それは、むかしむかしのとおいみらいのおはなしです。
世界と世界の隙間に、幻想郷という、この世とあの世をないまぜにしたような変な世界がありました。
その世界では妖怪が歩き、女の子は飛び、妖精は甲高く笑い合い、男は肩身が狭いながらも頑張って生きていました。
そんな世界の片隅に、一人の少女がおりました。
少女は黄色くてさらさらした髪を持ち、黒くてふわふわしたスカートを身につけて、頭には大きな赤いリボンを結んでいました。
どこにでもいそうなこの少女の名前は、ルーミア。
幻想郷屈指の、という程でもなく、幻想郷唯一の、という訳でもない、割と普通の妖怪少女でした。
人を食べて闇を操るだけの彼女の一日は、それはとても簡単なものです。
太陽の光を嫌って闇を出し、あとは一日中ふらふらとしているだけ。
人間が自分の闇の中に飛び込んだのなら、それを食べて食事とし、
人間が闇の中に飛び込まない日は、人間以外の何かを食べて食事とします。
何の波もない毎日ですが、彼女はそれをまあまあ楽しんで生きておりました。
さて、それはある日の昼。
日時に興味のない彼女にとっては、つい昨日でありずっと昔でもある日のことです。
彼女はその日もふよふよと、あてもなく場所もなく、辺りを放浪しておりました。
高いのか低いのか、速いの遅いのか、前か後ろか、南か北か。
もとより無重力の海を漂うような飛び方である上に、彼女の周りはいつも暗闇。
自分がどちらを向いているのかも知らないまま、風の吹く方向へふよふよと進んでいた時のこと。
こつり、と、彼女の頭に何かが当たりました。
何かは頭の上で跳ねて、都合良くも彼女の手のひらに収まります。
彼女は暗い中目を凝らして、その手の中身を見つめました。
大きさは親指ほどでしょうか。それはやや土に塗れた、小ぶりな何の変哲もない小石でした。
「石の雨が降る天気」を聞いたことが無い彼女は、天気でないのなら恐らく、これは誰かから投げられたものだろうとぼんやり思います。
なけなしの興味をその石に少しだけ向けていると、またこつりと石が投げ付けられました。
闇の中、彼女は石の来た方へ顔を向けます。
耳を少しばかり澄ませると、なるほどそちらには確かに誰かがいるようで、
くすくすと囁くような笑い声がいくつか重なって聞こえてきました。
ぼーっとその声を聞いていると、三度目の「こつり」がやって来ます。
今度は石とともに、よく分からない粗野な言葉も投げ掛けられました。
口々に出る笑い声は一回り大きくなり、
どこか彼女から隠れるように話していたそれはやがて臆面もなく、
むしろ正面を切って、彼らは彼女を乏しめるような言葉を投げかけました。
ルーミアは馬鹿のような顔でその甲高い声をぼけっと聞きていましたが、やがてゆっくりと、彼らの方へ体を向けます。
そして相も変わらずのゆっくりとしたペースで、石を投げる声の方へと飛び始めました。
少しだけ、闇向こうの声に怯えが走ります。
五個目、六個目と増えていく石を体で感じながら、少しずつ彼女は声へ迫って行きました。
石を投げる声──人里の少年達は右手で次の石を握りながらも、いつでも逃げられるよう少しずつ後ずさります。
なにしろ「妖怪に石を投げる」なんて大した度胸試しではありますが、それで食われてしまっては元も子もありません。
それに誰か一人でも食われれば、この遊びをやっていた事が明るみに出てしまいます。
そうなれば、自分たちが慧音先生や親に怒られるのは明白です。なんとしても、それだけは避けなければなりませんでした。
そろそろ逃げよう、と誰かが口にします。
誰もが心の中でその言葉に同意しますが、目の前の闇の塊に背を向けようとする者はまだいません。
里の少年達は、今、一様に同じジレンマを抱えていました。
つまり、一番先に逃げた男になりたくないという気持ちと、食われたくはないという本能です。
幸い闇のスピードはゆっくりなので、いつでも逃げられそうな所ではあるのですが。
あの暗いのに、手を突っ込んでやる。
と、よせばいいのに誰かが呟きます。
こうなれば引くに引けず、少年達はもう誰も動こうとはしません。
心臓を早鐘よりも激しく打たせながら、少しずつ迫る闇を鬼気迫る眼で見つめます。
誰もが足を震わし、発汗し、何故だか両親の顔が頭に浮かんだ者さえいます。
闇は少しずつ迫り、やがてあと一歩という所まで迫った時でした。
ごつん、と。
緊張を解くような間抜けな音が、いやに静かな昼の森に届きました。
脳天に響くどこか懐かしい衝撃に、ルーミアはさすさすと頭をさすります。
見れば目の前には邪魔っけな木。どうやら、またもや自分は頭をぶつけたようでした。
闇の風物詩などと強がって見たりもしますが、やはり痛いものは痛いものです。
またそれと同時に、少年らからあまり良くない意味の笑い声が響き渡りました。
それは赤子でも顔を顰めるような不快な声でしたが、ルーミアはその声についてさえ、何かもの思うような事もありませんでした。
なにしろ彼女にとって石を投げられようが、自分が笑われようが、自分の生き方に関わる所は何もないのですから。
少年達の馬鹿みたいな笑い声は、やがて少しずつ遠ざかっていきます。
追いかけようとするも、闇の中ではさっぱり捗りません。
ルーミアは少しだけ闇を薄くし、外の光を取り入れて辺りの風景を眺めようとしました。
ぎらりとした太陽光線が、彼女の眼を焼きます。
今日の太陽は一際眩しいという訳ではありませんが、なにしろずっと闇の中の彼女のこと。
新緑でさえも彼女にとっては目に眩しく、これではろくに前を見ることすらままなりません。
仕方なく彼女は闇を元に戻し、遠ざかっていく笑い声に手を振って見送りました。
それから空きっ腹を抱え、彼女は木に寄り掛かり一休みをしました。
あれから何度か闇を薄めて景色を見ようとしましたが、やはり長い闇暮らし。
どうしてもその光に慣れる事は出来ず、結局今日も彼女は闇の中にありました。
なんとなく、太陽のある場所を勘で見上げます。
空に輝くうっとおしい天体、太陽。
いつもは気にも掛けない存在ではありますが、今日はその存在がひどく疎ましく感じられます。
ルーミアは夜が好きでした。
かの光玉が山の向こうに消え失せて、星や空がありのままの姿を取り戻す夜が好きでした。
なぜ太陽は昇るのかと、誰かおしゃべりな妖怪に尋ねた事もあったように思います。
確かその時は、なんだかよく分からない話をされて煙にまかれた覚えがありますが。
ルーミアの闇はしばらく薄くなっては戻りを繰り返し、やがて濃い闇色に戻ります。
太陽光に慣れる事を諦めた彼女は、ふわりと地から足を離し、やがてゆったりと空へ飛び始めました。
目指すは、光の下。
上へ、上へ、上へ。
彼女はいつも丸く作る闇の塊を、今だけ少し薄く作ります。
感じ取れる光の方向を目指し、少しずつ、しかし確実に太陽の方を目指します。
彼女にしては本当に珍しいことに、今の彼女にはとある目的がありました。
それは単なる思い付きですが、実行するに足る、面白みに溢れた思いつき。
ルーミアは闇の中でほくそ笑みながら、高度を着実に上げていきました。
やがてその高さは一本杉よりも高く、
妖怪の山に流れる大滝よりも高く、
無限の石段を昇りつめた先の冥界よりも高く、
かつて宝船が飛びまわった雲の海よりも高く。
日差しに当たり何度も倒れそうになりながらも、彼女は高みを目指し続けました。
やがて彼女が目も眩むような高さまで上り詰めたその時。
こつり、と、またもや彼女の頭に何かがぶつかりました。
どうやらそれは天井のよう。手で触れれば、空気と空気の境目に透明な板のようなものがあるのが分かります。
ルーミアはふと、これが天蓋というものかしら、と思いつきました。
人、あるいは妖怪が一人で飛べる高さには、実のところ限度があります。
地上から見上げる空はどこまでも続いているようで、一定の限界点がある。
その限界点の名前を、天の蓋と書いて天蓋と言いました。
ここを通るには、例えばきちんと理屈の通ったロケットを作りだすとか、天蓋そのものを壊すだとか、
何かしらの理屈を通す必要がありました。
しかし今の彼女にとってはどうでもよいこと。
ルーミアはしばらく天蓋をぺたぺた触り、そして満足そうに頷きました。
天蓋の先には、大きくて眩しくて、そして憎らしい太陽の姿。
親の仇のようにそれを見つめると、やがてルーミアはそっと両の手を広げました。
ぼやん、と、彼女の周りから闇が発せられます。
今まで球体に抑えられていたそれは簡単に破綻し、どろどろとした闇の沼を天蓋に形成していきました。
最初は太陽に比べてあまりに小さい彼女の闇も、広げてゆくにつれて、少しずつその差は縮まっていきます。
流石にまだ地上から見えるほどではありませんが、それでも闇は相当な広さへ流れていきました。
さながら膨張する宇宙を見せるように、彼女を中心に闇はどんどん広がっていきます。
両手を広げながらルーミアはその状況がやけに心地よく、闇の中、上下のない世界でそっと体を横たえました。
左耳近くにつけられたリボンは、ずっと小刻みに震えていました。
さて、その頃地上は、少しだけ困ったことになっていました。
太陽の近くに不思議な黒い何かが現れ、太陽を飲み込もうとしているというのです。
特に信心深くそれゆえ脆い人里の人間たちは、世界の終りだと嘆く者さえ現れるほどでした。
先ほどルーミアに石を投げた少年達だって、まさかそれが彼女の仕業とは思いもよりません。
誰も彼もが各々のやり方で、なんとか心の平静を守ろうと努めていました。
しかし半刻過ぎても、一刻過ぎても、闇は太陽の前から動こうとしません。
むしろここからでも分かるくらいに闇は広がっており、今にも太陽をすべて食いつくさんとしておりました。
そうして、ついに何人かの空飛ぶ人間が腰を上げる事になったのでした。
なにしろこの幻想郷と来たら、事件は空飛ぶ女の子が解決するものと相場が決まってしまっているのですから。
人間たちが飛び始めたその頃、増殖する闇の中、ルーミアは静かに休んでいました。
黒よりも濃い闇色の中に体を沈め、もう自分の目にはどこが手でどこが足なのかも分かりません。
頭のリボンは風のせいで少しばかり強くなびき、いまにも取れてしまいそう。
彼女の体はまるでそれに呼応するように、静かに、静かに闇の中へと溶けていきました。
これは、今年の初夏に起こった「日食異変」
その始まりのお話です。
東方御暗録────始まり始まり。
るみゃのぼんやり感は可愛かったけど、それ以上に作品全体のふわふわした感じがまた面白い。
時系列が分かんぬぇ。宝船だって、霊夢の時代の1000年前に飛んでただろうし。
あったかふわふわな話でした。