途方に暮れても陽はまた昇る
【登場人妖】
蘇我屠自古 …… 神の末裔の亡霊。本作の語り部。壺マニアだが鑑定は出来ないのですぐ騙される。
物部布都 …… 古代日本の尸解仙。屠自古の腐れ縁。怪しげな占いにハマっており的中率は66%。
豊聡耳神子 …… 聖徳道士。仙界の偉い人。最近はクラシックに夢中。大枚叩いてコンポを買った。
封獣ぬえ …… 正体不明の正体。妖怪居候少女。六本の羽のケアで精一杯で癖っ毛が直せない。
村紗水蜜 …… 水難事故の念縛霊。お寺の頼れる船長。自信作の沈没キャラメルカレーは大不評。
雲居一輪 …… 守り守られし大輪。大空を翔ける少女。宴会の腕相撲大会で鬼と伯仲し株が急上昇。
寅丸星 …… 毘沙門天の弟子。大酒呑み。こと飲酒に関しては方便の誤用を連発することで有名。
【第一話 ~ アンダーグラウンド・ヌエティック・レゾナンス】
こぼれた水をコップに返すことは出来ないのと同じように、いちど死んじまったら二度と生き返ることは出来ない。
そんなら新たな“生”を自由気ままにエンジョイしてやんよ、と死刑囚よろしく開き直った痴れ者がいる。
云うまでもなく――この私である。
大怨霊・菅原道真もビックリの雷鳴を幻想郷中に轟かせ、自慢の烏帽子は並み居る妖怪を睥睨[へいげい]し、正月に振る舞われた鏡餅のごとくモチモチな足は老若男女をひとり残らず虜にした。
東に怯える太子様がいれば滑空するハヤブサのごとく駆けつけてお守りし、西に威張り散らす物部あれば餓えた虎のごとく駆けつけて罵倒する。
ルックスなんてクソ喰らえなんて態度を取ってはいるが、太子様から「今日は綺麗ですね」と褒められると、その日は鏡と睨めっこして日が暮れる。野菜嫌いの物部を叱ってばかりいるが、その夜には美味しい野菜料理のレシピを考えてリベンジを企む。
太子様が見ているところでは清楚かつ上品に振る舞おうと心がけているが、物部とつるんでいる時は互いに中指を立て合って、往来を歩む連中の顰蹙[ひんしゅく]を買い続ける。
朝日が昇ると寝ぼけた太子様を床[とこ]から優しく抱き起こし(ついでに髪の匂いを嗅ぎ)、寝坊した物部に朝飯抜きの実刑判決を下してやり、仙界の門前で立ったまま寝ている死体を叩き起こし、朝帰りした邪仙に苦言を呈しては無視される。
料理とお菓子作りが好きで、ゴーヤと物部が嫌いで、好きでも嫌いでもないものは消しゴムであり、大好きなものは太子様で、大嫌いなものは邪仙である。
……要するに、自分で云うのも何だが、これでも中々に満たされた生活を送っているのだ。
だからこそ、今回の騒動は私にとっては歓迎できない非常事態であり、唾棄すべき最悪の顛末を迎えたのだということを、まずは念頭に置いてほしい。
でないと、私の面目が立たない。
◆ ◆ ◆
太子様が訳の分からん物体を仙界の道場へ持ち帰ってきたのは、夏も終わりに近い午後のことだった。
その日は例のごとく邪仙がおらず、仙界には私と太子様と、いなければ好いのに物部がいた。今から思い返してみれば、物部は出かける時は必ず私か太子様を同行させていた。そんでもって、外出先で吹っ掛けんでも好い喧嘩を売って派手に弾幕と相成るもんだから、同行する私の評判も地に墜ちるイカロスのごとく落ち込んだ。
大方、私と太子様が二人っきりになるのが許せないのであろう。あの手この手で「一緒に出掛けよう」と誘ってくる物部の小賢しい顔を見るたびに、私はその口に生のゴーヤを突っ込んでやりたい衝動に駆られる。
心の底が読み取れない深淵なる微笑みを浮かべながら我々の返事を待つ太子様に対して、私も物部も臣下として当然たる返答が口に出来なかった。
私は私でお菓子作りの書物をパタンっと机に落っことして口を半開きにしていたし、物部は物部で一丁前に“カベルネ・ソーヴィニヨン”のワインを呑んでいた手を止めて、やはり呆然としていた。
私と物部の行動が一致するのは大変に珍しいことだ。写真にでも収めて仙界美術館に寄贈した方が好い。
「……布都? 屠自古?」
埒が明かないので太子様は首を傾げた。物部の方が先に名前を呼ばれたのは、ぶっちゃけると大きなショックだったが、今はどうでも好い。
私は頭をぶんぶんと振ってから、レシピに付箋を挟んで本を閉じ、湯呑みから茶を呑んで心を落ち着け、ひとつ深呼吸を挟んでから口を開いた。
「太子様、そいつは何故ここにいるのでしょうか? 晩飯の具材ですか?」
「うちのペットにしようと思って」
私は耳の穴をほじくった。はしたないのは分かっていたが、現実を認めたくなかったのも事実である。
「ペットというと、アレですか?」
「えぇ、アレよ」
「奴隷ではなく?」
「もちろん」
「おやつのご用意をいたします。その妖怪は不味そうですが」
「へぇ、好いわね、この子と一緒に食べましょう」
「――なぜですか、太子様!」
ここで、ようやく物部が復活して声を上げた。他の者よりもワンテンポ遅れているのは、考え方や価値観の面でも、行動の面でも同じらしい。そんな塩梅だから、例の稗田の書物に“何処か古臭いのに伝統の重みを感じない”とこき下ろされる羽目になるのだ。
物部は勢い好くちゃぶ台に両手を突いて私の茶を台無しにしやがった後、太子様のお側に片膝を突いて大陸の忠臣のごとき調子で訴えた。
「い、犬や猫なら好しといたしましょう。ちなみに我は犬派でございますが、妖怪畜生などを飼うなど言語道断! いつ寝首を掻かれるやもしれませぬ。なにとぞ、何卒お考え直しを……!」
てめぇが犬派だろうが猫派だろうが知ったこっちゃねぇよ、と突っ込みたかったが、私も物部の意見に大筋で同意だった。ちなみに、私は猫派である。
太子様は微笑みを絶やさない。実に麗しい。ミロのヴィーナスなど及ぶべくもない。
「そんな毛嫌いしないで。この子は確かに妖怪だけど、心根は生臭坊主どものように染まり切ってはいないわ」
「ですが、太子様――今回ばかりは物部が正しいですよ。私も連中の一人を仙界に受け入れるなど、とても賛成は出来ません。今すぐ翼の一本でもへし折ってから、地上に帰してやるのが道理です」
「屠自古」
……その声を耳にした途端、私と物部は戦慄して地面に這いつくばった。太子様は滅多に怒らない。その代わり、ひとたび心が揺れると持ち前の能力をフル活用して怒りを表現するものだから、臣下の私たちは立ち所にひれ伏してしまうのだ――つまり、脳みその中身から胃の内容物まで全て見透かされているような気分になるのである。
「暴力はいけません。ご覧なさい、この子も怯えています。そもそも、君たちは妖怪と聴くと大げさに怖がるからいけない。先ずは話し合いが肝要なのです。私は生臭坊主のように人間と妖怪の平等などは考えていませんが、こうして同じ屋根の下で住まうことで学べる物もあると踏んだのです。そのためにも、先ずは語り合い、認め合う姿勢が必要になってくるのです――分かって頂けましたか、布都、屠自古?」
『しょ、承知いたしました……』
我々はおでこを畳にくっつけて同時に答えた。こうなると、もはや止めようがなかった。発射されたロケットと同じだ。
太子様は満足げに頷いた。“話し合いが肝要”などと仰ってはいるが、太子様はそこらの連中と違い、やる時は断固としてやる御方である。千四百年前の崇仏論争から続いた一連の騒動の際も、“話し合う余地ナシ”と判断するや否や、私の父と連合して物部氏を文字通り木っ端微塵に粉砕してしまった。
隣で物部は微かに震えていた。雨に濡れた子猫のようだ。また何かやんごとなきトラウマでも思い出したのであろう。
□ □ □
自分でも悪い時代に生まれたものだ、と思う。
神道だか仏教だかの争いに巻き込まれ、妖怪には連夜怯えて暮らし、泣いたと思ったら笑って、笑ったと思ったら泣いて、太子様と睦み言を交わす時間は少なく、物部はいついかなる時もウザかった。
その総決算が“千四百年も地下で待ちぼうけ”なのだから、好く性格がひん曲がらなかったものだ。これに関しては自分で自分を褒めてやりたいというか、私が他人に誇れる唯一の美点でもある。それくらいに、千四百年という年月はニシキヘビのごとく長かった。
私が妖怪嫌いになったのも、実にこの幾星霜という時間が降り積もった、その当然の帰結と云える。
霊廟にほのかな変化を感じ取って狂喜したのも束の間、真上に図々しい関取のごとく妖怪寺が建ったのだから絶望するのも無理からぬ話だ。後から聞くと、どうやら妖怪寺が落成したことが逆に刺激となって太子様の復活が早まったなんて話もあったが、そんなことで私の喜びを底なし沼に変えやがった罪は拭えない。
物部は人里で毎回のように妖怪との間に悶着を引き起こす。
その仲を取り持って調停するのが私の引き受けたくもない役目であったが、こと妖怪寺の連中とイザコザになった時は私も物部に加勢して雷を落とすもんだから、後になって方々から叱られる羽目になる。
それでも、太子様だけは私たちを叱ったりはしなかった。いつも困ったことになりましたねぇ、と苦笑いして責めるようなことはされない。私と物部は幼い子供のように太子様に、妖怪寺の連中への不平不満をぶちまけたものだ。民を導く聖人に相応しい笑みを浮かべながら、太子様は我々の話を聴いてくれた。
今回に限って太子様が怒りを露わにされたのは、私にとっても、物部にとっても予想外であった。
□ □ □
「好いか、我は見ておるぞ。少しでも不審な真似をすれば、服に火を点けてやるから覚悟せよ」
「私だって好きで連れてこられたんじゃないわよ。こんな所、さっさと出ていきたいもんだわ」
その妖怪は、本日で初めて言葉を発した。
おやつのどら焼きを食べ終えた太子様が散歩に出かけた後、残された我々の間に漂った空気の重さといったらない。地球の重力が四倍になったのではないかと思われた。物部は鷹のように眼光を鋭くして、口元にどら焼きの餡子をくっつけているし、妖怪は妖怪でぶすっとふくれっ面をしながら、やはり口元に餡子をくっつけていた。
女の子のお菓子好きの血は、怨霊にも仙人にも妖怪にも平等に流れているらしい。
争いを起こしてはならない、先ずは話し合いが肝要だ。
私は太子様の仏教の経典よりも百万倍有り難い御言葉を思い返しながら、湯呑みを置いて口を開く。
「まぁ、取り敢えず自己紹介といこうか。私は蘇我屠自古、ちっこいのは物部布都――お前の名前は?」
「ちっこいは余計だ、蘇我」
妖怪は紅い瞳をギラリと光らせると、二色三対の翼をはためかせた。
「……封獣ぬえよ。覚えておきなさい」
私と物部は視線を交わした。
「へぇ、鵺鳥の妖怪か。昔は夜に鳴く度に怖れられたもんね」
「懐かしいな、蘇我。それに比べて、おぬしはなんだ。怖がる要素など微塵も感じぬわ」
「……今は負けたばっかりで調子が出ないだけよ。あんたらなんて私の敵じゃない」
「云ってくれるじゃない。どっちの雷が優れているか確かめても好いのよ?」
「妖怪の分際で太子様に挑むなど片腹痛いわ。物部の秘術で成敗してくれよう」
「なり損ないの怨霊に、でき損ないの仙人が私に勝とうっての? それこそ片腹痛いってもんよ」
「よーし、物部。こいつを裸にひん剥いて里の往来に投げ込もう」
「それよか鍋にすると好い。妖怪と云えど鳥の類、さぞかし美味であろうよ」
“話し合う余地もない”とはこのことだ。第二次崇仏戦争の幕開けである。
しかし流石に妖怪も賢明であった。咄嗟に視線をちゃぶ台に走らせたかと思うと、物部が呑み残したワインボトルを指差した。里のスキマ輸入店で仕入れた安物だ。物部と二人で外界の品々を買い漁っている内に、“ごーるどかーど”とかいうスペルカードみたいな板きれを貰った。それを呈示すると店の者が一割引きしてくれるのだ。悪くない待遇であると二人して大いに感心した。それ以降、スキマ輸入店とは懇意にしている。
「そのワイン、私も好きなの。スキマんとこで売ってるやつでしょ?」
物部が戦国時代の策士よろしくニヤリと笑った。
「おう、おぬしも酒好きか。ならば話は早い。二対一では不利であろう。ここはサシで呑み比べといこうではないか」
「望むところよ。白蓮も真っ青の、私の呑みっぷりを見せてあげる」
「蘇我、貯蔵しておるワインを持ってくるが好い。これは負けられん」
「てめぇ、そのワインは折半して買ったのを忘れてんじゃねぇのか」
「我が勝てば不問、こやつが勝てば我が自腹で補充する、それでどうだ?」
調子の好い奴だ。後で金欠になって太子様に泣きつく羽目になっても知らんぞ。
「分かった分かった、それで好いよ。やるからには負けんなよ、物部」
「無論」
私は大人しく立ち上がって――浮き上がって貯蔵庫までワインを取りに部屋を出た。
ふと振り向くと、物部と封獣ぬえがスキマ輸入店のワインの美味さについて激論を始めているところであった。
なんだか釈然としないものを感じつつも、私はふよふよと廊下を渡った。
□ □ □
世紀の大勝負は、結論から云うと引き分けに終わった。
ぐでんぐでんに酔っ払ってぶっ倒れた二人を私が介抱していると、太子様が散歩から帰ってきた。太子様は室内に毒ガスのごとく充満した酒の臭いにぎょっとした後、我々の様子を見て微笑んだ。相変わらず素晴らしい完璧な笑みだった。この笑顔のために仕えていると云っても過言ではない。
「やっぱり、こうなっちゃうのね、まったく」
「申し訳ないです、太子様。私も調子に乗って煽ってしまいました」
「好いのよ。これこそ幻想郷式の交流。これから楽しくなりそうだわ」
物部の頭を持ち上げて下に枕を挟み込みながら、私は主人を見上げた。
「……太子様、先程は失礼しました」
「気にしてない。私もきつく云い過ぎたし。君が案ずる必要はない」
「“互いを学び合うため”とか仰いましたが、本当の理由はなんなのですか。妖怪をペットにするなど」
太子様は、その厳かな雰囲気に反して意外と物腰が軽い御方である。どれくらいに軽いかと云うと、測量が面倒くさいので山のてっぺんから大岩を投げ飛ばした距離で土地を頂いてしまうくらいに軽い。そのギャップがたまらない魅力であり、私が仕え続ける理由でもある。
「……あなたには敵いませんね、屠自古」
「恐れ入ります」
太子様は笏[しゃく]から人差し指を離して頬を掻いた。その仕草を見るのも、これで何度目になるだろう。
「本当のことを云うと、大した理由はないんです。せっかく弾幕ごっこに勝ったのですから、何か貰うものがないと意味がない。ところが何も持ってないと云うもんですから、それなら身体丸ごと頂こうと思いまして――なんだか面白いことになりそうじゃないですか」
……太子様は、恐らく未だに嘘をついている。口調が急変して丁寧になるのがその証拠だ。だが主の心情を詮索するのも礼に欠けるので、私は腕を組んで苦笑いを返すことにした。
「食事の量を余計に増やさなければなりませんね、これは」
「手間を掛けるわね」
「向こうの連中が黙ってないですよ、これ。第二次崇仏戦争とシャレ込む御積もりですか?」
「あの僧侶はこの子を“本当に困った弟子”なんて云ってたし、厄介払いが出来てむしろ清々しているでしょう」
「弟子である以上は捨て置くとは思えませんが」
「そうかしら? 意外と薄情な坊主よ、あいつ。破門状でも送り付けてきそうなもんだけどねぇ」
太子様はケラケラと笑ったのだった。
□ □ □
私達と封獣ぬえは、何もこれが初対面という訳ではない。
むしろ、物部が喧嘩を吹っ掛ける妖怪寺の面々のなかでも、いの一番に喧嘩を高値で買い取る奴が何を隠そう鵺妖怪と、その連れの化け狸であった。
例の生臭坊主の意向に賛同しつつも、半ば居候である二匹の妖怪は喧嘩を断る理由を持たない。なので我々は太子様を代理して妖怪寺を“おままごと”と罵り、奴らは奴らで世話になっている坊主を代理して太子様を“コノハズク野郎”と罵った。
どちらも主人を代理して要らぬ騒動を繰り返すもんだから、いつしか人里の連中はこの泥沼の抗争を指して“傍迷惑的代理戦争”と名付けた。
すでに数え切れないくらい争いを重ねてきたためにどちらが勝ち越しているかは定かでないが、我々も連中も日頃のストレスを発散するという意味で、この争いを楽しんでいる節があったのは否定できない。未だに慣れない幻想郷の暮らしに私も物部もストレスを抱えていたし、連中は連中で居候として肩身の狭い思いをしているもんだから相当にストレスを溜めていたのであろう。
太子様の復活に最も危機感を募らせていたのは封獣ぬえであり、それに対抗して外界から化け狸を呼び寄せたのも封獣ぬえである。
穏健派らしい坊主共と違い、鵺と狸は間違いなくタカ派である。急進派である。左翼である。その片割れが我々のペットに成り下がって共に暮らすというのだから、流石は太子様だと尊敬する反面、これからの生活を考えると頭が痛くなる。
……逃げ出さないように首輪でも付けようかしら?
◆ ◆ ◆
同じころ、件[くだん]の妖怪寺は動いていた。
私が晩飯の用意に取り掛かっていた丁度その頃、ひとりの幽霊が妖怪寺の廊下を踏みしめて歩いていた。
妖怪寺――この稿では素直に命蓮寺と呼ぶことにするが――命蓮寺で幽霊といえば舟幽霊しかいない。誰もが御存じ、キャプテン・ムラサこと村紗水蜜である。
肩を怒らせ眉間に皺を寄せ、そわそわと視線を彷徨わせては廊下を進む。その日、生臭坊主――もとい、聖白蓮は例のごとく外出していて不在である。内々に相談事が出来るとなると、後は友人の入道使いか腐れ縁の大虎しかいない。毘沙門天の代理の部屋の前で立ち止まると、両手を窪みにかけて障子をババーンと開く。
「――寅丸、一輪?」
呼ばれて顔を上げたのは御本尊の寅丸星と、ハイカラ少女の雲居一輪である。二人は四角い机に向かい合って真剣に顔を突き合わせており、“ジャイアント馬場とアントニオ猪木のどちらが強いか”という物凄ぇ議論をしていた真っ最中であった。
「どうしました、船長。また誰かを沈めたのですか?」
「姐さんに見つかったら怖いわよ、程々にしなさいったら」
違うわよ、と舟幽霊は焦った。この胸騒ぎを伝えるための言葉が見つからない。
「ぬ、ぬえ知らない? まだ帰って来ないんだけど」
「あの子が夜更けまで遊んでいるのはいつものことでしょう。さして気にする必要があるとは思えませんが」
「水蜜ったら、ぬえのことになると我を失うわよね。おぉ、熱い熱い」
そう云って元妖獣と元人間の少女は笑い合う。水蜜は煮られたタコのごとく真っ赤になる。
「お使いならすぐに戻ってくるのよ。なんだか嫌な予感がするの。何かあったんじゃないかって」
虎も入道使いも、流石に笑みを引っ込めた。刺激せぬよう気遣いながら話しかけてくる。
「……先ずは落ち着いて下さい。船長が取り乱していてはクルーも従えませんから」
「そうね、今日いっぱいは待ってみたらどう? 無駄に騒いだら姐さんも心配するし」
そこで初めて、水蜜も取り乱していることが恥ずかしくなる。熱くなり過ぎて我を見失うのは毎度のことだった。
「……分かった、今日のところは待つ。もし帰ってこなかったら」
「ちゃんと心得てるわよ。なんだかんだで気になるしね」
水蜜は大人しく席についた。でも両手の指を絡めたり船長帽をいじったりと落ち着けない。
こういうのを第六感というのだろうか。
「ところで、船長。今日の夕餉は何カレーですか?」
腹の虫を餓えた虎のごとく唸らせて、御本尊が間の抜けた調子で訊ねた。
おかげで場の緊張は一気に弛緩してしまった。
「夏野菜のカレーよ。これも今夜が最後かもね」
「そうかぁ、もう夏も終わりかぁ……」
「この平和が続くと好いのですが」
「縁起でもないこと云わないでよ、まったくもう」
「あぁ、すみません」
三人はしばらくの間、縁側の奥に開けた眺望を、そして若葉の瑞々しい木々を眺めていた。
あんなに合唱していた蛙の群れも、今は秋の虫たちのオーケストラに舞台を譲ってしまっている。
この木々の葉が枯れて散ってしまうのも、遠い先の話ではないのだろう。
□ □ □
元人間の亡霊として(こっちは怨霊だが)、私も共感できるところはある。
自分だけ肉体を持たないのに、他の皆は確固たる肉体を持っている。私はこっちの方が快適だから普段は気にしていないが、ふとした拍子にその“差異”が気になってしまうことがある。例えば太子様が私の幽体の足で昼寝したいと仰られた時とか、物部と喧嘩している時に「このお化け大根」と罵られた時とか。
舟幽霊は念縛霊であるし、一応は視認できる姿を持っているのだから、完全に肉体がないと云えばウソになる。私の場合は太子様も物部も、果ては邪仙も一度は死んでいるような身なのだから、死の感覚を共有できて幸いなのだが、命蓮寺となると話が別のようだ。
自分以外に“死ぬ”という気持ちを分かち合える相手が、ただのひとりもいない。
それがどれだけ孤独を深めてしまうのかは知らないし想像もつかないが、他人事だと捨て置けない想いもある。
邪仙も何やら死体とは別に興味を示していたようだし、村紗水蜜とはじっくり腰を据えて話をする日も近いかもしれない。同族嫌悪で大喧嘩になる可能性も否定は出来ない。
……平和というのは時として乱されるものだが、それが平和を実感するための好い刺激となるか、それとも平和をぶち壊すことになる悪い刺激となるか、この見極めは非常に難しい。
願わくは今回の騒ぎが前者でありますようにと、私は思うばかりだ。
あっちかこっちか、どちらが優れているかで争い合うのは、私が生きていた時代だけに留めてもらいたい。
◆ ◆ ◆
こぼれた水をコップに返すことは出来ないのと同じように、いちど死んじまったら二度と生き返ることは出来ない。
そんなら新たな“生”を自由気ままにエンジョイしてやんよ、と死刑囚よろしく開き直った痴れ者がいる。
云うまでもなく……この私である。
睡眠をとる必要のない私は、仕方がないから夜の幻想郷をぶらぶらと散歩して、明け方になったら適当な境界に穴を空けて仙界へと戻ってくるのを毎晩の習慣としている。この夜の散歩をしている時が、いちばん自分が太子様や物部とは違った存在であると思い知らされてしまうために、勢いどうしてもセンチメンタルになりがちで困る。
そんな時は太子様の微笑みが恋しいし、あろうことか物部の束ねた銀髪が懐かしく思われてくる。我ながら情けない話だ。
幻想郷で暮らし始めた最初の頃は、夜こそ私の世界ぞ、と月を背景に飛び交う妖怪連中に肝を冷やしてしまい、慌てて逃げ帰って物部の寝床へ飛び込んだことがあった。物部が優しい言葉をかけてきたのはアレが初めてだった。一生の不覚である。痛恨事である。
――我が蘇我を守ってやる、安心するが好い。
……お前なんかに守られてたまるか、馬鹿。
さて、翌朝のことだ。
寝ぼけた太子様を抱き起こす。今日も髪の匂いは素敵だった。麻薬よろしくトリップしないよう気を付けなければならぬ。昨夜の晩飯だった“夏野菜カレー”を食い過ぎてしまったのか、やや苦しげな表情である。
太子様を起こしたら、次は物部の番だ。一発はたいても起きないのなら朝食を抜きにしてやるのだが、今日はそれも要らないらしい。昨晩は太子様と同様にカレーを食いすぎて、おまけに二日酔いときている。布団のなかでダンゴムシのごとく丸くなっている物部を起こすのも忍びないので、はたくのも止めてそっとしておくことにした。
道場の外に出る。偽の太陽の光が眩しい。鬱蒼と茂る仙界の木々は今日も活き活きとしている。徹夜なのかフィナーレを飾るのか、虫の声は細々ながら続いている。せめて太陽が天頂を過ぎるまでは鳴いていて欲しいと願う。
キョンシーはいなかった。いつも夜遊びして帰ってくる邪仙も、どうやら戻ってはいないらしい。意地悪く瞳を輝かせながら「おはようございます、蘇我様」と抜かしてくる少女の顔が、ふと思い浮かぶ。
□ □ □
「さぁ、起きろ。朝だぞ、朝。寺は早寝早起きじゃないのか?」
封獣ぬえは「ぬぅぅ」と唸ったきり目を覚まさない。こっちも二日酔いのようだ。なんてこった。
私は少女のあどけなさを残した寝顔を見つめていた。他に見るものもなかった。
昨夜は大いに盛り上がった。
物部とぬえの第二ラウンドがおっ始まり、もう備蓄が切れたと報告すると、あからさまに不満げな顔をしやがったので雷を落としてやった。太子様はグラスを片手に笑っておられた。なんだか満足げだった。こっちとしても、心を込めて作った料理を美味しそうに食べてもらったので悪い気はしない。
いつまで封獣ぬえは仙界で過ごすことになるのだろうか。太子様の心のうちは推測のしようがない。物部は相変わらず直情で冷や冷やさせられるし、邪仙は遊びに夢中で帰って来ず、せっかく用意した料理は余って翌日に持ち越される。
そんな歪[いびつ]な関係の私たち。生きているのか死んでいるのかも定義が難しい仙人と亡霊の一派。
車輪がぐるぐると回るように繰り返される輪廻を「付き合ってられるか」と抜け出した、はみ出し者の面々。
そんな曖昧な連中のなかに、同じく曖昧で未定義な、正体不明な少女が割って入ってきた。
生も死も、神仏も妖怪も、現実と幻想すらも、この世界では境界が定かでない。
平穏と混乱の境界までが乱されないことを、私は願うばかりである。
「ほらほら、居候なんだから手伝えよ。やるべきことは沢山あるんだから」
「寝かせて、あと五分、いや十分……」
「この野郎」
無理やり引っぺがしてやろうと、ぬえの肩を抱いた。太子様とは違い細身だが引き締まった体躯だった。背中の翼のおかげで発達しているのだろう。
「やだ、寝かせて、お願い――だるくて吐きそうなの」
「なら洗面器でも持ってきてやんよ。さっさと起きろってば」
妖怪は頑固だった。でもって強[したた]かだった。
いきなり身を翻したかと思うと、ドングリを抱えたリスのごとく私の幽体の足を抱きしめたのである。
「ぬわ、何コレ凄い。モチモチじゃない。マミゾウのモフモフに負けてない」
「あ、あんな化け狸と一緒にすんな。それに私の足は太子様専用だ。妖怪が気安く触るな」
「――ごめん、でも我慢できないの」
「……この野郎」
ぬえの黒髪に手を置いた。
寝癖で更に酷いことになった癖っ毛の感触は、少しだけ太子様に似ていた。
喧嘩し合ってた連中がたまに仲良くやってるのっていいですよね。ぬえと仙界組の話ももっと読んでみたいです。
いやスゲェ嬉しいんですがね 現在とこれからの成長を楽しみにしてる人に覚えられるって
屠自古いいですねぇ 神子ちゃんにはデレデレういうか女を感じさせるというか
俺の想像と嵌ってます 布都ちゃんにはツンデレなんですね 友人としてw
なにかに付けて火を付けて来そうな布都ちゃん おおらかだけど切れると怖い神子ちゃん
なんだかんだ言って家庭的なとじとじ その他まだ登場してない神霊組とぬえちゃんの
共同生活が楽しみです 次回も楽しみに待たせて頂きます! では名無し改め米太郎でした