Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

なまくらフェニックスとへっぽこトラツグミ ~ Vol.4

2012/10/19 03:22:09
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なまくらフェニックスとへっぽこトラツグミ



≪Vol.4 ~ リヴィング・スルー・トゥギャザー≫



【登場人妖】

  藤原妹紅    …… なまくら人間。一時期は刀を呑み込んだり火を吹く大道芸で路銀を稼いでいた。
  封獣ぬえ    …… へっぽこ妖怪。妹紅の腕枕とマミゾウの尻尾枕のどちらが好いかで三日間悩む。
  二ッ岩マミゾウ …… 究極のモフモフ。非常時に感情が高ぶると尻尾が針山に変化するので大変危険。

  水橋パルスィ  …… 嫉妬狂い。さりげなくファッションセンスが光る。懐の五寸釘は全て手作り。
  黒谷ヤマメ   …… 疫病専門家。「天然痘を人類にバラまいたのはこの私だ」の五月演説で有名。
  キスメ       …… 井戸マニア。無類の面白好き。かつては何処ぞの女傑だったと専らの噂。

  八雲紫      …… 神隠しの主犯。睡眠と呼べるのは十時間以上。それ以内は全て仮眠に過ぎん。
  八雲藍      …… すきま妖怪の式。猫なで声で上皇に媚びていた時分のことは今では黒歴史。
  西行寺幽々子 …… 幽冥楼閣の亡霊少女。生前からの大食い。桜餅のピラミッドの完食が現在の夢。
  魂魄妖忌    …… 幽人の剣豪。この頃は初々しい堅物っぷりだったのでまだしも愛嬌があった。

  古明地さとり  …… 怨霊も恐れ怯む少女。ひそかに加虐趣味あり。常時とサドりで性格が一変する。
  古明地こいし  …… 閉じた恋の瞳。夢を旅する少女。友達百人を作るために平安京にやってきた。
  四季映姫    …… 楽園の最高裁判長。地蔵からの成り上がり。両目両手で別々の作業が出来る。
  小野塚小町   …… 三途の水先案内人。適職に悩むモラトリアム。マイペース過ぎて出世を逃した。

  源頼政      …… 源氏の生き残り。ロリコンを指摘されると確実に光源氏を引き合いに出す。
  佐藤義清    …… 歌人西行。幽々子の父親。過去に錬金術紛いに手を出して酷い目に遭った。
  源仲綱・猪早太・平清盛・平宗盛 …… 左から、頼政の嫡男・頼政の郎党・平氏の長老・清盛の三男。


【これまでの物語】

  ■なまくらフェニックスとへっぽこトラツグミ
  ■なまくらフェニックスとへっぽこトラツグミ ~ Vol.2
  ■なまくらフェニックスとへっぽこトラツグミ ~ Vol.3
  ■なまくらフェニックスとへっぽこトラツグミ ~ Vol.3.5


【今回のおはなし】

  ■序幕 ~ 共に生き、共に歩む。

  ■第一幕 ~ その時を待ち続ける人々
  ■第二幕 ~ 死骸もてあそぶ少女
  ■第三幕 ~ 巡り巡る平安の血族
  ■第四幕 ~ 洗濯をして部屋を出る。
  ■第五幕 ~ 親子と姉妹、その明暗。
  ■第六幕 ~ 桜を映した鏡の行方
  ■第七幕 ~ 正体不明と無意識
  ■第八幕 ~ 傷だらけの手のひらで
  ■第九幕 ~ やい、水橋。なによ、黒谷。
  ■第十幕 ~ 幸せになるための近道
  ■第十一幕 ~ 優しさと愛しさの境界
  ■第十二幕 ~ 源頼政と封獣鵺
  ■第十三幕 ~ 帰る家があり、愛する人がいる。

  ■幕間 ~ ヒバリの翔ける平安京

  ■第十四幕 ~ 君の桜は咲いているか
  ■第十五幕 ~ それは巣に帰る小鳥のように
  ■第十六幕 ~ 平安京人妖合戦

  ■終幕 (妖怪サイド) ~ 未来を導く揚げヒバリ
  ■終幕 (人間サイド) ~ それでも桜は咲いて散る




【序幕 ~ 共に生き、共に歩む。】



 雑木林に埋もれた廃屋で目覚めた時には、すでに夕暮れだった。

 藤原妹紅が起き上がって最初に確かめたのは、隣で寄り添うように眠っている少女の存在だった。野良猫のように丸まっている妖怪が確かに自分の手を握っているのを見た時、妹紅はこれ以上ないくらいに安堵した。
 何故だろう、眠りに就いている妖怪少女も、この三日間の出来事も、あるいは自分の人生すらも、何もかもが一夜の夢であるような気がしたのだ。
 しばらくの間、少女の寝顔を見つめる。封獣ぬえはトラツグミの不気味な鳴き声とは似ても似つかない、可愛らしい寝息を立てている。くぅくぅと漏れる吐息が指先にかかる度に、妹紅の気持ちは熱気球のように膨れ上がってゆく。
 頭を冷やそう、顔を洗おう、と立ち上がろうとする。ぬえは手を放してくれない。呻き声をひとつ苔むした床に転がして、妹紅を引き込もうと力を入れてくる。本当に寝てるのかコイツ、と妹紅は訝[いぶか]しむ。

 仕方なく妹紅は相方を抱えて荒屋を出た。夕日が最後の温もりを届けようとしていたが、春の始まりから幾日と経たない今でも、冬の残り香は空気に溶けていた。
 腕の中の少女が少し震える。妹紅は抱く力を強める。燃えたぎった血液が両腕に流れ込んだのを感じ取ったのか、ぬえは再び穏やかな夢の世界に飛び立つ。二色三対の羽は垂れ下がって地に着いている。その付け根に巻かれた呪符は、今もそこにある。
 好く寝てるな、と妹紅は思う。ぬえが安らかに眠れていることは、妹紅の数少ない幸せだった。

 ふと廃屋の入り口に立て掛けてある物に目が留まる。それは旅のお供である麻の袋と、相棒のなまくら刀だった。あの騒ぎで失ったと思っていたのに、なぜそれが、と妹紅は考える。すぐに結論に行き着く。
 独り言が漏れる。嬉しいのか恥ずかしいのか、自分でも分からない。正体不明だ。
「……守ってやりなってことか、あいつめ」
 ぬう、と腕の中に小鳥の声。妹紅は慌てて口をつむぐ。
「ふじわら?」
「おはよう――いや、こんばんは、かな」
「好かった、夢じゃなかった」
「何が」
「藤原がいる、そんだけ」
 ぬえはそう云ったきり、また目を閉じて胸元に顔を埋めてきた。
「おいこら寝ぼすけ。腕が疲れた、降りてよ」
「そんなに重い?」
 違う、と妹紅は返す。むしろ重いと云えたなら、どれだけ安心できることだろう、それくらいにぬえの身体は痩せている。
「疲れてないか? なんなら、もう少しそこで休むけど」
「大丈夫、藤原の方が好い」
「そう」

 妹紅は少女を落っことさないように注意しながら、なまくら刀を差し、麻袋を括り付けた。
 廃屋に少し目をやってから、妹紅はぬえを抱え直す。夕日はまだ沈み切っていない。それが有り難かった。ぬえの寝顔が、好く見えるから。
「それじゃ――歩くよ」
「うん。ありがと、藤原」
「どういたしまして」
 それ以上の言葉は要らないみたいだった。ぬえは深呼吸してから、妹紅の背に手を回した。

 妹紅は歩む。火の鳥のように赤い夕焼けを背に歩む。
 その旅路がいつまで続くかなんて考えたこともなかった。永遠に終わることのない旅路なのだ。
 もし私が歩みを止める日が来るのだとしたら、それはこの身が幻想と成り果てた時か。あるいは、ぬえが跡形もなく消え去ってしまった時だけだろう。
 共に生き、共に歩む――その時間を他の人よりも永く与えられている私は、きっと幸せなんだ。そう思わなければ、ぬえの奴が悲しむ。自分の正体をさらけ出してまで、私と離れ離れだった時間のことを、一緒に居られなかった気持ちを伝えてくれた。
 なまくら刀の代わりに、ぬえの肩をぎゅっと抱く。骨が張っていて頑なに拒んでいるような感触だけど、その奥に隠れている夕日のような温もりを、私は知っている。

 ……誰よりも、誰よりも、知っているつもりだ。



◆     ◆     ◆



平安京・治承四年・初春



「ほれ、見てみなよ。藤原妹紅。ちゃんと書いてあるだろ?」
「あれま、マジだこれ。新手の詐欺に騙されたみたいだ」
「死神をナメてもらっちゃ困るね。まぁ、年貢の納め時ってやつさ」
「やれやれ……痛いのは嫌なんだけどなぁ」
 藤原妹紅は息を転がしてから、鮎の塩焼きにかぶりついた。これが最後の鮎かもしれないと思うと、涙が噴き出るくらいに美味しい。目の前で胡坐をかいている少女が鼻をすんすんと鳴らす。まるで腹を空かせた子犬みたいだった。なんて図々しい奴なんだ、と妹紅は呆れた。
「……食べる?」
「好いのかい? 恩に着るよ」
 串を一本差し出してやると、少女は顔を綻ばせて受け取った。大口を開けて腹からがっつりと喰らいつく。その様を見ていると、春先に起き出して獲物を補食する熊を思い出す。

 少女は癖のある赤い髪を左右で縛っていた。服装はカラスみたいに真っ黒な着物に牡丹の腰巻、粗末ながら手入れの行き届いた下駄。妹紅と同じ紅い瞳は、それだけで人外の者と知れる。
 なにかの因縁だろうか、鴨川で釣りをしていたら、また少女が小舟に乗ってどんぶらこっこと流れてきたのだ。昼食の調達のつもりが、いつの間にか焚き火を囲んで談笑する仲になってしまった。笑顔が中々に魅力的な奴だ。こちとら普段からコウモリみたいに底意地の悪そうな笑顔を見せつけられているもんだから、こういう邪気のない笑顔に出会うと凄く安心する。

「いやぁ、朝から何も食ってないんだよね――ひぇー、うめぇ」
 二本目、三本目とハイペースで塩焼きを片づけていく赤髪。せっかく取っておいた一番でかい奴も、少女の胃袋に渦潮のごとく吸い込まれた。試しに燻製にした鹿肉を出してやると、それも酒の肴に食っちまいやがった。とんでもねぇ遠慮の欠けっぷりである。
 妹紅は赤髪の頭を引っ掴んで焚き火に突っ込んでやりたい衝動を必死に堪えながら、酒をがぶりと呑み乾した。

 小枝で歯の隙間を掃除し、髪を掻いてフケを払い落とし、とどめにゲップを漏らしてから、ようやく赤髪は一息ついた。
「……で、どこまで話したっけ?」
 この野郎、と妹紅は思った。
「あんたがお迎えの死神で、私を殺しに彼岸から来たってとこまで」
「そうそう――お前さん、とっくに寿命切れてるじゃないか。抜け駆けはいかんよ、ちゃんと死ななきゃね」
「それが出来たら誰も苦労しないっつの」
 へぇ、と死神は首を傾げた。なかなか芸術的な角度だった。
「なんだいそれ、死にたいのに死ねないってこと?」
「おかげ様で命を奪う一方だ」
「聞いたことないなぁ。なんなら、あたいが手伝ってやるけど」
「そのおもちゃで出来るもんならな」
「云ってくれるじゃないか――そうこなくっちゃね」

 空気がにわかに冷え込んだ。爆竹のように音を立てて爆ぜる焚き火。それが合図だった。死神が脇に置かれた大鎌に手を触れた瞬間、妹紅は刀を抜き放った。
 完璧な間合いと角度だった。その筈だったが手ごたえはまるで無い。いつの間にか死神は十歩の距離を空け、鎌の柄に組んだ両手に顎を乗せてニヤニヤと笑っていやがる。
「うん、速い。場数は踏んでるね。まるで型はなってないけど経験で補ってる感じかな」
「それは褒めてるのか、それとも遠回しに煽ってるのか」
「ただの感想さ。人間にしては大したもんだよ」
 人間ね、と妹紅は笑った。久々に人間扱いされて嬉しいだなんて、もう末期だ。
 赤髪の死神は「ふむ」と頷いてから、真っ黒な手帳を手繰った。先ほど見せてくれた代物だ。そこには確かに「藤原妹紅」と書いてあった。お迎えの一覧表、地獄ツアーへご招待するゲストをリストアップ、案内は選り抜きの死神が務めさせて頂きます、ピンポーン、といったところだろう。

「……悪いね、後がつかえてるから。そろそろ終わらせてもらうよ」
 五合ほど剣戟を交えた後、死神は再び距離をとって云った。手帳をしまい腰を割って、両手で大鎌を上段に振り抜く。桜の花びらが渦を巻くようにして鎌に吸い込まれていった。午後の陽気が遠ざかり、小鳥は鳴き止み、全身の汗が冷えて凍りついた。川の流れさえもが止まっているように見えた。
「ちょっとちょっと、痛いのは嫌だって云ったでしょうが」
「安心しなよ白髪頭、一瞬で終わるから。鮎、美味しかったよ」
 そういう問題じゃないと云いかけた途端、死神の姿がかき消えた。
 何処へ行ったと首を巡らせる暇もなく、妹紅の頭は天高く吹き飛んだ。隕石の直撃を喰らったアヒルの置物みたいに、それはそれは高く吹き飛んだ。

 やれやれ、また首チョンパされちゃったよ、と心のうちで嘆息しながら、妹紅は意識を闇に沈めた。



【第一幕 ~ その時を待ち続ける人々】



「あれは鵺に違いないよ、ノリキー」
「ヨリマー、あなた疲れてるのよ」
「……いや、俺には分かる。あれは間違いなく鵺だよ、ノリキー」
「ヨリマー……あなた本当に疲れてるのよ」

 妹紅の首がホームランを決め込んだ、丁度その頃、源頼政は出家先の別荘の自室で友人と語り合いながら歌を詠んでいた。
 すでに御年七十六、働き盛りと云うには少々無理がある齢であるが、頼政は出家した身ながら未だに摂津源氏の棟梁であった往年の威厳を失ってはいない。源氏としては破格の従三位、いわゆる公卿の位階まで昇りつめ、平清盛の覚えもめでたく、孤軍奮闘を物ともせぬ働きぶりであった。

 出家の理由を人々は、従三位まで昇叙して悲願を達成したため、などと噂する。
 頼政にしてみれば出世の栄誉など二の次である。この二十年、頼政はたった一つの目的のために平氏の連中の嘲笑を耐え続け、一族の旗頭として踏ん張ってきたのである。
 しかし従三位――天下に知らぬ者なしの地位にまで昇進してもなお、その目的は達成されなかった。そこで涙で枕を濡らした明くる日、唐突に出家を決め込んだ。やけっぱちの暴発のようなもので、それを云いだした際の嫡男・仲綱の驚きようといったら只事ではなかった。

 ――その目的が、たった一人の少女と再会するためであると知っているのは郎党の猪早太と、旧友の佐藤義清のみであった。

「鵺ちゃんのニーソにハチミツぶっかけてハムハムしたい」
「台無しだよバカ野郎」
 頼政は「はっ」と顔を上げた。
「すまない、無意識に思ってることが口に出てしまった」
「もっとタチ悪ィな。出家したのに煩悩が加速してるじゃねぇか」
「年取ったからって耄碌してるわけじゃないさ。清盛公が謀反を起こした日に確かに見たんだよ。まるで自分の姿を見せつけるみたいに空の上で舞っていたんだ。あれは俺に帰ってきたんだって知らせてるに違いない」
「おめでたい野郎だな。あるいは復讐されるかもしれないんだぞ」
「鵺に殺されるなら本望だ」
「駄目だコイツ、早く何とかしねぇと」

「――自分も見ましたよ、鵺」
 外の板敷から声が上がった。二人が誰ぞと振り向くと、郎党の猪早太[いのはやた]が畏まって控えていた。
「おぉ、お前もか早太」
 頼政が小躍りして声をかける。郎党は口をつぐんで頭を下げた。
「す、すみませぬ。無意識に思っていることが口に」
「主人に似て愚直な奴だな」
「それがこいつの好いところだよ――で、やはり同じ日か?」
「はっ、従三位の仰る通り、確かに上空でひらひらと舞っておりました。ところが不思議なことに、周囲の者どもは鳥の類にしか見えなかったと」
「二十年前と同じだな、見る者によって正体が違う。しかし鳥だけか。猿や蛇、虎には見えなかったか?」
「鳥だけでありました。誰もが自分を不思議に見ておりまして、よもや狐に化かされたのか、と」
「なんだと、それはおかしいな……ところで、鵺ちゃんのニーソについてお前の意見を訊きたい」
「は?」
 頼政は「あっ」と声を上げて打ち伏した。
「くそぅ、また無意識に思っていることが」
「お前、無意識なら何を云っても許されると思ってねぇか?」

 早太は苦笑を漏らしながら答える。
「私にとっては幸運のしるしのようなものでしょうか」
「えっ――ニーソが?」
「違いますよ。鵺です。世間では鵺の鳴き声と云えば不吉の象徴ですが、従三位はご立派に出世を遂げられました。これが吉兆でなくて何と云いましょうや」
 義清は「どうだか」といなして疑念を挟む。
「しっかし、なんで今さら都に戻ってきたんだ。本当にお前に会いに来たのか」
「当たり前だ、義清。運命の赤い糸という言葉は知ってるだろ?」
「知っているが、お前の口からだけは聞きたくなかったな」

 そこで、義清が急に座敷の隅を睨んだ。
「ん――おい今、誰かが部屋を横切らなかったか?」
「鼠じゃないのか? あるいは耄碌したのは義清の方かもな」
「ほざけ。確かにちっこい奴が通ったんだ、女子だと思うが」
 頼政は俄然に興味を示した。口元が豆腐のごとく崩れた。
「なんだと、女の子だって。それは本当か親友」
「こいつキモ! くっつくんじゃねぇよ、ロリコンが伝染するだろうが!」
「人を病気みたいに云うんじゃねぇ、このセンチメンタ野郎!」
 ギャーギャーと取っ組み合いを始めた二人の老人を見かねて、早太が仲裁に入ろうとした、その時である。

 バチン、というこの世のものとも思えぬ音が弾けて部屋の中空に裂け目が走ったかと思ったら、その中から恐ろしげな妖気を湛えた女が空間を割って現れたのである。
「ウワッ!」
「ヒエッ!」
「ギャアッ!」
 と悲鳴を上げて三人の男は室内を逃げまどった。
「――ちょっとぉ、そんなに驚かなくても好いじゃない、傷つくわ」
 頼政は悪霊退散と覚えたての念仏を唱えた。早太は床に伏して子犬のごとく震えていた。
「げっ、お前は――八雲紫!」
「知っているのか、雷電――じゃなかった義清!」
 驚いて顔を上げた。義清は呆けたように頭上の女を見上げていた。
 女は微笑んで扇子で口元を隠す。裂け目に腰かけて優雅に浮かぶ様は天女のようである。しかし天井に渦巻く妖気は魑魅魍魎のそれである。頼政は二十年前の鵺と出会った夜のことを思い出さずにはいられなかった。
「戻って来ていたなんて知らなかったわ。このまま幽々子に会わないで去るつもりかしら?」
「ファッキン。お前がいるって知ってたら、戻ってくることはなかったのによ」
「ひどい云い草。寄り添って来たのはそっちの癖に、えらい腑抜けになったものね。旅の間にタマを落っことしたんじゃない?」
 義清が後ずさった。出家してさえいなければ刀を抜いて抵抗したやもしれぬ、と思うほどの狼狽ぶりであった。

 頼政は早太と寄り添いながら震える声を上げる。
「や、八雲紫、お前も“あやかし”の類か?」
 紫は道士のような衣装をはためかせて振り返った。
「そうですわ、スキマ妖怪とでも云いましょうか――初めまして、源頼政さん。お会い出来て光栄ですわ」
 口調を替え妖気を引っ込めると、女はたちまちに幼く見えた。少女のようにも妙齢の女にも見える。面妖である。
 それでは、と頼政は是非とも訊ねたいことを口に出しかけたが、紫が手を挙げて遮った。
「あれから、ぬえちゃんは見つかりました?」
「鵺の居場所をご存じなのですか!」
「知っています、知っていますとも」
 紫は扇子の裏で意地悪く笑った。
「――けど、教えてあげない」
「そこを何とか!」
「心配しなくても、待っていれば向こうから会いに来てくれますわ」
「いつです、いつなのですか」
「さぁ、けど近いうちです。それは間違いありません」
「妖怪の近いは信用できませぬ。私はかれこれ二十年も待ちました。これ以上は命の灯が保ちませぬ」
 頼政にとっては切実だった。すでに七十を数え、いつ病に倒れて死ぬかも分からぬ毎日だった。
 紫は目蓋を持ち上げて、あらあら、と扇子を振る。
「好い男じゃない。十年も待つ女は珍しくないけど、二十年も待つ男はそうはいないわ。男って云ったらどいつもこいつもせっかちだから。こいつと違ってあなたは誠実な人のようね」
「ほっといてください」

「やい義清、散々『人外はねぇわ、マジねぇわ』とか罵っていやがった癖に、お前も妖怪と付き合ってるじゃないか」
「勘違いすんな、紫とはそんなんじゃない。ちょいとした腐れ縁だ」
「この人ったら面白いのよ、人恋しさに禁忌を犯して死にそうになったの」
 義清がワーワーと喚いて紫の言葉を遮った。上等な桜餅を頬張りながら紫は少女のように笑う。
「失敗作に喰われそうになったのを、私が助けてあげたのよ。それから仲好くなってねぇ」
 懐かしそうに妖怪は云った。鵺ちゃん一筋の頼政も夢見る少女になった紫の仕草には鼓動が早くなった。
「おい頼政、こいつにだけは気を許すなよ。死ぬまで付きまとわれるからな」
「こんな美人さんに付きまとわれるなら、むしろ本望だ」
「お上手ですこと。でも口説いたって詮無いですわ」
「それは承知しております。貴方は誰にも寄りかからない芯の強さをお持ちの女性だ」
 あらあらあら、と紫は赤くなって扇子で顔を隠した。紳士に豹変した主人を見せつけられた早太が足元にうずくまって笑っていやがったので、延髄にチョップを喰らわして黙らせた。

「さてさて、自己紹介はこのくらいにしておきましょうか――佐藤義清、いや西行法師」
 頼政らは顔を引き締めた。紫の表情が冷え込み瞳は鋭さを宿した。
「云いたいことは分かってる。幽々子のことだろ?」
「そうよ。庭師に娘を預けて、かれこれ四十年。そろそろ悔い改める時期なんじゃないかしら」
「……けじめはつけようと思っていたところだ。今更、逃げも隠れもしねぇよ」
「あれから幽々子は一晩たりとも年をとっていないわ。あの子の時間は、あの日を境に止まってしまったのよ」
「年をとらない? そのようなことが可能なのですか?」
 早太が目を見張った。
「天を統べる覇者でも見つけられなかった長寿の法、世間に知られていないだけで、やり方は色々とあるのです。例えば修行して仙人になったり、人間から妖怪になったり、薬で不老不死になったり――そして、生者の寿命を呑み込んだりね」
 義清が呻いた。
「幽々子は……」
「あの子の、父親と別れた自分の姿を残しておきたいという思いが、持って産まれた能力と結びついたんでしょうね。今となっては、あの屋敷には妖忌の他には誰もいないわ」
 紫は息を吸い込んでから、「あなたが、そうさせたのよ」と付け加えた。

「心の準備が出来たらいらっしゃい。これ以上、幽々子を悲しませては駄目よ」
 そう云い残して紫は裂け目に身を引っ込めた。去り際に「こちらの事情を持ち出して申し訳ない」と詫びてきた。頼政は頷いただけで他には何も云えなかった。どう答えれば好いか分からなかったのだ。
 一同は冷め切った茶を呑んで細い息を漏らした。
「……お前と、紫と、娘さん。どういう経緯でこうなったのか、さっぱりなんだが」
「俺は、弱い人間だ」
 義清は消沈した様子で云った。
「反魂の法を使っちまったんだ。もう一度、あいつに会いたかった」
 死んだ友人のことだろうか、と頼政は顔も名前も知らぬ誰かのことを思った。
「人骨を集めて、香を焚いて、文言を唱えて……出来上がったのは、世にも恐ろしい化け物さ。紫がいなかったら、確かに喰われて死んでいただろうな」
 それからだ、と話は続く。頼政は茶菓子の桜餅を頬張った。うめぇ。
「紫に幽々子の話をしたら、えらい興味を持ったらしくてな。あいつには、生まれつき死霊の類を操る能力があったんだ。おかげで屋敷の者は怯えるし、友人の一人も出来ないまま、家に閉じこもっちまった。俺も精神的に参っていた時期でな、自分のことで精一杯で、幽々子のことは構ってやれなかったんだ」
 頼政は頭を振って現実感を取り戻そうとした。鵺から始まって、次はスキマ妖怪、そして死霊を操る娘。晩年になって自分を取り巻く世界が急速に形を変えつつあった。百年前ならいざ知らず、武士の世となった都では、今や妖怪よりも恐ろしいのは同じ人間である。

「それで、あのスキマ妖怪と幽々子様が、ご友人に」
「まさか娘の初めての友達が妖怪だなんて、それも命の恩人だなんて、複雑だよ」
 今でも別れた日のことを夢に見ると義清は云う。
「悪いな、辛気臭い話になっちまった――そろそろ失礼仕ろうか」
 早太が慌てて立ち上がり、下足番を呼びに行った。
「待て、義清」
「なんだ、頼政」
 呼び止めたものの、この気持ちをどう伝えれば好いのだろう、と頼政は思った。自分は二十年も待った。義清の娘は四十年も待った。慕っている者を思い続けているのは同じなのだ。その気持ちを伝えるための言葉が、自分の中にはあるはずだった。
「――あるいは、これが最期かもしれないんだ。いつまでも待ち続けてやる自信はある。だが時間の方は待ってくれないってことだけは、分かってくれ」
 旧友は頭を掻いてから、深々と息をついて手を挙げた。
「お互い、年を取ったな」
「……ぁあ」
 本当に年を取ってしまった。思えば長いようで短い半生だった。源氏の歴史に名を残すような足跡を遺してこれたのかどうか、頼政には自信がなかった。

 義清が去った後もしばらくの間、頼政は来たる歴史の転換の足音に、じっと耳を澄ませていた。



【第二幕 ~ 死骸もてあそぶ少女】



「もう、藤原ってば何処をほっつき歩いてんのかしら! いつもいつも自分勝手なんだから!」
「まったくじゃの。ちょいと説教して鴨川に放り込んでやらねばならんな」
 一方、封獣ぬえと二ッ岩マミゾウは、いつまでも昼食を持ち帰ってこない妹紅に業を煮やして迎えに行っていた。
 天気晴朗なれど波高し、初春の肌寒さを陽気がかき混ぜてしばらく、程好い心地の風が吹き抜ける京の街並みは、けれど束の間の平穏な姿を取り戻すには至らなかった。

 大路は餓死者で溢れている。ぬえは顔をしかめて鼻をつまみながら足早に横切った。マミゾウがこれこれ待ってくれ、と後を追いかけてくる。慢性的な飢饉は天を覆い尽くし、死骸の処理も間に合わず、時にはまとめて川に放られて流される。淀みに溜まった死体は腐り、人々の怨みも然りと溜まり、既に寄りつく者も弔う者もいない。
 鴨川は生を育む川であると同時に、死を運ぶ川であった。

 マミゾウが密かに営む茶屋から下って、妹紅が釣り場にしている川原に辿り着いた。
 相方の少女はいない。ヒバリが鳴いて春の訪れを祝っているのみである。が、川岸には妹紅の釣り道具と焚き火の跡、魚を焼いていたらしい串が無造作に捨てられており、川の水とは似つかぬ液体が岩肌を染め上げている。
「な、なによコレ……藤原?」
 飛び散っていたのは乾き切らぬ血液である。風呂桶からぶちまけたみたいに足元を覆っている。それは血痕と呼ぶには余りにも生々しく、かつ多量だった。試しに指ですくって舐めてみる。その途端に、ぬえはペタリとその場に尻餅をついてしまった。
「嘘……そんな。これ藤原の血だよ、マミゾウ」
「うーむ、滑って転んで頭を打ったと片づけるには、血の量が多いの。その辺の妖怪に倒された訳でもあるまいに、妙じゃな……」
 ぬえはおろおろと周りを見渡した。桜の木までが急によそよそしく感じられた。妹紅のいない時間の始まりを告げているかのようだった。

「あやつのことじゃ、その内ひょっこりと戻ってくるわい。心配するだけ損というものじゃ」
 帰る道すがら旧友は慰めてくれた。
 だと好いけど、と云いかけて口を閉じる。事態がそんな易しいもんじゃないということは、マミゾウも分かっているはずだった。妹紅は確かに自分勝手で飄々としていて人が慌てる様を見ながら飯が三杯は食えるような人間だが、黙って私のもとを去るような奴じゃないことだけは確かなのだ。
 マミゾウが青空に式を放って方々を探させた。取り敢えずはその収穫を待つばかりである。

 二人が不審な輩に遭遇したのは、三条の橋に差し掛かったところであった。
 川幅が比較的狭く浅瀬になっているために、天候が荒れると洪水が起こる危険性が高い地点である。
「ぬぇー、マミゾウ、橋の下に変な人がいるよ。わたし怖いよ、回り道しようよ」
「あらやだ、検非違使の人に来てもらわなくちゃ。やぁねぇ、物騒になったもんだわ」
 とデパートで不審者を発見した親子連れみたいな漫才を繰り広げているうちに、その少女は暗がりに沈んだ顔を振り向けた。
「……もしかして、妖怪の方でしょうか?」
「うわ、こっち見た――なんだか嫌らしい目つき」
「本当に嫌な目つきじゃの。まるで腹を空かせた蛇のようじゃ」
「散々な云われようね。まぁ、慣れてるから好いですけど」
 と妖怪少女は桃色の髪を揺らしてため息をついた。ぬえはマミゾウと顔を見合わせてから、土手を滑り降りた。
 橋の下の暗がりを覗き込んだ途端、二人は「おげぇ」と呻いてのけ反った。大路の比ではない。鼻を焼き尽くさんばかりの、とんでもねぇ悪臭が川面を埋め尽くしていた。人間なら嗅いだ瞬間その場でノック・アウトしちまいそうだ。
 むき出しの苔むした岩や水草に絡まるように、無数の死骸がその身を崩していた。それぞれの腐敗はまちまちで、とっくに白骨化した者もあれば、クジラの腹のごとく膨張している者もあった。ぬえの姿と似た年頃の少女の骸も晒されている。少女の落ち窪んだ眼窩が真っ黒な橋桁を捉え続けていた。ぬえは立ち昇る悪寒を和らげようと、二の腕を掴んでさすった。

「――素晴らしいでしょう?」
 ボロを纏った少女は頬を染めて両手を広げた。
「私の個人的なコレクションです。夜目を盗んで集めてまいりました」
「コレクション? 肥溜めの間違いじゃないの?」
 少女が睨み付けてきた。胸元の目玉も心外だ、と云わんばかりに細まった。胃の中身まで見透かされそうな鋭利な光に満ちた三つの瞳に、ぬえは鳥肌立った。
 この場所は人間だけじゃない、妖怪ですら寄りついてはならない、触れてはならない禁忌の空間なのだ。
「肥溜めとは、なんとまぁ酷いことを仰りますね。同じ妖怪なら、この芸術の素晴らしさがお分かりになると思うのですが」
「生憎じゃが儂らは腐った肉は喰らわん。酸っぱくて敵わんからの。もし喰らわんとするなら、やっぱり“ふれっしゅ”なやつに限るわい――のう、ぬえや?」
 マミゾウの鼻を抓[つま]みながらの声に、ぬえは曖昧に頷いた。妹紅と出会ってからどれくらい経った頃からだろうか、ぬえは人肉を食べることを止めてしまっていた。妹紅の魚料理の方がずっと美味しかったし、「藤原を食べているようなもんだ」と思うと、死体を前にしても食欲は湧いてこなかった。

 目玉少女はきゃらきゃらと笑った。子供とも狂人ともつかない不吉な響き方をする笑い声だ。
「そうですか、ずいぶんと人間に近しい心をお持ちのようですね。妖怪の癖に本分を忘れて、人間と肩を組み合っているなんて。本分を捨てた妖怪の末路をご存知ですか? すっと消えて、パンッ――それでお終い。跡には何も残りません」
「肩を組んでおるつもりはないんじゃがのぉ、ちょいと美味しい商売をさしてもらってるだけじゃよ」
 呑気に頭を掻くマミゾウをよそに、ぬえの声は苛立ちを増した。こいつは何だ。見ているだけで腹が立つ。
「にやにや気持ち悪いわね。さっきから何よ、分かったふうな顔してさ」
「分かるのですよ」
 少女は一層に笑みを深めた。口が裂けるかと思われた。
「ほら、試しにあなたの名前を教えて下さいな」
「あんたに名乗る名前はないわ」
「……へぇ、封獣ぬえさんですか。初めまして、私は“さとり”と云います」
 ぬえはぎょっとして身を引いた。さとりは三つ目の瞳を丁寧に撫でていた。腐臭が更に強まったように感じる。突き上げてくる吐き気に抗って、ぬえは口を手で覆った。
「ふぅん、しかも人間の女から貰った名前のようですね。どれどれ、どんなお顔の方なんでしょうか?」
 妖怪は“ギトリ”とこちらを見つめてきた。“ギロリ”とも“じとり”とも違う不吉な目線に、ぬえは足元が覚束なくなるのを感じた。足腰から力が失われてコンニャクになる。倒れる前にマミゾウが支えてくれた。

「あら、あらあらあらあらあら……」
 さとりは頬に手を当てて微笑んだ。真夜中に路地裏で出くわしたコウモリみたいに不気味な笑みである。
「あらあらぁ……なんて偶然。離れ離れになった二人、感動の再会ですね」
「これこれ、さとりとやら。いったい何を」
「少々……少々、お待ちください」
 さとりは腰を屈[かが]めて死体の山を掘り返し始めた。嫌な予感がする。それも特大級の。全身を毛虫に這われたらこんな悪寒に襲われるのかもしれない。左手首の矢傷が氷中の炎のような不快な熱を持ち始める。
 ――この目玉妖怪と私はこの先、絶対に分かり合えることなんてないだろう。根本的に相容れない存在というものが妖怪同士の間でも有り得るのだと、ぬえは初めて知った。
「お待たせいたしました」
 さとりが何やらを取り出して振り返ろうとした直前、ぬえはこれ以上ないくらいに固く目をつむった。
 闇の安寧は心を雀の涙ほどに暖めてくれたが、長くは続かなかった。頭のなかで火花が弾け、さとりの声が木霊した。
『あら駄目ですよ、見なくてはなりません』
 ぬえの意志に抗って目蓋は開かれた。それだけが別の器官として動いているかのように。

 妹紅の生首は、抉り取られた目玉を探すことも出来ずに、ぬえを虚ろに見つめ返していた。

「――こンの野郎!」
 ぬえは餓えた獅子のごとく妖怪に飛びかかり、首筋めがけて爪を振るった。首をわずかに傾けただけでかわされた。反射的にかわしたのではない、何処に首を動かせば切り裂かれずに済むか知っているかのような動作だった。
 次の瞬間には、さとりの拳が腹にめり込んでいた。
 ぬえは呻いた。引き離そうと両手で掴んだが、触れたのは妖怪の拳ではなかった。
「これは、お返しいたします」
 妹紅の首だった。その断面の冷たい肉と骨の感触が脳に走った瞬間、ぬえは川面に膝をついて嘔吐した。


□     □     □


「さとりとやら、なぜ、ぬえの心をもてあそぶ」
 失神したぬえを抱えて、マミゾウは目を細めて云った。
「人間と付き合った罰、とでも云いましょうか。いえ、本当はどうでも好いんですけどね、本分なんて……そうしたいから、そうしただけです。心を壊して遊ぶのが、私の何よりの喜びですから」
「救いがたい悪趣味じゃな。おぬしは肥溜めで暮らすのがお似合いじゃよ」
「ふふ、もっと曝[さら]け出して下さいな。素直にお怒りになられた方が好いですよ。気持ちがすっきりしますから」
「こう見えても儂は賭け事では並ぶ者なしの金筋博徒。心の内を曝け出すのは、すなわち敗けじゃ」
 さとりが、にひっと笑った。ヘビのようにも子猫のようにも見える。妖艶な笑みである。
「殊勝な心がけですこと――ねぇ、二ッ岩さぁん。もっと本能に忠実になってみてはいかがです? 仮にも力ある妖獣の一角なんですから、人間の里ひとつでも喰らい尽くしてみたら面白いと思いませんか? 祟り神として祀られて、妖力も増すかもしれませんよ?」

 マミゾウは目を逸らして獣の耳を震わせた。鴨川は生と死を平等に流し続けている。初春の日差しのきらめきは、せせらぎに桜の色を添え続けている。その一方で、橋の下、影の国の中で、さとりは死体の城壁に囲まれていた。世界で一番ちっぽけで孤独な王様に見える。
 さとりが怒らせようとすればするほどに、マミゾウの心は水底へと沈んでいった。
 覚妖怪との出会いは、何もこれが初めてではない。大和が都と呼ばれた時代から人間と共に生きてきたマミゾウは、“心”というものが抱える闇の深さを何度も見せつけられてきたのだ。

 こやつの心に届くかどうか、とマミゾウはぬえを抱え直した。
「……さとり、ここで交誼[こうぎ]を結んだのも何かの縁じゃ。儂が断言してやるぞい。いちばん心を壊しているのは他ならぬ、おぬしの方じゃ。自分を苛めるのも大概にした方が身のためじゃぞ」
「何を仰るかと思えば」
 さとりの笑みは、いつの間にか崩れていた。
「おぬしは都にいるべきじゃない。何を思って山から降りて来たのかは知らぬが、この地で伏した分だけ、おぬしの心は哀れになってゆく。それが分からぬか? ――儂には見えるぞ。おぬしもぬえと同じ、救いがたい不器用で損をしとる手合いに相違あるまい」

 さとりは何も云い返さなかった。しばらくの間、春の空を眺めてからマミゾウの腕の中で震えているぬえを睨んだ。その瞳に確かな、そして鮮やかな色が横切ったのを、マミゾウは見逃さなかった。
 返す言葉もなくさとりは俯[うつむ]いた。足元の死骸の葬列に今になって気づいたかのように。
「……二ッ岩さん」
「なんじゃ?」
「不愉快です」
「そうじゃろう。本当のことほど不快に映える」
「あなたも覚りに生まれれば好かったのに」
「儂は嫌われると死ぬ病気じゃ。どうか勘弁しておくれ」

 二人は安堵とも疲労ともつかぬ息を漏らした。
「……そいで、首は何処で拾ったんじゃ?」
「空から吹っ飛んできました。あんまりに見事なぶっ飛びっぷりだったので、つい見とれてしまいました」
「ふぅむ、方角は」
「下流の方からです」
 やはり妹紅は釣りをしていたところを殺られたらしい。平将門じゃあるまいに生首がぶっ飛んでくるとは、どんだけバカでかい力で殴られたのやら、とマミゾウは身震いした。
「胴体は」
「見てません。飛んできたのは首だけです」
「ふむぅ……他に手がかりはナシか。まぁ仕方ないの――あい分かった。さとり、今回は落とし前は付けん。これで貸し借り無しにするから、とくと都を去るが好い」
「……また、会えますか?」
 マミゾウは立ち去りかけて、また振り返った。さとりの言葉から一切の力が抜け落ちていた。
 桃色の髪で顔を隠して、さとりは川面を見つめ続けていた。己の本分を捨て去ろうとしているのはこやつの方かもしれぬ、とマミゾウは思った。それほどに弱々しい痩せた両肩が、重みに耐え切れぬかのように震えていた。
「……それは、分からん。儂は運命は信じぬ。天命も信じぬ――じゃが腐れ縁だけは信じる。儂とおぬしもあるいは、また会いまみえる時があるやもしれん」
「信じてみても好いでしょうか」
 にっかと笑ってやった。
「勝手にせい」
 達者でな、とマミゾウは立ち去った。今度こそ振り返らなかった。
 時代の荒波が、か弱い覚妖怪の少女を押し流してしまわぬよう、せめてもの祈りを春空に捧げた。



【第三幕 ~ 巡り巡る平安の血族】



「それで私はジョージの奴に云ってやったのさ。『バカ野郎、たけのこの里に決まってんじゃねぇか』ってね!」
「はァ? なに云ってんのあんた。きのこの山に決まってんでしょ。チョコの少ない菓子なんて糞の価値もないわ」
 のっけからメタ発言か、こりゃ消されるな、とキスメは思った。

 同日の宵のこと、黒谷ヤマメ、水橋パルスィ、キスメの三人は、とある屋敷に不法侵入していた。
 闇夜に紛れて中門を物の数に入らじと飛び越え、檜皮葺の寝殿の床下をネズミのごとく這いまわる。
「あーぁ、何が悲しくて節足女の尻拭いなんてしなきゃいけないんだか……」
 と隣でパルスィが泣きそうな声で囁いた。感動している訳ではない。あまりに情けなくて泣けてきたのである。
 髪に蜘蛛の巣を張りつけたヤマメが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「あンの化け狸がイカサマしたんだ。私が悪いんじゃない。苦情はそっちまで持っていっちゃくれないかい」
「偉そうな顔して澄ましてんじゃないわよ、この負け犬。悔しかったら月に向かって吠えてごらんなさいよ」
「ンだコラ――やんのか?」
「上等だ」
「表出ろや」
 キスメは二人の間に割って入った。
「まぁまぁ、お二人さん。それよりも、さっさと上がっちゃいまひょ。ここは埃っぽくて嫌になる」
「好い提案だキスメちゃん。水橋よりもよっぽど建設的で頼りになるね」
「大きなお世話……いつかと同じね、このやり取り」

 パルスィが五寸釘を渡すと、力持ちのヤマメが床に釘を打ちつけて四指が通る程度の穴を二つ作る。
 で、それぞれの穴に両手を通して縁を引っ掴み、床板を強引に取り外す。退治されてなお衰えないヤマメの怪力も大したもんだが、へし折られた床板の悲鳴も凄まじいもんである。隣の房にまで聞こえるんじゃないかと冷や冷やさせられるも、ヤマメはおかまいなしであった。
「さてさて、潜入開始だ諸君!」
「もう詰んでる気もするけどね」
「質素なもんだ。こりゃ期待出来ないかも」
 めいめいに感想を零し合いながら、三人は出来立てほやほやの穴からモグラのごとく顔を出した。
 目の前に巨大な人影が立っていた。
「――な、なんだお前らッ!?」
「てめぇこそなんだ!?」
「なんだなんだ!」
「なんだなんだなんだなんだ!」
 当然の疑問をぶつけてくる男に対し、逆ギレして応酬するヤマメ。
 キスメとパルスィは顔を見合わせると、肩をすくめて床下に引っ込んだ。
「ほれ見なさい。敵中にど真ん中じゃないの」
「やれやれ。三十六計逃げるに如かず、と来たもんだ」
 中指を立てて喚くヤマメの腰を引っ掴んで、二人は急いでその場から脱出した。


□     □     □


 屋敷は屋敷でも、現役の武士の邸宅にカチコミをしかけてしまったらしい。
 絶好のカモを狙ったどころか、よりによってスズメバチの巣を刺激しちまったのだ。
 追手はしつこかった。条坊を駆け回って撒こうとしたが、馬を巧みに操ってあちこちから寄せてくる。

 水橋パルスィは息を切らして家々の隙間を縫うように走った。
 いつの間にか、ヤマメやキスメとはぐれてしまった。だから賭け事なんて止めろと云ったのに、流行に乗った途端ボロ負けの借金を抱えてこのザマだ。もうあの節足女の甘言には乗るまい、とパルスィは誓った。
 追手は分散されて声も遠い。このまま右京の湿地帯に逃げ込めばこっちのもんだ。餓死者の遺体を蹴っ飛ばしてパルスィは走った。空を自由に翔ける力は、すでに失われて久しい。おかげで足腰はずいぶん鍛えられたが、それに反して妖力はとみに衰えていた。今では鬼火のひとつも操ることは難しい。
 思えば都も、昔に比べれば日陰者にとっては随分と居心地が悪くなったもんだ。物騒な格好をした武士[もののふ]の数が、この十数年で激増している。夜に溶け込んだ闇をものともせずに、御所や寝殿を固める異形の兵[つわもの]共は、自分よりもよっぽど妖怪じみて見えた。
 なんで私がこんな惨めな思いまでして盗人に堕ちねばならんのか、とパルスィは唇を噛んだ。


 ――ぁあ、もう限界。息が切れて喉が焼けつくようだ。
 目についた土倉に逃げ込んで、瓶[かめ]に蓄えてあった水を失敬して喉を潤す。
 緑色の瞳を燃やして眼光鋭く倉の屋内を見渡した。食糧は何もない。米びつには蜘蛛の巣が張っているだけであった。ヤマメの憎たらしい顔を思い返してパルスィは爪を噛んだ。明日に落ち合ったら松の木の枝から逆さに吊るして、額に新しい鼻の穴を空けてやろうと思った。

 漆喰の壁に背を預け、膝を抱えて座る。顔を埋めて、深呼吸とも溜め息ともつかない息を漏らした。
 独りで闇の音色を聴いていると、在りし日の自分を思い出す。家族の誰からも慕われたし、人並み以上に叙情豊かな歌を詠むことが出来た。欲しいものはなんだって手に入れてやった。なのに、どうしても欲しいものだけは手から零れ落ちていった。まるで使い古した着物のように道端の泥濘[ぬかるみ]に打ち捨てられた。
 冬の残り香を蓄えたかのように冷たい壁に頭をごんごんっとぶつけて、癒えぬ悲しみを呑み下した。今更、詮無いことなのだ。あれから何年が経ったと思っている、と自分に云い聞かせる。恨み妬んだ奴らは、どいつもこいつも骨と塵になっている。土に紛れ風に攫われてしまっている。
 それでも、とろけた闇は心を取り巻いて離れず、思考は遥かな忘却の旅から戻ってこなかった。

「……あなた様」
 と独り言が漏れた。はっと顔を上げて口を塞いだ。
 今、私は誰を呼んだ? ――違う違う、私は誰を求めた?
 どかんっと頭を壁に叩きつけた。思い出すな、振り返るんじゃない、と無言の叫びを響かせて、パルスィは立ち上がった。もう好いだろう。こんな場所にいるから悪いのだ。歩けば好い。走れば好い。思考が紛れてくれる。月の光が思い出を溶かしてくれる。
 血の滲んだ後頭部をさすりながら、パルスィは板戸を開けた。
 目の前に人影が立っていた。屋敷で出くわしたのと同じ人物だった。
 突然のことに悲鳴を上げる間もなく、パルスィは口を塞がれ床に背中を押しつけられた。
「ようやく捕まえた――不届きな盗人め」
 かがり火と太刀を手に持って、男はこちらを見下ろしていた。息を呑む音が聞こえた。
「お……女子か。その痩せた身で、私の屋敷に忍び込むとは、大したものだ」
 パルスィは五寸釘を忍ばせて首だけで振り向いた。ものすげえ虫の居所が悪かった。こいつの顔面を二目に出来ないくらいぐしゃぐしゃに引っ掻いてやってから、鍋に放り込んで喰っちまおうと思った。

 月光とかがり火とが、男の顔をハッキリと映し上げた。
 パルスィの思考はまたも数百年の時を軽々と飛び越えた。決して忘れはしない顔だ。
「――源、頼光!」
 跳ね起きて鎧の胸板を掴みあげた。男の顔は驚愕で歪んでいた。目玉が飛びださんばかりに見開かれた。
 パルスィはまばたきも忘れて武者を見つめた。緑色の瞳が業火の如く燃え盛っているのが、はっきりと自覚できた。
 五寸釘で心臓を貫いてやろうと思ったが、その前に世界が一回転した。またも背中を床に打ちつけられたパルスィは、唾[つばき]を吐いて呻いた。
「お前、いや、君は……」
 男は狼狽しているようだった。パルスィは積年の怨みを込めて睨みあげた。
「殺せるもんなら殺してみな。末代まで祟ってやるよ」
 顎が痛くなるくらいに歯を食いしばる。
 男が一歩、近づく。手にした太刀の刃が月夜に妖しくきらめいた。
 パルスィは男の動きを見逃すまいと息を詰めた。

「美しい」
「――は?」
「君は、美しい」
「うつ――え、なに、へぁ?」
「やべぇ。こいつぁ、マジやっべぇ……うわわっ、どうしよう。ずっきゅんマイハート・キタコレ――げふんげふんっ、こんな美しい女子が盗人だなんて、世の中、狂ってやがる」
 パルスィは動けなかった。あまりに予想外で全身から力が抜けていた。
 男は少年のごとく目を輝かせて、煤で汚れた顔を覗き込んできた。
「そうだ――なんなら下女として取り立ててやろう。なに、私から云ってやれば下の者からも文句は出まい。盗みなんか止めて、私のもとに来るが好いさ」
 パルスィの硬直が溶けたのはその瞬間だった。咄嗟に男の手を払いのけると鼻先に五寸釘を突き付けた。男は顔を緊張させたが声を上げたりはしなかった。肝が据わっている。位の高い歴戦の武士なのだろう。
 精一杯の眼力を込めて、パルスィは武者を睨みつけた。
「女を馬鹿にするんじゃないわよ。あんたの下でこき使われるくらいなら、乞食畜生になった方がマシだわ」
 パルスィは釘を振るった。目ん玉を抉り抜いてやろうと思ったのだが、男は野生の反射神経で身をかわした。しかしパルスィは寸暇を挟まず、額から血を流してのけ反った男の鎧に渾身の蹴りを見舞ってやった。
 たまらず倒れ伏した武者の首から翡翠の勾玉を引きちぎる。
「これ頂いてくわ。少しは物になるでしょう」
「ま、待て――」
 男の首に右足を落っことした。苦悶の呻きを漏らして丸まった野郎の顎を引っ掴んで、顔を振り向かせる。
 ……似ている。似ているが、昔年の仇ではなかった。当たり前だ。朝家の守護はとっくの昔に風になったんだから。
 パルスィは手を離して男を解放し、一発だけ蹴りを入れてやってから吐き捨てるように云った。
「いい? 今度、人を馬鹿にするようなこと云ったら、コレで全身を穴だらけにしてやるから覚悟することね」
 何やら訴えている声を無視して、パルスィは闇夜に紛れて走った。一度も振り返ることはしなかった。

 どれだけ懸命に走っても、「美しい」とか抜かしやがった男の呆けた顔が心から離れなかった。
 憎き怨みのあまり醜い鬼女と成り果ててしまった自分が、美しいはずなんてないのに――。
 何処とも知れぬ小川で立ち止まって顔を洗ったとき、パルスィは少しだけ泣いた。

 ほんの、少しだけ。


□     □     □


 源頼政の郎党・猪早太が書簡を携えて若様の屋敷を訪れたのは、その翌朝のことである。

 “若様”といっても、それは主君の嫡男を敬って呼んでいるだけで、当人は御年五十四を数えた堂々たる摂津源氏の大家督であった。出家した父親に代わって朝廷に出向き、平家の錚々[そうそう]たる顔ぶれにも臆せず、大内守護の大任を負って内裏を警護するという決して楽とは云えないお仕事である。
 公卿に昇進するまでは鵺ちゃんを諦められぬ、と嘆いた主君が現役で踏ん張ったおかげで、若様が家督を継がれたのはつい去年のことである。いつまでも“お坊ちゃん”扱いされてはたまらぬと憤激していただけに、唐突に父親の出家の知らせを受け取った際は驚きと嬉しさと責任感で手の付けられぬ有り様であった。
 長年この不器用な親子の橋渡しを担ってきた早太は、その時は正直ほっとした。いつの間にかシツコイ胃潰瘍も完治していた。


「なんだ、この騒ぎは……」
 早太はいきり立つ愛馬を宥めながら、眉をひそめた。
 正門は何事もないかのような静けさだったが、いざ中門を潜れば右往左往する人々で屋敷はごった返していた。
 近くの下男に問い質すと恐懼して叩頭しながら答えてきた。なんでも昨夜、盗人が入ったらしい。早太は仰天のあまり卒倒しかけたが危うく踏みこたえた。そんな話は聞いていない。身内の失態を漏らしたくなかったのだろうか。強情な若様らしい。とにかくお目通りを、と早太は急いで取り次いだ。

「猪鼻が名代、猪早太、参りました」
 明るい日中につき、寝殿は仕切りが取り払われて開放的であった。その奥の几帳で区切られた部屋に、若様こと源仲綱[なかつな]は座していた。促されて恐縮しながら頭を上げた早太は、思わず「アッ」と声を上げた。
「わ、若様! その傷は――!」
「大した傷ではない。名誉の負傷みたいなもんだ」
「しかし……」
 早太は目を見張った。仲綱の額には真新しい包帯が巻きつけられていたのである。
 無精髭を摩りながら、時おり苦しげな咳を挟む若様。喉が痛むらしい。
「げふんっ――父上からこのことを?」
「いえ、従三位より書簡を授かって参りましたところを、偶然」
「煩わせてはなるまい。父上には黙っていろ」
 ははっ、と声を落っことしてから早太はまたも驚いた。寝殿の中央の板敷に大穴が空いているのが几帳の合間から透けて見えた。巨大なモグラが餌を求めて飛びだしてきたかのようであった。
「これはこれは、とんでもない賊もいたものですな。警備の者は何を……」
「女子が三人連れだったそうだぞ」
 今度こそ返事も出来なかった。昨日の昼のスキマ妖怪といい、鵺といい、佐藤様の娘といい、最近はとんでもねぇ女が多すぎると思った。
「……物の怪の類でありましょうか。よもや、あのような穴を穿つとは」
「あんな美しい女子が物の怪のはずがない。いや美しいからこそ物の怪なのやもしれんな。耳もとんがっていたし」

 早太は無言で再び目線を上げた。驚いたからではない。強烈な既視感のあまり勝手に身体が動いたのである。
「な、仲綱様……?」
 思わず名前で呼びながら、主君の嫡男を仰ぎ見た。若様は顔をそらして、ぶつぶつと何事か呟いていた。四十歳くらい若返って初々しい少年のように見えるのは気のせいであろうか。
 いや気のせいではあるまい。何故なら二十年くらい前に、今と同じように落ち着きなく頭を抱え込んだ男を早太は知っていたからである。
「なぁ、早太……」
 仲綱はおもむろに弱々しい声で云った。
「私は――どうやら“恋”をしてしまったらしい」

 ……親が親なら、子もまた子。早太はその言葉を思い返しながら、さてどう答えたものかと頭を悩ませた。
 これは――胃潰瘍が再発するやもしれませぬ。



【第四幕 ~ 洗濯をして部屋を出る。】



「おぬしら、正真正銘の大バカじゃ」
「うっせぇ狸ババァ。こちとら必死こいて逃げたんだぞ、少しは労ってくれても好いんじゃない?」
「お宝を盗んで来たなら考えてやらんでもない。手ぶらで逃げ帰ってきたから大バカだと云っとるんじゃ」
 二ッ岩マミゾウの言葉に、黒谷ヤマメは組んでいた腕を解いた。
「武士の鼻タレ連中に一泡ふかせてやったんだ。いわば英雄さ。敬意を払ってもらいたいね」
「単に和を乱す輩は英雄とは呼ばんわ。そういうのを厄介者というんじゃ」
「英雄は厄介者の代名詞だろうが」
「上手いこと云うの。じゃが妖怪は英雄には成り得ぬ。英雄たるは常に人間の側じゃ。そうじゃろう土蜘蛛?」
「なんだい、あの野郎のことを云ってるのか?」
 ヤマメが首元の傷痕をさすりながら云った。つられてキスメも足の古傷を検める。

 佐渡の化け狸はカッカと笑って頷いた。
「そうじゃとも。おぬしらは何百年も昔の恨みを、仇の子孫にぶつけておるんじゃ。これでは、あの世で頼光公も笑っておるじゃろうよ」
「話が見えないね。いったい何を云いたいんだい」
 ヤマメは囲炉裏にぶら下がった鍋を無意味に掻きまわす。
 マミゾウは意外そうに目蓋を持ち上げた。
「なんじゃ、おぬしらこそ何を云っておるんじゃ。つまりは、そういうことじゃよ」
 ヤマメとキスメは顔を見合わせた。それを見たマミゾウが首をがくりと落とす。
「なんも知らんかったんかい。大した悪運じゃの……よいか、おぬしらが昨夜に忍び込んだ場所は、源頼光が子孫・仲綱の屋敷じゃよ」
 ヤマメが大げさにのけ反った。キスメも何となく真似してのけ反ってみた。
「えらい騒ぎになっておるようじゃぞ。式に調べさせたらこれじゃ。女子三人と聞けば、おぬしらに決まっておる」
「せいせいせいせい! ――うへぇ、マジかい。流石は私。水橋の犠牲は無駄じゃなかったってことか」
「なんじゃ、囮にしたのか?」
「まっさか、高貴なる土蜘蛛様がンなことするわけないだろ。あの顔面イズ直角鬼瓦が勝手にはぐれただけさ」
 マミゾウが「何が高貴だか」とぼやいたが、ヤマメは当然のごとく無視した。


 昨夜の逃走劇の後、二人はマミゾウの隠れ家である茶屋に逃げ込んでいた。隣には立派な賭場も備え付けられている、いわば平安のアンダーグラウンドである。そこで試しにと参加したヤマメが嵌められて大金を巻き上げられてしまい、マミゾウに多額の借金を作っちまったのが事の発端であった。
 平安京に戻ってきてからというもの、妖怪の復権を目指すべくヤマメは壮大なるイタズラ合戦に邁進した。餓死者の皮を剥がして貴族の屋敷の外壁に貼りつけたり、屁が止まらない疫病を宮中で大流行させたり、連歌会で賑わっている一座のど真ん中に糞爆弾を放り込んだりした。でもって、いつも検非違使の連中に追いかけ回されて終わった。

 そうこうしているうちに時代は移り変わり、三人の妖力は川から干上がる水のごとく薄れた。佐渡からやって来た化け狸に出会わなければ――「時代に抗ってはならん」と諭されなければ、ヤマメは今度こそ封印されてしまっていたかもしれない。
 元来が無類の面白主義であるキスメは、ヤマメの「復権」という名の嫌がらせが終わったことを寂しく思ったが、退治されてまで見たいとは思わなかったので大人しく忠告に従った。怪異の類ではなく戦災への不安が人々を苦しませる世の中だからこそ、ヤマメの焦る気持ちは、キスメには痛いほど分かった。
 まだ私の時代は終わっていない。まだ私は消えたくないんだ、と――。


「……どうじゃ、ぬえの様子は?」
「見た目だけじゃ流石になんとも云えないね。ま、このヤマメ様に任せると好いさ」
 奥の部屋に案内されたキスメとヤマメは、そこで妖怪鵺と出くわした。
 見た目には訳の分からん羽の生えた少女にしか見えないが、それは自分たちも似たようなもんなので、キスメは特に感想は持たなかった。だが、自分たちと比べて発散させている妖気の層が更に薄いように感じられた。
 思わず手のひらを見つめてしまった。散りゆく桜や溶けゆく雪を見ていると、儚い気持ちに襲われて自分を見失いかけるのと同じように、鵺という少女を見ていると自分の妖怪としての存在が薄らいでいくように感じられてしまうのだ。

 キスメは腕組みを解いて桶の縁に手をかけた。ヤマメも珍しく神妙な顔をしている。
「なぁ、化け狸。ひとつ訊かせてもらえないかい?」
「なんじゃ。答えられることなら何でも訊くが好いぞ」
 ヤマメは麻の布団に包まっている鵺を指さした。
「こいつ本当に妖怪かい? 本当に、あの鵺かい? 奇形の人間なんかじゃないよね?」
「もちろんじゃ。儂が嘘をつく必要が何処にある」
「なら好いんだけどね、でもなぁ……」
 頭を掻いて困惑したヤマメだったが、マミゾウは目を逸らしてそれ以上は口を開かない。
 キスメは桶から人肉の干物を取り出してスルメのように噛みながら、ふぅんと頷いた。
「二ッ岩の旦那、鵺って奴は私らみたいに肉から生まれた類じゃないみたいだね」
「そうじゃ。儂は妖獣だが、ぬえは違う」
「いわゆる精神体ってやつだね。なるほど、読めたぞ」
 キスメはマミゾウに目くばせした。
 時代に抗うような真似はよせ、と云っておきながら、最も時代の変遷を憂いているのはこの化け狸の方じゃなかろうか、と思う。

「ちょいと血を貰うよ、その方が手っ取り早いからね」
「うむ、吸い過ぎんようにしてくりゃれ」
「血吸いコウモリじゃあるまいし、味を診るだけだよ。心配すんな大将」
 マミゾウは「すまぬ」と礼を云って鵺を抱き起こした。封獣ぬえは眠っていた。苦痛に満ちた表情、さぞ辛い夢を見ているのだろう。
 ぬえの首筋へ顔を近づけるヤマメの背中を見る。いつも喧嘩ばかりしているが、パルスィもヤマメも夢を見ている時の悲しそうな表情は同じなのだ。
「――ぁっ」
 と声を転がして、ぬえがぴくりと震えた。マミゾウが気遣わしげに身体を支えていた。春になり切らぬ今の季節では、麻の布団は寒いだろう。朝と麻を掛詞[かけことば]に、何か歌の一句でも作れまいか、とキスメは頭を巡らせたりしてみた。
 ヤマメは酒の出来ばえを検める職人のごとくぬえの血を舌で転がしてから、喉を鳴らして呑み込んだ。
「……ど、どんな塩梅じゃ?」
 ヤマメは渋い顔で振り返る。
「うーん、少なくとも病気じゃない。土蜘蛛の私が云うんだから間違いないよ。こいつは何の病にも冒されちゃいない。健康なもんさ――ただねぇ……」
「ただ、なんじゃ?」
「薄い」
 とヤマメは舌を出した。マミゾウが身を乗り出す。
「うすい、とは?」
「そのまんまの意味さ。妖怪の血にしてはどうにも味が薄いんだ。そこらの雑魚よりも――こりゃ危ういね」
 化け狸は焦げ茶色の瞳を騒がせて、ヤマメの言葉を吟味しているように見えた。
 やがて、ため息をひとつ落っことしてから、獣の耳を動かした。
「そうかい……よう分かった。礼を云うぞ、土蜘蛛」
「ヤマメで好いってば。私もマミゾウって呼んでやるから」
「ありがとうな」
 そう云って頭を下げた親分の横顔は、口調相応に老けてみえた。
 部屋には暫くの間、ぬえの不規則で掠れた息遣いだけが木霊していた。

「キスメちゃん」
「なに、ヤマメちゃん」
 検非違使がいないのを確認してからマミゾウの隠れ家を出て、五条を横切り西に向かう。桶から出られないキスメのために、ヤマメは桶を抱えて歩いてくれていた。ぶっ飛んだ思考に垣間見えるヤマメの優しさが、キスメは割と好きだった。
「……私さぁ、嘘ついちゃったよ」
「へぇ」
 ヤマメは頭を掻きながら云った。困った時や悩んでいる時はすぐに髪を掻きむしるのがヤマメの癖だ。
「それ、さっきの血のことでしょ?」
「うん――薄いなんてもんじゃない。ほとんどゼロだよ。人間と変わらん。あんな妖力で、しかも精神から生まれた妖怪の癖に、どうやって消えずに生きていられるのか不思議なくらいさ」
「見上げた根性じゃないか。私らも見習うべきかねぇ」
「違いないね……さてと、水橋の奴と合流しなきゃあ」
 パルパル、ちゃんと逃げ切ったかな、とキスメは声には出さずに口を動かした。

 太陽は既に天頂を越えようとしていた。これなら春の終わりも、さほど遠い時分の話ではないだろう。
 春は出会いの季節であると同時に、別れの季節でもある……。


□     □     □


「紫様、紫様」
「ぬぁ~によぅ、藍……もうちょっと、もうちょっと寝かせて頂戴な」
「申し訳ありません、折り入ってお願いがございまして」
「お願いだぁ? おととい来やがれ、この××××野郎っ」
 また酔っておられるな、と八雲藍は肩を落とした。


 九尾の妖狐たる自分が“八雲藍”という名を頂いて紫様の式神となってから、すでに数十年が経つ。
 ちょいとしたお遊びの積もりで上皇をたぶらかしてやったら、ある妖怪の密告のせいでスッパテンコーよろしく化けの皮を剥がされてしまい都を追われたのは記憶に生々しい。那須野の地に伏してより後、討伐軍に包囲されて危うく退治されかけたところを紫様に救って頂いたのである。以後、藍は命の恩人であり大妖怪でもある紫様に絶対の服従を誓った――。
 とまぁ、ここまで話しちまえば美談だが、その後の藍の苦労たるや殺生石を担いで富士を登るがごとしであった。
 幻想郷という辺鄙な土地へ忘れられた妖怪を呼び込む手伝いから始まり、演算や結界術の修行、果ては主人の身の周りの世話までする羽目になった。家事のひとつも知らなかった藍は、紫に手もぎ足もぎ生活の知恵を叩き込まれた。
 紫様から与えられた問題式を解答するたびに藍は己の未熟さを恥じていた。一刻も早くこの方のお役に立ちたいものだ、と考えているのだが、今のところは紫様の手を煩わせるばかりであった。
 いずれ時代が移ろい幻想が消え去れば、郷の隔離も考えなければなるまい――それが主人の口癖であった。その“隔離”とやらが、つまりはどういうことを指しているのかイマイチ判然としなかったが、とんでもねぇ大仕事になりそうなことだけは確かであった。そのためにも自分の力が必要とされているのだと察すると、やる気はいよいよ高まった。


 そんな自分がこんなお願いをするなんて、式としては出過ぎた真似かもしれぬ。
 しかし辺境の地に来た今になって、藍の心はどうしようもないほどに揺れていた。
「紫様、お食事中に失礼いたします」
「このお味噌汁、上出来よ。あなたもコツを掴んできたようね」
「お褒めの言葉、ありがとうございます。それで――」
「漬け物も悪くないわ。ムラはあるけど、ちゃんと教えた通りにやっているようね」
「はい、紫様。お代わりもございます。お願いと申しますのは――」
 そこまで云ってから藍は口をつぐんだ。箸を置いた主人の顔が冷奴のごとく冷え込んでいた。
「分かっているわ。都のことでしょう?」
「その通りです。どうしても、あの姿を見納めておきたいのです」
「気持ちは分からないでもないけど、今が一番忙しい時期なのよ」
 えぇ、と藍は頷いた。昼過ぎまで爆睡していた奴の云う台詞じゃねぇだろ、と突っ込みを入れるのを辛うじて堪えた。
 紫も頷いてから食事を再開した。差し出された茶碗に飯をよそう。
 とにかく――好いお返事を頂けるまで頑張ろう。

「ごちそうさま、美味しかったわよ」
「いえ、まだまだです。お茶をご用意いたします」
「淹れ終わったら準備しときなさい。待たされるのは御免よ」
「は、準備というと、おやつでしょうか?」
 紫は手で口元を押さえて噴き出した。主人の笑顔を見たのは久々であった。
「ちっがうわよ、藍ったらまったく。行きたいんでしょ、都。スキマを使えばアッと云う間だから」
 藍は食器の乗った膳を取り落としかけた。
「で、ですが紫様、先程は――」
「これが見納めだしね。あなたには苦労をかけっぱなしだったから。主人としては、その、労ってやりたい気持ちもあるわけよ。私のことは心配しないで好いから」
 紫様、という声は喉の奥で潰れた。
「……ありがとうございます」
「思い出というのは厄介なものよねぇ。振り返っちゃ駄目って思っていても、寄せては返す波みたいに心を潮で騒がせてくる。海に帰りたいってね」
「何ですそれは。歌の引用ですか?」
「いやね、長い間生きてると変な哲学を持っちゃうってだけの話よ」
 はぁ、と生返事をして台所へと足を返しがけたが、紫様が呼び止めてきた。
「都に戻るついでに、幽々子の所へも顔を出してあげて頂戴ね、藍」
 分かりました、と振り返らずに返事する。幽々子と口にする時の主人の顔を見るだけの勇気が、今の自分にはなかった。

 庭へと出て日本の原風景を眺める。見事なまでの桜の海である。
 この幻想郷は自然の宝庫だ。妖怪と退治屋がそれぞれの本分を賭けて争い合っている今も、季節は巡り移ろい続けてゆく。
 幻想郷という東の方の地がいったい日本国の何処に位置しているのか、藍は詳しくは知らない。星の位置と風向きから概算は出来るが、そこから割り出した数字がどれくらい信用の置けるものかは疑わしい。
 この地で妖怪として、式神として生きるということ。悪くはない。文句もない。しかしあの喧騒が懐かしい。そう、寄せては返す波のように。
 もしかしたら紫様にも帰りたい場所があるのやもしれぬ、と考えたがすぐに取りやめた。主人の心を覗き見するなどもってのほかだ。
 取り敢えず洗濯物を取り入れるところから始めようか、と藍はいそいそと作業を始めた。



【第五幕 ~ 親子と姉妹、その明暗。】



「鴨川ぁ~にぃ~流るるぅ~もみじ葉はぁ~、ひえァー、はっけよいやよいや!」
 ところ変わって摂津国・福原の屋敷からは、陽気でお茶目で能天気な今様[いまよう]が鳴り響いていた。
 平清盛が三男・平宗盛[むねもり]は、まず自分の心臓がちゃんと動作しているかを確かめてから、威儀を正して父の部屋に入った。朝っぱらから都より馬を飛ばして半日、ようやくの到着であった。
「失礼――ちょっと話があるんだ、父さん」
 父は即興の踊りを止め、人払いをしてから胡坐に座った。
「なんだ、誰かと思ったら宗盛か。“父さん”と呼ぶな、“父上”と呼べ。縁起でもない」
「はい、父上。早速ですが、ご報告まで」
 清盛は呑気さと腹黒さが絶妙な加減で混じり合った笑顔で答えた。
「まぁまぁ、そう急ぐな。いま茶を持ってこさせるからな。おぉい、誰かぁ、新鮮な茶を持ってこーい!」
「そんな場合ではありません。話というのは――」
「これを見てくれ。わしの祖父・正盛が源義親[よしちか]を討伐した際に着用したという由緒正しき鎧だ――こいつを、どう思う?」
「すごく……大きいです……って違う違う! 武具甲冑の自慢は止めて下さい。折り入っての話というのは――」
「鴨川ぁ~にぃ~流るるぅ~……」
「今様も止めて下さい。あのですね、源三位頼政が嫡男・仲綱に関してご報告をしに参上した次第で」
「――ふん、お前が直々に報告しにくる時は、特に改まって敬語なんぞ使いよる時は、大抵はわしを悩ませるロクでもない話ばかりだ」

 宗盛は清盛のあんまりな言葉に押し黙った。少なくともここ数年は父を悩ませるようなことをした覚えはない。むしろ今までの万事につけて面倒臭がりだった自分という殻を脱ぎ捨てて、誠心誠意この父のために尽くしてきたつもりである。要するに、前年に他界した長男と比べて明らかにデキの悪い三男坊に報告されること自体が、父にとっては既に悩ましいことなのだ。
 この男が父親でさえなければ三十回くらいは殺しているだろう、と宗盛は思った。

 亡くなった兄の重盛[しげもり]は、まったく辛抱の塊であった。むしろ辛抱の権化であったと云っても好い。
 父と後白河院の調停役として板挟みになりながらも、健気に両者の間を取り持ち続けた。しかし去る安元の強訴と鹿ケ谷の謀議に続く一連の政変によって武士にとっては命よりも大事な面目を失い、政治的地位が失墜した。それでやる気を失ってしまったのか、一時は内大臣の辞任まで申し出た。で、以降急速に体調を崩し胃潰瘍だか腫瘍だかであっけなく死んでしまった。
 当然の成り行き上、重盛が背負っていた平氏の棟梁としての全責任は、今まで安逸を貪っていた宗盛の一身にズドンと降りかかってきたのである。
 父は真面目かつ清廉な性格と、呑気かつ腹黒な性格の両面を併せ持っていた。その前者のみを兄は引き継いで鼻持ちならないクソ真面目になり、自分は後者だけを受け継いでどうしようもないロクデナシになった。

 そんでもって先年には、父はクーデターを起こして後白河院を幽閉してしまった。
 何の相談もない突然の珍事に宗盛は寿命が三年は縮まった思いがした。とるもの取り敢えず京に駆け付けると、父は「後始末はヨロシク」と福原に引き上げてしまった。その時の会話のあらましはこうである。

『これは一体どういうことですか、父さん』
『おぉー、好いところに来てくれたな、宗盛。それでは早速、働いてもらうぞ』
『えっ――あ、えぇ、私に出来ることがあったら、なんでも云ってください』
『違うぞ、宗盛。お前が出来ることをするんじゃない。すべてお前の責任でやるんだ』

 人類史上最低の父親だと宗盛は思った。こんな親と長く付き合わずに、さっさとくたばった次男の基盛[もともり]は実に幸せである。兄上が胃潰瘍で死んだのもこれならそりゃ頷けるわい――そう気づいた時には全てが遅かった。
 宗盛は心のうちで「恨まんでくれろ」と詫びながら、クーデターの事後処理として院近臣の処罰に当たった。
 その際に所領を没収された者の中に、以仁王[もちひとおう]の名前があった。


「それで源仲綱に関して、悪い噂を耳にしまして」
「仲綱がどうした、父親のロリコンが伝染して女子を強姦でもしたのかね」
「いえ、そうではありません」
 宗盛は答えながら父の表情をじっと窺った。
「――昨日の夜、その屋敷に賊が入りました。仲綱は乱闘で頭を負傷したそうです。あなたの指示ですね、六波羅殿」
 その途端、父は表情を引き締めて猛然と立ち上がった。しかし老体で無理に胡坐をかいていたせいで足が痺れたのか、勢い余ってドングリのごとく前方へ転がった。
「大丈夫ですか、父さん――じゃなかった、父上」
 父は顔にドロドロとスダレを垂らしながら起き上がった。
「な、なんだと! わしは知らん! わしはとっくに出家して政界からは身を引いておる」
「陰から我々を操っておきながら、よくもまぁそんなことが云えたもんですね――この際ハッキリと云っておきます。今の平安京には、あなたを除いて悪人はただの一人もいない。あの鹿ケ谷の政変だって全ては父上の自作自演だったと朝廷では専らの噂ですよ」
 宗盛は怒りのあまり、激しく父を指弾した。
「なんと酷いことを云うのだ、宗盛……」
「はいはい、なんべんでも云ってあげますとも。何の罪もない院近臣を残らず処罰しておいて、帝への謀反の疑いアリだとか何だとか、そういうとんでもねぇ筋書きは、コペルニクスもアインシュタインもいない十二世紀の日本国では、あなたしか考えつかないじゃないですか!」
「知らーんっ! 知らんと云ったら知らん! 絶対にわしじゃないっ!」
 しばらくの間、親子の激しい罵り合いが流れ落ちる滝のごとく座敷に迸[ほとばし]った。互いが互いに相手の腹黒さを先刻ご承知済みしているために、罵り言葉ひとつにも工夫と迫力が窺えた。
 しかし親子喧嘩であるから「このロクデナシ!」と叫べば「てめぇはロクデナシの親」であり、「このペテン野郎!」と罵れば「てめぇはペテンの息子」であった。ましてや「ファッキン・ユー!」と胸倉を掴み合ったとたん、二人はすこぶる空しい気持ちになった。誰が何と云おうが、親子はファックの結果に相違なかった。

「愛する我が子よ、いい加減こんな不毛な対話は止めよう」
「……そうですね」
 二人はシチリアンのごとく抱き合って頬を寄せ、ひそひそと囁き合った。
「仲綱の件は分かったが、それだけならお前が直々に来る必要はあるまい。本当の要件は別にあるのだろう?」
 流石は太政大臣まで成り上がった天下無双の父である、と宗盛は尊敬した。
「その通りで……近頃、以仁王様の周辺で不審な動きがあります。よもや平家打倒を企てておるのやも」
 父は「ふむ」と事も無げに思案してみせた。
「ついでに所領を召し上げちまったのは不味かったか。まぁ親王宣下も受けられぬ落ちこぼれのやることだ、気にする必要はあるまいて。もし謀反が起きれば、それならそれで叩き潰して流罪に処してやれば好い」
 以仁王の皇位継承の望みを絶った張本人は、そう云って高らかに笑った。やはり呑気さと腹黒さが絶妙に混じり合った奇跡的な笑い声であった。
 宗盛は自分の心臓に対する自信が無くなり、父の腕のなかで俯いた。
 この男にはついてゆけぬ――何度目かも分からぬ嘆息を、胸の奥で零しながら。


□     □     □


 二ッ岩マミゾウに諭されてから丸一日が経った今も、“さとり”は三条の橋の下に隠れていた。
 何のことはない、長いこと自分の城に閉じこもっていたために、抜け出そうと思っても足がすくんでしまうのである。

 隠れ住んでいた山を追い出されてから幾星霜、あちこちに放浪の旅を重ねてきたさとりは、心の底から疲れ切っていた。人間の死体を集めて現実逃避するくらいしか、憔悴した身で出来ることはなかった。そんな自分が今さら都を離れたところで、どうやって生きてゆけば好いのだろう。
 マミゾウのような妖怪もいるのだ、それは嬉しいことなのだが、今更に自分の生き方を変えるのは難しいことだった。取り敢えずコレクションしていた死体を全て川下へと流してみた。それでも腐臭は染み付いて消えなかった。まるで私の心のようだ、とさとりは笑った。

 自分が安心して過ごせる居場所は、果たしてこの世にあるのだろうか。
 日差しを避けて橋の下で膝を抱えながら、さとりは自問した。覚妖怪として生きるということ、一人の心を持った存在として生きるということ、これを両立させるのは非常に難しい。なんで私は覚りとして生まれてきたのだろう、と誰にもぶつけることの出来ない問いを重ねてきた。
 救いがたい不器用で、今まで何度も損を被った。どっちつかずの心を抱えたまま、けれど最後の一線だけは越えることが出来なくて、なんだかんだでここまで生きてきた。そして、これからも息災で生きてゆける自信はない。
 あるいは、自分も最も手っ取り早い解決を図って楽になるべきなのだろうか。


「あ――いたいた。お姉ちゃん、ただいま」
「……こいし、おかえりなさい」
 この妹のように。
 こいしは緑がかった銀髪を揺らして、橋の欄干から飛び降りた。迫撃弾が直撃したみたいな水飛沫が噴き上がって、さとりを散々に濡らした。髪を掻き上げて何回かまばたきをしてから、さとりは妹を睨みつけた。
「今度は何処に行ってたの。心配したわ」
 妹はボロボロの麻の着物を水びたしにして笑った。きゃらきゃらと、きゃらきゃらと。
「あちこち適当に――ねぇねぇ、そんなことよりさ、どうしちゃったの。すっかり綺麗になっちゃってるけど、鉄砲水にでも遭ったの?」
「ここを引き払うのよ。最近騒がしくなってきたし、死体集めも飽きてきたところだったし」
 こいしは興味なさげに「ふぅん」と云ってのけた。
「お姉ちゃん、何処へ行ってもおんなじだと思うよ。石を投げられるだけなのに、まったく懲りないのね」
「もうちょっとだけ心ってやつを信じてみようと思ったの、それだけ」
 妹は途端に噴き出した。よく見ると着物のあちこちに血糊がついていた。
「ばっかなお姉ちゃん。それ何回目? どんだけ打ちのめされても壊れない。ゴキブリみたいにしぶといね、ほんと」
 心ほどあやふやなものなんてないのに、と妹は笑って片づける……姉の妹を心配する気持ちすらも、曖昧だと云うのだろうか、この子は。訊いても答えてはくれないだろうけど。

 こいしは閉じられた第三の瞳を撫でた。
「あーぁ、可哀想なお姉ちゃん」
 さとりは膝を抱えて橋脚にもたれた姿勢のまま、こいしを見上げていた。
「可哀想な可哀想なお姉ちゃん――お姉ちゃんは、生きることに疲れているのです。だから心の底から安らげる場所を探しているのです。本当に安らげる場所は自分の心の奥の奥にしかないってことに気づけないでいるのです」
 また始まった、とさとりは耳を塞ぎたい衝動を堪えた。
 こいしは懐から取り出した血の滴る人肉を噛み千切った。心を喰らうことが出来ないために妹は肉へと手を出したのだ。それだけのこと、それだけのことなのに、妹が地の果てまで遠ざかってしまった気がするのは何故だろう。
「……ねぇ、美味しいよ、これ」
 赤ん坊の腐った腕の骨肉をグリルチキンのごとく美味しそうにしゃぶりながら、こいしは近づいてきた。さとりは抵抗も出来ずに組み伏せられてしまった。川のせせらぎが、こいしの息遣いに重なった。
「食べれば好いのに。閉じちゃえば好いのに。それが本当の妖怪の生き方なんだよ。こんな目がある方がおかしいんだよ――そう思わない? 食べてくれないなら私、つぎ何するか分かんないよ?」
 さとりは呻いた。こいしの膝頭が腹にめり込んでいた。
「こ、こいし……」
「なぁに?」
「私達が生まれてきた意味は、必ずあるわ。どんなに石を投げられても、それでも信じなきゃ駄目なのよ、それでも」
 こいしの笑みが、潮が引くようにすぅっと薄まった。嵐が去った後の海のように無表情になった。握りつぶさんばかりに第三の目を掴まれたさとりは、苦痛のあまり短い悲鳴を上げた。
「そう信じないと、やっていけないだけでしょ」
 唇を耳元に寄せて、こいしはそう囁いた。
「――ほんと、ばっかみたい」



【第六幕 ~ 桜を映した鏡の行方】



「小野塚、これは一体どういうことですか?」
「いやまぁ、その、ご覧の通りでございます、閻魔様」
「私は魂を刈ってこいとは云いましたが、肉体ごとお持ち帰りしなさいとは一言も云ってませんよ。公明正大な裁判をするつもりが、いきなり人肉パーティーに様変わりじゃないですか」
 小野塚小町は「たはは」と笑って新しい上司の機嫌を取ろうとしたが、逆効果だった。

 顕界の人口増加への対策として是非曲直庁が設立されたのは、つい最近のことである。
 それに伴い全国から志の高いお地蔵さんが閻魔として登用され、各地に派遣された。小野塚小町の上司だった大閻魔は出世して大陸の担当へ回されてしまい、代わりにやって来たのが目の前におわします四季映姫であった。
 閻魔とは思えぬほどに前の上司はサボり癖が抜けなかった。それなのに出世できたのは、ひとえに天佑かと思われるほどに要領が好かったのと、何故か憎めない得な性格であったことが功を奏したからである。
 それに比べて新しく赴任した四季映姫は有志たる地蔵の例に漏れず、頭にクソの付くほどに真面目な性格であった。真面目ゆえに、上に賄賂のひとつも贈らない。コネのひとつも作らない。だから、いくら能力が高く職務に忠実でも、一向に辺境の島国の担当のまま出世できないでいる。それすら頓着せずに職務に邁進し続けるのだから、いかに性根が真っ直ぐなのかが知れるというもんだ。

 小町はお迎え担当として、寿命が尽きながら顕界に留まる魂を刈り取り、船頭の死神のもとへ送り届ける忙しい毎日を送っていた。
 そんな中、映姫より新しい辞令が下った。前の閻魔の裁判記録を洗っていたところ、寿命を終えているにもかかわらず生き永らえている魂をいくつか発見した。その魂を刈ってこいとのご命令である。
 寿命を迎えてなお生きているとすれば、その正体は大方が仙人である。久々に本格的な仕事が始まるね、と武者震いをしながら小町は映姫より渡された“裁判漏れリスト”に目を通した。
 その中に、藤原妹紅の名前はあった。


 映姫は組んでいた両手から頭を上げ、深々と長い息をついてから見つめてきた。小町は背筋を伸ばして被告人たる少女の判決を待った。
「信じられない……蓬莱の薬が実在していたなんて」
「不老不死になれる薬、ですか。大陸の皇帝が喜びそうな話ですけど、本当にそんなもんがあるんですか?」
「事実、目の前にいるんだから疑いようがないわ……厳密には肉体ではなく魂に存在の根っこを定めることで、輪廻から強制的に外れるカラクリなのです。朽ちる肉体ではなく、滅びぬ魂に……最も手っとり早い、人間の妖怪化といったところでしょうか」
「ふむぅ、そうなっちゃ私らは商売あがったりですねぇ」
「笑い事じゃありませんよ、小野塚」
 はい、と云って小町は笑うのを止めた。
 その時ようやく白髪の少女が目を覚ましたらしく、首を振ってから被告人席にうつ伏していた身体を起こした。
 映姫と目を合わせて頷き合うと、少女の肩を叩いてやった。
「お目覚めの気分はどうだい? ……そいじゃ、さっそく閻魔様の裁判を始めるよ」

「――輪廻から外れている以上、貴方は天界にも冥界にも、ましてや地獄にも行けません」
 映姫は悔悟棒を胸に当てて朗々と声を響かせた。
「それじゃ、私は向こうに帰してもらえるのか?」
 藤原妹紅が首の辺りをさすりながら答えた。肉体のある者に三途の川を渡らせてはならない。それが決まりだ。しかし小町は例外ということで無断で妹紅を連れてきた。よくよく考えてみれば、この事が上にバレたら何と云われるのだろう。今更になって軽はずみな独断を下してしまったことを後悔した。

 映姫は表情のひとつも変えずに宣告する。
「それが道理でしょう。しかし、それだけでは裁きになりません。永遠の命があるということは、つまりは長く生きた分だけの罪を犯し、また善行を積む機会もあるということです」
「なんだ閻魔様お得意の説教か? 生憎だけど、私は善行を積むには人間の汚いところを見すぎたもんでね。今更なにを云われたって、もう私は昔みたいには戻れないよ、裁判長さん」
 なんて不遜な態度なんだろう、と小町は呆れた。冷笑家もここまで来ると尊敬に値する。
 悔悟棒をとんとんと胸に当てながら、閻魔は唇を曲げて残酷さと慈愛が入り交じった笑みを浮かべた。この笑いを見るといつも背筋が寒くなる。
「もちろんもちろん……貴方は口でいくら云われても自分を省みることはないでしょう。簡単に云えば、貴方は後悔することにおいては達人ですが、反省することに関してはとんと無頓着でしょうからね」
「ご推察どうも」
 妹紅は目を合わせずに云った。

「これから今まで貴方が犯してきた罪の全てを、ご自分の目で残さず漏らさず確かめて頂きます。それから現世に戻ってもらい、力の限り善行を積んで功罪の天秤を釣り合わせて頂く、これが私の結論です。異議は認めません」
 裁判長は、小町の知る限りでは最も辛く苦しい判決を下した。
 藤原妹紅は云われた意味が分からないらしく、映姫と小町の顔を交互に見た。その表情に微かな暗い色が横切ったのを、小町はハッキリと見た。
 映姫が合図すると、雑務担当の死神がバカでかい姿見を運び込んできた。いつも映姫が用いている手鏡とは比べ物にならない大型の代物である。例えて云うなら、映姫の手鏡が大抵の用には事足りる拳銃ならば、運び込まれた姿見は大口径の対物ライフルであった。
「目を逸らさないで下さい。逸らしたところで結果は同じですが」
「ちょっと待ってよ、鏡の世界にでも冒険に行かせようってのか?」
「いいえ――この場で、すぐに済みます」

 悔悟棒を振って映姫が合図する。小町は雑務担当の死神と協力して、妹紅を担いで鏡の前に引っ立てた。
「なに……なんなの、怖い」
 先ほどとは別人のように妹紅は小町を見上げていた。ご相伴に預かった際の鮎の美味さを思い出して、小町は歯を噛みしめた。
「閻魔様」
「何をしている、小野塚。さっさと始めなさい」
「しかし――」
 映姫は悔悟棒で裁判席を叩いた。爆竹が弾けたような音に小町の肩は跳ねた。
「一時の付き合いなんて楽しむから情が生まれてしまうのです。貴方がやらないのなら、私が手を下しましょう」
 ……どうして閻魔ってやつは、どいつもこいつもこんなにも心が強いんだろう、と小町は思った。とても自分の務まるようなもんじゃない。先の閻魔だってどうしようもないサボり魔ではあったが、いったん裁判を始めると表情が金剛石みたいに硬くなっていた。一度の後悔も覚えずに魂を輪廻の渦へと送り届けているように見えた。
 そうじゃないとやっていけない、そんな心構えだけで風のようにやり過ごせるもんなんだろうか、命ってやつは。
 小町は首を振って「その必要は、ありません」と答えた。

 眼前の姿見が不気味な極彩色の光を放ち始めた。
 震える妹紅の肩を掴みながら、小町は唇を動かさずに囁いた。
「ちょいとした旅行みたいなもんだよ、安心しなって。閻魔様が仰った通り、すぐ終わる……あたいがついててやるよ」
 妹紅は聞いてはいなかった。
「助けて……ぬえ、助けて」
 と繰り返すばかりだった。小町は諦めて暴れないように妹紅の身体をしっかりとホールドした。顔なじみのデスクワーク派の死神は、すでに目を固くつむっていた。
 渦を巻いた光の奔流が鏡から放たれた時、小町もまた顔を逸らして瞼を閉じた。

 ……少女の悲鳴は、長く長く続いた。
 今まで記憶の奥にしまい込んできた罪の一切が、何の抵抗も出来ないままにマグマのごとく頭に流し込まれているのだ。蓬莱人は懸命に身体をよじって逃げようとしたが、小町らは手を緩めなかった。
 苦しみ悶える少女のことを、閻魔様はどんな顔で見つめておられるのだろう、と思った。火砕流のような光の濁流のなかで目を開いているのは、恐らくは閻魔様だけなのだ。

「お、終わりました、閻魔様」
 デスクワーク派が恐る恐る顔を上げて云った。
「……ご苦労様、鏡を片づけたら、貴方は休んで」
「閻魔様も、お疲れではないですか。少しだけでも」
「次の裁判がありますので。さぁ、急いでちょうだい」
 死神は小町に目配せをしてから、鏡を押して法廷を出ていった。およそ死神らしからぬ気配りの出来るマメな奴だ。デスクワークは彼の天職と云えた。
「閻魔様、いかがしますか?」
「余ってる小舟があるでしょう? あれで元の川に流してやりなさい。あとは彼女――いえ、この子次第です」
 倒れ伏した妹紅の背中に手を置いてやる。全身の血流がおかしくなっている。目は霞たつ夜空のように虚ろで、唾液が床に川を成している。投げ出された四肢のどこにも力は入っていない。
 つい昨日まで、気難しいところはあれど、鮎や干し肉をごちそうしてくれて、一緒に酒を呑み合った少女の、それが末路だった。
 小町は妹紅の肩を担いで立ち上がり、上司に一礼した。顔を上げた時、映姫は小町をじっと見つめ返していた。その時の映姫の顔は――眉根を寄せて唇を引き結んだ映姫の顔は、小町が初めて拝んだ表情だった。
「小町――貴方は、残酷だと思う?」
「はい?」
「いえ、いいの……忘れてください」
 映姫は羽根ペンを手にとってインクに浸した。小町はしばらくの間、書き物を続ける上司の帽子と緑色の髪を見つめていたけれど、四季映姫は二度と顔を上げなかった。


□     □     □


 すでに夕暮れが近くなっている。春一番が吹いたとはいえ、陽はまだまだ短い。
 魂魄妖忌は木刀を振るう腕を休めて、汗を拭い橙色に染まりゆく空を見上げた。
 夏の夕焼けが少年時代を思い起こさせるような憧憬なら、春の夕暮れは今の自分の生き方を省みたくなるような憂愁を秘めているように思う。ふと視線を下げてみると、一日の最期の日差しに包まれた平安京の眺望が眼前に開けていた。小山に隠された屋敷の庭で、妖忌は美しい眺望に呆然と心を溶かされていた。

「――庭師さん。お久しぶりです」
 ふと声をかけられて、妖忌は桜の舞い散る庭を振り返った。庭石に腰かけていたのは、もんのすげえモフモフな尻尾を蓄えた美しき妖狐であった。
「九尾殿ではないですか。これはこれは失礼いたしました……この時間が好きなものですから、つい呆けてしまいました」
「よく分かります。夕焼けに染まる平安京は美しい。人間と妖怪の世界がいがみ合わずに混じり合った、優しいひと時のように思えますから――戻ってきて好かった」
 積もる話もありますし、どうぞ中へ、と妖忌は顔を手拭いで改めてから八雲藍を座敷へと案内した。

 “主人の友人の従者同士”という、近しいんだか遠いんだか、よう分からん関係の二人は、だから互いのことを名前ではなく肩書きで呼び合っていた。妖忌は藍のことは嫌いではない。大妖怪ながら思い上がることはなく、主人の元で日夜修練を積んでいる姿に尊敬の念すら抱いていた。
 藍が自分のことをどう思っているのかは知らないが、若輩で半人前な自分にも嫌な顔をせず、出会うたびに茶を呑んで席を共にしてくれる。あの主人にして、この従者アリである。私も聡明なる幽々子様の従者として一日でも早く一人前になりたいものだ、と思うのだけれども、主人もその友人も口を揃えて自分を半熟剣士だと馬鹿にした。
 剣の腕なら誰にも負けない自信はある。要するに、剣の道だけでは一人前の従者たりえん、ということであろう。


「いつ以来でしたか、安元の大火事があった年ですから、かれこれ三年でしょうか……」
 八雲藍は茶を啜ってから事も無げに答えた。
「二年と九カ月、それに十四日ぶりですかね。あの年は色々とありました」
「都を見納めに戻ったと仰いましたが、私には云わんとするところがもうひとつ分かりません」
「そうですね、紫様の式になって十数年、そろそろ本格的に結界術を学び始める時期がやって参りまして」
 忙しくなりますから、と藍は団子を口に含んだ。
「これが時間的にも平安京を拝める最後と思いましてね……それと、もうひとつ」
 妖忌は思わず息を詰めて、耳をダンボのごとく大きくした。
「紫様が仰るには、時局大勢を鑑みるに、都の近辺にて大乱が発生、京は見る影もなく荒廃するそうです。その乱はこの国を覆い尽くすほどに広がり――それが過ぎ去った後は、人間と妖怪の関係もまた決定的な亀裂を迎えると」
「また戦……でありますか?」
「庭師さん。あなたも一介の剣士なんですから、こうなることは覚悟の上では?」
「私の剣は守るための剣です。殺すための剣ではありません」
 藍はおかしそうに笑った。妖忌はなんで笑われるのか分からず、地味に傷ついた。
「いえ、すいませんね。怖いくらいに明快な答えだから、流石は魂魄妖忌さんといったところでしょうか」
「それは褒めておられるのですか、それとも馬鹿にしているのですか」
「褒めてますよ。えぇ、疑わないで下さいね。そんなにハッキリと物を云う方は、私達の方にはあんまりいないから」
 思っているところを正直に申し上げることは、相手に礼を尽くすという意味で非常に大切だ、と妖忌はかねてより信じてきた。そのおかげで、何処へ行っても誰に仕えても正直に物を云い過ぎて追い出された。

 妖忌が何とも答えられずに黙っていると、蝶々が迷い込んだかのように縁側から一人の少女が入ってきた。
「妖忌ぃ、私のお団子は? ――あら、もしかして狐さん?」
 幽々子様、と妖忌は驚いて腰を浮かせた。
 藍も姿勢を正して頭を下げた。
「お久しぶりです、富士見様。先達ては大したご挨拶も出来ずに……」
「いいのよ、堅っ苦しい。この屋敷に細かい作法は必要ないわ。それと、その呼び方は止めてくれないかしら?」
 西行寺幽々子は着物の袖を振って藍の頭をはたいた。苦笑いするは妖忌、唖然とするは九尾である。
「それにしても好い桜模様ねぇ。久々に都まで降りてみようかしら……うん、決めたわ。妖忌、準備なさい」
「はい、幽々子様」
 妖忌は畏まって頭を下げた。頭上から続けて幽々子の声が降りかかってくる。
「お父様にも見せてあげたいわね。桜が大好きだったから……」
 藍がはっと息を詰めるのが分かった。妖忌は頭が上げられなくなった。
「狐さん、いいえ、藍さん。紫は何か云ってたかしら?」
「は、はぁ。なんでも西行様をお叱りになられたとか」
「相変わらず手厳しいのね、あの人」
 幽々子は小鳥のさえずるように笑った。
「さて、ほら妖忌。いつまで頭下げてるのよ」
「只今ご準備を。しかし、もう夕暮れですが宜しいのですか?」
「ちょっとの間だけよ。久々に鴨川のせせらぎを聞きたくなったの」
「了解いたしました」
 幽々子は頷くと藍にも目礼してから、やはり蝶々のように部屋を去っていった。

「……お強い方だ。いや、気丈と云えば宜しいのか」
 藍が幽々子の去った後の縁側を見つめながら呟く。
「私にはどうも、あのお方の考えている事が分からないのです。佐藤様に後事を託されていながら、不甲斐ない限りで……」
 慰めのひとつも言葉にならず、黙して孤独な主人の背中を見つめるしかない己を、妖忌は恥じた。不器用ながら精一杯に仕えてきたつもりではあるが、幽々子様はただの一度も胸のうちを明かしてくれたことはなかった。つまりは、それが半熟剣士とからかわれるところの真意ではないか。剣の道に及ぶ者なくとも、仁の道にも長じていなければ、その不明者が振るう剣など只の“なまくら”に過ぎぬ。
 半熟という言葉に込められた主人の思いの深さに打ちのめされて、妖忌は長く細い息をついた。
「……それなら私も同じです。紫様の頭脳など、私には到底理解の及ぶところではありません」
 藍が茶を呑みながら声をかけてきた。
「分からないなら分からないなりに、己が忠を尽くして主人を支えてやることが、我々の果たすべき責務ではないでしょうか」
 こんな時代だからこそ尚更、と藍は結ぶ。
 己が忠を尽くす――その一句は、長年に渡って主君を求めながらなお認められず、流浪を重ねてきた妖忌の胸を震わせた。喉の奥から熱い塊が押し寄せてくるのを感じた。
「さぁ、我々も行きましょう。富士見様が機嫌を損なわれてしまっては紫様に叱られます」
「……承知」

 幽々子は妖忌と藍を伴って、鴨川のほとりで桜を愛でながら歌を詠んだ。
 そこへ大量の腐乱した死体と、一艘の小舟が流れてきた――。



【第七幕 ~ 正体不明と無意識】



『鵺の鳴く夜は恐ろしい』
 人々は口を揃えてそう云う。
 ならば、あの悲しげな声で泣いている少女の声もまた、人々は恐ろしいと囁き合うのだろうか。


 封獣ぬえは、暗い暗い森の奥をひたひたと歩いていた。
 そこは東三条の森のようにも思えた。けれど、一時期はその森を隠れ家にしていたぬえには分かった。ここは東三条の森ではない。何処か離れた場所にある、まったく別の森なのだと。
 月も見えない、虫の音も遠い夜。
 充満した妖気が毒ガスのように命の在り処をねじ曲げて、森の姿を変容させていた。濃霧が木々の合間から隙間なく噴き出して辺りを覆っている。
 不気味で、陰湿で、面妖で……それでも、ぬえは訪れたことがないはずのこの森に、何処か懐かしい感覚を抱かずにはいられなかった。今まで限りない数の森に潜んできたけれど、ここはそのどれとも感じが違う。
 揺りかごの中のように心地が好いのだ。こんなに不気味なのに、いやこんなに不気味だからこそ、気持ちが落ち着くのかもしれない。久しく久しく忘れていた、それは妖怪としての本来の感覚だった。
 ぬえは妖力が戻ったように感じて、嬉しくてスキップしながら森の奥へと笑顔を振りまいた。


 ……その少女の泣き声が聞こえてきたのは、まさにその時であった。
 色彩も美しい大陸の着物を身にまとった幼い少女が、森の開けた場所の中央でうずくまって、泣いていた。
 ぬえは茂みから頭を出して、少女の小さな頼りない背中を見守った。不思議と驚きはなかった。髪の毛は黒いけれど、その少女は確かに懐かしい面影を宿していた。
「……藤原」
 呟きが真珠のように、ことんと音を立てた。
 少女は振り向かなかった。こちらの声は聞こえないのかもしれない。
 髪は黒く、容姿は幼いが――間違いない。その少女は蓬莱の薬を呑む前の妹紅の姿だった。
 そう気づいたとたん、云い表しようのない感情が喉を突き破った。それは嗚咽となった。なんで悲しくなるのか、なんで切なくなるのか、ぬえには分からなかった。懐かしいと同時に暖かくて、切ないと同時に恋しい、この気持ちはなんなのだろう、とぬえは泣きながら思った。
 やはり、この森は私が過去に住んでいた森に違いないんだ。なのに、記憶の欠片にも残されないままに沈んでしまっているのは何故だろう。

 やがて、幼い妹紅は手元の篠笛を手に取った。
 震える唇と細い指で笛を支えて、旋律を奏で始めた。涙混じりの音程は酷く不器用で歪に聴こえたけれど、ぬえはその旋律に懐かしい響きを感じ取った。
 それは、ぬえが妹紅に頼まれて口ずさんでやっている歌と、まったく同じ旋律だった。ぬえは、その歌を貴族の屋敷で聴いたことがあった。もう何処の誰の屋敷で聴いたのかは思い出せないけれど、妹紅はその歌を好きだと云ってくれた。その旋律を、遙か昔の幼い妹紅が奏でていたのだった。
 ぬえも涙混じりに歌った。少女は驚くことなく演奏を続けていった。
 聴いてくれなくてもいい。気づいてくれなくてもいい。たとえ形のない姿に変わってしまっても、永遠に同じ形を留めた人が覚えていてくれるから、私は正体不明でいられるんだ。
 ぬえは泣き笑いの顔になって、ただ歌い続けた。
 お願い、宵よ、覚めないで――。


「ありゃ、起こしちゃった?」
「……誰よ、あんた」
 ぬえは身体を起こした。忘れていた倦怠感が戻ってきていた。気分が悪い、今にも吐きそうだ。
 マミゾウの隠れ家だった。森じゃない。夜でもない。夕日が障子をみかん色に染め上げている。
 枕元にいたのは妹紅でもマミゾウでもなかった。胸元に浮かんだ三つ目の瞳を目にした途端、ぬえは放たれた矢のごとく飛び起きた。
「さ――さとり!」
 少女は首を振った。ニコニコと笑っているのに瞳はがらんどうで光の一筋もなかった。
「違うよ、私は“こいし”。覚妖怪のこいし。“さとり”は私のお姉ちゃん」
 ぬえは後ずさった。壁にぶつかって逃げ場がなくなる。目玉を抉りとられた妹紅の生首がフラッシュバックして、たちまち身体中の力が抜けてへたりこんでしまった。
「大丈夫、安心して。ほら、私は目を閉じてるから。怖がらなくて平気」
 だからなんだと云うのだ、とぬえはマッチ箱のごとく小さくなった。
「私はお姉ちゃんみたいな意地悪はしないわ。ぬえちゃんの味方。生首なんて押しつけたりしないから」
 こいしが寄り添ってきた。その手の冷たい柔らかさに、ぬえは鳥肌だった。
「どうして、あんた……」
 震える声で訊ねる。
 こいしが真正面から目を合わせてきた。狂気とも恋心ともつかない危険な光が瞳の奥に輝き始めていた。
「ずっと見てた。あなたのこと」
「わたしの、こと?」
「ずっとずっと。あなたがこの場所に帰ってきた時から――私、あなたのお友達になりたかったの」
「とも、だち……」
「お姉ちゃんにコテンパンにされたでしょ? あれじゃ悪い夢を見ちゃうと思って、いじくらせてもらったわ。それが目を閉じた代わりに得た能力。私だけの力」
 それじゃさっきのは、こいつが作った夢なんだろうか。ぬえは気になってこいしの肩を揺すった。
「私が作ったのとは、ちょっと違う。ぬえちゃんの無意識の方向を曲げて好い夢が見られるように向かわせただけ。だから、ぬえちゃんが見た森の夢は、あなたの記憶の奥底にあった確かな出来事の夢――」
 閉じた恋の瞳は、きゃらきゃらと姉そっくりの笑い声を立てた。
「胎児の夢……なんの思い出も持ってないはずの赤ちゃんだって、果てしない時を駆け抜ける大きな夢を見るんだよ。私にはそれが分かるの。だから、ぬえちゃんが覚えてなくても“それは確かにあったことなの”。それが夢なのよ――」
 こいしが両腕を広げて抱きついてきた。妹紅やマミゾウの他に抱きしめられた経験に乏しいので、どうすれば好いか分からなくなる。
「……あの夢は私の気持ち。ねぇ、これで分かったでしょ? 私はあなたのお友達になりたいだけ。ぬえちゃんと一緒にお話ししたいだけ」
 こいし、と呟いてぬえは動けなくなった。

 覚れない覚妖怪は、身体を離して囁いた。
「知ってるよ。ぬえちゃんが探してる人の居場所」
「……藤原?」
 こいしは首を振った。
「もっと会いたいって思ってた人がいるでしょ? 私と一緒に行けば、その人のところへ誰にも気づかれずに辿り着ける」
 それって、とぬえの唇は固まった。
「源、頼政」
 その名を聞いた途端、またも身体中の力が抜けた。こいしが支えてくれた。知らない花の香りがした。
「私と友達になってくれるなら、連れていってあげる」
 ずっと探していた男が、今すぐにでも会えるのだ。左手首の矢傷がうずいた。自分を撃ち堕とした男に、私は会うことが出来る。
「ぬぇ、こいし」
「なぁに、ぬえちゃん」
 名前を呼ばれたことが嬉しいらしい。こいしはいっそう瞳を危うく輝かせた。
「なんで、そこまでして私の友達になりたいの」
 こいしは首を捻った。
「なんでって云われても、なんでかな――あのね、こういうのって恋と同じだと思うの。誰かに恋することに理由がいるのかしら? お友達になりたいってことに何か理由が必要なのかしら?」
 恋愛なんてしたことがないので、ぬえにはイマイチ分からなかった。けれど大した理由もなく、なんだかんだで妹紅に付き合っている自分がいることも確かだった。
「……分かった、こいし」
「ほんと、ほんとにほんと?」
 ふわふわな笑顔でこいしは云った。
「友達になってあげる。いや、友達になろう――だから私を連れていって」
「ありがとう、ぬえちゃん。私の初めてのお友達だよ、よろしくね」
「こちらこそ、よろしく――それじゃ善は急げだね。今夜にでも決行しよう」
 こいしの手を借りて、ぬえは疲れきった身体を起こした。


□     □     □


「あまり私を怒らせない方が好い」
「冗談じゃないぜ、お父上。まさに千載一遇の大チャンスじゃねぇか。ハチャメチャが押し寄せて来やがるってのに、このまま赤ん坊よろしく指をくわえて待ってろってのかよ?」
「それ以上無礼な口利くと、お前のケツの穴を溶接して、頭に代わりのケツの穴を空けてやるぞ、仲綱」
「す、すんまへん……」
 意外に素直だな、と猪早太は感心した。

 早太の目の前で政界に生き残った最後の源氏の親子が口論を重ねている。二人は馬を並べて鴨川沿いの桜が美しい並木道を進んでいた。早太は徒歩にて二人のお供をしていたところであった。
「源氏が二十年の沈黙を破るとすれば、それは今しかないと私は考えます、お父上」
「しっ、声が大きい……仲綱、お前は時勢が読めていない。今や平家全盛、日本国の半分は平氏一門の掌中なんだぞ」
「ならば残り半分を結集してぶち当たれば好いではないですか。平家に恨みを持つ者は華厳の滝のごとく日々勢いを増しております。この好機を逃してなんとするのですか」
 生き写しのように容姿も性格もそっくりな癖に、互いにそれを否定して譲らず今日まで気炎もたくましく喧嘩を重ねてきた。その癖、親子の縁を切らずになんだかんだで定期的に会っているのは、ひとえに最後の源氏としての誇りと責任感が父子を結びつけているからであった。
 早太は緊張を滲ませた顔の裏で必死に笑いを堪えていた。喧嘩するほど仲が好いとはこの親子のためにあると云っても好い。
 二人が元気に喧嘩をする限り、摂津源氏は安泰であるように思われた。

「従三位、そろそろ日が沈みます。いったん屋敷に戻られてはいかがでしょう。今夜は冷え込みそうですし、お身体に障ります」
「いかん、このドラ息子の考えを改めさせなければ私は死んでも屋敷には戻らんぞ」
「私もこの頑固親父には我慢ならん。早太よ、下郎はすっこんでいろ」
「寄子に向かって下郎とはなんだ。もう許さん、その性根を刀鍛冶のように叩き直してやる」
 これはいかん、と早太は思った。馬上で取っ組み合いを器用にも始めた親子。まるでベテランの曲芸師である。とても七十を数えた老人と五十を越えた中年には見えなかった。
「今度は何が原因なのですか。また取っておいた桜餅を食われたとかそんなんじゃないでしょうね」
 軽いジョークのつもりで云ってみた。すると頼政はペンギンを追いかけるオットセイのごとく真剣な顔つきで、一枚の文書を手渡してきた。昨日の昼頃に仲綱の屋敷へ届けた書簡の中身であると早太は察した。
 文書を恭[うやうや]しく受け取り、折り目を付けぬよう注意して開いた。その文書の内容を一読し、最後に「以仁王」の印判を視線でさらったとたん、早太の手からはらりと紙が滑り落ちた。
「あっ、早太! 貴様、なんてことを」
「仕方あるまい。私も初めて読み通した際は、歯の根が合わなかったくらいだ」
 文書を頼政の手に返して刀の鞘を握りしめながら、早太はわななく身体を落ち着かせた。
「こ、これは、まさしく……謀反のご協力――」
 馬上より頼政と仲綱の手が魔物のように伸びて早太の口を塞いだ。先ほどまでは自分らが物騒な話を大声でしていた癖にこれである。早太はモガモガとナメクジのごとく唇を動かして抵抗した。

「お父上」
 若様は八分咲の桜木を見上げながら、言葉を連ねた。
「卑しくもこの仲綱、以仁王様のご宸意[しんい]をお察し申し上げております。親王宣下も受けられず、去る年には玉領を召し上げられ、皇位の望みを永久に断たれ……恐れながら、我ら源氏と伏するを同じうしておられます。その無念が痛いほどに伝わってくるのです――父上は、それでも大義を奉ずるをためらうと仰るのですか!」
 早太はその場に蝉の死骸のように固まった。仲綱の瞳から熱い涙の一筋が頬に川を成して、夕日を受けて光り輝いていた。私心の欠片もない本物の義の涙というものを、早太は産まれて初めて目にした。
 その涙は、在りし日の若様の屈辱を思い起こさせた。


 ……以前、下のような騒動があった。
 鵺を退治した従三位はその後になってある名馬を献上された。黒毛も輝かしい立派な駿馬で、頼政は「これぞ鵺ちゃんの生まれ変わりだ!」とトンチキなことを云いだして大層に可愛がった。それから出家する段になって若様にその愛馬・木下[このした]を譲ったのである。仲綱も父からの賜り物を大変に可愛がった。麗しい親子愛に、その時ばかりは早太も胃の痛みを忘れて感涙したもんである。

 で――ある時、平宗盛が木下を欲しがった。若様は一度は断ったが、父親に「平家に逆らってはならん」と諭され、せむかたなしと愛馬を泣く泣く譲った。この仲綱の渋った態度が気に入らなかったのか、はたまた父親に振り回されてストレスが溜まっていたのか、宗盛は木下のケツに「仲綱」と焼印を押して公衆の面前に引き立てたのである。その屈辱は家督を継いだ仲綱を憤死させかねんほどで、早太は宗盛の屋敷にカチコミを仕掛けようとする若様を命がけで押し留めた。
 この後、若様の家来である渡辺競[きそう]が報復に宗盛の名馬を奪って壮絶な討死を遂げたり、仲綱の屋敷の外壁に餓死者の皮が張りつけられたり、宗盛が催した連歌会のど真ん中に糞爆弾が放り込まれたりと散々な嫌がらせ合戦が始まったので、二人の仲は修復不可能なまでに険悪となってしまった。ちなみに糞爆弾の一件は流石にやり過ぎだ可哀想だと早太は諫めたのだが、若様は「私がそんなことする訳ないだろ」としらばっくれた。


 仲綱が義憤の涙を流している間、早太は気の利いた口のひとつも挟めず困り果てて主君を仰ぎ見た。
 頼政はおやつに持ってきた桜餅をもがもがと咀嚼しながら、何事か考えているようであった。平時のロリコンっぷりが微塵にも感じられない摂津源氏の長老の顔が現れていた。
「……遠江[とおとうみ]には蒲冠者[かばのかじゃ]・範頼[のりより]、甲斐には武田、信濃には木曽冠者[きそのかじゃ]・義仲、伊豆には右兵衛佐[うひょうえのすけ]・頼朝、熊野には新宮十郎、陸奥[むつ]には九郎義経などがおります――以仁王様の令旨さえ賜れば、これら諸国の源氏が一斉に兵を挙げましょう」
 父親が黙っているために若様は話を続けた。その口を頼政の法衣の袖がぴたりと塞いだ。
 ひひふへ、と仲綱はのたうつナメクジのごとくモガモガと抗議の声を上げた。
「仲綱よ」
 頼政が言葉を紡ぐ。
「――お前は、恋をしたことがあるか?」
 仲綱の顔がみるみるうちに赤く染まった。意外と純情なんだな、と早太は感心した。
「好いぞ、恋は。本当に好いぞ。この平安京、長らく飢饉に苦しめられているが、それでも恋の芽まで干からびてしまったわけではない。見渡せば花びら。見上げれば、花びら……」
 頭上の桜木を指し示して頼政は微笑んだ。
「平家の帝を蔑ろにする専横には確かに私も心を痛めている。だが戦を起こすということは、飢饉でも摘み取れなかった恋の芽というものをいとも簡単に刈り取ってしまうということだ。それだけ大勢の人々が引き裂かれよう」
 ヒバリらしき小鳥の鳴き声に、主君は目を細める。
「たとえ屈辱を極め辛酸を舐めようと、源氏の生き恥と罵られようとも、それで民の平穏が約束されているのなら……歴史とは一門のためにあらず、天下の太平を願って綴られるものだ。何のために戦記が遺されると思っている、ひとえに戦乱が繰り返されぬためである。民衆の願いがこの平家の天下を願うなら、それに弓を引くは――すなわち天に弓を引くと同じだぞ、仲綱」

 早太も仲綱も、頼政の紡いだ言葉に声もなかった。去りし鵺を求めて二十余年、耐えに耐え続けた男の、それが願いだった。語り終えた頼政が吐いた息のもたらす沈黙は、まさに千金の重みがあった。
 若様は手綱を強く握りしめていた。昨日の「恋をしてしまったらしい」と呟いた、若様の少年のような顔が、早太の胸にありありと蘇ってきた。
「……父上も、恋を?」
 頼政は振り返って笑った。
「――無論だ、息子よ」
 陽は沈み、まさに宵が訪れようとしていた。



【第八幕 ~ 傷だらけの手のひらで】



「あなたは、人生を難しく考え過ぎてはいないかしら?」
 藤原妹紅は頷くことも首を振ることも出来なかった。
「……こんなに長いこと生きているんだ。そりゃ厭世的にもなるよ」
「そうかしら、生きているだけ儲けもの、みたいな考え方は嫌い?」
「死にたくても死ねないからね。寿命があるんなら、そういう考えも悪くはないかもしれないけど」
 富士見の少女は何がおかしかったのか、庭の桜木を見上げながら笑った。
「おんなじね、私たち――私も、まだ死ねないの。死ぬわけにはいかないのよ」
 妹紅は膝を引き寄せた。宵の春風は、まだ冷たい。


 妹紅は都から南東に位置する小山に隠された屋敷で目を覚ました。
 記憶は曖昧だった。死神と閻魔の二人組のおかげで、トラウマの一切をほじくり返されたところまでは覚えていた。屋敷の主が云うには、鴨川を桃太郎のごとくどんぶらこっこと流れて来たらしい。ついに我が身が流される羽目になるとは思わなかった。ぬえの奴は今頃どうしているのだろうか。心配だった。すでに丸一日以上が経過している。
 果てしない夢を見た。初めて人を殺めた時の夢、初めて人の肉を口にした時の夢、何度も自らの喉に刀を突き立てた時の夢。思い出したくもない、記憶のタンスの奥深くに放り込んでおいた虫食いだらけの悪夢ばかりだった。
 正気に戻ることが出来たのは、この桜を愛する少女が言葉をかけ続けてくれたからだった。少女の介護がなければ、私は今頃は都で辻斬りと化していたかもしれない、と思う。


「幽々子様、この辺で宜しいですか?」
「えぇ妖忌、ご苦労様。あなたは休んで」
 はい、と芯の通った声で返事したのは、お付きの者らしい青年だった。人間とも妖怪ともつかない不思議な力の流れを宿している。よく見ると肩のうえに綿菓子のような霊体がふわふわと浮かんでいた。
 西行寺幽々子の周囲には、これまた沢山の霊魂が綿雲のように群れを成していた。妹紅と一緒に鴨川を流れてきた、都の餓死者の死霊らしい。加持や祈祷では拭いきれない未練と怨みを、持ち前の能力で洗い落とし、その浄化された想いを自らの命を延ばす糧にするのだと云う。
 幽々子を中心として、庭には六塔のかがり火が焚かれていた。幽々子の影がでたらめに引き延ばされて揺らめき、不吉な踊りを披露していた。十六夜の月は青白く、弾ける薪の音は響き、桜の花は可愛らしく身を揺らす宵だった。
 妹紅は縁側でダンゴムシのごとく丸くなって、扇子を手に舞を踊る幽々子を見ていた。妖忌は離れたところに直立不動になって、瞬きもせずに富士見の舞を凝視していた。

「……なぜ、人生はこんなにも短いのでしょうね」
 舞を中断して、こちらを真っ直ぐに見つめながら幽々子は云った。悲しげでもない、苦しげでもない、純粋な疑問としての言葉だった。
「――なぜ、命はこんなにも儚いのでしょうね」
 餓死者の霊魂は何も語らなかった。何も。嘆きの咽[むせ]びも、怨みの呪いもなく、ただ幽々子を取り巻いていた。妹紅には霊たちが何かを訴えているように見える。幽々子には、それが聞こえるのだろうか。
 紺色の蝶々を染め抜いた着物に目を奪われる。幽々子が舞を踏めば、それらは本物の蝶々のように羽ばたくのだ。霊魂たちもまるで蝶々のように舞った。

 この世への未練を溶かされてゆく霊が妹紅には羨ましかった。もう苦しむ必要はないはずだ。悲しむ必要も怒る必要もないのだ。それが羨ましかった。
 あれだけ綺麗にあの世へ逝けたら、どれだけ幸せなことだろう。そこらへ散歩に出かけたついでにひょいと死ぬことが出来たら、どれだけ幸せなことだろう。
 それが叶わないことが、ただただ、恨めしかった。
 幽々子は再び舞い始めていた。妹紅は黙って眺めていた。妖忌は目を伏せて祈りの言葉を紡いでいた。
 十六夜の月は、雲に隠れることはなかった。

「相変わらず見事なものね、幽々子」
 と妹紅の背後で妖艶な声が発せられた。
「紫じゃない。そっちはもう好いの?」
「一段落したところ。藍はちゃんと来れた? あの子、時々道を間違えるから」
「大丈夫よ。もう一人前なんじゃないかしら?」
「そう、過保護になるのも考え物かしらね」
 妹紅は思わずなまくら刀の鞘をぎゅっと握りしめてしまった。それだけの妖気が背中を覆い尽くして、妹紅を震わせたのだった。
「初めましてかしら。藤原妹紅さん?」
 八雲紫は、月に照らされた青白い笑顔で、こちらを見下ろしていた。

「……幻想、郷?」
「そう。私たち妖怪の、最後の楽園、つまりは居場所」
「四百年も生きてきたのに、そんな場所があるなんて一度も聞いたことがなかったな」
「そりゃそうでしょうとも。人里離れた山の奥の奥、人間が辿り着くには難しい場所だから」
 妹紅は紫の楽しそうな笑みに釘付けになっていた。庭では酔っぱらった幽々子が妖忌と一緒に盆踊りしていた。
「そんな秘密の場所を、私なんかに教えて好いのか」
「どういうことでしょうか?」
 どうって、と妹紅は両手を振った。
「そりゃ私が退治屋だからさ。おまけに不死身ときた。依頼を受けて乗り込んだら厄介なことになるんじゃない?」
 紫は意外そうな顔をする。
「……あなた、ここ数年は妖怪退治なんて一度もしてないじゃない。それどころかぬえちゃんと仲好く睦まじく、むしろあなたの方が妖怪に近しいんじゃないかしら?」
 妹紅は口を開けたまま固まった。とてつもなく冷たい物に触れた時のように、指先の感覚が無くなった。
 こいつは何処まで知っているんだろう。

 妹紅はいつからか、妖怪を退治する理由を失ってしまっていた。妖怪ではなく同じ人間によって人々は苦しめられている。妹紅の刀に求められているのは、妖怪の血を散らすことではなく人間の血を啜ることだった。
 ぬえの寝顔が思い浮かんでしまうのだ。「ぬえを退治しているようなものだ」と思うと、刀を妖怪に向ける気にはなれなかった。かといって人間を殺さなければならない理由もない。
 ぬえさえ居てくれれば、それで好かった。

「……なんでまた、そんな場所が生まれたんだ」
 何処から取り出したのか、紫は桜餅を頬張っていた。妹紅は欲しがる素振りを見せてみたが、無視された。
「あなたも気づいていると思うけど、もう私たちの時代は区切りを迎えようとしている」
 と言葉を奏でる。
「都は荒廃するわ。それも遠くない未来。私たちにとってこの地は全てだった。人間が幻想を捨てるというのなら、私たちは散らばった夢を拾い集めて自分たちだけの世界で暮らすまで。そのための東方計画なの」
「妖怪は、消えるのか?」
「人間たちの前から、ね。少しずつ姿を消していくことでしょう。この先の数百年は細々と生き残る者もいるでしょうけど、私たちの時代そのものは、ここで終わるの。神様も例外じゃない。仙人も、妖精も、鬼さえも……」
 妖怪がいなくて当たり前の世界がやってくるなんて、妹紅には信じられなかった。妖怪がいなくなれば私は何をして生きてゆけば好いのだろう。
「人生はこんなにも短い。命はこんなにも儚い、か。幽々子も悟ったようなことを云うわねぇ」

 踊り疲れたらしく西行寺の二人が縁側にへたり込んできた。
「なになにぃ、私が何か云ったぁ?」
「幽々子は聡いわね、と云ったのよ」
「そっかぁ。えへへ、ありがとう、紫ぃ」
 幽々子は妖怪の膝の上で寝てしまった。
 紫は少女の頭を撫でながら、三日月のように微笑んだ。
「この子もお酒が入ると昔に戻るのね。あの時の少女のまんまだわ。時の流れは残酷ね」
「佐藤様から、なにかお返事は?」
 妖忌が仰向けに汗を拭いながら訊ねる。
「あのバカ、決心がついたら戻ってくるって。逃げも隠れもしないそうよ」
「ま、真ですか? はは……これで幽々子様の苦労も報われるというものです」
 庭師は万歳三唱する。幽々子が起きるから、と紫に叱られてしまい、心なしかしょぼんとしてしまった。

「――そうそう、藤原妹紅、云い忘れるところだったわ」
「なに、子守ならお断りだよ」
「ぬえちゃんのこと」
 肩が震えてしまった。同時に、どうして紫が幻想郷の話を持ち出してきたのか、その本当の理由が閃光のように脳裏を駆け抜けた。
「……封獣が、なに?」
「あなたは鈍感なのかしら。違うわね、分かっていながら何もしないだけかしら」
「だから……なんだって」
「とぼけないで」
 紫の顔から笑みが消えていた。少女の顔から大妖怪の顔に染まっていた。妹紅の心臓が凍りついたように動きを止めた。
「私としては、ぬえちゃんのような妖怪にみすみす消えて欲しくないの――分かっていたんでしょう、ぬえちゃんの妖力のこと、手首の矢傷の意味を」

 この時になって十六夜の月は雲に隠れた。地面が真っ暗になり奈落へと吸い込まれていきそうになる。妹紅は紫から顔を逸らして、膝の上に組んだ傷だらけの両手を見つめた。
「……方法は、ないんですか?」
 声が震えた。
「あいつは、封獣は、私の大切な……ねぇ、本当に他に方法はないんですか? あいつは、このまま消えてしまうしかないんですか?」
 ずっと心に重くのし掛かっていたことが、堰を切って濁流となって、取り留めのない言葉になる。
「あいつは、今も生きているんです。痛ければ泣くし、楽しければ笑うし、晩飯を横取りされれば怒るんです。なのに、なんで時代とかいう訳の分からない、正体不明のものに殺されなければならないんですか?」
 紫は黙って妹紅の濁流を受け止めていた。金色の髪はかがり火が消えた中でも鮮やかだった。
「……源頼政に退治された妖怪鵺は、あの時に死んだのよ。少なくともあなたたち人間のなかではね。猿の顔、狸の胴体、虎の手足、尾は蛇の姿で鵺は死んだの。形が固定されて、おまけに退治されたと知れ渡れば、誰が鵺を恐れると云うのかしら?」
 妹紅は溢れでた涙を拭うことも忘れた。
「でも、あいつは生き返って私と」
「……ただの妖怪として生まれ変わって、あなたと巡り会ったのよ」
「だけど、あいつは何度も生き返ったんだ。夜に鳴く鳥を人間が恐れ続ける限り――」
「その鳥を恐れなくなる時代が、まさに来ようとしているのよ。次にぬえちゃんが息を引き取ったら、たぶんもう生き返ることは……あなたはぬえちゃんを守れるの? 正体不明の怪物から、あなたは彼女を守れるのかしら?」
 紫の言葉は、妹紅を完全に打ちのめした。世界から色という色が失われて輪郭だけが残ったように思えた。ぬえと過ごした思い出たちが無数の悪夢を塗りつぶして、清流のように心を洗っていった。
 その跡には、何も残らなかった。

「……幻想郷に行けば、ぬえは助かるの?」
「まだまだ先の話になると思うけど、幻想郷に結界を張ろうと思っているの。頑固な連中が多くてね。それまで大人しくしていれば、ぬえちゃんの妖力もきっと元通りに回復するはず」
 妹紅は傷だらけの手のひらを見つめた。あなたに守れるの、という紫の言葉を手のひらで転がしてみた。あの閻魔の言葉も転がした。犯してきた罪で真っ赤になった手のひらで、私は封獣を守ってやることができるのだろうか。
 またひとつ昔の記憶が通り過ぎていった。お前は時代どころか、山賊からすらぬえを守ってやれなかった癖に、とその記憶は語りかけていた。
 妹紅は、両手で顔を覆った……。

「……わか、りました」
 声を絞り出す。
「ぬえを、助けてやってください」
 紫は母親のように肩に手を置いてくれた。
「別れることは辛いわ。でも、それは永遠じゃない。あなたが幻想となる日が来たら、その時はあなたも幻想郷に来れば好い――きっと、また会えるわ」
 また会えるから、そう繰り返して紫は眠りこけている幽々子の頭を撫でていた。
 再び十六夜の月が空に覗いてからも、妹紅は顔を両手で覆っていた。
 何も見たくなかった。



【第九幕 ~ やい、水橋。なによ、黒谷。】



「おーい、水橋ぃ。ちゃっちゃと出てこいよぉ」
 と黒谷ヤマメは闇のなかで黄土色の髪を掻いた。
「やれやれ、隠れん坊は苦手なんだがなぁ」

 都の待ち合わせ場所にパルスィはいなかった。もしかしたら厄介な相手に追いかけ回されたのかもしれん。パルスィの妖気は衰えていて察知するのは困難だった。キスメには留守番を頼んで、ヤマメは丸一日をかけて平安京を探し回っていた。
 日が暮れても見つからず、流石に心配になってきた。まさか捕まったんじゃなかろうかとも考えたが、あの直角鬼瓦がそう簡単に捕まるとは考えにくい、むしろ捕方を返り討ちにして喰っちまいそうなくらいだ。
 いったんキスメの元へ戻りかけた時、ふと思いついた。もしかしたらと直感を働かせて鴨川流域を逸れて南に下り、宇治川を辿ってみた。


 果たして、宇治橋に橋姫はいた。
 欄干に両腕を預けて、その上に顎を乗せて川の流れを見つめていた。ヤマメと同じ星色の髪が夜風になびいていた。十六夜の月が透き通る夜で、その月明かりがパルスィの全身を洗っていた。生きながら鬼になったとは思えない散りゆく花びらみたいな佇まいに、ヤマメは声をかける力を落っことした。その独りぼっちの少女は、いつも馬鹿を云い合っている水橋と同じ奴には見えなかった。
 また頭を爪で激しく掻いた。なんだい、ちょいとおセンチになってるだけじゃないか、私らしくもない、さっさと襟首を引っ掴んで怒鳴ってやろう。

 その時、パルスィが両腕を支えに上体を乗り出した。もはや瞳は何も映していない。今にも飛び降りて宇治川の流れに消えちまうんじゃないかと焦って、ヤマメは駆け寄る。
 ばっかやろ、と身体ごと抱えて橋の方へと放り出す。宇治の橋姫は出来損ないのダルマのごとく橋板に転がった。
「あっぶない、危ない……まったく、探したぞ、鬼瓦、いや水橋」
 パルスィはこちらが目に入っていないみたいだった。面倒な手順は嫌いなので、少女の頬に往復ビンタを喰らわせる。
「あた、痛いってば――黒谷!」
 パルスィが仕返しに張り手を見舞ってきた。いつもと同じ確かな頬の痛みを感じた時、ヤマメは何故かどうしようもなく安堵した。

 立ち上がって手を差し出してやる。
「ほら、帰るよ。入水自殺は私の見ていないところでやってくれ、気分が悪い。反吐が出ちまう」
「誰が自殺するって? もしあんたが自殺するってんなら、タダで手伝ってやっても好いんだけど」
「ありがたいが、このヤマメ様はまだ死ぬわけにはいかんのでね。時代が私の勇姿を求めているんだ」
 どうだか、とパルスィは差し出された手を払って、自力で立ち上がった。
 ヤマメは腰に手を当てて笑ってやった。
「まったく水橋ってば面白いな。こんなところまで逃げてくるなんて……おかげ様で、私は都をフルマラソンする羽目になったんだぞ」
 くたびれたわい、と付け加えてパルスィの顔をのぞき込んだ。

 その時の橋姫の表情の変化は、ヤマメの笑いを吹き消した。眉根に皺が寄り、少しだけ顔を俯かせ、けれど目線はこちらをしっかりと捉えていた。緑色の瞳が月明かりだけじゃない輝きで満たされていた。それは決して怒っている時の鬼瓦な表情などではなかった。
「……元はと云えば、あんたが大馬鹿だから追いかけられる羽目になったんでしょうが」
 頭をかりかりと掻く。
「あー、それを云っちゃいましたか。いけないね、あぁ、いけないね。それだけは云っちゃいけない」
「この馬鹿。ずっと探し回ってたわけ?」
「悪いか。私は頭を使うよりも大いなる直感を尊ぶ。だからこそ、こうして見つけられたわけなんだがね」
 パルスィが右の拳で胸をとんっと突いてきた。軽やかなステップを踏むみたいに、強すぎず、弱すぎず。
「……遅いわよ、全然遅い」
 ヤマメは苦笑いした。
「これが今んとこ私のベスト・タイムだよ――その、つまりさ、あれだ、うん、ごめん」
「ちゃんと謝ってよ、誠意が足りない」
「悪かったって」
「もっと謝れ」
「ごめんってば」
 パルスィが胸倉を掴んできた。突然の橋姫の馬鹿力の復活にヤマメはたまらず咳込んだ。
「……どんだけ待たされたと思ってんのよ。自分から散々振り回しておいてごめんって何よ。この節足女。人の気持ちも知らない癖に」
 解放されたヤマメは橋板にうずくまって、首元の古傷をさすりながら云った。
「人の気持ちって、なにさ」
「そんなの知らないわよ。私の方が訊きたいくらいだわ」
 意味が分からん。ヤマメはパルスィを見上げた。橋姫は顔を背けながら片手をこちらに差し出していた。
「……なに、その手」
「なにって、あんたがさっきやったのと同じよ」
「振り払ったじゃんか、何を今更」
「あっそ」
 パルスィが腕を引っ込めるより早く、その手を握ってやる。横目でじろりと睨んできた。緑色の瞳は今夜も変わりなく燃えている。
 ヤマメはにっかと笑ってやった。
「私は遠慮なく借りるからね、手でも足でも」
「……あっそ」


□     □     □


「後から化け狸に聞かされてびっくらこいたよ――源仲綱だってさ! 因縁の再会とはこの事だ」
 あー、やっぱりな、と水橋パルスィは思った。懐に隠した翡翠の勾玉の感触を確かめる。自分のことを「美しい」とか抜かしやがった男の顔が思い浮かんだ。
「先祖は先祖、子孫は子孫よ。妬む気にもなれないわ」
「しかーし、私はそう甘くはない。屋敷の場所は覚えた、積年の恨みを晴らすなら今しかないさ」
「なに、まさかまた糞爆弾でも放り込むんじゃないでしょうね。あれのせいで服が駄目になったの覚えてないの? どんだけ洗っても臭いが落ちないんだから、まったく」
「違う違う。今度は正々堂々、白昼にカチコミかまして一騎打ちしてやるのさ。奴も武士の面目ってもんがあるだろう。名指しで決闘を申し込まれたら、受けて立たずにはいられないはずだよ」
 こいつは馬鹿じゃなかろうか、とパルスィは思った。

 宇治川の水面は十六夜の月を映し続けている。二人は都への道を川に沿って戻りながら、キスメが作った人肉の干物を分けて食べた。
 隣を歩いているヤマメは、一日中も探し回ったと云った割には疲れた様子もない。呆れるほどのタフネスである。こういうことで嘘をつくような奴じゃないので、本当に都中を駆け回ってくれたんだろう。なんだか今更に申し訳ない気持ちになってきた。昨夜の一件で昂ぶった気持ちを静めるには、思い出の場所に身を沈めるしかなかったのだ。
 自信たっぷりに計画という名の無謀を語り続けるヤマメの顔を見る。なんで、こいつはこんなに明るいんだろう。夜を生きる妖怪の癖に太陽の笑顔を忘れないのは、何故なんだろう。出会ってから何度も危ない目に遭わされたにもかかわらず、こいつのことを見放すことが出来ないのは、つまりはこの笑顔のせいだ。
 頼光のロリコン野郎に酷い目に遭わされたのは、ヤマメだって同じだろうに。なんで平然と報復なんて口にしていられるんだろう。パルスィは干物を噛むことも忘れて、腐れ縁の妖怪の横顔を見ていた。

「……なんだい、水橋。私の顔に見惚れたのかい?」
 ふざけんな、とヤマメの足にローキックを見舞ってやる。いてて、と土蜘蛛がバッタのごとく飛び跳ねた。
「ねぇ、黒谷。やっぱり止めましょうよ、白昼堂々なんて。今度こそ退治されるわよ」
「あぁん? 土蜘蛛の底力はあんなもんじゃないさ。水橋こそ、宇治の橋姫の矜持はどこいったんだい?」
 人がせっかく心配してやってんのに、なんて自分勝手な奴なんだろう、と今更に思う。
「プライド云々の前に色々とキツいのよ、今回のは。あいつの顔を思い出すだけで吐き気がする」
「じゃあ水橋は隠れて観戦してると好いさ。私の勇姿に惚れちまっても応えてはやれんが」
 この野郎とパルスィは思った。次の瞬間、魔物のように手が伸びて力任せにヤマメを殴り倒していた。土蜘蛛はビルディング破砕用の鉄球の直撃を喰らったアヒルの置物みたいに吹っ飛び、打ち捨てられた田んぼの泥濘に盛大に突っ込んだ。

「――てんめぇ、なにしやがるッ、馬鹿力も大概にしろ!」
 ぶち切れたヤマメが立ち上がる前に、パルスィは馬乗りになってその胸に拳を落っことした。お気に入りの着物がすっかり泥だらけになってしまったが、構うものか、右に左に、分からず屋の胸に拳を振り落とした。
「馬鹿はあんたでしょうが! 殺されるってのが分かんないの、ズタズタにされたあんたの死体を私が埋めて供養しろっての、冗談じゃないわよ!」
「この私が返り討ちされるってぇ? 舐めんじゃないよ、腐っても土蜘蛛さ、あんな貴族かぶれした鼻たれ小僧に私が負けるわけないだろうがっ」
 本当に、本当に、こいつは、とパルスィは言葉にならない気持ちを拳に固めてヤマメの心臓にぶち込んだ。
 あんたは人間ってもんを知らない、決闘なんかに潔く応じる筈がない、背中に矢を射られて終わりだ。そんなことも分からないのか、人間がそんなに心のスッキリした連中ばかりなら今頃、私はここにはいない。真っ当な人生を送って、真っ当な人と結ばれて、真っ当な死に方をしたはずだったのに。
 どれもこれもが舌のうえで空回りして、それが悔しくてたまらなくて、パルスィは両手でヤマメの肩をぶっ叩いた。
「水橋、好い加減、止めてよ、痛い」
 何度も叩かれて、その度に言葉を区切りながらヤマメが訴えてきた。
「止めない、止めないわ――ねぇ分かる、私の気持ちが、あんたなんかに分かるの?」
 肩で息をつきながら腐れ縁の少女の胸に顔を埋める。
「――し、心配なのよ。心配で心配でたまらない。なんでどいつもこいつも私の手をすり抜けていくのよ、あんたまで私の前から消えると思うと、怖いのよ――覚えてる? 覚えてないわよね、私は地獄にだってあんたに付き合ってやるって約束したのに、勝手に死ぬなんて許さない……!」
 妬ましい、妬ましい、その奔放さが妬ましい。まるで私を捨てていった、あの男のようだ。
 ヤマメの身体から離れると、パルスィは眩暈を覚えて後ろに尻餅をついた。
「……妖怪のあんたは人間の気持ちなんか、どうでも好いっての?」
 土蜘蛛は無言だった。上体を起こして首をコキリと鳴らしてから、砂粒のように小さな言葉をまぶした。
「水橋は、ひとつ大きな勘違いをしている」
 袖で涙を拭いながら「なによ」と訊ね返す。
 ヤマメは無感情な目をこちらに向けた。
「……私だって水橋と同じだよ――ずっと昔に、私は人間を止めたんだ」

 その言葉を噛み砕いて呑み下すには、しばしの時間が必要だった。
「……へ、マジで?」
「大マジのマジだよ。云ってなかったっけ?」
「云ってないし、知らなかった」
 ヤマメはまたも頭を掻いた。髪が泥だらけになるだろうに、とパルスィは思った。
「うーん、そっかぁ。私の記憶違いか――大和の連中が私達を指してそう呼んでたのさ、土蜘蛛ってね」
 眩暈が酷くなった。ヤマメは頭を掻きながら遠い記憶のひとつひとつを拾い上げて語ってゆく。

「まさか洞窟に住んでたわけじゃないんだけどね……フッツーに暮らしてたさ、私は普通な女の子で、普通の家にみんなと住んでいて、普通に畑仕事に勤しんでいたある日に、当たり前みたいに皆殺しにされたのさ。鉱山に逃げ込んだまでは好かったんだけど、追手を防ぐためには入口を防がなきゃならない。そっからが地獄、石と砂を食べてるうちに鉱毒にやられちゃって、私の家族は正気を失って、目の前で殺し合った。顔も覚えちゃいないんだけど、死体の匂いだけは覚えてる――あの肉の味もね。暗闇の中で生き延びたんだよ、私、凄いだろ。毒だって克服したし、石を喰ってるうちに怪力だって手に入れたし、そのうちに髪の色まで抜けちゃうし。いつの間にか妖怪の仲間入りさ――瘴気を自在に操る、最凶最悪の大妖怪だよ」

 ヤマメはそれだけの話を、表情のひとつも変えずにパルスィの耳に転がした。
 石ころみたいに色のない瞳で、ヤマメは見つめてきた。
「私はね、どん底から這い上がってきたんだよ。それだから世間の上に胡坐をかいて笑ってる連中のことが、鼻について仕方がないんだ。それだから水橋――パルスィのことが放っておけないんだ。同じ妖怪としてじゃないよ、同じ“元”人間として私はパルスィの怨みが好く分かるんだよ。そこら辺のゴミ屑みたいに捨てられる気持ちがさ」
 そこまで云ってから、ヤマメはようやく笑顔を取り戻して頬のあざを撫でた。
「おー痛ぇ……ほんと容赦ないな。大の男が束になっても敵わんねこりゃ。これだから私は水橋が好きなんだ。おかげで一緒に、貴族連中の鼻っ柱を折って回ることが出来るってもんさ」
 パルスィはヤマメの笑顔を呆然と見つめていた。今の話を受け容れるには腐れ縁の笑顔は眩しすぎた。
「……あんた、どうして笑顔なの。なんで笑ってられるのよ、なんで」
 ヤマメが頬を掻いた。今度は頭じゃなかった。
「そりゃキスメちゃんがいるから。でもってパルスィがいるからさ。他にどんな理由があるっての?」
 今度こそ言葉も失った。同時に、今になって先程の「好きなんだ」というヤマメの言葉が心臓に届いた。そんな言葉を受け取ったのは何百年ぶりのことなんだろう。

 恥ずかしくて俯いていると掛け声が聞こえた。反応する間もなくパルスィの身体は宙に浮いていた。目の前にヤマメの顔があった。
「く、黒谷やめて、自分で歩けるからっ」
「ねぇ、水橋――」
 月明かりにヤマメの泥だらけの笑顔が眩しかった。
「――私はさ、地獄に落っこちることは何でもないんだ。とっくに底は見たからね。でも水橋達が付いて来てくれないことは、正直怖い。水橋が私のことを心配してるのと同じくらい、私だって水橋のことを心配してる。じゃなきゃ独り平安京フルマラソンなんか参加しないよ」
 だからさ、とヤマメはパルスィを抱いて街道に戻った。
「私に付いて来て欲しいんだ、背中を見てくれるだけで好い。あの連中の脳みそに、どうしても私の存在を刻み付けてやりたいんだ。“天下の土蜘蛛、ここに在り”ってさ。それがたとえ一瞬で風になっちまうような、儚い命でも」
 ヤマメはパルスィを下ろすと鼻を啜った。
「あー、カッコ付け過ぎた。らしくない、うん。バッカみたいだ――これが私の答え。譲らん。譲歩は出来ん。以上。水橋先生のご意見を伺いたいね」
 この野郎、とパルスィはまた思った。どこまでいっても憎めない奴だった。鍋に放り込んで煮込んでも食えない奴だ。
 苛立ちと妬ましさが止まらない。どうやら私はずっとこいつのペースに乗せられっぱなしらしい。
 せめて一つだけでも仕返しをしてやりたくて、ヤマメの背中と膝に手を回してやる。
「げげっ――おいこら止めろ、自分で歩けるからっ」
「……一日中走り回って疲れてるでしょ、今度は私の番。決闘までにせいぜい身体を休めておきなさいよ、ヤマメ」
 名前で呼んでやるのは勇気が必要だった。けど効果は上々だった。ヤマメの表情がみるみるうちに崩れて、堰[せき]が決壊してしまう前に胸元に顔を埋めてきた。身体が少しだけ震えていた。

「あーぁ、ははは……なんだ水橋。お前の身体ってこんなにあったかいんだな、知らなかった」
「元は人間だからね。あんたの身体も結構あったかいわよ。うん、悪くないわ」
「直角鬼瓦の癖にあったかいとか、反則だ」
「そっちだって節足女でしょうが」
 結局はこうなる……まぁ、好い。
 これが自分たちの距離なんだろう。悪くない。暑すぎず、寒すぎない――ただ、あったかい。
 パルスィはヤマメを抱きかかえながら、平安京までの道のりを歩いていった。
 月までが微笑んでくれているみたいな、穏やかな夜が続いていた。



【第十幕 ~ 幸せになるための近道】



「やぁ、お嬢さん。そんなとこで膝を抱えてると風邪ひくよ」
「……ほっといて下さいませんか。気分が優れないので」
「お前さん、覚だろ? 二ッ岩の旦那が云った通りか。まだ橋の下にいたんだね」
 旦那の名前を出すと、ようやく少女は顔を上げた。

 月が出ているとはいえ、橋の下となると視界が利きにくい。キスメは身を乗り出して欄干に手をかけて、さとりとご対面した。真夜中に橋脚へ背を預けて乞食のごとくうずくまっている少女は、それだけでもちょっとしたホラーだった。さしものキスメも気軽に声をかけたことをやや後悔した。
「私と関わり合いになっても、ロクなことはありません。二ッ岩さんにそうお伝え下さい」
「ありゃりゃ、話が違うなぁ。話してみると好い奴だって旦那に云われて来たんだけど」
「なんです好奇心ですか。後悔しますよ。生まれたことすら後悔しますよ」
 キスメは肩を竦めた。
「そいつぁ怖いね。おぉ怖い――どうでも好いから、さっさと出てきなよ。尻にカビが生えるよ」
 ケツにカビと聞いて少女はギョッとしたように立ち上がった。キスメは欄干に頬杖を突いて笑った。
「そうそう、その調子。やれば出来るじゃないか。ちゃんと二本の足があるんだ。使い物にならなくなっちまう前にいっぱい使っとかないと損だよ」
 大きなお世話ですと怒りながら、さとりは三つの瞳をぎょろりと振り向けた。頭蓋骨の中身から胃の内容物まで全て見透かされているような感覚が走ったが、キスメは涼しい顔で耐えた。
「うん、目だって三つもあるもんね。そいつだって使わない手はないよ。せっかくの授かりもんなんだ」
 驚きに言葉を失くすさとりを見下ろしながら、キスメはニヤニヤと笑ってみせた。

「……私を恐れないのですか」
「生憎だけど元来が面白主義なもんでね。私が楽しけりゃ大体はオール・オッケーなのさ。そんな風に考えてみるとね、あんたの能力も満更じゃないよ」
 さとりは初めて笑った。
「変な人」
「妖怪だもの」
 キスメは桶に入って、さとりに運んでもらっていた。見た目とは違い意外と力がある。伊達に今まで生き抜いてきちゃいないね、と感心する。取り敢えずマミゾウの茶屋までの道順を説明する。
 さとりはふんふんと頷きながら、ふと気づいたのか訊ねてきた。
「お連れの方がいるんでしょう、二人」
「片方が片方を迎えに行ってる。大丈夫、頼りになる奴らだよ。殺したって死なない」
「信頼しているのですね」
「もう何百年も一緒にやってきたからね。気心は知れたもんさ」
 さとりの声は途端に暗くなった。
「羨ましいです。私は妹の心すら分からないのに」
「へぇ、妹さんがいるのかえ」
「たった一人の妹なんです。名前は“こいし”」
 余りに沢山の気持ちが沈殿していたんだろう。さとりは色んなことを打ち明けてくれた。いったん話し始めると、それは台風で増水した川のようにさとりの口から溢れだした。マミゾウの云った通り、話してみれば好いお姉ちゃんだった。

 妹に「ばっかみたい」と云われたことが、よほど堪えたらしい。桶を強く抱きしめるさとりの表情を、キスメは首を後ろに反らして仰ぎ見た。
 涙を必死にこらえる少女の姿は、とても怨霊からも恐れられる妖怪には見えなかった。積もり積もった心の枷が気持ちの歩幅をどんどん小さくして、遂には歩けないようにしてしまったのだ。こいしはその枷から逃れるために、心そのものを自分という存在から取り外したのだろう。とんでもねぇ逆転の発想だな、と思う。
「あんたは閉じなかったわけだ」
「……私はこいしが幸せそうには見えないのです」
 さとりは片手を離して、ボロボロの着物で涙を拭った。
「誰からも嫌われないけれど誰からも好かれない。そんな石ころみたいな生き方に幸せなんてあるのでしょうか」
「でも目を開いていたら今度は石ころを投げられるわけだね」
 さとりは何度も頷いた。
「こいしの云う通りなんです。私は信じたいんです。信じないとやっていけない。でないとすぐに壊れてしまう」
 キスメは桶のなかで腕を組んだ。元来が面白主義、しかし笑って好い事と笑っちゃいけない事もある。そして笑わないとやっていけない状況だって、この世には存在する。その見極めは、とても難しい。

「キスメさん――」
 さとりは涙声で云った。歩みは止めずに二本の足を動かしながら問いかけてきた。
「私は……私達は、どうすれば幸せになれるのでしょうか?」
 世界でも指折りに難しい問いかけだった。でもって覚妖怪に、はぐらかしは通用しないのだ。キスメは正直な答えを届けることにした。組んでいた腕を解いて頭上の第三の瞳を撫でた。
「……私もね、今が本当に幸せなのかどうかはちょいと分かんない。あんたら姉妹と私では境遇が違い過ぎるからね。ただ一つ同じところを挙げるとすれば、何の因果かこの危なっかしい場所に来ちまったってことくらいかね」
 でもね、とキスメはひとつ頷いた。
「アドバイスってほどじゃないけど、私の生きるコツを教える」
 さとりの三つの瞳が蕾が咲いたように見開かれた。

「そうだね、自分を好きになれなんて私は云わないさ――だけど結局のところさ、あんたは何があっても自分という存在と上手く付き合っていかなくちゃならないんだ。となると、なんだかんだで今の自分を認めてやることの他に、あんたが幸せになれる方法はないんだよ」

 しばらくの間、さとりはキスメの言葉を舌のうえで転がしているように見えた。それが美味しいか不味いかなんて分からないけれど、少なくとも涙は引っ込んだ。
「……簡単に云ってくれますね、キスメさん」
 さとりは今にも頬を膨らましたそうに、むすっと怒ってきた。キスメは笑った。
「そうだね、面白主義なもんで安易に物を云い過ぎちゃうんだ。おかげで要らん面倒に巻き込まれちゃうし、面倒な相手をやたらに煽っちゃうんだ」
「――その状況さえも、楽しむことが大切なんですね」
「そういうこと」


□     □     □


(紫様も奇特な方だ……)
 八雲藍は顎に指を当てながら、夜も深い平安京の通りを歩いていた。
 人影は絶え果て、死体のみが身を腐らし、春風はまるで木枯らしのごとくよそよそしい魔の夜である。都だけが未だに冬が終わっていないかのように寒々としていて、藍は心もち肩を縮めていた。

 紫様の式となって幻想郷を訪れて以来、藍は散歩をしながら物を考えるのが日課になっていた。四季の彩りに囲まれて思考を重ねていると、不思議と気持ちが安らいだ。新緑に息づく風を自分がどれだけ必要としていたかに初めて気づいた。それだけでも主人に付いて幻想郷に赴いた価値はあった。
 西行寺家で紫様と合流し軽い報告を終えた後、藍は夜の平安京へと繰り出していた。久しぶりに訪れた都は積み重ねた年月の分だけ物騒になっていた。

 主人ほどの大妖怪が、たとえ特殊な能力を有しているとはいえ、人間の少女と親しく会話を交わすというのはどうにも違和感があった。死霊を操り舞で怨みを浄化する異能は確かに人間とは思えなかったが、それだけで紫様が入れ込むとは思えない。ともすれば妖怪の害毒ともなりかねない能力だ。藍は恐れ半分で幽々子と接していた。
 あるいは、あの飄々として掴みどころのない性格が主人を引きつけたのやもしれぬ。あの春風のように柔らかで儚い佇まいは、確かに自分では真似の出来ない底知れぬ貫禄がある……。
 そこまで考えてから、藍は「あぁ」と呻いて俯いた。拭い切れぬ違和感の正体が、東の山の端から顔を出した太陽のごとく明瞭になった。
 なんだ、単に嫉妬しているのだ、私は、と首を振る。幽々子様のお気持ちが分からない、と嘆いていた妖忌の顔が思い浮かんだ。己が忠を尽くせなんて説教まがいの台詞を吐いた自分が恨めしい。あの青年の方が自分よりも、よほど誠実に主人と向き合っているように思えてならなかった。

 藍は長く息をついた。これでは何のために平安京に戻ってきたのか分かったものではない。
 何処か落ち着くところを探そうと顔を巡らすと、一軒の家屋が視界に入った。「茶」の一字を染め抜いた暖簾が目に新しい。都に茶屋などあることにも驚いたが、こんな夜更けに明かりが点いていることにも驚いた。
 京の茶もこれが最後かもしれぬ。そう思うと藍の心は急いた。戦が始まれば都は荒廃すると紫様は仰った。その後は本格的に結界術の修行が始まるのだろう。これが本当に最後なのだ。
 よし、と心を決めて藍は耳と尻尾を引っ込めた。で、小走りで茶屋に近づき声も掛けずに粗末な引き戸をがらりと開けた――。


□     □     □


 二ッ岩マミゾウは頭を抱えて座卓に打ち伏した。
 目の前には賭場の損得や貸借に関する数字が松脂の蝋燭に照らされていたが、今ではそれらは干からびたミミズの群れにしか見えなかった。
「ぬえの奴め、いったい何処へ行ったんじゃ……」
 賭場を閉めて戻って来た時には、寝床から旧友の姿は消え失せていた。あの状態で夜の都を出歩くのは危険である。人間の少女よりも多少は腕力がある程度にまで落ち込んだぬえの身体は、それだけでも存在しているのが奇跡なくらいだ。ぬえが退治されたと耳にして都にやってきて以来ずっと恐れていたことが、いよいよ現実になりつつあった。
 式を飛ばして都中を探させたが、妹紅もぬえの居場所も未だ分からぬ。こんな時に妹紅の奴は何をしておる、とマミゾウは奥歯を噛んだ。

「すっげぇ形相だよ旦那。不動明王だって裸足で逃げ帰る」
 ふと不敵な声が転がってマミゾウは目の焦点を戻した。緑色の髪を揺らして、キスメがこちらを覗き込みながらニヤニヤと笑っていた。座卓には湯呑みが湯気を立ててこちらを見上げていた。
「すまんの」
「お安い御用。あまり気を病むもんじゃないさ。ここまでくれば後はなるようにしかならん」
「おぬしは楽天に過ぎる。死ぬか生きるかの問題なんじゃぞ。そりゃ頭を抱えたくもなるわい」
 キスメは肩をすくめた。
「とはいえね、あまり不穏な空気を出しちゃうと好い子が目を覚ましちゃうよ」
 マミゾウは「むむむ」と唸った。キスメと二人して奥の座敷を振り返る。麻の粗末な布団に丸くなっている少女が、ことりと寝言を立てた。それは早朝に目覚めた小鳥がさえずるように高く、そして細かった。

「……好く寝とるようじゃの」
「そうさね。人間の赤子みたいだ」
 こうして見ると本当に幼い子供みたいに見える。藤色の髪だけが布団から覗いていて、小さな身体はすっぽりと布団に収まっていた。まだ冬が終わっていないかのように。さとりは微笑みさえ浮かべて眠っていた。
 とてつもなく久々の安眠なのだろう。これほど気持ち好さそうに眠りこける者をマミゾウは他に知らない。その様子は、これまでのさとりの半生がいかに過酷であったかを物語っていた。マミゾウは思わず目頭が熱くなった。

「ところで、キスメよ」
 湯呑みの茶を啜ってからマミゾウは云った。
「おぬし、なんでこやつを連れてきたんじゃ?」
 キスメはまたも肩をすくめた。
「旦那が連れてこいって云ったんじゃないか」
「儂は知らんぞ。これこれしかじかと話をしただけじゃ。おぬしの耳はひとつもふたつもぶっ飛んで物を拾うようじゃの」
「いやね、この子を見てると昔を思い出すんだよね。放っておけないっていうかさ、どうにかしてやりたいって思って」
「嘘をつけ。面白くなりそうだから拉致しただけじゃろ」
 バレたか、と妖怪は舌を出す。ヤマメたちとは十数年来の付き合いをしてきたマミゾウには分かる。キスメこそが一番の癖者であり、切れ者であり、おまけに無類の面白好きであることを。
 面白主義の妖怪は意地悪い笑みを絶やさず、さとりとこちらの顔を交互に眺めていた。
「とはいえ旦那だって気になってたんだろ? なら好いじゃないか。それとも、なんか不都合でもあるってのかい?」
「……今さら追い出す訳にもいかんしなぁ」

 また会えますか、そう力ない声で追いすがってきたさとりの姿が目に焼き付いていた。こういう相手には弱いのだ。だから、あちこちの面倒を引き受けてしまって、後になって損を被って後悔する羽目になるのだ。
 おせっかいも大概にせねばならんな、とマミゾウが苦笑を漏らした時、玄関の戸が開かれた音が聞こえた。こんな夜更けに客である。もちろん表の暖簾[のれん]は偽装だった。このご時世、薄汚い茶屋にまで金を落としにくる輩はいない。ましてや時間が時間、ならば裏の賭場の筋であろうとマミゾウは見当をつけた。
「客だね」
「客じゃな」
 耳と尻尾を限界まで縮めてから、マミゾウはよっこらセックスと身体を起こした。

「いらっしゃいまし、この夜更けにようこそおいでくださいやした」
 と番頭口調でマミゾウは上がり口に両の拳を突いた。
「いや、すまんな。こんな時間に。久々に京に戻ってきたんだが、どうしても茶が呑みたくなってな。しばしの間、ゆっくりさせて欲しいのだが」
 どこかで聞いたことがある声だった。はてな、と思いながらマミゾウは答えた。
「左様で。なになにお気になさらず、眠らないのは慣れておりやす。ささっ、草鞋[わらじ]をお脱ぎなさって、心ゆくまでご逗留くだせえ」
 すまないな、と相手は重ねて云った。どうやら本当に茶屋の方の客らしい。驚きを表情に出さないよう努めて顔を上げてみる。
 ……二人は数秒の間、見つめ合った。で、同時に悲鳴とも雄叫びともつかない声を上げた。

「――て、テメェは九尾!!」
「そういう貴様は佐渡の二ッ岩!!」

 二人はお化けに出会ったみたいに腰を抜かした。間違いない、二度と会うことはあるまいと思っていた九尾の妖狐が目の前にいた。すっかり化けの皮が剥がれてしまった二人は同時にモフモフの耳と尻尾を出した。
 マミゾウは抜けた腰をなんとか立て直そうともがきながら、妖怪を指さした。
「ば、化けて出おったな! この疫病神が、何しに冥土から戻ってきおった!?」
「貴様こそ、なぜ都にいる!? こちとらおかげでメッタ刺しにされて鍋に放り込まれるところだったんだぞ!」
「おぬしの肉なんぞ煮たって焼いたって喰えたもんじゃないわい!」
「貴様の肉こそ獣臭くて煮え立つ前に鍋が腐るわ!」
「云ったな、この薄汚い女狐が!」
「なんだと、この××××野郎!」
 取っ組み合いを始めた二人を見かねたのか、キスメが座敷から顔を出した。
「おーい、近所迷惑だよ。さとりを起こしちまう」
 キスメはやれやれと背を向けた。その後頭部に計十本の尻尾のフルスイングが直撃し、哀れ釣瓶落としは座敷の反対側まで盛大に吹っ飛んだ。

「……要するに、お二人さんは因縁の腐れ縁ってわけだ」
『左様でございます』
 頭にほかほかのたんこぶを乗っけた二人の大妖怪は、土下座の格好から顔を上げて声を揃えた。
 キスメはたんこぶをさすりながら茶を啜った。
「なるほど、あんたが院を騒がせた例の玉藻前様だね」
「歴史に詳しいんだな、釣瓶落としの癖に」
「あぁん?」
「いえ、すんまへん」
 九尾は慌てて頭を下げた。大妖怪も形無しであった。
「いやぁ、しっかしおぬしが生きておったとはのう。こりゃめでたいめでたい」
「心にも思ってないことを、よくもぬけぬけと」
「おう何なら今すぐ鍋にしてやろうか。おぬしの肉を肴に酒盛りじゃ、さぞかし愉快千万であろうよ」
「やれるもんならやってみろ、この××××野郎」
「……お二人さん?」
『すんまへん』
 狐と狸は再び床におでこをくっつけた。


 九尾がマミゾウとの大博打に惨敗して多額の負債を背負っちまったのは、二十数年も前のことである。
 その頃の九尾は、更正する見込みの欠片もない暴走族のごとく院を荒らしまくっていた。美しい女官に化けて宮中に愛想と毒気を撒き散らす様はまさに傾国の美女さながらで、保元の乱が勃発したのも影に九尾ありと噂されたほどであった。
 同じ頃、ぬえを探しに京を訪れていたマミゾウは狸を差し置いての狐の横暴に義憤を巡らした。これを捨て置いては狸の名が廃る。歴史とは狐が創るものにあらず、狸が綴るものである。で、五丈原で仲達を走らした孔明のごとく九尾を挑発して散々に打ち負かしてやった。
 でもって手っとり早く負債を返上しようとした九尾は、あろうことか天上におわします三種の神器を盗みだそうとした。マミゾウはすかさずこれを宮中の陰陽師へ密告、三味線の材料よろしく化けの皮を剥がされた九尾は、弾かれたパチンコ玉のごとく平安京を追い出されたのである。
 その後は那須野の地に伏してより数年、悪しき狐は編成された討伐隊により鍋にされたはずである。少なくともマミゾウはそう聞いた。ざまあ見ろと高笑いをしてやった後、九尾の霊魂が冥土で安らぐよう、ささやかな祈りを捧げた。

「――いいか、二ッ岩。私はあの時の屈辱を決して忘れてはいない。今度という今度は私が勝利の美酒を味わってやる。貴様はその肴に串焼きになると好いだろう」
 九尾改め八雲藍は、そう云って湯呑みをぐいっと呑み干した。
「おうおう受けて立ってやるぞい。二度と冥土から戻ってくることが出来んよう、儂自らが鍋にしてやる」
 マミゾウもトックリの酒を呷るがごとく茶を呑み下した。
 両者とも、完全に主人や旧友のことなど忘れていた。
 キスメはキスメで「こいつぁ面白いことになってきたぞ」というハチミツを目前にした黄色いグリズリーのごとき形相を浮かべていた。
「そういうことならツボ振りはこのキスメが務めるよ。明日の朝、賭場が開くと同時に一世一代の大勝負がおっ始まるってわけだ――お二人さん、それでよござんすか?」
 キスメは腕を組んで一座をギロリと睨み渡した。金筋入りの博徒のごとき貫禄に、マミゾウも藍も思わず目をこすった。

「それで文句はない。明日の朝だな。逃げたら承知しないぞ、二ッ岩」
 藍は立ち上がり、モフモフの尻尾を威厳たっぷりに揺らした。マミゾウは座卓に頬杖を突いて不敵に笑った。
「おうとも――ただし儂は打たん。悪いが代役を立てさせて貰うぞい」
 藍がはたと立ち止まり、ブリキ人形のごとく振り返った。
「なん……だと……」
 その段になって、場違いな幼い声が座敷に転がった。少女さとりのお目覚めである。目をこすりながら欠伸を漏らす覚妖怪を見たマミゾウは、ますます笑みを深めた。
 藍が呆然と口を開く。
「……二ッ岩。まさか、貴様」
「かっかっか、その通りじゃとも――さぁ、さとり。ようやくおぬしの出番じゃ! 晴れ舞台じゃ!」
 何が起こったのやら分からず、口を半開きにして見上げてくるさとりの細い肩に、マミゾウは頼もしげに両手を乗せてやった。



【第十一幕 ~ 優しさと愛しさの境界】



「こんなところにいたのですか、小野塚」
「なんですか閻魔様。お説教なら間に合ってますよ」
「……貴方まで、あの子のようなことを云うのですか」
「そうですよ。あたいは連れてくるべきでない奴の首を刈っちまったんです」
 小野塚小町は眉間に皺を寄せて上司に噛みついた。

 三途の川は茜色に染まり輝いていた。天上に夕日が出ているわけではない。川に溶かされた億万の魂が、特定の時刻に至ると血の色を滲ませて浮かび上がってくるのだ。
 小町は彼岸花が群生した岸辺に座り込みながら、大鎌の柄に仕込んだ笛を吹いて取り留めのない歌を奏でていた。何かを考えるには心が頑なで、古代ギリシャの石像のように憮然とした表情が顔に貼り付いたまま取れなかった。
 四季映姫は無言で隣に腰掛けてきた。小町は横目で絵に描いた餅のように真面目な上司を見つめる。旧態依然を保っている連中からは“堅物”と呼ばれ蔑まれている、古今無双の叩き上げ閻魔は一度も小町の前で愚痴をこぼしたことがない。
 つい先日まで適当かつ要領の好い上司の下で働いてきたせいだろうか、今更になって小町は自分の職掌の意義が好く分からなくなった。命の儚さを前にして、輪廻の空しさを前にして、善行を積むということが、公明正大な裁きを下すということが、一体どれだけの意味を持つというのだ?

「花のいろは 移りにけりな いたづらに」
 ぽつんと言葉を川に放り込む。
「わが身世にふる ながめせしまに……か」
「なんの歌です、小野塚」
「覚えちゃいません。耳に強く残ってはいるんですが、いつ何処で聴いたのやらさっぱりですわ」
 映姫は「ふむ」と頷いた。
「悪くない歌ですね。身の無常を悟ることほど清い宝はありません。“己が無知を知る”も同じことが云えますが」
 なんて面白味のない答えなんだろう、と小町は呆れた。堅物もここまで来ると尊敬に値する。

「……閻魔様、この際だからハッキリ申し上げておきたいんですがね、あれはちょいと筋違いじゃないですか? 生きてりゃ誰だって悪いことはします。ましてや根無し草、永遠の命に乱世とくりゃ、自分の身を守るために人を殺したって仕方ないじゃないですか」
 晩夏の蝉のように力なく倒れていた少女の姿が、胸の奥に刻み込まれて離れない。鮎の塩焼きを頬張っていた時の幸せそうな微笑みも。
 二つぶんの息を吐く間、映姫は足下の彼岸花を愛でていた。それからひときわ長く息をついた。
「……貴方は私の前任のおかげで、ずいぶんと楽をしてきたようですね。“仕方がない、やるしかない”――その思いがどれだけの罪を作りだしてきたのか、どれだけの命を散らしてきたのか。私はあの子の犯した罪そのものを罰したのではないのです。償おうという意志を放棄したことを罰したのですよ」
 小町は云い返せなかった。他のお迎え担当の同僚達と比べて、自分はずっと甘い蜜を吸ってきたという自覚はあった。平和が一番と云うなら、そもそも死神という仕事は儲からない方が好いのだ。そう思って今までやってきた。

「それはそれとして――はい」
 映姫が封筒を手渡してきた。中にはお決まりの令書が入っていた。
「なんですか、これ」
「書類を洗っていたら別の者が見つかりました。寿命はとっくに迎えているはずなのに裁判記録からは抜けていて、しかも現世に留まっている魂です」
 口で云うのは簡単だが、膨大な叢書[そうしょ]から一件の魂を洗い出すのは並大抵の作業ではない。ましてや、ただでさえ情勢不安定な地区を担当に回されているのだ、裁判に忙殺されている中で過去の書類にも目を通せるなんて信じられん。両手で別々の作業ができるのか、それとも単純に化け物なのか。
 背筋が冷たくなる。
「それで? 今度のお相手は仙人ですか?」
 映姫は首を振った。
「恐らく違う。所在がはっきりしているし、仙丹を使用した形跡もなし、おまけに付近の魂が集まっている――何かがおかしい」
「魂が集まっている?」
「未練を残している魂がその少女の手にかかると、生前の怨みを洗われて彼岸へと行き着いてしまう。とても人間業じゃないわね」
 それなら私の仕事が減るじゃないか、やりィ、とか云っている場合ではなかった。小町の耳は不穏な単語をしかりとキャッチしていた。
「ま、また“少女”ですか」
「永く生きてはいるけれど」

 大鎌の柄を握りしめる。もう訳の分からん女の子に関わるのは懲り懲りだった。こっちまで大火傷をしかねない。しかも仙人でもないのに永く生きているときた、条件は全く同じだ。嫌な予感がする、それも富士山のごとく特大級の。
「向こうが勝手に怨霊の卵を処理してくれてるんでしょう? なら好いじゃないですか。何もこっちから手を下す必要はないですよ」
 上司は無言で見つめてきた。本当にそう思っているのか、と云いたげな視線だった。両手を動かして説得を試みる。
「もっと賢く生きましょうよ、閻魔様。死霊を操る能力、結構なことじゃないですか。いっそのこと冥界の管理人にでも推薦しちまえば好いんだ。成功すれば大出世、こんな狭っ苦しい国なんてオサラバして、もっとやりがいのある場所で仕事ができます。せっかく素晴らしい成績を残せているんですから――」

 訴えは最後まで続かなかった。上司が瞳を閉じたかと思うと、目にも留まらぬ速さで張り手を見舞ってきたからだった。
 呆れましたよ小野塚、と閻魔は云った。
「狭っ苦しい? 汚らわしい? 反吐が出る?」
 いやそこまでは云ってねぇよ、と小町は思った。
「私は出世のために裁いているのではありません。ひとえに輪廻を正しく巡らせるために、可能な限り公正に判決を下しているのです。たとえ国土が狭くとも、裁きを待つ魂の切実さに何ら違いはないのです」
 小町は右手を頬に当てて、左手で身体を支えた格好で、立ち上がった上司を呆然と見上げた。映姫は真剣に怒っていたし、真摯に自分に語りかけていた。その眉間に藤原妹紅の裁判の時と同じような皺が寄っているのが分かった。
 それは明らかに苦しみの表情だった。“小町、貴方は残酷だと思う?”――そう問いかけてきた映姫の微かな声が、確かな頬の痛みと一緒になって小町の胸を軋ませた。
「し、四季様……」
「貴方には失望しました」
 それ以上、映姫の顔が見られなかった。母親に叱られた幼い童になったような気持ちだった。死神として働き始めてから、こんなに惨めで切ない気持ちになったのは初めてのことだった。

「……なぜですか四季様。なんであたいなんかに、そんな真剣に怒るんですか? なんで、そんな真剣に叱ってくれるんですか?」
 頬が痛い。どうしてこんなに痛いんだろう、とぼやける視界のなかで思う。
 四季映姫は表情を緩めてくれた。膝を曲げて視線の高さを合わせると、上司はそのまま額をくっつけてきた。微かな線香の匂いと、彼岸花の香りがした。
「貴方が放っておけないからですよ。迷惑かもしれませんが、私は貴方に期待しているんです」
 映姫は子守歌を転がすように囁いた。
「小町――貴方は優しい。死神としては珍しいくらいに優しい。その優しさを捨ててはいけません。他の方々は優しさを捨ててこそ務まる仕事だと考えているでしょうが、私はそうは思わない。命を背負えるだけの優しさがなければ、この仕事は決して務まりません。そして本当の優しさとは“何がその人にとって必要か”を諭してあげることだと私は思っています。だからこそ私達は裁くのです。それも平等に、均等に、偏りなくね」
 上司は肩をぽんぽんと叩いてから、また立ち上がった。その手が離れていったことを小町は残念に思った。

 あの時の映姫の言葉が、また耳に蘇ってくる。藤原妹紅という少女にとって本当に必要なこと、それが真の意味で不幸な少女を救うことに繋がるならば、それ以上の優しさはないかもしれない。けれど、その優しさこそが残酷なのではないか――上司は、そう問うたのだ。
 “すべてを受け入れる”だけの優しさは、時として残酷にもその色彩を変えてしまう。

「今回の件も藤原妹紅と同じでしょう。望まぬ境遇に身を晒され、孤独な身の上に喘いでいる少女です。救わなければなりません。それも一刻も早く。でないと大変なことになってしまうかもしれない」
「大変なこと、ですか」
 映姫は首を振った。
「直感みたいなものですよ。いつもなら勘なんて信用しないのですが、今回ばかりは違います。経験的に分かります。他の魂にまで悪い影響を与えかねません。悲劇が起こってしまう前に救わなければ」
 貴方まで、あの子のようなことを云うのですか、そう言葉を落っことした時の上司は、どれだけ辛そうな顔をしていたのだろう。胸を痛めていたのは、後悔に苛まれていたのは、本当に自分だけなのだろうか。
 映姫の背中は何も語らなかった。けれど、その肩にのしかかった責任の例えようのない重みだけは、すっかりサボり癖がついてしまった自分にも好く分かった。

 もしかしたら、と思う。もしかしたら前任の上司も本当は辛かったのではなかろうか。自分が見ていないだけで、あるいは見て見ぬふりをしていただけで、裁判席の影で両手を握りしめていたのかもしれない。
 どれだけ切実な事情があろうと、罪は罪。逝くのは天か地獄か冥界か、その三つしかないのだ。情を見せてしまっては、次から次へとベルトコンベアーみたいに送られてくる人生に心が保たなくなる。
 もし前の上司がサボっていたのではなくて、背負い込みたくなかったのだとしたら。命の重みを跳ねつけるべきか、それとも背負ってやるべきか――あの閻魔は前者を選び、そして四季映姫は、あえて辛い道を選んだのだ。
 ……やっぱり、閻魔なんてあたいの務まる代物じゃない、と小町は息をついた。蹴り飛ばして済ませるほど自分は要領が好くないし、受け入れて背負い込むには自分は情に脆すぎる。
 ならば、あたいに出来ることは何か。この優しい閻魔のために、はぐれ者の死神が手伝えることは果たしてあるのだろうか。
 答えは――すぐに出た。
 大鎌を背負い直して、彼岸花を踏みつけないようにして立ち上がる。映姫の隣に寄って立つ。ある確信めいた思いが小町のなかで生まれている。今ならあたいは――この人のお側に立てる、と。
「……閻魔様、いえ四季様。ご命令、確かに承りました」
「えぇ、ありがとう。頼みましたよ、小町」
 映姫は前を見据えたまま云った。そう、振り向いてくれなくても好い。その背中を見れば、あたいは四季様がどんな顔をされているのか分かるから。決して完璧とは云えないけれど。

 深呼吸を終えてから、小町は問うた。
「それで、奴さんの名前は?」
「――西行寺幽々子です。宜しくお願いします」


□     □     □


 西行寺幽々子は目覚める。
 どうやら夜明けが近いようだ。空気の匂いでそれが分かる。桜の花は露に濡れていることだろう。春一番が吹いたとはいえ、まだまだ肌寒い。
 障子を透かして月明かりが舞い込んでいる。まるで雲の隙間から差し込んだ陽の光のように。障子の向こうには影がある。その形だけで誰かが分かる。寒さを堪えて布団から抜け出して、縁側へと向かう。

「まだ夜は明けてないわ。人間は寝てなさいな」
「意地悪ね。ここまで来るともう妖怪みたいなもんよ」
「私から見れば、あなたなんてか弱い少女、それこそ蝶々ね」
「そうねぇ。紫のようなおばさんから見れば確かにね」
「ンだコラ、てめぇもう一回云ってみろ」
 こんな会話を笑顔でするあたり、この妖怪との付き合いも長くなってきたな、と思う。


 父の命を救ったというその妖怪は、幽々子にとって初めての友人だった。妖忌は何とも胡散臭ぇと警戒していたが、底の感情が読みとれない紫の微笑みにも、ちゃんと理由があるのだろう。大妖怪として永く永く生きていると感情の起伏を失くしてしまうのだ。老成して精神を磨耗させてはならないと精一杯に努力した結果が、この微笑みなのだろう。
 独りぼっちで生き続けて人間としての感情を失いかけていた自分には、その努力の跡が好く分かる。だから紫を見習って出来るだけ笑顔でいようと決めたのだ。その結果、妖忌はますます自分のことが分からなくなったと影で嘆いているようだが、まぁ好い。


「そういえば……」
 どうしたの、と友人は返事を放る。隣り合って呑み交わす酒は、また格別に美味しい。酒は環境如何で味がいかようにも変わる、まさに魔法の呑み物だと思う。
「あの子たちのことだけど」
「えぇ、分かっているわ」
 八雲紫は気だるげに云った。これは疲れているな、と思った。無理もない。ひとりでも多くの妖怪を救おうと全国を飛び回っているのだ。今はほんの休憩といったところだろうか。
「あの子が鵺ちゃんと一緒に幻想郷に行くことは出来ないの? そうすれば何もかもが丸く収まるじゃない。その辺りの仕組みは私も分からないんだけど」
 紫はしばし無言だった。どう説明すれば分かってもらえるだろうか、と目線が脇へ泳いでいた。酒を少し舐めてから、友人は音も無くため息をついた。
「……私だって事情が許せばそうしたい。でも無理なのよ。あの子は蓬莱人だけどあくまで人間で、しかも元々は妖怪の退治屋。対してぬえちゃんは生粋の妖怪。境界はハッキリと隔てられているの」
「だから何よ。境界をいじるのはあなたの専売特許でしょう」
「それが駄目なのよ。幻想郷の全ては微妙なバランスで成り立っていると云っても好い。一緒に入るには、あの子たちは親密すぎるの。互いに依存しすぎている。他の連中が黙ってないわ。ましてや鵺、仮にも都を騒がせたんだからいつまでも隠し通せるとは思えないし……妖怪と退治屋、境界は明確に、そのルールを破るわけにはいかない。一つの例外も認めるわけにはいかないのよ」
「どこまでいっても、人間と妖怪は相容れないってこと?」
「……簡単に云えば、そうね」
 ふいに胸の痛みを覚えた。月が滲んだように思える。
「私と紫も、あるいはそうなのかしら」
 友人が息を詰める気配が伝わってきた。
 川から引き揚げたあの子を見た時から、自分と何処か似ていると思った。まるで近しい親戚であるかのように妹紅という少女が他人とは思えなかった。姓も藤原だし、まさか本当に遠い親戚かもしれないわね、と心のうちで苦笑が漏れる。
「幽々子。あなたは時たま、いきなり痛い所を突いてくるから敵わないわ」
「そう? 私はあなたの、その変に優しいところが嫌いじゃないんだけど」
 紫は音を立てて酒を呑み干した。怒らせてしまったようだ。
「“変”とはどういうことよ。私はいつだって優しいつもりなのに」
「器用すぎて逆に不器用になってるのよ、あなた。頭が回りすぎるから、いつの間にか素直な言葉がかけられなくなったんじゃないかしら?」
 また痛い所を、という顔をして紫は酒を注ごうとした。幽々子はその手を遮って酌をしてやった。

「……はぁ、夢を見るのは止めて、さっさと現実に目を向けろ。それはごもっともなんだけどねぇ」
 と友人は云った。
「それでも、つい期待しちゃうのよ――いつか人間と妖怪が、己の本分を守りながら手を取り合う時代がくるんじゃないかって。そういう意味では、あの子たちも悪い時期に巡り会ったものね」
 私と紫もね、と心のなかで付け加えてやる。
 スキマ妖怪は続けて云った。

「人間は――やっぱり愚かだわ。幻想を捨てて生きようとするから、現実の辛さに打ち負けてしまうのよ。彼らは幻想の役割を分かってない、いや、いつの間にか分からなくなったのよ。もう決して元には戻せないほどにね。ちょうど大人が子供に戻れないのと同じように。いつかは人間も自分の子供から幻想を奪い去ろうと必死になるわよ。賭けても好いわ」

 ……それは、いわば愚痴だった。妖怪の賢者が漏らした、そして自分の他には決して聞かされることのないであろう、大妖怪の愚痴であった。お酒が入れば代わりに愚痴が飛び出すのは人間も妖怪も一緒なのに、どこで道を違えてしまったんだろう、純粋に疑問に思う。
「でもね、紫」
 友人は振り向いてくれた。幽々子は紫と同じように思いの丈を告白する。

「私――この国が好きよ。そりゃ確かに争いは絶えないし、妖怪から見ればどんどん汚くなって、どんどん醜くなっていくように見えるかもしれないけれど、それでも私はこの国と、この国の人が好きなの。みんなまとめては無理かもしれない。でも出来るだけ多くの人を好きになりたいって思うの。心を持てることの何が素晴らしいって、“好き”になれることほど嬉しいことはないわ」

 友人は目を見開いて、しばらくの間こちらを見つめていた。何か悪いもんでも食っちまったんじゃないか、という顔をしていた。で、突然に笑い出した。
「ほんっと参ったわ。幽々子には完敗よ――幽々子に乾杯、人間にも乾杯、この国にも乾杯よ、まったくもう」
 発作でも起こしたみたいに、友人は笑いが止まらないようだった。幽々子もそうだった。杯を月へと掲げた。
「ふふ、妖怪にも乾杯、紫にも乾杯」
 友達を持って好かったと思うのは、まさにこういう時だ。
 幽々子はしみじみと感じながら杯を空けた。



【第十二幕 ~ 源頼政と封獣鵺】



(のぼるべき たよりなき身は 木の下に 椎をひろひて 世をわたるかな……か)
 源頼政は歌を詠み上げた後、扇を丁寧に閉じて力なく息をついた。

 庭からは小鳥の鳴き声が舞い込んできている。もう明け方なのだ。眠っておかなければならないのに結局、一睡も叶わなかった。明かりは燭台に灯った蝋燭がひとつだけ。薄暗い闇のなかで昔日の歌を詠み返していると、いま自分が生きているということに確信が持てなくなってくる。まるで散りゆく花のように、身体が頼りなく感じる。次の瞬間には風にさらわれてしまいそうなくらいに。
 当たり前か、と胡座に肘を立てて頬杖を突く。すでに七十をとうに越えた。いつ病を得て死ぬかも分からぬ、ウスバカゲロウのような命だ。ただ夜にさえずる鳥を追いかけ続けて、気力で生き抜いてきたようなものだった。
 板敷に放り出した扇の隣には、平宗盛が寄越してきた書状が横たわっている。なんでも明日の朝、いや今日の朝、仲綱の屋敷へ腕の立つ者を集め弓を競い合う催しを開くのだという。三位殿にも臨席を賜りたく云々。親子そろって笑いものにでもする気だろうか。先の連歌会の惨状を思い出してしまい、頼政は鳥肌が立った。同時に宗盛に対する冷めた怒りが瞳の奥で渦巻くのが分かった。もっと他にするべきことはないのか?
 今や弓を引けるだけの力があるのかも怪しい。息子に全てを託すしかない。しかし、ここ一番という所で間抜けなお猿さんのごとくすっ転ぶ仲綱の性分を鑑みるに、先行きは何とも暗かった。

 それを云うなら、この先の摂津源氏の見通しも深海のように暗い。百年兵を養うはただ平和を護るため、そう息子を諭したまでは好い。だが自分が世を去った後、一族はどうなってしまうのだろう。清盛の覚えがめでたいものだから平家の連中もこれまでは手を出してこなかった。
 だが清盛までが煙になれば、実権を握るのはあの宗盛である。仲綱と宗盛の仲は最悪だ。顔を合わせる度に野糞を投げつけ合うくらいに険悪だ。いちゃもんをつけて攻められれば一巻の終わり。大義名分など相手を叩き潰した後からいくらでも用意できる。

 平和という名の滅亡か、大義という名の戦乱か。義を捨てるべきか、それとも愛を捨てるべきか。自分の裁量ひとつで摂津源氏の命運が定まる。同時に平安京、いや、この国に生きる人々すべての未来が変わるのだ。
 頬杖を突くことすら落ち着かなくなって、頼政は両手で頭を抱え込んだ。まばたきも出来ず、呼吸と心臓の音が合わず、喉元まで胃液がせり上がってくるように感じられた。

 ――出家と称して京を出たらどうだ? この世の中、武士ほど空しい職はないぜ?

 こんな時になって、友人の声が重みを伴って頭をもたげてきたのは痛恨であった。親友には先立たれ、恋には敗れ家を捨て、娘と別れた義清の気持ちが悲しいほどに胸に迫ってきた。
 何の因果でこんなことになってしまったのだろう。只々、もう一度会いたかっただけなのに。それだけを一途の希望に職務に邁進しているうちに、いつの間にか舞台の袖から引きずり出されてしまった。
 ……俺の人生は頼れる綱のひとつもなく、椎の木を登り続けてきた空蝉[うつせみ]のようなものだ。風がひょいと吹けばひとたまりもなく振り落とされてしまう儚い身の上。これまでは要領好くかわしてこれたが、今度ばかりはどう転んでも大きな痛みを伴う結末しか待ち受けていない。
 仲綱を始めとした一族、早太を始めとした郎党、その一人一人の顔を心の曇り空に描きながら、頼政は重い重い息を漏らした。それは鉄塊を吐き出すように確かな感触を持った溜息だった。


 蝋燭の炎が不気味に揺れたのは、まさにその時だった。
 空気がにわかに冷え込んだかのように感じられて、慌てて刀の鞘を握りしめた。この感じには覚えがあった。一昨日のスキマ妖怪が早朝の濃霧のごとく醸し出していた、それは妖気だった。
 震える指先に無言で喝を入れてから、思い切って庭の方を振り返る。
 次の瞬間、頼政は刀を取り落としていた。誰何[すいか]しようとした唇は、開いたまま凍り付いた。

 ――目の前に、二色三対の美しい羽を生やした少女が立っていた。

「ぬっ――!?」
 危うく叫んでしまいそうになったところ、少女の羽が魔物のように伸びて口を塞いできた。頼政は塩を振りかけられたナメクジのごとく、モガモガと抵抗した。
「……あー、やっぱりあんたには効かないか、タネ」
 可愛らしくも儚げで、澄み渡るも怪しげな少女の声が、両の耳を確かに打った。まるで夜の桜の花びらみたいな声だった。その声を聞いた途端に、熱せられた血液が身体中を巡りゆく感覚が蘇った。ずっと恋い慕ってきた少女の声を、自分がどれだけ深く必要としていたか改めて思い知った。世界という世界が色を取り戻したように見えた。
 妖怪・鵺は視線を逸らしながら、小さな歩幅で歩み寄ってきた。

「えっと、そのさ。久々だね……頼政でしょ、あんた――源三位頼政だよね?」

 鵺の口から紐解かれた“頼政”の響きだけで、もう感無量だった。最初の驚きが潮騒のように去ってゆくと、次に響いてきたのは万感とも云うべき切ない思いだった。奥歯を食いしばって何度も何度も、絶対に泣くんじゃないぞ、と胸に云い聞かせなければならなかった。
 真っ黒に染め抜いた着物も、形容のしがたい翼の形も、ついでにニーソというか足袋も、何もかもがあの時のままだった。時を飛び越えて会いに来てくれたかのように。
「そうだ、私が源頼政だ」
 声が震えないよう気をつけて答えると、鵺は少しだけ微笑んだ、ほんの少しだけ。記憶にある鵺よりもずっと幼く、いや弱々しく見えるのは気のせいだろうか。呼吸もどことなく荒い。月明かりのせいか顔も幽鬼のように青白かった。

「そっかそっか。好かった、やっと会えた。ほんと苦労したんだからね、あんた元の屋敷にいないんだもん」
「出家したからな。老いぼれは引退だ」
 鵺の微笑みが溶けて消えた。蛍の明かりが闇へと沈むように。
「……二十年、だもんね。普通の人間だもんね、あんた」
「そこらの連中よりは頑丈なつもりなんだがな、これでも」
「見た目もぜんぜん違う。ほんとに頼政なの?」
 また声が詰まった。そうだよ、俺が頼政なんだよ、と何万回でも云ってやりたかった。どれだけ姿形が変わろうと、心は変わらなかったんだと知ってもらいたかった。
 鵺が、また一歩と近づいてきた。
「……なんて顔してんのよ。ぬぇ、怖くないの? 今の私なら、あんたを簡単に殺せるんだよ? 串刺しにして焼いて喰ってやったって好いんだよ?」
「お前に喰われるなら、それも悪くないと思っていたところだ」
 三対の羽が今にも突き刺さんばかりに動いたが、そのどれもが害意を持っていないのは明らかだった。鵺の顔を見れば、それが分かる。怒りとも怯えともつかない、正体不明の感情が少女の顔を染めていた。
「このヤロ、ヘラヘラしちゃってさ。いつかの死に損ないに巡り会えて、そんなに嬉しいわけ?」
 何度も頷きを返した。声が遅れて付いてきた。
「そうだよ、嬉しいんだ本当に。お前が生きていてくれて」
「……あんた頭おかしいんじゃないの?」
「自覚はある。友人からもそう云われたよ」
 羽が動きを止めて垂れ下がる。表情を緩めてくれた。どうやら信じてもらえたらしい。ぶつぶつと何事か呟いてから、鵺はその場に座り込んで視線の高さを合わせてきた。

 その時、視界に焼き付いたのは鵺の左手首だった。真新しい包帯が巻かれている。
「それ……」
「うん、あんたのアレ。まさか当たるとは思わなかったよ。いわくつきみたいだね、今でも傷痕が消えないんだ」
 そんな馬鹿な、と云いそうになったのを堪えた。この少女は、あくまでも妖怪なのだ。人間の尺度で計ってはならない。
 頼政は頭を下げた。板敷に額が着きそうなほどに深く。まずは謝らなければならない。話はそれからだった。
「――すまなかった。私のせいで、お前には大変な苦労をかけてしまった……本当に、本当にすまなかった」
 謝罪の言葉は、思ったよりも素直に口から飛び出した。同時に、ずっと背負い続けてきた荷物が少しだけ軽くなったように感じた。許してもらえた訳ではない。それでも、俺はずっと鵺に謝りたかったのだと痛感する。鵺と再会できなければ、この謝罪も届くことはなかったのだから。
 ことりと音が転がった。少女の足が動いたのだ。恐る恐る顔を上げる。天下人たる清盛が相手でも、決して臆することはなかった。それが今は、たった一人の少女を相手に心は怯えていた、冬の雨に打たれる小鹿のように。
 鵺は複雑そうな表情を浮かべていた。美味いのか不味いのか、甲乙つけがたい珍味を食べた時の顔だ。
「な、なんで謝んのよ。あんた大手柄じゃない。おかげで出世できたんでしょ? そのための妖怪退治じゃないの?」
「人間の全てが妖怪を拒むわけじゃない。私は妖怪と分かり合いたい、それだけは承知してくれないか、鵺」
「図々しいわ、そんなの。今更よ。退治した途端に手のひら返してさ。あんたも妖怪は退治するべきだって思っていたんでしょ? 分かり合おうなんて気持ち、カケラも無かった癖に」
 否定はできない。鵺を退治して出世したのは公然たる事実なのだ。そして、妖怪は滅せなければならないと盲目的に信じてきたのも確かだった。鵺が吐き捨てた“今更”という言葉は、二十年の重みを抱えて凝り固まっていた。熱せられた鉄を打てば強靱な鋼に生まれ変わるのと同じように、年月をかけて冷やされた想いは強固な偏見に正体を変えてしまう。
 妖怪の少女は視線を逸らしてから、ひとつ息を零した。
「……私は、別に苦労なんかしちゃいない。あんたが謝る必要なんてないよ。むしろさ、このぬえ様を墜としたんだから褒めてやりたいくらいだよ」
「でも私は後悔している。出来るなら償いたい」
 鵺は困ったように笑った。幼さと艶やかさが入り交じったその笑みは、八雲紫の微笑みと好く似ている。永遠に変わることのない、妖怪だけが持ち合わせる美しさだった。

「ほんと呆れた。人間って優しいのか馬鹿なのか分かんない」
「いや、君の正体が女の子だと知っていたら射落とすことなんてしなかった。そんなこと出来るはずがないよ」
 云ってしまってから、失言だったことに気づく。
「……だからこそだよ。だからこそ、私は姿を変えるんだ」
 鵺は目を細めた。羽がこちらを惑わすように、それぞれが独立した生き物のように蠢[うごめ]いていた。
「そうして人間を怖がらせないと、私は生きていけないの。人間が水を呑まないと死んじゃうのと、おんなじ」
 おんなじなんだ、と空っぽの響きが繰り返された。
「妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を殺すんだ。そうやって私たちは廻ってきたんだよ。私だってそう信じていたし、あんたもそう信じていたから、私は撃ち墜とされたんだ――だから、あんたが謝る必要なんてないんだよ」
 何故なんだろう、と頼政は思った。鵺の紡いだ言葉の響きが、息子と接した時の自分の声と似ていた。妖怪と人間、本当に争い合うしかないのか。人間と人間、本当に殺し合うしかないのか。もっと他に道はないのかと苦悩しながら、仲綱や早太に語り続けていたのだ。
 それは、つまり……。

「鵺――君は、もしかして」
 少女は頷いた。小鳥が羽の状態を確かめるように、斜めに首を少しだけ傾けた。
「そうだよ、頼政。私だって出来ることなら、そんなことしなくたって生きていけたら好いと思ってる。本当にそう願ってるんだよ……でも、ダメなの。私は何処までいっても私だから」
「これからもか、これからも、そうしなければならないのか?」
 鵺は干からびた田畑のように乾いた声で答えた。
「うん、たぶんね。たぶんこれからも、私は人間を怖がらせ続けなければならないと思う」
 そうか、という返事は喉の奥で潰れる。決定的な溝というものを突きつけられたようだ。
 頼政は奥歯を噛みしめた。それでも、この想いは止められないのだ。ここで諦めては、今まで何のために生きてきたのか本当に分からなくなってしまう。

「さて、何をしに来たんだったか……」
 鵺は羽を動かして笑った。無理をして唇を曲げている。
「そうそう――ぬぇ、頼政」
 頷いて先を促す。喉が凍り付いて動かない。
「……あの時さ、あんたはなんで私に“トドメ”を刺さなかったの? なんで帝に嘘までついて、私を逃がしてくれたの? ずっと、ずっと気になってたんだ」
 少女はこちらを見据える。少しでも虚飾を混ぜようものなら、今すぐ飛びかかってきそうな気配がある。
 答えてやらなければならない。それもハッキリと。その質問への答えは、己の気持ちでもあるのだから。
 今しかない、絶対に今しかない。今こそ長年の想いを伝えなければ、恐らく永遠にその機会は巡って来ないのだ。
 心臓の鼓動が邪魔をして肺から空気が昇ってこない。ずっと我慢に我慢を重ねてきたおかげで、ここぞという時に心が折れてしまいそうになっている。
 君が好きだから、その一言だけでも好いのに。口が開いたり閉じたりするばかりで、声は一向に形にならなかった。夜の闇に想いが溶かされそうになっている。
 鵺は答えを待っている。小首を傾げて、紅い瞳を光らせて俺を見ている。幻じゃない。夢でもない。頬を抓るまでもない。鵺は俺の目の前で、確かに存在しているのに。
 これ以上ないくらいに顔が歪んでいるのが分かる。肺から全ての空気を押し出して、なんとか形にしようとする。それは意を決して声に出したのではなく、張りつめた風船に穴が空いたように空気の震えとなって喉から絞り出た。

「――私は、君のことが……!」

 好きなんだ、そう唇が動いた。そのはずだった。鵺は首を傾げたままだった。なんだろう、何を伝えようとしているんだろうと瞳が揺れている。
 もう一度だ、もう一度云うのだ。頼政は心臓を引き絞った。全身の血が暴れ回った。結果は同じだ。君のことが、その後まで息が続いてくれない。
 鵺の瞳が輝きを失いつつあった。枯れ葉が渦潮に呑み込まれるように。待ってくれ、待って下さい、まだ伝え切れてないのに。
「……あのさ、頼政?」
 少女は、口を開いてしまった。
 頼政は無言で頷くことしか出来なかった。
「あんたにだから、打ち明けられることなんだけど……」
 もう一度、頷いて目を閉じる。

「――私さ、もうすぐ死ぬかもしれない」

 は、と声が出た。こんな時にだけ、心は素直に反応する。
「すまん、何て云ったんだ、死ぬ、死ぬってなんだ、君が死ぬなんて、そんな馬鹿な」
 鵺は小さな手のひらを寂しげに見つめていた。
「どんどん力が弱くなってきてる。ほんとはさ、もう飛ぶのもひと苦労なんだよね。たぶん人間が私を怖がらなくなってきたからだと思う」
 開いた口が塞がらない。疫病に冒されたように、とめどなく身体が震え出す。
「私はさ、人間の、妖怪に対する恐怖心のタネを見つけられないと手出しができないんだ。私は忘れられた存在なんだよ、頼政。人間が同じ人間ばかりを怖がるようになってしまったから……だから私は、少しずつ消えていくしかないんだと思う」
 鵺の説明を、頼政は半分も理解できなかった。いくら水と同じくらい大切なものだからって、怖がってくれないから死ぬなんて、そんなの信じる方が難しいことだった。妖怪がそれ程に脆い存在だなんて知りもしなかった。俺は鵺のことなど何ひとつ知らないで恋い焦がれていたんだ、と気づかされた。

「方法はないのか、何か助かる方法は?」
 鵺は微笑んでいた。川に解けゆく初春の雪のように。
「さぁ、ないんじゃないかな。あんたたち人間が、私の――私たちの時代を終わらせようとしている。それだけのことだよ。誰のせいって訳でもない。なるべくしてなったんだ、それが正しいことなのかどうかは分からないけど」
 そんな話を、どうして笑みを浮かべながら話すことが出来るのだろう。ひどく寒気がする。鵺が嬉しそうな顔を浮かべれば浮かべるほど、その寒気は増すように思われた。
 そして鵺は、“トドメ”の言葉を歌い始めた。

「……それでもさ、私はあんたに感謝してるんだ。ほんとだよ。あんたのおかげで、今まで怖がらせてきた人間のことが少しは分かった気がするんだ――人間ってさ、本当に儚いんだよね。それでも決して諦めようとはしなかった。川魚がウマくて、星空がきれいで、鳥に憧れるような、そんな世界を、あいつは決して諦めようとはしなかった。いつかきっと、心から休めるような居場所を見つけられるって信じてさ」

 鵺の微笑みが深まった。すぐに消え去りそうな命なのに、とても幸せそうだった。
「あんたのおかげで――妹紅に会えた。私は、妹紅に会うことが出来たんだ……だから、ありがとうっ」
 恥ずかしげに結ばれた言葉は、彼岸から響いてくるように遠くに感じられた。鵺の仕草はいじらしくて、可愛らしくて、切なげで――それは“恋する乙女そのもの”だった。

 頼政の心は、一瞬で冷却された。鼓動までが凍りついた。
 ……もこうって、だれだ? なんで、なんでいきなり、そんな名前が出てくるんだ? 
 そうだ、鵺が俺の二十年を知らないように、俺だって鵺の二十年など何も知らないのだ。そんな当たり前のことに、なんで今まで気づかなかったんだ?
 二十年という歳月が稲妻に撃たれて焦げつき崩れてゆく音を、頼政は確かに耳にした。口を半開きにして呆然と俯く。それ以上は鵺の顔を見られなかった、見たくなかった。
 次に声が上がったとき、鵺は既に庭へと出ていた。桜木の枝に立って、こちらをからかうように見つめていた。
「話はそれだけ! あんたに会えて好かったよ、頼政っ!」
「鵺、ぬえ……」
「それじゃ――さよなら」
 手を挙げて見送ることすら出来ない。
 塀の向こうへと鵺は姿を消して行った。夜は明けようとしている。蝋燭は消えてしまっているが、部屋は見渡せるほどには明るくなっている。妖怪の時間は終わりなのだ。夜の鳥は巣に帰る。恐らくは恋い焦がれる少女の元へ。妹紅という少女の元へ。

 ……鵺が去った後、頼政が最初にしたことは座敷の中を歩き回ることだった。米粒を求めて路頭をさまよう餓えた民のように。ふと立ち止まって、無意味に天井の木目を数えたりした。棚の装飾品や仏具の位置を直したりした。何も考えることが出来ない。呼吸が階段を駆け昇るように段々と荒くなってくる。そして、最後には元の位置に腰を下ろした。
 自分が口にしたこと、鵺が口にしてくれたことが、走馬燈のように脳裏を駆け抜けては消えていった。あるいは、それは本当に走馬燈だったのかもしれない。後に残っている己とは結局のところ、ただの抜け殻に過ぎないのだから。
 両手を膝の上で握りしめ、声を殺して呻いた。すべてが手遅れであることは、この朝日のように明らかだった。涙は出ない。それは行き場を失って胸の奥で沈んでいる。そこに刻まれた傷に染み込んで、心臓が釘で刺されたような痛みを放つ。おぼろげな思考の中で、その痛みだけがリアルだった。
 涙を流すことさえ出来ない悲しみが、この無常の世にはあるのだということを、初めて知った。源氏のことも、平家のことも、自分の人生すらも、何もかもが風のように命から去っていった。

 ――それが、源頼政の失恋であった。



【第十三幕 ~ 帰る家があり、愛する人がいる。】



(俺はいったい何をやっているんだ)
 佐藤義清は夜明けの薄闇に息を溶かした。

 幽々子に会いにゆくと約束してから、早くも二日が経とうとしている。
 思えば頼政と別れて以来、一睡もしていない。放浪の旅の癖で平安京を歩き回りながら、ずっと考え事をしていた。いや正しくは、結論を先延ばしにしたままに、決心がつかないままに迷っていたのだ。

 平安京は四十年前に旅に出た時と比べて、遥かに混沌としていた。
 例の大火事と一連の政変以来、天も地も大いに荒れた。何処の通りにも餓死者が横たわっている。死体の引き取り手はいない。その身内までが既に風になっているのだから当然だ。カラスや野犬、時には同じ人間にも喰われゆく死体たちは無言で空を睨んでいた。その怨みの先は果たして人か、あるいは天か。
 遺体のひとつひとつに合掌して経を唱えていると、餓えた人々が我も我もと集まってきた。御仏の救いにすがろうと、痩せて骨と皮ばかりになった腕で、懸命に法衣をつかんできた。その手を振りほどくのは容易い、だが振り払うことなど出来なかった。仏法に光を求める人々の想いは、そのまま自分の想いでもあった。

 そして気が付けば、義清は再び頼政の屋敷の前で佇んでいた。
 俺はこの期に及んで、友人に甘えようとしているのだ。自分の未熟さが嫌になった。
 こんな時間に取り次いでくれる訳がない。そうでなくとも頼政は命という困難な敵と戦っているのだ。己が弱さを呪いながら、また通りから通りへとさまよった。
 出家したところで現実は変わらない。それは分かっていた。武士として生きるのが嫌になっただけだ。戦乱を生き抜き手柄を立てて出世することに、いったいどれだけの意味があるというのだ。
 思えば紫との出会いも、何かの因果が導いたのやもしれぬ。紫と幽々子が縁を結んだのも、俺が娘のことを忘れないよう、誰かが因果の糸を引っ張ったのやもしれぬ。
 ならば逃げてはならなかった。頼政のようにはなれないかもしれない。それでも俺は俺なりの強い意志を持って、娘に謝らなければならない。もう十分に逃げたではないか。もう十分に歌は詠んだではないか。
 心を固めようと何度も頷きながら、通りを踏みしめて歩いた。

 三条の橋に差し掛かった時、義清は足を止めた。
 得体の知れない雰囲気を身にまとった少女が、橋の欄干にもたれて空を見上げていた。まるで空に桜餅でも浮かんでいるのを見つけたかのように。
 記憶の端に引っかかるものがあった。漁師の放った網に魚が掛かったみたいに心が引っ張られた。今にも朝露になって消えてしまいそうなこの少女を、俺は確かに見たことがある。

 ――おい、今誰かが部屋を横切らなかったか?

 そうだ、頼政の屋敷でくつろいでいた時に座敷の隅を横切った少女だ。あまりにもおぼろげな影だったために、今まで思い出すこともなかった。その後に八雲紫がババーンと現れたもんだから、すっかり忘れてしまっていた。

 ――なんだと、女の子だって。それは本当か、親友。

 俄然に興味を示してきやがった頼政の顔まで思い出してしまう。泥の底まで気分は沈んでいたのに、こみ上げる笑いを抑えることが出来なかった。好い友人を持ったもんだ、と思う。
 笑い声が聞こえたのか、少女は目の焦点を戻してこちらを見た。大きな瞳が異様な輝きを放っていた。左胸のところに目蓋を閉じた目玉が浮かんでいた。どう見ても妖怪の類であった。
 少女は首を傾げて口を開く。
「あなた、いつかの旅人さん?」
 不可思議な響きだった。うたた寝をしている時に、夢の中で超自然的な存在に語りかけられたかのような響きだ。
「そう云うお前は、いつかの妖怪だな」
「あれま、見られちゃってたのかしら」
「俺は用心深いんだ。少なくとも他の奴らよりはな」
「今は妖怪の刻よ。人間がこんな時間に何をしているの?」
「ただの散歩だよ。お前こそ、こんなとこで何をしている」
「友達を待ってるの。大切な話があるから」
「待ち合わせか。あんまりぼうっとしてると、鬼よりも怖い連中に見つかって八つ裂きにされてしまうぞ」
「ふぅん、あなたもそうなの? 退治してみる?」
 妖怪は手のひらを返して、爪を見せつけてきた。見た目通りの女の子にしか見えない繊細で真っ白な指。獲物を切り裂くなんてとんでもない、裁縫をしている姿しか頭に浮かばない。こんな細い指が、まるで童話に出てくる悪い狼のように、いとも容易く人の命を刈り取るのだ。
 義清は首を振った。
「俺は退治屋じゃない」
「あら残念。何かしようとしたら、遠慮なく殺戮してやろうと思ったのになぁ」
 妖怪はきゃらきゃらと笑った。
 その時に心臓から沸き上がってきた熱は、自分でも訳の分からない激しさを伴っていた。

「なんでだよ」
 法衣の袖のなかで拳を握る。
「なんでお前たちは、そんなに簡単に人の命が奪えるんだ。どいつもこいつも生きようと生きようと必死にもがいて、それでも救いのないままに死んでいったんだ」
 死者で溢れた都。その腐り落ちた目玉は何も映すことはない。死骸を貪る亡者は、まさに生きた妖怪そのもの。
 少女はまたも首を傾げた。禅の公案を問われた小僧のように。
「あなたたち人間も同じじゃない。どうしてそんな簡単に同じ人間を殺せるの? 私、何度も見てきたよ。生きるためなら人間は何でもするんだってこと。いえ、生きるためじゃなくたって人はとっても簡単に人を殺すわ。私だって同じよ。まだ死にたいわけじゃないから、人間を殺すの。それも恋い焦がれるような殺し方でね」
 それの何処が悪いの、と妖怪は結んだ。
 いくら頭に問いかけても答えは返ってこなかった。人間は、何故こんなにも簡単に同じ人間を殺せるのだろう。その答えは頭ではなくて、胸の奥から響いてきた。娘を捨てた時の自分が、そのまま答えなのだ。
 ただ生きているだけでも、どうしようもないほどに実感させられてしまう、それは人間の弱さ。妖怪とは違う。独りで立って歩いてゆけるほどに、人間は強くない。
 義清は黙り込んで俯いた。少女は何も云わずに見つめてきた。人間という存在の脆さを誰よりも知っているのは、妖怪である少女のはずだった。

「……お前には、家族はいないのか?」
 “こいし”と名乗った少女は、川面に向けて白い息を投げかけていた。呼吸が三つほど挟まれた後で、こいしは口だけを動かして答えた。
「お姉ちゃんがいるよ、ひとりだけ」
「今は何処に?」
 人差し指が橋板へと向けられた。
「この下。死体を集めてたけど、今はお留守みたい」
「橋の下なんかに住んでいるのか」
「うん、人間には見られたくないからって」
「分からんな。他の奴に見られたくないのに、なんで都に留まっているんだ」
「だよね――そう思うよね」
 でも、とこいしは長く息をついた。ため息に聞こえなくもなかった。
「諦められないんだって、人間のこと」
 少女は閉じられた瞳を撫でた。
「人の心が諦められないのよ。近づいたら石を投げられるのが分かり切ってるのに、それなのに心を捨てられないの。お姉ちゃん、こう云ってたよ」

 ――私達が生まれてきた意味は、必ずあるわ。

「ほんと、ばっかみたいだよね……」
 こいしは苦笑いを川へとこぼした。出世も叶わず落ちぶれた父親に反抗する、年頃の娘のように。
「あんなお姉ちゃん、私は見たくない――大っ嫌い」
 幽々子は、と思い出す。幽々子は、こんな顔をしていたのだろうか。およそ武士には向かぬ歌人の父を、娘はどんな眼差しで見ていたのだろう。
 この子は姉に愛想を尽かして心を捨てたのだろうか。義清は首を振る。そうは見えない。本当に心を閉ざしたと云うなら、どうして人間の俺と言葉を交わしているのだろう。どうして友達と待ち合わせなんか出来るのだろう。
 心が諦められない、独りぼっちは嫌だ、でも嫌われるのはもっと悲しい。どうすれば好いか分からず、川面に佇んで泣いている少女の姿を見たような気がした。鴨川は涙も血も平等に溶かして流れゆく。平安京の人々に恵みをもたらす鴨川は、時に氾濫して大勢の命を奪い去る。
 その浅瀬にうずくまって来るかも定かでない時機を待ち続けることの辛さは、想像することもはばかられた。
 自分たちが生まれてきた意味は、必ずある。
 これまで一度も出会ったことのない妖怪の少女の、そのひたむきな覚悟の強さに、義清は胸が熱くなった。

 ――あるいは、これが最期かもしれないんだ。いつまでも待ち続けてやる自信はある。だが時間の方は待ってくれないってことだけは、分かってくれ。

 もどかしい思いを何とか形にしようと、苦渋の表情を浮かべていた頼政の顔が、ずっと心に残っている。
 大っ嫌いと吐き捨てた少女の横顔を見る。この子と姉の間に如何なる確執があったのか、俺は知らない。何も知らないが、たった一人の家族のことで思い患っているのは同じなのだ。家族という関係は、そんな簡単に春風に紛れて消えてしまったりはしない。だからこそ、俺達は平安京という場所に集ったのだ。神や仏とは違う、人知を超えた正体不明の力に導かれて、この地に何かを探しに来たのだ。

 ……誰もが“その時”を待ち続けている。

 頼政も早太も、紫も幽々子も、さとりもこいしも、恐らくは鵺という妖怪すらも、何かが変わる瞬間を待っている。それが己にとっての救いになるかは分からない。あるいは、それが起これば己は決定的に損なわれてしまうかもしれない。そんなことは百も承知だと、誰もが来たる運命に正面から立ち向かおうとしている。

 俺は、本当に何をやっているんだろう。
 義清が感じ入って嘆息した時、朝日がようやく家々の屋根から顔を覗かせた。新しい一日を予感させる、春の訪れを告げる素晴らしい陽の光だった。
 義清は目を瞬[しばた]いた。憑き物が落ちたのかそれとも生まれ変わったのか、もつれ合った想いは解れて、絡み合った迷いが溶けてゆくのが感じられた。今は後悔の時ではない。陽は既に昇った。今こそ行動の時なのだ。
 幽々子に会わなければならないと、力強い声が頭のてっぺんに轟いた。
「……それじゃあ、お前のお姉さんはどうすれば好かったんだ」
 次の瞬間には口から言葉が溢れ出していた。
「優しくて、強くて、頼りがいがあって、お前の理想とする立派な姉であれば好かったのか」
 こいしは顔をこちらに向けなかった。
「どんな逆境も跳ね返して、苦難を楽々と乗り越えていけるような、そんな強いお姉さんであれば好かったのか。お前の望むような言葉を、お前の望むような態度を、もっと器用に表現できれば好かったのか」
 でも、それが出来ない不器用な奴はどうすれば好いんだ……?
「俺はお前がどれだけ辛い思いをして、心を閉ざしたのかは知らない。でも本当にこのままで好いのか。お姉さんをずっと嫌いになったままでも好いのか」
 手に触れた欄干の感触は冷たい。目の前の少女の心までが、完全に冷たくなっていないことを願う。
「それじゃ、きっと後悔するぞ――後悔は、したくないだろう」
 息を吐き出して結ぶ。
「お前のお姉さんは、一人しかいないんだ」

「……そろそろ友達が来るかもしれないわ。もう別れましょう」
 こいしは答えずに別れを切り出してきた。灰のかかった薄緑の髪を、日差しから守るように手で覆っていた。
 義清は黙って頷きを返して清々しい朝日へと顔を向けた。次に視線を戻した時には、こいしは何処にもいなかった。まるで最初から存在などしなかったように。白昼夢のように消えてしまった。小鳥の歌声と鴨川のせせらぎが、早朝の空気を揺らすばかりだった。
 ひとつ深い息を挟んでから歩き出す。橋を渡り終えて、かつての我が家の方角へと足を向ける。その足取りはむしろ軽やかだった。ろくに睡眠も取っていないのに、長い眠りから覚めたように心は凪いでいた。

 幽々子のことを考える。頼政のことを考える。さとりのことを考える。こいしのことを考える。
 愛する人がいて、待ち合わせする友達がいて、それぞれが色んなことで悩み、そして苦しんでいる。
 ならば、妖怪と自分たち人間との間に、いったいどれだけの差異があるというのだろう。
 疑問は吐いた息となって宙に溶ける。当たり前だが、風が答えをくれるはずもない。



【幕間 ~ ヒバリの翔ける平安京】



 平安京は春の日差しに暖かく包まれている。

 桓武天皇の遷都より四百年近く、数々の文化と怪異を生み出した日本国の古城は、その歴史上の役目を全うして眠りに就こうとしている。都の顔たる羅城門は朽ち果て、安元の大火の傷痕も生々しく、復興は一向に進んでいない。度重なる飢饉に悩まされ、疫病は宮中にまで死者をもたらし、通りには死骸が溢れて引き取り手もいない。
 それでも、かつての美しい都の姿は桜木の群れに見出すことができる。人間の時代の移り変わりとは関わりなく、桜はただ咲いて、そして散る。歴史とは何か、幻想とは何か、人生とは何か……桜の花びらは、無言のうちに我々に問いかけているように思えるのだ。

 また一羽、ヒバリが歌いながら上空を翔け抜けてゆく。その視点を借りて、縁と絆に結ばれた人々の姿を探しにゆくことにしよう。


□     □     □


 都から南東の方角、小山に隠された屋敷の庭では、蓬莱人・藤原妹紅と半熟剣士・魂魄妖忌が朝の運動をしながら語り合っている。相方の妖怪と別れる決意を固め、落ち込みの余り身体を動かすどころじゃない妹紅を、妖忌が強引に誘ったのである。自己流の剣術を教授する合間に、妖忌は口下手ながら妹紅を励まし続けている。同じ剣士たる者として想うところがあったのであろう。

 その屋敷の一室では富士見の娘こと西行寺幽々子と、妖怪の賢者・八雲紫が寄り添って眠っている。夜更けの酒盛りが尾を引いて、呑み過ぎたせいか表情はやや苦しげながら満足そうである。仲の睦まじい姉妹のように眠っているところを見ると、どちらが人間でどちらが妖怪か判断に迷うところだ。好い夢を見ていることを願うばかりである。

 屋敷へと続く険しい山道にも、この物語を彩る人間がひとり。高名な西行法師こと佐藤義清である。いよいよ娘と会合するに当たって、屋敷を小山に移したのを失念していたらしい。かつての自分を呪いながら、老いた身体を鞭打ち息を荒げて山道を登っている。この分だと四十年ぶりの再会には、まだまだ時間が掛かりそうだ。

 ふと眼下を眺めてみると、都へと通じる街道を歩いてゆく人影が確認できる。宇治の橋姫・水橋パルスィと、土蜘蛛・黒谷ヤマメの二名である。流石に早朝くらいは大人しくしているかと思うとそうでもなく、お前があんな所まで逃げるから朝になっても都に戻れないとか、じゃあ探しに来んじゃねぇ云々と、朝っぱらから口やかましく喧嘩をしている。ヤマメがパルスィに抱っこされたままで口論しているのだから、何とも微笑ましい限りだ。

 いよいよ都の市街に入る。朝早くから出かける人々の頭上を通り過ぎ、左京の一画に建つ家屋に目を留める。何の変哲もない茶屋に見えるが、屋内では三人の妖怪が忙しく立ち回っているのだから恐ろしい。家主の二ッ岩マミゾウは今朝から開かれる賭博の準備に大忙しであり、心に恋する覚妖怪こと“さとり”は、ようやく自分が置かれた状況を察したらしく、必死に化け狸に追いすがって賭け事の中止を訴えている。釣瓶落としのキスメは「まあまあ」と笑いながらさとりを説得しているが、いざという時に逃げ出されないよう着物の裾を掴んでいた。三者三様の有り様は大勝負に臨む顔つきとは程遠く、まるで喜劇の一場面のようで緊張感はまるでない。

 では勝負を申し込んだ、いや叩きつけた張本人たる九尾の妖狐は何処であろうか。左京の街路に目を光らせてみれば――いた、いた。物珍しげに眺めてくる民草は意に介さず、悠々と歩きながら決戦の会場に向かっているのが八雲藍である。夜が明けるまでの間、心血を練るために森の中で休んでいたのだが、その森こそかつて妖怪・鵺が住み処としていた東三条の森なのだから、運命とは数奇なもんである。

 決戦の模様は後の稿に譲るとして急旋回。市街を更に北へと翔け抜ける。三条の橋の欄干に並んで二人の妖怪が手を繋ぎながら道行く人々の顔を眺めている。鵺を辞めた妖怪・封獣ぬえと、心を辞めた恋の瞳・“こいし”である。交わされる言葉は少なく、二人して座り込みながら考え事を朝の空気に溶かしている。当分の間、繋いだ手が放されることはないだろう。

 そこから離れて大内裏[だいだいり]の方角へ。ある屋敷の庭で二人の男が招集された人夫らに指示を出しながら、入念に弓の催し事の準備を進めている。源仲綱と猪早太である。まだ父上は来られないのか、と苛立つ仲綱を、早太は冷や汗をかきながら必死に宥[なだ]めている。気の早い平家や貴族の面々が続々と屋敷へ詰めかけており、一刻の猶予も許されぬ様子である。

 肝心の父上は何処に? 鴨川を飛び越えて院の方面へ向かってみる。出家した貴族や武士らが別荘を構える区画に、源三位頼政はいた。ぬえと別れた座敷の柱に背を預けて、呆然と天井を眺めているばかりである。女官がお時間ですと呼びかけに来たのだが、片手を挙げて返事するばかりで要領を得ない。ぼんやりと口を開いている様はまるで魂が抜けたようにも見える。これでは息子の応援に駆け付けることなど、とても出来そうにない。

 見ているだけでも痛ましいので、羽を翻して別の屋敷へ。頼政とは打って変わって、こちらは実に呑気な様子である。豪奢な別荘の一室で、二人の男が口論に疲れ果てて爆睡している。平家の長老・平清盛と、その三男・宗盛である。弓の腕比べは清盛の発案であり、その見学に福原から京まで遥々やって来たようだ。何か企んでいるのではないか、と訝[いぶか]しむ宗盛に清盛がキレて、一夜を通した激論に発展したのである。早く起きないと催し事に遅れるぞ、と教えてやりたいところだが。

 なんとなくバカくさいので鴨川を伝って彼岸へ飛ぶことにする。是非曲直庁に連なる無数の裁判所の一室で、お迎え担当の死神・小野塚小町が上司の四季映姫に挨拶を交わしている。物々しい大鎌を携えて、まさに魂を刈りにゆかんと決然とした表情である。一方の映姫も頼もしげな、それでいて気遣うような口調で小町に激励の言葉を贈っている。上司と部下の信頼関係、ここに極まれり、といったところであろう。


□     □     □


 さて、テンコ盛りの登場人物が、それぞれの命運を賭けて平安京の各所に集った。
 物語は最終的な局面へ向けて、舞い上がるヒバリのごとくフライトを始めてゆく。

 ――読者の皆さまには、もうしばしのお付き合いを頂ければ幸いである。



【第十四幕 ~ 君の桜は咲いているか】



 生きていれば幾度も“別れ”を経験しなければならないのは分かっているつもりだった。

 散々に泣いて泣いて、もうどうしようもなくなるような別れもあるし、袂を分かっていっそ清々するようなあっけない別れもある。
 今まで海岸の砂粒のように無数の出会いと別れを繰り返してきたけれど、その別れの殆どには“死”がついて回った。あとは別れとも呼べないような挨拶が交わされるばかりで、もはや相手の顔だって思い出せない。

 水の潤いを失ってしまうのが怖いのなら、最初から井戸なんて掘らなければ好いのに。
 それでも懲りずに鍬[くわ]を振るって求めてしまうのは、水が無ければ餓えて死んでしまうからだ。
 蓬莱の薬は肉体を滅ぼさないよう保ってはくれるが、心までも滅びぬように修復してくれるわけではない。
 だから“ぬえ”という存在は、私の心にとっての蓬莱の薬だった。
 そのことにもっと早く気づけていたのなら、私はぬえとの時間を今よりもずっと大切にしていただろうに。

 過ぎ去りし時間の重みを悔やむたびに、私はなまくら刀の鞘をぎゅっと握ってしまう。
 ぬえの小さな手のひらを握りしめるのと同じように、世界で一番に優しい力加減で。
 蓬莱の薬を呑んでひとつだけ幸せだと思えることは、永遠に形の変わらない手のひらで、ぬえをしっかりと抱きしめてやれるということだ。


□     □     □


 それまで大型の台風のごとき勢いで喋り続けていた妖忌が押し黙ったのは、朝日が眩しく平安京を染め上げた頃合いだった。

 狼のように低い唸り声をひとつ漏らしてから、白い房[ふさ]の付いた太刀の柄をつかんで今にも抜かんばかり。口下手ながら精一杯に励ましてくれた誠実な瞳は緋色に染まり、ふよふよと漂っていた半霊も寝起きの雄鳥[おんどり]のように動きを変えた。
 目配せを受けて妹紅も刀を握った。二度と抜くまいと決めたつもりだったが、この威圧感の前には覚悟も吹き飛んだ。

 いったい誰だなんて確かめるまでもない。
 喉に鋭い刃物を突きつけられたような感覚は、むしろ清々しいまでに絶望的だった。こんな圧力を掛けてくるような奴なんて妹紅はひとりしか知らない。
 頬を滴り落ちる汗を拭うことも出来ない緊張感のなか、ふと瞬きした次の瞬間には“そいつ”は姿を現していた。

「……久しぶりじゃないか。感動で涙が出てくるよ」
「そうさね、まるで昨日のことのようだ。あたいもまた会えて嬉しいよ、藤原妹紅」

 死神の名に相応しい黒衣に身の丈を越す大鎌、川辺に群生した彼岸花を思い出す朱色の髪。
 焚き火を挟んで川魚を食べていた時のような暢気な面影は、表情のどこにも見受けられなかった。まるで別人のようだ。何かやんごとなき用事でもあるのか、それとも単に腹でも壊したか。
 まさか鮎の塩焼きがあんまりに美味かったから無心に来た訳でもあるまい。こいつが望んでいるのはただ一つ、魂の塩焼きなのだ。

 妹紅はなまくら刀を抜き放ち、小野塚小町に切っ先を向けた。いつの間にか小鳥の鳴き声が止んでいた。死神という存在は、この世界に生きとし生けるもの全ての敵なのだ。
「それで? 何か云い忘れたことでもあるの? それとも今度は富士山みたいにバカでかい鏡でも見せてくれるってのか?」
「生憎だけどあんたの件は終わってる。あたいは富士山じゃなくて富士見の娘さんに会いにきたんだよ」
 一歩、妖忌が進み出た。
「幽々子様をどうするつもりだ」
「云うまでもない。死神のやることっつったら三つしかないからね――運ぶこと、片づけること、そして刈ることさ」
「貴様、あの方が今までどのような想いを抱えて生き抜いてこられたと思っている」
「知ってるよ。知ってるからこそ退く訳にはいかない」
「……どうやら剣を納めてはくれないようだな」

 妖忌も刀を抜いた。後ろにまとめた白髪が重力を失ったかのように浮き上がり、足下に散らばった小石もかたかたと不吉な音を立てた。こちらにまで伝わってきた冷たい霊気は、鴨川の流れまでも凍らすのではないかと思うくらいに研ぎ澄まされていた。
 死神も鎌の柄を後方に振り抜いて腰を落とした。滝壺に吸い込まれる水流のように、砂利や砂埃が刃へと渦を巻いてゆく。
 先に戦っていた妹紅には分かる。この死神に“間合い”は存在しない。踏み出したその一歩が、そのまま無限の飛距離となって進退を定めるのだ。
 狙った獲物を決して逃さぬように、そして反撃の一切が届かないことを見せつけるように。すべては相手の生への執着を完全に断ち切るために。つまりは無限の絶望を与えるために。
 およそ剣士にとっては最悪の敵だ。

 とっさに妖忌をかばうために身体を跳ばす。
 次の瞬間には、妹紅の右腕は天高く吹き飛ばされていた。血しぶきが桜吹雪のように空[くう]を彩り、着物に点々とした模様を染め抜いた。
 痛みはない。痛みを感じさせるだけの切れ味の鈍さを、死神の鎌は持ち合わせていないようだ。
 紅く沈んだ地面に片膝を突く。身体の均衡が取れない。心臓の動悸に拍子を合わせて切断面から血潮が躍り出てゆく。命が失われる確かな音を耳にする。やれやれ、首に続いて今度は腕か。

 死神は下唇を噛みしめていた。手の甲に青い血管が浮き出ている。
「……云っただろ、あんたに用は無いんだ。邪魔はしないでおくれよ」
「一泊の恩があるんでね。好い踊りも見せてもらった。ためになる話も聞かせてもらった。おまけに“何もかも失うしかない”と来た。これ以上に好き勝手されたら、私は私でいられなくなりそうなんだよ」
「けっ――あんたにはもう一度、鏡を見てもらう必要がありそうだ」
「充分だよ。充分。これがお前の上司が云ってた“善行”だよ。空気を読めない不届き者からお姫様を守るのさ」

 その時の死神の表情の変化は見物だった。
 眉根に大陸の山脈みたいな皺が寄り、奥歯にヒビが入りそうなくらい下顎に力が入った。大鎌を握りしめる手までもが伝染病にかかったかのように震え始めた。
「ばっかやろ……!」
「あぁ、馬鹿だよ。底無しの馬鹿だ。じゃないとこんな身体になんかなっちゃいない」
「あんたは引っ込んでりゃ好いんだ……あんたは、もう傷つく必要なんてないんだ……!」
「新しい傷が付いたって見分けなんかつかないからね。ご心配は無用だよ」
 小町のがら空きの鳩尾[みぞおち]に、妹紅は渾身の掌底を叩き込んだ。

「すまぬ、遅れを取った――後は任せろ、妹紅殿」
 妖忌が肩に手を置いてきて頼もしげに云った。先ほど話をした時よりも背丈が数倍は高く見えてしまう。しかし尻に付いた汚れが払い落とせていない。小町の能力を見せつけられた途端に思わず腰を抜かしてしまったようだ。なんてこった。

「分かっただろ、あの死神は距離を操る。反則級の能力だ。居合いなんて届きやしない」
「ならばそれを上回る速力で斬るまでのこと」
「はぁ? お前はハヤブサか? それとも流れ星か?」
「どうせなら“ロケット”と呼んで欲しいものだ」
「ろけっと?」
「詮無いメタ発言よ、気にするでない」

 妖忌が霊気を整えて再び歩み出る。決戦に臨む剣闘士の風格がある。死神も顔をしかめながら鎌を杖に立ち上がった。天下の死神様といえど痛覚はあるらしい。背を野兎のように丸め、片手で腹を押さえて溜まった痰を吐き捨てる。

「貴様、お庭に唾を吐くなど言語道断!」
「あんただって立ちションしてた癖に」
「何故それを……ええい、あれはやんちゃ盛りの修行時代のことだ。今は一介の庭師として丹精こめて手入れをしているというのに、それを貴様は――」
「うっせぇ野郎だねぇ……今に悲鳴に変えてやんよ」
 そして、半熟剣士と江戸っ子死神は激突した。

 ずっと前にも“天狗の御山争い”に巻き込まれたことがあったが、その時だって「何が起こってんのやら分かんぬぇ」なんてことはなかった。天狗風や鬼火が飛び交う戦場のなかでも、木々の合間や天空を飛び交う天狗たちの姿はかろうじて視認できた。
 ところが今回ばかりは眼がおかしくなったのかもしれん。跳ね上げられた砂利や小枝が顔面に特攻してくるばかりで、妖忌のモチモチの半霊も小町の結わえた髪の房も視界を横切らない。
 剣戟を交える音すらも茶碗を爪で引っかいたみたいに一瞬で消え去り、もはや戦っているというよりも世界でいちばん過激な隠れん坊でもしているように見えた。

 軍配は妖忌に挙がった。突如として死神の姿が現れたと思ったら、またも鳩尾に蹴りが炸裂して派手に吹っ飛んだ。隕石の直撃を喰らったアヒルの置物みたいな見事な吹っ飛びっぷりであった。
 次いで現れた妖忌も四肢に刀傷を負ってはいたが、うまく致命傷を避けていた。相手の接近を誘い紙一重でかわす。隙を窺い反撃をここぞとばかりに叩き込む。無敵の死神も攻撃と防御を同時に行うことまではできなかったようだ。
 肉を斬らせて骨を絶つどころか、骨ごと肉を落とさせて刺し違えるばかりだった自分には出来ない戦い方だった。

「流石は風に聞く死神だが、己が異能に頼り過ぎるのはいかんな」
 小町は答えなかった。大穴が空いた土倉から這い出ると、鎌の柄を握りしめて先端に口を付けた。柄の所々に指を立てて唇をすぼめる様には、強烈な既視感があった。

 あれじゃまるで、私が篠笛を吹くのと同じ――

 ……その音こそが、まさに地獄でかき鳴らされる調べに違いなかった。
 千の亡者の呻きか、万の怨霊の嘆きか。草花を枯らし、壁に亀裂を与え、魂を傷つける笛の音は、いちど聴けば二度とは忘れないだろう不吉な響きを宿していた。
 あの馬鹿でかい鏡といい、あの鎌に仕込まれた笛といい、向こうの連中の悪趣味っぷりには底というものがないらしい。流石に本場の地獄を統括するだけのことはあった。

 半霊を剥き出しにしている剣士にとっては、千年も続く悪夢のような音なのだろう。たまらずに刀を投げ捨てて地面にうずくまる。その一瞬の後には、大鎌の鋭利な刃が首の前でスタンバイを完了していた。妖忌の口からࢮ踏みつぶされたアマガエルみたいなうめき声が漏れる。
「ひ、卑怯な……」
「そう云われると、ますます自分が悪人みたいに思えてくるよ……あんたこそ自分の剣術を過信しちまったようだね。そんなんだから半熟なんて云われるんだよ」
「大きなお世話だ」
「あたいが欲しいのはあんたじゃない。ちょいと見積もっても千年くらいは長生きしそうだしね――さぁて、出てきな、お姫様」

 妖忌、と悲痛な叫びが聞こえた。駄目です、と叫び返す剣士の声も届いてくる。
 妹紅はなんとか身体を起こした。連中にほじくり返されたトラウマが笛の音でまた噴火しやがったおかげで、頭が五寸釘で打ち抜かれたみたいに痛む。
 庭師の首を刈り取らんと構える死神、駆け寄ろうとしてスキマ妖怪に止められている富士見の娘。不味い展開だ。

 残った腕で刀を手に取り妹紅は駆け出そうとした。なんとしても注意をこちらに引かねばならなかった。
 最初の一歩を踏み出したところで、一瞬、世界が重みという重みを無くしたかのように浮き上がった。坂道を転がり落ちるドングリのごとく妹紅はまたも地面に倒れ伏す。紫色に滲んだ視界を振り向かせて見れば、左右の足首が訳の分からん空間に呑み込まれており、ぴくりとも動かせなかった。
 死神は驚いたようにこちらを見つめてくる。八雲紫が腕を下ろして、きっぱりと首を振るのが見えた。もう戦うな、ということか。どいつもこいつも私を傷つけないように遠ざけてくる。まるで腫れ物にでもなった気分だ。腹が立つ以前に悲しくなってくる。

「死神がこんな辺鄙な山中に何の用かしら?」
「あんたが八雲の賢者さんかい? 楽園ごっこに精を出しているそうじゃないか。あんたこそ何でこんな寂れた屋敷にいるんだ」
「“寂れた”は余計だ!」
 妖忌が吠えたが、紫に睨まれたので黙った。
「久々に友人に会いに来ただけ。ついでに都にも用があったのよ」
「“友人”と来ましたか。小町さんもびっくり仰天だぁよ――分かってんのかい、あんたが人間と付き合うって意味が」
「この子は退治屋なんかじゃないわ。個人的なお付き合いをしているだけよ」
「なんて詭弁だ。ソクラテスもびっくり仰天だよ。その娘は好くても、あんたはどうなんだい? “妖怪は人間を襲うもの、境界はハッキリと”それがあんたの口癖だろうが」
「下っ端風情が詳しいわね。ゆかりんもびっくり仰天だぁよ」
「反吐が出るから止めんか」
「あら酷い」

 泥団子を投げつけ合うかのような言葉の応酬の間も、西行寺幽々子はもがき続けていた。昨夜の飄々とした振る舞いなんて微塵も残されていない。それだけ、たった独り残った従者の身を案じているのだろう。
 小町が瞬間的に横へ跳ねた。舌打ちをひとつ叩いて大鎌を構え直す。
「危ない危ない、どうやら矛盾を押し通す腹積もりのようだね。妖怪の賢者が聞いて呆れるってもんだ」
「世の中には深い深い事情ってもんがあるのよ。私もそうだし、そこで倒れてる蓬莱人もそうだし……あなただって、そうでしょう?」
「またそうやって“何でも分かってます”って顔をしやがる。あたいがこの世でいちばん嫌いな顔だ」
「失礼ね。これが地顔なの」
「同情するよ」

 干からびた雨蛙よろしく倒れている妹紅の角度からは、死神が腰巻きから薄っぺらい物体を取り出すのが好く見えた。その正体が何であるのかを悟った途端、妹紅の脳裏を真っ黒い稲妻が翔け抜けた。スズメバチの巣のように心が穴だらけになる。
 それは閻魔が手にしていた、手鏡サイズの浄瑠璃の鏡だった。

「――幽々子!」
 気づいた紫が富士見の少女をかばったのと、鏡がかざされたのは同時だった。目をつむろうが眼球を潰そうが、鏡の標的にされれば結果は同じだ。妹紅は既にハマグリのごとく地面に顔を伏せていた。巻き込まれるのだけはごめんだった。
 二度目の極彩色の光が台風一過のように過ぎ去った。西行寺家の主従は倒れ伏し、紫までが地に膝を突いて額を押さえていた。本当に反則級の鏡だ。人間や妖怪の如何を問わず、心というものを紙吹雪みたいにズタズタにするのに、あれほど有用な道具はあるまい。

 小町が大鎌を遙か太陽へ向けて高々と掲げた。罪人の処刑を執行する冷酷な覆面の男のように。その紅色の髪は、今ばかりは梅ではなく血の紅[くれない]にしか見えなかった。
「八雲紫、あんたは妖怪を生かすために、ちっとばかし汚い仕事に手を染めすぎたようだね」
「……それこそ、大きなお世話よ」
「富士見の娘さんも同じだ。理由はどうあれ、屋敷の者たちの生気を吸い尽くして死に至らしめた罪は重いよ」
「し、死ぬわけにはいかなかったの、私……」
「あんたはもう、棺桶に片足を突っ込んでるようなもんさ。大人しく死んじまった方が、むしろ親父さんに早く会える」
「あなたは――死神は勝手だわ」
「世の中そんなもんだよ。死は誰にでも平等に訪れる。早いか遅いかだけさ。人生の短さを知らないもんだから、後になってどいつもこいつも駄々をこねるんだ。そいつらをまとめて救ってやるのが、あたいら死神と――閻魔様の“本分”だよ」

 誰もが云い返す言葉を持たなかった。それだけの覚悟というものが、処刑人の肩から立ち昇っていた。その時の小野塚小町は、焚き火を囲んで鮎に食いついていた時とは別人だった。
 妹紅は目を閉じた。他人の首が飛ぶ瞬間まで見たくない。鎌の刃に反射した朝の光が、瞼の裏にまで伝わってくる。
「それでも――それでもお父様は会いに来てくれるわ」
「だと好いけどね……でもね、その歌聖とやらが今、何処にいると云うんだい?」



「――ここにいるぞ!」
「なにっ!?」

 妹紅は目を開いて身体を跳ね起こした。ひとりの老人が参道の口で荒い息をつきながら仁王立ちしていた。
 今ゆくぞ、と佐藤義清は叫んで延々と山道を登ってきたとは思えない速力で駆け出した。死神が立ち塞がろうとしたが、妹紅の放った炎弾が進路を妨害する。
「――お父様」
「幽々子!」
 父親と娘が四十年ぶりに手を取り合った。何と言葉を交わしているのか届いてこない。あるいは私の耳が拒絶しているのかもしれない、と妹紅は思う。父の顔すら思い出せない私にとっては、この場面は精神的にきつすぎる。

 死神が鎌を手に親子に歩み寄ろうとしていた。もう渦巻く感情を隠し切れていないのは、誰の目にも明らかだった。舌が麻痺してしまったかのように言葉は覚束なかった。
「感動の再会のところ……悪いけどね、私は娘さんを連れていかなくちゃならないんだよ」
「ならば俺も殺せ、死神」
「そりゃ出来ない相談だよ。あんたはまだお呼びじゃない」
「もう絶対に離れん。俺ごと斬れ。それで全てが収まる」
「なんも収まらないよ。輪廻に還るだけさ……お願いだから、そこをどいておくれよ」
「斬れ。死神。本望だ」
「あんたはそれで、好いかもしれんけど」
 小町は首を振った。再び掲げられた大鎌の刃は震えていた。
「……難儀だね、四季様」
 そう呟きを落っことして、死神は目をつむった。

「――願はくは」

 義清が澄んだ声を発したのは、まさにその時だった。娘に覆い被さりながら、西行法師は今生の歌を吟じたのだった。

「願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」

 その歌は、西行の心からの願いに違いなかった。飢饉に戦乱、時代の移り変わりの果てに夢見た景色は、いつまでも変わることのない桜の海だった。花びらの吹雪を浴びて笑いかけてくるぬえの笑顔が、妹紅の心に鮮やかに映し出される。冬の寒さにも決して凍ることのない涙が溢れてくる。
「あんた……その歌……」
 死神は掲げた鎌を下ろした。身体の震えは冷水に放り込まれたようにとめどなく、同じく震えの止まらない桜色の唇から、また一首の歌がこぼれ出す。

「花のいろは 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」

 西行法師は驚くこともなく顔を上げると、涙をこらえて唇を噛みしめる黒衣の少女を見上げた。
「死神――お前の名前は?」
「……小町だよ。あたいは小野塚小町さ」
 西行は微笑んだ。納得したように何度も頷いた。
「そうか、そうだったのか――お前も、歌仙だったのだなぁ」
 世の無常を象徴するかのような乾いた音が庭に木霊した。小町が大鎌を落としたのだ。その場に崩れ落ちてしまった死神の瞳には、一枚の花びらが映っていた。
「なんでだい、西行さん――なんで、あんたたちはそこまでして生きるんだい? そんなに生きることが大事なのかい? あっという間に若さも美しさも夢さえも失っちまう、儚い命なのに。大きな河を渡って来ては、独りぼっちで還ってゆくだけの空しい存在なのに……」
 西行は答えた。
「それが、人間だからだ」

 ――庭中の桜が、ざぁっと哭いた。



【第十五幕 ~ それは巣に帰る小鳥のように】



 これまでの人生において、今この時ほど緊張したことはあるまい。

 思い返せば立派な父親を持ったものだ。
 恐らく父は、後世の史家の論壇で熱く語られることなど決してないであろう。「平家全盛期で中央に踏み留まった稀有な源氏」の一文のみで片づけられるかもしれない。
 平家の連中からは“負け犬”と罵られようと、源氏の生き残りからは“平家の犬”と謗[そし]りを投げつけられようと、それでも父は二十年という月日を耐えに耐え続けた。犬には犬なりの矜恃[きょうじ]があるのだということを、いつも背中で語ってくれた。
 これまで父の無言の眼差しに何度救われたことであろう。その時その時は気づかなかったが、父はいついかなる時も自分を目にかけてくれていたのだ。その眼差しが失われた状況になって初めて、その有り難さに気づいた。親不孝な馬鹿息子であった。孝行の足りぬ愚息であった。
 もう父の桜餅を横取りするのは止めよう、と今さらに決意する。

 源仲綱は弓を強く握りしめながら、今は見えぬ父のことを想った。


□     □     □


「仲綱様――いえ、若様。出番でございますぞ!」
「分かっている、分かっている……」
 仲綱は震える膝頭を何度も叩いて黙らせた。隣では猪早太が秋分の夜長に鳴くコオロギのように口うるさく出御を促している。摂津源氏の家督として普段は一分の隙も見せない仲綱であったが、いざ正念場になるとバナナの皮を踏んだお猿さんのごとくすっ転ぶ性分であるということを、この苦労人の郎党は痛いほどに理解しているのだ。

 一昨日に夜盗に入られたばかりの仲綱の屋敷は、今や殿上人の錚々たる顔ぶれで埋め尽くされていた。官職を独占する平家の面々は我が物顔で中央の座敷に集い、各人の弓の腕前について「あーだこーだ」と批評を述べ合っている。
 その更に中心におわしますは、ご存じ平家の長老・清盛と棟梁・宗盛の二名である。先ほどまでは二人して座り込みながら爆睡していやがった癖に、いざ仲綱の番が回ってくると落雷に打たれたナマケモノのごとく飛び起きて、にやにやと笑みを浮かべながら観覧を始めた。
 黒々と縁取られた目元の隈と相まって、まるで夢枕に立つ夜叉のように見える。普段は親子でみっともなく喧嘩ばかりしている癖に、こと腹黒い笑みに関しては瓜二つなので余計に腹が立った。いっそのこと狙いが逸れたことを言い訳に弓で射ってやれたら愉快千万だろうに。

「早太、私を軽蔑せんでくれよ」
「何を仰いますやら。私が若様なら今頃ちびっておりますとも」
「嘘をつけ。お前は父上と共に妖怪を退治したではないか――確か“鵺”と云ったか? それほどの度胸があるのなら、これしきのことで臆したりなどしないだろう」
 早太は顔色ひとつ変えなかった。しかし一瞬だけ目線が逸らされたのを仲綱は見逃さない。今日のためにと父から譲り受けた弓、“雷上動”――頼政が鵺を撃ち落とした際に用いた逸品である。早太が気にかけたのは、いや思い出したのはこの弓のことに相違あるまい。
 黒雲を操り病を振り撒いたという怪物に比べれば、自分が立ち向かう的[まと]のなんとちっぽけなことであろう。それなのに身体の震えが止まらない。もし失敗したら宗盛の野郎に大笑いされる。そんなことになっちまえば二度と立ち直れないやもしれぬ。清水の舞台から飛び降りる羽目になるやもしれぬ。

 早太は雷上動に手を触れ、懐かしい思い出を省みるように声を低めて云った。
「若様――ここだけの話にして頂けますか?」
「なんだ、早く行かねば宗盛共に疑われる」
「従三位が恋した相手のことでございます」
 腹ぺこのオットセイを目前にしたペンギンのように仲綱は凍り付いた。
「何故その話を蒸し返す。私が一世一代の大勝負に挑もうという時に」
「好くお聞き下さいませ……従三位の恋こそ、つまり若様の恋なのでございます」
 なんだと、と返す言葉は固まった唇に引っかかる。
 思い起こすは一昨日の夜のこと。見初めてしまった夜盗の少女。小金色の髪。餓鬼のように尖った耳。そして手に握る雷上動のしなやかな感触。頑なに家督を譲らず現役に留まり続けた父のこと。恋について切なげに語った父の背中。

 ――お前は、恋をしたことがあるか?

「……おい、まさか、そんな阿呆な」
「“まさか”も“とさか”もございませぬ。まったく親子の血とは争えないもので」
「いやいやいや、ちょっと待ってくれ。考えをまとめるからな――えぇっ! くそ、なんてこった! 親子そろって人外フェチかよ!」
「若様、せめて“妖怪嗜好”とお呼び下さいませ」
「どっちも同じだ馬鹿野郎!」
「若様!」

 早太に両腕を捕まれたので仲綱は暴れるのを止めた。こいつ馬鹿なんじゃないかと思うくらいに忠実な従者は、失礼を詫びるように片膝を突いて言葉を発した。
「――仰せられた通り、私も“鵺”の正体を確かめました。異形なる翼を除けば我ら人間と変わらぬ、美しくも脆い身体を持った娘でございました……従三位が心を打ち明けて下さった時、私は悟ったのでございます。我らが本当に失いかけているものは何か。我らが本当に捨て去ろうとしているものは何か。従三位が時代に抗い続けるのは何故なのか」
 早太が頭を垂れた。大地に真理の欠片を見つけたかのように。
「太祖・頼光様より興して百数十年、土蜘蛛・橋姫・酒呑童子、そして鵺……数多の妖怪が退治されては消えてゆきました。我ら摂津源氏こそ、怪異との繋がりを紡ぐ、幻想の境界を結ぶ日ノ本・最後の武家であります。これを率いるは仲綱様、あなたしかおりませぬ。どうか弓を引いて下され。あの夜、従三位は決然と鵺を射られたのです!」

 その言葉は“若様”に向けられたものではなかった。“摂津源氏の棟梁”へ向けて放たれた、闇夜を切り裂く矢のような言葉だった。
 お坊ちゃんだの若輩者だのと呼ばれ続けて十数年、父とは別の場所で耐えに耐えてきたつもりだった。決して父を恨んでなどはいないが、それでも苦々しい悔しさはいつも胸の奥にあった。
 影に潜む時期は過ぎ去り、今や自分が摂津源氏の庶子郎党すべての命を預かる立場にいるのだということを、仲綱は初めて実感した。
 はは、と安堵のような、溜息のような笑いが漏れた。悪くない気分だった。これが棟梁というものか。
「……ようやく目が覚めた気分だ。早太、手間を掛けてしまったな」
「お気になさらず、仲綱様」
「おし、行ってくる」
「ご武運を」
 早太に背中をそっと押されて、仲綱は庭へと歩み出た。

 やぁやぁ、と名乗りを上げて一座を睨み渡す。あれぞ鵺を退治した三位の嫡子よ、と口々に期待の声が返ってくる。平家の連中は揃って苦笑していやがる。清盛だけが不気味な微笑みを湛えて動じない。心の奥ではどんな腹黒いことを考えているのやら想像もつかない。
 庭の中央へと進み出る。矢筒が乾いた音を春空に溶かす。遣り水を挟んで対岸の向こう、幾本もの矢が射手の記録を物語る的が見える。誰もその中央を射止めてはいない。
 ならば俺が目にもの見せてやろう、摂津源氏の名は伊達ではない。ぶったまげて腰を抜かしても治療費は出さんぞ。
 見ていて下さい、父上。
 仲綱は筒から矢を引き抜き弦につがえた。ひとつ深呼吸を挟んでから息をぐっと止める。煩わしい話し声も水底に沈んで見えなくなる。全神経が“射る”という二文字に収斂[しゅうれん]される。
 もう誰にも若輩などとは云わせぬ。仲綱は歯を食いしばり限界まで弓を引き絞った――。


 ――ぶちんっ


 その音は運命が断ち切られる無慈悲な音色か。それとも地の底から響いてくる悪夢の断末魔か。あるいは単純に間抜けな幕切れか。
 仲綱は落っこちた雷上動とつがえた筈の矢を見下ろしながら、豆鉄砲どころか大砲を喰らった鳩のように呆然と佇んでいた。
 遅れて一座に轟いたのは割れんばかりの爆笑である。
 弓の弦が、切れたのだ。
「あれぞ源氏の末路を示す好例である!」
 誰かが煽りを投げ飛ばし観衆の笑い声はますます高まった。
 仲綱は何も考えることは出来なかった。焦点の定まらぬ視界には、秋茄子のように真っ青になって口をあんぐりと開けている早太の姿が映った。
 声には出さずに唇を震わせる。全身の力が抜けて虚ろな笑いが顔を覆い尽くす。

 ――どうだ、早太。俺の勇姿を見たか?

 早太が目を逸らすのが見えた。あの野郎。
 仲綱は刀の柄に手をかけた。恥を抱えて生きるくらいなら、この場で喉に刃を突き立てて自害した方がマシであった。
 いよいよ刀が鞘に擦れる致命的な音が転がろうとする。
 その時である。


「――こンの鼻たれ小僧ッ! 諦めてんじゃねぇ!」


 雄々しくも可憐な叫び声が一座に轟いた。宗盛を始め殿上人が次々と立ち上がって声の主を仰ぐ。
 内壁の塀に足を踏ん張らせ腕組みの物々しく、仁王立ちも勇ましい少女が憤怒の形相で仲綱を睨んでいたのである。その隣にも塀をよじ登ろうと悪戦苦闘している少女がひとり。どちらも山吹色の髪を春風に揺らし、朝日を真正面から受け止めて堂々としている。
 仲綱は言葉を失った。

「この野郎、私の前で情けない姿なんか見せんなよ! お前のじっちゃん、いや、ひいじいちゃんか、なんでもいいや――てめぇのじっちゃんは笑いながら私らを打ち倒しやがったんだぞ! 子孫のてめぇが簡単に諦めやがったら、私らの面目が立たないじゃないかッ!」
 水橋もなんか云ってやれ、ともう一人の少女を立たせる。一昨日の夜に巡り合った夜盗の少女に違いなかった。
「あ、あんた、カッコ悪いとこ見せてんじゃないわよ! 本気で添い遂げたいってんなら、好いとこのひとつでも見せてごらんなさい!」
 そう叫んで少女はこちらへと何かを投げつけた。その弾みで塀からドングリのごとく落っこちそうになったところを危うく支えられた。
 仲綱は投げ渡されたそれをしかりとキャッチした。朝日に反射して光り輝く翡翠の彩り。あの夜にぶん盗られた勾玉であった。
 家督を継ぐに当たって、出家した父が譲ってくれた代物である。

「――貴様ら!」
 宗盛が般若の形相で庭に進み出た。胸に手を当てているのは心臓が痛むからであろう。
「神聖なる催しの場に下郎が踏み込むとは何事か! 己の身分を知れ、身分を!」
 少女は並みいる天下人の面々を眼前に大見得を切った。
「おう、身分が何だってんだ! こちとら地獄の底から這い上がってきた最後の土蜘蛛・黒谷ヤマメ様でい! もういっぺん下郎と罵ってみろ、てめぇらのど真ん中に糞爆弾を放り込むぞ!」
「き、貴様か、私の連歌会に糞を投げ入れたのは! もう許さぬ、こちらへ降りてこい! ペシャンコに叩きのめしてやる!」
「喧嘩上等! ご意見無用!」
 ヤマメが負けじと叫び返す。

「何が平家一門だ! 何が天下太平だ! ――幻想を捨てた愚か者どもめ、我ら平安妖怪、ここに在りと知れッ!!」

 妖怪の決然とした叫びは座に集いし人々を圧倒した。宗盛などは目眩を起こしたのか心臓病でも発症したのか、頭と胸を同時に押さえてその場にステーンと倒れ伏した。
 巻き起こる騒ぎの渦中、仲綱は勾玉をあらん限りの力で握りしめていた。あの日の父の声が、春の空に舞うヒバリのごとく脳裏を翔け抜けた。

 ……仲綱、お前は私の跡を継いでから、その一生を“日陰者”として終えるかもしれん。
 だが決して腐ってはならぬ。お前が歴史に名を轟かせるような活躍を遺すということは、つまり日本国に戦乱が起こり天下が荒れに荒れているという時だけなのだ。
 言葉を換えれば、我ら摂津源氏が日陰者であり続ける限り、民は太平の幸福を謳歌することが出来るのだ。
 この時代に生きることを、どうか誇りに思って奉公してほしい。
 源五位仲綱よ、我ら源氏の棟梁たれ――。

「若様!」
 早太の叫び声で仲綱は我に返った。
「お受け取り下さい!」
 宗盛の弓を投げ渡してきた。咄嗟の機転で引き抜いたらしい。神をも恐れぬ独断である。
 雷上動には遠く及ばぬ出来映えではあるが、その強かで心地よい握り具合に仲綱の心は高ぶった。
 もう一片の迷いもなかった。駆けつけた検非違使共から逃げ回るヤマメ達に手を挙げてやる。それに気づいた二人が何事かを叫んでいたが、喧噪のあまり遠く聞こえない。しかしその煮え切らぬ想いは確かな温もりと共に届いてきた。
 彼女ら平安妖怪は、ずっとこの時を待ち続けてきたのだと。
 幾度も退けられ忘れられようとも、人と妖の繋がりは決して絶たれる訳ではないと――。

「恩に着るぞ、物の怪よ!」
 その声が届いたかどうかを確かめる暇もなく、仲綱は残った矢を筒から引き抜き弓につがえた。
 父の鵺退治には遠く及ばないかもしれない。太祖・頼光公の鬼退治などとは比べることすら失礼かもしれない。剣戟を交えるは妖怪ではなく同じ人間になってしまったこの時代では、俺は妖怪退治で武名を上げることなど永遠に出来ないかもしれない。
 だが待てしばし、今では妖怪が俺に勇気を奮えと云う。気合いを見せてみろと叫ぶ。俺はそれに応えてやりたいのだ。彼女たちのためにも、一族のためにも、そして自分自身のためにも。
 妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を滅する時代はとうに終わったのだと云うのなら。
 ならばこれこそ、人間と妖怪の新たなる“絆”なのだ。

「南無――八幡大菩薩!!」

 時代の闇を切り裂く一筋の光が、その時、まさに放たれた。


□     □     □


「ちょっと黒谷、一騎打ちじゃなかったの? なに応援なんかしてんのよ、話が違うじゃない!」
「仕方ないだろ、本当に鼻たれ野郎だったんだからさ。水橋こそ“好いとこのひとつでも見せてみろ”なんてさ、お熱いこった!」
「てめぇ、喧嘩売ってんのか。なら倍の高値で買ってやる」
「おう上等だ。こちとら大安売り中だよ、この直角鬼瓦」

 パルスィはヤマメと罵り合いながら追っ手から逃げていた。
 前回と違って今度は太陽もお盛んな人間の刻だ。なかなか振り切れない。奴さんも今度こそは捕まえてやると意気盛ん、昨夜の何倍もの数であちこちから寄せてくるもんだから、二人は再度はぐれてしまわないように手を繋ぎ合っていた。

 ヤマメが笑いながら問いかけてきやがる。
「なぁ、水橋! カッコ好かった? ちゃんと見ていてくれたかい?」
「しっかり見てたわよ、うっさいわね。妬ましいくらい広い背中見せつけてくれちゃってさ!」
「私の声、ちゃんとあいつらに届いたかな。“天下の土蜘蛛様、ここに在り”ってさ!」
「届いた届いた、もう十分すぎるくらいよ! あんだけ大声なら連中もあんたのことを忘れないでしょう!」
「ははっ、やってやったぞ! ざまあみろってんだ!」
 嬉しさのあまり足を早めるヤマメは、外で遊んで帰ってきた子供のようだった。あるいはヤマメも当たり前のように暮らせていたのなら、真っ当な人間として一生を終えられたのだろう。
 でも、そうはならなかった。何の因果か因縁かは知らないが、私たちはこうして巡り会ってしまったのだ。
 パルスィは思う。こいつと出会ってしまったせいで私は山のようにトラブルを抱え込む羽目になった。あまりの騒がしさに目が回るようだ。こいつと縁を結びさえしなければ、もっと平穏な日々を過ごせていたのは確かだろう。
 それでも出会っちまった以上、私はこいつから離れることは出来ないのだ。危なっかしくて口が悪くて煮ても焼いても喰えない奴だが、だからこそ付き合っていると飽きることなんてないのだ。

 ヤマメの手の確かな感触が温かい。人間を辞めても決して失われることのない温もりだ。走り続けて身体も暖まってきた。太陽だってあんなに眩しい。
 あぁ、生きている、と感じる。私は、今もこうして生きている!

 胸に吹き寄せる春風を、ぎゅっと抱きしめる。


□     □     □


「ぬえちゃん、そろそろ帰る?」
「夜も明けたし用事も済んだしぬぇ……そうしよっか」
「じゃあ、送ってあげる。前からやってみたかったの、友達と一緒にお家に帰るやつ」
 三条の橋の欄干にもたれていたぬえは、こいしに手を引かれて歩き出した。

 すでに朝日が春の日和を歌い上げて久しい。初春特有の甘酸っぱい木々の香りと共に、気温もぐんぐんとタケノコのように上がってきた。
 最期に頼政に会っておけて好かったと思う。自分が先か頼政が先かは分からないが、永遠に機会を逃してしまう前に話せて好かった。
 それに何と云うか頼政を前にすると、今まで形にならなかった想いが嘘のように身を得て口から滑り出たのだ。ずっと心を覆っていたもやもやが一筋の光で払われていったみたいな気分。
 何もかもが然るべき場所へと落ち着いたような気持ちだった。それは自分の巣に帰る小鳥のように、さやの中へと収まるエンドウマメのように。
 早く藤原に会いたいな、とぬえは思う。

「ぬえちゃんってさ」
 こいしが振り返りながら疑問を転がす。
「あの人間のこと、どう思ってるの?」
「いきなり何よ、藪から棒に」
「ちょっと知りたくなっただけ。なんで私の周りはみんな、妖怪らしくない奴ばっかりなんだろって思ったの」
「“妖怪らしさ”って何だか曖昧だぬぇ。私は藤原と一緒だと楽しいから付き合ってるだけよ。そこに妖怪とか人間とか関係ないと思うけど」
「それが妖怪らしくないって云ってるのっ」
 ぬえは首を傾げた。こいしの瞳が珍しく揺れていた。
「……あんた、何かあったの?」
「別に、なんにもない。ほんとに気になっただけ、純粋に」
 ぬえは出来るだけさりげない感じで答えてみた。
「す――好きだからよ。私は藤原のことが好きだから付いて行ってるの。それの何処が悪いの?」
 こいしは返事をしなかった。

 後方から幾人もの悲鳴が上がったのは、まさにその時だった。
 ぬえとこいしは同時に振り向いた。視界に飛び込むは二人の少女と、その後ろに何十騎もの寄せ手。まるで祭の行列のようにも見えるが、無論この御時世に賑やかなお祭りが開催される訳もない。
 ぬえはこいしと顔を見合わせると、こりゃいかんとばかりに頷き合って一目散に逃げ出した。何故か二人の金髪までがぴたりとくっついてきやがったので、ぬえは顎が地面に落ちるほど驚愕した。
「ちょちょちょちょ、なんであんたらまで付いて来んのよ! 私らまで追いかけられるでしょうがっ!」
『知ったこっちゃねぇよ!!』
 二人は同時に叫んだ。ぬえは「アッ」と間投詞を挟んで走りながら二人の顔を凝視した。
「あんたら確かマミゾウに借金してる三人組じゃないの! 今度は何をやらかしたわけ? また武士の連中にちょっかいでも出したんじゃないでしょうね!?」
『まったくもって仰る通りでございます!』
 二人は同時に叫んだ。
「ほんっと懲りないわね! 正真正銘の大バカだよ!」
『バカはこいつだ!』
 二人は同時に叫んで互いを指さす。ぬえは頭を抱えたくなる。
 独りこいしだけがきゃらきゃらと無邪気な笑い声を上げていた。

 四人の妖怪と追っ手の兵[つわもの]たちは、それこそ祭りで御輿を担いだ男衆のごとく、物凄ぇ気迫と速力で通りを南へと駆け抜けて行った。



【第十六幕 ~ 平安京人妖合戦】



 二ッ岩マミゾウの茶屋は賭場のカモフラージュのために併設されたとはいえ、流石に造詣の深い化け狸の親分が設計しただけあって並々ならぬ風情がある。
 宮中から下野したと噂の職人が丹精を尽くして作り上げた茶道具は春日を受けて麗しく、ひとたび茶を立てれば並みいる人々はその香りに酔いしれたという。まったく失うには惜しいと云わざるを得ない由緒正しき屋号なのである。
 マミゾウは人情が深いもんだから義理が絡むと途端に情けを出す。それは多くの場合は人々からの感謝と尊敬の対象となるが、今回に限ってはそれが最悪の結果を招いてしまったことを思うと妹紅は胸が痛む。
 化け狸が情けと遊び心をちょいと出したからこそ、この茶屋は平安京に集った人間や妖怪たちを狭っ苦しい座敷にぎゅうぎゅうに押し込めることになった。まったく意図せざることとはいえ、その過ちの代償は富士山のごとく大きかった。

 哀れマミゾウの茶屋は、その風情したたる家屋をものの十分足らずで台無しにされ、二十数年の伝統をスッパリ断ち切られる羽目になったのである。


□     □     □


「ふ、二ッ岩さん、どうか勘弁して下さい。怖くて吐きそうです」
「ならキスメの桶にでも吐くが好い。遠慮はいらんぞ」
「冗談じゃないよ。人の桶を鬼太郎袋か何かと勘違いしてないかい?」
「おい二ッ岩、嫌がってる奴を賭場に引き込むな。興が乗らん」

 一座は四人の妖怪と集まってきた博打好きのアウトローで賑わっていた。男たちは誰もが着物の片肌を脱いで筋骨たくましく、無駄にムキムキと恵まれた肉をうならせ、まだ勝負は始まってすらいないのに肩から湯気を立ち昇らせていた。
 一語で片づけるなら“ムサい”に尽きる。このご時世で好くもまぁ玉のような筋肉を付けられたもんである。そんな得体の知れない場に心に恋する妖怪こと“さとり”は連れ込まれていた。

 マミゾウは番頭に化け、八雲藍は見目麗しい若頭の格好、キスメは髪を黒く染めサラシを巻いて中盆を務め、さとりはボロボロの着物の内に第三の目を隠していた。
 ひとつ間違えば妖怪の本性が露見しかねない状況にもかかわらず、自分以外の三人は各々の調子で楽しんでいるようである。正気を疑う。

「さぁ、張った張ったァ!」
 とキスメが大仏殿の銅鑼のような大声を立てて、座を睨み渡した。途端に積まれる貨幣の山。平清盛が大陸との貿易で輸入し、都の内外で流通しつつある宋銭のようだ。白布で覆われた盆ゴザに山を成す宋銭を見ただけで、さとりはすっと気が遠くなるのを感じた。
 あぁ、見て、こいし。あんなにお金がいっぱい……。
「よござんすか、よござんすね?」
『オウッ!』
 キスメの呼びかけにノリノリで応える男衆。飛び散った汗から初春とは思えぬ熱気が放たれる。マグマのごとき感情の奔流をまともに浴びて、さとりの心はコールスローサラダみたいにかき回された。ふっと気を失いかけたところを狸の親分に支えられる。

「おぬしには刺激が強すぎたかのう」
「強いなんてもんじゃありません! もう富士山大噴火です!」
「そうか、そいつは好かったぞい」
「好くありませんよ!」
 そこへ熟練者たる容貌を宿した男が口を挟む。
「おう、威勢が好いじゃねぇか。気に入ったぞ、嬢ちゃん」
 周囲の男たちが次々と同意の声を上げる。
 さとりはまたも気を失いかけた。あまりに久々すぎて、どんな感触なのかさえ忘れていた“好意”の気持ちが心を直撃していた。

『丁!』
『半っ!』
『丁!』
「おう、始まったのう。さとりも乗り遅れるでないぞ」
「ちょっと待って下さい。なんで十二世紀末なのに丁半博打があるんですか!?」
「なんじゃ知らんのか? 儂の祖国かつ超先進国の『SA☆DO』では丁半は無論のこと、チンチロチンから花札まで賭博は選り取り見取りじゃぞい」
「ただの無法国家じゃないですか! もうやだこの人っ!」

「ほれほれ、さとりんも早く賭けな」
「“さとりん”って何ですか!」
「丁か、それとも半か――どちらかを選べば好いだけだよ」
 キスメは例のごとく飄々と笑っている。その凪いだ心を読んでいるうちに、さとりはある事実に気づかされる。
 今も籠に隠されている二つの采。キスメはただ放り上げて隠しただけだ。この場の誰も――私も二ッ岩さんも八雲さんもキスメさんも、誰もが采の出目など知る由もない。
 誰にも分からない以上は、いくら心を読んでも正解が出ないのだ。
 巧妙精細な駆け引きとは無縁の勝負があるのだということを、さとりは初めて知った。“私はさとりだから”――その一句を決して云い訳に出来ぬ勝負が眼前に広がっていた。

 隣に控えるマミゾウの顔を見る。頷きが返ってくる。キスメの表情を窺う。笑いと共にまたも頷き。藍までもが微かに頷いたように見える。そして、その場の誰もが私の心の決断を待っている。
 こんなことが今まであっただろうか、訳の分からない気持ちに溺れかけながら、さとりはヤケクソで声を上げた。
「は、半――!」
「よしきたっ」
 キスメの嬉しそうな声が、鼓膜をささやかに打った。


□     □     □


 藤原妹紅は街路をそっと窺った。

 マミゾウの茶屋が通りの向かいに凛と済ました顔で乙に構えている。ようやく帰ってこれたのだと安堵のため息が漏れる一方、何やら剣呑とした雰囲気で容易には近寄れない。また賭場が盛り上がっているのだろうか。

「どうしたの、さっさと参りましょう」
 と背後から飄然と声をかけてくるは、すっかり知己の縁を結んだ妖怪の賢者・八雲紫である。
 西行寺家の騒動が落着して死神を追い返した後、お礼にと紫が茶屋の近くまで送ってくれたのだ。ひとりで行かせるのは忍びなかったのか、それとも私がきちんとぬえに別れを告げられるよう見守ってくれるつもりなのか、いまいち判然としない。
 妹紅は視線をそのままに妖怪の方へと首を傾ける。
「なんだかなぁ、すっげえ嫌な予感がする。封獣がいるとも限らないし、少し待った方が好いかなって……」
「なに云ってるの。久しぶりの我が家じゃない。胸を張って帰りなさいな」
「我が家、我が家ねぇ。どうもピンと来ないなぁ」
「実感が湧いてないだけよ、誰にだって帰るべき家はあるわ」
 むむむ、という唸りが漏れる。
「何が『むむむ』よ! ――仕方ないわね、スキマで中の様子を覗いてみましょう」
「そうしてもらえると助かる」

 変なところで女の子なんだから、と余計な一句を挟んで空間を裂く妖怪にうっせえと返した時、耳慣れぬ地響きが潮騒のように響いてきた。
 妹紅もかれこれ四百年、なゐや野分を始めとした天変地異は一通り体験してきた。そうした琵琶湖の水量のごとく豊富な経験から鑑みるに、この地響きは数百年前の富士山大噴火の時分と撰を同にしている。
 不吉である。悪寒が酷くなる。思わず紫の後髪を引っ張る。
「ちょっとスキマ。なんか変。巨人の一家が洛外で暴れてるみたい」
 返事はついに帰って来なかった。紫は鞠[まり]でも詰め込まれたみたいに口をあんぐりと開いて、妹紅が毛を二、三本引っこ抜いても微動だにしない。
「あ、あの子、こんな所でなにバカやってるのよ……」
 と呟きを乾いた地面にこぼすばかりである。地響きはいよいよ大きくなる。何やら地の底から沸き上がるような喚声もうごめき始める。
「なんだなんだ、まったく何があったんだ。私にも見せてよ」
 焦れったくなった妹紅は紫を押し退けてスキマを覗き込んだ。


□     □     □


「どうやら私の勝利は確定的に明らかのようだな」
 と八雲藍が腕を組んで自身の周囲に城壁を巡らせた銭貨を見渡す。
 さとりは思わずマミゾウの顔を仰いだ。化け狸は余裕の笑みを崩さない。だが眉間の皺までは隠し切れていないようだ。
「二ッ岩さん、あの、そろそろ……」
「ならんぞ、さとり。銭ならいくらでも貸してやる。勝つまで決して諦めるでない」
「そんな、破産しちゃいますよ!」
「この世には銭金より大切なものなんぞ幾らでもある。心配するでないわい」
 九尾は笑う。何処となく芝居がかった大層な笑みである。
「二ッ岩、貴様が金より大事な物について高説をかたじけのうするとは夢にも思わなかったぞ。いったい全体この二十年で何があったんだ? 狐にでも化かされたのか?」
「冗談じゃない。狐風情にたぶらかされるくらいなら、むしろ儂は栄光ある土鍋を選ぶわい」
 マミゾウの心を横切ってゆく無数の面影。知らない顔が大半だったが、最後の最後に自分自身のはにかんだ顔が映された時、さとりはうつむいて表情を隠した。

「まぁ、さとりん初めてだからな、こんなこともあるだろうよ」
「そうそう、気を落としなさんな。勝負は時の運さ」
 男たちが次々と声を上げては慰めてくる。“さとりん”の呼び名は完全に定着しちまったらしい。
「ん。どうだい――もう止しとくかい?」
 キスメは相変わらず“面白きものこそ至上”という超然たる口調で訊ねてくる。その心には鮮やかな紅が咲いている。まだまだ、あんたはこんなもんじゃないだろうと。

 ……悔しい、とさとりは思う。
 悲しいでも、切ないでも、もうどうにでもなぁ~れでもなく、ただ悔しいと唇を引き結ぶ。そんな気持ちを持っていた自分に驚いてしまう。
 妖怪としての半生、云ってしまえば今までずっと負けっぱなしであった。人の心をいくらもてあそんだところで優越感など得られた例[ためし]がない。実を云うと、一昨日に封獣ぬえをからかった時などはアドレナリンが洪水となって脳を駆け巡ったくらいに興奮したもんだが、それを“優越”とか“勝利”とか呼ぼうもんならヘンタイと云われかねないので、今は捨ておく。

 ……私たちは、どうすれば幸せになれるのでしょうか?

 思い出すのはキスメへの問いだ。その答えだ。

 ――結局のところさ、あんたは何があっても自分という存在と上手く付き合っていかなくちゃならないんだ。となると、なんだかんだで今の自分を認めてやることの他に、あんたが幸せになれる方法はないんだよ。

 もう負けたくはなかった。悔しい思いをしたくないのだ。
 今度こそは勝ちたいと思う。“さとり”という己は変えられない。それは分かり切っている。だからこそ妹は最も手っとり早い方法で解決を図ったのだ。私がそれに抵抗した理由は、結局のところは、最後の最後まで負けっぱなしでいたくなかったからなのだ。
 思わぬところに負けず嫌いな自分を発見して、さとりは心のうちで少し笑った。

 自分たちが安心して過ごせる居場所。
 覚りとして生まれた私が生きる意味。
 そして――等身大の自分を認めてやるということ。

 ……なんのことはない。

 居場所も、意味も、幸せも、自分で作れば好い。
 私は、そんなことにも気づけないでいたのだ。

「キスメさん」
 顔を上げる。キスメはうんうんと頷いていた。とうにお見通しのようだ。むしろこの人の方が覚りらしいな、と思ってしまう。
「お願いします」
「あいよ――さぁ、張った張ったァ!」
 男たちが有り金をずずいっと座の中央に押し出す。九尾の妖狐もまた獲物を狩る猛禽類のごとく両手を広げて、宋銭の城壁を前へと進めた。じゃらじゃらという二度とは聞けそうにない音が座を埋め立てる。その総計額がいくらになるか検討もつかない。手で数えたら日が暮れるだろう。
「さとりん希代の大勝負だ、諸君、刮目して見よ!」
 キスメが采を高々と放り投げる。一座の視線が放物線を描く。

 転がせば何が出るかは分からない。二が出ると思っていたら六と驚かされることもあるだろうし、五が出ると信じて一と来て打ちのめされることもあるだろう。
 ……問題は、その出目をどう受け容れるかだ。生まれ持った“目”を好もうが好むまいが、すでに采は投げられてしまったのだから。

 ならば、私は精一杯に愛してみよう――この“三の目”を。

「信じるんじゃぞ、さとり」
 マミゾウが肩に手を置いてくれた。
「ありがとうございます、二ッ岩さん」

『丁だ!』
『いいや半だ!』
『丁だ丁だ!』
 最高潮の盛り上がりに一座の空気は振動した。というか本当に地面が揺れている。まるで富士山が大噴火したかのようだ。
 藍が鋭い目つきで伏せられた籠を見据える。
「私は半だ」
 目線は流れてこちらへと留まる。さとりは背筋を伸ばして睨み返し、千金のごとく重い言葉を唇から転がした。
「私は丁――勝負です、八雲さん」
 半を賭けるは一番勝ちの藍、丁半は双方でコマを揃えねばならぬ。つまり負ければ、マミゾウは莫大な負債を背負う羽目になる。
 でも怖くない。勝てる自信があるからではなく、こうして勝負の場に自分が立っていることそのものが誇らしかった。今なら妹の訴えにも耳を塞がずにいられる。こいしも私も結局のところ、独りぼっちが嫌なだけだったのだから。
 こいしの言葉は私の心。私の言葉はこいしの心。

 ――本当の意味で目を開くことが出来た、今なら。

「よござんすか、よござんすね?」
 キスメが籠に置いた手に力を込める。
「では……参ります」
 いよいよ運命のカーテンが開かれ――



◆     ◆     ◆



「――ダイナミック失礼しまぁーすッ!!!」

 富士の噴火のごとき雄叫びと共に北面の壁が盛大に吹き飛び、哀れ壁際に陣取っていた九尾の妖狐は流れ星となって佐渡の化け狸に直撃する。
 居並んだ面々が悲鳴を上げて打ち伏せる寸暇も挟まず、続いて賭場に颯爽と飛び込んで来たるは四人の妖怪少女。
 口ン中に乱入する埃や煤を吐き出して頭を打ち振る少女たちに真っ先に反応したるは、腕を組んで超然と構えた釣瓶落としである。

「なんだいなんだい、てっきりヒットマンでも殴り込んで来たのかと思いきや、ヤマメちゃんにパルパルじゃないの」
「おうキスメちゃん。おはよう、髪どうしたのさ? すっかり大和美人になっちゃってまぁ」
「まぁね、うん、イメチェン」
「いやー、走った走った。この数日で一生涯分は走った気がするよ」
「いったい何があったってのさ、いくら急いでるからって壁ごとぶち破るこたぁないんじゃないかい?」
「そりゃもう聞くも涙、語るも涙の大冒険で」
 ヤマメとキスメが精妙なやり取りを挿入したかと思いきや――

「くおォら蜘蛛女! 部屋に入る時はノックぐらいしろ!」
「すまんね戸が無かったもんだからさ! とにかく駆け込めれば何でも好かったんだよ! 今は反省している!」
 因縁の宿敵に顔面ごとキスする羽目になった藍は、化けの皮を脱ぎ捨ててヤマメに掴みかかり――

「……し、死ぬかと思った」
「おぉ、すまん、ぬえ! 儂としたことがおぬしのことを忘れて、あ、挙げ句の果てに賭け事なんぞに現を抜かして――」
「そんなの好いってば。ちょいとトラウマって名前の怪物を退治してきただけなんだから」
「うぅ、すまぬ、すまぬ……!」
 顔を真っ青にして酸欠状態のぬえをマミゾウが抱きしめ――

「よっ、パルパル! 相変わらず疲れ切った顔が好くお似合いで」
「うるさいってのよ。あー……もう駄目。もう一歩も走れない」
「さぞかし過激なデートの幕引きになったみたいだね、お相手は?」
「……源五位よ、一昨日のアレ」
「ほうほう、そりゃ珍報だ。いや参った参った、お疲れさん」
 仰向けに倒れ込んだパルスィの肩をキスメが優しく叩いてやり――

「ただいま、お姉ちゃんっ!」
「こいし、今度は何したの。いつもいつも心配させてっ」
「ご、ごめんなさい」
「せめて行き先くらい教えてちょうだい、お願いだから……!」
「わわっ、どうしたのお姉ちゃん?」
 感極まって涙をこぼすさとりに、意表を突かれたこいしはしどろもどろになって――

 八人の妖怪が蜂の大群のごとく一気呵成に集ったもんだから、賭場は大喧噪で湧きに湧いた。懇意にしていた番頭さんが化け狸であると知った男衆は文字通り狐に包まれたように尻餅をついて呆然としていたが、誰かが「物の怪だ!」と叫んだもんだから火砕流が山を駆け下るがごとく賭場の入り口に殺到した。
 ところが男達が手を掛ける前に引き戸は勢い好く蹴破られた。どやどやと押し入りたるは武具甲冑に身を包んだ別な男衆の一派である。

「け、検非違使だ!」
「いや源氏の郎党だ!」
「違う違う平家の手の者だ!」
 と賭場の癖でついつい丁半博打ふうに悲鳴を上げる博徒たち。
 相対する武士[もののふ]共も意外とノリが好く「御用だ御用だ!」と江戸の捕方[とりかた]のように野太い叫びを吐き散らす。たちまち博徒たちは反転して部屋の隅に毛玉のごとく吹き溜まりを成した。

「ちっ――もう追いついてきやがった」
「からかい過ぎちゃったかしら、シツコイ男は嫌いなんだけど」
「おーおー、日本一シツコイ女が好く云うよ」
「ンだコラ、やんのか?」
「上等だ」
「表出ろや」
 などと取っ組み合いを始めたヤマメとパルスィを尻目に武士たちは距離を詰めてくる。背後を振り向けばヤマメがぶち抜いた穴からも新手が乗り込んできた。
 妖怪少女たちは賭場の中央に完全に追い詰められてしまった。

「――やっと捉えたぞ、貴様らぁ!」
 と平宗盛が胸を押さえて呼吸を整えながら、春風に乗じて入り口から飄然と舞い込んでくる。
「女子だろうが幼子だろうがもう容赦はせぬぞ、貴様らまとめて羅生門に吊し上げ天下の見せしめにしてくれる!」
「ちょい待てしばし、儂らは関係ないじゃろ」
「問答無用ッ! 時代の遺物どもめ、根絶やしにしてくれるわ!」
「ハッハーン、そうこなくっちゃ面白くないね! まとめてかかって来いやオラぁ!」
「煽ってどうすんのよまったくもう!」
「うおーっ、はっけよいやよいや!」
「あんたまで煽るんじゃない!」
「おい二ッ岩、どう責任取ってくれるんだ! 紫様に鍋にされてしまうじゃないか!」
「ちょちょちょ放してよマミゾウ、苦しい死ぬ死ぬっ!」
「こいし、お姉ちゃんの後ろに隠れていなさい!」
「私に任せてよ、アっと云う間に皆殺しにしてあげる!」

 大喝する宗盛、狸寝入りでやり過ごそうとするマミゾウ、ファイティングポーズをとるヤマメ、ツッコミに忙しいパルスィ、盆ツボを軍配団扇のように振るうキスメ、事態の迷走に大いに困惑する藍、マミゾウに押し潰されてもがくぬえ、今こそ姉の威厳を示さんと仁王立ちするさとり、ひとりマイペースに物騒なこいし、座敷の隅に吹き溜まって震える博徒共、一堂に介した妖怪が呈する奇観に半ば夢見心地の武士たち――

 人間と妖怪が入り乱れて演ずる世紀の大合戦、止まぬ喧噪、果てぬ争乱、鎮まらぬ騒擾[そうじょう]……平安京の歴史に連綿と受け継がれてきた闘いに「待った」をかけるは、やはり人間であり妖怪でもある一人の少女であった。



◆     ◆     ◆



「はい、ド―――――ンッ!!!」

 天井を突き破って飛び降りた妹紅は、なまくら刀を抜き放ち白髪をなびかせながら宗盛たちの目前に踊り込んだ。遅れて八雲紫が「あらあら大変なこっちゃ」と天女もかくや悠々然として参上つかまつる。

「藤原! いきなり降って来ないでよ危ないじゃない!」
「悪いな、カッコ好く登場したかったもんでね」
「このやろっ! 心配したんだからぁ!」
 ぬえが目に涙を浮かべて背中をポカポカと叩いてきた。今すぐ振り向いて力いっぱいに抱きしめてやりたかったが、そう易々とは問屋が卸さない。

「なんだ今度は、何者だ貴様は」
「通りすがりの旅烏だよ」
「しらばっくれるな、名を答えい!」
 妹紅はしかめっ面を歪めて刀を握りしめる。
「蓬莱人・藤原妹紅」
「なに――藤原とな?」
 武士たちの間に動揺がさざ波のように広がってゆく。鋭い視線が無数の針となって肌を灼く。妹紅は黙して呼吸を落ち着けた。
 こいつらは反乱を起こして貴族の時代を終わらせた。四百年も昔に父が築いた藤原氏の栄華は、既に灰となって崩れてしまったのだ。私の名前なんてどの記録にも一筆たりとも遺されてはいないだろう。
 自分の“人間”としての居場所がとうの昔に失われていることは、痛いくらいに分かっているつもりだったが、こうして改めて現実を突きつけられると寂しいものだ。
 敵愾心を剥き出しにして睨んでくる武士たちを眺めながら、妹紅は少しだけ笑った。
 ほんの、少しだけ。

「きっついなぁ……」
「藤原、どうしたのさ!?」
 妹紅は刀を放り捨てた。ぬえが着物のすそを掴んで必死に問いかけてくる。その頭を撫でてやる。その黒髪の感触を頭に刻み込む。二度と忘れないために。思い出す必要がないように。
 ぬえは真っ赤な瞳から真珠を散らして見上げてくる。何やかんやと振り回されてようやく会えたってのに、告げなければならないことを思うと胸がひどく痛む。
 それでも生きていてもらいたいから、いつかまた会えると信じたいから、妹紅は刀を捨てたのだった。
 浄瑠璃の鏡で見せつけられた数多の記憶が心を灼いている。血を見るのはもう沢山だ。傷つけ合うのは懲り懲りなのだ。

 すわ降参するかと構え直す武士らの前に進み出て、妹紅は両手を広げた。
「こいつらには手を出すな――人間」
「何を云うか、小娘の指図は受けぬぞ」
 先方の大将は威勢を取り戻して刀の柄を握る。
「なら私を殺せ」
「刀を拾え、戦わぬなら退け!」
「私はもう誰も殺さない。お前たちこそ退け」
「貴様、平家に逆らうか……!」
「源氏も平家も知ったことか――さぁ、私を殺してみろ!」

「……何をちんたらしておる、宗盛」
 新たな声が緊迫した空気を打った。武士らは恐懼してその場に片膝を突く。
 入り口の人垣が潮が引くように静かに割れ、法衣に身を包んだ平清盛が顔をしかめながら入ってきた。
「まったく興が削がれたわ。物の怪だろうが人間だろうが構わん。さっさと斬り捨てい」
「む、無抵抗の娘を斬れと?」
「先ほどの威勢はどうした」
 餓えた鷹のようにギロリと睨みを利かせる平家の長老。宗盛は蛇に相対した雨蛙のように恐縮して背を丸めた。
「恐れながら、手前の白髪は物の怪ではありませぬ。我々と同じ人間でございます」
 なんだと、と驚きを挟んで清盛が視線を向けてくる。時代を塗り変えた武人だけあって恐ろしいほどの威圧感である。

「お前、本当に人の子なのか」
「そろそろ自分でも分からなくなってきたところだよ」
「人間のお前が、なぜ妖怪共に味方する。さては魔に魅入られたか」
「まぁ、ある意味ではね」
「生きながらあやかしに染まったか。さぞかし迫害を受けたであろう」
「ご心意に痛み入るよ」
 清盛は表情を変えない。声には呆れとも同情ともつかない色が混じっている。
「……分からんな、なにゆえ妖怪のために生きる。古来から人間は妖怪を恐れ怪異に怯える夜を送ってきたのだ。わしはその愚かな時代を変えた――殿上の下らん幻想を焼き捨て、妖怪の手から夜を取り戻したのだ。鬼がなんだ、鵺がなんだ、闇を打ち破れば何のことはない、詮無い小娘ではないか。日が沈むというのなら金の扇で招き返せば好いのだ。何人たりとも、我が平家の隆盛は止められぬわ」

 清盛の確信に満ちた言葉に、妹紅は後ろを振り返った。平安京に縁を結んだ妖怪少女たちが、真っ直ぐな瞳で自分を見つめ返していた。
 ――化け狸、九尾の妖狐、土蜘蛛、橋姫、釣瓶落とし、覚りの姉妹、スキマ妖怪、そして鵺。
 どういう経緯で少女らがこの場所に集ったのかは知らない。でも決して偶然なんかじゃない。これは縁と絆が織り成した必然なのだ。
 戸惑うぬえの肩を抱き寄せる。痩せた背中は微かに熱を帯びて震えている。
「人間だとか妖怪だとか、そんなのどっちだって好い。関係ないね」
 ぬえと目を合わせる。涙に揺れる紅色の瞳を見る。

「私は――私はこいつが好きなの。生意気でイタズラ好きで、そのクセ怖がりで寂しがり屋なこいつのことが、どうしようもなく好きだから一緒にいるの。それのどこが悪いってんだ」

 ふじわら、と唇を動かすぬえの頬に、また一筋の涙が流れて川になる。
 そういえば、ちゃんと“好きだ”って伝えたのは初めてだった。友人でもなければ恋人でもない、この“好き”をひとつの言葉で表すのはとても難しい。
「……やはり解せんな。その想いを呑み込むには、わしは年を取り過ぎたのやもしれん」
 清盛は首を振って言葉を結び、右腕を高く掲げた。周囲に居並んだ武士たちが一斉に輪を狭める。
 妹紅も挑みかかるように歩を進めた。
「来なよ……串刺しにされるのは慣れてる」
「ならば、死ねい!」

 清盛がまさに腕を降り下ろそうとした――その時である。

「よし準備完了、捲土重来ッ!」
「おっけー、みんな伏せろォ!!」
「アっ――やめろバカ!!」

 釣瓶落としの掛け声と前後して、土蜘蛛の警告と橋姫の制止が同時に轟く。
 もんのすげえ嫌な予感がした妹紅は、本能的にぬえの身体ごと床にどうと倒れ込む。
 次の瞬間、拳大の茶色い球体が弾丸のごとく頭上の空間を次々と突き破った。



 ――それは大型の糞爆弾であった。



【終幕 (妖怪サイド) ~ 未来を導く揚げヒバリ】



 マミゾウの茶屋が台無し有り体に云えば穴だらけの糞まみれになった直後、これ幸い今が逃げ時と平安妖怪らは仲好く揃って都から逃散した。
 武士らも憤怒の形相で追いかけようとしたが、足の踏み場もないのと臭くて堪らないのと世間体が悪いのとで、屈辱に悔し涙を流しながら落ち武者のごとき風采で引き揚げたという。
 平安妖怪と平安武士の合戦は、遂に和解を迎えることなく終わりを告げたのである。

 かつて平安京は現実と幻想の境界を司る場所だった。
 桓武天皇の遷都より四百年、都の顔たる羅城門は朽ち果て、安元の大火の傷痕も生々しく、復興は一向に進んでいない。度重なる飢饉に悩まされ、疫病は宮中にまで死者をもたらし、通りには死骸が溢れて引き取り手もいない。
 けれども少女たちは因縁深きこの都を愛した。幾度も退けられ虐げられようとも、忘れることの出来ない縁と絆がそこにはあった。死ぬよりも辛いことがあるとすれば、それは忘れられてしまうことだ。

 春を歌い上げるヒバリも今や都を飛び去った。華々しく咲き誇る桜もいずれは散ってしまうように、どんな物語にもいつかは終わりが訪れる。
 ……これから語られるのは、歴史という大河に流れるほんの一幕である。


◆     ◆     ◆


 雑木林に埋もれた廃屋の戸を蹴破り、苔むした床に倒れ込んでから、藤原妹紅はようやく一息をついた。後ろでは封獣ぬえが床に突っ伏して息を荒げていた。
 藤原、封獣と名前を呼び合って妹紅は相方の妖怪を抱きしめる。以前にも増してその背中は痩せている。二色三対の羽も瑞々しい輝きのようなものを失っているみたいに見える。廃屋の中が暗いからなのか、それとも私の心が曇ってしまったのか。
 ほんの少し前までなら倒れていた私をケラケラと笑っていやがったのに、今ではぬえも死にそうなくらいに肩を上下させて苦しんでいる。
 もう飛べないんだな、こいつ。そう思うとわけもなく悲しくなる。

 しばらくの間、ぬえと体温を分け合う。ぬえの黒髪と妹紅の白髪が隣合わせに震える。呼吸が整うにつれて廃屋を満たす音は小さくなってゆき、やがては遠くで焚き火が燃えているような空気のささやきだけが残される。
 ぬえが腕のなかで身じろぎする。恋いうるように六本の羽を動かすので身体を離してやる。少女の上気した顔が視界に沈む。ぬえは視線を逸らしている。妹紅は真っ直ぐに見つめている。その正体を掴んでやりたいと思う。
 おでこをくっつけた。前髪が優しく握手する。ぬえの唇から熱い吐息が漏れて首にかかる。
 どんな言葉を掛けてやるべきなのか分からない。どう表現すれば悲しまないで済むのだろうといつも考えている。

 ぬえと鼻の頭をくっつけて、妹紅は口を開く。
「寂しかったか?」
「……ばか」
 いきなり馬鹿と云われた。封獣らしいなと笑う。
 やっぱりぬえはこうでなくちゃいけない。私のために必死になるなんてぬえらしくない。むしろ鼻で笑っていて欲しい。そうしてくれると私も安心できるから。
 西行寺の人々のことを思う。あれから慌ただしく別れの儀を結んでしまった。もう二度と会えないかもしれない。それが残念だった。もっと色々と話したいこともあったのに。常人には理解されない異能を有していようとも、人間と親しく言葉を交わすのは久しぶりだったから。
 赤髪の死神のことを思う。あいつとはまた会うこともあるだろうか。精魂尽きたように疲れ切った顔で去っていった死神。もしかしたらあいつも不器用なだけなのかもしれない。次に機会があったら鮎の一匹でも奢ってやろうか。

「……ぬぇ、藤原」
 しばらく呼吸を整えてから、ぬえが呟く。
「私さ、頼政に会ったよ」
 再び身体を離してぬえの顔を見る。驚きはなかった。私が大立ち回りの空回りを演じていた一方で、こいつもこいつで大変だったんだ。
「そっか、頑張ったな」
「もう爺さんになってたよ、あいつ」
「当たり前だろ。人は老いる」
「うん、忘れてたから驚いた」
「何か話したのか」
 ぬえは照れたように笑う。
「お前が生きていて嬉しいとか、射落としてしまってすまないとか、私は妖怪を理解したいとか……」
「なんだそれ。本当に頼政だったのか? 出家して耄碌したんじゃないだろうな」
「さぁ。でも悪い奴じゃなかったよ。優しい奴だった」
「好かったじゃないの。やっと過去と訣別できたってところか」
「……まぁね」
 ぬえは瞳を揺らしている。それに合わせて垂れた羽も戸惑うように床を這う。まだ云い足りないというサインだ。
「あのさ、藤原――どうしても云わなくちゃいけないことがあるの」
 とぼけることは出来ない。妹紅は拳をぎゅっと握った。なまくら刀は既にない。
「分かってる、知ってる」
「ほんとに?」
「痛いくらい」
 ぬえの左手首を持ち上げる。傷跡は赤々と肉を晒している。先の騒動で包帯が剥がれてしまったようだ。また替えてやらなくては。でも手元に包帯はない。釣り竿もない。筆もなければ篠笛もない。何もかも失ってしまった。
「ごめんよ……怖かったんだ、知らないふりしてた」
 ぬえは首を振る。瞳に涙の気配がある。
「違う違う、私が云わなかっただけ。怖かったのは私だよ」
 私が、私が、互いに言葉を袖合わせる怖がりな二人。いつから私はこんなに臆病になってしまったんだろう。何処の誰が消え去ろうと、草原を撫でるそよ風のようにやり過ごして生きてきたはずなのに。それなのに、いつの間にこんなに“生きる”ということが怖くなってしまったんだろう。

「……妹紅、“好き”って云ってくれてありがとう、嬉しかった」
「しおらしいこと云わないでよ。今すぐ死ぬってわけじゃ――」
 その先まで言葉が続かなかった。覚悟に押し潰されそうになる。膝の上に置いた拳を睨みつける。泣くには早い。ぬえに涙を見せてはならないと頭の奥で誰かが叫んでいる。
 すまないと謝罪した源頼政はどんな気持ちだったのだろう。ずっと胸に留めておいた想いを打ち明けるために、どれだけの勇気を振り絞ったのだろう。

「……好く聞いて、ぬえ」
 妹紅はぬえの両肩に手を添えた。背中よりも肩の方がずっと痩せて骨が張っている。その頼りない感触に妹紅の呼吸はますます整わなくなる。何度もつっかえながら話を切り出す。
 八雲紫のことを、幻想郷のことを、人間と妖怪のことを、そして別れなければならないことを、それが最善の選択なのだと――
 言葉を織り重ねるにつれて、ぬえは顔を俯かせてゆく。小さな肩が吹雪に転がされるように縮まる。
「二度と会えないってわけじゃない。いつになるかは分からないけど、私もきっと幻想郷に行くから。この世界から全ての幻想が消え去れば――“不老不死なんて夢のまた夢だ”って世界になれば、私もそっちへ行ける。ぬえと同じ妖怪になれるから、だから……」
 水に色彩が溶けるように言葉は薄まっていった。ぬえが胸元に顔を埋めてくる。背中に手を回される。背骨が軋むほどに強い力が込められる。もう消え入りそうな灯火のはずなのに、こんなにも勢い好く燃え盛っている。こんなにも強い力で抱きしめてくる。

 妹紅は引き離そうとする。腕に力が入らない。ぬえの肩を掴んで押そうとすると、着物の背をより強く握りしめてくる。妹紅が何かを云う前から、ぬえは埋めた顔を精一杯に振る。凍ることのない涙がこすりつけられる。
「だめだよ、ぬえ」
 少女は首を振る。妹紅も首を振る。二人の“だめ”を押しつけ合う。
「だめだってば……云ったでしょう。また会えるから。必ず会えるから」
 ぬえは顔を見せてくれない。染み込んだ涙の冷たさが鳩尾を灼く。
「わ――わがままな奴だな! 私は自分勝手な奴がきらいなんだ、ほんの数百年の間じゃないか! あっと云う間だよ、百年なんて。ほら、なんてことないだろ、た、たった百年、それだけ待てば会えるんだよ!」
 腹の底から力を振り絞る。ぬえの身体を引き離そうとする。その温もりを引き剥がそうとする。唇から呻きが漏れる。ぬえが背中に爪を突き立ててくる。
「……やだ」
「バカ云うな、私ではお前を救えない。私では封獣を守れない。私なんかじゃ、ぬえを幸せにしてやれない」
「やだよ、藤原」
 六本の羽までが持ち上がって背中に回される。息が出来なくなる。形が変わってしまうくらいに心が締め付けられる。
「だめだって云って――」

「――やだッ!!」

 妹紅は背中から床に倒れ込んだ。ぬえの顔が視界一杯に広がる。瞳は涙に沈んで紅色の海みたいになっている。

「絶対にやだ、やだよ妹紅。離れたくない、別れたくないよ。私は藤原しか要らない、私は妹紅の他には何も要らないから……もう二度とわがままなんて云わないから、だから、一緒に居させてよ、藤原ぁ……」

 もう限界だと思った。
 妹紅は何も云わずにぬえを抱き返した。ぬえぬえと泣きじゃくる正体不明の少女を、ぎゅっと抱きしめた。なまくら刀を握りしめるように、世界で一番に優しい力加減で。
 ごめん、ごめんと声を震わせて、やだ、やだと声を軋ませて、涙の一粒一粒が溶け合って、二人だけの川になり、海になり、そして言葉になる。
 互いの髪に触れ合い背中を撫で合って、その感触のひとつひとつを胸の奥にしまい込む。いつ離ればなれになっても好いように、いつ世界から見放されても好いように。

 水の潤いを失ってしまうのが怖いのなら、最初から井戸なんて掘らなければ好いのだけれど。それでも懲りずに鍬を振るって求めてしまうのは、水が無ければ餓えて死んでしまうから。
 この世はまだ本当の春を迎えていない。だから身体も心もすぐに冷えてしまう。温もりが欲しくなる。何万回だって体温を分け合いたくなる。
 藤原の他には何も要らない――それは乾き切って凍える心が解き放った、たった一つの言葉だ。

 崩れた屋根のスキマから春の光が流れ込む。何にも増してありがたい温もりに二人の身体は包まれる。
 溶かされた氷のように嗚咽は小さくなってゆく。やがて二人の間には呟きだけが残される。ぬえ、ぬえ、もこう、もこう、と幼い言葉を不器用に絡ませ合う。
 いつしか妹紅の意識はまどろみの沼に浸かる。握りしめたぬえの手のひらから力が抜けてゆく。眠りに就こうとする少女の髪を、もう一度だけ撫でてやる。ぬえが春日のような微笑みを返してくれる。
 そっと唇が動かされる。声にならない声で、ぬえは鳴いてくれる。その響きを、その想いを、妹紅はずっと忘れないと誓う。


 ―― も ・ こ ・ う ・ が ・ す ・ き


 ―― し ・ ぬ ・ ほ ・ ど ・ す ・ き


 私もだよ、と返事を唇に乗せる。

 ……ちゃんと届いただろうか。届けば好い。届いていて欲しい。ぬえが好い夢を見られるように。せめて夢の中では大空を自由に飛び回っていられるように。
 出来ることなら、その隣で私も飛んでみたい。人間でもなければ妖怪でもない曖昧模糊な自分でも、いつかは空を飛ぶことが出来るのだろうか、ぬえと一緒に……それこそ夢のような話なのだけれど。

 二人は眠る。手を繋ぎ合って。
 ――春の陽だまりのなかで、ぐっすりと眠る。


◆     ◆     ◆


 八雲紫は廃屋の壁面にもたれかかり、行き場のない吐息を春の空気に溶かした。
 鳥が鳴いている。ヒバリだろうか。春の空に舞い上がるヒバリの歌は例えようもなく美しい。
 視線をさまよわせても小鳥の姿は見えない。正体の知れない鳥の声、まるで鵺のようだ。
 けれども鵺は都から去った。あるいは初めから存在などしなかったのかもしれない。正体不明の鳴き声に驚かされ恐怖する人の心の弱さ、それこそが鵺だ。
 ならば、あの子たちは自身の鵺を退治したのだろう。二人だけのやり方で。たったひとつの冴えたやり方で。私でも捉えることの出来なかったほどの覚悟で。

 ……そう、留まるのね、二人とも。

 しばらくの間、紫は妹紅たちの寝息に耳を澄ませる。ささやかな安らぎの時間を味わせてもらう。朽ちた板木の一枚を隔てて、二人とまどろみの刻を共有する。久方ぶりに春の香りを楽しむ。木々の葉がこすれて季節の変わり目を歌い上げる。
 やがて紫は目を開く。スキマを開いて必要なものを取り出す。廃屋の戸口に音を立てないように置いてから、また少しの間、眠っている二人の顔を眺める。
 そして自らもスキマへと身を踊らせる。同時に鳥が鳴き止む。

 ……後には静寂が残される。手にすくって呑み込めそうなほどの静寂のなかで、妹紅とぬえの呼吸だけが木霊を奏でている。


◆     ◆     ◆


 その頃、“さとり”と“こいし”は宇治川の畔を歩いていた。

 こいしは先ほどから一言も発しない。無理もない。初めて出来た友達と離ればなれになったのだ。さとりは励まそうと何度か試みたのだが、そっとしておいた方が好いことに気づいて、今は口を閉じている。
 草木は優しい。自然は平等だ。覚りの私をも受け入れてくれる。都の生活も悪くはなかったが、やはり腐臭のない空気は大切だ。こうして考えていると、橋の下で死体を集めて暮らしていた自分がおぞましく思えてくる。死者の怨霊をたぶらかして妖気を収集していたのだ。あと一歩でも間違えたら怨霊の仲間入りをしたか、さもなくば目を閉じていただろう。

 こいしが鼻をすすり上げる音。さとりは振り向くことはしないが、歩む速度を緩めてあげた。追っ手の気配はない。もう大丈夫だ。
 春の日差しは健在だった。これからますます暖かい季節が始まることを思うと、さとりの心はささやかな喜びに震えた。
「好い日和ね、川で泳いだら気持ち好いかしら。でも今はまだ冷たいわね」
「……お姉ちゃんさ、なんでそんなに元気なの?」
 こいしが拗ねたように云う。さとりは振り向かずに返事を転がす。
「元気も元気よ。憑き物が落ちた気分。まだまだ私たちの妖怪ライフはこれからよ、こいし」
「意外と薄情だよね、あの狸のお姉さんとか、桶に入ってた女の子とか、もう二度と会えないかもしれないんだよ?」
「そんなことないわ。また会える、必ず」
「自信たっぷりなんだね、信じらんない。あの陰気がボロをまとったみたいなお姉ちゃんはドコに隠れたんだろ」
「さぁね、無意識に逃げたんじゃないかしら」
 こいしは押し黙る。背中を小突いてくる。けっこう手痛い力加減だったので、さとりは止めて止めてと飛び跳ねながら悲鳴を上げた。

 会えない?
 そんなことはない。あの人たちは私に生きる勇気をくれた。妖怪としての在り方を示してくれた。誰もが強かで優しい心を持っている。
 九尾の八雲さん、釣瓶落としのキスメさん、化け狸の二ッ岩さん。次に会った時は妖怪らしく驚かしてやろう。自分だけの居場所を手に入れて、こいしと一緒に朗らかに笑っている私を見せつけてやろう。
 どうですか、私だってやれば出来るんですよって――

「生きてさえいればまた会える。あの子も大妖怪のひとり、簡単にくたばるようなタマじゃないわ」
「ちょっとお姉ちゃん、言葉遣いがすっごい下品になってるよ」
「ごめんなさい――もしもよ、もし死んでしまったとしても、その時は地獄で会えるわよ、万事おっけーじゃないの」
「前向きにも程があるよ。ほんとどうしたのさぁ」
 さとりは笑う。きゃらきゃらと。こいしが少し引いていやがるが、まぁ好い。
 ……あの子には可哀想なことをした。再会したら真っ先に謝らなければ。ついでにペットにでもしてみようかしら。あの子の心はグリルチキンみたいに美味しかったから。その時は“お鵺”と名付けてやろう。
 それと、あの一緒にいた人間のこと。“どうしようもなく好きだから一緒にいるの、それの何処が悪いってんだ”――なんて素敵っ! 羨ましいっ! 私も云ってもらいたい、叫んでもらいたい。焦がれるような恋とかしてみたいっ!
 さとりは今にも踊り出しそうにステップを踏んで道をゆく。こいしが呆れたように、けれど吹っ切れたような苦笑いでついてゆく。

 しばらく進むと、石造りの粗末な橋が見えてきた。青虫に喰われた葉っぱのように建材が崩れている。その欄干にもたれて川面をじっと見つめている人がいる。
「ねぇー、お姉ちゃん。橋の真ん中に変な人がいるよ。わたし怖いよ、回り道しようよ」
「あらやだ、検非違使の人に来てもらわなくちゃ。やぁねぇ、物騒になったもんだわ」
 とデパートで不審者を発見した親子連れみたいな漫才を繰り広げているうちに、その少女はこちらを振り返った。

「……待っていました、“さとり”」
「こいし、後ろに隠れていなさい」
 妹を背中に隠しながら「何か御用でも」と訊ねる。追っ手ではないようだ。
 少女は帽子を外し翡翠色の髪を揺らして目礼する。突然に声をかけてしまい申し訳ないと非礼を詫びる。
「四季映姫と申します――ずっと以前からお声を掛けよう掛けようと思案していたのですが、多忙な身の上、ようやく暇を頂きまして彼岸より罷[まか]り越し次第に候[そうろう]……」
「あの、普通の言葉で結構ですので」
「失礼しました。身内のことで気が動転しておりまして、つい」
 少女は慌てて帽子を被り直す。
 さとりは目を瞬[しばたた]く。仕草や調子は乱れているのに、心の海にはさざ波のひとつも立たない。しかし演技で慌てている訳ではない。本当に云い間違えてしまったらしい。
 今まで一度も見たことのない心模様だった。まるで波長が違う。

「彼岸、ですか?」
「正しくは彼岸の是非曲直庁、この地区より流れる魂の審判を務めていました、少し前まで」
 はぁ、とさとりは答える。こいしはさとりの背後で蝶々と戯れている。
 お疲れでしょうから要件だけ話しましょう、と映姫は何事か綴られた板きれを胸に当てて云う。
「さとり、都での事の顛末は聞き及んでいます。それを踏まえてお訊きしたい。これから何処か行く当てはありますか?」
 映姫は真っ直ぐに見つめてくる。こちらの方が心を読まれているような気持ちになる。この人は“誠実だから嘘や偽りがない”というよりも――“生まれてくる時に嘘や偽りを落っことした”んじゃないかと思ってしまう。それくらいに心は白い色と黒い色がはっきりと分かれている。
 さとりは胸の鼓動を感じながら言葉を選び出す。
「しばらく、あちこち旅をしたいと考えています。私の、私たちの居場所を見つけるまでは」
「――こちらが居場所を用意する、なんて提案は如何です?」
 えっ、とさとりは声を詰まらせる。代わりにこいしが代打を務める。もがもがと何かを咀嚼しながら話すので聞き取りにくい。
「にゃににゃに、どこそれ?」
 映姫は少しばかり息を吸い込んだ。

「……地底、いや地獄です」

 さとりは思う。こいつは喧嘩を売っているのだろうかと。
「地獄と云いましても、貴方達を串刺しにするとか釜茹でにするとか云うわけではありません。地獄の一角の管理をお願いしたいと考えておりまして」
「でも、よりによって地獄なんて……」
「本当ならもっと早くに御提案したかった。貴方が橋の下で暮らしていた、怨霊を糧にしていた時期にお誘いしたかったのですが……地底なら人間はいません。ただ責め苦に打ちのめされる罪人と、それを断罪しては喰らう獄卒がのさばるだけ。こちらが指示する業務にさえ従って頂ければ、後はのんびり気楽な日々を送れます。立派な屋敷も用意しましょう」
「お屋敷に住めるの!?」
 こいしが映姫に飛びつく。周りを蝶々のように舞う。
「えぇ、決して文句の出よう筈のない、立派な邸宅ですよ」
「好いね、好いね。お姉ちゃん、大チャンスだよ、素敵なお屋敷に住めるんだって!」

 さとりは第三の目を両手で包みながら映姫を見ていた。その心に悪意はなかった。邪心さえも落っことしてきたらしい。かといって純粋でもない。この世の生きとし生ける者とは存在のベクトルが違うのだ。
 映姫も真っ直ぐに見つめ返してくる。私の異能のことだって知っているだろうに。確かにこの人なら、きっと受け容れてくれるだろう。覚りとして生まれた私たちだって。
 でも、とさとりは口を開く。
「……申し出は有り難いんですけど、四季さん」
「映姫で好いです」
「――映姫さん、“幸せ”とは何でしょう?」
「心からの笑顔で最期を迎えることだと思っています」
 即答だった。さとりは頷いて答える。
「私は、この申し出を受けることで本当に幸せになれるとは思えないんです。だって私、まだ何もしてないもの」
 映姫は首を傾げる。表情は変わらない。
「貴方は今までずっと辛い目に遭ってきたはずです。それが善行とまでは呼べないにしても、幸福を受け取る権利があります」
 権利、権利ってなんだろう、とさとりは思う。口を開いてありのままの気持ちを伝える。

「それでも私は自分で見つけたいんです。自分自身の力で。そうじゃないと、また怯えて暮らすことになってしまいます。その場所を守りたいと思うだけの苦労が、まだまだ私には足りないんです」

 申し訳ありませんが、と第三の目をぎゅっと包む。映姫は目を伏せる。微かに口元に笑みが浮かんでいる。
「……好いのですね、さとり」
「えぇ」
「まだ無効になった訳ではありません。どうしても力の及ばない時があれば、いつでも声をかけて下さい」
「ありがとうございます」
 さとりは深々と礼をする。
 上空を小鳥が歌いながら翔け抜ける。ヒバリだろうか。

「――そうそう、申し忘れていたことが」
 映姫は橋の向こう詰めで振り返る。春風に翡翠が踊る。その指には一枚の文書が挟まっている。
「さとり――貴方、名前はどうしたの?」
「捨てました……いえ、覚えていません」
 さとりは云い直した。不満そうに俯いていたこいしが視線を向けてくる。軽く咳払いをしてごまかす。
 映姫は書類を人差し指で弾く。
「名前は非常に大切なものです。彼岸に逝くために必要になるだけじゃありません、自分という存在を定義するためには、他の者から認識してもらうためには、名前というものが不可欠なのです」
「“さとり”では、駄目ですか?」
 映姫は首を左右に巡らす。
「いえ、そうではなく……我々が貴方に差し上げたいと考えまして、宜しければ受け取ってくれませんか?」
 我々……?
「あの、それはどういう」
 映姫の指が離される。一枚の紙が春風に舞う。それは蝶々のようにさとりの手に滑り込んで来た。
 さとりは紙を覗き込む。こいしも頬をくっ付けてくる。
 仮名交じりの和語が整然と並んでいる。その中に一筆で大きく描かれた三つの字が、春日を受けて輝いた。

 “古明地”

 ……こめ、いじ?
「"古を明らしめ地を覚らせる"……その能力は、いつか必ず役に立つ時が来ます。卑下する必要はありません。自分を見失わないための光として、この名前を頂いてもらいたいのです」
 さとりは顔を上げる。
「どうして、そこまで」
 映姫は質問を無視して云った。
「貴方達のことを、貴方達が思っている以上に、私は知っています。どうか諦めないで下さい。どうか生き抜いて下さい――それが貴方にとっての善行よ」
 では、いずれまた――映姫は去る。春風にさらわれるように消える。瞬きの間に世界の裏側に沈み込んだかのように。

「……古明地だって、どう、こいし?」
 こいしは千切れた管の跡を指の腹で撫でている。遠い遠い記憶が呼び起こされる。三つの瞳から血の涙を流す妹の姿。あれからどれだけの命が過ぎ去ってしまったのだろう。
「古明地、こいし……古明地こいし……」
 しばらく繰り返してから、妹はこくりと頷いた。
「どう、気に入った?」
「まぁね」
「なんだか変な気分だけど、悪くはないわね」
 古明地さとり、か。うん、悪くない。

 二人は木陰で休息を取る。こいしが懲りずに人肉の干物を勧めてきたが、さとりは全力で抵抗した。
「ちぇっ――お姉ちゃん、もう閉じるつもりはないんだね」
「開いていようが閉じていようが、私は私、こいしはこいし」
 出来れば開いて欲しいけど、と頭を撫でてやる。木漏れ日に彩られたこいしの目が子猫のように細まる。
「こいし……さっきはごめんなさい」
「なにが」
「お屋敷のこと。私のわがままで」
「ああ」
 別に、とこいしは目を閉じたまま答える。むずむずと唇が動いて、言葉を毛玉のように転がす。それは転がり糸を引く。さとりは糸の先を握りしめる。
「……なんか、すごくかっこ好かった、お姉ちゃん。その方がずっと妖怪らしいよ。合格ってところかな」
 だからさ、私も、今までごめんね……ごめんなさい、ごめんなさい。
 顔を隠そうと身をよじるこいし。たった一人の家族。たった一つの謝罪。それだけで、さとりは何故だか胸がいっぱいになる。この糸口を決して離してはならないと思う。これを辿っていけば、いつかはこいしに辿り着けるから。
 さとりは妹の背中をさする。こいしは、しばらく泣く。嗚咽は朝にさえずる小鳥のように幼く拙い。木漏れ日が前髪にかかる。ささやかな温もりを妹の髪に注いでくれている。
「いまさら、だよね、お姉ちゃん、ごめっ、ごめんなさ……!」
 肩を抱いて頬を寄せる。こいしの頬は冷たい。その心までが冷え切っていないことを願う。
「いまさら、だけど、いまさらだけどっ――やっぱり、後悔はしたくなかったから……」
「もういいの、こいし」
 さとりは囁く。
「もう、いいのよ」
 辛いこと、悲しいこと、苦しいこと、すべてひっくるめて、生きることは楽しい――そう想えるようになるために、あとどれだけの時間が必要なのだろう。

 二人は再び歩き始める。こいしは頬をごしごしと擦っている。肌が痛むから、とたしなめてやる。
「お姉ちゃん、結局断っちゃったけど、どっか行く当てはあるの?」
「えぇ、ひとつ考えてあるわ」
「さっすが、てっきり強がりかと思った」
 地獄は流石にねー、と妹は笑う。やはりこいしは笑顔の方が好い。
 ふと空を見上げる。遙か高い所に知らない鳥が飛んでいる。
「……げんそうきょう」
「え?」
「幻想郷よ。二ッ岩さんに聞いたの。妖怪にとっての最後の楽園。そこならキスメさんたちや、ぬえちゃんにも合流できるかもしれない」
「ほんとっ!?」
 こいしが躍り上がって喜ぶ。肩をめちゃくちゃに叩いてくる。
「いこいこ、すぐ行こ! 早くしないと逃げちゃうよ!」
「そんな里に足が生えるわけじゃあるまいし」
 大体、何処をどう探せば好いのだろう。ただ東の方にあるということしか知らない。長い道のりになりそうだ。山から山へと片っ端から調べてみるしかないか。
 大変ね、これは――そう思いながらも、遙かな旅路にどこか昂揚している自分に気がついて、古明地さとりは微笑んだ。


◆     ◆     ◆


「此度の聖戦は、我が妖怪半生において最大の戦果を揚げ申した……」
「聖戦? 嫌がらせの間違いじゃないの? こんにゃろ派手にまき散らしやがって」
「あれは最高傑作だね。臭い思いして作った甲斐があったってもんだ」

 一方――土蜘蛛、橋姫、釣瓶落としの三人は東の山々に逃げ込んでいた。ここを越えれば湖国・近江に入り、さらに横切れば都人にとっては未開の“東国”へと抜けられる。
 パルスィの身体を背負い、キスメの桶を首からぶら下げてヤマメは山道を昇り続ける。歩調も呼吸も乱れる気配を見せず、パルスィが「もういい」と気遣っても聞かずに快活に喋り続けている。土蜘蛛のタフネスもここまで来ると呆れるどころか空恐ろしい。

「これで未来永劫、土蜘蛛の名は語り継がれる。思い残すことはないってもんさ」
 ヤマメが言葉を落っことす。背中からじゃ表情は窺えない。
「なに、あんた成仏でもするの? 断っておくけど念仏なんて知らないから唱えてやれないわよ」
「バカ云うな。水橋のは念仏じゃなくて呪詛だろうが。それこそ灼熱地獄に堕っこちてしまうわい」
「てめぇ」
「相変わらずだねぇ、あんたら。少しは進展があったのかと思いきや」
 キスメの笑いにパルスィは黙り込む。ヤマメの身体のあったかさを思い出す。あの時の怯えたような表情も。「私について来て欲しい」と訴えてきた声の柔らかさも。
 肝心のヤマメまでが黙りこくってしまった。もし両腕が塞がっていなかったら、たぶん頬を掻いているのではなかろうか。

「あいつらの悔しがる面を拝めないのが実に残念だ。水橋がへばってさえいなかったら、奴らの苦しむ様を思う存分堪能して悠々と引き揚げたというのにさ」
「どうだか、黒谷の馬鹿力も大概ね。壁ごとぶち抜くなんて何処のカチコミよ」
「鬼瓦に比べりゃ私の怪力なんてへそのゴマだよ。おー、怖い怖い」
「……さっきからえらい絡んでくるわね、あんた」
 山の中腹の岩場で三人は休息を取る。もうすぐで歌枕としても有名な逢坂の関に到着する。
 キスメ謹製の人肉の干物をスルメのように噛みながら、三人は今後の方針という名のガールズトークに親しむ。
「だって水橋をからかうのが楽しいんだもの。他にどんな理由があるってのさ」
「てめぇ」
 パルスィが腰を浮かせると、ヤマメはとんぼ返りして立ち上がる。曲芸する猿のごとく軽快な動きである。「おーにさん、こっちら!」と逃げる少女を、パルスィは追いかける気にはなれなかった。

 その後もヤマメは手を尽くしてからかってきたけれど、疲れていて相手してやる気も起きない。人間の一生涯と同じくらいに密度の濃い三日間だった。考える時間が欲しかった。
「……水橋ぃ、なんで殴りかかって来ないんだよ」
「もう私もキスメもくたくたよ。あんたは元気ね、妬ましいわ」
「流石に私も疲れちゃったね、二人と違って歩いてはいないけど」
 キスメも桶にもたれかかって同意してくる。
「なんだい、構ってくれても好いじゃないか」
「寂しくなっちゃったの? 人間に飼われてる猫じゃあるまいし」
「ばか云うな」
「あっそ」
 パルスィはヒグマのごとく寝返りを打った。その途端、背中に痛烈な一撃を見舞われた。土蜘蛛の蹴りである。
「――この野郎、好い加減にしろっ!」
 お返しに張り手を見舞ってやった。春の朝霧のように頭が曇って力が入らず、ヤマメに尻餅を突かせるだけに終わる。パルスィも反動で同じようにぺたりと腰を下ろした。
 互いに荒れた呼吸を交わし合う。キスメが珍しく神妙な顔で、じっとこちらを見つめている。

「……ねぇ、パルスィ」
 また減らず口か、と着物の袖口から五寸釘を取り出す。
「私、これからどうすれば好いんだろ?」
「は?」
 ヤマメは胡座をかいた膝に視線を落としていた。前髪が氷柱[つらら]のように垂れ下がっている。
「おかしいなぁ、積年の怨みを晴らしてやったのに、パルスィとキスメちゃんの無念を晴らしたってのに……なにも感じないんだ」
「なにそれ、あんだけ好き勝手やっておいて、そりゃないんじゃないの、あんた」
 わかってるよ、と少女はこぼす。駄々っ子じゃあるまいし、とパルスィは思う。
「でも……なんでだろ。怨みさえ晴らせば何もかも解決すると思っていたのに、駄目だな、空しさが消えないよ」
「ざまあみろって嬉しがってたのは何処のどいつだったかしら?」
 ひう、と間抜けな吐息が転がった。聞き違いでなければ、それは嗚咽だった。
「あぁ、私ってば――なんでこんなとこにいるんだろ。ひとりで嬉しがって馬鹿やっちゃってさ……なんで、こんなことになっちゃったんだろ、わかんないよ」

 その時、水橋パルスィは、初めて黒谷ヤマメの泣き顔を目にした。両手で拭っても拭っても、傷口から溢れる血潮のように涙が溢れ出る。懸命に嗚咽を押さえようとするけれど、かえって泣き声に痛々しい彩りを加えるばかりだった。
 おとうさん、おかあさん、と微かに声を震わせながら、腐れ縁は泣き続けていた。天下の土蜘蛛様なんて何処にもいやしない。そこにいるのは、世界から見放された独りの少女だった。
 ずっと口喧嘩ばかりやり合ってきた相方が抱える、底の知れない心の闇を垣間見た気分だった。
 突然に人間の少女に戻られても、こっちが困る。それが正直な気持ちだった。散々に振り回しやがってこの有様なんて、手伝ってやった私の立つ瀬がない。
 パルスィは頭を掻いた。ちょうどヤマメが困った時にするように。手入れを怠った爪が頭皮を刺激する。
 キスメはいつものニヤニヤ笑いを引っ込めて、こちらへと頷きを寄越してきた。あんたしかやれない、頼むよパルパル、とその翡翠の瞳は訴えかけていた。
 マジか、やるしかないのか。考えるだけで顔から火が出そう。地獄の業火で焼かれた方がマシに思える。でもヤマメは現に泣き続けているし、誰かの言葉を必要としているようだ。それも切実に。

 仕方ないか、とパルスィは立ち上がり、縮みこまる土蜘蛛の頭を掻き抱いた。ひぐ、と驚き混じりの嗚咽が胸に染み込んでゆく。
「ほらほら、いつまで泣いてんのよ、ヤマメらしくもない」
「泣いてない、泣いてなんか」
「ぼろぼろ零してんじゃない。人間のガキんちょみたいにさぁ」
「私は泣かない、天下の土蜘蛛様だぞ」
 ……たぶん、この子は人間の少女の姿のまま時が止まってしまったんだろう。度を越したイタズラも、人をからかって面白がる態度も、こうして泣きじゃくる姿も、まるっきり子供だ。今になって気づいた。
 ヤマメが着物の裾を掴んでくる。拳が胸元に当たる。腐れ縁の山吹色の髪に顎を乗せて、パルスィは口を開く。
「勝手に世界で独りぼっちの気分になられても、こっちは迷惑なのよ」
 息を吸い込む。ヤマメの髪の匂いがする。
「あんたは独りじゃないわ――私がいるじゃないの」
「……おうい、仲間外れにしないでおくれよ」
「失敬、私だけじゃないわ、キスメもいる。あんたには私たちが付いてる。地獄にだって付き合ってやるわよ。これからのことは、これから考えれば好いじゃないの」
 よしよし、と後ろの髪を撫でてやる。ヤマメの嗚咽が高まる。もう言葉も何もないようだ。その泣き声を聞いていると、パルスィの胸にも形容のしがたい感情が溢れてゆく。それは切なさに似ていて、愛しさとも少し違う、味わったことのない感情だった。
 ……例えば私が真っ当な人生を送れていたなら、誰かと結ばれて、家庭を作って、子供を産んで、泣きじゃくるその子を、こうして抱きしめていたんだろう。よしよしと慰めてやっていたんだろう。世界で一番に愛しい我が子を胸に抱いて、その子の名前を呼び続けていたのだろう。
 でも、そうはならなかった……そうは、ならなかったのだ。
 パルスィは涙をため息に溶かして吐き出した。子が泣いている時に、母が泣いてはならないのだ。
 キスメが布きれを手渡してくれる。それで目尻の滴を拭う。
 土蜘蛛の少女は泣き止まない。着物はしとどに濡れてゆく。構わない、とパルスィはヤマメを抱く力を強める。

 あんたは泣いて好い。気が済むまで、泣いて好い。


「……何処へ行くのよ、黒谷」
「決まってるさ、土蜘蛛様は現役引退。お役御免ってやつ」
「もう復権は果たしたのかい?」
「おう。それは変わらないよ。次に目指すは新天地さ」
「新天地って、もしかしなくてもそれって」
「そ、狸の大将に乗っかるのは癪だけど、他に行くとこもないしね」
「幻想郷かぁ。噂でしか知らないけど、はて何処にあるのやら」
「歩いてりゃ、そのうち見つかるさ。私ら三人に不可能はない」
「云ってくれるわね、まったく。振り回される身にもなれっての」
「なんだい、また抱っこして欲しいのかい、遠慮すんなよ?」
「冗談じゃないわよ! むしろあんたの方がして欲しいんじゃない?」
「誰がお前なんかに! ――でも、まぁ、たまになら好いかな」
「ほれ見たことか。やっぱりガキんちょだわ」
「ヤマメちゃんもだいぶ丸くなったよねぇ」
「うっせえ! 三枚に卸して干物にすんぞコラぁ!」
「あぁん、やれるもんならやってみろ、この節足女」
「やれやれ……」

 三人の妖怪少女は、今日も道なき道を行く。
 誰も気づくことはなかったが、その上空には一羽のヒバリがいる。

 ――楽しそうに羽ばたいている。
 ――笑うように、鳴いている。


◆     ◆     ◆


「うぅ……最悪じゃ、茶屋は潰れて、ぬえとは離ればなれ、今日は儂の生涯で最悪の日じゃ……」
「うん、貴様も最悪だろうがこっちも酷い。度合いから云うとエベレスト級の問題だ」
「いよいよ狸鍋を覚悟せねばならんのう」
「貴様は土鍋で済むだろうが、紫様はとんでもないぞ。前にイノシシを召し上がられたことがあったんだが――」

 鴨川下流の三角州で、二ッ岩マミゾウと八雲藍が膝を付き合わせて自棄酒にふけっている。顔が赤くなったり青くなったりと二人してせわしない。来たる鍋の予感と恐怖で自慢の尻尾は針山みたいに膨れており、とてもモフモフできそうになかった。

「待て待て待てい、なんじゃ今の話は、冗談じゃろ?」
「嘘じゃない。いくら妖怪だからって紫様ほどのゲテモノ喰いはそうそういるもんじゃないからな。本人は“美食家”なんて豪語してらっしゃるが、以前“オットセイを食べたい”と仰った時などはこのクソ寒い中で北極大冒険とシャレ込む羽目になった」
「そりゃまた何でスキマで捕獲しなかったんじゃ?」
「私もそう考えて抗議したさ。そしたら“これも修行のうちよ”ってトドメを刺された」
「むむう、おぬしも苦労しておったんじゃのう」
「それほどでもない。貴様こそ好く二十年も我慢したな。それがこの有様とは同情するよ」
「なになに、おぬしほどでは……」
「いやいや、貴様に比べれば……」
「なになに」
「いやいや」


 化け狸と九尾がのっぴきならぬ謙遜を交換する一方で、デルタの先端では八雲紫と四季映姫が邂逅の挨拶を交換していた。
「初めまして八雲紫。先程はうちの小町が世話になりました」
「あれで世話なら過激なご挨拶ね、今度は爆弾でも放り込んでくるんじゃないかしら」
 と紫は友人の件があって刺々しい。
「いえ、刺客を送り込むのは止めにします。そもそも、あれは私の独断で上の判断ではありませんでしたから」
「なんですって、あの閻魔様が独断? どう春風を吹き回せばそんな案配になるの」
 とスキマ妖怪は邂逅早々に張り手をかます。
「もちろん西行寺幽々子を救うためです。あの不安定な状態で放っておいたら、それこそ爆弾よろしく大惨事になりますよ」
 と閻魔は土俵際で持ち直す。
「それで? 次は親玉が直々にご参上かしら?」
「今回は奮闘した方々に敬意を表して引きましょう。手早く済ませるつもりだったのですが、小町には気の毒なことをしました」
 映姫は首を振って悔恨の意を表明する。
「あの子、死神には向いていないと思うのだけど」
「それを云うなら貴方も妖怪の賢者としての本分はどうしたのですか、人間と親しみの縁を結ぶなど」
「あーあー、聞こえない聞こえない」
「この××××野郎」
 と閻魔にあるまじき暴言を失敬する。スキマ妖怪は指で耳栓をしながら返答を投ずる。
「不肖この八雲紫、今回の騒動で色々と学ばせて頂きました」
「ほう、云ってごらんなさい」
 紫は茶目っ気たっぷりに云い放った。

「――“信じ続ければ、想いは境界を越える!”」

 閻魔は目を見開いて驚いたような様相を表ずる。すぐに感情のシャッターが閉じて不機嫌な顔に巻き戻る。
「あ――呆れました! それでも境界を司る妖怪なのですか!」
「もう迷いは消えましたわ。綺麗さっぱり、あんなに悩んでいたのが馬鹿らしくなっちゃった」
「なんという身勝手な……」
「残念、身勝手こそ妖怪の本分ですわ」
 賢者は朗らかに笑う。それはいつもの胡散臭い笑みでは決してない。心の奥底からこんこんと湧き出る白黒瞭然とした破顔一笑である。
「いつか必ず、幻想郷を私が理想とするような楽園に変えて見せます。どれだけ時間が掛かっても。楽しみにしていて下さいな」
「あなたに出来るんですか?」
「えぇ――だって私は“境界を操る”たった一人の妖怪だもの」

 映姫は口を半開きにして紫を見つめる。その手から悔悟棒が滑り落ちる。
「……失礼、切っても切れない縁とは好く云ったものですね」
 悔悟棒を拾い上げながら映姫は独り言を漏らす。
「それは如何様な意味合いで?」
「そのまんまですよ、まったく――貴方とはこれから、もんのすげえ長い付き合いになりそうです」
「同感ですわ――それで、もうお帰りかしら?」
「後始末に追われて眠る暇もないのですよ」
 あぁ、忙しい忙しいと閻魔は繰り返す。何処となく芝居がかった仕草である。紫も「ご苦労様です」と白々しい返事を投げ飛ばす。

 閻魔が去ろうという間際になって紫が呼び止める。
「ところで――“古明地”という名前は何処から出たのかしら?」
 映姫は彫像のように凍り付いた。
「先に目を付けたのは私の方だったのに、先に唾を付けたのは彼岸の側だったようね」
「……こちらも何かと苦しいのですよ。先に先にと手は打っておかなければなりませんから」
 それでは、と映姫は辞去する。紫はお愛想で手を振ってやる。鴨川の水面に悔悟棒で線が引かれ彼岸との境界が開く。閻魔が身を沈ませると待ち構えていたように境界が口を閉じる。
 スキマ妖怪も名残惜しげな様子など微塵も見せずにその場を離れる。

 後には川のせせらぎだけが残される。
 鴨川は流れゆく。それぞれの思惑を乗せて、ただ流れゆく。


「――いやあ、流石の儂もあの時は肝を冷やしたぞい」
「ほー、好くもまあ助かったもんだな、その次は? 焦らさないで聞かせてくれ。続きが気になる」
「うむ、その刺客が野太刀を振りかざして飛び込んでくるじゃろ? 儂はくわっと手元の脇差で受け流し、そのまま抜き様にバッサリ決めてやった。ほれ、これがその時に負った傷じゃ」
「おぉ……おぉ……」
「――あなたたち、随分と打ち解けたみたいじゃないの」

『ひゃいっ!?』

 化け狸と九尾は驚きのあまりひっしと抱き合った。昔話が第一次佐渡抗争のクライマックスに差し掛かっていたために、緊張も驚愕もひとしおであった。
「ゆ、紫様、首尾は?」
「有意義なお話だったわ。さて――藍、なにか釈明はあるかしら?」
 九尾はマッチ箱のように萎縮する。言葉の比喩ではなく本当にマッチ箱くらいの大きさになる。器用なもんである。
「ゆ、ゆかりしゃま、どうか、どうかお許しを……」
「久々に里帰りして興奮するのは分かるけど、いくらなんでもハジけ過ぎじゃないかしら? ちょいと羽を伸ばしてくるどころか、ヒャッハーでテーレッテーでスッパテンコーじゃないの」
「申し開きもございません」
「八雲紫、こやつに罪はない。悪いのは誘いにほいほいと乗ってしまった儂の方じゃ」
「貴様、いや二ッ岩、お前……」
「あら感動的ですこと――あなたも鍋になりたいの?」

『ひゅいっ!?』

 “鍋”と聞いて二人の大妖はまたも熱い抱擁を交わす。
「うわぁ、嫌じゃ! やっぱり鍋は嫌じゃっ! 死にとうない、死にとうない……!」
「紫様、せめて苦しまないように一瞬で捌いて下さいませ、うぅ、お慈悲を、お慈悲を……!」
 紫は“あんたら馬鹿じゃないの”という顔をした。
「なんでこの忙しい時に優秀な式を鍋にしなきゃなんないのよ。少しは考えなさいな」
『は?』
「分からない狐と狸ね。冗談よ冗談」
 マミゾウと藍は揃って脱力し、その場にへたりこんだ。

 紫がクジラのいびきのような欠伸を噛み殺す。
「……流石に眠いから私は向こうに戻るわよ。力を使い過ぎたわ。藍、あなたはどうする? もう都帰りはお終いかしら?」
 藍はマミゾウの方を振り返った。
「私は……」
「儂は残るぞい。ぬえの奴を説得しなければならんからの。確かに儂にとっても辛い別れになるやもしれん。じゃが命あっての物種。引きずってでも幻想郷に連れて行かねばならん」
 それを聞いた藍も心を固める。
「私も残ります。申し訳ありません、紫様。この狸に借りがありますゆえ」
「儂に借りとな?」
 藍はマミゾウの肩をぽんぽこと叩く。
「お前の位置からは見えなかったかもしれないが、あの時の大勝負、采の出目は“丁”だった。結局うやむやになってしまったが、私は確かに負けていたんだ」
「本当かのう?」
「お、大マジだ。そこで疑うな!」
「腐れ縁と別れるのが惜しいのではないかえ?」
「馬鹿を転がすな! あの時に私は――」
「はいはい、ストップストップ。あなた達の好きなようにすれば好いじゃないの。私はもう疲れた。寝る。以上。異論は認めない」
 紫がパチンと指を鳴らす。等身大のスキマが空間を引きちぎって現れる。

「それじゃあね、藍。やるからには全力を尽くしてサポートしなさい」
「はい、紫様もどうか御無事で」
「今までに教えたあらゆる術の使用を許可するわ。いざとなったら自分の命を最優先するのよ。あなただって全盛期の力はもうないのだから」
「お言葉ですが――」
「退治された妖怪に未来はないの。あなたはほんの例外。それをわきまえておかないと、いつか必ず痛いしっぺ返しを喰らうわよ」
「……肝に銘じておきます」
「うん、よろしい――二ッ岩マミゾウ、あなたも元気でね」
「また会おうぞ、八雲紫」
 マミゾウは紫と拳を突き合わせた。

 スキマ妖怪が去った後、マミゾウと藍は目の前を流れる鴨川の水面を呆然と見つめていた。大妖怪といえども、しばらく精神を休めなければならないほどに密度の濃い三日間であった。
「……腹が減ったな、二ッ岩」
「そうじゃの」
「釣り、出来るか?」
「得意分野じゃ。教えてやっても好いぞ」
「御教授を願おうか。紫様も釣りまでは授けてくれなかった」
「おうおう、そいじゃあ先ずは腹ごしらえと行こうじゃないかね」

 狸と狐は腹をさすりながら歩き出す。
 ふと鳥の声が聞こえてくる。高く澄んだ鳥の声。春の空を突き抜けて響く鳥の歌。未来への覚悟を促し、また祝福する鳥の調べだ。
 二人は同時に顔を上げる。遙かな大空を仰ぐ。

 ――その時、マミゾウと藍は、誇らしげに舞い上がるヒバリの姿を、確かに見た。



【終幕 (人間サイド) ~ それでも桜は咲いて散る】



 そっけなく通話を断ち切られた後もしばらくの間、西行法師は呪符に刻まれた文言を睨み付けていた。
 何度か裏返して反応を確かめるものの、呪符は大岩のような絶対的沈黙を全うしており、呼びかけに応答する気配もなかった。
 やがて諦めたのか符を真っ二つに引き裂いた西行は、僅かな手荷物を麻の袋に入れ直す作業に戻った。

「……どうでしたかの?」
 と大樹のごとく老成した声が降る。西行は姿勢を正して会釈する。
「いや、まるで駄目でした。“もう連絡してこないでくれ”と繰り返すばかりで、なんとも薄情な奴です」
「屋敷が門前払いなら通信も取り付く島もございませんか。妙なものですな。あれほど情の厚かった御仁が……」
 西行は大悟徹底した菩薩のような微笑を浮かべる。
「いえ、彼も出家したとはいえ衆生のしがらみに関わる身、悩みも多かろうことでしょう」
「末法の世とはかくも空しいものですな。あれだけ老いてもなお世俗に囚われて、勤行の一つも落ち着いて出来ぬとは」
 そう云って首を振ったのは都の山裾に佇む寂れた寺の住職である。西行は京に身を休める間、昨今に珍しく仏道に専心する住職の世話になっていたのだった。
 それも本日限りだった。西行法師には帰るべき場所があったのだ。
「彼は私と同じなのです。共に“その時”を待ち続けてきた。私にはそれが少しばかり早くやってきたというだけ」
 住職は「成程」と云ったきり沈黙した。

 荷物をまとめた西行法師は、門前で見送りを受ける。
 いやいや寂しくなりますな、と住職は目を伏せて云った。
「法師様に御仏の救いがありますよう、心からお祈りいたします」
「ありがとうございます」
 そう答える西行の顔には、既に救われたような笑みが浮かんでいる。

「――ま、待って下さい!」

 突然の叫び声に二人の仏徒は三尺ばかり飛び上がった。
「し、心臓が止まるかと思いましたぞ!」
 住職は何故か坊主頭をさすりながら叫び返した。
「また寝坊ですか、寅丸様」
 駆け寄ってきた少女は苦しい笑顔を浮かべる。
「ちょっと失くし物を……もう大丈夫です。見つけましたので」
 またかよ、と仏徒達は揃って苦笑する。
「間に合って好かったですな」
 呆れたような声音に少女は虎柄の髪を俯けた。
「お騒がせしました。急に発つと聞かされたものですから」
「申し訳ない。しかし娘が待っておりますゆえ」
「えぇ、おめでとうございます。私も早く宿願を叶えたいものです」
 寅丸星は幾度も頷いては祝辞を繰り返す。
「短い間でしたが、貴方にもお世話になりました」
「いえ、私の方こそ素晴らしい歌をお聴かせ頂き……」
 話が長くなりそうだったので住職が遮る。
「それで何を失くされたのですかな?」
 星は仏塔を持ち上げる。自分の命の次に大切にしているという、意匠の凝らされた珠玉の逸品である。なのに割とよく失くす。

「西行様に――正義を」
 宝塔から仄かな光が溢れ出す。それは小春日和のような安らぎを伴って場を包んでいった。御仏の後光を思い出さずにはいられない暖かな光である。西行と住職は思わず揃って合掌した。
「感謝します、寅丸様」
「その呼び方は止めて下さい。私は“様”と付けて呼ばれるような器ではありませんので」
 星は手のひらを胸の高さに掲げる。謙遜しているというよりも本心から云ったかのように眉が苦しげに歪んでいる。
 ひとつ頷きを返してから西行は頭を下げた。
「私も祈らせて頂きます。一刻でも早く、貴方がお仲間と会える日がやって来ますよう」
 毘沙門天の弟子も無言で深々と返礼した。

 西行法師は歩む。しかし決して急がない。急ぐ理由は何もない。
 道端の花を愛で、桜木に心を溶かし、立ち止まっては鴨川のせせらぎに耳を澄ませる。
 心さえ解き放てば路傍からも安らぎは見いだせるものだ。その想いを込めて歌を徒然と書き付けては、照れたように頭を掻いたりする。そこに佐藤義清の姿はない。遙か後世まで語り継がれる伝説の歌聖が、桜を背景にして微笑んでいる。

 道中の険しい山坂を思い出して微笑みが崩れるのは、その直後のことである。


◆     ◆     ◆


 その頃、魂魄妖忌は土下座していた。

 我ながら見事なまでに美しい土下座であると感心する。腰の角度、額に添えられた指のさりげなさ、頭上に浮かぶ半霊の傾きまで完璧であった。
「妖忌ぃー、私は何とも思ってないわよ。顔を上げなさい」
「そうはいきません。私が不甲斐ないあまり、お守りも果たせず……これでは幽々子様に合わせる顔がありません」
「ほんと真面目ねぇ……まぁ、それが貴方の好いところなんだけど」
 目の前におわします幽々子様の声が逆に痛々しく感じられてしまうのは、ひとえに己の失態にあった。もし西行様が駆けつけて下さらなかったら、今頃は斯様な御姿を拝むことは叶わなかったのだ。そう思うにつけ、妖忌は益々力強く額を畳にこすりつけた。
「止めなさい、妖忌。もう一度だけ云うわ。顔を上げなさい」
「出来ません幽々子様。私のような半熟者など居らぬ方がマシにございます。すぐに荷をまとめますゆえ――」

「――妖忌っ!」

 幽々子様が怒鳴られたのは、妖忌の知る限りではそれが初めてであった。そのために半熟剣士は仰天の余り十尺ばかり飛び上がって天井に頭をぶつけた。
 痛みで涙を流しながら妖忌はようやく顔を上げる。頭上から降りかかってきた次の声は、最前とは違って雛鳥のごとく弱々しいものであった。
「気にしてたの、妖忌?」
「何を、でございますか?」
「……半熟って」
「いいえ、そのようなことは」
「――ぁあ、ごめんなさい」
 妖忌の銀髪に柔らかい手のひらが乗せられた。妖忌は手も足も動かせぬままに、赤面しながら訴える。
「も、勿体のうございます。私などに御手を」
「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの」
 幽々子様は真っ直ぐに見つめてこられる。今すぐ庭へと逃げ出したい衝動を、ぐっとこらえる。
「からかうつもりはなかったのよ。ねぇ、妖忌――あなたは半熟だから好いのよ。半人前だからこそ、私は妖忌といると気持ちが和らぐの」
 その言葉を噛み砕くには数秒の時間が必要だった。ようやっと呑み込んでから、恐る恐る言の葉を献上する。
「……慰めは止めて下さいませ。もっと辛くなります」
「お馬鹿」
 ――ばか、いま馬鹿と云われたか?
「でも、ううん、そう。馬鹿だから好いのよね、妖忌は。馬鹿なくらいに真面目で、そして不器用なの」
 何やらひとりで納得されているご様子である。お怒りになってはいないか、もしかして哀しませてしまったのでは、と考えるだけで半熟剣士は頭がいっぱいであった。

 二人は庭へと足を運んだ。お父様がすぐそこまで来ているような気がする、と幽々子様が仰ったためである。
 “気がする”などとご謙遜召されているが、予感というよりも予知の境地に達しつつある幽々子様の勘は外れた例がない。元より異論のない妖忌は杖を片手に従った。
 幽々子様は桃色の海のなかでも格別に華々しく咲いた桜木の前で立ち止まった。
「見事な桜ね、今まで見てきた中でも最高よ」
「真でございますな。今を限りと盛りに盛り、文句のつけようもない満開とは正にこのこと」
「満開の桜は奥ゆかしさがなくて風情に欠けるって歌もあったけれど、私はやっぱりこっちの方が好きだわ――いつか散るんだもの。どうせ咲くなら誇らしく咲かないと損よねぇ」
 妖忌は頷きながら賛同の意を示したが、心の裡[うち]でそれにしても、と考えていた。この屋敷にこれほどに見事な桜があっただろうか。庭師の職掌として手入れを怠ったことはない。日々の記憶をいくら反芻してみても、眼前の桜木を見かけた覚えはなかった。
「ここまで美しいと逆に妖艶ですな。こう云っては何ですが、八雲様に似ているような」
「云えてるわ、それ。紫にそっくり」
 幽々子様は楽しげに笑われた。

「西行寺に咲いた妖怪桜――さしずめ“西行妖[さいぎょうあやかし]”ってところかしら?」

 くるくると舞われる幽々子様。楽しそうだ、とても、とても。
 その笑顔にいつかの影はない。四十年という歳月を経て、やっと幽々子様の辛苦は報われたのだと、妖忌は涙ぐみながら思った。

 ――分からないなら分からないなりに、己が忠を尽くして主人を支えてやることが、我々の果たすべき責務ではないでしょうか。

 そうだ、半熟だろうが半人前だろうが、私の忠心に少しも変わりはないのだ。なまくらでも構わぬ。へっぽこでも構わぬ。馬鹿でも不器用でも何でも好い。
 ただ己が忠を尽くすのだ。それこそが、私が幽々子様のお側に控えるために必要とされる、たったひとつの資格、私にとっての“仁の道”なのだ。
「妖忌ぃ、何してんの。お父様を迎えに行かなくちゃ」
 いつの間にか幽々子様が坂の口で手を振っていらっしゃる。従者が主人のお側を離れてしまうとは! 大慌てに慌てて追いかける。当然の帰結として、玉砂利に滑って盛大にずっこけた。バナナの皮を踏んだお猿さんのように。幽々子様の大笑いが耳に痛い。
 桜の花びらを頭に乗っけて、妖忌もはにかんだ笑みを返した。

 ……もうすぐ幽々子様と西行様は出会う。改めて手を取り合う。二人で支え合って坂を登られる。そこで限りない数の言葉が交わされる筈だ。
 でも本当に必要とされる言葉は決して多くない。幽々子様が望んでいらっしゃるのは、謝罪でもなければ嘆願でもないのだから。
 きっと西行様は恥ずかしそうに、けれど確かな声で呼びかけて下さるだろう。

 ただ一言、ゆゆこ、と――


◆     ◆     ◆


「踏んだり蹴ったりとはこのことだな、宗盛」
「左様でありますね、このクソ親父め」
「クソまみれになったのはお前の方だろう。おかしなことを云う」
「あんたが人を盾にしたんだろうがッ!」
 一方、平清盛と宗盛の親子は身体に付いた汚れを洗い落として、ようやく待ちに待った一服を取ったところであった。
 二人の手には湯気の立った茶碗が収まっており、さりげない煎茶の香りが束の間の幸福を提供している。身を清めた後に茶を一杯――これぞ太平の極楽よ、と二人して握手を交換したまでは好かったが、無論この二人の間に結ばれた停戦協定ほど当てにならないものはない。

「お前の身体の方がわしよりも丈夫そうだったからな。分かりやすい表現にするとお前の方がデカい。もっと遠慮なく云わせてもらうとお前の方が太い」
「父上も出家する前は牛や豚のごとく太っていたではないですか。精進料理に切り替えた途端に痩せやがって。あー、イヤだイヤだ。私もさっさと出家して胸糞悪い政[まつりごと]の任から足を洗いたいもんです」
「その点、重盛の奴は実にスマートだった。お前も少しは見習ってぶら下がり健康法でも始めたらどうだ? 今よりもずっと人目に易しい体型になるだろう」
「兄上が痩せこけていたのは父上に振り回されたストレスで食事も喉を通らなかったせいですよ。私もしばらくは茶色い食い物なんて見たくもありません」
 そこから二人の麗しい対話は止めどなく脱線してゆき、いつしか“巨乳と貧乳の甲乙、及び乳と腰と尻の黄金比について”という大変に意義深い議論にまでハッテン――発展したが、この稿の趣旨からは逸脱するので割愛する。

「……それにしても乳上――失礼、父上」
「なんだ、胸盛――すまん、なんだ宗盛」
 二人は横向きに身体を落ち着けて頬杖を突いている。ちょうど仏陀が寂滅[じゃくめつ]するような姿勢である。
「なぜ仲綱の屋敷で弓比べの催しを。今度こそ包み隠さずに聞かせて頂きたいのですが」
「なに、おかしいと思ったから探りを入れただけだ。夜更けとはいえ簡単に賊に入られるとは、いくらなんでも警備がザル過ぎやせんか?」
 宗盛はつい癖で心臓の辺りを押さえた。
「まぁ否定は出来ませんが――仲綱の野郎をお疑いで?」
「それだけじゃない。的の中央を射抜いた際のあの気迫、咄嗟にお前の弓を借用するあの大胆さ、そして妖怪と名乗る女子共の乱入。引っかかる点が多すぎる――おまけに肝心の頼政は病気を理由に欠席ときた」
 宗盛はふっと起き上がった。父の云わんとすることの恐ろしさに気が付いたからである。
「……父上、何を仰るのです、何を」
「そしてお前が報告してきた、以仁王周辺の不審な動き……どうやら探りを入れたのは正解だったようだぞ、宗盛」

「――あァ、これだから父上はイヤだ!」

 突然に立ち上がって宗盛は叫んだ。顔がみるみる青ざめて秋茄子のようになった。
「それではこの一連の騒動の目的は、頼政殿に目を向けられないための陽動とでも仰るのですか!?」
「うむ、その証拠に昨夜、頼政の屋敷から不審な話し声が聞こえたとの情報もある」
「あれだけ信頼していた頼政殿さえ疑われるか! 従三位への昇叙を推挙したのは他でもない父上ではないですか!」
「可能性の目は早めに摘んでおかねばならんのだ。お前もわしの血を受け継ぐ平家の棟梁、心を鬼にして事に当たらねばならん」
「私は鬼ではありません、れっきとした人間です!」
 宗盛はわななく腕をムチのように振るって湯呑みを投げつけた。が、清盛は老いを感じさせぬ超人的な動きで熱い茶の一撃をかわす。
「あ――あんたは妖怪だ! なんと恐ろしい!」
「妖怪で結構、この国をまとめ上げるには、上に立つ人間が修羅とならねばならんのだ」
 武士の世を作り上げた平家の長老・平清盛は厳然と、むしろ誇らしげに云い放った。

「“幻想を捨てた愚か者どもめ、我ら平安妖怪、ここに在りと知れ”か――なぜ我々が幻想を捨てるのか? 簡単なことよ、我々が妖怪を見捨てるのではない。我々人間が妖怪となるのだ」

 ……宗盛は頭を押さえてふらりとよろめいた。今になって自身にのし掛かっている責任――いや歴史的意義の大きさ、その重みに耐えかねたのである。
「……し、失礼しました、父上。孝の足りぬ、出過ぎた発言でした」
「よいよい、お前も疲れて気が乱れているのだろう。気にしはせん」
「私は、私はこれにて――えぇ、どうも疲れているようで……」
「ゆっくり休め。これから忙しくなるからな」
 宗盛は一度も振り返らずに早足で出ていった。

 部屋に独り残された清盛は、湯呑みの中の茶を実に美味そうに、時間をかけて呑み干した。
 不気味な微笑みを浮かべながら思い返すは、あの場に飛び込んできた白髪の少女の言葉である。
「“どうしようもなく好きだから一緒にいる”とは、好いものだな、若さというものは……」
 かつて自分が、あれほど他人を本気で好きになったことがあるだろうか、と清盛は考える。
 あるかもしれない。ないかもしれない。思い出せない。
 ……どうしても、思い出せない。

 その後も清盛は碗を替えて何杯も何杯も茶を楽しんだ。
 いくらでも呑めそうな気がした。


◆     ◆     ◆


 入りなさい、とドアの向こうから言葉がすり抜けてくる。
 小野塚小町は今にも消え入りそうな声で失礼を詫びてから、四季映姫の執務室へと足を踏み入れた。

 ……部屋はきちんと整頓されていた。いや、正確に云うなら片づけられていた。
 壁一面に葬列を成していた勤務表その他の書類は見当たらない。丁寧に丸められた後、黒い紐で括られて部屋の隅にピラミッドを成している。初めから何も掛けられてなどいなかったように、壁は無機質な表情で部屋を見下ろしている。
 デスクに向かって姿勢正しく腰掛けている上司の目は、小町を真っ直ぐに捉えていた。これまでのように書類を片手にペンを回しながら接してきた四季様の姿は、そこにはなかった。
 翡翠の瞳に射すくめられただけで小町の膝は用を為さなくなる。杖の代わりになる大鎌も今は遠く。法廷に引っ立てられた罪人のように部屋の中央に膝を突く。
 それでも四季様は何も仰らない。小町は何とか立ち上がろうと両腕を絨毯へ突いたが、お座りをした子猫のような姿勢になるばかりであった。

「四季様」
「……えぇ、小町」
「しきさま」
「云わずとも分かっています」
 裁判長は宣する。いつも通りの優しくも厳しい声で。
「すべて見させて頂きました……ごめんなさい」
 小町は縋[すが]り付くようにデスクの縁に手をかけようとする。指先が空を切る。姿勢が崩れる。額を強かに打つ。火花が散る。石をぶつけられたみたいな痛みと共に、視界が明滅の世界から戻ってくる。
 四季様に、頭の後ろを支えられている。掃除の行き届かぬ絨毯に正座して、あたいを見下ろしている。なんだか人間の母親みたいだ。

「小町、大丈夫ですか。怪我は?」
「や、止めて下さい、なんで四季様が謝るんです? あたいが、あたいの決心が――覚悟が弱かっただけなんです、謝らなければならないのは」
「いいえ、今回の件は荷が重すぎました。もっと早くに気づいていれば貴方も傷つかずに済んだのに――元より私の独断。小町には何の責任もありません。処罰は私が甘んじて受けましょう」
 しょばつ、と小町は唇を動かした。その響きは上司の口から語られると酷く無機質で扁平に聞こえた。まるでこの執務室の壁に水気を含んだ粘土を思い切り投げつけたかのように。
「処罰とは、四季様、処罰とは何ですか?」
 映姫はデスクから一枚の文書をつまみ上げた。
「貴方もいずれは知ることになるでしょうから……」
 震えそうになる指を叱りつけて受け取る。細かい字がびっしりと並んでいたけれど、とても判読なんて出来そうにない――怖い。あたいのせいで、あたいのせいで、と頭の中で繰り返す度に字はぼやけた。
 それでも目に飛び込んでくる、網膜を突き破ってくる、太く書かれた二文字。意味を理解した途端に、小町は映姫の腹に身を投げ出した。

「ダメですッ――ダメです、四季様!」
 映姫は困ったように笑った。
「駄目と云われても困りますよ。これは上の判断です。それに――云ったでしょう? 私は出世のために裁いているのではないと」
「こんな、こんなことって……!」
 何かの間違いだって文書を隅から隅まで目を走らせる。滑るだけでちっとも呑み込めない。何回も何回も読み通して回数も分からなくなった時、紙の表面に雨が降った。それは夕立のように激しくて、海水みたいにしょっぱい雨だった。

 肉体ある者を法廷で裁いたこと、大型の浄瑠璃の鏡を用いて故意に魂を傷つけたこと、死神を恣意的に使役して断行した現世の魂への不法介入とその失敗……職掌を逸脱してまで奔走した優しい閻魔に下された判決は――“半永久的な左遷”であった。
 ちくしょうちくしょうと紙を揉み潰しながら、小町は幼い子供のように泣いた。何が是非曲直庁だ、何が閻魔王だ、どいつもこいつも自分ばかり優先しやがって。本当に貧しいのはサイフの中身じゃない、お前らの頭の中じゃないか、と小町は絨毯に丸めた紙を叩きつけた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、四季様ぁ……!」
「少し目立ち過ぎましたね。地蔵に戻されて谷底に投げ捨てられる覚悟もしたのですが――よほど人材も財源も払底しているようです。不幸中の幸いでした」
 映姫はそれから付け足すように云った。
「でも、小町……貴方と別れるのは寂しいです、恥ずかしながら」
 火が付いたように小町は益々激しく泣いた。
「あたいもお供させて下さい、ご一緒します、付いて行きます、もし四季様さえ好いと仰れば、あたいはいつまでも、どこまでも……!」
「何も付き合う必要はないですよ、貴方は私に振り回された被害者、それが上の判断なのですから」
「し、四季様は嫌ですか、あたいなんかじゃ、駄目ですか?」
 上司は初めて――恐らくは巡り会って初めて視線を泳がせた。あの四季様が迷うなんて。
「……いや、ではありません」
「では、それじゃあ、あたいは――」

 肩をつかまれ身体を起こされる。視界いっぱいに四季様の顔が浮かんでいる。恐ろしいくらいに理知的で、悔しいくらいに綺麗な四季様が、あたいのことをじっと見つめている。
「……好いのですか? 恐らく二度と出世なんて望めませんよ、二度と、この場所には戻ってこれないかもしれないんですよ?」
「好いです好いです、どうせ昇進なんて出来やしません。だって、あたい――サボり魔だもの」
 四季様は吹き出した。失礼しました、とか云いながら大笑いしている。笑顔を見せてくれて好かったと思う。四季様が笑ってくれるなら、あたいは馬鹿でも構わない。
「そうでした、そうでした……貴方は筋金入りの常習犯でしたね」
「ご迷惑をお掛けします」
「白々しいわね、もう」
 それから、少し落ち着いた。落ち着いた今になって恥ずかしさが込み上げてくる。顔を赤くして俯いていると、四季様が手拭いを取り出して顔を拭いてくれた。
「ひどい顔よ、小町」
「恐れ入ります」
「はぁ、これからも宜しくお願いします……で好いのかしら? こういうのって慣れてないから」
 四季様が帽子を取ったので、慌てて正座に直って頭を下げる。
「は、はいっ! ――こちらこそ、どうぞ宜しくお願いしますっ!」
「うん、ありがとう」
 顔を上げた時に見た四季様は、とても恥ずかしげに笑っておられた。
 最高の笑顔だった。ずっと、ずっと忘れないでいようと思った。

 その後、小町は映姫の身辺整理を手伝った。
 もとより整頓の行き届いた部屋だ、荷をまとめるに大した時間は掛からなかった。私よりも自分の始末を付けなさい、どうせ散らかっているのでしょう、と途中で四季様は遮った。あまりにごもっともだったので小町は感心した。

「そういえば、ひとつ伺い忘れていたのですが」
 退室する際にふと思い出したので声を掛ける。
「なんでしょう?」
「その、左遷というか、出向先は何処なんですか? 世界の裏側まで吹き飛ばされちゃうんでしょうか」
「それより遙かにとんでもない場所ですよ。近いと云えば近いし、遠いと云えば遠い所ですね」
「なんですそりゃ、禅問答ですか? いったい全体……?」
「――幻想郷」
「は?」
「幻想郷。例のスキマ妖怪を始めとした、妖怪達の最後の楽園」
 小町は顎を床に落とした。
「それ終点じゃないですか!」

「まぁ、厄介払いには最適の場所ね――こっちの表記では“ザナドゥ”だから、私の職名は“ヤマザナドゥ”ってところかしら」

 口のなかで繰り返してみる。
「ヤマザナドゥ……四季映姫・ヤマザナドゥ様ですか、なんだか云い易いんだか云い辛いんだか好う分かりまへんな」
「喧嘩売ってるの小町?」
「すんまへん」
「そのうち慣れるでしょう――ささ、無駄話している暇はないわよ。整理整頓に移りなさい。それが貴方の果たすべき善行よ」
 善行ってあんた、と突っ込みを入れながら、小町は上司に追い立てられて部屋を後にした。


「――おい待て待て、なんてこった、そんなの聞いてないぞ」
「当たり前じゃないか、話すのはあんたが初めてなんだから」
「ド田舎に左遷とか絶望的じゃないか、ひでぇもんだ」
「なになに、川を何百本か挟むだけさ。地獄に堕っことされるよか何倍もマシだよ」
 是非曲直庁の一角の休憩室、一通りの整理を終えた小町は顔なじみの死神と席を挟んでいた。およそ死神らしからぬ気配りの出来るマメな奴で、デスクワークは彼の天職と云えた。相談するならこいつしかいないなと思って誘ったのだ。
 彼は事務担当の癖で、机にペンをかつかつと打ちつけて動揺をアピールしてくる。
「そうかぁ、お前までいなくなっちまうのか……なんだか実感が湧かないな」
「あたいだってまだ頭の方が追いついて来ないよ」
「まったく好い奴からどんどん消えていきやがる。後に残るは老害とエゴイストと拝金主義者ばかりと来た、酷い時代だ。下らん。お前みたいにこざっぱりした奴がいないと、どうにも気持ちがくさくさするよ」
「お褒めの言葉、ありがとさん。ゴチになるよ」
「別に奢ってやるとは一言も云ってねぇよ」

 デスクワークは大きなため息をティーカップにかき混ぜてから、頬杖を止めて姿勢を正した。
「えーっと、確か相談事だっけか? この最悪の最低の最凶の状況で、まだ何か厄介事があるのか」
 小町は「うん」と神妙に頷いてからテーブルに指を組んだ。
「……あたいさ、死神に向いてないような気がするんだ」
 デスクは「あー」と息を漏らした。
「ようやく気づいたのか」
「割と薄情だよね、あんた」
「あぁ悪かった。気にするな」
「いや気にするから相談してるんだよ」
 と小町は続ける。
「あたいは四季様についていきたい、でも死神じゃないと移転の手続が出来ない」
「思うに適性の問題だわな。魂を刈り取るにあたって、いかに自分と相手を切り離して考えられるかっていう」
「それそれ、そんな感じ。出来なくなったんだよね、どうしても」
「世間ではお前みたいなのを“優しい”って云うんだ。気に病むことはないさ。むしろ平然とこなしてる連中の方がおかしいんだ」
「でも優しいだけじゃやっていけないよ」

 それも確かだ、とデスクワーク派は腕を組んで椅子の背もたれに身を預けた。冷え込んだ沈黙が天井から降ってくる。仕方ないので茶の代わりを入れようとしたところ、いきなりデスクが腰を上げた。スプリング仕掛けの人形のごとき俊敏さのために、小町は「きゃん!」と悲鳴を上げて仰け反った。
「この野郎、びっくりさせんじゃないよ! 変な声が漏れちゃったじゃないか!」
「小野塚、好い方法がある。というか、なんで今まで思いつかなかったんだ?」
「なんだい、そんな名案があるのかい?」
 デスクワークは目を少年のように輝かせて云った。
「何もお迎え担当に拘[こだわ]る必要なんてないさ、他の職掌に鞍替えしちまえば好いんだよ!」
「げ――ちょい待った、あたいは事務会計とかゴメンだよ。お迎えよりも向いてない」
「違う違う違う――もう一つ、人気の無いやつがあるじゃないか」
 小町も「アっ」と叫んでデスクと同じように猛然と立ち上がった。

「――三途の渡し守か!?」

「そうだ小野塚、船頭があるだろう? マイペースで話すのが大好きで優しいときた――お前ならピッタリだ。あれなら上から押し付けられる心配はない、自分のペースでやれる、魂に好きなだけ共感できる、云うことナシじゃないか!」
 二人は他の連中の目など気にせず手を取り合って小躍りした。
 が、重大なことに気づいて小町は空中で静止する。
「でも――でもそう簡単に移れるかな? あたい、ただでさえ上の連中にゃ受けが好くないのに」
 デスクワーク派は満面の笑みでこちらを見上げてくる。
「安心しろ絶対に何とかする。事務畑で飯を食ってかれこれ三百年、俺に通せない手続はない。ちっとばかり強引になっても構わん。必ずお前の名前を船頭の名簿一覧にねじ込んでやんよ」
「こんにゃろう、かっこ付けやがって!」
 嬉しくてどうかなってしまいそう。あたいの岸辺いっぱいに桜が咲いている。
 小町はデスクとハイタッチを交わし、背中をばしんばしんと叩いてやった後、ロケットみたいに廊下へと飛び出した。
 あぁ、一刻も早く、この素晴らしいアイディアを四季様に伝えなきゃ。喜んで頂けるだろうか? たぶん喜んでもらえる! ようやく胸を張って死神を名乗れるんだもの。サボっちゃいけないって釘を刺されるかもしれないけれど、今ではそんな四季様のお小言さえも待ち遠しい。

 ――下っ端じゃないさ。最もやりがいのある仕事だよ。

 いつか、こんな恥ずかしい台詞を胸を張って云える日がくるだろうか? それは分からない、あたいに船頭は合わないかもしれない。その可能性は十分にある。なのに嬉しさが止まらないんだ。
 たぶん、これはピンチという名のチャンス――本当の自分を探すための船出が、これから始まろうとしている。生きることは儚い、夢も命も幻想もいずれは消え去ってしまう、それがなんだってんだ、あの坊さんも云っていたじゃないか、だからこそ人間はあんなに輝いている。桜みたいに美しい奇跡を起こせるんだ。
 あたいは死神、人間なんかにゃ負けらんないね!

 小野塚小町は距離を操る。廊下をひとっ飛びで翔け抜ける。
 会いたい人にすぐ会える、人を殺め命を刈り取るための力を、今は側にいる人のために使うことが出来る。
 そのことが――たまらないくらいに幸せに思えるのだ。


◆     ◆     ◆


「ち、父上――今、なんと……?」
「何度も云わせるな、仲綱。気をしっかり持て」

 源仲綱と猪早太は、両者ともダチョウの卵を突っ込まれたみたいに口を開いて呆然としていた。
 相対する源三位頼政は以仁王からの書状を広げて胡座に座っている。いつも通りに、いやいつも以上に至極泰然とした様子である。ただ顔だけが冬に逆戻りしたかのように白く凍てついており、初春の日和は座敷から完全に消え去ってしまっていた。
「な、納得がいきません、父上。昨日と仰っていることがまるで違うではないですか」
「若様の云う通りにございます。“平家に弓を引くは、すなわち天に弓を引くに同じ”――その言葉をお忘れか、従三位」
 仲綱と早太は膝行して頼政にすり寄った。間違いであってくれ、と二人して顔を秋茄子色に染めて摂津源氏の長老を仰ぎ見た。
「おい仲綱、お前こそ昨日までの威勢はどうした。日本国のもう半分を結集してぶち当たれば好いと豪語していたのは何処の誰だ?」
 仲綱は唇を噛んで震える身体を押し留めようとする。
「それを諭して下さったのは他でもない父上ではないですか! なにゆえでございます、あれほど民と国を案じなさった父上が、なにゆえ御自[おんみず]から恋の芽を摘もうとなさるのですか!?」
 “恋の芽”という単語が発せられた途端、冷凍された頼政の顔に取り返しのつかない亀裂が走ったのを、二人はハッキリと見た。身体をわななかせて言葉を紡ごうとする頼政の姿には、悲壮というか一種の凄みがあった。

 早太は考えうる最悪の結末を予感しながら頼政の衣[きぬ]を掴んだ。
「まさか、従三位、頼政様。まさか、まさか……」
「離れよ早太――“下郎はすっこんでいろ”」
 それだけで早太は身体中の力が抜けてしまった。壊れた人形みたいになった郎党に代わって、仲綱は改めて父の前に膝を突いた。
「父上、今一度お訊ねします――本当に宜しいのですか?」
「何がだ」
 頼政は亀裂が入った仮面を脱ぎ捨てぬままに返ずる。仲綱は意識して息を吸ってから口を開いた。
「妖怪のことでございます。二度と後戻りは出来ません。かろうじて繋ぎ留められていた糸を、父上はまさに断とうとしている。それで宜しいのですかと訊いているのです」
「糸など……」
 頼政が俯いた。
「繋がりなど、とうに切れたわ……!」
 父は、泣いていた。涙すら流せぬ悲しみを堪えて、泣いていた。
 もう誰にも止められないと、仲綱と早太は感じ取った。ひとつの時代が終わり、新たな時代が訪れる。そこに妖怪少女達の姿はないのだ。
 流れてもいない涙を拭って、源三位頼政は立ち上がった。
「仲綱、早太、好く聞け」
 二人は「はっ」と叫んで板敷にひざまずいた。

「――我ら摂津源氏は以仁王様を奉じて、平家打倒の兵を挙げる」

 仲綱も早太も目をきつく瞑って耐えるほかなかった。
「思えばこの二十年、生きているのか死んでいるのか分からぬ毎日であった。いずれ消える灯火、いずれ散る桜の花、終わる瞬間は美しくあろう。だが、私はまだ何も灯せていない、何も咲かせていない」
 頼政の声音はむしろ晴れやかだった。それは云い換えれば、全てを失った男の言葉であった。
「この空しさを何としようか、この無常な心を如何にしようか。尽きる寸前の命を抱えて、どうすれば心の隙間を埋められようか」
 二人は黙々と聞いていた。その心の隙間が決して老いへの不安から生まれたものでないことは、誰の目にも明らかだった。
「どうしても欲しいのだ、私が生まれてきた証を。自らを世に示さなければ、生きていることに何の価値もない」
 もう止めて下さいと遮ってはならなかった。その瞬間に頼政は刀を抜き放って、切っ先を首に突き立ててしまいそうだった。

「先行きに頼りのない命ならば、最後に一華、咲かせてみせようぞ」

 ……頼政が立ち去ってからどれほどの時が過ぎたであろうか。仲綱と早太は同時に息を吐き出した。戦慄は天然痘のように根付いて心臓に痕を残していた。
「なんということだ……一体全体、何があったんだ?」
 仲綱が目を虚ろにして声を転がす。早太は未だに震えている。
「鵺です、仲綱様」
「ぬえだと?」
 一筋の涙が早太の頬を伝った。
「鵺が……去ってしまったのです。恐らくは、永遠に」
「ば、馬鹿を申すな。父上は失恋して自爆するような愚者ではない」
「鵺はすべてだったのですよ、仲綱様。鵺は――従三位にとっての、すべてだったのです……!」
 そこからは話にならなかった。愚直なまでに主君に仕え続けた郎党は、板敷に身を丸めて男泣きに泣いた。
「分からんぞ、私には分からぬ、信じられん」
 仲綱は山吹色の髪をした妖怪少女のことを思う。一時の出会い、一時の別れ。その一時という瞬間に父はどれだけの想いを注いできたのか、仲綱には想像もつかなかった。
 馬鹿な、と譲り受けた翡翠の勾玉を投げつける。板敷に跳ね返った勾玉は不吉な音を反響させながら滑ってゆき、座敷の隅で止まった。

「私は信じぬぞ、絶対に、これからだという時に……」
 早太を置いて庭先に飛び出した。桜の枝、遣り水の影、屋根の先……あらゆる場所を探し回ったが、鵺どころか小鳥の一羽もいなかった。鳥達は既に平安京を去ってしまっていたのだ。
 散りゆく桜の花びらだけが、動かしようのない現実を仲綱に訥々[とつとつ]と語り続けていた。

 どれだけ華々しく咲こうとも、それでも桜はいずれ散る、と。



◆     ◆     ◆



 藤原の腕の中で、私は心地好い眠りへと落ちてゆく。

 妹紅が地を踏みしめる感触が、腕を通して伝わってくる。その振動は眠りを妨げるどころか、かえって揺りかごのように心を休ませてくれる。マミゾウの尻尾も捨てがたいけれど、妹紅の腕は何物にも代え難い。
 さっきの夢をまた見られたら、と私は思う。それはルビーみたいに綺麗で、思い出すだけでも真っ赤になってしまいそうな夢だった。
 何処か遠い世界で、私は藤原と一緒になって空を飛んでいる。もちろん藤原は人間で、私はへっぽこだから飛べるはずもないのだけれど。夢の中では、私は昔のように鳥と同じくらい高い所にいて、藤原の海よりも広い背中には立派な翼が生えていた。桜の花びらみたいに火の粉を散らす、大きな大きな炎の翼だった。とっても素敵だった。

 ……ぬぇ、藤原。それは本当に只の夢だったと思う? 私は何だか違う気がするんだ。だって、こんなに鮮明に胸に焼き付いているんだもの。まるで実際に目で見て来たみたいに、藤原の翼は綺麗で鮮やかだった。こいしが見せてくれた森の夢のように、それは実際に起こったこと、もしくは、実際に起こり得ることなんじゃないかって気がするんだ。
 根拠なんてないけど――その方が楽しいと思わない?

 凍える私のために、藤原が肩をぎゅっと抱いてくれる。着物越しに感じる、傷だらけの汚れた手のひら。他の奴なら思わず怯えてしまうような、そんな不器用な手つき。
 でも、私は妹紅の胸に宿っている夕日のような温もりを知っている。氷の溶かし方を知らないだけで、熱の扱い方に悩んでいるだけで、本当はこの世に二つとない、尊い温もりを妹紅は持っているんだってことを、私は知っている。

 ……誰よりも、誰よりも、知っているつもりだ。



~ To Be Continued ? ~



.
 寒さが身に沁みる季節となって参りました。過去作にご感想を下さった皆さん、改めてお礼を申し上げます。
 またまた何カ月も間が空いてしまい申し訳ないです。蓬莱人と妖怪鵺の旅日記、五回目の投稿をさせて頂きました。
 今回は平安京を舞台に二十人の方々に主役を張ってもらいました。その分だけ容量も四倍になってしまい恐縮です。
 ご期待に応える作品であることを願うばかりです。ここまで読んで下さった皆さん、どうもありがとうございます。
―――――――――――――――――――――――――
 以下、コメント返信になります。

>>1
 今回のお話にも幾何行にも渡るコメントを頂きまして、本当にありがとうございます!
 何度も読み返して下さったそうで、もうこの気持ちを如何にお伝えすれば好いか……。

 “妹紅とぬえちゃんは二人ともヒロイン”とのご感想は正にその通りでありまして、今作の二人の位置づけです。
 もこぬえが重苦しい雰囲気になるのとは反対に、ヤマメ達にはとことんアクティブな活躍をしてもらいたかった。
 これが、例えばずっと“妹紅の視点”から物語を追う構成ならば、もこたんにはパワフルなヒーロー役として
 活躍してもらう構成になったと思いますが、そこが群像劇の好いところでありまして、それぞれの登場人物が
 それぞれに色んな雰囲気を醸し出してお話に彩りを添えてくれました。

 登場人物の関係につきましては、私自身も“家族愛”とか明確に呼称をつけて云い表すのは難しいですね。
 引いて申し上げますと、様々な間柄の面から導き出される“縁”で結ばれた人物模様のようなものでしょうか。
 何とも抽象的で、このように一言では表現し辛い関係にありますから、氏の仰る通り下手にキスシーンといった
 甘々な描写を取り入れることは、これは恥ずかしくてなかなか書けないですね。
 それでも妹紅とぬえちゃんの二人には最後で何らかの形で繋がって欲しかった。「なら身体でキスするんじゃ
 なくて、言葉でキスしてもらったら解決じゃないか」と考えましたのが終幕になるのだと思います。

 終盤に妖怪が一堂に会するシーンは醍醐味でありまして、出発点からして“全員が主人公のつもりで書こう”
 と考えていたものですから、このように一カ所に繋がってくれる場面は書き手としましても筆に力が入ります。
 これは最終回でも云えることだろうと思いますが、全員が主人公である以上は、全員に何かしらの救いが
 あるようにはお話を持っていこうと考えています。
 ただ妖々夢から神霊廟に至る原作全てに繋げるという事と、当時(平安末期)の史実の関係もありまして、
 程度の差こそあれ、全員が完全に幸せになれるという展開は難しいことになりそうですね……。

 それと、構想が不十分なままでスタートを切ってしまったせいか、全く仰られた通りで、場面場面の繋ぎが
 不十分になってしまったのは大きな反省点です。ご指摘に感謝いたします。

 それにしてもチョコレートコーティングした靴下ってw ハチミツニーソも捨てがたいですよ!
 こちらこそ長いお返しになってしまい申し訳ないです。重ねてお礼を申し上げます。
 どうもありがとうございます。

>>2
 いつもいつもお読み頂き、感謝の気持ちが止まりません。ありがとうございます。
 書いている私もこんなに長くなってしまうとは思いもよらず、我が侭な作品に仕上がってしまいました。
 でも我が侭な分だけ気持ちは込めたつもりです。楽しんで頂けたのなら、飛び上がるくらいに嬉しいことです。
 宜しければ連作の締め括りまでお付き合い下さいませ。重ねまして、ありがとうございます。

>>3
 今回もコメントを残して下さり、どうもありがとうございます、ありがとうございます。

 頼政については残念な結果に終わってしまいました。史実を鑑みますに、頼政が挙兵した決定的な動機は未だに
 解明されていないということで、解明されていないということは正体不明でありますから、また鵺は後に名馬「木下」
 に化けて頼政に復讐を果たしたという説もありますから、それも踏まえまして、今回の形に落ち着いたのです。

 それにしても、oblivion氏はワイン蒸しですか。その発想はなかった。
 このネタで一本くらい書けそうですが、さとりに腹パンを喰らいそうで怖い。
 また次の作品でお会い出来たら嬉しいです。重ねまして、ありがとうございます。

>>4
 いやぁ、コメントを残して頂き、どうもありがとうございます。

 twitterで拙作が話題に……ですか。凄いものですね、初めてtwitterにおける話題の拡散力を知りました。
 このような形で読んで頂いたのは初めてなので、今までとは違った嬉しさに、どうお応えすれば好いのか。
 素晴らしい、そのお言葉だけでも飛び上がれそうです。シリーズ累計で文庫本一冊分くらいでしょうか、
 それだけの分量をお読み頂けたことが、そして感想を残して頂いたことが、とんでもなく幸せなのです。

 埋もれた名作は沢山あると思うので、是非とも創想話から離れないで頂きたいものです。
 またの機会にお会いできればと思います。重ねてお礼を申し上げます。ありがとうございます。

>>5
 ありがとうございます、ありがとうございます。苦労が報われるとは、まさにこの事です。
 かのように長い話にお時間を割いて頂いたことを、ここに今一度、深く感謝を申し上げます。

 実を申しますと、私も少し欲心に駆られました。せっかくの長編だから、とも思ったんですけれど、
 元々はジェネリックから始まったシリーズ物でありますし、出発点からしてオリ要素が多数でして、
 中途で点数制に乗り換えると何が起こるのやら分からない、と怖くなりまして、やはりジェネリックに
 投稿した経緯がありますね。

 何よりも、点数ではなく言葉で評価して頂けるところがジェネリックの好さであると思うのです。
 このような性格ですから、点数で一喜一憂していては始まらないと云いますか、90点なら10点が
 引かれている理由を考え込んでしまう面もありまして、それならジェネリックに投稿する方が
 いろいろと精神的な便宜も図れるんじゃないか、と最近は考えるようにもなりました。

 でも、せめて分割投稿するくらいの欲は出しても好かったんじゃないかな、と少し後悔していたりも。
 いえいえ、それよりも、と云うよりも、だからこそ、こうしてコメントを頂いたことがありがたいのですね。
 “長さに見合った面白さ”――シビれるお言葉です。このような御感想を頂けるなんて私は果報者です。

>>6
 ご感想をありがとうございます。幾つも言葉を重ねてコメントを残して頂き、本当にありがとうございます。長くなって申し訳ないです。

 まず妹紅とぬえ、そして水蜜とぬえの関係ですね。「もこぬえ」「ムラぬえ」とタグにこそ表記していますが、そのどちらも私は、いわゆる
 百合としては書いてないんです。少なくとも恋愛ではないです。ただ「人妖の繋がりを描きたい」という想いが全ての出発点でありました。
 なのでキスとか、その他はないです。恥ずかしくて書けないですし、だからこそ他に描ける関係もあるんじゃないかな、との期待がありますね。
 私の作品における鵺にとっては、妹紅も水蜜も両方ともが大切な存在です。しかし恋愛ではないので、三角関係としては描かないと思います。
 ただひとつ了解して頂きたいのは、妹紅とぬえが二十年の付き合いであったのに対して、水蜜とぬえは八百年の付き合いだということですね。

 頼政も西行法師も、どちらもが書き進めるうちに役割が大きくなった人物です。実在の人物とはいえ東方的にはオリキャラ。なので悪い意味で
 目立ち過ぎないよう、氏が仰った通り明るく楽しい描写を心がけました。しかし史実に沿って書く以上、頼政が平家に挙兵する動機はどうしても
 必要だったのです。これだけは史実も教えてくれませんでしたから。

 キスメの移動方法ですか。これは氏が仰った方法の両方です。急ぐ時は抱えてもらい、自分で動く時は桶に入った状態で跳ねたり転がったりします。
 彼女に限らず、ヤマメ達は退治されて時代が移り、妖力が枯渇したので飛べない状態です。なので今作は走ってもらうことが多かったですね。

 それと年月の経過ですね。最初は妹紅とぬえの旅をまったりと描きながら、他の平安妖怪を並行して進める予定でしたが、それでは起伏が無くて
 面白味に欠け、また連作物で引き伸ばしは不味いので、思い切って頼政の挙兵の直前まで時を進めました。描写が不鮮明になって申し訳ないです。
 お読み下さり重ねて深い感謝を!

>>7
 コメントを残して頂き、どうもありがとうございます。楽しんで頂けて私も嬉しいです。

 エピローグのヤマメ達の件は、私も安易に描き過ぎた嫌いがあったことと思います。
 東国に抜けるルートとして具体名を出そうと考えたのが始まりですね。平安京周辺の
 地図を見ながら、それなら有名な逢坂の関でよろしいのでは、と選んだ過程があります。

 少し調べてみたところ、どうやら鯖街道は琵琶湖の西側を通るルートのようです。
 東国に抜けるのなら、少しばかり回り道になってしまうようですね。それでも鯖街道は
 初めて耳にしました名前で、またひとつ知識が深まりました。ご指摘をありがとうございます。

 ご期待を頂き重ねて感謝申し上げます。よろしければ次回もまた読んで下さると嬉しいです。

>>7 (追加)
 改めてコメントを頂きまして、本当にありがとうございます。感激です。

 「Vol.1」の「鮎」の件もそうでしたが、自分の知識不足が悔しくなっちゃいますね!
 もしも鯖街道の由来ですとか、そういった古代の知識をもっと取り入れて展開していたら、
 遥かにリアリティをもって描けていたかもしれない。そう思うともったいない限りです。
 塩サバを食いながら街道を歩く妹紅だなんて、すっごく絵になりそうですのに!

 知識と物語をうまく取り合わせると、とたんに興味深く、そして魅力的になりますよね。
 古代という時代を知る鍵を、またひとつ教えて頂いて……氏にはとっても感謝しています。

 次回作は――最終章の前段階として、ちょっと時間軸を前に戻した作品を書きたいと思っています。
 例えば『竹取物語』ですとか、他にも『信貴山縁起』ですとか……なんとかして、氏の目に触れても
 恥ずかしくない物語に仕上げたいですね、本当に。重ねて感謝を申し上げます。ありがとうございます。
かべるね
コメント



1.米太郎削除
改めて見るとあまりにもコメントが長すぎるので訂正をば

ヤマメちゃんの糞爆弾はやっぱいいいですわぁ いい意味で全部台無しっていうか
パワーありますよね それでいて幼子の脆さを抱えてるヤマメちゃんには
パルさんみたいな相方が必要なんでしょうね 家族愛ですねぇ ぬえちゃんと
もこたんも家族愛なんだろうなぁと思ったんですが 廃家に帰ってのふたりの描写って
下手なキスシーンより甘酸っぱいからあんまり自信ないです

今まで別々のストーリーを歩いてた役者たちが一堂に賭場に会す場面は
高揚しましたねぇ その前の仲綱の屋敷での話やさとりの賭場での話が余計に
際立たせましたね しかしここまで登場人物(しかもオリ(?)キャラ)多数を書かれて
みんながそれぞれ魅力的てのもすげぇなぁ と 平氏親子以外は皆幸せに
なってくんねぇかなぁと思わされました 頼政 ちょっと報われて欲しかった…
俺もチョコレートコーティングされたひじりんのくつしたハムハムしたいとか思うから…
いやそこだけじゃないですけどね?

もこたんとぬえちゃんの最後のエピソード 楽しみに切なく待たせて頂きます!
2.名前が無い程度の能力削除
作品集のサイズの項目をみてびっくりしましたw
毎回楽しみにさせてもらってます!
3.oblivion削除
やっと読み終えることができましたー。大長編の執筆、お疲れ様です。
クライマックス、群像劇の醍醐味ともいえる一同集結で盛り上がったので「この話も今回で終わりかなー」と思っていたら、どうやらまだ続くようで。嬉しい限りです。

この話では頼政が一番好きなキャラクターです。のちのち何かの形で彼が救われたらいいなあ、と思いながら次回を寝て待ちます。
あ、私はさとりの靴下のワイン蒸しが食べたいです。
4.名前が無い程度の能力削除
いやぁtwitterで面白そうというのを見て読み終えましたが素晴らしいモノですね
これだから創想話は見るのを完全にはやめることができないというものです
5.名前が無い程度の能力削除
いやー 長かった! しかし長さに見合った面白さでした
しかしコレジェネじゃないほうだとすげぇ評価されたのでは
とういのが個人的意見です まぁそこは作者さんの自由なんですがね

ラストエピソード楽しみに待たせていただきます!
6.rasan削除
 最近は短い作品ばかり読んでいたのですが、久しぶりにと思い「なまくらフェニックスシリーズ」に手を出させていただきました。 まず初めに、私の中で長編かなぁと思うのは80KBあたりだったので、第4話の290KBという数字を見て「o...oh...」と驚きを隠せませんでした(笑)

 たくさん感想を言いたい部分がありますが、個人的に特に印象に残った部分だけ感想を言わせて頂こうと思います。

 ずっと今までの作品で「妹紅と鵺が仲がいいのは平安つながりなのかなぁ」と思っていたので、二人の見方が変わる、そんな作品になりました。 ほかの方も描いていましたが、体を絡めるシーンくるかなぁと思っていたら来ませんでしたが、その代り読んでるこちらが悶えてしまいそうな甘酸っぱい描写が多く、ああ・・・こういう心と心のつながり合いもいいなぁと思えました。 
 なぜ鵺は妹紅ではなく、村紗に心惹かれるようになったのか、そこがちょっと寝取り寝取られのようで、読んでる途中もやもやしていたのですが、最後の話でそこのあたりが描写されるのを期待しています。

 頼政について。
 私自身あまり学がないので歴史上でのこの人物に関してはあまり詳しくはないのですが、途中まで明るく楽しい人物と描かれていただけあって、最後の彼の行動にはかなり来るものがありました。
 もともと史実と絡めている話だったので、読み始めた頃から実在の人物はあまり良い終わり方を迎えないんだろうなぁと思っていましたが、いざこうして描写されるとかなり落胆します。
 それほどまでに、鵺の存在は彼の中で大きかったんでしょうね。

 西行法師や幽々子に関しても、今回の話では仲直り、という形で終わることができたように思いますが、この二人の結末に関しても東方などの作品内で描写されているので、それを思うと……。

 3つ目、これはもう話とか全然関係ないんですけど、キスメの移動方法、これがすごく気になりました。 桶に入ってぴょんぴょん跳ねながら移動しているのか、それとも基本ヤマメに抱かれながら移動しているのか。 妖怪たちが追われて逃げる場面などで少し気になったので。

 最後に、この作品は最初からこの話までで大体20年程の月日が経っているのでしょうか?話が区切りのいいところまでいくと、急に時間が進んでいたりしたので。

 長い作品でしたが、特に頼政と鵺の再開に期待し、わくわくしながら読ませていただきました。一旦終わりかと思いましたがまだ続きがあるようですね、気長に待たせていただきます!
7.名前が無い程度の能力削除
7です、一旦削除、一部補遺の上での再投稿です
お疲れさまです、楽しく読ませて頂きました
しかし、土蜘蛛たちが京都から抜けるなら是非、鯖街道の方を(笑)
鯖街道は日本海、敦賀あたりでとれたサバにひと塩振って運ぶと京の都に着く頃、
ちょうど良い具合に塩サバが出来て、京の人たちを喜ばせたそうです
放浪時代の妹紅も塩サバ食べたかもしれない
東を目指す連中が通る、逢坂の関(京の東の境界)〜大津〜米原〜関ヶ原(不破の関、青野ケ原=関ヶ原)は古代日本の世界へと至る道ですからねぇ
(西日本と東日本との境目、昔の人にはある種の結界でした)
これから凸凹コンピの蓬萊人たちは、どうなるのでしょうね
次回作を楽しみにしています