わたしはわたしをしらない。
わたしはいったいだれなんだろう。
どこかしずかなばしょでないていたことだけはおぼえている。
ただ、それだけ。
1
茹だる様な暑さ様はスイカを所望する!それと、冷たい麦茶!
……まぁ、わたしが望んでいるだけなんだけど。
里からの帰り道、静かな木陰の下、ひとり涼やかに。
とは言え、風も吹いてこないし、湿度は高いしで、涙のように汗が頬を伝う。
ここまで暑いと、溶けちゃう氷の気持ちも分かりそう。
そう言えば、湖の方に氷の妖精がいると、どこかで聞いた気がする。
この暑さだと本当に溶けていたりして。
見に行く様な気力は残ってないから、このまま帰っちゃうけれど。
からんころんと音を立てる下駄、ジージージーと鳴く虫の声。
空のキャンバスには青とまばらな白が描かれていて、そこを小鳥が弧を描く。
まさに真夏。けれどわたしは冬が好き。
コタツの中で丸くなった時の、あのぬくぬくとした感覚が好き。
夏の暑さは、全てを焦がしちゃう様な……そんな怖さがある、様な気がする。
早く帰らないと、身体中の水が全部抜け出ちゃう。
急いで帰って冷たい麦茶を飲まなきゃ!
スイカもあれば、嬉しいけれど。
2
「ただいまー!」
玄関を開けると、外より涼しい風が吹く。
“えあこん”とかいう外の世界のものらしい。
「おかえり、遅かったじゃないか」
と、エプロン姿でおゆはんの支度をしているお狐さま。
「ごめんなさい、少し木陰で休んじゃいました」
「何かに巻き込まれたのかと心配してな。
そうだ、麦茶とスイカがあるから、縁側で食べていなさい」
藍さま、わたしの大事な人、立派な式さま。
やっぱり、いつもわたしの欲しいものを的確に当ててくれる。
はーい、と返事をして、居間に入る。
机の上には、湯のみが2つに麦茶、そして2つのスイカ。
もう既に切り分けられて、準備されている。
これを持って縁側に向かい、藍さまを待とう。
おゆはんはお稲荷、揚げの準備だけだから、きっとすぐに来る。
待ちきれなくなりそう!
早く、早く!
3
「お待たせ。お、まだ食べてないのか」
十分程して、藍さまが来る。
「わたし一人だけじゃあ食べてても面白くないです!」
「スイカを食べるのが面白いのか?」
「藍さまと食べるのが面白いんです。今日も色々なお話を聞かせて下さいね」
藍さまの話はとても難しい。
三途の河の幅の計算では、ふーりえ?とかべぶれんかいそう?とかよく分からない言葉がたくさん。
けれど、話している藍さまはとても楽しそう。
だから、わたしもすごく楽しくなってしまう。
今日のお話は、一人ぼっちになったお人形。
鈴蘭畑でいつも独りきりで、友達が居ない女の子のお話。
「その子は友達を探しに鈴蘭畑から飛び出した。
霧の湖、迷いの竹林、太陽の畑、無縁塚……。
そうして、最後に友達を見つけたんだ」
「そのお友達はどなたなのですか?」
「それはね、一番最初からそばに居た、一体のお人形さん。
それに、鈴蘭のお花だったんだ」
「けれど、それじゃあ悲しいです。
わたしもお友達になりたいです」
「橙は優しいんだな……。
もしかしたら、そのお人形さんは里の近くにまで来るかもしれない。
その時は、声を掛けてあげような」
但し、絶対に鈴蘭畑には近寄らないこと、という釘を押されてしまう。
お友達、かぁ。
妖怪のお友達は何人かいるけれど、人間のお友達はそういえばまだいない。
紅白巫女とか白黒魔法使い、犬なんかはもちろん除外。
駆除されそうだったし、このお家のめぼしいものを持ちだされそうだったし……。
偶に神社で宴会をしているけれど、その時はすごく気さくに話しかけてくる。
本質的には良い人なのかな、とは思うんだけれど。
ぼーっと赤く染まる空を眺めていると、藍さまがおゆはんの支度を始めていた。
急いでわたしも手伝わなきゃ!
たまに藍さまに怒られちゃうし、しょぼんとしちゃうし。
3
「あら、今日もおいなり?」
よく分からないところからいきなり現れるのは、紫さま。
ふすまを開けずに変な黒い穴から飛び出してくるのは、日常になってる。
「今日もって言いますけれど、前に作ったのは一週間前ですよ」
台所から藍さまが言い返す。
里の豆腐屋さんには、結構な頻度だね、とは言われてる。
「まぁ、藍の作るおいなりは美味しいから良いけれど。
ねぇ、橙?」
「はい! ぜつみょうな酸っぱさとかんぴょうの歯ごたえ、すばらしいです!」
これは藍さまの受け売りだけど。けれど、美味しいことには変わらない。
「それにしても、こんな暑い日に買い物に行かせるなんて、
藍は悪女よねー……!」
笑いながらぺしぺし頭を叩かれる。
藍さまは、逆に紫さまを悪女と言ってたりもするけれど、
ふたりとも本心ではないのだろう。
そうこうしている内に、おゆはんの支度が終わり、ちゃぶ台に並んでいく。
いつもどおりの、団欒。
けれど、いつもがいつまで続くのか、分からない。
4
わたしが藍さまの式になったのは、つい最近のこと。
傷付いて動けなくなって、ここがどこかも分からない、そんなわたしを助けてくれた藍さま。
ここは幻想郷という場所で、わたしみたいな子がいっぱいいる世界だって説明をしてくれた。
藍さまのお手伝いをしている内に、紫さまの助言を受けて藍さまがわたしを式にしてくれた。
雨の降る暗い街で、不吉な黒猫と罵られ、石を投げつけられたあの日常とは全く違った。
暖かくて、とても優しい人たちに囲まれ、楽しい団欒の中で、美味しいお食事を頂ける。
そんな毎日が、わたしを不安にさせる。
いつまで続くのだろう、わたしはここにいても良いのか、なんて。
名前を下さった藍さまの側に、ずっと居られるのかな、って。
5
「橙、あなた……」
「橙、口から出てるぞ」
「うにゃっ!?」
恥ずかしい!
赤面してしまい、俯く。
それにしても、聞かれてしまった。
怖い現実が、わたしを押しつぶそうとする!
「大丈夫だぞ」
そう言って、藍さまはわたしをぎゅっと抱きしめる。
とても落ち着く、懐かしさを感じる感触。
「お前は、わたしの大切な子だ。
ずっと側にいてくれると、わたしもとても嬉しい」
優しい声。まるで、お母さんみたい。
「子どもだなんて……。
藍、貴女ったら処女懐胎しちゃったの?」
みたいな、よく分からないことを言い出す。
「それとはニュアンスが違うのでは……?」
なんて答える藍さま。
ちらっと紫さまを見てみると、なんか凄く笑顔。
でも、その笑顔をどう取れば良いのか。
「ねぇ、紫さま。わたしはここに居ても良いのですか?」
聞きたかったことを聞いてみる。
やれやれ、という感じでわたしの頭をぽんと叩く。
「バカねぇ。貴女はもう、わたしたちの家族よ。
年の離れた可愛い妹って感じもするわね」
と、言って下さった。
とても嬉しい。
こんな不吉と呼ばれ、蔑まれたわたしでも、誰かの家族になれるなんて。
嬉しくて、嬉しくて、目からぽろぽろと涙が溢れる。
そんなわたしをぎゅっと抱きしめてくれる藍さま。
そんなわたしを撫でてくれる紫さま。
わたしは、とても幸せなんだ。
だから、声を出して言おう。
この、感謝の気持ちを。
藍さまと、紫さまを交互に見つめる。
「ありがとう!」
大きな声で言おう。
「藍おかあさんと、」
息を吸って笑顔で。
「紫おばあちゃん!」