花落としの雨は季節を越え、世界を越えて今、椛を散らした。錦は汚され、蓆になり下がっている。雨が上がったあとには、そういった景色ばかりが広がっていた。
そういう光景の中に、私は佇んでいた。
靴の中まで雨水が浸食していて、とても気持ち悪い。脱ぎ捨てるといくらか水滴を零しながら、靴は泥に沈んでいった。露わになった足で踏みつけた椛は、私よりもずっとひやりとしていた。
服もずぶ濡れだった。まるで重石を身にまとっているかのような気分になる。これもまた、脱ぎ捨ててしまいたくなったが、腕が曲がらなかったので諦めた。それに、右手には、何か紙のようなものを握りしめていて、私はそれを手放すことが、どうしてもできなかったのである。
紙片もまた、私と同様に、ずぶ濡れであった。
何かしら書いてあったと見える黒い滲みが一面に広がっている。判読はかなわなかった。
とても、哀しかった。
雨が全てを奪ってしまったような気がした。何もかもを禊ぐように、洗い流すように――私から全部を奪ってしまったような。それが今、椛を汚しているように思われた。
私の身から落ちては不可ないものが、今実際に落ちてしまって、世界を汚している。そう思うとより一層哀しくなった。拾い集めようにも影も形もない。匂いすら重い雨の香に押しつぶされてしまって、ちらとでも嗅ぐことすら許されない。墨から抜け落ちた意味は、今や掬いようもないのである。
紙切れを握る手に、強く、力を込めた。
このまま、もう戻りはしないのかと思うと――哀しくって哀しくって、たまらなかった。
よしか、と声がした。夜を連れてくるような、碧い声だった。
私はほとんど意識せずに顔を上げていた。いつの間に俯いていたのやらわからない。だけど、ずっと敷き詰められた椛ばかり見ていたから、相当そのようにしていたのだろう。
よしか、と声が近づいてきた。私の目の前に、青い女が立っていた。
「こんなところにいたのね。……まぁまぁ、こんなにびちょ濡れになって」
靴まで脱いじゃって、器用なことに。呆れたように言いながら、女は私が脱ぎ捨てた靴を拾い上げて、血のめぐりが感じられない白い指でぷらりとぶらさげた。
「困った子ね」
そして、愉しそうに笑った。
――この人は、
私を、知っているのか。
穢れをびちゃりと踏んで、女がまた一歩、私の方に歩み寄った。
「お札、剥がれちゃったのね」
お札。私は握りしめた紙切れを見た。お札――これが、お札だったというのか。
虚無の空に灰色が交じる。どんどん交じる。もうひと雨降り出しそうな気配であった。
もし、さらに雨が降って、それに打たれれば、このお札だったものは、きっとぼろぼろになって、ついにすっかり跡形もなくなってしまうに違いない。そうなってしまったら、私はずっと雨の中、こうしていることになろう。なんの理由も確証もないままに、そう思われた。
それは、ただ絶望の雨だ。一縷の過去も残さぬ、冷たい雨だ。
「……そんなに哀しそうな顔をして。困るわ、私まで哀しくなっちゃう」
女の眉根が下がる。不可ないことをしたように感じられたものの、だからと言って自分の表情を自由にすることもできなかった。その機能もきっと、雨に流されていた。
女は纏った羽衣をふわふわと揺らめかせて、どこか幻想的にため息をついた。重い大気を少しだけ払った。
「そんなにお札を強く握りしめて――失くしてしまうと思ったのかしら」
そうだ、その通りだ。私はじっと彼女を見つめた。言葉が話せたら、この首がもっと滑らかに動いたら、私は彼女に、必死で肯定の意を伝えたことだろうに。
「図星みたいな顔してる」
蓮華のように、女は笑った。美しくて、母のようだと思った。実際の母の顔は、思い出せなかったが。
青白い腕が、こちらにすうと伸びた。伸びて、音もなく私の背後に回り込んで――私のとうに冷え切った体を、抱きしめた。
「ばかねぇ。もう何も失くさないのよ、あなた」
女はおかしそうに、愛おしそうに囁いた。
失くすものなんてもう、とっくに、何一つないのだから――。
「だから、ほら」
私から、冷たい体温が離れた。あ、と声が漏れた。初めて自分の声を聞くと同時、女が懐から紙きれを取り出したのを確認した。それには、墨で確かに「勅令」の文字が見えた。今度ははっきりと読めた。
お札だ――このお札は、
このひとが、私に与えたのか。
お札は、眼前に迫っていた。
「ずっと一緒、ね?」
しばらく、雨の降ることはなかった。
そういう光景の中に、私は佇んでいた。
靴の中まで雨水が浸食していて、とても気持ち悪い。脱ぎ捨てるといくらか水滴を零しながら、靴は泥に沈んでいった。露わになった足で踏みつけた椛は、私よりもずっとひやりとしていた。
服もずぶ濡れだった。まるで重石を身にまとっているかのような気分になる。これもまた、脱ぎ捨ててしまいたくなったが、腕が曲がらなかったので諦めた。それに、右手には、何か紙のようなものを握りしめていて、私はそれを手放すことが、どうしてもできなかったのである。
紙片もまた、私と同様に、ずぶ濡れであった。
何かしら書いてあったと見える黒い滲みが一面に広がっている。判読はかなわなかった。
とても、哀しかった。
雨が全てを奪ってしまったような気がした。何もかもを禊ぐように、洗い流すように――私から全部を奪ってしまったような。それが今、椛を汚しているように思われた。
私の身から落ちては不可ないものが、今実際に落ちてしまって、世界を汚している。そう思うとより一層哀しくなった。拾い集めようにも影も形もない。匂いすら重い雨の香に押しつぶされてしまって、ちらとでも嗅ぐことすら許されない。墨から抜け落ちた意味は、今や掬いようもないのである。
紙切れを握る手に、強く、力を込めた。
このまま、もう戻りはしないのかと思うと――哀しくって哀しくって、たまらなかった。
よしか、と声がした。夜を連れてくるような、碧い声だった。
私はほとんど意識せずに顔を上げていた。いつの間に俯いていたのやらわからない。だけど、ずっと敷き詰められた椛ばかり見ていたから、相当そのようにしていたのだろう。
よしか、と声が近づいてきた。私の目の前に、青い女が立っていた。
「こんなところにいたのね。……まぁまぁ、こんなにびちょ濡れになって」
靴まで脱いじゃって、器用なことに。呆れたように言いながら、女は私が脱ぎ捨てた靴を拾い上げて、血のめぐりが感じられない白い指でぷらりとぶらさげた。
「困った子ね」
そして、愉しそうに笑った。
――この人は、
私を、知っているのか。
穢れをびちゃりと踏んで、女がまた一歩、私の方に歩み寄った。
「お札、剥がれちゃったのね」
お札。私は握りしめた紙切れを見た。お札――これが、お札だったというのか。
虚無の空に灰色が交じる。どんどん交じる。もうひと雨降り出しそうな気配であった。
もし、さらに雨が降って、それに打たれれば、このお札だったものは、きっとぼろぼろになって、ついにすっかり跡形もなくなってしまうに違いない。そうなってしまったら、私はずっと雨の中、こうしていることになろう。なんの理由も確証もないままに、そう思われた。
それは、ただ絶望の雨だ。一縷の過去も残さぬ、冷たい雨だ。
「……そんなに哀しそうな顔をして。困るわ、私まで哀しくなっちゃう」
女の眉根が下がる。不可ないことをしたように感じられたものの、だからと言って自分の表情を自由にすることもできなかった。その機能もきっと、雨に流されていた。
女は纏った羽衣をふわふわと揺らめかせて、どこか幻想的にため息をついた。重い大気を少しだけ払った。
「そんなにお札を強く握りしめて――失くしてしまうと思ったのかしら」
そうだ、その通りだ。私はじっと彼女を見つめた。言葉が話せたら、この首がもっと滑らかに動いたら、私は彼女に、必死で肯定の意を伝えたことだろうに。
「図星みたいな顔してる」
蓮華のように、女は笑った。美しくて、母のようだと思った。実際の母の顔は、思い出せなかったが。
青白い腕が、こちらにすうと伸びた。伸びて、音もなく私の背後に回り込んで――私のとうに冷え切った体を、抱きしめた。
「ばかねぇ。もう何も失くさないのよ、あなた」
女はおかしそうに、愛おしそうに囁いた。
失くすものなんてもう、とっくに、何一つないのだから――。
「だから、ほら」
私から、冷たい体温が離れた。あ、と声が漏れた。初めて自分の声を聞くと同時、女が懐から紙きれを取り出したのを確認した。それには、墨で確かに「勅令」の文字が見えた。今度ははっきりと読めた。
お札だ――このお札は、
このひとが、私に与えたのか。
お札は、眼前に迫っていた。
「ずっと一緒、ね?」
しばらく、雨の降ることはなかった。