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【登場人妖】
藤原妹紅 …… 釣り名人。川魚のことなら何でもござれ。ただし調理のレパートリーは塩焼と干物のみ。
封獣ぬえ …… イタズラ好き。天然のぼっち気質なのに腐れ縁は掃いて捨てるほど結ぶ才能を持つ。
二ッ岩マミゾウ …… 化け狸 十変化。佐渡赤心会・二ッ岩一家の初代頭目を名乗る。早い話がヤクザだ。
【これまでの物語】
■なまくらフェニックスとへっぽこトラツグミ
■なまくらフェニックスとへっぽこトラツグミ ~ Vol.2
■なまくらフェニックスとへっぽこトラツグミ ~ Vol.3
【今回のおはなし】
■本編 ~ 化け狸あらわる!
■番外編 ~ 冬の山小屋にて。
その日、平安京の上空を一羽のカラスが走っていた。
紅色の瞳をせわしなく地上へ向けてはひるがえり、漆黒の羽を撒き散らしてはさえずりを繰り返す。
太陽を光背に見立てて翼をはためかせる姿は舞でも踊っているようである。
カラスといえば街路に転がる死肉にご執心なのが当たり前である都 では、それは珍しい光景であった。
しかし、人々にカラスの盆踊りを見物する余裕はなさそうである。
貴族の屋敷はどこもかしこも騒然として居を落ち着ける者はなし。門柱に頭をぶつけたり庭の遣り水に落っこちたりと狂乱の体である。朱雀大路では餓死者を蹴っ飛ばしながら馬が駆け回り、だれもが我が家へ逃げ帰ろうと右往左往し、橋を渡る順番も待てずに鴨川へ飛び込む始末であった。
それは治承三年十一月の出来事であった。
平清盛が起こした日本史上空前の軍事クーデター、世に云う治承三年の政変である。
「なにさ! どいつもこいつも慌てふためいて、これじゃ何のために戻って来たのか分かりゃしない」
封獣ぬえは文句をこぼしながら正体不明のタネを剥した。先の大火で焼け落ちた邸宅には人影もなく、呼吸を整えるには都合が好かった。胸を押さえて深呼吸、高鳴る心臓をなだめる。
「これは駄目ね……かえろ」
羽を引っ込めて歩き出した。朱雀大路は兵馬で埋め尽くされているので、三条大路から東へ向かった。その道すがらにも幾人かの亡骸が朽ちていた。
すれ違う人々は囁き合いながら小走りに通り過ぎていく。こっちを見てくるやつはひとりもいない。それで好いはずなのだが、それはそれで不満だった。
地面を睨みつけながら歩いていると、ぬえは何者かに派手に肩をぶつけてしまい、痩せた子猫みたいに転がった。
「――ったいなぁ、もう!」
てめぇなにしやがんだ、と睨みを利かせてやる。相手の女性はほっほっほと笑った。
いつかどこかで聞いたことのある笑い方だった。
「相変わらずのイタズラ好きじゃの、ぬえ」
足の間に毛深いモフモフの尻尾が垂れていた。臙脂 と山吹色の縞模様である。
うそ、と声が零れ落ちた。着物のすそをぎゅっと握ってしまった。
「久しぶりじゃ」
二ッ岩マミゾウが腰に両手を当てて、ぬえを見下ろしていた。
「というわけで紹介するわ、藤原。このタヌキが――」
「二ッ岩マミゾウじゃ。よろしく頼むよ、妹紅とやら」
藤原妹紅は刀を砥ぐ手を止めてその妖怪を見すえた。
「……ぁあ、封獣から聞いてるよ。さっそく狸鍋の準備をしないといけないな」
ぬえが富士山の火口みたいにあんぐりと口を開けた。
マミゾウは腕を組んで唇の端を釣り上げる。凶悪な犬歯がギラリと光った。
「ほうほうほう……こいつは好い。見上げた肝ッ玉じゃあないか。のう、ぬえや?」
「いや、ちが――藤原、あんた」
「私は歌が好きでね。ちょうど三味線に張る皮の材料を探していたところだったのよ」
「そういや儂も腹が減ってきた頃合いじゃ。人間の肝なら酒にも合いそうじゃの」
二人とも、と妖怪少女が割って入る。
「いきなり両虎相打つなんて聞いてないわよ、馬鹿じゃないの?」
馬鹿と呼ばれては妹紅もマミゾウも目つきを鋭くせざるを得ない。
「だから云ったろ。都に戻ってもロクなことにならないってさ。だいたい狸の肉ってそんなに美味しくないんだよね」
「まったくじゃ。貧相でいかにも不味そうな童じゃないか。こんな人間の世話になっとるのか、おぬしは」
「ンだコラ、こちとら四百歳超えてんだぞ」
「それを云うなら儂だって由緒ただしき化け狸じゃぞい」
「この真正ババア」
「なんじゃと、このロリババア」
「だから何でそんな険悪なのよぉ!?」
いい加減にしないとぬえが泣きそうだったので、妹紅はマミゾウと杯を分け合ってやることにした。
「最近の人間は礼という礼をとことん弁えておらんの。佐渡とは大違いじゃ」
「古参の妖怪ってのは頭が堅い奴ばっかなんだな、ひとつ勉強になったよ」
二人は互いに罵り合いながら酒を呑み交わした。マミゾウの徳利 から注がれた濁り酒は本人が自慢するだけあって風味がよろしく美味である。イワナの干物を肴に出してやるとマミゾウは大層喜んだ。
「なんじゃ、気が利くじゃないか。見直したぞ妹紅よ」
「あんたにやるとはひと言も云ってないぞ」
「よーし、市中引き回しのうえ手討ちにしてくれる」
マミゾウが白鞘に収められたドスを抜き放とうとしたので、妹紅もすかさずなまくら刀を握った。砥ぎ上げたばかりのキンピカである。
ぬえの雷が二人に急降下爆撃をしかけたのは、その直後であった。
本当のことを云ってしまうと、妹紅は二度と平安京に戻ってくるつもりはなかった。
帰還の発端はぬえの手首の傷痕にあった。
寝ても覚めても熱と痛みを訴えてくるのだそうだ。包帯を代えようが薬を替えようが効果はなく、無視を決めこもうとすればするほど傷痕は悲鳴をあげてくる。
妹紅にだって予感はあった。これは、ただの矢傷ではない。
他の傷は大地が雪に覆われるように塞がってしまうのに、矢を射られた手首だけはこの二十年ちかく癒えることがなかった。それどころか年を経るごとに、痛みの波の間隔は狭まってきている。
ならばその原因はなにか。傷を負ったそもそもの出来事とは何であったか。
――源三位頼政 の鵺退治。
だからこそ妹紅は嫌々ながら戻ってきたのだ。
忘れたくても忘れられない、この平安京へと。
「ほっほっほ、まったく面白い奴じゃったの。憎まれっ子とはあやつのことを云うのじゃろうな」
「ごめんマミゾウ。なんか藤原のやつ機嫌が悪いみたいでさ」
マミゾウはなんのなんの、と笑った。しかし尻尾の毛がハリネズミのごとく逆立っているのを見ると安心できない。
二人は東三条の森を散歩していた。かつてぬえが住み処としていた森である。
妹紅は酒を呑み腐った挙句、酔っぱらって寝てしまった。
「さて――ここらで好いじゃろう」
「ぬ?」
マミゾウが急に立ち止まったので、ぬえは首をかしげて振り返ろうとした。
その途端に視界が塞がった。力いっぱいに抱きしめられたのだった。
「……このバカたれが」
「マミゾウ?」
「もう諦めかけておったんじゃぞ」
「え」
「生きていればの儲けものじゃ。無茶をするんじゃないぞ、ぬえ」
「……うん」
マミゾウの体温はいつ以来だろうか。
ちょいと力試しに行ってくるなんて飛び立って。
そう、それからだ。
それから射落とされて――。
源頼政、鵺を退治した功績により帝から獅子王を賜る。
その知らせを受け取ったマミゾウがまずしたことは、動揺を悟られないように毛玉に化けたことだった。
はやる気持ちを押さえつけて佐渡を飛び出し、はるばる海を越えて上洛してきたそうだ。
当然のことながら、ぬえは見つからなかった。
バラバラにされて笹の小舟に乗せられ鴨川を下っていったのだと知った。
あやつが簡単にくたばるはずがない。
そう信じて平安京と佐渡を往復すること二十年あまり。
ようやくの再会だった。
「ところで、ぬえよ」
「……なに」
ぬえは顔を上げてマミゾウの背中を見た。久々の尻尾枕は気持ち好すぎて三千世界に悟入しそうだった。
「おぬし背が縮んだかのう?」
不届きなことを訊いてきやがったので、ぬえは尻尾をつねった。それだけは止めてと悲鳴があがった。
「せっかくの雰囲気が台無しじゃないのさ。なにがちっこくなっただよ。今も昔も私は大妖怪のぬえ様よ」
「そういう意味ではなくてじゃなぁ」
マミゾウは尻尾をさすりながら続けた。
「ほれ、さっき飛び回っておったが、だれか怖がってくれたかの」
「うっ」
痛いところを突かれた。昼間に空を翔ける物体なんて鳥に決まっている、そう認識されたのなら怖がってくれないのも当然なのか。
やはりの、とマミゾウはため息を漏らした。馬鹿にされてる気がして腹が立つ。
「なによマミゾウ、本当に晩飯が狸鍋になっちゃうわよ」
「それじゃよ、おぬし、いつから人間のものを平気で食べるようになった?」
「は?」
「いや、違った――人の肉はいつから食べていないんじゃ?」
「お、覚えてないわよ。そんなの。変なこと訊かないで」
変なこと、とマミゾウは繰り返して振り返った。瞳が濁っていた。
「つかぬことを訊くようじゃが……」
歯切れが悪い。夜に鳴くトラツグミよりも不吉な声音だ。
「最近、身体が重くなってきてはおらんか?」
……なんで、そんなことを訊くのだろう。
なんで、そんな心のなかを覗いたように言葉を重ねてくるのだろう。
「さぁね。重くなったのかもしれないし、変わらないようにも感じるけど」
ぬえは誤魔化した。左手首の傷がうずきをあげる。またか、と小さく舌打ちを漏らす。
「……そうかい」
それっきりマミゾウは黙りこくってしまった。なにやらブツブツと呟いているが聞き取れない。
これは夕食は狸鍋だな、とぬえは目をつむった。
けれど、いつまで経っても眠れなかった。
夜が訪れても平安京の騒ぎは静まらない。
何百というかがり火が焚かれて葬列を成し、大路から鴨川を越えて院を取り囲んでいる。
妹紅はとっくの昔に政治への興味を失くしていたが、それでも今の状況がどれくらい深刻なのかは分かる。桓武朝が始まってからの四百年、この地で長きに渡って続いてきた貴族の時代が名実ともに終わったのだ。
変な気持ちだった。
元貴族なのだから感慨のひとつでも抱いて好いだろうに、と思う。
しかし実感が湧かない。どうしても支配者の首がすげ替わっただけに見える。というか貴族も武士も同じに見えてしまう。どっちにしろ百年も経てばみんな骨になっちまうんだ、という思いが先行する。
私もたいがい妖怪みたいなもんだな。
狸からくすねた徳利を傾けて妹紅は笑った。
「くおーら、泥棒猫め」
「にゃうん!?」
妹紅は悲鳴をあげて転がった。頭が割れるかと思った。マミゾウ渾身の拳骨である。
「なにすんだこの野郎!」
「ひとの酒を盗んでおいてよう云うわい」
「あんたは人じゃないから好いだろ」
「こやつめ、ハハハ!」
「ハハハ!」
酒精じゃ、酒精の仕業じゃ、と二人して不気味な笑い声をあげた。
「なぁ妹紅――ぬえのことなんじゃが」
並んで腰かけ呑み直しをしていたとき、マミゾウが口を開いた。
「あいつなら寝てるよ。妖怪の癖に早寝早起きなんて笑っちまうね。お寺に入っても暮らしていけるんじゃないかって思うくらいだ」
「ほう」
マミゾウの頬の赤みがすうっと引いた。
「睡眠までとるようになったようじゃの」
「そういや最初のころは私が寝るたびに、つまんないって叩き起こしてきやがったなぁ」
「寝る子は好く育つもんじゃよ」
「あいつは子供なのか」
「儂にとってはの」
「私にとってもだよ」
「たわけ、おぬしもガキじゃろうが」
「ンだコラ、こちとら四百オーバーだぞ」
「おぬしはガキのままじゃ」
「ぁア?」
「……ぬえの奴から聞いた。一生、子供のまんまなんじゃろ?」
妹紅はマミゾウを睨んだ。
当たり前のことを当たり前のように確かめられただけなのに、なんでこんなに胸が軋んでしまうのだろう。化かされたに違いない。酒と狸に化かされたのだ。明日こそは狸鍋にしてやる。隠し味はこいつの徳利の酒だ。
マミゾウが馴れ馴れしく肩を組んできた。
重いうえに獣臭い酒臭い。悟りを開いた仏僧だって裸足で逃げ帰る。
「のう妹紅よ」
「なに、また減らず口?」
「――頼みがあるんじゃ」
頼み。鍋になる覚悟ができたから遺書を届けて欲しいのだろうか。
酔っぱらった頭でそう考え笑った妹紅を、鋭い眼光が釘づけた。
「ぬえを、大事にしてやってくれ」
「……聞こえないな」
「ぬえを守ってやってくれ」
なにを云ってくれるんだろう。勝手についてきたのはあっちだ、と思いかけて、そういや私が荷物持ちにしたんだったな、と思い出す。どうにも記憶がはっきりしない。
「私としては今でも守ってやってるつもりなんだけどね」
「違うんじゃよ、そうじゃない」
頭を傾けて今にも眠り込みそうだった。ネズミのごとく忙しなく跳ねる耳が、妹紅の白髪に触れた。
「ぬえの奴は、危うい」
「あやうい?」
「獣から成り上がった儂と、心から産まれたあやつは違うんじゃよ、根本的にな」
稼業として妖怪を退治することはあっても深くまで知ろうとは思わなかったから、妹紅には今のマミゾウの言葉がもうひとつ理解できない。人間にしろ妖怪にしろ、迂闊に関わりを持ってしまうと気持ちの後始末が面倒になる。
「頼政公に退治されてしまったのも心配じゃ」
「だから何だってのよ、あいつは今もこうして生きてるじゃないの」
なんだか腹が立ってきた。マミゾウは困った顔をした。云っても分からない子供に手を焼く母親みたいだった。
その母親はけれど頭を撫でてくれることもなく、ただ妹紅の肩をぎゅっと握ってきた。
「儂が云いたいのはさっきの通りじゃよ――ぬえから目を離すな。できるだけ傍にいてやること、それだけじゃ」
ぬえはまどろみから目覚めた。
太陽の匂いがする。気持ち好くなって抱き寄せた。それは妹紅の長い髪だった。
「あ、ごめん」
「いいよ」
妹紅が笑った。顔を見なくても分かった。
「マミゾウは?」
「酔っぱらって寝ちまったから簀巻きにしてきた」
「ちょ」
あったかくてちょうど好いだろ。妹紅はそっけない。
「藤原さぁ、なんでマミゾウに喧嘩腰なわけ」
「さぁね。なんでだろう、自分でも分からない。正体不明だ」
「マミゾウもマミゾウよ。白昼堂々斬り合いなんてらしくないわ」
「お前が正体不明だからいけないんじゃないか?」
「なにそれ、私の本分なんだから仕方ないでしょ」
というか意味がわからない。今日の妹紅はおかしい。いつも頭おかしいけど今日はとびっきりだ。
「そういや頼政の野郎は見つかったのか?」
二人して向かい合って寝転んでいると、妹紅が尋ねてきた。この姿勢で寝ることが習慣になってどれくらい経つだろう、とぬえは思う。目が覚めれば妹紅の顔が目の前にある。時には手を繋ぎ合って眠ることもある。
腐れ縁もここまで続けば断ちがたいものだ。
「ん、駄目。あの中にはいなかった」
「そっか。もう死んでるんじゃないかな」
妹紅の云う「死ぬ」という単語の響きは軽い。本当に軽い。紙風船よりも軽い。その軽さが他の人間とは違うところであり、ぬえが好んでいるところでもある。
「そうかなぁ、なんとなくだけど違う気がするのよね」
「分かるのか」
「うん。痛みが引かないから」
「……そっか」
妹紅の顔が複雑に変化した。この表情の方がよっぽど正体不明じゃない、とぬえは思った。
「わざわざ封獣がやる必要もないだろ。なんなら化け狸にカチコミさせれば好いのに」
「いやさ、藤原。殺すつもりとか、そんなんじゃないんだよ」
はぁ、と妹紅が眉をひそめた。藺草 で編んだ筵 がかさりと鳴った。
「ただ訊きたいの」
ぬえは妹紅の紅い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「マミゾウが云ってたんだけど、頼政って奴、どうも帝に嘘ついてたみたい」
「バラバラが笹の舟でなんとかってやつか」
「そうそう。でもね、覚えてるのよ、あの時のこと」
射落とされたときのことだった。地面に叩きつけられた自分にとどめを刺そうと駆け寄ってきた男がいた。いつかと同じように待ったなしの暴力を振るわれた。刀でメッタ刺しにされていたところを、別の男が止めろと叫んだのだ。
「――そいつが頼政ってこと?」
「うん。あれくらいじゃ妖怪は死なないって知ってるくせに」
私は生かされたんだ、それがぬえの出した結論だった。
「それは確かに……妙だね」
「だから訊きたいわけ。どうして助けたのか、なぜ天下の帝に嘘までついたのか」
「ふぅん、それはご苦労なこって」
ぬえはムっと身体を起こした。
「藤原、あんただって気になるでしょ?」
「勘違いするなよ。私はお前のお守りで手いっぱいなの」
「ムキー! 子ども扱いしないでってば!」
もういっちょ雷を落っことしてやろうかと思ったが、どうにも力が入らなかった。
妹紅は頭を両手でかばいながら宣言する。
「そいつはお前の問題だろ。私は都にいるだけでも息苦しくなるんだよ。勘弁してくれ」
「なにさ、ジジイみたいに腰が重くなっちゃってさ」
「ンだコラ、こちとら四百歳超え、あと十数年もすりゃ五百オーバーなんだぞ」
「ふんだ、このロリババア!」
「云ったな、こいつ!」
「云ったよ、バカぁ!」
二人して揉み合った。
お互いをポカポカと叩き合い、スキありとローキックを叩き込む。
いつの間にか笑い声が漏れていた。
阿呆な喧嘩は日常茶飯事なのだ。
それが自分たちの関係のすべてなのだ、とぬえは思っている。
たぶんだけれど、妹紅も同じように思ってくれている。
この軽さこそが私たちのすべてなんだ。
なんのことはない。
不死鳥もそうだ。鵺鳥もそうだ。
風と同じくらいに軽くなければ、空は飛べないのだ。
藤原妹紅の目の前で、相方の妖怪が手紙をしたためている。
眉間に皺を寄せて唸ったり、筆を持ちかえて鼻の頭を掻いたりする。癖の強い黒髪をぐしぐしと掻き毟るから、ますます髪のハネが酷くなる。外を走り回って泥んこになった童のような髪だった。あまりに自由奔放で放っておけないあどけなさを伝えてくる黒髪なのだ。
うぅん――と、もう一つ唸り声を落っことして封獣ぬえが胡坐をかいた膝に頬杖を突く。
短冊形に折り目が並んでいる手紙は、起き上がる力を失って板敷に横たわっている。蝋燭が投げかける光は淡い。書状の文字のひとつひとつが、炎の揺らめきに合わせて舞を踊っている。妖怪は紅色の瞳を鈍く輝かせて、視線を手紙に注いでいるのだった。
小屋の壁が軋んだ。
驚いた蝋燭が火を激しく揺らす。ぬえの顔に寄りかかっていた影が、さよならを告げようと考えたのか一瞬だけ遠ざかって、すぐに帰ってきた。
ぬえが小さな頭を傾けて小屋の粗末な戸を顧みた。吹っ飛んでいないのを確認すると、また手紙に眼差しを浴びせ始めた。
「すごい吹雪だな」
「……え、なに」
「雪」
「あ――うん、あと何日、続くんだろう」
ぬえはこちらを見なかった。それを期待して声を投げてみただけに、球が外れてしまい面白くない気持ちになる。もう一度、ごうごうと壁が鳴りを響かせてこちらをからかってきた。
それは突然の吹雪だった。逃げ込んだ山小屋に閉じこもって、丸一日が経ってしまっていた。天日干しにした川魚をつまみながら気長に待っていたのだが、どうやら自分たちを許してくれる気はなさそうだ。
その暇 を好いことに、ぬえはずっと文筆にかかりっきりだった。あとで返すからって、勝手な約束を取り付けて紙と筆を奪われてしまった。お猿と指切りしたほうがまだしも返してもらえる可能性がありそうだ。
――せっかくだから、今のうちに書いておきたいの。
そう云ってから、ぬえは唸り声を絶やすことなく時間をかけて丁寧に文字を綴ってきたのだ。それもあと数行といったところまで登ってきて、少女の積雪を残した顔にもほのかに春が差してきた。
面白くない。なにがって、出会ってから数十年が経つが相方のそんな顔を見たのは初めてなのだから。この前だって、せっかく歌の詠み方を教えてやろうと思ったのに日が沈むのも待たずに投げ出しやがった。こいつを、ここまで真剣にさせる妖怪の顔を、是非とも拝んでみたいもんだ、と。
「封獣さぁ」
「なに」
「誰に宛てて書いてるの、それ。恋人?」
「ばっか。妖怪をなんだと思ってんのよ」
「私が出てきた世界じゃ、手紙ときたら香を焚きしめた恋文だったからね」
「人間って、やっぱり面倒くさいね。すぐに会える距離なのに、わざわざ手紙を出したりしてさ」
「お前は奥ゆかしさってもんを知らないな」
「知りたくもないね。あっかんぬぇー、だ」
「この野郎……それで、だれ?」
「んー、古くからの友人、かな」
吹雪の猛りが勢いを増した気がした。それでも「友人」という言葉をかき消してくれるには、この山小屋は頑丈すぎた。きっぱり打ち捨てられているくせに、最低限の矜持は守っていやがるのが恨めしい。
「へぇ、そうか……友人、なんだ」
「都に来る前にさ、世話になっちゃって。人間の怖がらせ方とか競い合った。面白い奴だよ」
「そいつも妖怪なの?」
「当たり前でしょ」
「封獣に友人がいたなんて、信じられない」
信じたくない。
「人間の云うのとは、ちょっと響きが違うかな。もっとこう……一緒になって悪戯するみたいな」
「悪友?」
「うん、そうそれ。腐れ縁でも好いかもね」
きひひ。
鵺妖怪は甲高く笑ってみせて、筆の尾で頬をかいた。蝋燭の炎のせいで顔が火照って見える。野苺の赤みが差しているようだ。ひょいと食べたら、さぞ甘酸っぱいことだろう。
ぬえはくすぐったい笑い声をこぼしてから、ふと蝋燭の影に沈んだ。筆の先に墨汁を染みこませて、また続きを綴り始めた。今の会話で思い出したことでもあるのだろう。
無性に喉が渇いた。雪を溶かした竹筒の水を酒盛りのつもりであおった。もちろん酔いなど来ない。宵が首をもたげて小屋を包んでいるだけだ。
「……藤原、あんたは眠ったら? 私、これ書き上げたいから」
「一緒に続き、考えようか」
「やだ。こればっかりは任せらんない」
「そう、おやすみ」
「うん」
板敷の床は冷たかった。氷に寝そべったほうがマシなんじゃないか、と思えてくる。焚き火ができないから、暖をとることが出来ない。囲炉裏すらない。生活するための場所ではないのだ。
心臓の鼓動が吹雪の怨嗟のなかでも耳を刺してくる。何度も寝返りを打った。ぬえの顔が映り込んで慌てて目をそらした。妖怪少女の息遣いまでも感じ取れた。耳がどうかしてしまったのかもしれない。
なまくら刀の鞘をぎゅっと握った。いつもなら、それだけで治まってくれるのだ。
それなのに。
「――っ」
不意打ちだった。心臓が嗚咽を訴えた。血潮の雪崩に呑みこまれた。黒雲を湛えた空が降ってくる。猛吹雪に滅茶苦茶にされる。そんなイメージが頭のなかを飛び回って離れなくなった。こんな吹雪のなかでは、鳥の鳴き声も星の導きも聞こえないじゃないか。
氷の拒絶を染みこませた床の冷たさが、頭を五寸釘で打ち抜いてくる。今すぐ刀を抜き放って首を刎ねてしまいたくなる。そして、そんなことをしても死ねないってことは、痛いほどに分かっている。
「藤原」
蝋燭の明かりが、暗闇に沈んだ。
「やっと、怖がってくれたんだ、私のこと」
ぬえだった。ぬえの紅い瞳が、闇のなかに浮かんでいた。蝋燭の代わりとなって、星の代わりとなって。
「でも……なんだろね、この味。こんな恐怖、初めて食べるかも」
胸に重みを感じた。ぬえが顎を乗せているのだ。雪色の肌が闇に透き通って見えた。覆いかぶさっている少女の身体が、焚き火よりも春の日差しよりも暖かく感じる。毒をまき散らす虫が吸い取られていくのを感じる。嗚咽は休まり、雪崩は治まり、黒雲は去っていった。
「……なんだか、野苺みたい。甘酸っぱい味がする」
「甘酸っぱいって――」
「美味しい……すごく美味しいよ、藤原」
「そりゃ、そうだろ。もっと味わってよ。二度と口にできないかもしれないから」
「もちろん、いただきますっ」
胸に顔を埋めてくる少女の黒髪を撫でてやる。幼い童を思い出す癖っ毛、どれだけ押さえつけても治りやしない。そんな跳ねっ返りの黒髪が、頬を撫でてくれる。二色三対の羽が、背中を撫でてくれる。ぬえのはしゃぐ声が、心臓を撫でてくれる。
たったそれだけのこと。それだけのことなのに。
「ねぇ、藤原――このまま寝ちゃっていいかな?」
「好きにして。私は、ここを動いたりしないから」
「えへへ、おやすみ」
あの夏の朝と、立場が逆だった。吹雪に混じって、泉の奏でる音が蘇ってきた。あの時に分け合った体温が、たったいま感じているぬえの身体の温もりに重なって、溶け合って、呼気となって口から漏れていった。
なんてこった、と思う。
こいつにだけは、慰めてもらいたくなかったのにな。
「それじゃ、ちゃんと届けてよ。頼んだからね」
「便利なもんだなぁ、それ」
「ぬふふ、妖怪だけの特権ってやつ」
翌朝、吹雪は細雪に化けていた。山々は靴底まで雪化粧していた。稜線の向こう、雲の切れ間から朝日が差し込んで光のカーテンを形作っていた。崖下からウグイスの地鳴きが聞こえてくる。春が近いのだ。
ぬえは手紙を託したカラスを大空へと解き放った。正体不明の衣に包まれて雲の向こうへと翔けていく。隣で妹紅が感嘆のため息を漏らす。空を飛べない人間には、さぞかし羨ましいことだろう。
昨夜の妹紅のことは忘れてやることにする。こいつにだって泣きたいときくらいはあるだろうから。身体が風邪をひくことはなくても、心が風邪を患うことはある。それは突然の発作ってやつで、自分だって妹紅に出会ってから何度も襲われている感覚だ。
その度に駆け抜ける手首の痛みは、いつまで経っても慣れることができない。
「そういや傷は大丈夫? 包帯、代えようか」
「ううん、いらないよ。今日は調子が好いから」
下山途中で川を見つけた、その休憩中のことだった。
自分が魚を釣っている一方で妹紅はなまくら刀を砥いでいた。こうして親しんでみると、人間が作る食べ物も存外に悪くない。
「……私もさ、昨日、痛くなったよ。手首じゃないけど」
妹紅が云うから、ぬえは声を投げ返してやる。
「どうせ胸とか頭でしょ。怪我してないのに人間が痛がってるときは、いつもそこだから」
「よく見てるじゃないか」
「そうよ、鋭い観察は作戦成功の肝」
また一匹、釣り上げた。暗緑色に白の斑点が眩しい立派なイワナだった。思わず握りこぶしを作って妹紅のほうを振り返った。少女は刀を砥ぐ手を休めて、丸石にぶつかって泡立つ川面に目をやっていた。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結んでいた。
妹紅の瞳に浮かんだ淡い光は、今にも泡となって消えてしまいそうだった。イワナを葦の壺に放り込んで釣竿を置き、相方の蓬莱人の元へとにじり寄った。
「……藤原?」
「あぁ、ごめん――ねぇ、封獣から見てさ、昨日の私、どんな風に見えた?」
「なんで、そんなこと訊くわけ」
「いつもの私らしくないとか……変、だとか」
ああ、そんなことか。それなら答えなんて決まっている。
「やっぱり藤原は人間なんだなって、そう思ったよ」
「はい?」
「見た目どおりの、人間の女の子みたいだった。昨日の藤原」
「……そ、そんなもんかな」
「そんなもんよ」
首を傾けて頬をかいたり。砥ぎたての刀を空へ向けて振り回したり。
にやけそうな顔を、見られないようにそらしたり。
ほら――そういうところが、人間らしいってんだ。
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―― なまくらフェニックスとへっぽこトラツグミ ――
≪Vol.3.5 ~ ヌエヌエ・エターナル・トライアングル≫
【登場人妖】
藤原妹紅 …… 釣り名人。川魚のことなら何でもござれ。ただし調理のレパートリーは塩焼と干物のみ。
封獣ぬえ …… イタズラ好き。天然のぼっち気質なのに腐れ縁は掃いて捨てるほど結ぶ才能を持つ。
二ッ岩マミゾウ …… 化け狸 十変化。佐渡赤心会・二ッ岩一家の初代頭目を名乗る。早い話がヤクザだ。
【これまでの物語】
■なまくらフェニックスとへっぽこトラツグミ
■なまくらフェニックスとへっぽこトラツグミ ~ Vol.2
■なまくらフェニックスとへっぽこトラツグミ ~ Vol.3
【今回のおはなし】
■本編 ~ 化け狸あらわる!
■番外編 ~ 冬の山小屋にて。
【本編 ~ 化け狸あらわる!】
その日、平安京の上空を一羽のカラスが走っていた。
紅色の瞳をせわしなく地上へ向けてはひるがえり、漆黒の羽を撒き散らしてはさえずりを繰り返す。
太陽を光背に見立てて翼をはためかせる姿は舞でも踊っているようである。
カラスといえば街路に転がる死肉にご執心なのが当たり前である
しかし、人々にカラスの盆踊りを見物する余裕はなさそうである。
貴族の屋敷はどこもかしこも騒然として居を落ち着ける者はなし。門柱に頭をぶつけたり庭の遣り水に落っこちたりと狂乱の体である。朱雀大路では餓死者を蹴っ飛ばしながら馬が駆け回り、だれもが我が家へ逃げ帰ろうと右往左往し、橋を渡る順番も待てずに鴨川へ飛び込む始末であった。
それは治承三年十一月の出来事であった。
平清盛が起こした日本史上空前の軍事クーデター、世に云う治承三年の政変である。
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「なにさ! どいつもこいつも慌てふためいて、これじゃ何のために戻って来たのか分かりゃしない」
封獣ぬえは文句をこぼしながら正体不明のタネを剥した。先の大火で焼け落ちた邸宅には人影もなく、呼吸を整えるには都合が好かった。胸を押さえて深呼吸、高鳴る心臓をなだめる。
「これは駄目ね……かえろ」
羽を引っ込めて歩き出した。朱雀大路は兵馬で埋め尽くされているので、三条大路から東へ向かった。その道すがらにも幾人かの亡骸が朽ちていた。
すれ違う人々は囁き合いながら小走りに通り過ぎていく。こっちを見てくるやつはひとりもいない。それで好いはずなのだが、それはそれで不満だった。
地面を睨みつけながら歩いていると、ぬえは何者かに派手に肩をぶつけてしまい、痩せた子猫みたいに転がった。
「――ったいなぁ、もう!」
てめぇなにしやがんだ、と睨みを利かせてやる。相手の女性はほっほっほと笑った。
いつかどこかで聞いたことのある笑い方だった。
「相変わらずのイタズラ好きじゃの、ぬえ」
足の間に毛深いモフモフの尻尾が垂れていた。
うそ、と声が零れ落ちた。着物のすそをぎゅっと握ってしまった。
「久しぶりじゃ」
二ッ岩マミゾウが腰に両手を当てて、ぬえを見下ろしていた。
□ □ □
「というわけで紹介するわ、藤原。このタヌキが――」
「二ッ岩マミゾウじゃ。よろしく頼むよ、妹紅とやら」
藤原妹紅は刀を砥ぐ手を止めてその妖怪を見すえた。
「……ぁあ、封獣から聞いてるよ。さっそく狸鍋の準備をしないといけないな」
ぬえが富士山の火口みたいにあんぐりと口を開けた。
マミゾウは腕を組んで唇の端を釣り上げる。凶悪な犬歯がギラリと光った。
「ほうほうほう……こいつは好い。見上げた肝ッ玉じゃあないか。のう、ぬえや?」
「いや、ちが――藤原、あんた」
「私は歌が好きでね。ちょうど三味線に張る皮の材料を探していたところだったのよ」
「そういや儂も腹が減ってきた頃合いじゃ。人間の肝なら酒にも合いそうじゃの」
二人とも、と妖怪少女が割って入る。
「いきなり両虎相打つなんて聞いてないわよ、馬鹿じゃないの?」
馬鹿と呼ばれては妹紅もマミゾウも目つきを鋭くせざるを得ない。
「だから云ったろ。都に戻ってもロクなことにならないってさ。だいたい狸の肉ってそんなに美味しくないんだよね」
「まったくじゃ。貧相でいかにも不味そうな童じゃないか。こんな人間の世話になっとるのか、おぬしは」
「ンだコラ、こちとら四百歳超えてんだぞ」
「それを云うなら儂だって由緒ただしき化け狸じゃぞい」
「この真正ババア」
「なんじゃと、このロリババア」
「だから何でそんな険悪なのよぉ!?」
いい加減にしないとぬえが泣きそうだったので、妹紅はマミゾウと杯を分け合ってやることにした。
「最近の人間は礼という礼をとことん弁えておらんの。佐渡とは大違いじゃ」
「古参の妖怪ってのは頭が堅い奴ばっかなんだな、ひとつ勉強になったよ」
二人は互いに罵り合いながら酒を呑み交わした。マミゾウの
「なんじゃ、気が利くじゃないか。見直したぞ妹紅よ」
「あんたにやるとはひと言も云ってないぞ」
「よーし、市中引き回しのうえ手討ちにしてくれる」
マミゾウが白鞘に収められたドスを抜き放とうとしたので、妹紅もすかさずなまくら刀を握った。砥ぎ上げたばかりのキンピカである。
ぬえの雷が二人に急降下爆撃をしかけたのは、その直後であった。
本当のことを云ってしまうと、妹紅は二度と平安京に戻ってくるつもりはなかった。
帰還の発端はぬえの手首の傷痕にあった。
寝ても覚めても熱と痛みを訴えてくるのだそうだ。包帯を代えようが薬を替えようが効果はなく、無視を決めこもうとすればするほど傷痕は悲鳴をあげてくる。
妹紅にだって予感はあった。これは、ただの矢傷ではない。
他の傷は大地が雪に覆われるように塞がってしまうのに、矢を射られた手首だけはこの二十年ちかく癒えることがなかった。それどころか年を経るごとに、痛みの波の間隔は狭まってきている。
ならばその原因はなにか。傷を負ったそもそもの出来事とは何であったか。
――
だからこそ妹紅は嫌々ながら戻ってきたのだ。
忘れたくても忘れられない、この平安京へと。
□ □ □
「ほっほっほ、まったく面白い奴じゃったの。憎まれっ子とはあやつのことを云うのじゃろうな」
「ごめんマミゾウ。なんか藤原のやつ機嫌が悪いみたいでさ」
マミゾウはなんのなんの、と笑った。しかし尻尾の毛がハリネズミのごとく逆立っているのを見ると安心できない。
二人は東三条の森を散歩していた。かつてぬえが住み処としていた森である。
妹紅は酒を呑み腐った挙句、酔っぱらって寝てしまった。
「さて――ここらで好いじゃろう」
「ぬ?」
マミゾウが急に立ち止まったので、ぬえは首をかしげて振り返ろうとした。
その途端に視界が塞がった。力いっぱいに抱きしめられたのだった。
「……このバカたれが」
「マミゾウ?」
「もう諦めかけておったんじゃぞ」
「え」
「生きていればの儲けものじゃ。無茶をするんじゃないぞ、ぬえ」
「……うん」
マミゾウの体温はいつ以来だろうか。
ちょいと力試しに行ってくるなんて飛び立って。
そう、それからだ。
それから射落とされて――。
源頼政、鵺を退治した功績により帝から獅子王を賜る。
その知らせを受け取ったマミゾウがまずしたことは、動揺を悟られないように毛玉に化けたことだった。
はやる気持ちを押さえつけて佐渡を飛び出し、はるばる海を越えて上洛してきたそうだ。
当然のことながら、ぬえは見つからなかった。
バラバラにされて笹の小舟に乗せられ鴨川を下っていったのだと知った。
あやつが簡単にくたばるはずがない。
そう信じて平安京と佐渡を往復すること二十年あまり。
ようやくの再会だった。
「ところで、ぬえよ」
「……なに」
ぬえは顔を上げてマミゾウの背中を見た。久々の尻尾枕は気持ち好すぎて三千世界に悟入しそうだった。
「おぬし背が縮んだかのう?」
不届きなことを訊いてきやがったので、ぬえは尻尾をつねった。それだけは止めてと悲鳴があがった。
「せっかくの雰囲気が台無しじゃないのさ。なにがちっこくなっただよ。今も昔も私は大妖怪のぬえ様よ」
「そういう意味ではなくてじゃなぁ」
マミゾウは尻尾をさすりながら続けた。
「ほれ、さっき飛び回っておったが、だれか怖がってくれたかの」
「うっ」
痛いところを突かれた。昼間に空を翔ける物体なんて鳥に決まっている、そう認識されたのなら怖がってくれないのも当然なのか。
やはりの、とマミゾウはため息を漏らした。馬鹿にされてる気がして腹が立つ。
「なによマミゾウ、本当に晩飯が狸鍋になっちゃうわよ」
「それじゃよ、おぬし、いつから人間のものを平気で食べるようになった?」
「は?」
「いや、違った――人の肉はいつから食べていないんじゃ?」
「お、覚えてないわよ。そんなの。変なこと訊かないで」
変なこと、とマミゾウは繰り返して振り返った。瞳が濁っていた。
「つかぬことを訊くようじゃが……」
歯切れが悪い。夜に鳴くトラツグミよりも不吉な声音だ。
「最近、身体が重くなってきてはおらんか?」
……なんで、そんなことを訊くのだろう。
なんで、そんな心のなかを覗いたように言葉を重ねてくるのだろう。
「さぁね。重くなったのかもしれないし、変わらないようにも感じるけど」
ぬえは誤魔化した。左手首の傷がうずきをあげる。またか、と小さく舌打ちを漏らす。
「……そうかい」
それっきりマミゾウは黙りこくってしまった。なにやらブツブツと呟いているが聞き取れない。
これは夕食は狸鍋だな、とぬえは目をつむった。
けれど、いつまで経っても眠れなかった。
□ □ □
夜が訪れても平安京の騒ぎは静まらない。
何百というかがり火が焚かれて葬列を成し、大路から鴨川を越えて院を取り囲んでいる。
妹紅はとっくの昔に政治への興味を失くしていたが、それでも今の状況がどれくらい深刻なのかは分かる。桓武朝が始まってからの四百年、この地で長きに渡って続いてきた貴族の時代が名実ともに終わったのだ。
変な気持ちだった。
元貴族なのだから感慨のひとつでも抱いて好いだろうに、と思う。
しかし実感が湧かない。どうしても支配者の首がすげ替わっただけに見える。というか貴族も武士も同じに見えてしまう。どっちにしろ百年も経てばみんな骨になっちまうんだ、という思いが先行する。
私もたいがい妖怪みたいなもんだな。
狸からくすねた徳利を傾けて妹紅は笑った。
「くおーら、泥棒猫め」
「にゃうん!?」
妹紅は悲鳴をあげて転がった。頭が割れるかと思った。マミゾウ渾身の拳骨である。
「なにすんだこの野郎!」
「ひとの酒を盗んでおいてよう云うわい」
「あんたは人じゃないから好いだろ」
「こやつめ、ハハハ!」
「ハハハ!」
酒精じゃ、酒精の仕業じゃ、と二人して不気味な笑い声をあげた。
「なぁ妹紅――ぬえのことなんじゃが」
並んで腰かけ呑み直しをしていたとき、マミゾウが口を開いた。
「あいつなら寝てるよ。妖怪の癖に早寝早起きなんて笑っちまうね。お寺に入っても暮らしていけるんじゃないかって思うくらいだ」
「ほう」
マミゾウの頬の赤みがすうっと引いた。
「睡眠までとるようになったようじゃの」
「そういや最初のころは私が寝るたびに、つまんないって叩き起こしてきやがったなぁ」
「寝る子は好く育つもんじゃよ」
「あいつは子供なのか」
「儂にとってはの」
「私にとってもだよ」
「たわけ、おぬしもガキじゃろうが」
「ンだコラ、こちとら四百オーバーだぞ」
「おぬしはガキのままじゃ」
「ぁア?」
「……ぬえの奴から聞いた。一生、子供のまんまなんじゃろ?」
妹紅はマミゾウを睨んだ。
当たり前のことを当たり前のように確かめられただけなのに、なんでこんなに胸が軋んでしまうのだろう。化かされたに違いない。酒と狸に化かされたのだ。明日こそは狸鍋にしてやる。隠し味はこいつの徳利の酒だ。
マミゾウが馴れ馴れしく肩を組んできた。
重いうえに獣臭い酒臭い。悟りを開いた仏僧だって裸足で逃げ帰る。
「のう妹紅よ」
「なに、また減らず口?」
「――頼みがあるんじゃ」
頼み。鍋になる覚悟ができたから遺書を届けて欲しいのだろうか。
酔っぱらった頭でそう考え笑った妹紅を、鋭い眼光が釘づけた。
「ぬえを、大事にしてやってくれ」
「……聞こえないな」
「ぬえを守ってやってくれ」
なにを云ってくれるんだろう。勝手についてきたのはあっちだ、と思いかけて、そういや私が荷物持ちにしたんだったな、と思い出す。どうにも記憶がはっきりしない。
「私としては今でも守ってやってるつもりなんだけどね」
「違うんじゃよ、そうじゃない」
頭を傾けて今にも眠り込みそうだった。ネズミのごとく忙しなく跳ねる耳が、妹紅の白髪に触れた。
「ぬえの奴は、危うい」
「あやうい?」
「獣から成り上がった儂と、心から産まれたあやつは違うんじゃよ、根本的にな」
稼業として妖怪を退治することはあっても深くまで知ろうとは思わなかったから、妹紅には今のマミゾウの言葉がもうひとつ理解できない。人間にしろ妖怪にしろ、迂闊に関わりを持ってしまうと気持ちの後始末が面倒になる。
「頼政公に退治されてしまったのも心配じゃ」
「だから何だってのよ、あいつは今もこうして生きてるじゃないの」
なんだか腹が立ってきた。マミゾウは困った顔をした。云っても分からない子供に手を焼く母親みたいだった。
その母親はけれど頭を撫でてくれることもなく、ただ妹紅の肩をぎゅっと握ってきた。
「儂が云いたいのはさっきの通りじゃよ――ぬえから目を離すな。できるだけ傍にいてやること、それだけじゃ」
□ □ □
ぬえはまどろみから目覚めた。
太陽の匂いがする。気持ち好くなって抱き寄せた。それは妹紅の長い髪だった。
「あ、ごめん」
「いいよ」
妹紅が笑った。顔を見なくても分かった。
「マミゾウは?」
「酔っぱらって寝ちまったから簀巻きにしてきた」
「ちょ」
あったかくてちょうど好いだろ。妹紅はそっけない。
「藤原さぁ、なんでマミゾウに喧嘩腰なわけ」
「さぁね。なんでだろう、自分でも分からない。正体不明だ」
「マミゾウもマミゾウよ。白昼堂々斬り合いなんてらしくないわ」
「お前が正体不明だからいけないんじゃないか?」
「なにそれ、私の本分なんだから仕方ないでしょ」
というか意味がわからない。今日の妹紅はおかしい。いつも頭おかしいけど今日はとびっきりだ。
「そういや頼政の野郎は見つかったのか?」
二人して向かい合って寝転んでいると、妹紅が尋ねてきた。この姿勢で寝ることが習慣になってどれくらい経つだろう、とぬえは思う。目が覚めれば妹紅の顔が目の前にある。時には手を繋ぎ合って眠ることもある。
腐れ縁もここまで続けば断ちがたいものだ。
「ん、駄目。あの中にはいなかった」
「そっか。もう死んでるんじゃないかな」
妹紅の云う「死ぬ」という単語の響きは軽い。本当に軽い。紙風船よりも軽い。その軽さが他の人間とは違うところであり、ぬえが好んでいるところでもある。
「そうかなぁ、なんとなくだけど違う気がするのよね」
「分かるのか」
「うん。痛みが引かないから」
「……そっか」
妹紅の顔が複雑に変化した。この表情の方がよっぽど正体不明じゃない、とぬえは思った。
「わざわざ封獣がやる必要もないだろ。なんなら化け狸にカチコミさせれば好いのに」
「いやさ、藤原。殺すつもりとか、そんなんじゃないんだよ」
はぁ、と妹紅が眉をひそめた。
「ただ訊きたいの」
ぬえは妹紅の紅い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「マミゾウが云ってたんだけど、頼政って奴、どうも帝に嘘ついてたみたい」
「バラバラが笹の舟でなんとかってやつか」
「そうそう。でもね、覚えてるのよ、あの時のこと」
射落とされたときのことだった。地面に叩きつけられた自分にとどめを刺そうと駆け寄ってきた男がいた。いつかと同じように待ったなしの暴力を振るわれた。刀でメッタ刺しにされていたところを、別の男が止めろと叫んだのだ。
「――そいつが頼政ってこと?」
「うん。あれくらいじゃ妖怪は死なないって知ってるくせに」
私は生かされたんだ、それがぬえの出した結論だった。
「それは確かに……妙だね」
「だから訊きたいわけ。どうして助けたのか、なぜ天下の帝に嘘までついたのか」
「ふぅん、それはご苦労なこって」
ぬえはムっと身体を起こした。
「藤原、あんただって気になるでしょ?」
「勘違いするなよ。私はお前のお守りで手いっぱいなの」
「ムキー! 子ども扱いしないでってば!」
もういっちょ雷を落っことしてやろうかと思ったが、どうにも力が入らなかった。
妹紅は頭を両手でかばいながら宣言する。
「そいつはお前の問題だろ。私は都にいるだけでも息苦しくなるんだよ。勘弁してくれ」
「なにさ、ジジイみたいに腰が重くなっちゃってさ」
「ンだコラ、こちとら四百歳超え、あと十数年もすりゃ五百オーバーなんだぞ」
「ふんだ、このロリババア!」
「云ったな、こいつ!」
「云ったよ、バカぁ!」
二人して揉み合った。
お互いをポカポカと叩き合い、スキありとローキックを叩き込む。
いつの間にか笑い声が漏れていた。
阿呆な喧嘩は日常茶飯事なのだ。
それが自分たちの関係のすべてなのだ、とぬえは思っている。
たぶんだけれど、妹紅も同じように思ってくれている。
この軽さこそが私たちのすべてなんだ。
なんのことはない。
不死鳥もそうだ。鵺鳥もそうだ。
風と同じくらいに軽くなければ、空は飛べないのだ。
【番外編 ~ 冬の山小屋にて。】
藤原妹紅の目の前で、相方の妖怪が手紙をしたためている。
眉間に皺を寄せて唸ったり、筆を持ちかえて鼻の頭を掻いたりする。癖の強い黒髪をぐしぐしと掻き毟るから、ますます髪のハネが酷くなる。外を走り回って泥んこになった童のような髪だった。あまりに自由奔放で放っておけないあどけなさを伝えてくる黒髪なのだ。
うぅん――と、もう一つ唸り声を落っことして封獣ぬえが胡坐をかいた膝に頬杖を突く。
短冊形に折り目が並んでいる手紙は、起き上がる力を失って板敷に横たわっている。蝋燭が投げかける光は淡い。書状の文字のひとつひとつが、炎の揺らめきに合わせて舞を踊っている。妖怪は紅色の瞳を鈍く輝かせて、視線を手紙に注いでいるのだった。
小屋の壁が軋んだ。
驚いた蝋燭が火を激しく揺らす。ぬえの顔に寄りかかっていた影が、さよならを告げようと考えたのか一瞬だけ遠ざかって、すぐに帰ってきた。
ぬえが小さな頭を傾けて小屋の粗末な戸を顧みた。吹っ飛んでいないのを確認すると、また手紙に眼差しを浴びせ始めた。
「すごい吹雪だな」
「……え、なに」
「雪」
「あ――うん、あと何日、続くんだろう」
ぬえはこちらを見なかった。それを期待して声を投げてみただけに、球が外れてしまい面白くない気持ちになる。もう一度、ごうごうと壁が鳴りを響かせてこちらをからかってきた。
それは突然の吹雪だった。逃げ込んだ山小屋に閉じこもって、丸一日が経ってしまっていた。天日干しにした川魚をつまみながら気長に待っていたのだが、どうやら自分たちを許してくれる気はなさそうだ。
その
――せっかくだから、今のうちに書いておきたいの。
そう云ってから、ぬえは唸り声を絶やすことなく時間をかけて丁寧に文字を綴ってきたのだ。それもあと数行といったところまで登ってきて、少女の積雪を残した顔にもほのかに春が差してきた。
面白くない。なにがって、出会ってから数十年が経つが相方のそんな顔を見たのは初めてなのだから。この前だって、せっかく歌の詠み方を教えてやろうと思ったのに日が沈むのも待たずに投げ出しやがった。こいつを、ここまで真剣にさせる妖怪の顔を、是非とも拝んでみたいもんだ、と。
「封獣さぁ」
「なに」
「誰に宛てて書いてるの、それ。恋人?」
「ばっか。妖怪をなんだと思ってんのよ」
「私が出てきた世界じゃ、手紙ときたら香を焚きしめた恋文だったからね」
「人間って、やっぱり面倒くさいね。すぐに会える距離なのに、わざわざ手紙を出したりしてさ」
「お前は奥ゆかしさってもんを知らないな」
「知りたくもないね。あっかんぬぇー、だ」
「この野郎……それで、だれ?」
「んー、古くからの友人、かな」
吹雪の猛りが勢いを増した気がした。それでも「友人」という言葉をかき消してくれるには、この山小屋は頑丈すぎた。きっぱり打ち捨てられているくせに、最低限の矜持は守っていやがるのが恨めしい。
「へぇ、そうか……友人、なんだ」
「都に来る前にさ、世話になっちゃって。人間の怖がらせ方とか競い合った。面白い奴だよ」
「そいつも妖怪なの?」
「当たり前でしょ」
「封獣に友人がいたなんて、信じられない」
信じたくない。
「人間の云うのとは、ちょっと響きが違うかな。もっとこう……一緒になって悪戯するみたいな」
「悪友?」
「うん、そうそれ。腐れ縁でも好いかもね」
きひひ。
鵺妖怪は甲高く笑ってみせて、筆の尾で頬をかいた。蝋燭の炎のせいで顔が火照って見える。野苺の赤みが差しているようだ。ひょいと食べたら、さぞ甘酸っぱいことだろう。
ぬえはくすぐったい笑い声をこぼしてから、ふと蝋燭の影に沈んだ。筆の先に墨汁を染みこませて、また続きを綴り始めた。今の会話で思い出したことでもあるのだろう。
無性に喉が渇いた。雪を溶かした竹筒の水を酒盛りのつもりであおった。もちろん酔いなど来ない。宵が首をもたげて小屋を包んでいるだけだ。
「……藤原、あんたは眠ったら? 私、これ書き上げたいから」
「一緒に続き、考えようか」
「やだ。こればっかりは任せらんない」
「そう、おやすみ」
「うん」
板敷の床は冷たかった。氷に寝そべったほうがマシなんじゃないか、と思えてくる。焚き火ができないから、暖をとることが出来ない。囲炉裏すらない。生活するための場所ではないのだ。
心臓の鼓動が吹雪の怨嗟のなかでも耳を刺してくる。何度も寝返りを打った。ぬえの顔が映り込んで慌てて目をそらした。妖怪少女の息遣いまでも感じ取れた。耳がどうかしてしまったのかもしれない。
なまくら刀の鞘をぎゅっと握った。いつもなら、それだけで治まってくれるのだ。
それなのに。
「――っ」
不意打ちだった。心臓が嗚咽を訴えた。血潮の雪崩に呑みこまれた。黒雲を湛えた空が降ってくる。猛吹雪に滅茶苦茶にされる。そんなイメージが頭のなかを飛び回って離れなくなった。こんな吹雪のなかでは、鳥の鳴き声も星の導きも聞こえないじゃないか。
氷の拒絶を染みこませた床の冷たさが、頭を五寸釘で打ち抜いてくる。今すぐ刀を抜き放って首を刎ねてしまいたくなる。そして、そんなことをしても死ねないってことは、痛いほどに分かっている。
「藤原」
蝋燭の明かりが、暗闇に沈んだ。
「やっと、怖がってくれたんだ、私のこと」
ぬえだった。ぬえの紅い瞳が、闇のなかに浮かんでいた。蝋燭の代わりとなって、星の代わりとなって。
「でも……なんだろね、この味。こんな恐怖、初めて食べるかも」
胸に重みを感じた。ぬえが顎を乗せているのだ。雪色の肌が闇に透き通って見えた。覆いかぶさっている少女の身体が、焚き火よりも春の日差しよりも暖かく感じる。毒をまき散らす虫が吸い取られていくのを感じる。嗚咽は休まり、雪崩は治まり、黒雲は去っていった。
「……なんだか、野苺みたい。甘酸っぱい味がする」
「甘酸っぱいって――」
「美味しい……すごく美味しいよ、藤原」
「そりゃ、そうだろ。もっと味わってよ。二度と口にできないかもしれないから」
「もちろん、いただきますっ」
胸に顔を埋めてくる少女の黒髪を撫でてやる。幼い童を思い出す癖っ毛、どれだけ押さえつけても治りやしない。そんな跳ねっ返りの黒髪が、頬を撫でてくれる。二色三対の羽が、背中を撫でてくれる。ぬえのはしゃぐ声が、心臓を撫でてくれる。
たったそれだけのこと。それだけのことなのに。
「ねぇ、藤原――このまま寝ちゃっていいかな?」
「好きにして。私は、ここを動いたりしないから」
「えへへ、おやすみ」
あの夏の朝と、立場が逆だった。吹雪に混じって、泉の奏でる音が蘇ってきた。あの時に分け合った体温が、たったいま感じているぬえの身体の温もりに重なって、溶け合って、呼気となって口から漏れていった。
なんてこった、と思う。
こいつにだけは、慰めてもらいたくなかったのにな。
□ □ □
「それじゃ、ちゃんと届けてよ。頼んだからね」
「便利なもんだなぁ、それ」
「ぬふふ、妖怪だけの特権ってやつ」
翌朝、吹雪は細雪に化けていた。山々は靴底まで雪化粧していた。稜線の向こう、雲の切れ間から朝日が差し込んで光のカーテンを形作っていた。崖下からウグイスの地鳴きが聞こえてくる。春が近いのだ。
ぬえは手紙を託したカラスを大空へと解き放った。正体不明の衣に包まれて雲の向こうへと翔けていく。隣で妹紅が感嘆のため息を漏らす。空を飛べない人間には、さぞかし羨ましいことだろう。
昨夜の妹紅のことは忘れてやることにする。こいつにだって泣きたいときくらいはあるだろうから。身体が風邪をひくことはなくても、心が風邪を患うことはある。それは突然の発作ってやつで、自分だって妹紅に出会ってから何度も襲われている感覚だ。
その度に駆け抜ける手首の痛みは、いつまで経っても慣れることができない。
「そういや傷は大丈夫? 包帯、代えようか」
「ううん、いらないよ。今日は調子が好いから」
下山途中で川を見つけた、その休憩中のことだった。
自分が魚を釣っている一方で妹紅はなまくら刀を砥いでいた。こうして親しんでみると、人間が作る食べ物も存外に悪くない。
「……私もさ、昨日、痛くなったよ。手首じゃないけど」
妹紅が云うから、ぬえは声を投げ返してやる。
「どうせ胸とか頭でしょ。怪我してないのに人間が痛がってるときは、いつもそこだから」
「よく見てるじゃないか」
「そうよ、鋭い観察は作戦成功の肝」
また一匹、釣り上げた。暗緑色に白の斑点が眩しい立派なイワナだった。思わず握りこぶしを作って妹紅のほうを振り返った。少女は刀を砥ぐ手を休めて、丸石にぶつかって泡立つ川面に目をやっていた。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結んでいた。
妹紅の瞳に浮かんだ淡い光は、今にも泡となって消えてしまいそうだった。イワナを葦の壺に放り込んで釣竿を置き、相方の蓬莱人の元へとにじり寄った。
「……藤原?」
「あぁ、ごめん――ねぇ、封獣から見てさ、昨日の私、どんな風に見えた?」
「なんで、そんなこと訊くわけ」
「いつもの私らしくないとか……変、だとか」
ああ、そんなことか。それなら答えなんて決まっている。
「やっぱり藤原は人間なんだなって、そう思ったよ」
「はい?」
「見た目どおりの、人間の女の子みたいだった。昨日の藤原」
「……そ、そんなもんかな」
「そんなもんよ」
首を傾けて頬をかいたり。砥ぎたての刀を空へ向けて振り回したり。
にやけそうな顔を、見られないようにそらしたり。
ほら――そういうところが、人間らしいってんだ。
~ To Be Continued ? ~
.
マミゾウさんと妹紅の歯を剥き出して罵りあってる位の筈なのに どこか呑気でお茶目な
様がなんともいい感じでした もう20数年来の付き合いなんですねぇ妹紅とぬえちゃん
ふたりの軽快なじゃれあいも微笑ましくてよかったです 他にも言いたい所があるのですが
長くなるのでここらへんで また楽しみに待ってます!
頑張って下さい
(しかしExボスたちがこの体たらくで良いのだろうか?)
また、ヤマメとキスメとパルスィの三人組も楽しみに待っています!