Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

鬼の追い酒

2012/09/27 16:17:34
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 鬼のプライドが、粉々になった瞬間である。
 伊吹萃香が、腕相撲で妖精に負けた。
「ちくしょう死んでやるーっ!」
 障子の桟が突き破られ、人型の穴があく。萃香はそのまま境内に飛び出した。さいわい、家主の霊夢はとっくに潰れて縁側に横たわっている。
 さて、タネ明かし。
 腕相撲の相手はレミリアだった。しかし、二人がコタツの上でがっちり手を組み合ったそのとき、吸血鬼の背中に、ぬえがこっそり「正体不明の種」をくっつけた。
 つまり種がタネである。
 付け加えるなら、勝つ気まんまんのレミリアはストレッチ状態だったし、萃香は妖精相手に手加減する気でいた。
 相手の姿が変わったのに気づかないくらいべろべろで、「お前じゃ相手になんないよー♪」などと笑うのだから、それはレミリアもむきになる道理である。
 以上の経緯は、別に心を読むまでもなく、境内の端っこでちびちびやっていたさとりには、明々白々であった。妖精に見えていたのね、と納得したくらいである。「種」のついたレミリアは、さとりの目にはなんだかよくわからない姿に見えていたからだ。
 驚いたのは、小鬼がまっしぐらにさとりの方へ走ってきたことである。
「わーん! さとりー!」
 今日は燐も空もつれてきていない。なすすべなく首元に抱きつかれ、さとりはあえなく敷物の上にひっくり返った。
「な、なんですか!」
 猛烈に酒くさい。
「さあ読んで! 私のすべてを読んで!」
「えぇ?」
「あんたにすべて弱みを見られたら、いっそすっきりあの世に旅立てるってもんさ! すっきり……うぇ」
「いやあ! 私の上で吐かないで!」
 小さな身体で、鬼は漬物石のように重い。助けを求めて見回すも、天狗はそ知らぬ顔をし、河童の酔いは急に回る。おおむねその二通りの反応しか戻ってこない。
 縁側に出てきたレミリアが小さく十字をきった。
「アーメン」
 やかましい。
「……ん」
 さとりにのしかかっていた萃香の、髪に埋もれていた顔がひょいと持ち上がった。
「なんだー。さとり、お前来てたんだ」
 にこにこしながら身を起こし、首筋から肩のあたりをぺたぺた触ってくる。
「私に会いに来てくれたんだなー。うんうん。可愛いやつめ」
「はあ? 違いますよ」
「んじゃ、もそっとしっぽりできるとこに行かないとね!」
 えらい力で引っ張られる。そのまま萃香は、さとりをぶら下げたまま階段を駆け下りていく。
 声どころか息ができない。がっちりと鬼の腕が、首にはまっている。みるみる神社が遠ざかり、夜の空しか見えなくなる。
(タップ! ターップ!)
 懸命に腕を叩くが、鬼は一向意に介さない。
「やあ、ひさびさに人間をさらってるみたいだなー」
 能天気な声を最後に、さとりの意識はぷつりと途切れた。






 気がつくと、夜から星が消えている。
 赤ら顔をした地肌が、闇にとけるまで続く。見飽きた地底の空洞だ。
 水音がする。立ち上がると、砂地を割って川が流れている。橋姫の護る橋から少し遡ったあたりと思えた。
 小鬼はすぐ近くに、仰向けにひっくり返って寝息を立てている。足音をしのばせて、さとりは近寄る。
(お望みどおり)
 読んであげましょう。心の、奥の奥までも。
 萃香を膝に抱き上げて、暖かい砂をかかとで押しのけて座る。独りでに胸元の眼が、浅ましく持ち上がる。
 ずい、ずずい。
(……ふむ、なるほど)
 川の流れはちろちろ囀る。
 眠っている相手の方が心を読みやすいこともある。目覚めていればどうしても、本人の意図にかかわらず、心を守ろうとして横槍が入るからだ。その横槍にこそ隠したい真意が込められている場合も、ままあるが。
(……へえ)
 そして、いつもさとりは嫉妬する。
 炎が、まるで一筋の道のようにあかあかと燃えている。両側を疎まれ者、嫌われ者の歴史で埋め尽くされているが、怨みの声は炎をそよとも揺るがせず、両者は静かに対峙している。それが鬼の心象だ。覗いていれば自ずと、時代の暗部を担ってきたスケールの違いを、思い知らされる。
 ほろ苦い同情と畏れで、横たわる姿を眺める。
 さとりの膝にだらりと置かれた指が、ぴくりと動いた。起きた、と思うより早く、跳ね上がった身体が空中で強靭にしなり、さとりの両肩にずしりと手が食い込む。
「み~た~な~」
 額すれすれにのしかかった影の真ん中で、ふたつの眼がぎらぎら輝いている。
「ええ。見ました」
「何を見た?」
「さあ」
 波打つ髪は、鬼の頭から生えた新たな角のようだ。
「全部?洗いざらい?」
「まさか。人間だろうと妖怪だろうと、心のすべてなんて読めませんよ」
 ましてそれが鬼ならば。
「でも、私の恥ずかしいところ、見たんだろ」
「まあ、それなりには」
「……死んでやるぅ」
 身体にかかった重みが消える。一転、悄然と肩を落とした萃香が土手を上っていく。
(死んでやる、はブームなのかしら)
 襟をなおして立ち上がり、さとりはあとを追った。さくさく乾いた下草を踏んで上りきると、ぼんやりした紫の明かりをさえぎって、地霊殿が遠くそびえている。
 崩れた石段を降りた先で、シルエットになった小鬼が手招きする。しばらくついて歩くうち、道の両側は旧都の黒い家並みに囲まれていた。慣れた手つきで板塀を探り、木戸をくぐった萃香につづいてさとりも入っていくと、雪の残る庭がある。縁側に飛び上がった萃香が障子を開いた。
 灯明の照らす光の輪に、寄せるようにして火鉢と、背もたれのある座椅子が置いてある。
 どっかり座り込んだ萃香に目で招かれ、さとりも横の椅子に座った。
 ほとんど待たず、長い尻尾を着物からはみ出させたイタチ妖怪の仲居が、徳利をさげてやってきた。


 
 でかい尻尾はあるものの、ほかの人化は達者である。膳を並べる手つきもしとやかで、これはちょっとスカウトしちゃおうかな、とさとりが仲居娘を目で追っていると、こちらを睨みつける鬼と出くわした。
 驚いたのか、仲居は障子を半分開けっ放しにして早々に退散してしまった。
「んじゃ、二次会な」
 まめまめしく、萃香がふたつの猪口に酒をそそぐ。立ち上る香りに、彼女の小鼻はぴくぴく動いた。
 さとりが酒の表面に舌をのせると、複雑な刺激がする。神社で飲んでいたのとはまるで違う酒だ。
「ふぅー、この味。旧都はこうじゃなくっちゃね。久しぶりだ」
 つるつるの膝小僧に空けた猪口をのせて、萃香はさとりを見た。
「今日はこいしちゃんを探しにでも出てきたのかい?」
 細めた瞳に、火鉢の火が燃えている。
「だって、お寺の連中が来るって話だったでしょう。近頃あの子がたまに顔を出しているっていうし、挨拶がてら地上での様子でも聞けないかと」
「でも結局、宴会にやってきたのはあの正体不明娘だけだったわけ、だ」
「ええ」
 ほかの連中は、寺をこっそり抜け出そうとしたところを、白蓮に見つかって連れ戻されたという。今頃は全員正座で説教の真っ最中だろう。
 さとりがぬえから聞くことができたのは、そういう話だけだった。
 座敷に入り込む風は意外と冷たくはない。入り組んだ路地をつたって、大通りの賑わいが聞こえてくる。
 地底の夜はまだまだこれからだ。
「なんか、変わったもんでも見えたかい?」
 二杯目の猪口を、萃香はゆっくりゆっくり飲んでいる。
「変わったものというか」さとりは、そろえていた膝を崩して、より深く座り込んだ。「あなたの心に見えるものはいつも違います。妖怪としての経験が、段違いですから」
「そうかな?」
 おべっかを使われたと思ったか、萃香のこめかみにさざ波が寄る。
「そうかなあ」
 いつからだろう。
 さとりも、はっきりは覚えていない。ずっと前から、二人はごくたまにこうやって顔をあわせ、そのたび萃香がさとりに心を読ませる。そんなかかわりが、続いていた。
 地獄が移転し、地霊殿が建てられ、鬼が旧都にすむようになって以降のことであるが、地底の妖怪たちの間にその姿が見られなくなったあとも、萃香はこっそりさとりのもとへやってきた。
 地霊殿にもペットが増えてにぎやかになると、こうして旧都のはずれで、人間の真似事で妖怪のやっている割烹もどきに、二人して潜りこんだりしている。
(秘密にしよう、なんて言われたことはないけれど)
 心を読むに、どうも萃香は店の者の関心を「疎」にしているふしがある。仲居は酒を運んでくるものの、座敷を出ればさとりたちの顔を忘れているのではあるまいか。
 萃香はすでに地底の住人とはいえないが、なにしろ鬼たちを率いていた一人である。地霊殿の主たるさとりと、鬼をはじめ地底の妖怪たちとは、お互い用がなければ近づかないという雰囲気があった。なんとなくその前提を崩すべきでないと思うさとりにとっては、人目につかないのならそれに越したことはない。  
「そうですね。しいて想起するなら」
 畳に落ちた鬼の影が、ぎくりと硬直する。
「おどかしてやろうとして、夜道で侍のさした刀の鞘をつかんだら、意外と剛の者で引っ張り合いになったあげく、見た目からただの子供だと思われて飴ちゃんをもらったというのは、あれはどのくらい前の話ですか?」 
 空になった徳利がすべり落ちる。ころころ、さとりの膝まで転がってきた。
「おどかしてやろうと、夜の松原で女官の連れに分身を放ったら、やっぱり鬼と思ってもらえないどころか、『きゃーかわいー』って一人一体ずつお持ち帰りされそうになったというのは、これはいつごろの」
「あいや。あいやしばらく待たれよ、さとり殿」
 膝立ちに腰を浮かせて、鬼はうろたえる。ずるずる部屋を這い回ったあげくに、床の間の一輪挿しを手にして明かりにすかして眺めたりしている。イイねー綺麗だねーどうだい見たまえよキミ言葉など無粋と思わないかね。
 夾竹桃に似た、より毒々しい色の花である。こういうところ、つくづく妖怪は人間に及ばない。風流の器をつくっても中に入れるものがない。もしくはズレている。山の天狗や河童たちのように技術革新とやらに汗するのはいいが、絵画や音楽など、人間の芸術に関心を示す妖怪の増えることを、ひそかに期待するさとりである。
 が、まあそれはそれとして。
「手だけ実体化して、通りがかる人間の着物の襟をつまんでからかったこともありますね? 可愛い手だと話題になって、ときの貴族から結婚を申し込む歌を贈られたというのは――」
「はい、そこまで!」
 飛び掛られて押し倒された。本日二度目である。
 さとりの胸元にあごをのせて、萃香はふもー、と鼻息あらく角を振りたてた。
「……前々から思っていたんですが。どうしてそんなに可愛い外見なんですか?」
「う、うるさいな! 可愛くないよりいいだろ!」
 そりゃ、そうだ。
(でも、可愛いっていわれて、正直喜んでますよね?)
 そこまでは口に出さない。経験を積んだ覚り妖怪は、引き際を見誤らないのだ。




 乳をさぐる赤子の手よろしく、さとりの喉から首元に、萃香の指はうろついている。簡単にへし折れそうだな、との物騒な思考を、さとりは穏やかに見上げていた。
 火鉢の炭が、ばちんとはじける。
「あー、もう」
 萃香はさとりの上からごろり転がって横たわる。不意にくすくす笑いだした。
「ありがとな」
 畳の感触が手足の熱を奪う。さとりは横向きに起きて頬杖をついた。
 鬼は、かすかに笑みを浮かべて目を閉じている。
 面白いくらい波立っていた感情が静まり、穏やかに凪いだ心の海が、どこまでも広がっている。老境の宗教者じみた枯れた余裕である。もっともさとりの知るかぎり、人間のたのみとする坊主や神官たちが、彼らの口にする教えほどに、清浄で澄み切った内面をしていることは、むしろまれであるが。
 ひとときこうやって過ごしたのち、萃香はかならずさとりに礼を言う。密会の終わりのサインである。
 その感謝は、あらかじめ用意されたものではなく、前触れもなく彼女の思考と声とに同時にあらわれるから、さとりはいつも戸惑ってしまうのだ。
 そうでなくとも、心を読んで感謝されるのは面白くない。鬼が何やら一人で気持ちよくなっている一方で、さとりはいつも、別れ際に憂鬱になるのだった。
 と、いうことを思い出して、余計不愉快になる。腹立ちまぎれに鬼の鼻をつまむ。唇を引っ張る。
「あははは」
 少しも堪えていない。ならば奥の手だ。
 立派な角を囲んで流れる髪に指を突っ込んでかきあげ、露出した耳に口をよせた。
「好きです」
 みごとな腹筋運動で跳ね起きた。小鬼の中で、自分の言葉が反射弾幕のごとく跳ね回るのを、さとりは愉快に眺めた。
「な、なんだい」
「うふふ」
「そりゃ、お前のことは嫌いじゃないけど。でもさ」
「――そう、こいしが言うのですよ。近頃。帰ってくるたび」
「なんだよう」
 膨れた頬に、血管の網が浮かんでいる。
 ――お姉ちゃん、すき。
 まるで空気と変わらない声。こいしはそして、関係のない話を始める。吸い込んだその声はさとりの肺の底で、丸石になっていつまでもころころ、転がっている。
 火鉢に網をかけて炙っていた干物をつまんで、萃香はふうふう吹いている。眼のない魚はワラスボそっくりだ。
 ぐいと噛み千切り、残った尻尾をさとりに突きつけた。
「よかったじゃん。悪い気はしないだろ?」
「わからない」
「何がさ」
 あぐらをかいた膝を鬼はぴしゃりと叩く。どこかで喧嘩でもはじまったか、喝采と怒号がきれぎれに聞こえた。
「好き、っていわれたらどうします?」
「そりゃ、相手によるだろ」
 そう答えつつも、萃香は具体的に人妖の幾人かを思い浮かべている。なんだか妬ましい。
 猪口に残った酒を、さとりは喉に流し込んだ。
「お腹がすいた、といわれたら食べるものを出してやればいい。眠たい、なら布団をしいてやればいい。そうでしょう」
「まあ、のめる要求ばかりとは限らんがね」
 萃香は陰のある笑みを浮かべる。
「でも、好きだ、っていわれたら? 一体何をしてあげればいいの。私に、何ができるの?」
 うっわー。
 めんどーくせー。めんどい女だなコイツ。
 墨で縁取ったようにくっきりと声が聞こえた。――重いしキモい。どうしようもないね。
「ほら」
「え?」
 鬼の行動は、さとりの読心よりも機敏だった。
 たくましい腕。
 果物でも拾うかのように、さとりはあっさり全身をひったくられていた。押し付けられた胸元からは、かすかに枯れ草の匂いがした。
 座敷から鬼が飛び上がる。みるみる縁側が、庭が遠くなり、石をのせた板屋根、灯篭の明かりが足の下を過ぎる。
「お勘定が」
 耳元で鬼が、かかかと笑う。
「律儀だねえ。ツケといてくれるさ」
 夜は明るく、賑々しい気配が近づく、大通りの方へ進んでいるようだ。小道にはみだした酔っ払いが、蹴躓いて転ぶ。悪罵が聞こえた。
「誰かに、見られたら……」
『大丈夫』
 萃香の声は、振動になってさとりをふるわせた。
『私は見られてないから』
 周囲には、淡い煙のようなものがたなびいているだけ、小鬼の姿はどこにもない。煙のくせにその縛めは強く、旧都の屋根の上を、さとりは抵抗もできずに運ばれていくだけだ。 
 高く低く。
 右に左に。
 そのうち、気づくものもいる。家の窓から顔を出すもの、通りを歩きながら指をさし、となりの連れの肩を叩くもの。
 するとまるで見せ付けるかのように、さとりの身体はくるりと回る。波をうって飛んだり、持ち上がって一気に落ちたりする。
 囃し立て、笑う声がする。
「萃香さん、やめて。やめてください」
『あんた、酔ってると思われてるよ。大丈夫』
 断片的にとどく妖怪たちの思考からは、萃香の言うとおり嫌悪は感じられない。
 思うまま振り回され、ほの暗い中空を行ったりきたり、歓声と拍手をうけて延々としていると、意識が細切れになってどんどん身体の外に放出していく。目の奥がちかちか瞬いて、くたびれた浮遊感に磨耗され、脱力した肉体は熱を帯びてくる。動機のない笑いが、唇の端からぽろぽろこぼれていく。
 ――また会いにくるよ。
 それが萃香の声だったか、心だったのか、さとりにはもう判別がつかなかった。








 肘掛のない曲げ木細工の椅子に、おそろいの白い丸テーブル。
 お気に入りのその場所で、さとりはもう小一時間ばかり、同じ姿勢で座り込んでいた。カップの紅茶は一口飲んだきり、すっかり冷めて黒い泡を浮かべている。
 暖炉が弱々しく燃え、カーテンがミルク色の影を床に投げる。そろそろ夜明けだ。ペットたちの食事を用意しなくては、と思いつつも身体が動かない。誰か気の利く子がやってくれればいいのに。
(燐……お燐)
 テレパシー、みたいなものを送ってみる。そういう妖怪じゃありませんでしたね。
 さとりをさんざん連れ回して、地霊殿のベッドまで送り届けると、萃香はどこへともなく姿を消した。泥みたいな眠気がすぐ押し寄せてきたものの、なぜか目が冴えて眠れずに、疲れた手足をベッドの中で持て余して、とうとう諦めてシャワーを浴びて茶をいれて、今にいたる。
「ふわ」
 生あくびが出て、目の端に涙がたまる。ひどい顔をしているだろうな、と思った。
 横合いから風が、濡らしたハンカチみたいに頬にあたる。目だけ向けると、バルコニーに面した窓が少し開いていた。
 ぼんやり広がっていた意識が一瞬で集束する。向かいの椅子に、こいしが座っていた。
「ひどい顔してるねー、お姉ちゃん」
 にこにこしながらこいしは手を伸ばし、テーブルに投げ出したさとりの手を探ってくる。
「……こいし」
 右手と右手。
 つながれたお互いの手が、何かの儀式のようにゆっくりと、目の高さまで持ち上がる。
 どんな夜を、どこで彼女は過ごしていたのだろう。旧都の上空を狂ったように飛ぶさとりを、ひょっとしたらこいしは見ていたかもしれない。
(あれは、鬼のせいなのよ!)
 などと先回りをしたものかどうか。ああ、心が読めれば、こんな心配をしなくてもいいのに。
 こいしの指に、ふと力がこもった。
「お姉ちゃん、腕相撲しよ!」
「え。え?」
「ほら、いっくよー。いち、にの、さん!」
「ちょ、ちょっと待って!」
 待ってくれない。
 ほとんど無抵抗に、さとりの手の甲はテーブルに叩きつけられる。もっとも、こいしは寸前で力を緩めてくれたようで、さして痛い思いはせずにすんだ。
「もう、なんなの……いきなり」
「お姉ちゃん……」
「こいし?」
 帽子のつばを引き下げて、こいしが何事かつぶやいた。聞き直そうと身を乗り出し、下から覗き込んで、さとりは驚いた。ふわふわの前髪の下で、明らかな怒りを湛えた目が、さとりを睨みつけている。
「お姉ちゃんなんか、嫌い!」
 こいしが立ち上がり、はずみでテーブルが跳ねる。ティーカップが落ちないかと意識をそらした間に、こいしの姿はもう消えていた。ただカーテンだけが、抗議のつづきみたいに大きくはためいている。
 斜めに引かれた椅子の上に赤い色が見える。こいしが残していったのは、妖怪割烹に置きっぱなしにしてきたさとりの靴だった。
(まさか、あの子)
 雪まじりの庭に、ひっそりとこいしは佇んでいたのだろうか。姉と鬼とがこもる座敷を、障子の向こうから眺めていたのだろうか。 
(お姉ちゃんなんか、キライ……)
 反芻するこいしの声は、さとりの胸をはずませた。好きといわれるよりずっとよかった。疲れも眠気も遠ざかっていた。
 とはいえ長続きするものではない。人間並みにきっちり休まないと参ってしまうことを、何よりさとりは自覚している。
 今のうち、ペットの世話をすませよう。
 こいしの持ってきた靴に履き替え、冷えた紅茶を飲み干す。暖炉の火を消すと、少し考えてさとりは、窓を開けたままにして、部屋を出た。





【了】
萃香とさとりの、ちょっとしたお話。
……のつもりで書いていたら、いつの間にかこいしちゃんがいました。


読んでくださってありがとうございます。
鹿路
コメント



1.名前が無い程度の能力削除
おもしろかったです。
2.名前が無い程度の能力削除
萃香ってこんなに可愛いんだ、知らなかった。
3.奇声を発する程度の能力削除
可愛さがあって良かったです
4.名前が無い程度の能力削除
好きより甘いキライがある
5.名前が無い程度の能力削除
すごい良かった。書いてくれてありがとうございます。
6.伊勢削除
さとり萃香……ですと……! 素晴らしいです!
攻守が入れ替わる展開にも心躍ります。悋気に駆られるこいしちゃんは実に可愛らしいですね。
>「お姉ちゃんなんか、嫌い!」
………………反芻してます。最高です。此度も素晴らしい作品を読ませて戴き寔にありがとうございました。
7.名前が無い程度の能力削除
すごいレアなものを見た心境。萃香とさとりでこんな話で出てくるとは。
最後の展開といい、ほっこりしました。
8.名前が無い程度の能力削除
会話、本当に上手ですよね。
ありがとうございました。
9.名前が無い程度の能力削除
この作品好きです