虹というのは、大陸では不吉の兆しとして捉えられるらしい。
「と聞いたのですけど、実際どうなのでしょうか?」
「いきなり訪ねて来たと思えば、いきなり聞いてくるのですね」
「だって、身勝手なものですよね、妖怪とか神様って」
「はあ」
遠く聞こえるあぶらぜみの鳴き声と同じくらい、どうでもいいことだった。
呆れではなく、関心の無さから、紅美鈴は溜め息をついた。
紅い館の門前は今日も暑い。塀の影に座り込んだ姿勢のまま、気の無い視線で来訪者を見つめる。昼寝を邪魔されたこともあり、その瞼は少し腫れぼったかった。
「たぶん、そうだったと思いますよ」
「名前からして、あなたは大陸の妖怪ですよね? 現地の伝承に対して、そんなに関心薄くていいんですか?」
「こっちに来て、長いものでして。伝承どころか、言葉すらもう怪しいんです」
「確かに、すっかり日本語のイントネーションですね」
「お褒め頂けるとは光栄です。そのご褒美として、そろそろ寝かせてもらえませんかね? ただでさえ、寝付きにくい暑さなんです。このまま眠気が覚めてしまうのは御免ですから」
「寝付きにくい暑さなら、真面目に仕事をしてみては? あなた、門番ですよね?」
「到底、真面目にも動けない暑さですので」
帽子を、団扇のようにして扇ぐ。
「こんなにも太陽が煩わしい日に出歩くのは、人間だけで充分です」
「なるほど、しかし問題があります」
美鈴に相対する来訪者は、こちらの顔の高さに合わせるようにしゃがみ込む。陽射しを浴び続けているにもかかわらず、その表情は溌剌としていて淀みがない。長い髪に飾られる珍妙なアクセサリーが、陽光によって眩しく輝いた。
「あなたの言葉通りならば、こんな日に出歩くのは人間だけです。だったら私は、こんなにも元気良く出歩いて良かったのでしょうか。妖怪であるあなたさえ、だばだば腐っているというのに」
その声は、蝉の声など可愛らしいほどに姦しかった。絶妙にずれている言葉の内容も、恐らくはこちらを小馬鹿にしているつもりなのだろう。
もっとも、当の美鈴には、なんら響くものはなかったのだが。
「良いんじゃないですか? 私、昼寝好きですし」
「とことん腐っていますね。腐るのはキョンシーだけで充分です」
「女は腐りませんよ」
「女を捨てたように振舞っていても?」
「乙女も恥らうくらい、昼寝には甘美な心地がありますので」
話もそこそこに、美鈴は壁にもたれ掛かる。
ひんやりとした紅魔館のレンガ塀は、こういった暑い日にこそ真価を発揮する。館の主さえ把握してないであろうその事実に、美鈴はゆったりと身を委ねる。
そろそろ相手の問答に付き合うのにも、疲れはじめていた。
目を閉じて、奇妙に自信に溢れた顔ごと、情景すべてを視界から追い出す。優しい睡魔は、すぐ期待に答えてくれた。不本意にも覚醒し掛けていた思考を、ぼんやりと覆っていく。
「……伝承というのは、往々にして妖怪の弱点へと繋がることが多い」
心地よい闇に、光明の如く声が響く。
ありがたいものだとは言えず、美鈴にとっては迷惑以外の何物でもなかった。若しくは、ありがた迷惑といったところか。
「そんな伝承にも関心を寄せず、それどころか元気さえない。現状に甘んじて、事態の悪化を招いている典型的な例だわ。目に付くのはダメ妖怪とダメ妖怪と、やっぱりダメ妖怪。そしてなにより、駄目巫女しかこの地には住んでいない」
呆れながらも、その中に若干の興奮を孕ませた声が跳ね回る。
好い加減、そろそろ本気で寝させてほしいなと、美鈴は思った。
「やはりあなた様の判断は正しかったです、――様」
名前みたいなものは、ようやく訪れたまどろみによって、よく聞こえなかった。
「そんなあなた様とともに来ることが出来て、私は幸せです」
訳の分からない独り言とともに、前方の気配は離れていった。
こんな場違いな暑さの日には、妙な輩が散見されることもあるらしい。あの女性も、そんな類なのだろう。季節の変わり目が、それだけ人間や妖怪を浮き足立たせてしまうのかも知れない。
なにはともあれ、悪は去った。
美鈴は、上品にシエスタへと興じるべく、身体の力を抜く。
どぱあんと、白光が視界を塗り潰した。
「え」
喉元へと掴み掛かられたかのように、頭が覚醒する。
「ええ」
勢い余って大きく見開いた瞳に、大粒の水滴が降り注いでくる。
「えええ」
飛び込んできた周囲の情景は、大きく、本当に大きく様変わりしていた。
秋には似つかわしくない真夏の景色は、これまた秋には似つかわしくない夕立へと転じていた。雲ひとつなかった空は、清々しい青さなど滲んですらいない黒と灰によって塗り固められている。
所々が、ゴロゴロと明滅した。
自分を叩き起こしたのは雷かと、ぐしょ濡れた帽子を脱ぎ捨てながら、美鈴は思った。
思いながら空を仰ぐ内に、大粒の雨は小粒となり、勢いも弱まっていく。黒と灰の雲は灰一色となり、そのまま薄く白へと様相を変えながら、流れるように左から右へと動いている。
ものの数分もしない間に、もとの晴れた天気へと戻っていた。
前髪からぽたぽたと水を滴らせながら、美鈴はその光景を呆けた顔で見続けていた。
「あ」
その瞳に、鮮やかに映えるものがある。
「虹だ」
果たして、空には虹が架かっていた。
遠く見える一際険しい山――確か、あれは妖怪の山だっただろうか。その峰と大地とを、まるで橋渡しするかのように、七色のアーチが架かっている。
虹というのは、大陸では不吉の兆しとして捉えられているらしい。
久しく忘れていたその伝承が、姦しい声とともに脳裏をよぎった。
「そういえば」
溌剌としていた、その表情を思い出す。
青と白とを基調とした、一風変わった衣装を着ていた。長い髪はよく手入れが行き届いており、翡翠のような緑をしていた。
人間は分かる。妖怪も分かる。
だが、神様とは一体、なんのことなのだろう。
「知らない顔だったなあ、あれ」
すっかり水を含んでしまった帽子を絞りながら、美鈴は首をひねった。空に架かる虹は、勿論その問いに答えることもなく、薄くなって消えた。
秋なのになあと、嘆息だけがこぼれた。
「と聞いたのですけど、実際どうなのでしょうか?」
「いきなり訪ねて来たと思えば、いきなり聞いてくるのですね」
「だって、身勝手なものですよね、妖怪とか神様って」
「はあ」
遠く聞こえるあぶらぜみの鳴き声と同じくらい、どうでもいいことだった。
呆れではなく、関心の無さから、紅美鈴は溜め息をついた。
紅い館の門前は今日も暑い。塀の影に座り込んだ姿勢のまま、気の無い視線で来訪者を見つめる。昼寝を邪魔されたこともあり、その瞼は少し腫れぼったかった。
「たぶん、そうだったと思いますよ」
「名前からして、あなたは大陸の妖怪ですよね? 現地の伝承に対して、そんなに関心薄くていいんですか?」
「こっちに来て、長いものでして。伝承どころか、言葉すらもう怪しいんです」
「確かに、すっかり日本語のイントネーションですね」
「お褒め頂けるとは光栄です。そのご褒美として、そろそろ寝かせてもらえませんかね? ただでさえ、寝付きにくい暑さなんです。このまま眠気が覚めてしまうのは御免ですから」
「寝付きにくい暑さなら、真面目に仕事をしてみては? あなた、門番ですよね?」
「到底、真面目にも動けない暑さですので」
帽子を、団扇のようにして扇ぐ。
「こんなにも太陽が煩わしい日に出歩くのは、人間だけで充分です」
「なるほど、しかし問題があります」
美鈴に相対する来訪者は、こちらの顔の高さに合わせるようにしゃがみ込む。陽射しを浴び続けているにもかかわらず、その表情は溌剌としていて淀みがない。長い髪に飾られる珍妙なアクセサリーが、陽光によって眩しく輝いた。
「あなたの言葉通りならば、こんな日に出歩くのは人間だけです。だったら私は、こんなにも元気良く出歩いて良かったのでしょうか。妖怪であるあなたさえ、だばだば腐っているというのに」
その声は、蝉の声など可愛らしいほどに姦しかった。絶妙にずれている言葉の内容も、恐らくはこちらを小馬鹿にしているつもりなのだろう。
もっとも、当の美鈴には、なんら響くものはなかったのだが。
「良いんじゃないですか? 私、昼寝好きですし」
「とことん腐っていますね。腐るのはキョンシーだけで充分です」
「女は腐りませんよ」
「女を捨てたように振舞っていても?」
「乙女も恥らうくらい、昼寝には甘美な心地がありますので」
話もそこそこに、美鈴は壁にもたれ掛かる。
ひんやりとした紅魔館のレンガ塀は、こういった暑い日にこそ真価を発揮する。館の主さえ把握してないであろうその事実に、美鈴はゆったりと身を委ねる。
そろそろ相手の問答に付き合うのにも、疲れはじめていた。
目を閉じて、奇妙に自信に溢れた顔ごと、情景すべてを視界から追い出す。優しい睡魔は、すぐ期待に答えてくれた。不本意にも覚醒し掛けていた思考を、ぼんやりと覆っていく。
「……伝承というのは、往々にして妖怪の弱点へと繋がることが多い」
心地よい闇に、光明の如く声が響く。
ありがたいものだとは言えず、美鈴にとっては迷惑以外の何物でもなかった。若しくは、ありがた迷惑といったところか。
「そんな伝承にも関心を寄せず、それどころか元気さえない。現状に甘んじて、事態の悪化を招いている典型的な例だわ。目に付くのはダメ妖怪とダメ妖怪と、やっぱりダメ妖怪。そしてなにより、駄目巫女しかこの地には住んでいない」
呆れながらも、その中に若干の興奮を孕ませた声が跳ね回る。
好い加減、そろそろ本気で寝させてほしいなと、美鈴は思った。
「やはりあなた様の判断は正しかったです、――様」
名前みたいなものは、ようやく訪れたまどろみによって、よく聞こえなかった。
「そんなあなた様とともに来ることが出来て、私は幸せです」
訳の分からない独り言とともに、前方の気配は離れていった。
こんな場違いな暑さの日には、妙な輩が散見されることもあるらしい。あの女性も、そんな類なのだろう。季節の変わり目が、それだけ人間や妖怪を浮き足立たせてしまうのかも知れない。
なにはともあれ、悪は去った。
美鈴は、上品にシエスタへと興じるべく、身体の力を抜く。
どぱあんと、白光が視界を塗り潰した。
「え」
喉元へと掴み掛かられたかのように、頭が覚醒する。
「ええ」
勢い余って大きく見開いた瞳に、大粒の水滴が降り注いでくる。
「えええ」
飛び込んできた周囲の情景は、大きく、本当に大きく様変わりしていた。
秋には似つかわしくない真夏の景色は、これまた秋には似つかわしくない夕立へと転じていた。雲ひとつなかった空は、清々しい青さなど滲んですらいない黒と灰によって塗り固められている。
所々が、ゴロゴロと明滅した。
自分を叩き起こしたのは雷かと、ぐしょ濡れた帽子を脱ぎ捨てながら、美鈴は思った。
思いながら空を仰ぐ内に、大粒の雨は小粒となり、勢いも弱まっていく。黒と灰の雲は灰一色となり、そのまま薄く白へと様相を変えながら、流れるように左から右へと動いている。
ものの数分もしない間に、もとの晴れた天気へと戻っていた。
前髪からぽたぽたと水を滴らせながら、美鈴はその光景を呆けた顔で見続けていた。
「あ」
その瞳に、鮮やかに映えるものがある。
「虹だ」
果たして、空には虹が架かっていた。
遠く見える一際険しい山――確か、あれは妖怪の山だっただろうか。その峰と大地とを、まるで橋渡しするかのように、七色のアーチが架かっている。
虹というのは、大陸では不吉の兆しとして捉えられているらしい。
久しく忘れていたその伝承が、姦しい声とともに脳裏をよぎった。
「そういえば」
溌剌としていた、その表情を思い出す。
青と白とを基調とした、一風変わった衣装を着ていた。長い髪はよく手入れが行き届いており、翡翠のような緑をしていた。
人間は分かる。妖怪も分かる。
だが、神様とは一体、なんのことなのだろう。
「知らない顔だったなあ、あれ」
すっかり水を含んでしまった帽子を絞りながら、美鈴は首をひねった。空に架かる虹は、勿論その問いに答えることもなく、薄くなって消えた。
秋なのになあと、嘆息だけがこぼれた。
美鈴が虹を7色として捉えるのに違和感がありますね。