慧音は仕事中にメガネをかけてる。朱色の墨で、しゅるっと綺麗な円と、厳しくも優しいペケを繰り返し書き入れては時折数字を書いている。今までに習った内容を一定期間ごとに区切って理解しているかどうか試験をするらしい。そのまなざしは真剣で、後ろで物音を立てないように静かに本を読んでいてもいつのまにかそちらを見てしまっていた。いいな、あんなに一生懸命に見つめられて。いっそのこと私も答案用紙になりたい。
筆の走る音、私が本をめくる音、たまに首をぽきぽき鳴らす音、私が何度も姿勢を変える音。無音のように思えてたくさんの音が聞こえて一緒にいるんだなって思う。同じようなことをけーねも考えてくれてるのかな。構って欲しい。駄々っ子にはならないと決めているけれど、来てから挨拶もロクに無しでずっと採点してるのはつまらない。
あのメガネのレンズ一枚を隔てて何を見ているんだろう。レンズ越しの世界には一体何が見えているんだろう。答案用紙ではなくてこちらを向いて欲しいけれど、その時にはメガネなしで直接見て欲しいなぁ。だってあのレンズ一枚の距離ですらもどかしく邪魔に思ってしまうくらいには私は慧音のことが好きだから。
「ねぇ、けーねって目悪いの?」
手が止まったところでタイミングを見計らい質問してみた。知りたさ半分、構って欲しさ半分。
「まぁな」
「香霖堂の店主みたいにいつもかけなくていいの?」
「近眼じゃないから大丈夫だぞ」
「じゃあ何でメガネ? かっこつけ?」
ただでさえ聡明で意思の強い働く女性な慧音がメガネなんて装備したら鬼に金棒、虎に翼に並んで慧音にメガネ、とかいうことわざが出来てしまってもいいくらいだ。かといって慧音の性格からしてファッションとか、伊達や酔狂だとは思わないんだけどな。
「遠視なんだ。人間の齢に直すと私はまぁまぁ、ってとこだからな」
「えんし?」
「遠くのものは見えるんだが、近くのもの、たとえばこの答案の文字なんかは見えにくいんだ」
「じゃあ近くのものはメガネないとぼやけて見えるの?」
「そうなるな」
慧音は寺子屋だけでなくって歴史編纂の仕事もやってるし、人里の会議にも出席してそっちの事務作業なんかもたまにやってる。忙しなく働き、しかもそれは大半が文字を追っかける仕事ばかりだ。きっと目を酷使しているに違いない。
「どこまで遠ければ見えて、どこまで近付くと見えないの?」
「こら、妹紅、まだ仕事が終わってないんだ返してくれ!」
手を伸ばしてスッとメガネを取り上げる。ふぅん、思ったより軽いんだ。銀のシンプルなデザインで知的さましましだ。メガネのツルの内側が汗でほんのり湿っていて、何と言うかこう……クるものが、あるね。
「この距離なら見える?」
「……あぁ、見えるぞ」
「ここは?」
「見える」
「ならここは?」
「まだ見える、けど……怪しいな」
「じゃあこのあたりまでの距離の時は、レンズなしのいつもどおりのけーねで直接私を見てね」
ここから先だと慧音はぼやけてはっきりとした私の像が見えないんだね。ずずいと近付いて赤くなりだした慧音にもっと迫る。さっき答案用紙になりたいって思ったけどやっぱり訂正。私は私であり続けてこうやって慧音に一方的に見つめられるんじゃなくって見つめ合っていたいもの。さらに距離をつめていって、もうこれ以上近付いたらくっついてしまう!という所まで近付いた。
「も、もこっ、ちかい…」
「ねーぇ、けーね? 何で目つぶってるの?」
まつ毛がくっついちゃいそうなくらいの距離。
「え、あ、あぁ!? これはっ、これはだなあああの、あっ、のお前が近付きすぎなんだ!!!」
「けーね可愛い、ちゅーしたい」
「うっ、それを言うな…っ……」
「近くにいる時は、直で私を感じ取ってね」
本当は唇にキスがしたかったんだけど、それを我慢しておでこにキスをした。えっ?て物足りない慧音の腑抜けた鼻声をごちそうさま。つむったままになっている目頭めがけて手を伸ばして軽くマッサージしてあげた。
「あんまり根詰めちゃダメだよー?」
「んっ、すまない……」
「私もすねちゃうかもしれないしー」
「それは嫌だなぁ…」
「けーねの迷惑になることはしないけどね」
「うんっ…」
ぎゅうと慧音を抱きしめて、メガネは文机の上にほっぽりだして。やっぱり答案用紙なんかより私は私でいられる幸せに感謝すべきなんだ。
「少しならけーねのお仕事増やしてもいい?」
「内容によるな」
「今だけ私に構ってよ」
「ふふっ、しかたのないやつだな、もこ」
すっごく幸せ!