さとりさまーぁ、と妙な甘え声が出たところだったので、気まずいことこの上ない。
少なくとも燐だけは。
「ごめんねー」
ふわふわした足どりでこいしは近づいてくる。目があった、と思ったら彼女はそこにいた。もともといたのだろうが、そういう偶然がないとなかなか見つからないのである。
「お姉ちゃん、留守みたいだよ。用事でしょ」
「い、いえ。いらっしゃらないなら、別に」
「わかったぞー」
ふっと視界から消えたと思ったら背中を撫でられ、身体が海老みたいに曲がる。
「毛づくろいして欲しいんでしょ」
「い、いや」
「おや? すると、爪きりかな」
「いえ、あたい、もう自分でできますから」
地霊殿の柱をカリカリやって怒られたりはしない。石の柱なんでこちらがダメージを受けるけれど。
「ごはんー?」
「さっき食べました」
「わかった、トイレの砂の取り替えだ!」
じっと見下ろした燐の目に何を感じたか、「きゃっ、こわーい」とこいしが姿をくらます。ホッとしたところで、今度は首筋に指を突っ込まれた。
「にゃん!」
広間の長椅子に場所をうつす。燐が身体を横たえると、伸ばした脚の上にこいしが跨る。
驚くほど軽い。
「自分でどうにかできるんですけど、あたい不器用っていうか雑なもんで、さとり様はこういうのお上手だから……」
饒舌なのは、こいしが遠慮なく燐の靴を脱がせたからだ。きれいにしているつもりだけど、大丈夫かな。
「ふむふむ」
ぐいと指を引っ張られて、右の足が反り返る。前かがみになったこいしが顔を近づけるので、ますます気になる。その、匂いとか。
「あー付け根のとこだね。確かに、見えるわ」
「ええ。ちょっといつ刺さったんだか、わからないんですが」
こいしの指が、燐の足の指の股にもぐる。中指の付け根あたりに刺さった棘は、見つけたときにはすでにけっこう深く埋まっていた。なんか痛いな、と歩いていて感じたのが何度かあったから、昨日くらいから刺さっていたのかもしれない。
「うーん」
痛痒い刺激に声を上げそうになる。目の前にこいしの背中があるので見えないが、棘の上をなぞって引っかかれたようだ。
「ちょっとやっかいだね、これは」
「あの。こいし様、別にいいですよ」身を起こすと、こいしを背中から抱いているような格好になる。「ちょっと痛いだけですから。別に放っておいても大丈夫で」
「駄目だよ! お燐、知らないの」
振り向いたこいしは白い顔で、燐を睨みつけた。
「刺さった棘をほっといたら、いつかは心臓に到達してぶすっと。ぶすっと刺さって、死んじゃうんだよ!」
「はあ……」
ぶるっと小さな背中が震え、燐の膝に伝わる。燐としては半信半疑、というよりほとんど疑っているが、なんとなく、こいしに任せておいた方がいいような気がした。
「じゃ、お願いします。こいし様」
「その言葉が聞きたかった」
二カッと笑ったこいしの姿が消え、上階の部屋のあちこちでドタバタ音がする。やがてそれが静まると、長椅子の燐の足元にこいしがかがみ込んでいた。
重さ数キロはありそうな肉切り包丁を持って。
意外にもこいしの手つきは注意深く丁寧だった。
それでも、足裏に包丁の刃先が触れるたび、燐の心臓はビクンと跳ねる。
「懐かしいな」
正直足の一本も覚悟していたが、こいしは包丁の刃を立てて、棘の上の皮膚を撫でるように削っている。棘の先端を露出させ、つまんで引き抜くらしい。
上体を起こして、右足を左の膝にのせてこいしに差し出したまま、燐は落ち着かない気分だった。
これがさとりなら、燐の不安を読み取って言葉をかけてくれるだろう。そもそもこいしだから不安なのだが、それは彼女が何を考えているかわからないからだ。
まぶたを閉じた「覚りの眼」が、こいしの額の横にゆらゆら浮かんでいる。姉のようにそれが見開いていたであろう昔、燐はただの黒猫だった。
「お燐の足、きれいだね」
こいしは包丁を置き、燐のくるぶしから下を両手で握って揉み解すようにする。
「そんなこと……」
「えい。十二指腸パラノイアのツボ」
激痛が走った。
「ったたたた! こいし様?」
「おやおや。お燐は、ちょいとお疲れ気味みたいだねー」
こいしは水泡がはじけるように笑う。さとりが帰ってこないものかと燐は玄関から続く広間を見渡すが、ほかのペットたちが遠巻きにこちらを窺う気配がちらちら感じられるばかりだ。
「さて。いけるかなー?」
手首をくるっと返したこいしの手に握られたのは、普通のピンセットである。袖をまくって、目を細めた。
「じっとしていて」
その言い方は、さとりに似ていた。
燐には不思議なことがある。人の姿に変じる以前、人の姿をしたものの心は、手に取るようにわかった。心より先に身体が理解していた。猫の身体をこすりつけるとき、相手はすでに悲しみ、ぬくもりを求めていた。木に登って威嚇すると、燐を害しようという意思がはっきり見えた。愛情にも、見せかけの愛情にも、猫の足は簡単に踏み込み、影も残さず立ち去ることができた。
それは覚りの妖怪のようでもあり。
今は、できない。人の心を得て、心のかたちを意識すると、目の前の他者の考えていることが、わからなくなった。
それに慣れるまでは恐ろしかった。まるで、髭と尻尾を切り取られて、高い塀の上を歩かされている猫の気分だ。
忘れかけた恐怖を、こいしといると思い出す。
「懐かしい、って何がですか?」
代わりに得た言葉というものの、なんという脆弱さよ。
こいしは答えない。黙れ、と言わんばかりに小さく首を振った。燐の足の裏に、ピンセットが冷たく触れる。
「えいやっ」
手を振り上げる。燐は痛みを感じなかった。
「うまくいったわ! すっぽり抜けたよ」
ピンセットの先に、羽虫の足のような黒い線がへばりついていた。
「あー、ありがとうございます、こいし様」
「こりゃ、木のすいばりだね。神社の板張りが、ささくれてるのかな」
燐はあぐらをかいて足の裏を見た。棘の刺さっていたところはちょっと赤くなっているばかりで、傷あとといえるようなものはない。
「お上手ですね」
「うん? うーん。前にもやったことがあるから」
こいしが立ち上がる。話しかけないと、いなくなってしまうような気がした。
「前にも? さとり様ですか」
「ううん。私のペット。話したことなかったっけ。私昔、恐竜飼っててさ。その子と仲良くなったきっかけが、足の棘を抜いてあげたことなんだ」
さらりと言われたが、頭に入りきらない単語が残る。恐竜?
「オレンジ色でね、角がおおきくて、鱗が硬くって。力の強い子だったの」
靴をはく燐の膝に、しゃがんだこいしが顎をのせる。仕方なく燐は、つま先を突っ込んだ靴のかかとを踏んだ。
「耳の後ろに長い毛が生えててね。軽く引っ張ってあげると喜ぶの。私のこと、食べたい食べたいってね」
つまり彼女が、「眼」を閉じる前の話、らしい。
「それ、怒ってたんじゃないんですか」
「そんなことないわ。あの子、幸せだったもの。地底に降りるときに、お別れしちゃったけど……。それにお燐だって、お姉ちゃんに食欲を感じたこと、あるでしょ。背中を撫でるあの指を、噛んでみたいとか思うでしょ」
「へ? いや、そんな……」
違う、と思いながら燐は強く否定ができなかった。けれどその恐竜とやらが幸せだったろうと、なぜか信じられるのだった。
猫車を押して岩だらけの斜面を駆け上がっても、足は少しも痛まなかった。こいしが「おまじないだよーっ」と最後に塗ってくれた、ひんやりする薬のおかげかもしれない。
「おまじない?」
「もう、棘を踏んづけたりしないようにってね」
それきりこいしが黙ったから、燐はいつものとおり、彼女がふらりとどこかに立ち去ったものだと思っていた。椅子から下りて靴をはき終え、ワンピースのしわをのばして玄関ホールへ歩き出すと、不意に背中から声がかかった。
「そのくらいしか、飼い主のしてあげられることって、ないんだよ」
振り向いたが、こいしの姿はすでになかった。
遠く旧都の明かりが雪に煙る。地霊殿からの道をはずれたこのあたりには、誰がいつ手がけたともわからない、石組みのあとや朽ちた櫓が、荒涼たる野原に散在している。地獄がまだ役割を果たしていた、それよりさらに前からあるとも言われているが、妖怪は歴史を重視しない。この廃墟もいずれ、風と砂に同化してしまうことだろう。
恐竜が地上から退場したように。
「こいしが飼っていたって。あの子がそう言ったの? そう……」
燐から話を聞いたさとりは、ぼんやりした笑みを口元にうかべて、真偽のほどは明らかにしなかった。
恐竜とは要するに巨大なトカゲであり、大昔に世界を支配し、その後滅びたが、いくらかは神となり天へ上った。海に隠れたものや、地底に降りたものもいたという。
こいしのペットが生き延びているかはわからない。が、広大な地底には妖怪も足を踏み入れない領域があちこち残されている。勇儀ら力のある者たちが旧都を取り仕切るようになり、札付きや流れ者たちはそういった場所に逃げ込んだ。彼らの中には、妖怪よりも古くおそるべき存在と出くわした者もいるかもしれない。
百足のように細かく根を張った巨木にもたれて座った。全身に、燐に触れたこいしの匂いが残っているような気がして、袖口やわきの下に何度も鼻先を押し付ける。人のかたちをしたものに触られると、いつもこうだ。ただの猫だった時代から、これだけは変わらず身に染み付いている。好きな相手なら嬉しくて、嫌いな人間に触られたときには、躍起になって毛づくろいをしたものだ。
番傘をかついで丘を登ってくる人影がある。
「おーい、おい」
燐に気がつくと、勇儀は寒風に突っ張った頬を人懐こく緩ませ、近寄ってきた。――この辺を散歩するのを近頃気に入っててね。猫、あんたもそうなのかい。
「――燐」
「ああ、そんな名前だったね。おりんりん」
「……あたいは、別に。活きのいい怨霊でも見つかればと思ってさ」
「へえ、どんなやつさ」
「恐竜だったやつ」
「竜だって?」
勇儀はぱっと破顔して、懐から出した林檎をしゃくりと齧る。
(しっかし)
こっそり盗み見た。波打つ豊かな金髪はオレンジ色っぽくもある。立派な一本角に、力自慢は言うまでもない。
「まさか、あんたじゃないよね?」
「うん? 何がだい」
こいし様の、ペット。
もちろんそんなことは口に出さない。
風が巻く。乾燥しきった枯れ枝が地面を転がってぶつかり、カラコロ、澄んだ音をたてた。
【了】
ポエティックな内容が迚もステキで、今日を戰う活力が湧いてくる様な心持ちです。
此度も素晴らしい作品を読ませて戴き寔にありがとうございました。
とても好きな雰囲気で、すらすらと読めました。面白かったです。
大ファンです、応援してます! これからも楽しみに読ませていただきたいと思います。
掛け合いが想像できるんですよね。
そして、荒野の情景も。
最後に勇儀が来て、アクセントになるのもいい。
素晴らしいの一言
お見事でした。
堪能しました。