星を見た。
それはいつのことだったか。どこで見たのか。隣に誰かいたような気がする。けれど今となってはもう、思い出せない。
擦り切れたレコードが雑音しか流さぬのと同じように、擦り切れた記憶は雑踏のみを映していた。
『The World of Spirit』
「嘘から出た真」という諺があるが、私に言わせれば「真は嘘から出す」ものだ。
魔界の神を目の前にした時、私は咄嗟に人間界の神だと名乗った。そいつの存在感に気圧されぬようついた嘘であったが、その後本気で人間界の神になろうと思った。そして成った。
あんなのにできて私にできぬはずがない。造作もないことだった。
神になるということは世界の観測者となることだ。今私の視界は人間界を余すところなく映している。北方に広がる凍土も南方に点在する島々も、西方の諸都市も東方の里も、全てが掌の上にある。無論博麗大結界で区切られた幻想郷とて例外ではない。
朝方神社の巫女がのんびりお茶を飲んでいる様子だとか、夕方森の魔法使いが茸を採取している様子だとか、夜明け妖怪が花を眺めている様子だとか、異なる時間異なる場所異なる出来事を同時に視て、知ることができるようになった。
けれど彼らの瞳に私が映ることはない。それが、神となった代償であった。絶対の観測者は誰からも観測されない。故に絶対的存在なのだ。勿論絶対的である神の存在は観測されないことで消えはしない。消えるのはそう、この「私」だ。
最初に欠落したのは名前だった。それからどんどん過去の記憶が剥がれ落ちていって、次第に「私」という人格を形成する基盤が崩壊していった。
もうすぐ私は私を亡くしてしまう。ただ「神」という概念として世界に揺蕩うだけの存在となり果ててしまう……いや望んでこうなったはずだ!後悔なんてあるわけがない。
けれど今の私は零れ落ちる過去の記憶を見ようと目を働かせている。しかし断片的な過去のシーンを垣間見たところでそれが何だったのか、もうわからない。それでも……それでもなんだろう?
何だか上手く思考がまとまらない。限界かな。何の限界だろう。あぁ、私は誰だったか……私って何?考えるのはもうやめてしまおう。
ふいに、一つだけある言葉を思い出した。最近の記憶なのかはっきりとしている。けれどその意味はよくわからない。
「わたしはだぁれ?」
「魅魔!!!!!!!!!!」
掴まれた。何を?手を。私の手を。目の前に顔がある。金髪の女の顔。よく知っている顔だ。多分嫌い。幻想郷を我が物顔とするいけ好かないやつ。そうだ名前は確か……
「八雲紫?」
「こんなところで油を売っていたとはね。どおりで中々見つけられないわけだわ」
「八雲紫に腕を掴まれているのが私なのね? それでみまって何?」
「……貴方寝ぼけてるでしょ。いい? 貴方の名前は魅魔。『博麗神社にうらみをもつ悪霊。だったが、長い間悪霊をしているうちに邪気もすっかり抜け、霊夢をからかうのが日課となっていた。すでに、博麗神社の神(祟り神)的存在となっているが、その性格は人間より人間的である』以上引用」
「私の名前は魅魔。そうか、私が魅魔なのか。私は魅魔よ」
魅魔は得心がいったように何度も頷いた。それを呆れ顔で紫はじーっと見つめる。その視線に気づいた魅魔は怪訝そうに言った。
「何? であんた何しに来たのよ」
「貴方こそこんなところで何してるのよ」
紫は振り返って後ろを指差した。その先には巨大な蒼い星が悠然と存在していた。ここは幻夢界。成層圏を越えた無重力の世界。とは言っても厳密には宇宙空間ではない。異界と現世の境目、魅魔の作った結界であった。
「何してたんだっけ……そうそう、星を見ていたのよ。ほら、目の前に大きな星」
「ふーん。それはいいとして、貴方、幻想郷に戻るつもりはないの? あぁ問いに答えておきましょうか。私は貴方を連れ戻しに来たのです」
紫は真剣な眼差しを向けて告げる。魅魔は目を逸らして曖昧に答えた。
「外の世界で忘れられたものは幻想郷に辿り着く。では幻想郷で忘れられたものは? そういうことよ」
はぁ、と溜息一つ溢す紫。
「確かに神となった貴方のことを覚えている人妖は少ない。霊夢や魔理沙ですらおぼろげにしか覚えてないようだし、私もちょっと前までは完全に忘れてしまっていたわ。けれどある人間だけは貴方の存在をしっかりと記憶していたの」
「誰かしら」
「稗田阿求。歴史家よ。貴方もよく知ってるはず」
「……覚えがない」
魅魔を責めるかのように紫の表情が険しくなる。
「鳥頭よりたちが悪いわね。ともかく私は“貴方が地獄にいた頃からの友人、稗田”から頼まれて来たの。はっきり言うと私は貴方のこと好きじゃないから嫌々なのだけれど」
「私もよ」
「けれど幻想郷はすべて受け入れるのだから、ね。稗田の代理で質問するわ。いいかしら、これは最後のチャンスよ。『貴方の種族は悪霊?』」
「……いいえ、私は人間界の神なの」
そう言うと魅魔の姿はどんどん透けていって、消えようとする。紫は慌てて魅魔の腕をもう一度掴もうとするが、むなしく空振りに終わった。
「嘘付き」
魅魔は星を見た。
2012年5月13日、幻夢界で八雲紫と。
それはいつのことだったか。どこで見たのか。隣に誰かいたような気がする。けれど今となってはもう、思い出せない。
擦り切れたレコードが雑音しか流さぬのと同じように、擦り切れた記憶は雑踏のみを映していた。
『The World of Spirit』
「嘘から出た真」という諺があるが、私に言わせれば「真は嘘から出す」ものだ。
魔界の神を目の前にした時、私は咄嗟に人間界の神だと名乗った。そいつの存在感に気圧されぬようついた嘘であったが、その後本気で人間界の神になろうと思った。そして成った。
あんなのにできて私にできぬはずがない。造作もないことだった。
神になるということは世界の観測者となることだ。今私の視界は人間界を余すところなく映している。北方に広がる凍土も南方に点在する島々も、西方の諸都市も東方の里も、全てが掌の上にある。無論博麗大結界で区切られた幻想郷とて例外ではない。
朝方神社の巫女がのんびりお茶を飲んでいる様子だとか、夕方森の魔法使いが茸を採取している様子だとか、夜明け妖怪が花を眺めている様子だとか、異なる時間異なる場所異なる出来事を同時に視て、知ることができるようになった。
けれど彼らの瞳に私が映ることはない。それが、神となった代償であった。絶対の観測者は誰からも観測されない。故に絶対的存在なのだ。勿論絶対的である神の存在は観測されないことで消えはしない。消えるのはそう、この「私」だ。
最初に欠落したのは名前だった。それからどんどん過去の記憶が剥がれ落ちていって、次第に「私」という人格を形成する基盤が崩壊していった。
もうすぐ私は私を亡くしてしまう。ただ「神」という概念として世界に揺蕩うだけの存在となり果ててしまう……いや望んでこうなったはずだ!後悔なんてあるわけがない。
けれど今の私は零れ落ちる過去の記憶を見ようと目を働かせている。しかし断片的な過去のシーンを垣間見たところでそれが何だったのか、もうわからない。それでも……それでもなんだろう?
何だか上手く思考がまとまらない。限界かな。何の限界だろう。あぁ、私は誰だったか……私って何?考えるのはもうやめてしまおう。
ふいに、一つだけある言葉を思い出した。最近の記憶なのかはっきりとしている。けれどその意味はよくわからない。
「わたしはだぁれ?」
「魅魔!!!!!!!!!!」
掴まれた。何を?手を。私の手を。目の前に顔がある。金髪の女の顔。よく知っている顔だ。多分嫌い。幻想郷を我が物顔とするいけ好かないやつ。そうだ名前は確か……
「八雲紫?」
「こんなところで油を売っていたとはね。どおりで中々見つけられないわけだわ」
「八雲紫に腕を掴まれているのが私なのね? それでみまって何?」
「……貴方寝ぼけてるでしょ。いい? 貴方の名前は魅魔。『博麗神社にうらみをもつ悪霊。だったが、長い間悪霊をしているうちに邪気もすっかり抜け、霊夢をからかうのが日課となっていた。すでに、博麗神社の神(祟り神)的存在となっているが、その性格は人間より人間的である』以上引用」
「私の名前は魅魔。そうか、私が魅魔なのか。私は魅魔よ」
魅魔は得心がいったように何度も頷いた。それを呆れ顔で紫はじーっと見つめる。その視線に気づいた魅魔は怪訝そうに言った。
「何? であんた何しに来たのよ」
「貴方こそこんなところで何してるのよ」
紫は振り返って後ろを指差した。その先には巨大な蒼い星が悠然と存在していた。ここは幻夢界。成層圏を越えた無重力の世界。とは言っても厳密には宇宙空間ではない。異界と現世の境目、魅魔の作った結界であった。
「何してたんだっけ……そうそう、星を見ていたのよ。ほら、目の前に大きな星」
「ふーん。それはいいとして、貴方、幻想郷に戻るつもりはないの? あぁ問いに答えておきましょうか。私は貴方を連れ戻しに来たのです」
紫は真剣な眼差しを向けて告げる。魅魔は目を逸らして曖昧に答えた。
「外の世界で忘れられたものは幻想郷に辿り着く。では幻想郷で忘れられたものは? そういうことよ」
はぁ、と溜息一つ溢す紫。
「確かに神となった貴方のことを覚えている人妖は少ない。霊夢や魔理沙ですらおぼろげにしか覚えてないようだし、私もちょっと前までは完全に忘れてしまっていたわ。けれどある人間だけは貴方の存在をしっかりと記憶していたの」
「誰かしら」
「稗田阿求。歴史家よ。貴方もよく知ってるはず」
「……覚えがない」
魅魔を責めるかのように紫の表情が険しくなる。
「鳥頭よりたちが悪いわね。ともかく私は“貴方が地獄にいた頃からの友人、稗田”から頼まれて来たの。はっきり言うと私は貴方のこと好きじゃないから嫌々なのだけれど」
「私もよ」
「けれど幻想郷はすべて受け入れるのだから、ね。稗田の代理で質問するわ。いいかしら、これは最後のチャンスよ。『貴方の種族は悪霊?』」
「……いいえ、私は人間界の神なの」
そう言うと魅魔の姿はどんどん透けていって、消えようとする。紫は慌てて魅魔の腕をもう一度掴もうとするが、むなしく空振りに終わった。
「嘘付き」
魅魔は星を見た。
2012年5月13日、幻夢界で八雲紫と。
まともに運用すると大変だろうけど