ゴホッ、ゴホッ
身体からあふれる悲鳴が、空咳として喉からこぼれる。手に持っていた盃を中身ごと膝の上の布団にぶちまける。
「太子様!」
青娥の悲鳴が耳を刺す。暖かい手がうずくまっている私の背中を撫でてくれている。すると、少しは気分も落ち着いてきた。
「……もう大丈夫です、青娥」
もう幾月も籠っている寝室は完全に閉めきってあり、明かりも付けていないためひどく暗かった。私が寝やすくするのと、この青娥が忍んできやすくするためだ。彼女をあまり人目にさらすわけにはいかない。私が大陸より渡ってきた仙人・青娥娘々に教えを受けていることは秘密にしなければならないからだ。しかし、いまはもっぱら私の治療に出向いてもらっているのだけど。
青娥は私の身体をゆっくりと床に寝かせると、落とした盃を片づけながら吐き出すように話し出した。
「もう薬を使うのはやめましょう。このままではお命に係わります」
「そうですね……では、今度は違う物の処方の仕方を教えてください」
私がそう言うと、青娥は鋭く睨みつけてきた。
「いい加減に自分の御身体のことをお考えください。あなたの体には丹砂の毒が隅々まで回りきっているのですよ」
「分かっています。だからこうして薬を飲んでいるのです」
青娥は一瞬口を開いたが、何を言っても無駄だと考えたのだろう。すっ、と姿勢を正して咳ばらいをした。
「ときに太子様、以前お話したことについてお考えいただけましたか?」
またか。彼女は暇さえあれば、この話を持ちかけてくる。
「……尸解仙、ですか」
「そうです。何度も申しあげておりますように、尸解とは竹や剣などの物に魂を移し替えて、神仙へと生まれ変わる術にございます。そうしてなった仙人は格こそ低くはございますが、それも修行次第でどうとでもなり、太子ほどの御方であれば、すぐに道を究められましょう」
「ええ、ちゃんと覚えていますよ」
「でしたら……!」
身を乗り出してくる青娥に、私は首を振った。
「もう少し、時間をちょうだい」
「何故です? あなた様の身体はもう限界です。いつ身罷られてもおかしくないのですよ」
青娥は私を説くことに必死だった。その様子を見れば、傍目にも本当に私の身体が危ない状態であることは疑う余地も無いだろう。
「確かに、あなた様の御身体を傷つけてしまったのは私の落ち度かもしれません。けれども、尸解の術は私がこの身を用いて行い、成功しております。万が一にも太子を死なせることなど――」
「くどい」
短く制すと、青娥が息を飲んだのが分かった。
「君の申し出についてはもう、十分すぎるほどに聞いている。しかし、そこから判断するのは君ではありません。同じことを何度も言わなくていい」
冷たい。自分でも分かってしまうぐらい冷めた声にたじろぐ彼女。その、何と頼りなさげで哀れな姿か。とても、道を極めたという仙人には見えなかった。
「太子様、私は……」
「下がりなさい」
数秒間、私と青娥はお互いから目を離さなかった。見上げる者と見下ろす者。負けたのは見下ろすほうであった。
青娥はすっ、と立ち上がると、何も言わずにわざとらしく物音を立てながら部屋を出て行った。
ゴホッ、ゴホッ。
部屋に誰もいなくなると同時にこらえていた咳が漏れる。それと同時に重たい静けさと後悔が胸に這い登ってくる。
青娥には悪いことをした。彼女は純粋に私のことを想ってくれているだけなのに、当の私ときたら。
ここ数カ月、ずっと見続けてきた天井のシミに目をやる。もう目をつむってでも、どこにどんな形の物があるか、簡単にあてることが出来るだろう。ふと、シミの一つに父上の面影を見た気がした。あの方もこうして天井のシミを数えるぐらいしかやることが無かったのだろうか。
父は前代の大王だった。まだ大兄皇子(皇太子)であった頃から臣下の者達からも深い信頼も得、先見の明のあった父は私の誇りだった。思慮深く、情け深くもあった若い王の即位には、民も大いに喜んでいた。
父はたくさんいる子供たちの中でも、私のことを殊更かわいがってくれた。大陸より贈られた経典を分かりやすく説いてくれたり、貴重な書物をこっそり読ましてくれたりと、何かと世話を焼いてくれた。幼いころから人並み外れた知識欲を持っていた私には、とても恵まれた環境であった。そして、尊敬する父に認めてもらっているということが、当時の私には嬉しくてしょうがなかったのをよく覚えている。
「いづれお前が成人したあかつきには我が跡を継ぎ、次の大王となれるよう取り計らおう。さすればこの国の更なる繁栄は約束されたも同然だ」
ある時などはそう言って、穏やかな笑みを浮かべながら頭を撫でてくれた。暖かく、大きな手は私の心をすっぽりと包んでくれるようだった。幼い私は心地よい幸せをかみしめ、父のお跡を継いでこの国を導くという、輝かしい未来ばかり思い描いていたのだ。
だから、その手が固く骨ばって、冷たくなってしまうことなど想像も出来なかった。
即位して二年足らず、父は流行病で亡くなった。私が見舞いに参上したのは、お亡くなりになる三日前のことだった。やせ衰え、高熱にうなされていた父は私を見ると、弱々しくも微笑んでくれた。けれど、その瞳は自由にならない我が身を呪う暗さに満ちていた。
「大地は神々の時代から変わらず、海は水を湛えている。それなのに何故、人間は死を受け入れねばならぬのだろうな」
諦めきったような父の言葉は悲しみよりも、むしろ恐ろしさを感じさせた。
死とは決して、人を待ってはくれないのだ。
私は大王になれば今よりも、もっとこの国を良くする自信がある。しかし、いくら大それた夢を持っていても、そんなこととは関係なしに死は唐突に訪れるかもしれないのだ。父はまだ三十を超えたばかりという若さで亡くなった。そんな不幸がこの身にも訪れないなど、どうして言えようか。
私が死を恐れ始めたのは、それからだろう。それまでも、長生の術には興味があったが、このときからまるで狂ったように死を覆す法を調べ始めた。大陸から来た大量の文献に当たり、自分で作った薬も試し、ひたすらに死の運命から逃れようとしていた。青娥と出会ったのはそんな時だった。
「よい、しょっと」
ゴホッ、ゴホッ
重い身体を起こし、枕元の薬箱を手元に寄せる。上から二つ目の引き出しを開き、中の丸薬を二、三個取り出した。そして、全部口に放りこみ、一気に飲み込んだ。
この薬は私が自分で作ったものだ。青娥の処方技術を学び、応用することで更に効力を高めることに成功した。しかし、この薬は彼女には秘密であった。何故なら、これこそが私の身体を蝕む毒を生み出しているのだから。
不死を研究していて、最もそれに近いと感じたのは大陸から来た道教という宗教だった。道教が自然崇拝であり、元々この国にあった概念とも結びつきが強かったのも理解しやすかった要因の一つだろう。
更に、私の噂を知って訪ねてきた青娥の薦めもあって、私は仙人となる決意をした。彼女は大陸でも指折りの仙人との話であり(本人の自称なので、実際のところは分からないが)、彼女の協力で私の研究と修行は大いにはかどった。
しかし、どうやら私は自分で思っているよりもかなり焦っていたようだった。彼女がつけてくれる修行だけでは飽き足らず、隠れて自作した薬も服用することは止めなかった。
青娥や私が作っていた薬には丹砂と呼ばれる鉱物が多く含まれている。これは身体を強くし、命を永らえるのに効くと言われている。しかし、これは常人には毒となり、私のような才に恵まれた者でも、使い方を誤れば死を招くことになる。そんな薬を大量に飲んでいたのだ。身体を壊すのは当然のことだろう。
そう考えて、口から自嘲的な笑いがこぼれる。ここまで分かっているというに、私はいまだ薬に頼ることを止められない。全く、聖徳王の名が聞いて呆れる。どうせ助からぬ身なのならば、潔く青娥の案を受け入れ、尸解仙とやらになってしまえばいいのだ。
別に青娥を信頼していないわけではない。出自も怪しく目的すら定かではないが、彼女は真っ直ぐな気性の持ち主だ。その知識の豊かさもふまえ、おいそれと私に害をもたらすことはないだろう。
要は怖いのだ。例え仮初めでも、この身に死が降りかかるのが怖くてたまらないのだ。
もしも失敗して、眠りについたまま目覚められなかったら。
何も知らず、徐々に朽ちていく私の身体。
いづれは土となり、風に運ばれ、豊聡耳神子という存在の証など何一つ残らない。
ああ、せめて、この目で尸解なる物がどのような物なのか見ることが出来れば。
――怖い
急に言いようのしれないおぞましさに身を包まれ、頭から布団を被る。布団の中は私の体温でぬくいはずなのに、体が震えた。
――怖い怖い怖い
完全に真っ暗な空間ではいつもより音が良く聞こえる。あるはずのない音が耳に刺さる。
――怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
“無音”という音が重くのしかかってくる。耳を塞いでも、“無音”は強まるばかりだ。逃げようとして身体が縮こまる。
――怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
もうこれ以上無理なほど小さくなっても、“無音”は止まない。
溜まりに溜まった恐怖は胸からあふれ、私の喉を駆け昇り、外に出ようとして、
「太子様、物部布都にございます。ただいまお時間よろしいでしょうか」
歯切れの良い、明るい呼び声に思わず布団を跳ね除けて身体を起こした。私の急な動きに、障子の向こうで控えていた彼女は小さく身じろぎした。
「お休み中でいらっしゃいましたか。申し訳ありません、出直します」
目に見えそうなほど元気のなくした声に、私は慌てて彼女を呼び止めた。
「いえ、ちょうど眠れなくて暇を持て余していたところだから。どうぞ、入りなさい」
「はい! 失礼します」
襖が勢いよく開かれ、少女が幼さの残る顔を覗かせる。丁寧な礼をして面を上げると、心底嬉しそうに私を見つめていた。
「太子様、お久しぶりです。お加減はいかがにございますか?」
「いまはそんなに悪くないわ。布都が来てくれたおかげかしら」
「これはまたお戯れを」
布都はそう言ったが、あながち冗談というわけではなかった。先程までの怖気が嘘のように晴れ、気持ち身体まで軽くなったようだ。ただこの子が笑ってくれているというだけで、どうして私はこんなに心癒されるのだろう。
物部布都は私が最も信頼している部下だ。私と同じく道教を学んでいるのだが、この国に古来からある神道への造形も深かった。というのも、彼女は物部氏が祭る神・フツノミタマノミコトに仕える大物忌を務めていたことがあったからだ。大物忌は十歳程度の童女のみが付く神職で、神に食事を捧げるお役目を持っていた。どちらかというと仏教の知識のほうに明るい私にとって、布都は中々面白い話し相手となってくれた。
「それで。わざわざ訪ねてきたからには何か用があるのでしょう?」
「ああ、そうでした。これをお届けしようと思いまして」
そう言って、布都は袖の中から濃い色合いの紅色の花が付いた木の枝を取り出した。
「これは、梅?」
「はい。太子様の宮を占ってみたところ、紅色の物が吉と出まして、持って参りました」
布都は風水と呼ばれる大陸産の占いが得意で、私も良く世話になっていた。
「へぇ、良い香りね」
受け取った花からは、つんとした匂いが立ち昇ってきて、ほんの少し元気が湧いてくる気がした。
「これはどこに置けばいいの?」
「ええとですね……ちょっと失礼」
私は布都に梅の枝を返した。彼女はしばし部屋の中を見回すと、やがて枕元にあった薬箱に触れた。
「ここがよろしいかと。この箱は動かしてもかまいませぬか?」
「……ええ、この辺へお願いします」
布都は薬箱をどかし、そこの真っ白な紙を敷いて梅の枝を置いた。
私は布都が箱を揺らすたびに、転がる中の薬が気になって仕方がなかった。梅の花にはその強い香りから魔よけの効果があるというが、こうしてあの薬を遠ざけているのだろうか。
「そういえば、我の里の梅も中々見物でしてな。これとは違い白梅なのですが、今の季節はよく花見に出かけたものです」
「確か、伊香郷でしたっけ……」
「ええ。寂しいところでしたが、なかなか落ち着いて良いところですぞ。そうだ、お元気になりましたら一緒に見物にでも参りませんか?」
「そうね」
頷きながらも、それは無理な話だと思った。私の病状のこともそうだが、河内にある伊香郷も今はとても花など見れる状況ではないだろう。何故なら、河内国は物部を滅ぼすために焼き野原となったのだから。
先日、朝廷より物部追討の命が下り、蘇我氏率いる崇仏派が廃仏派の物部氏を討伐するための戦が起こった。後に丁未の乱と呼ばれるこの戦は表面的には仏教と神道の宗教戦争ということになっていたが、実はそこに第三勢力として私たち道教の存在があった。
道教を学んでいる一方で、私は民を治めるのにちょうど良い仏教を広める必要があった。厳しい戒律や、仏に救いを求めるといった特徴は為政者にとってはまたとない武器となりえる。だが、それには古いだけの神道は邪魔でしかなかった。そこで、以前から争い合っていた蘇我と物部の二大豪族を利用して、神道を消し去り、仏教を国教に持ち上げようとしたのだ。
この大戦を裏から操ったのが何を隠そう、甘い菓子でも似合うようなかわいらしい少女、物部布都なのである。
「太子? いかがされました」
「いえ、君の働きを思い出していてね。物部との戦では本当に世話になりました。ありがとう、布都。私がここまでこれたのも、すべてあなたのおかげです」
私が素直な気持ちから頭を下げると、彼女はひっくり返らんばかりに声を裏返して答えた。
「な、な、何をおっしゃってるんですかぁ! 我は何もしていませんよ。戦が有利に運んだのは太子が仏の像を作って兵の士気を上げたからではありませんか!」
別に戦場での功績を褒めたわけではないのだけど。
彼女は人と発想がずれているところがあり、そのためによくしょうもない勘違いをする。それさえなければ、これほど優秀な人間もいないというのに。
それにまさか、仏像を作ったから戦に勝ったのだと本当に思ってるのではあるまいか。あれは書のとおりに適当に彫っただけだし、戦況が有利になったのは戦場の気候に直接働きかけたからなのだが……ああ、この子なら勘違いしてもおかしくない。
こんなとぼけた少女が、よくあのような恐ろしい謀をやってのけたと感服してしまう――いや、むしろ彼女だからか。
丁未の乱で討ち取られた敵軍の大将、あれは布都の兄にあたる人物だった。それだけではない。彼女の姓は“物部”。彼女が滅ぼしたのは自分の一族なのだ。
血でつながった一族とて、皆が皆結束しきっているとは限らない。だが、実際の年齢よりも幼く見えるこの少女は、自分の家族の死に何も感じていないかのように振る舞うのだ。
布都は私に心酔しきっている。私が大王となり、聖人として民を正しく導くこと。そんな未来を信じ切ってしまっているから、正しいかどうかなど考えることもない、私に付き従ってくれる。私の頼みなら何でも聞いてくれる。
――“何でも”?
「いかがいたしました?」
布都が首を傾げて私を見ている。
「いえ、大丈夫です。気にしな……」
ゲホッ、ゲホッ
「太子様!!」
布都の悲痛な金切り声が聞こえる。
「大丈夫…………いつものことだから」
本当は普段よりも痛みが酷かった。初めて『わざと』した咳だからかもしれない。
「布都、よく聞きなさい。私はもうすぐ死にます」
私の突然の告白に、布都の表情は青ざめた。
「何を言ってるのです! 太子ご自身がそのような弱気では治る病も治りませぬぞ。青娥殿も良い薬を持ってきてくれますし、今は耐えるときです!」
熱のこもった励ましの言葉がこんなにもむなしく聞こえるなんて。しかし、この健気さが必要なのだ。
「人は必ず死ぬのです。その運命からは逃れようがありません。けれど、私にはまだ成さねばならないことがあります。
そして、一時的に死を逃れる方法も知っているのです」
私は尸解仙について、青娥から聞いたとおりのことを布都に説明した。初めこそポカンとしていたのだけど、徐々に話が飲み込めてきたのか、その顔は喜びでいっぱいになった。
「すごいではないですか! その術ならば太子が望んでおられた不老不死に大きく近づき、さらには仙人にもなれるのでしょう。ならば早速……」
「……怖いのよ」
私の呟きに布都が不思議そうに首を傾げる。それに対し、私はかつての父のように弱々しく微笑んでみせた。
「死ぬのがではありません。目覚めても、多くの月日が経ったばかりに、私が頼れる者が誰もいなくなってしまっていたら。そのことを考えると、怖くて怖くてたまらないのです。ねぇ、布都。お願いがあるの」
布都の手を握り、彼女の目を真っ直ぐ見る。
「君ならば信頼に足る。
君となら真の国が作れる。
君は私の最も信頼する同胞だ。だから――」
鈍く輝く黒の瞳に映る私は、ちゃんと涙を浮かべているだろうか?
「――私と一緒に死んで」
私が今一番望む物。それは確かな“実例”だった。
尸解仙という物の原理は理解しているものの、それはあくまで“知識”のみ。実際に尸解の様子を目にすれば、この自分でもどうにもならない不安をどうにか出来るかもしれない。
布都はその実験にはちょうど良かった。彼女は私の言うことなら何でも聞いてくれるのだから。
しかし、そのまま“実験体”になってほしいというわけにはいかない。彼女が信じているのは優れた大王となりうる“聖人”だ。死ぬのが怖いなどと弱みを見せてはならない。
それでこの一芝居だ。何も問題が無ければ、彼女は私の頼みを受け入れるはずだ。
――そう、それなのに
手の甲に、何か熱い物が当たった。見れば、ポタリポタリと小さな雫が垂れていた。視線を上に昇っていくと、それは俯いた布都の顔からこぼれていた。
布都は泣いていた。
「本当に、我でいいのですか?」
自分が泣いているのに気付いていないのか、布都は目を拭いもしなかった。
「ええ。これはあなたにしか頼めないですから……」
「そう、ですか」
何故だか、その涙は私を不安にさせた。
「分かりました。その話、お受けいたします」
目論見通り、彼女は私の申し出を受けてくれた。それなのに、私の心はかき乱された。
「なぜですか」
意識するよりも早く、疑問が口から出ていた。
答える布都は、困ったように笑っていた。
「おかしなことを申されますな。我でしたらあなたの望みを叶えられる、そう思ったから、この話を持ちかけてくださったのでしょう?」
「けど、君は死ぬのですよ。まだ若く、限りない未来があるというのに、それをみすみす棒に振るというのですか?」
「だって、その未来にはあなたがいないじゃないですか」
虚を衝かれた思いだった。
「あなたは世をあまねく照らす日輪と同じです。あなたの賢明さは民を豊かにし、この国を安らかにお治めするに違いありません。ですが、我にとっては少しだけ意味が違います」
布都は目を軽く閉じ、何かを思い起こすように語った。
「我は色んなものが怖かった。
大陸から来た仏。神をないがしろにしつつあった親族。我を道具のように扱った兄上……あなたはそのすべてから守ってくださると言ってくださいました。そのお言葉が嬉しかったのは勿論でしたが、それ以上に、あなたのあの笑顔に勇気づけられたのです」
布都の言う、その時のことを、私は全く思い出せなかった。どのような言葉を用いたのか、どんな表情をしていたのかも。
「何事にも怯えていた我を救ってくださったのは太子でした。だから、あなたの笑顔……日輪の輝きをもう二度と見れないのは嫌なのです。そのためなら、我は何でも致します」
「違う、駄目、待って、私はそんな」
――あなたが思っているような人間じゃない。
死を恐れるあまり、自分を信じる臣を犠牲にしようとした。聖人なんてとんでもない、こんなにも汚い者のために命を捨ててはいけない。あなたに助けてもらう資格なんてない。
「太子、ご安心ください。あなたを悲しませませるような真似は致しません」
布都の手が私の顔に触れる。
「死を謀る呪いの道の露払いは我にお任せください。だから」
小さな指が私も気づかぬうちに流れた涙を掬い取る。
「だから、どうか泣かないでください」
――泣くな
「……ふふっ、そんなこと言って。布都だって泣いてるじゃないですか」
「えっ、嘘!? いや、これは違いますぞ。うれし泣きというやつです!」
――笑え
「なら私だってそうです。あなたという部下がいて、心底嬉しいから涙するのです」
「太子…………こうしてはおれません! いまここで尸解仙となって、太子を安心させてご覧に……!」
「こーら、慌てないの。占いが得意だというのに、どうしてあなたはそんなにせっかちなのかしら」
――喜べ、彼女はお前を聖人であると疑いもしないのだぞ
「ははは……そうですな。つい癖で」
「まったく。良い日取りを占っておいてください。あと、青娥にも詳しい方法を訊かねばなりません。これから忙しくなりますよ?」
「はい!」
――この笑みが彼女の心を照らせると信じて
身体からあふれる悲鳴が、空咳として喉からこぼれる。手に持っていた盃を中身ごと膝の上の布団にぶちまける。
「太子様!」
青娥の悲鳴が耳を刺す。暖かい手がうずくまっている私の背中を撫でてくれている。すると、少しは気分も落ち着いてきた。
「……もう大丈夫です、青娥」
もう幾月も籠っている寝室は完全に閉めきってあり、明かりも付けていないためひどく暗かった。私が寝やすくするのと、この青娥が忍んできやすくするためだ。彼女をあまり人目にさらすわけにはいかない。私が大陸より渡ってきた仙人・青娥娘々に教えを受けていることは秘密にしなければならないからだ。しかし、いまはもっぱら私の治療に出向いてもらっているのだけど。
青娥は私の身体をゆっくりと床に寝かせると、落とした盃を片づけながら吐き出すように話し出した。
「もう薬を使うのはやめましょう。このままではお命に係わります」
「そうですね……では、今度は違う物の処方の仕方を教えてください」
私がそう言うと、青娥は鋭く睨みつけてきた。
「いい加減に自分の御身体のことをお考えください。あなたの体には丹砂の毒が隅々まで回りきっているのですよ」
「分かっています。だからこうして薬を飲んでいるのです」
青娥は一瞬口を開いたが、何を言っても無駄だと考えたのだろう。すっ、と姿勢を正して咳ばらいをした。
「ときに太子様、以前お話したことについてお考えいただけましたか?」
またか。彼女は暇さえあれば、この話を持ちかけてくる。
「……尸解仙、ですか」
「そうです。何度も申しあげておりますように、尸解とは竹や剣などの物に魂を移し替えて、神仙へと生まれ変わる術にございます。そうしてなった仙人は格こそ低くはございますが、それも修行次第でどうとでもなり、太子ほどの御方であれば、すぐに道を究められましょう」
「ええ、ちゃんと覚えていますよ」
「でしたら……!」
身を乗り出してくる青娥に、私は首を振った。
「もう少し、時間をちょうだい」
「何故です? あなた様の身体はもう限界です。いつ身罷られてもおかしくないのですよ」
青娥は私を説くことに必死だった。その様子を見れば、傍目にも本当に私の身体が危ない状態であることは疑う余地も無いだろう。
「確かに、あなた様の御身体を傷つけてしまったのは私の落ち度かもしれません。けれども、尸解の術は私がこの身を用いて行い、成功しております。万が一にも太子を死なせることなど――」
「くどい」
短く制すと、青娥が息を飲んだのが分かった。
「君の申し出についてはもう、十分すぎるほどに聞いている。しかし、そこから判断するのは君ではありません。同じことを何度も言わなくていい」
冷たい。自分でも分かってしまうぐらい冷めた声にたじろぐ彼女。その、何と頼りなさげで哀れな姿か。とても、道を極めたという仙人には見えなかった。
「太子様、私は……」
「下がりなさい」
数秒間、私と青娥はお互いから目を離さなかった。見上げる者と見下ろす者。負けたのは見下ろすほうであった。
青娥はすっ、と立ち上がると、何も言わずにわざとらしく物音を立てながら部屋を出て行った。
ゴホッ、ゴホッ。
部屋に誰もいなくなると同時にこらえていた咳が漏れる。それと同時に重たい静けさと後悔が胸に這い登ってくる。
青娥には悪いことをした。彼女は純粋に私のことを想ってくれているだけなのに、当の私ときたら。
ここ数カ月、ずっと見続けてきた天井のシミに目をやる。もう目をつむってでも、どこにどんな形の物があるか、簡単にあてることが出来るだろう。ふと、シミの一つに父上の面影を見た気がした。あの方もこうして天井のシミを数えるぐらいしかやることが無かったのだろうか。
父は前代の大王だった。まだ大兄皇子(皇太子)であった頃から臣下の者達からも深い信頼も得、先見の明のあった父は私の誇りだった。思慮深く、情け深くもあった若い王の即位には、民も大いに喜んでいた。
父はたくさんいる子供たちの中でも、私のことを殊更かわいがってくれた。大陸より贈られた経典を分かりやすく説いてくれたり、貴重な書物をこっそり読ましてくれたりと、何かと世話を焼いてくれた。幼いころから人並み外れた知識欲を持っていた私には、とても恵まれた環境であった。そして、尊敬する父に認めてもらっているということが、当時の私には嬉しくてしょうがなかったのをよく覚えている。
「いづれお前が成人したあかつきには我が跡を継ぎ、次の大王となれるよう取り計らおう。さすればこの国の更なる繁栄は約束されたも同然だ」
ある時などはそう言って、穏やかな笑みを浮かべながら頭を撫でてくれた。暖かく、大きな手は私の心をすっぽりと包んでくれるようだった。幼い私は心地よい幸せをかみしめ、父のお跡を継いでこの国を導くという、輝かしい未来ばかり思い描いていたのだ。
だから、その手が固く骨ばって、冷たくなってしまうことなど想像も出来なかった。
即位して二年足らず、父は流行病で亡くなった。私が見舞いに参上したのは、お亡くなりになる三日前のことだった。やせ衰え、高熱にうなされていた父は私を見ると、弱々しくも微笑んでくれた。けれど、その瞳は自由にならない我が身を呪う暗さに満ちていた。
「大地は神々の時代から変わらず、海は水を湛えている。それなのに何故、人間は死を受け入れねばならぬのだろうな」
諦めきったような父の言葉は悲しみよりも、むしろ恐ろしさを感じさせた。
死とは決して、人を待ってはくれないのだ。
私は大王になれば今よりも、もっとこの国を良くする自信がある。しかし、いくら大それた夢を持っていても、そんなこととは関係なしに死は唐突に訪れるかもしれないのだ。父はまだ三十を超えたばかりという若さで亡くなった。そんな不幸がこの身にも訪れないなど、どうして言えようか。
私が死を恐れ始めたのは、それからだろう。それまでも、長生の術には興味があったが、このときからまるで狂ったように死を覆す法を調べ始めた。大陸から来た大量の文献に当たり、自分で作った薬も試し、ひたすらに死の運命から逃れようとしていた。青娥と出会ったのはそんな時だった。
「よい、しょっと」
ゴホッ、ゴホッ
重い身体を起こし、枕元の薬箱を手元に寄せる。上から二つ目の引き出しを開き、中の丸薬を二、三個取り出した。そして、全部口に放りこみ、一気に飲み込んだ。
この薬は私が自分で作ったものだ。青娥の処方技術を学び、応用することで更に効力を高めることに成功した。しかし、この薬は彼女には秘密であった。何故なら、これこそが私の身体を蝕む毒を生み出しているのだから。
不死を研究していて、最もそれに近いと感じたのは大陸から来た道教という宗教だった。道教が自然崇拝であり、元々この国にあった概念とも結びつきが強かったのも理解しやすかった要因の一つだろう。
更に、私の噂を知って訪ねてきた青娥の薦めもあって、私は仙人となる決意をした。彼女は大陸でも指折りの仙人との話であり(本人の自称なので、実際のところは分からないが)、彼女の協力で私の研究と修行は大いにはかどった。
しかし、どうやら私は自分で思っているよりもかなり焦っていたようだった。彼女がつけてくれる修行だけでは飽き足らず、隠れて自作した薬も服用することは止めなかった。
青娥や私が作っていた薬には丹砂と呼ばれる鉱物が多く含まれている。これは身体を強くし、命を永らえるのに効くと言われている。しかし、これは常人には毒となり、私のような才に恵まれた者でも、使い方を誤れば死を招くことになる。そんな薬を大量に飲んでいたのだ。身体を壊すのは当然のことだろう。
そう考えて、口から自嘲的な笑いがこぼれる。ここまで分かっているというに、私はいまだ薬に頼ることを止められない。全く、聖徳王の名が聞いて呆れる。どうせ助からぬ身なのならば、潔く青娥の案を受け入れ、尸解仙とやらになってしまえばいいのだ。
別に青娥を信頼していないわけではない。出自も怪しく目的すら定かではないが、彼女は真っ直ぐな気性の持ち主だ。その知識の豊かさもふまえ、おいそれと私に害をもたらすことはないだろう。
要は怖いのだ。例え仮初めでも、この身に死が降りかかるのが怖くてたまらないのだ。
もしも失敗して、眠りについたまま目覚められなかったら。
何も知らず、徐々に朽ちていく私の身体。
いづれは土となり、風に運ばれ、豊聡耳神子という存在の証など何一つ残らない。
ああ、せめて、この目で尸解なる物がどのような物なのか見ることが出来れば。
――怖い
急に言いようのしれないおぞましさに身を包まれ、頭から布団を被る。布団の中は私の体温でぬくいはずなのに、体が震えた。
――怖い怖い怖い
完全に真っ暗な空間ではいつもより音が良く聞こえる。あるはずのない音が耳に刺さる。
――怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
“無音”という音が重くのしかかってくる。耳を塞いでも、“無音”は強まるばかりだ。逃げようとして身体が縮こまる。
――怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
もうこれ以上無理なほど小さくなっても、“無音”は止まない。
溜まりに溜まった恐怖は胸からあふれ、私の喉を駆け昇り、外に出ようとして、
「太子様、物部布都にございます。ただいまお時間よろしいでしょうか」
歯切れの良い、明るい呼び声に思わず布団を跳ね除けて身体を起こした。私の急な動きに、障子の向こうで控えていた彼女は小さく身じろぎした。
「お休み中でいらっしゃいましたか。申し訳ありません、出直します」
目に見えそうなほど元気のなくした声に、私は慌てて彼女を呼び止めた。
「いえ、ちょうど眠れなくて暇を持て余していたところだから。どうぞ、入りなさい」
「はい! 失礼します」
襖が勢いよく開かれ、少女が幼さの残る顔を覗かせる。丁寧な礼をして面を上げると、心底嬉しそうに私を見つめていた。
「太子様、お久しぶりです。お加減はいかがにございますか?」
「いまはそんなに悪くないわ。布都が来てくれたおかげかしら」
「これはまたお戯れを」
布都はそう言ったが、あながち冗談というわけではなかった。先程までの怖気が嘘のように晴れ、気持ち身体まで軽くなったようだ。ただこの子が笑ってくれているというだけで、どうして私はこんなに心癒されるのだろう。
物部布都は私が最も信頼している部下だ。私と同じく道教を学んでいるのだが、この国に古来からある神道への造形も深かった。というのも、彼女は物部氏が祭る神・フツノミタマノミコトに仕える大物忌を務めていたことがあったからだ。大物忌は十歳程度の童女のみが付く神職で、神に食事を捧げるお役目を持っていた。どちらかというと仏教の知識のほうに明るい私にとって、布都は中々面白い話し相手となってくれた。
「それで。わざわざ訪ねてきたからには何か用があるのでしょう?」
「ああ、そうでした。これをお届けしようと思いまして」
そう言って、布都は袖の中から濃い色合いの紅色の花が付いた木の枝を取り出した。
「これは、梅?」
「はい。太子様の宮を占ってみたところ、紅色の物が吉と出まして、持って参りました」
布都は風水と呼ばれる大陸産の占いが得意で、私も良く世話になっていた。
「へぇ、良い香りね」
受け取った花からは、つんとした匂いが立ち昇ってきて、ほんの少し元気が湧いてくる気がした。
「これはどこに置けばいいの?」
「ええとですね……ちょっと失礼」
私は布都に梅の枝を返した。彼女はしばし部屋の中を見回すと、やがて枕元にあった薬箱に触れた。
「ここがよろしいかと。この箱は動かしてもかまいませぬか?」
「……ええ、この辺へお願いします」
布都は薬箱をどかし、そこの真っ白な紙を敷いて梅の枝を置いた。
私は布都が箱を揺らすたびに、転がる中の薬が気になって仕方がなかった。梅の花にはその強い香りから魔よけの効果があるというが、こうしてあの薬を遠ざけているのだろうか。
「そういえば、我の里の梅も中々見物でしてな。これとは違い白梅なのですが、今の季節はよく花見に出かけたものです」
「確か、伊香郷でしたっけ……」
「ええ。寂しいところでしたが、なかなか落ち着いて良いところですぞ。そうだ、お元気になりましたら一緒に見物にでも参りませんか?」
「そうね」
頷きながらも、それは無理な話だと思った。私の病状のこともそうだが、河内にある伊香郷も今はとても花など見れる状況ではないだろう。何故なら、河内国は物部を滅ぼすために焼き野原となったのだから。
先日、朝廷より物部追討の命が下り、蘇我氏率いる崇仏派が廃仏派の物部氏を討伐するための戦が起こった。後に丁未の乱と呼ばれるこの戦は表面的には仏教と神道の宗教戦争ということになっていたが、実はそこに第三勢力として私たち道教の存在があった。
道教を学んでいる一方で、私は民を治めるのにちょうど良い仏教を広める必要があった。厳しい戒律や、仏に救いを求めるといった特徴は為政者にとってはまたとない武器となりえる。だが、それには古いだけの神道は邪魔でしかなかった。そこで、以前から争い合っていた蘇我と物部の二大豪族を利用して、神道を消し去り、仏教を国教に持ち上げようとしたのだ。
この大戦を裏から操ったのが何を隠そう、甘い菓子でも似合うようなかわいらしい少女、物部布都なのである。
「太子? いかがされました」
「いえ、君の働きを思い出していてね。物部との戦では本当に世話になりました。ありがとう、布都。私がここまでこれたのも、すべてあなたのおかげです」
私が素直な気持ちから頭を下げると、彼女はひっくり返らんばかりに声を裏返して答えた。
「な、な、何をおっしゃってるんですかぁ! 我は何もしていませんよ。戦が有利に運んだのは太子が仏の像を作って兵の士気を上げたからではありませんか!」
別に戦場での功績を褒めたわけではないのだけど。
彼女は人と発想がずれているところがあり、そのためによくしょうもない勘違いをする。それさえなければ、これほど優秀な人間もいないというのに。
それにまさか、仏像を作ったから戦に勝ったのだと本当に思ってるのではあるまいか。あれは書のとおりに適当に彫っただけだし、戦況が有利になったのは戦場の気候に直接働きかけたからなのだが……ああ、この子なら勘違いしてもおかしくない。
こんなとぼけた少女が、よくあのような恐ろしい謀をやってのけたと感服してしまう――いや、むしろ彼女だからか。
丁未の乱で討ち取られた敵軍の大将、あれは布都の兄にあたる人物だった。それだけではない。彼女の姓は“物部”。彼女が滅ぼしたのは自分の一族なのだ。
血でつながった一族とて、皆が皆結束しきっているとは限らない。だが、実際の年齢よりも幼く見えるこの少女は、自分の家族の死に何も感じていないかのように振る舞うのだ。
布都は私に心酔しきっている。私が大王となり、聖人として民を正しく導くこと。そんな未来を信じ切ってしまっているから、正しいかどうかなど考えることもない、私に付き従ってくれる。私の頼みなら何でも聞いてくれる。
――“何でも”?
「いかがいたしました?」
布都が首を傾げて私を見ている。
「いえ、大丈夫です。気にしな……」
ゲホッ、ゲホッ
「太子様!!」
布都の悲痛な金切り声が聞こえる。
「大丈夫…………いつものことだから」
本当は普段よりも痛みが酷かった。初めて『わざと』した咳だからかもしれない。
「布都、よく聞きなさい。私はもうすぐ死にます」
私の突然の告白に、布都の表情は青ざめた。
「何を言ってるのです! 太子ご自身がそのような弱気では治る病も治りませぬぞ。青娥殿も良い薬を持ってきてくれますし、今は耐えるときです!」
熱のこもった励ましの言葉がこんなにもむなしく聞こえるなんて。しかし、この健気さが必要なのだ。
「人は必ず死ぬのです。その運命からは逃れようがありません。けれど、私にはまだ成さねばならないことがあります。
そして、一時的に死を逃れる方法も知っているのです」
私は尸解仙について、青娥から聞いたとおりのことを布都に説明した。初めこそポカンとしていたのだけど、徐々に話が飲み込めてきたのか、その顔は喜びでいっぱいになった。
「すごいではないですか! その術ならば太子が望んでおられた不老不死に大きく近づき、さらには仙人にもなれるのでしょう。ならば早速……」
「……怖いのよ」
私の呟きに布都が不思議そうに首を傾げる。それに対し、私はかつての父のように弱々しく微笑んでみせた。
「死ぬのがではありません。目覚めても、多くの月日が経ったばかりに、私が頼れる者が誰もいなくなってしまっていたら。そのことを考えると、怖くて怖くてたまらないのです。ねぇ、布都。お願いがあるの」
布都の手を握り、彼女の目を真っ直ぐ見る。
「君ならば信頼に足る。
君となら真の国が作れる。
君は私の最も信頼する同胞だ。だから――」
鈍く輝く黒の瞳に映る私は、ちゃんと涙を浮かべているだろうか?
「――私と一緒に死んで」
私が今一番望む物。それは確かな“実例”だった。
尸解仙という物の原理は理解しているものの、それはあくまで“知識”のみ。実際に尸解の様子を目にすれば、この自分でもどうにもならない不安をどうにか出来るかもしれない。
布都はその実験にはちょうど良かった。彼女は私の言うことなら何でも聞いてくれるのだから。
しかし、そのまま“実験体”になってほしいというわけにはいかない。彼女が信じているのは優れた大王となりうる“聖人”だ。死ぬのが怖いなどと弱みを見せてはならない。
それでこの一芝居だ。何も問題が無ければ、彼女は私の頼みを受け入れるはずだ。
――そう、それなのに
手の甲に、何か熱い物が当たった。見れば、ポタリポタリと小さな雫が垂れていた。視線を上に昇っていくと、それは俯いた布都の顔からこぼれていた。
布都は泣いていた。
「本当に、我でいいのですか?」
自分が泣いているのに気付いていないのか、布都は目を拭いもしなかった。
「ええ。これはあなたにしか頼めないですから……」
「そう、ですか」
何故だか、その涙は私を不安にさせた。
「分かりました。その話、お受けいたします」
目論見通り、彼女は私の申し出を受けてくれた。それなのに、私の心はかき乱された。
「なぜですか」
意識するよりも早く、疑問が口から出ていた。
答える布都は、困ったように笑っていた。
「おかしなことを申されますな。我でしたらあなたの望みを叶えられる、そう思ったから、この話を持ちかけてくださったのでしょう?」
「けど、君は死ぬのですよ。まだ若く、限りない未来があるというのに、それをみすみす棒に振るというのですか?」
「だって、その未来にはあなたがいないじゃないですか」
虚を衝かれた思いだった。
「あなたは世をあまねく照らす日輪と同じです。あなたの賢明さは民を豊かにし、この国を安らかにお治めするに違いありません。ですが、我にとっては少しだけ意味が違います」
布都は目を軽く閉じ、何かを思い起こすように語った。
「我は色んなものが怖かった。
大陸から来た仏。神をないがしろにしつつあった親族。我を道具のように扱った兄上……あなたはそのすべてから守ってくださると言ってくださいました。そのお言葉が嬉しかったのは勿論でしたが、それ以上に、あなたのあの笑顔に勇気づけられたのです」
布都の言う、その時のことを、私は全く思い出せなかった。どのような言葉を用いたのか、どんな表情をしていたのかも。
「何事にも怯えていた我を救ってくださったのは太子でした。だから、あなたの笑顔……日輪の輝きをもう二度と見れないのは嫌なのです。そのためなら、我は何でも致します」
「違う、駄目、待って、私はそんな」
――あなたが思っているような人間じゃない。
死を恐れるあまり、自分を信じる臣を犠牲にしようとした。聖人なんてとんでもない、こんなにも汚い者のために命を捨ててはいけない。あなたに助けてもらう資格なんてない。
「太子、ご安心ください。あなたを悲しませませるような真似は致しません」
布都の手が私の顔に触れる。
「死を謀る呪いの道の露払いは我にお任せください。だから」
小さな指が私も気づかぬうちに流れた涙を掬い取る。
「だから、どうか泣かないでください」
――泣くな
「……ふふっ、そんなこと言って。布都だって泣いてるじゃないですか」
「えっ、嘘!? いや、これは違いますぞ。うれし泣きというやつです!」
――笑え
「なら私だってそうです。あなたという部下がいて、心底嬉しいから涙するのです」
「太子…………こうしてはおれません! いまここで尸解仙となって、太子を安心させてご覧に……!」
「こーら、慌てないの。占いが得意だというのに、どうしてあなたはそんなにせっかちなのかしら」
――喜べ、彼女はお前を聖人であると疑いもしないのだぞ
「ははは……そうですな。つい癖で」
「まったく。良い日取りを占っておいてください。あと、青娥にも詳しい方法を訊かねばなりません。これから忙しくなりますよ?」
「はい!」
――この笑みが彼女の心を照らせると信じて
これは掌編であるにせよ、もう少しだけ範囲を広げて書ききってほしかった気もします。書かれている流れがきれいなだけに。
それでも太子様を思い遣る青娥と布都の気持ちは伝わってきます。
また、このような掌編でしたら、もっと説明を削った方がテンポが好くなった気はいたします。