じて仕事量は年々減ったが、他にも仕事が減る理由はあった。他の妖怪退治屋が台頭してきたのである。石上神宮を基盤とする石上氏。石上神宮は元々物部氏の神社であり、石上氏は戦後逃げ延びた物部氏が姓名を変えたものだという噂があった。
実際に妖怪退治の腕からもその噂の信憑性は高かった。当主は守屋の弟贄子とも言われていたが決して姿を現さなかった。それもそのはず蘇我氏が権勢を誇るこの時代、大手を振って歩けるはずもなかろうというものだ。
ところがその当主が突然彦人の屋敷に連絡をよこした。同業者の私と直接会って相談がしたいという旨であった。あの丁未の乱から十五年くらい経った頃のことである。
石上がもし物部の残党なら、守屋を討った迹見赤檮は一族の仇。彦人は私の身を案じて申し出を断れと言ったが心配無用と単身石上神宮に向かった。たとえこれが罠であったとしても謎の石上の当主に会ってみたかったのだ。むしろ罠であることを期待していたくらいだった。
あの戦い以来、私を強烈に惹きつけるような好敵手と出会えておらず、退屈だった。妖怪を寄せ付けない強さと評判の石上当主であれば期待十分である。かつて『ミコ』を求めて守屋にバラバラにされたことはたいして反省していなかった。リスクを冒すことにスリルを感じるのはもう自分ではどうしようもない性分だと諦めていた。
石上神宮は山の麗にあって人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。当主に仕えていると思しき老婆が一人鳥居の前に立っていて、その案内で奥の拝殿へと進んだ。人気はこの老婆以外になく、彼女もまた私を部屋に連れて座らせると直に当主がお越しになりますとだけ言い残してすぐに消えた。
鬼が出るか蛇が出るか。期待を膨らませてそわそわとしていたところしばらくして、石上当主が姿を現した。そいつを見て、予想外の相手に驚いた。顔見知りだったのだ。
「久しぶりだな、赤檮殿」
「布都姫……!」
噂では当主は物部守屋の弟と言われていた。それはある意味惜しかった。石上の当主は弟ではなく妹の方だったのである。
「お主はあんまり変わらんな。最後に会ってから十五年以上経っておるというのに」
「それを言うならば、姫様こそ……」
布都姫は見た目だけだと全く年を取っていないようだった。記憶の中にある童女の姿と一致していた。ただし髪だけは白くなっていた。まるで守屋のように。
不審がる私に向かって彼女は不敵な笑みを浮かべ、質問した。
「のうお主、我の年はいくつだと思うか?」
「ええと初めてお見かけした時は大王が三代前の時で、その時にはこれぐらいに見えましたから、最低でも三十路前でないと……」
「ちょうど五十である」
「ご、五十!?」
ということは初めて会った時にはすでに三十代であったということだ。しかも蘇我馬子より年上である。この見た目で。
もっともそういう想像をしなかったこともない。守屋の妹なのだから見た目より年老いていて、なんらかの術で若く見せていると。
布都姫はざっくりと説明した。曰く物部の祖先は神であった。人に力を貸そうと人と交わって、今の我々がいる。そういうわけで一族の中には先祖返りして神のごとき力を持ち若さを保つ者が現れる、と。
「それが我や兄上だ。特に我にいたっては血が濃すぎてこの有様だな」
彼女は苦笑いをしながら吐き捨てるように言った。自分で望んだことではないのだろう。かつてミコのことを化物扱いを厭うと評したが、彼女自身もそういう扱いを受けて苦労したに違いなかった。
「もっとも年を取っていることには変わらぬ。物部の一族で百年も生きた者はおらぬしな。兄上も件の戦がなければそろそろ死神の誘いが来る頃であろう」
お主が兄を殺さなければ、と咎められている気がした。だが慌てて布都姫は訂正した。
「すまぬ、誤解を与えるような言い方をした。けっして我はお主を恨んだりとかはなくてだな……そもそも兄上を殺したのは我のようなものだ。我が裏切ったから物部の者は死んでいったのだ」
腰に差した布都御魂剣を始めとする物部の秘宝。これを持ち出したのは目の前の布都姫だとミコから聞かされていた。間接的にだが彼女は守屋暗殺に加担していることになる。だからか自責の念に駆られていたようだ。
しかしそれはミコの指示によるものだし、布都姫はこのような結末を迎えるとは知らなかったのではないか。そう言ってみたら、彼女はブンブンと首を横に振って否定した。
「そうではないそうではない、我がミコ様に物部滅亡の企てを持ちかけたのだ。全ては仏教を隆盛させるために」
この言い分は妙だと思った。私の知る限りミコはともかく布都姫は仏教徒ではない。むしろ仏像を怖がって燃やしてしまい夫や子に怒られていたくらいだ。何か裏があるのだろう。その辺を突いてみようと思ったが相手は話題を逸らした。
「まぁそれはともかくだ。我はお主に恨みなど微塵も感じておらぬ。むしろ感謝しておるくらいだ。此度もお主を害する謀のために呼んだわけではない、ただ話がしたくて呼んだのだ。どうか安心してくれ」
石上当主との一騎打ちを密かに期待していた私にとっては少し残念であった。
「お主……何故不満そうなのだ」
「い、いえ。不満など何も」
「まぁよいがな。では赤檮殿、まずはお主に訊きたいことがあるのだが、よいか?」
「何でしょう」
「兄上の最期が如何様であったか、教えてくれぬか」
どうせ彼女には私の正体も感付かれている。だからまず守屋と出会った時から遡って、ミコの協力を得て守屋を暗殺したこと、怒った祟り神と対決したこと、守屋の亡霊が神の怒りを鎮め、妹のことをミコに頼み、昇天したこと、全て包み隠さず話した。それを布都姫は静かに聞いていた。話が終わった時にはぼろぼろと涙を溢していたが、表情は穏やかであった。
「……ふむ。そうか。兄上は我のことを……よくぞ、よくぞ話してくれた! やはりお主でよかった。兄上を討ったのがお主で。感謝してもし尽せぬわ」
「感謝されるほどではありません……そうだ、こちらお返しします」
そう言って私は布都御魂剣を差し出した。自分にとって因縁のある物だったからあれ以来ずっと持ち歩いていたが、やはり本来の持ち主たる物部の者に返すべきだろう。話をしているうちにそう思うようになっていた。
「今はこれだけですが、いずれ物部の宝は全てお返しさせていただきます」
「おお……いや別に良いのだぞ、使える者が使ってくれた方が兄上も喜ぶような気がするのでな」
「いえいえ、私は剣は得意ではなくて宝の持ち腐れでしたし」
「そうか? なら有難く頂いておこうか。そう言えば赤檮殿、この剣と我の名前が同じことに気づいたか」
「はい。それが如何しました?」
「物部は神の末裔であるとは言ったな、そういうわけで一族の者は神の名前にあやかって名付けられることが多い。我の場合はこの剣に宿る神霊が由来である。そう思うと、何かこう、しっくりとくるであろう……あぁ、それだけのことだがなうん」
布都御魂剣を手に持ってじっと見つめる布都姫。守屋が常々この剣を持ち歩いていたのはもしかすると妹のことを気にかけてのことだったのか? 想像の域を出ないが。
守屋というとあの祟り神の名前もモリヤだったが、ちょうど布都姫と布都御魂剣の関係と同じかもしれない。そう考えると『しっくりときた』。
あの神については興味本位で少し調べた。なんでもこの辺りより遥か東にある諏訪湖という湖の神様らしく、神でありながら土着神の力を借りて祟りを成す巫女のような神だという。かつて中央からやってきたヤサカに敗れ征服されたが、持ちつ持たれつの関係で信仰を集めているとも聞いた。
ちなみにヤサカに関連して物部八坂という人物もいた。戦いの少し前に守屋の使いで蘇我邸に出入りしていたため知っていたというだけであるが。
そう言えば戦後布都姫はどうしていたのだろうかと思い訊いてみた。風の噂で馬子から離縁されたとは聞いていたが、その後の消息は全くもって不明であった。彼女は話すのはあまり気が進まないし面白い話でも何でもない、と前置きした上で重い口を開いた。
噂通りすぐに馬子とは別れたという。蘇我の当主がいつまでも物部の姫を手元に置いていたのでは面子が立たない。とはいえ馬子は元妻に旧物部の領地であるここ石上神宮を住処に与え、密かに支援を送ったので生活に困ることはなかったようだ。いつかの酒の席を思い出す。彼にも彼なりの苦悩があり、布都姫もその辺は理解していると言った。
ただここからの話が驚きであった。なんとその後大王泊瀬部に無理やり連れ出され、妃になっていたというのだ。当時のことを彼女は苦々しい面持ちで語った。
「……それでな、アレは大層な好き者であったのよ。我のような幼い体を痛めつけるのが趣味で……我は縄で柱に縛られて木簡が折れるまで叩かれたりな、泣き疲れた頃にはアレのものを……のしかかられて腹を殴られたり、小便をかけられたり、あと裸で庭を歩かされたりもしたかな。畜生同然の扱いよ。アレからしたら愛でているつもりらしかったがな」
確かにあまり聞いていて気分のいい話ではなかった。人を食う妖怪に言えたことではないが人間という生き物は時折無駄に残虐で邪悪を成す。同情したり義憤に駆られたりといった人情味は持ち合わせていないが、少なくとも自分の趣味に合わないことだけは確かだった。
そんな地獄のような生活も泊瀬部暗殺によって終わったという。彼女の言い方によるなら『馬子殿とミコ様が我を助けてくれた』である。大王暗殺事件は政治的な理由が大きいことには変わらないのだろうが、布都姫救出という性格もあったのかもしれない。
それからは石上神宮に戻り、物部の残党を束ねる当主になってこうしていると言った。名目上は兄弟の贄子の妻になっているらしかった。その贄子は少し前に亡くなったという。
馬子と寄りを戻すつもりはないかと訊いてみた。布都姫は一瞬寂しげな表情を浮かべ、それをかき消すように笑顔を作って否定した。
「それはないな。それだけはない」
「大臣のことはもう嫌いになったと?」
「そういうわけではない。馬子殿は個人としては好きなことに変わらない。けれど我は物部で、馬子殿は蘇我なのだ。そういうことなのだ」
「もう『蘇我布都姫』ではないと」
「そうだ。かつて我は物部を滅茶苦茶にした。今はその贖罪のために生きておるのだ。こんな我でも皆当主として一族を率いることを望み、慕ってくれている。我はもう二度と物部を裏切れぬ。通り名こそ石上だが我は『物部布都』よ」
布都姫、いや物部布都は力強く言い放った。かつてミコは名は存在を確固たるものにすると言った。彼女はこれから『物部布都』として生きていくことを選んだのだ。私が『迹見赤檮』になったように。
「して、お主はどうなのだ? 今はどうしておる」
「相も変わらず彦人様の舎人をやっておりますよ。たいして変わったことは……しいて言えばどこへ行っても英雄扱いで、それがまた都合よく使われております。曰く英雄殿の腕を見込んでお願いである、妖怪を退治してくれないか、などど」
「ミコ様から仕事をか?」
「いえ、あの戦いからミコとお話しする機会などはありませんでした。今ではこの国の太子に在らせられる。雲の上の存在ですよ」
それを聞いて布都は怪訝な表情を浮かべた。
「ミコ様と会っておらぬと? トジコとの祝儀の時もか?」
蘇我トジコがミコに嫁いだのはまだ大王が泊瀬部の頃だ。そのことについては勿論知っていたし次の年には子供が生まれたことも人づてに聞いた。しかし当時の私は物部の仕事を引き継いだばかりにつき多忙で、抱えている案件を優先せざるを得なかった。
布都は私の話を聞きながら神妙な顔でブツブツ呟いていた。
「……そうか、通りでミコ様がますます……いや邪仙めが……」
「なんでしょう?」
「いやまぁそのだな、お主、ミコ様に会って話をしたくはないのか?」
「それは勿論、そういう気持ちはあります。しかしミコはお忙しい身、それに立場上そうそう会えることも……」
「あぁ、もっとハッキリ言わないと駄目のようだな。お主、ミコ様を助けようとは思わぬのか?」
布都の眼差しは私を糾弾していた。
「赤檮、そなたには彼をよく助けてやってほしい」
「ミコ様は結構繊細な方でな……おそらく馬子殿からも言われたと思うが、あの方を助けてやってはくれぬか」
「もしあいつが助けを求めて来たら、応じてやってくれないか。頼む赤檮。頼むよ」
「迹見赤檮、君が必要だ。私を助けてくれますか」
「タスケテ」
繰り返される言葉。何時度となく求められてきた行為。そして、長らく忘れていた記憶。
「そうか、そうなのだな。お主はミコ様を助けたいと思わぬのだな」
「そ、そんなことはありません! 私はミコの助けになろうと思っているし、実際ミコのために働いた……つもりです」
「ふ、お主はまだまだ人のことも己のこともわかっておらぬようだ」
咄嗟に出た私の否定の言葉を布都は嘲笑った。人のことも己のこともわかっていない? それはどういう意味か。自然と強い口調で詰問したら彼女は溜息一つついて答えた。
「人はな、時に嘘を吐く。言葉に裏を含む。その上本心から矛盾していることもある。お主はミコ様の言われた通りしていればミコ様を助けたことになる、とでも思っておるか? いや表面上は確かにそうであろう。しかしだな、我らがかつてお主にお願いしたのは、そんなことを期待していたわけではおらぬ」
「それは、つまり私が真にミコ様を助けられていないと?」
「助ける、というか救う、だな。そうだ。お主はミコ様を救えていないし、救う気もないのであろう」
「どうして、そうだと言える」
「お主がその気であればミコ様は今ああなっておらぬからな、としか言えぬ。直接対話せぬお主にはわからぬであろうがな」
布都に睨まれて、私も睨み返した。ここまで言われて良い気がするはずもない。
「私がミコを助けたい、というのは偽りだと仰るか」
「違うな。ふむ、お主にわかるように順を追って説明しよう。まず人の在り方とはな、人らしく生きるならお主も含むが、やらねばならぬこととやりたいこと、即ち義務と欲の二種類で構成されておる。我の場合、義務とは一族を裏切った罪を償い物部を再興させること。そして欲とはミコ様にお供したい、だ」
やれねばならぬこと、やりたいこと。では私の場合はと考える前に彼女はこう言った。
「さてお主の場合だがな、ミコ様を救うことを欲だと思っているであろう。だがそうではない。それはお主の義務よ。ミコ様に救われた『迹見赤檮』のな。そしてお主の真の欲はだな、ただ興味があるものを眺めていたい、だ。しかもお主、その欲は義務と相反しておるだろう?」
そんなのは決めつけだ。そう反論しようと喉元まで言葉がせり上がったところで止まった。もしかしたら布都の言う通りなのかもしれない。そう思ってしまう部分はあった。経験上彼女の言うことの九割はでたらめだが、一割は核心を付く。
確かに興味本位で動くところは認められるだろう。昔からの人間観察がそれだ。ミコからも人間を知り己を知りたいのが私の欲だと言われている。
興味のために対象に介入することはしないこともない、だが深入りはしてこなかった。ミコ以外は……と思っていたが、それも布都の言う通り違うのか? 私は結局のところ傍観者なのか?
頭が『ぼんやり』としてくる。私がこうなるのは決まってミコ絡みだ。それだけ彼の存在は迹見赤檮たる私にとって大きいはずだ。
やっと喉から言葉が出た。しかし自分が言おうとしていたことと少し違うものになった。
「ミコは……今でも私を求めているのか?」
多分、本心。この瞬間最も不安に思い、解を得たいことだった。だが布都の返しは曖昧であった。
「それは、何とも言えぬ。かつては、確かにそうであった。しかし時すでに遅しなのかもしれぬ。ミコ様自身が割と引き返せぬ位置まで来ておるからな……」
一体ミコがどうなったのか。彼女は決して明言せず、その上でおそらく最後の頼みごとをした。
「我はミコ様に一生ついていくつもりだ。それがたとえ外れた道であってもな。ついていくので精一杯で、ミコ様を導くことはできぬし、するつもりもない。だがもしミコ様が本心では望まぬ道に進まざるを得なくなってもがくとして、それを救うとしたら迹見赤檮以外有りえぬ。しかしそれが叶わぬ段階ではもうないかもしれぬし、お主自身が『迹見赤檮』であることを拒否するかもしれぬ。ゆえに期待はせぬ。それでも我の言ったことをよく考えておいてはくれぬか?」
その後も布都との会話自体は題を変えて続いた。しかしよく覚えていない。お互いどうでもいいことを話しているという感覚があった。
日も暮れるので断りを入れてその場を退散した。鳥居を潜って振り返った時には、石上物部布都の気配すらしなくなっていた。まるで夢を見ていたようだという感想を抱いた。
けれど決して白昼夢などではない。行きは腰に差していた布都御魂剣は確かになくなっていたのだから。
私はもう一度自分を定義づけなければならない。自分のやるべきことは何なのか、やりたいことは何なのか、考えて答えを出さなければならない。帰り際、馬を走らせながら思った。
夜が降りてくる頃には答えが出た、が一旦保留した。最後の決断を下すのはミコと会ってからにしようと。そういうわけであとは機会を待つことにした。
それから二年後の正月、新たな冠位制度を施行するということで大王の臣下は皆例外なく太子――ミコの前に参列することとなった。公に彼と会う機会が巡ってきた。
当時飛鳥の地に造営されたばかりの小墾田宮に者共集められ、名を呼ばれると太子・大臣の前に出でて、位に合った冠を受け取って帰る。これを昼前から流れ作業で繰り返していた。
この時ほど色々な人物と再会した日はなかった。秦河勝は私を見つけるやいなや抱き着き……はしなかったが相変わらず暑苦しかった。彼は薄紫の冠を貰ってきたが小徳といって二番目に偉い位らしい。彼も太子の側近として重役になっていたのである。ちなみに位は十二あって、わかりやすいように色分けされていた。
蘇我エミシもいたので話しかけてみたが、代々大臣の役職にある蘇我氏は今回の冠位制とは無縁で、しかも大徳より上だと言っていた。だからといって驕りはせず、もし自分が蘇我の跡取り息子でなければ第七位の大信が関の山だと謙遜した。
石上当主、物部布都もこの時初めて衆目の前にその身を晒した。その場にいた私以外の者は皆驚いたのは言うまでもない。蘇我大臣の、前大王の元妻にして、亡き物部大連の妹。その肩書きを持つ彼女が注目を浴びるのは必然だった。ちなみに位は濃青の大仁で上から三番目。先の戦での没落からよくここまで持ち直したものだと思った。
「母上! お久しゅうございます!」
エミシは子供ような無邪気さで布都に駆け寄った。一方布都は少し困った様子で応対した。
「お、おうエミシか。随分と大きくなったな……うむ、大きくなることは良いことだ。しかしだな、その、母と呼ぶのは問題であろう。お主は蘇我の男子であろう」
「ははう、いえ、石上殿。しかし私にとっては……」
「わかっておる。が、気を付けてくれぬか。それがお主の為でもある」
たしなめられて気を落とすエミシ。時代の流れによって溝ができてしまった二人の様子を見て、私にも思うところがあった。
空がやや赤味を含み始める頃、ようやく私の名が呼ばれた。正午には溢れかえるほどいた人も手で数えられるほどに少なくなっていた。
戴冠を行う部屋に入ると、二人の人物が待ち受けていた。一人は大臣、蘇我馬子。そしてもう一人は太子、豊聡耳皇子――ミコであった。
馬子の方はすっかり老け込んでおり、丁未の乱の頃より少し痩せていた。しかし全体としてはあの頃とそこまで変わらない印象であった。いや、自然な年の取り方をしていると言うべきか。
一方でミコの方は完全に別人であった。記憶の中にあった華奢な童子の姿から一変して長身かつ筋骨隆々とした体つきで一瞬誰だかわからなかった。その割に顔立ちは幼く、とても三十代に差し掛かったように見えない。また少しやつれているようだ。どことなくちぐはぐで、不安定な印象を覚えた。
「おお、迹見赤檮! 久しぶりだな。なんだかんだであの時以来かね」
「久しぶりですね赤檮。君の活躍は常日頃耳にしています」
「お久しゅうございます、大臣殿、太子殿。迹見赤檮、お呼びとありて参りました」
意外とフランクな挨拶に戸惑いつつ返した。馬子はニッと歯を見せて笑ってみせ、ミコも微笑む。二人ともどことなく作り物くさい表情をするのは相変わらずであった。
馬子はコホンと一つ咳払いをすると、あらたまった調子で手にした巻物の内容を読み上げる。
「……迹見赤檮。先の戦において国家に仇成す怨敵中臣勝海・物部守屋を討ち取り、近年では大和の安全に多大な貢献をしている。その功績を大王も高く評価しており、よって、大徳の冠を授ける」
濃紫の冠をミコが取る。彼がそれを差し出すと、私は傅いて受け取った。
その時私はミコが察知するように一つの欲を内に示した。ミコはすぐに理解して、小声で囁きかけた。
「わかりました。後で」
「有難うございます」
これで会って話をする約束を取り付けることができた。私はそそくさと退散して、行事が終わるのを待った。
最後の大夫が冠を貰い帰った後もしばらく南門あたりで待機していたが、日が沈みかけというところでまた名前を呼ばれた。その声の主がどんどん近づいてくる。今度はミコが一人でこちらに来た。
「すみません、お待たせ、しました」
ミコは軽く走ってきたので息を切らしながら言った。
「いえこちらこそ無理を言って時間を取らせてしまい申し訳ありません」
「いやいやいいんですよ。後の仕事は大臣殿に押し付けたので大丈夫です、はい。しかし……君はあんまり変わらないですね。そりゃそうか」
「これでも年を取っているように見えるよう、姿を弄っているつもりなのですが。自然な風にするのは中々難しいもので」
皮肉のつもりで言った。近くでまじまじとミコの体を見つめて、より違和感を強めたからだ。確証はないが、彼は自分の体を無理やり作り変えているのではないかと思った。
「そう言えば石上殿も来ておられましたが、あの方は変わりませんね。いやはや、道術という物は便利ですな」
早速カマをかけてみた。勿論布都の外見が若々しいのは流れる血のせいだとわかった上である。ミコ、貴方は道術で体を弄っている。その仮定を確信へと変える発言を期待して。
「違いますよ、布都の場合は物部の呪いみたいなもので生来ああですよ」
そしてこの欲は当然見透かされる、よってかわされるわけだが、そんなことは織り込み済みだ。
ミコと会話する時はどうしても主導権を握られがちだ。それでは対等な会話にはならない。だからこうして攻めていく。聞きたいことを聞き言いたいことは言われる前に言う。
「ではミコの場合とは。貴方は何を思ってそんな体になったのか」
「何が言いたいんです? ちょっと待って君の欲を……」
「お主……化物になるつもりであろう」
「あ? 戯れているのか?」
あの布都の口調を真似て、ミコの急所を突いた。案の定彼は一瞬で血相を変えた。笑顔の仮面は意外と脆い。私は本題に入るために、あえて彼のデリケートな部分に踏み込んだ。
「その体、明らかに不自然なんですよ。何らかの目的で改造しているとしか思えないですし、何らかのというかやっぱり不老不死ですか。貴方はソレを目指している。けれど前にも言いましたよね、死なない人間は化物だ」
いつかの問答を頭に浮かべつつ畳み掛けるように言う。これからの話は、あの時の続きだ。それをやってしまえばもう今までの関係ではいられないことははっきりわかっていた。本当は平行線のまま眺めていたいくらいだ。
それでもそろそろ決着を付けなければならない。これは石上神宮から帰る時に決めたことだ。私のやるべきこととして。
「……大きく出たな赤檮。今黙れば私は何も聞かなかったことにして帰るが」
ミコはあの時と同じ形で話を終わらせようとする。だがそうさせるわけにはいかない。
「黙りませんよ。そして黙らないで答えてください。ミコは不老不死を得ようとしてあれこれしている、違いますか?」
「そうですが」
「物部布都と協力して?」
「よく調べたものだ。感心するよ。それとも彼女が口を滑らせたかな」
「いえ、憶測です。彼女はミコの目的に関する明言は避けていましたし。私には欲を悟る能力なんてありませんので彼女の行動から判断して」
「じゃああの蘇我と物部の戦の真相にも辿り着いているのかい?」
「お二人が仕組んだ仏教対神道の宗教戦争とは聞いています、が彼女は仏教徒ではないし貴方もどうもそうではなさそうだ」
パチパチ、とミコは大袈裟に拍手した。
「仏教なんて国を治めるために利用しただけさ。私達が信奉するのは道教だよ。君が教えてくれた道教だ。今は君以上の専門家から学んでいるよ。不老不死を会得するために!」
「それがミコの欲ですか?」
「そうだ」
「あれだけ化物扱いを厭う癖に人間をやめるんですか?」
しばしの沈黙が流れる。これでミコに逃げられたらと思うと心配になったが、彼は乗ってきた。
「赤檮、君は勘違いしている。死ななくなるだけだ。私は化物じゃない。だって人間が死ぬことが間違っているんだ」
「ミコこそ間違えてる。いやそうやって矛盾から気が付かないふりをしているだけ。人は死ぬからこそ人たりえる。だから貴方は化物になりたくないのになろうとしているんだ」
決めつけでしかないのはわかっていた。でも多分そうだと思う。布都は時に責務と欲は相反すると言ったがミコは欲ですら矛盾している。だから彼は『タスケテ』欲しいのだと。そして私が助けられるとしたらその矛盾を指摘することだと。
曖昧なものを曖昧なままにしておけるならどんなにいいことだろう、と思う。けれど私達が私達で在るためにはそうしておけない。ここで彼に矛盾を解決させる。ただ、その結果によって今すぐかいつかは分岐するが、私は彼と別れることになるだろう。決着を付けるということはそういうことだ。
しかしミコもその意図を悟ったか、結果を出すのを引き延ばそうと喚いた。
「わかったような口をきくな……何もわかんないくせに、不完全な人間に生まれてしまった私の気持ちなんてわかんないだろうが妖怪のお前には!!!!ゲホッゲホッ」
苦しそうに咳をしてミコは倒れこむ。これは全くの想定外だった。
慌てて彼の体をさする。顔色は悪く、咳が中々止まらない。一体どうしたのかと心配になって人を呼ぶことを考えたが、日も落ちかけているこの宮にはもう人気がしない。
やがて咳が治まったミコは、嘲るような口調で事情を説明した。
「ハハッ世の中ままならぬものでねぇ、そう簡単に不老不死にはなれぬみたいだ。色々と研究を重ねているがその過程で毒も多く含んでね、むしろ寿命を縮めているよ。お笑い種だろう? いっそのこと一回死んで復活する尸解仙の術を採用するかって言われたよ」
尸解仙の術。肉体を捨てて別の物体に魂を宿らせることで仙人となり不老不死を実現する。中華で修行していた頃に聞いたことがあった。復活に時間がかかるし失敗したらそのまま死亡、成功しても仙人としては格が低い、とあまりスマートなやり方ではなかった。
「そこまでして、得る価値があるんですか? 不老不死。得たいと? 本当に?」
「そうだよ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「ミコは自分に嘘を吐いている」
「私は嘘を吐いていないし、私のことが何もわからないくせになんで嘘だなんて言える!」
私はミコの気持ちを完全に理解できない。理解しようとするのが過ちだった。だからこう言う。
「わからない。わかるわけがない。ミコだってわからないように仮面を被り心を閉ざしてきたじゃない。けれど本当はわかってほしいのですか? 貴方は矛盾の塊だ。そのことをどうか認めてください」
ミコは苦虫を潰したような顔をして唸った。そして諦めて、ついに、折れた。
「あぁ……決して死にたくないわけじゃない。君の言う通り化物扱い程辛いこともなかった。母に子と認められていないことを知った時は絶望したな。けど人間五十、しかもその五十年ぽっちを全部国を治めることに捧げられてしまうんだよ! 私はただ何にも縛られず、欲望に素直で、トジコや布都と楽しく暮らしていたいだけなのに……じゃあこうするしかないじゃない! こうするしかないじゃないか!」
結果は出た。念のために確認する。
「ミコはやはり、人間をやめるのですね」
「やめる、ことになる。そうだよ、本物の化物になるのさ。でも、矛盾しているとはわかってるけど、それも嫌。助けてよ赤檮。何とかしてよ赤檮。そのための赤檮だろう!」
ミコが子供のように縋りつこうとする。だがそれを私は払う。どうして、と言いたげな彼の眼差しが私に突き刺さった。それがとても痛かった。
けれど結果は出てしまったのだ。だから私も覚悟を決めなければならなかった。
「私はミコを助けない」
「なん、で……」
「私は貴方を遠目で眺めていれば良かったんです。貴方があまりに魅力的な人間だったから、身の程を弁えず近づきすぎてしまった。そうして人間としての貴方を壊してしまった。残酷で身勝手だけど、だからもういいんです。これからはただの妖怪として、夜を生きることにします」
それが、私の決断。愚か者と詰られても仕方がなかった。大切なものを傷つけて、そして去るしかない。彼がまだ人間としていられるならその死まで見届けようと思ったが、もう何もかもが遅かった。そうなってしまったのはやはり、私がどうしようもなく愚かだったからに他ならない。
ミコはボロボロと涙を流していた。私も多分、この時泣いていたと思う。
「私はな、出会った時からずっと憧れてたんだよ。君のように人間と妖怪との境界線上で立っていられたらと……」
「私も、出会った時から貴方に憧れていました。貴方のような人間のままで妖怪を凌駕する存在に」
「でもそうはいられないんだな」
「そうはいられないんですね」
二人の間にはもう越えることのできない線ができていた。壁、と形容した方がいいだろう。おそらくこの先交わることは、ない。そんなのは嫌だけどそれが最良だった。だから私は『迹見赤檮』として最後の仕事を果たす。
「だから、私は『迹見赤檮』をお返しします」
体をドロドロに溶かす。そして土をこねる要領で再構築する。手を、足を、目を、鼻を、耳を、口を、一から作り直していく。そうしてできたのは少女の姿だった。昔のミコのように華奢で、物部布都のような幼くも長くを生きる形。かつてあった守屋の面影は消したが、モリヤ神のように金髪を蓄えて、それを赤い布で結んだ。服も体に合わせて女性用に作り変え、受け取った紫冠を混ぜてその色に染めた。
これからを生きていく上で礎となる形。『迹見赤檮』でない、新しい私が私であるために、自ら名前を付けた。
「私の名前はヤクモユカリ。八つの雲の紫色で八雲紫です。貴方が今日与えてくれた冠を名として受け取ります」
「それは嬉しいな。でも赤から紫か、君は境界の向こう側に行ってしまうんですね」
「はい」
そう言って私は微笑みかけた。泣きながらではあるが。それでも初めて、私自身心から笑えた気がした。
ミコと出会って色々なことを教えられた。それを私は忘れるわけではない。『八雲紫』の最も根っこの部分で生き続けるだろう。けれどミコと『迹見赤檮』とはここでお別れだ。
「私は八雲紫です。だから、さようならです」
「さようなら、迹見赤檮」
空の色がもう私の色になっていた。私は南門を通り抜けて、ミコの居ない世界へと歩き出した。
目的を果たすためには決して振り返ってはいけない。黄泉比良坂のイザナギイザナミの話が教えてくれている。ふと双槻宮を去る時のことを思い出した。あの時振り向かずこうなったのだから、今度もそうするしかないのだ。
以来、ミコとは一度も会わなかった。
その翌日には彦人の舎人を辞めて、摂津の領地へと引き籠った。
彼と会う時は一時的に『迹見赤檮』に戻った。彼には人間と騙って仕えたのだし最後までそれを突き通すのが礼儀だと思ったからだ。
主人は突然の申し出にも狼狽えず、すんなりと了承した。必要以上のことは言わず、ただ簡潔に功を労い感謝の言葉を述べた。しかし最後の最後で彼からは一つ仕事を押し付けられてしまった。
「もし私の末裔が君の力を借りに来ることがあれば、手助けしてやってくれないか」
どうにも完全に妖怪だとばれていたようである。その上でこのお願いである。きっと彦人は子孫代々私のことを言い伝える気だ。そして末代まで利用しようというのだ。
私の中での彼の評価は愚者から凡人、賢人と二転三転してきたが、この時には『狡猾な狸親父』になった。してやられたと悔しがる一方でこの人間に仕えることができて良かったとも思った。
実際に彦人の子孫とは時に関わりを持つことになったが、それはまた別の話である。
飛鳥から離れる際には、周辺の妖怪を引き連れることにした。彼らを野放しにして去り仕事を全部石上の姫君に押し付けるのは申し訳なかったし、新生活を始める上で人手ならぬ妖手が欲しかったのもあった。
思えばこれが最初の幻想郷建設なのかもしれない。摂津での生活はそこまで長くなかったがそこで蓄積されたノウハウは後に役に立ったし、当時共に暮らしていた妖怪の中には今なお関係が続いている者もいる。
冬眠の習慣もこの時からだった。冬から春先の時期は、『迹見赤檮』として印象に残っていたことが多すぎて、『八雲紫』が馴染まなかった。そういうわけで睡眠に頼ったのである。今ではちゃんと気持ちに整理がついたから別に寝る必要などないのだが、すっかり習慣になってしまってやめるにやめられなかった。それに寒いのはやはり苦手なのだ。
摂津に移って間もない頃、まずトジコが死んだ。かつてミコが言った通りだった。それから時は流れ彦人が死んだ。暗殺されたという噂も聞いたが定かではない。だとしても寿命で死んでもおかしくない歳までは生きられた。物部布都も死んだらしかった。
そして豊聡耳皇子が歴史の舞台から姿を消し、馬子も女王も死んで、次の大王に彦人の息子が立った時には、私はどうしようもなく八雲紫になっていた。
「あらおはよう、紫」
朝焼けの博麗神社。屋敷に帰る前にふらりと立ち寄ったところ、私の姿を見つけた巫女が挨拶をかけた。
「あら霊夢、起きてたの」
「徹夜よ。色々と大変だったんだから。変な奴らが復活したとかで。あんたが起きてきたのも関係あるのかしら」
「起きてこなければよかったのにと悪態はつかないのね」
「もう諦めた。むしろあんたが寝てる間に面倒事起きたら困るからさっさと起きてくれた方がいいわ」
霊夢は溜息を吐く。その後ろからバタバタと足音がして、二人の少女が現れた。
「あ、紫さんお目覚めですか。お邪魔させていただいてます」
一人は守矢神社の巫女、東風谷早苗だ。おそらく件の異変で霊夢同様解決に走り、その後博麗神社に留まったのであろう。ではもう一人は霧雨魔理沙かというと、違った。
「あら、魔理沙は?」
「魔理沙さんは……」
「魔理沙殿ならば我らの弟子となり修業を始めたわ。しばらくは戻らぬであろう」
早苗の隣の少女が答えた。濃青の帽に古式ゆかしき礼装、そして幼い面立ちにそぐわぬ白髪には見覚えがあった。間違いない、彼女である。
「ところでお主、何者だ? いや、先に名乗るのが礼儀か。我は物部布都と申す」
「さっき変な奴らが復活したって言ったでしょう。コイツよコイツ。千四百年かぶりに起きてきたんだって」
「私のご先祖様の関係者の方らしいです」
自他ともに紹介されたがご存知である。しかも彼女はまるで変わっておらず、記憶の中の物部布都そのままであった。
その布都は私をじろじろと見ると、何かに気づいたものの確証が持てないといった感じで問いかけた。
「お主……もしや我の知り合いか? どこかで会ったような気がするのだが……いや、まさかな……」
変わったのは私の方だ。だから、感付かれる前に彼女の勘違いにしておく。
「人違いでしょう。千四百年前、となると生まれたばかりですので」
「おお、そうか……では何者ぞ?」
嘘は言っていない。確かに物部布都は八雲紫とは会っていないのだから。八雲紫が豊聡耳神子と会うのが初めてであったように。
もう昔には戻れない。ならば、これから新しい関係を築けばいいだけのことだ。博麗と守矢の巫女をちらりと見る。私と『ミコ』との関係も形を変え、今に至るまで続いている。
布都に目線を移して、私は高らかに宣言した。
「初めまして、八雲紫と申します。これからよろしくお願いしますわ」
自分の読書力が足りず、この作品の魅力をまだ全て理解できていない気がします。
読んでいて技術、知識、世界観の魅力を感じる作品でした。作者の描こうとする魅力的な世界、詳細までしっかりと伝わる文章、話の内容に重厚さを与える歴史関係の知識、良い点を挙げれば本当にキリがないです。
敷居が高いわけでもないのに、市販の小説に劣らないだけの格を感じました。
何よりこれだけの作品を点数のつかないコチラに投稿できる事が凄いです。
とても面白く読み応えがありました
冒頭からしばらく、ちょっと説明的すぎるかなー、とブラバしようか脳内でせめぎ合いしてましたが読んでよかった。丁未の乱辺りから一気に面白くなりました。
ですがそれだけにもったいない気もします。神子に焦点を絞るのであれば、卑弥呼も削ってよかったかも……と思います。
とはいえこんなところに紫を突っ込んだご慧眼には感服です。赤檮の解釈としても凄く面白かったです。
『日出処の天子』の厩戸皇子、いいですよね。このSSを読みながら、彼のどんどん人の道を踏み外していく悲壮さを思い出していましたが、やはりインスパイアでしたか! あのまんがは私も大好きなのでちょっとうれしかったですw
初回から面白いものを読ませていただきました。いやぁ実に、面白かった。
神子らの過去を私も以前から研究し考察しています。この作品と触れ合った数時間は間違いなく、今週の私にとって最も有意義な時間であったでしょう!
自分も「日出処の天子」大好きです!あっちでは、虚弱王子だった彦人がなかなかに魅力ある人物として描かれ、ちょっとニヤニヤしていました。
場面場面の風景を頭のなかで想像していくのが面白かった
考察や舞台など作者さんがたくさんの資料を集めて作ったんだとわかります
先はあとがきから読んでいたので、『日出処の天子』に出てくる登場人物が脳内で動いていて楽しかった。紫と神子が男だということにはちょっと戸惑いましたが
物部守屋さん強すぎぃ! 彦人さんゆかりんからの評価あがりすぎぃ!
儚い神子さん 切ない 切ない…
主軸の赤檮とミコだけでなく布都姫、守屋や彦人と脇を固める人物もとても魅力的でした
ところで彦人さんの立てたフラグは前作に繋がってると考えていいんですよね……?