幻想郷の人里から遠く離れた場所、妖怪の山とは里を挟んで真逆にある広い広い竹林。
背の高い竹がひしめき合う様に伸びている竹林の中は薄暗く、変わり映えのしない景色が延々と続き、風に揺れる笹の音だけがうるさい位に耳に入って来る。
更に奥に進めば進む程イタズラ好きな妖精達がその数を増していき、時に弾幕に追われ、時にその特殊な能力に惑わされる。
そうして次第に自分がどこをどう歩いているのかわからなくなってしまうのだ。
普通の人が入り込めばほぼ確実に道に迷ってしまう、そんな迷いの竹林の奥にひっそりと佇む一軒のお屋敷がある。
そのお屋敷は永遠亭と呼ばれていた。
“りんりん”
太陽が天頂を過ぎて半刻程が経った永遠亭。
広い広いお屋敷の一室、診察室と書かれた札の下げられた扉を器用に開けて一匹の猫がするりと部屋に入って来た。
一言で表すなら黒い、二言で表すなら真っ黒い。
丁寧にブラッシングされた毛並みは黒曜石の様に艶やかで、二本の尻尾を清流に揺れる梅花藻の様にゆらゆらと動かしながらいつものポジションへ。
部屋の主である薬師の膝の上だ。
この時間の薬師は余程の事が無い限り机に向かって作業をしているのが常で、今日もいつもと同じように薬の調合を行っていた。
作業中の薬師の膝の上へ黒猫は音も無くするりと飛び乗り、薬師を見上げて挨拶をする様に一度だけ小さく鳴いてからいつも通り丸くなって目を閉じた。
一方の薬師も慣れたもので、部屋の扉が開けられた時にちらりと見ただけで特に何か行動を起こすでもなく、膝の上に飛び乗られても淡々といつも通りに作業をこなしていく。
そして特に会話も無く、けれど黒猫はそれも含めて今のこの一時を心地良いと感じていた。
ここに来始めた当初は辺りに漂う薬の独特の匂いが鼻に付いていたが、今ではすっかり慣れてしまったその香りは最早アロマテラピーと大差は無い。
膝の上はぬくぬくとしていて、ほんのりと薬以外の良い香りがして、太ももから伝わる決して乱れる事の無い脈拍はまるで子守唄の様。
薬研で薬剤をごりごりと挽く度に僅かに伝わる振動も良いアクセント。
黒猫にとってここは全てが自分を快適に眠らせる為に整えられたんじゃないかと錯覚しそうになる程に素晴らしい場所だった。
穏やかだ。
けしからん程に穏やかだ。
無論、敬愛する主の下に居るのが黒猫にとって至上の幸福である事は揺らぎ用の無い事実。
不意に作業をしていた薬師が黒猫の喉元を撫でた。
ここしかないと言わんばかりに気持ち良いところをピンポイントで、絶妙と呼ぶに相応しい最適な力加減で撫で擦る。
「ふにゃぁぁぁあん……」
それは、声が漏れるのも仕方が無い程に玄人の技巧だった。
――あぁ……センセー、そこダメ、ダメだよ、あたい墜ちちゃうよ、と黒猫は思うのだった。
黒猫は火車と呼ばれる妖怪だ。
人の亡骸を持ち去る事が妖怪として在るべき姿であり、またそれが黒猫の能力でもあり、そして黒猫の趣味でもあった。
死体蒐集といういかにも妖怪らしい趣味を持つ黒猫は、普段は地底の奥深くに存在する灼熱地獄の跡地で怨霊達の管理をしている。
その仕事の合間に地上へとおもむき其処彼処へと死体を捜しに行くのだ。
しかし、蒐集家という者は往々にしてその人にしか解らない自分なりの美学とでも言うべきコダワリという物を持っているもので、御多聞に漏れず黒猫もそのコダワリという物を持っていた。
黒猫の場合は、単に珍しいというだけではいけないらしい。
最近の例を挙げれば、ある日黒猫が“人としての形を保ったままの外来人の遺体”を見つけた事があった。
外来人というのはある種の結界で区切られたこの幻想郷に迷い込んだ、あるいは迷い込まされた人間をそう呼ぶのだ。
この外来人というのはイマイチ危機意識が足りない人間が多く、余程の幸運の持ち主でもない限り腹を空かせた妖怪達に文字通り骨すら残らず美味しくいただかれてしまうのが常である。
先に挙げた“人としての形を保ったままの外来人の遺体”もそんな妖怪達の被害にあったものだ。
中々に通な妖怪も居たもので、一番の珍味である脳や食べ応えのある腹部や手足には目もくれずに内臓だけ、特にサガリやコリコリというややマニアックな部位が物の見事に食べ尽くされていた。
このご時世、人里の外では頭部や手足に欠損の無い綺麗な死体などそうそう御目にかかれない。
もし黒猫が発見するのが後一刻でも遅かったなら、他の妖怪達に見つかって前述の通り骨すら残らなかったに違いない。
だが黒猫はそんな珍しい死体であったにも拘らず、最近出来た寺へと無縁仏として送り届けたのだ。
そのコダワリは恐らく黒猫本人以外に理解はできない類いの物なのだろう。
そしてそのコダワリがあったからこそ、火車と薬師――まるで接点の無さそうなこの一人と一匹がこうして一緒に居る様になった切欠が生まれたのだ。
それは薬師がたまたま往診で人里へと赴いていた日であり、黒猫が仏さんを送り届けた帰りの偶然の出会い。
言葉にすればただそれだけの話である。
黒猫が部屋を訪れてから早一刻が経とうとしている。
相も変わらず薬師は黙々と薬を作り続け、黒猫は膝の上で丸くなっている。
永遠の魔法が解けて久しいというのに、この場所だけは時間が進んでいないのではと錯覚してしまいそうになる。
そんな時だった、廊下から静かな足音が聞こえて来たのは。
「師匠、ただいま戻りました」
「お帰りなさい。御苦労さま鈴仙」
小気味良く戸を叩かれて薬師が返事をすれば、一人の少女が部屋へと入って来た。
頭頂部からピンと立った大きく白い二つの耳と真っ赤な眼は、この永遠亭に住む薬師の弟子にして月からやって来た兎に相違無い。
今日は置き薬の点検に行って来たのだろう、背中には大きな鞄を背負っていた。
「何か変わった事はあった?」
「いいえ、特には。今日は風邪薬が四つ、腹痛の薬が八つ、二日酔いの薬が百五十二個で……うわっ、猫!?」
「そう、いつも通りね。じゃあいつも通りに薬を整理しておいて頂戴」
鞄を下しながら定例の業務報告をする兎が黒猫に気付いて驚きの声を挙げたが、それに返って来たのは師匠のいつも通りの対応だった。
「あ、はい。って、あのー、師匠? その子、いいんですか? だって――」
「いいのよ。衛生面の問題は無いわ。むしろへたな人間よりもよっぽど清潔よ」
診療所に火車なんて、不吉じゃありませんか?
そう続けようとする兎の言葉を遮りながら、薬師は優しく黒猫の背中を撫で上げた。
今回は黒猫の口から声が漏れる事は無かったが、悶えるようにゆらゆら動く二本の尻尾は口ほどに物を言っていた。
「はぁ。そうですか」
「そうなのよ」
「まぁ、師匠がそう言うのなら。では私は薬をしまってしまいます」
「ええ、よろしくね」
薬師の言葉に兎はもうそれ以上気にしない様にしたのか、チラリともう一度黒猫を見ただけで後片付けへ移って行く。
手慣れた様子で壁沿いの大きな薬棚へと薬をしまう姿が黒猫には中々堂に入って見えた。
「鈴仙、その薬はそこじゃなくてその右下よ」
「えっ!? あぁ、す、すみませんっ!」
見えただけだった。
更に半刻が過ぎた頃、薬師は本日分の作業を終えて屋敷の縁側に腰掛けながら少し遅めの三時のお茶を堪能していた。
その膝の上には当然の様に黒猫が居座り、まるで置物の様にじっとしたまま動かない。
時折思い出した様に薬師が優しい手付きでその背を撫で擦ると二度三度と二本の尻尾が揺れる以外は。
静かな時間の中、暑過ぎず寒過ぎず爽やかな風が通り過ぎ笹の葉がせせらぎの様な音を奏で心を穏やかにしていく。
穏やかだ。
たまらない程に穏やかだ。
無論、敬慕する主の下に居るのが黒猫にとって羽化登仙の境地である事は揺らぎ用の無い事実だ。
しかしその時、背を撫でる手が極自然に腹の方へと回り込んで来た。
硬い頭蓋やしなやかな背筋に守られた頭や背中を撫でられるのとは訳が違う。
重要な臓器が密集していながら細い肋骨と薄い筋肉で覆われているだけの腹は他人に易々と触れさせて良い場所ではない。
本来黒猫にとって腹を撫でていい者は唯一人、尊敬し心服し心酔している主だけなのだ。
だがしかし、だがしかし。
「にゃふっ――ぅぅん」
――たまには浮気もいいよね、と黒猫は思うのだった。
お山の向こうへ陽が沈み、山の見事な紅葉ごと空は茜色から藍色へと染まり始めた。
薬師は既に黒猫と共に診察室へと戻っており、再び机に向かい数冊の本を広げながらその内の一冊にすらすらと注釈を書き込んでいた。
本の内容は医学、薬学、心理学と、どの本も医療に携わる者には欠かせない内容が綴られている。
これらは全て彼女の弟子たる月から来た兎のために彼女が自ら書き記した本だが、教え始めた当初は内容が高度過ぎて兎には理解できなかった物だ。
代わりにもっと初歩的な教材を渡して毎日教育を施してきたが、そろそろ兎も一段上の内容に手を付けてもいい頃だろう。
少なくともこうして注釈さえ付ければ今の兎なら充分理解は可能な域だ。
そんな事を考えながら作業している薬師の膝の上には当然の様に黒猫が乗っており、当然の様に丸くなっていた。
置物やぬいぐるみと見間違える程に動く気配は全く無いが、決して眠っている訳ではない。
黒猫は薬師の柔らかく理想的な肢体の上で、彼女の息遣い、彼女の鼓動、彼女の香り、彼女の温もり、それら全てを視覚を閉ざす事でより強く、そして体全体で感じているのだ。
穏やかだ。
まったりとしてほっこりとしていて実に穏やかだ。
しかし、突然黒猫が起き上がった。
薬師の膝の上から床へと音も無く降り立つと、静かに身体を緊張させていく。
二本の尻尾は天に向かってピンと張り詰め、鼻と耳は探る様に細かく動きながらも目線はある一点に固定されている。
まるで獣が獲物を見つけた時の射抜く様な視線の先には部屋の壁があるだけだが、黒猫が見つめているのはその壁の向こう側、即ち永遠亭の入口の辺りだ。
突然起き上がった黒猫をいぶかしむ薬師だったが、その視線の先を追いかけたところで何かに気付き、それと同時に屋敷の結界に反応があった。
薬師にのみ状況を知らせる警報型の特殊な結界が寄せる情報は、見知らぬ人間の反応が三つと竹林の案内人の反応が一つ。
この状況はつまりそういう事なのだろう、薬師は少し緩んでいた気を引き締め衣文掛けから白衣を手に取り、羽織りながら診察室を出た。
それに続いて黒猫も扉をくぐり薬師と並ぶようにその足下を進む。
依然として鼻を忙しなく動かしているが、しかし先程までの緊張は見られず尻尾もゆらゆら踊っている。
永遠亭の入口に近付くにつれてそれは顕著になり、鼻息もやや荒くなっていた。
「師匠! 急患です!」
辿り着いた玄関口ではちょうど寝台車に血塗れの男性が寝かされるところだった。
怪我人を連れて来たと思しき二人の男性は傍目には怪我一つ無いが、着ている着物はそこかしこが錆鉄色に染め上げられている。
そんな量の血が流れ出る程に、連れられて来た男性は素人目から見ても生きているのが信じられない様な重傷なのだ。
何せ右腕は肩から先が抉られた様に無く、左の脇腹は大型の獣に噛み千切られた様に半円状に欠けていた。
目は虚ろで見えているのかすらわからない。
口からは声にならない空気の出入りだけ。
血を失い過ぎた肌は青色を通りこして既に土気色だ。
「直ぐに手術室へ運びなさい。麻酔の用意もね」
「はい! 輸血用の血液はどうしますか」
「血液型も拒絶反応も調べている時間は無いわ。今回はO型の血液を使いましょう」
「わかりました!」
いつの間にか寝台車の上に飛び乗っていた黒猫ごと兎が手術室へと運んで行く。
玄関からその表情を見る事は出来ないが、踊り狂うかの様に激しく揺れる二本の尻尾を見る限り、おそらく鼻息荒く舌なめずりをしているのだろう。
あの黒猫はそういう者なのだから。
容易に想像できるその姿を脳裏に浮かべ、続いて薬師も踵を返して手術の準備を始めようとしたその時、患者を運んできた二人の声がかかった。
「先生っ! どうかっ、どうか茂吉の奴をよろしくお願いしますっ!」
「俺達の親友を助けてやって下さいっ!」
普通なら匙を投げ、いっそ楽にしてやるのがせめてもの救いだろう。
しかし、それでも此処なら、先生ならきっと、という彼らのその思いに答えるのが人の情という物。
薬師は振り返ってこう告げた。
「私に任せておきなさい」
「腹部の損傷は臓器に達してなかったからなんとかなったわ。さすがに腕は元に戻せないけれど」
「先生! ありがとうごぜぇます! ありがとうごぜぇますっ!」
「暫らくは絶対安静ね。少なくとも一カ月、長ければ半年。
それ後は寝ている間に衰えた筋力を元に戻すためと、かたわになった事で崩れた身体のバランスに慣れるためのリハビリ。
どれくらいかかるかは本人のやる気次第。きっと最初は歩く事はおろか真っ直ぐ立つ事も大変だと思うけどね」
「それでも命が助かっただけでも儲けもんだ。本当にありがとうございます」
手術は無事終了した。
ここでその内容を詳しく説明するのもやぶさかではないが、それはまたの機会に。
ただ、一言で纏めるとするならば正しくゴッドハンドの一言に尽きるだろう。
オーバーテクノロジーすら駆使して行われたその手術過程は、興奮し高揚し鼻息も荒く尾を振り回していた医療行為に関しては素人の黒猫でさえ瞬く間に意気消沈させるほどの手練手管だった。
おかげで黒猫は萎びた草木の様にへなへなと尾を横たえ耳を寝かせ、まるで好物を前にお預けを食らった気分に陥る破目になってしまったのだ。
けしからん。
真に持ってけしからん。
死神のお姉さん仕事しろ。
今日こそは間違いなくお持ち帰りできると半ば確信めいたものを感じていただけに、その落差は余りにも大きい。
そんな黒猫を薬師は慈愛に満ちた表情で見やると、先程の手術の折に魅せた指使いそのままの慎重にして大胆、優速にして精密な動きで黒猫の身体を撫で擦り始めた。
しかし黒猫の落胆ぶりはその程度で回復する様なものではなく、事実、そんな事したって機嫌は直らないぞと薬師を無言のままジト目で見上げていた。
冷たい視線に射抜かれた薬師はしかし怯む事無く、むしろその手の動きを更に大胆に変化させた。
喉の下やお腹という猫達に共通したナデナデポイントではなくその先。
即ち、黒猫本人が感じる部分だけを的確に。
その動きと想いの込められた指使いは正に愛撫と呼ぶに相応しく、強固な城門の様に固く閉じられていた黒猫の口から遂に艶やかな声が現れ始め――
「んっ、にゃ、はぁ……っくにゃぁ……!」
――あぁ、あたいもうどうでもいいやー、と黒猫は思うのだった。
「おかえりなさい、お燐。そう、またあの月の人間のところに行って来たの。随分とお楽しみだったみたいね。そうね、いいんじゃあないかしら、たまには浮気も。私は何とも思って無いから。別にいいのよ本当に。私以外の人にあんなところまで撫でさせてもね、本当に何とも思って無いわよ。そもそも私は主人、あなたはペット、それ以上でも以下でも無いのだから。そうでしょお燐? あら? どうしたのお燐? そんなに必死になって謝ったりして」