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長閑な春の午後の曇天。神二柱に買い出しを頼まれ人里に来ていた。
春眠暁を覚えなんとやら。この季節になるときまってあの二柱は炬燵に足を突っ込み呂律が回らず蒟蒻のように緩み蕩けきった顔で「まかせた」などと宣い身の回りの世話やら雑用やらを押し付けるのだ。こう何日も身が休まらない日が続くとあの神社が介護施設か何かに思えてくる。
私は疲弊していた。どうもあの二柱に若さを吸い取られている気がしてならないのだ。
両脇に立ち並ぶ商店を眺め商品を物色していると疲れも癒えるようだ。
特に果物の鮮やかな色は見ているだけで暗い気持ちも払拭されるようで、しばらく呆けたような目で見とれてしまっていた。
見入っていると店員の若いお兄さんに怪訝な顔をされたのでひとつ買っていくことにした。メロン。特に意味はない。ただなんとなく持ち応えがありそうだと思ったからだが、早くもその選択を私は後悔していた。そこまで重くはないが、普通に邪魔だった。持っていた手提げ袋に収納すると外からでもはっきり分かるほど異様に膨らんでおり、その様はまるで爆弾。本当に爆弾を抱えていると誤解されたらどうしようかと不安になった。
誰にも見られていないかと周りを見渡すと、ふと、こちらを眺めている人影と視線がかち合った。
まずいと思っているとその人影はにこりと笑うと会釈をして人ごみに消えてしまった。
遠目で一瞬だったのでわからなかったが、里とは不釣合いな格好をしていた気がする。「和」というよりは西洋風の装いだった。
錯覚かと目を擦っているとはた、と肩を叩かれた気がして振り返った。しかしそこには肩を叩いたと思われる人間どころか人影ひとつなくなっていた。
そこでまた肩を、今度は何度も、だんだんと多くなっていき終いには雨のように叩かれ、じんわりと染み込むような冷たさを感じてようやくこれが比喩ではなく本物の雨なのだと気づいたときには遅かった。
「ぎゃあああっ」
顔を伏せて手提げをひさし代わりにしながら走った。びしょびしょの巫女服が身体にぴったりと纏わりついて気持ち悪い。飛ぶようにして近くの大きな木の下へと逃げ込んだ。
「はぁっ、ひいっ、ぜぇっ」
膝に手をついて荒い息を整えていると髪を水滴が伝い毛先からぽたぽたと滴り池をつくる。雨は勢いを増していよいよ帰れなくなってしまった。
きっと私が持っている爆弾メロンを湿気させようとした何者かの陰謀に違いない。冤罪だ。私は無実だ。
恨めしい思いで止みそうもない雨を睨んでいると、どこからかくすくすと笑い声が聞こえてきた。
はっとして周囲を見回すと、すぐ隣にメイド服に身を包んだ女性が立っていた。すぐ近くに居たというのに全く気づかなかった。
しかし一度その姿を認めると徐々に存在感を増していき、まるで最初から居たように確かな実体としてそこに現れた。影のような人だった。
思わずへっぴり腰で身構えるとその人は降参をするように両手を挙げ、ゆるゆると首を振り非暴力を訴えた。
「はあっ――、つぁっ」
慣れない運動と変に神経を使ったせいで眩暈を覚えた。意識を手放しかけ、「ふっ!」踏ん張る。が、代わりに抱えていた手提げを手放してしまった。
ぺっきょんどんという痛快な音をたてて泥濘に投下され泥という名の爆風を盛大に振りまくリトルボーイ(ウリ科)。
爆心地に居た私は、大いなる洗礼をその身に受けるはめとなった。
「あうちっ」
冷たいうえに泥がべっとりと顔やら服やらに付着して事の悲惨さを際立たせる。これは酷い。思わずため息が漏れた。
ポケットからハンカチを取り出すも既に水雑巾と化していて当然のごとく使い物にならない。メロンのせいだ。全てこのメロンが悪いのだ。メロンさえなければ勘違いした何者かが雨を降らそうなどと画策することもなかっただろうし雨や泥に塗れることもなかっただろうしそもそもあの商店で買うこともなかったのだ。
あれこれと悪態を並べているとすっ、と思考を遮るように几帳面に折りたたまれたハンカチが差し出された。
先ほどの女性だった。
「え、あの、」
「泥がこびりついて、厭でしょう」
答えを渋っていると、私の握りこぶしをほどいて半ば無理やりといった感じに握らせてきた。
不思議と押し付けがましさを感じさせない所作だった。つい反射的に受け取ってしまう。
いつか駅前でよく見かけたティッシュ配りの人々が思い浮かぶ。視界の端からひょいと出されると、思わず貰ってしまうのだ。
受け取ってしまった以上は使わねばなるまい。少々気が退けたがありがたく使わせてもらうことにした。
なるべく汚さないようにしたつもりだったが思いのほか吸収率がよく、大部分の泥水を吸ってしまっていた。
流石に全ての汚れをとることはできなかったが、十分と言えた。
「あの、洗って返します」
「別にいいわよ。あげるわ、それ」
――――貰ってしまった。でも、あとできちんとお礼をして返そうと思った。
木の下から見える景色は狭い。視界の上半分ほどは木で隠れて空を見ることもままならないし、見えるものといったら閑散とした人里くらいなものだ。
太陽は厚い雲に遮られ、そこから零れた幽かな光さえも高く大きくそびえる木に阻まれ、この身にかかることはかなわない。
暗く差す影が陰鬱となって圧し掛かる。ノイズみたいな雨音と溶け合って一層私を気だるく憂鬱にさせた。
ふとさっきの女性が気になって振り返ると、そこにはもう何も居なかった。
それがあまりにも自然だったから、驚くタイミングを逸してしまった。
影らしく闇に消えたのだろうと無理矢理納得させた。それよりも、名前を聞きそびれてしまった事が心残りだった。
ずしり。肩に圧し掛かる陰鬱が重みを増して堆積する。このまま身を任せていると、爪先からずぶずぶと泥沼に沈んでいきそうだ。
気分が沈みがちなのは疲れているからかもしれない。心なしか肩も重くなっているような気がした。
「肩が凝ってるの?」
陰鬱が肩でとんとん拍子を刻み始めた。存外に心地よく、心なしか暗澹とした気分も少しずつ薄らいでいくように思えた。
真冬の寒空の下、かじかんだ手で川の水に浸すと温く感じるようなものだろうか。ふと何気なく、後を振り向いた。
先程のメイド服の女性が、真後ろに立っていた。影みたいに背後に立ち、涼しげな所作で肩を叩いていた。
「ほあああああああああ!!」
断末魔みたいな声が出た。そのまま勢いよく後退するも、ぬかるんだ地面が足を捕らえた。「あ」。ひゅうん、と暗転する視界。
加速度的に勢いを増して背中から強かに打たれると思われた身体は、しかし中空で静止していた。深海を閉じ込めたような瞳と、目が合った。
「大丈夫?」
「…………えっ、あっはい」
静止していた体がゆっくりと引っ張られ、再び視界が安定したところでようやく危ういところを助けられたのだと悟る。
ああ、恥ずかしい。会って数刻もしないうちにどれだけ醜態を晒せば済むのだ、私は。厄日なのかもしれない。いまいち調子が出なかった。
唯一幸いだったのは、咄嗟に駆け込んだ木の下が完全に雨を防いでくれていて、数滴どころか一滴も雨水が垂れてこないことだった。
どういうわけかは分からないが、この木の下だけは土も湿っておらず、外界と隔離されているようだった。
そこで私はいつかに聞いた、ある詩人の話を思い出していた。
急な雨に降られた詩人がそばにあった栗の木に逃げ込んで和歌を詠むと、木の枝がしだれ重なりその詩人の身を雨から護ったという話で、古典の授業で教師が余談で語っていたのを覚えていた。ここでその詩を諳んじれれば格好がよかったかもしれないが、生憎私は物覚えがいい方ではなかったし、詠ったところで意味を成さないことは分かりきっていたしそもそもこの木が栗の木かどうかもわからないので、私に出来ることといえば一向に止む気配のない雨を見つめながら一人分のスペースを開けて私の隣に佇むメイド少女と消極的にコミュニケーションをとる方法を模索することくらいだった。
ふと、彼女はどんな顔をしているのだろうと恐る恐る振り向くと、はたと視線が合ってしまった。
蛇に睨まれた蛙のような心境で、動けなくなってしまう。何を話そうかとあうあうと口を歪めたり視線を泳がせたりしていると、顔を伏せられてしまった。
指の間から覗く彼女の顔は紅潮していて、心なしか小刻みに震えていた。
「……っごめんなさい、貴女面白くて……、ふふっ!」
「…………」
人の顔を見て笑うというのはどういうことだろうか。
むっとなって彼女のほうを睨むと申し訳なさそうに片手を挙げて「ごめんなさいね」と言ったあとすぐに涼しげな笑みを顔に浮かべた。
嫌味に感じさせないのが逆に腹立たしい。
そうされるとメイドという生き物との距離を測りかね、対応の仕方を考えあぐねていたのが何だか馬鹿らしくなり、どうでもいいと思えるようになってきた。
初期に感じていた妙な威圧感は、もう感じなかった。
だからか、急に「雨が嫌い?」と聞いてきた彼女に対しても自然と受け答えることができた。
「好きな人はそういないと思いますよ」
「そう? 土壌が潤うわ」
「洗濯物も干せませんよ」
「何も外で干す必要はないわ」
「じめじめして気持ち悪いですし」
「涼しくて気持ちいいと思うけど」
「何となく憂鬱になりますし」
「気の持ちようだと思うわ」
「……濡れますし」
「傘差しますし」
ふと横を見ると、彼女は晴れやかな微笑を浮かべていた。まるで雨など降っていないような、傘を差すのが楽しいとでもいうような。
その一瞬だけ、雨が降っていることを忘れた。眩しかった。雨をものともせず、自分のものにしてしまえる彼女が眩しかった。私も、彼女のように笑えるだろうか。
「……でも私」
あいにく傘など持ち合わせていない。そう続けようとしたのを遮るように、すっ、とまたしても彼女はどこからかそれを取り出した。
血のような赤を基調とした禍々しい雰囲気を醸しだす傘布に蝙蝠の模様があしらわれた、槍のような石突が印象的な、一本の傘だった。
あまりにも奇抜なデザインに釘付けになっていると、いつの間にかそれを手にしていたことに気づいた。やってしまった。また手にとってしまった。
さすがに貰ってばかりでは悪いと、傘を押し返そうとする私を制し、あれだけ凄惨な爆撃を轟かしたにもかかわらず未だその原型を留めている黒光りしたそれを指して、彼女は言う。まるでお気に入りの玩具を見つけた子供のような瞳で。子供じみた所有権を主張するように。
「これと交換ということで」
私の首は知らず、こくん、と肯いていたのだった。
彼女は危なげない手つきで拾い上げると、ふわりと優雅に一礼し、雨の中に消えた。
「……あ、名前」
彼女が居なくなったのと同時に入れ替わりのように思い出す。結局、ついに私は彼女の名を聞くことができなかったのだ。
ああもう、と自分の頭を小突きそうになってからまあいいかと思い直す。あれだけ目立つ服を着ていたのだ。そのうちまた会える日も来るだろう。
留め具を外すと、しゅる、と衣擦れのような音をたてて緩やかに傘布が広がる。そのままはじきに指を当てると、思い切り押し込んだ。
かち、と手の中で軽妙な音が鳴り、蝙蝠のステンドグラスを花開かせながら、私は木の外を見据える。
雨は変わらず世界を穿っていたが、負ける気はしなかった。
今度会ったら、ハンカチを返そう。雨が降っていなければ、傘を返そう。名前は、憶えていたら聞いてみよう。
お礼は何がいいだろう、と考えてすぐ浮かんだのはあの爆弾メロンだった。彼女の子供のような、あどけない笑みを思い出すと、微笑ましい気持ちになる。
もしあのメロンが無かったら、彼女との出会いも無かったかもしれない。お礼の贈り物は、すぐに決まった。
私は一歩、雨の中に足を踏み入れる。
くすりと漏れたその笑いは、雨の音に掻き消された。
長閑な春の午後の曇天。神二柱に買い出しを頼まれ人里に来ていた。
春眠暁を覚えなんとやら。この季節になるときまってあの二柱は炬燵に足を突っ込み呂律が回らず蒟蒻のように緩み蕩けきった顔で「まかせた」などと宣い身の回りの世話やら雑用やらを押し付けるのだ。こう何日も身が休まらない日が続くとあの神社が介護施設か何かに思えてくる。
私は疲弊していた。どうもあの二柱に若さを吸い取られている気がしてならないのだ。
両脇に立ち並ぶ商店を眺め商品を物色していると疲れも癒えるようだ。
特に果物の鮮やかな色は見ているだけで暗い気持ちも払拭されるようで、しばらく呆けたような目で見とれてしまっていた。
見入っていると店員の若いお兄さんに怪訝な顔をされたのでひとつ買っていくことにした。メロン。特に意味はない。ただなんとなく持ち応えがありそうだと思ったからだが、早くもその選択を私は後悔していた。そこまで重くはないが、普通に邪魔だった。持っていた手提げ袋に収納すると外からでもはっきり分かるほど異様に膨らんでおり、その様はまるで爆弾。本当に爆弾を抱えていると誤解されたらどうしようかと不安になった。
誰にも見られていないかと周りを見渡すと、ふと、こちらを眺めている人影と視線がかち合った。
まずいと思っているとその人影はにこりと笑うと会釈をして人ごみに消えてしまった。
遠目で一瞬だったのでわからなかったが、里とは不釣合いな格好をしていた気がする。「和」というよりは西洋風の装いだった。
錯覚かと目を擦っているとはた、と肩を叩かれた気がして振り返った。しかしそこには肩を叩いたと思われる人間どころか人影ひとつなくなっていた。
そこでまた肩を、今度は何度も、だんだんと多くなっていき終いには雨のように叩かれ、じんわりと染み込むような冷たさを感じてようやくこれが比喩ではなく本物の雨なのだと気づいたときには遅かった。
「ぎゃあああっ」
顔を伏せて手提げをひさし代わりにしながら走った。びしょびしょの巫女服が身体にぴったりと纏わりついて気持ち悪い。飛ぶようにして近くの大きな木の下へと逃げ込んだ。
「はぁっ、ひいっ、ぜぇっ」
膝に手をついて荒い息を整えていると髪を水滴が伝い毛先からぽたぽたと滴り池をつくる。雨は勢いを増していよいよ帰れなくなってしまった。
きっと私が持っている爆弾メロンを湿気させようとした何者かの陰謀に違いない。冤罪だ。私は無実だ。
恨めしい思いで止みそうもない雨を睨んでいると、どこからかくすくすと笑い声が聞こえてきた。
はっとして周囲を見回すと、すぐ隣にメイド服に身を包んだ女性が立っていた。すぐ近くに居たというのに全く気づかなかった。
しかし一度その姿を認めると徐々に存在感を増していき、まるで最初から居たように確かな実体としてそこに現れた。影のような人だった。
思わずへっぴり腰で身構えるとその人は降参をするように両手を挙げ、ゆるゆると首を振り非暴力を訴えた。
「はあっ――、つぁっ」
慣れない運動と変に神経を使ったせいで眩暈を覚えた。意識を手放しかけ、「ふっ!」踏ん張る。が、代わりに抱えていた手提げを手放してしまった。
ぺっきょんどんという痛快な音をたてて泥濘に投下され泥という名の爆風を盛大に振りまくリトルボーイ(ウリ科)。
爆心地に居た私は、大いなる洗礼をその身に受けるはめとなった。
「あうちっ」
冷たいうえに泥がべっとりと顔やら服やらに付着して事の悲惨さを際立たせる。これは酷い。思わずため息が漏れた。
ポケットからハンカチを取り出すも既に水雑巾と化していて当然のごとく使い物にならない。メロンのせいだ。全てこのメロンが悪いのだ。メロンさえなければ勘違いした何者かが雨を降らそうなどと画策することもなかっただろうし雨や泥に塗れることもなかっただろうしそもそもあの商店で買うこともなかったのだ。
あれこれと悪態を並べているとすっ、と思考を遮るように几帳面に折りたたまれたハンカチが差し出された。
先ほどの女性だった。
「え、あの、」
「泥がこびりついて、厭でしょう」
答えを渋っていると、私の握りこぶしをほどいて半ば無理やりといった感じに握らせてきた。
不思議と押し付けがましさを感じさせない所作だった。つい反射的に受け取ってしまう。
いつか駅前でよく見かけたティッシュ配りの人々が思い浮かぶ。視界の端からひょいと出されると、思わず貰ってしまうのだ。
受け取ってしまった以上は使わねばなるまい。少々気が退けたがありがたく使わせてもらうことにした。
なるべく汚さないようにしたつもりだったが思いのほか吸収率がよく、大部分の泥水を吸ってしまっていた。
流石に全ての汚れをとることはできなかったが、十分と言えた。
「あの、洗って返します」
「別にいいわよ。あげるわ、それ」
――――貰ってしまった。でも、あとできちんとお礼をして返そうと思った。
木の下から見える景色は狭い。視界の上半分ほどは木で隠れて空を見ることもままならないし、見えるものといったら閑散とした人里くらいなものだ。
太陽は厚い雲に遮られ、そこから零れた幽かな光さえも高く大きくそびえる木に阻まれ、この身にかかることはかなわない。
暗く差す影が陰鬱となって圧し掛かる。ノイズみたいな雨音と溶け合って一層私を気だるく憂鬱にさせた。
ふとさっきの女性が気になって振り返ると、そこにはもう何も居なかった。
それがあまりにも自然だったから、驚くタイミングを逸してしまった。
影らしく闇に消えたのだろうと無理矢理納得させた。それよりも、名前を聞きそびれてしまった事が心残りだった。
ずしり。肩に圧し掛かる陰鬱が重みを増して堆積する。このまま身を任せていると、爪先からずぶずぶと泥沼に沈んでいきそうだ。
気分が沈みがちなのは疲れているからかもしれない。心なしか肩も重くなっているような気がした。
「肩が凝ってるの?」
陰鬱が肩でとんとん拍子を刻み始めた。存外に心地よく、心なしか暗澹とした気分も少しずつ薄らいでいくように思えた。
真冬の寒空の下、かじかんだ手で川の水に浸すと温く感じるようなものだろうか。ふと何気なく、後を振り向いた。
先程のメイド服の女性が、真後ろに立っていた。影みたいに背後に立ち、涼しげな所作で肩を叩いていた。
「ほあああああああああ!!」
断末魔みたいな声が出た。そのまま勢いよく後退するも、ぬかるんだ地面が足を捕らえた。「あ」。ひゅうん、と暗転する視界。
加速度的に勢いを増して背中から強かに打たれると思われた身体は、しかし中空で静止していた。深海を閉じ込めたような瞳と、目が合った。
「大丈夫?」
「…………えっ、あっはい」
静止していた体がゆっくりと引っ張られ、再び視界が安定したところでようやく危ういところを助けられたのだと悟る。
ああ、恥ずかしい。会って数刻もしないうちにどれだけ醜態を晒せば済むのだ、私は。厄日なのかもしれない。いまいち調子が出なかった。
唯一幸いだったのは、咄嗟に駆け込んだ木の下が完全に雨を防いでくれていて、数滴どころか一滴も雨水が垂れてこないことだった。
どういうわけかは分からないが、この木の下だけは土も湿っておらず、外界と隔離されているようだった。
そこで私はいつかに聞いた、ある詩人の話を思い出していた。
急な雨に降られた詩人がそばにあった栗の木に逃げ込んで和歌を詠むと、木の枝がしだれ重なりその詩人の身を雨から護ったという話で、古典の授業で教師が余談で語っていたのを覚えていた。ここでその詩を諳んじれれば格好がよかったかもしれないが、生憎私は物覚えがいい方ではなかったし、詠ったところで意味を成さないことは分かりきっていたしそもそもこの木が栗の木かどうかもわからないので、私に出来ることといえば一向に止む気配のない雨を見つめながら一人分のスペースを開けて私の隣に佇むメイド少女と消極的にコミュニケーションをとる方法を模索することくらいだった。
ふと、彼女はどんな顔をしているのだろうと恐る恐る振り向くと、はたと視線が合ってしまった。
蛇に睨まれた蛙のような心境で、動けなくなってしまう。何を話そうかとあうあうと口を歪めたり視線を泳がせたりしていると、顔を伏せられてしまった。
指の間から覗く彼女の顔は紅潮していて、心なしか小刻みに震えていた。
「……っごめんなさい、貴女面白くて……、ふふっ!」
「…………」
人の顔を見て笑うというのはどういうことだろうか。
むっとなって彼女のほうを睨むと申し訳なさそうに片手を挙げて「ごめんなさいね」と言ったあとすぐに涼しげな笑みを顔に浮かべた。
嫌味に感じさせないのが逆に腹立たしい。
そうされるとメイドという生き物との距離を測りかね、対応の仕方を考えあぐねていたのが何だか馬鹿らしくなり、どうでもいいと思えるようになってきた。
初期に感じていた妙な威圧感は、もう感じなかった。
だからか、急に「雨が嫌い?」と聞いてきた彼女に対しても自然と受け答えることができた。
「好きな人はそういないと思いますよ」
「そう? 土壌が潤うわ」
「洗濯物も干せませんよ」
「何も外で干す必要はないわ」
「じめじめして気持ち悪いですし」
「涼しくて気持ちいいと思うけど」
「何となく憂鬱になりますし」
「気の持ちようだと思うわ」
「……濡れますし」
「傘差しますし」
ふと横を見ると、彼女は晴れやかな微笑を浮かべていた。まるで雨など降っていないような、傘を差すのが楽しいとでもいうような。
その一瞬だけ、雨が降っていることを忘れた。眩しかった。雨をものともせず、自分のものにしてしまえる彼女が眩しかった。私も、彼女のように笑えるだろうか。
「……でも私」
あいにく傘など持ち合わせていない。そう続けようとしたのを遮るように、すっ、とまたしても彼女はどこからかそれを取り出した。
血のような赤を基調とした禍々しい雰囲気を醸しだす傘布に蝙蝠の模様があしらわれた、槍のような石突が印象的な、一本の傘だった。
あまりにも奇抜なデザインに釘付けになっていると、いつの間にかそれを手にしていたことに気づいた。やってしまった。また手にとってしまった。
さすがに貰ってばかりでは悪いと、傘を押し返そうとする私を制し、あれだけ凄惨な爆撃を轟かしたにもかかわらず未だその原型を留めている黒光りしたそれを指して、彼女は言う。まるでお気に入りの玩具を見つけた子供のような瞳で。子供じみた所有権を主張するように。
「これと交換ということで」
私の首は知らず、こくん、と肯いていたのだった。
彼女は危なげない手つきで拾い上げると、ふわりと優雅に一礼し、雨の中に消えた。
「……あ、名前」
彼女が居なくなったのと同時に入れ替わりのように思い出す。結局、ついに私は彼女の名を聞くことができなかったのだ。
ああもう、と自分の頭を小突きそうになってからまあいいかと思い直す。あれだけ目立つ服を着ていたのだ。そのうちまた会える日も来るだろう。
留め具を外すと、しゅる、と衣擦れのような音をたてて緩やかに傘布が広がる。そのままはじきに指を当てると、思い切り押し込んだ。
かち、と手の中で軽妙な音が鳴り、蝙蝠のステンドグラスを花開かせながら、私は木の外を見据える。
雨は変わらず世界を穿っていたが、負ける気はしなかった。
今度会ったら、ハンカチを返そう。雨が降っていなければ、傘を返そう。名前は、憶えていたら聞いてみよう。
お礼は何がいいだろう、と考えてすぐ浮かんだのはあの爆弾メロンだった。彼女の子供のような、あどけない笑みを思い出すと、微笑ましい気持ちになる。
もしあのメロンが無かったら、彼女との出会いも無かったかもしれない。お礼の贈り物は、すぐに決まった。
私は一歩、雨の中に足を踏み入れる。
くすりと漏れたその笑いは、雨の音に掻き消された。
その、気持ちの高低差みたいなのが気持ちいいですね。