※この話は、同作品集内「私と、彼女と、小さな恋」(前編)及び(中編)の続きとなっております。先にそちらに目を通して頂けると幸いです。
「最近、あんまり射命丸様と一緒にいませんよね」
将棋盤の向かい側で椛はそう言った。
ここは、椛の家。今日は非番らしく、久しぶりに遊びに来たのだ。
「だって……文さん最近忙しそうだから」
つい先日山の上に大きな湖と謎の神社が現れた。おかげで妖怪の山は大混乱。山を治める天狗様たちはその対応に追われている。もちろん文さんだって例外じゃない。最近は色んなところを飛び回っているらしく、しばらく会えそうにないと言われている。
「椛だって忙しいんでしょう?」
「まあ、通常より哨戒任務が増えているのは確かですね」
椛も天狗様の中のひとりだ。哨戒の任務を主に担当する白狼天狗様。住んでいる場所が河童の住処に近いのもあって、他の天狗様よりは親しみやすい。が、天狗は天狗、山に何かあれば任務が増えるのも当たり前。今日だって、ようやく取れた休みだそうだ。
「たまの休みだってのに遊びに来ちゃってごめんね」
「いいんですよ。こうしてにとりと将棋をさしている方が息抜きになりますから」
ふ、と椛が表情を緩める。滅多に見せない親友の笑顔。なんとなく気持ちが軽くなる。
「ところでにとり」
「ん?」
「詰みです」
パチン、駒を置く音が響く。盤上を見れば、私の王将の前には椛の銀将が一枚。そして銀将の後ろには金将が一枚。どうあがいても逃げられない状況がつくられていた。
「ま、待った!」
「待ったはなしです」
「くぅ……また負けかぁ……」
諦めて投了する。こうも綺麗に詰まれちゃ逆転なんて出来るわけがない。
ここんとこ負け続きだなぁ。昔は連戦連勝だったのに椛ったら腕を上げて……。
「どうする? もう一局する?」
じゃらじゃらと駒を回収しながら椛に問う。今度こそ勝ちたいところ。
どうしましょうかねぇ、なんて言いながら駒を並べていた椛だが、ふと気付いたように「あ」と声を上げた。
「そういえばにとり、何か見せたいものがあるって言ってませんでした?」
「え? ……あっ」
忘れていた。今日椛の家に来たのは新しく出来たばかりの発明を見てもらうためだったんだっけ。
自分のうっかりさに呆れながら、ゆったりと私は立ち上がる。
「じゃじゃーん! 見て椛、これが私の新発明、『光学迷彩スーツ』だよ!」
「……どこにあるんです?」
いきなり立ち上がって仁王立ちをした私を椛は訝しむように見ている。
「今着てるんだよ、この服が私の発明品」
「へえ。どう見ても普通の服に見えますけど……どんな秘密が?」
「ふっふっふ……実はね、これは――「犬走!!」
まさに説明をしようとしたその時。家の外から椛を呼ぶ大きな声がした。叫ぶように出されているこの声は……普段とは全然違うけど、誰の声だかわかる。文さんの声だ。
「犬走! いないのか犬走!」
声に続いて風の音がする。どうやら家の前に降り立ったらしい。
「……やれやれ、非番のはずなんですけど」
心底めんどくさそうに椛は呟き、立ち上がる。すぐ傍に置いてあった帽子を被ると急いで外に出て行った。
大人しくしていようかと思ったけれど、どうしても気になってこっそり椛の後を追う。
声の主は思った通り文さんで、家の前で椛と話していた。何を言っているのかは聞き取れないが、おそらく仕事の話だろう。二人とも真剣な表情を浮かべている。
「にとり!」
「ひゃいっ!?」
呆然とふたりを眺めていたせいで、椛に名前を呼ばれてびくっとなってしまった。
文さんは今の椛の声で私の存在に気付いたらしく、少し驚いた顔になっている。うぅ……また恥ずかしいとこ見られた……。
「すみません、部屋から盾と剣を持ってきてもらえますか?」
「う、うん。すぐ持ってくるね!」
家の中に引き返し、壁に立てかけてあった椛の盾と剣を持つ。さすがに重い。運ぶくらいは出来るけど、椛のように振り回すのは無理かな。
「椛、持ってきたよ」
「ありがとうございます。……すみません、急な仕事が入りました。話はまた今度で」
「気にしないで、お仕事だもん。気をつけてね」
「はい。行ってきます」
盾と剣を受け取った椛は私から離れて文さんに駆け寄っていく。文さんの方を見て、私は背筋がぞくりとした。
私と椛を見ていたのだろう文さんは、鋭い眼をしていて……何故だかすごく、怖かった。
何か、悪いことしたかな……?
考えるが、わからない。
二人は今にも飛び立ちそうだ。何か言葉をかけたくて、私は叫んだ。
「あの、文さん! お、お気をつけて!」
翼を広げた文さんは私の声に振り向いて一瞬だけ微笑み、そうして、目にも止まらぬ速さで飛び立っていった
後に残されたのは私だけ。
「文さん……」
あの鋭い眼が、焼き付いて離れない。
一体何が、彼女にあんな表情をさせてしまったのだろう……。
「わかんないなぁ」
とりあえず、家主のいないここにいても仕方がない。
荷物を持って、私は椛の家を後にした。
***
妖怪の山、渓谷付近上空。私は人間と対峙していた。
さっき椛が呼ばれたのはこの人間のせいかもしれない。黒白の魔女のような服を着たこの人間は、ただの人間にしては強すぎる。
光学迷彩スーツは壊され、先に進むと危険だという警告すら無視された。盟友の忠告くらい聞いてくれてもよかろうに。
「先に行ってるあいつに手柄を取られるわけにはいかないんでな、悪く思うなよ」
黒白の言葉によるとどうやらもうひとり人間が山に侵入しているらしい。
八百万の神々もおられるこの妖怪の山を登ってくるなんてどういう人間なんだろう。興味が湧く。……黒白にコテンパンにされた後だから、もう戦いたくはないけれど。
だけど、この強い人間なら山の上の神社にいる神様をどうにかしてくれるかもしれない。そんな僅かな希望を抱いて、ほんの少しだけ人間にヒントを与えておいた。後は好きにするといい。
滝の向こうに飛んでいく黒白を眺めながら私は川に身を沈めた。
「……最近の盟友は強いんだなぁ」
あの人間が山の上の神様をどうにかしてくれたら……。
川に浸かりながらぼんやりとそんなことを考える。
「そうしたら、また……」
文さんと一緒にお昼を食べられるようにかなぁ……。
***
新しく山の上に来た神様を黒白と紅白の人間たちが懲らしめてから数日。
あの日から、私は文さんと一言も言葉を交わしていない。会う機会が全然ないのだ。
一度だけ、麓の神社で開かれた宴会で彼女を見かけることはあったのだけれど。その時の彼女は神様や紅白、そしてたくさんの天狗様に囲まれていて、話しかけることなど出来なかった。
「やっぱり河童と天狗様じゃ、住む世界が違うのかなぁ……」
どうしても、壁を感じてしまう。
「……駄目だ。家にいたら暗いことばかり考えちゃう」
川にでも入ろう。そう思ってこじんまりした自分の家から外に出る。
憂鬱な私とは反対で、外は見事な秋晴れだった。
紅葉に染まった木々の間を抜ければ、すぐに私のお気に入りの場所に到着する。山を流れる川の中でも他より少し流れの緩い、あまり他の誰かが来ることのない穴場だ。
もう秋も深くなってきた頃だから水は冷たいかもしれないなあと、そんなことをぼんやりと考えながら川辺に近付く。そうして、澄んだ水面を見下ろすと。
――水中から、秋の神様が私を見ていた。
「…………何をしているんですか、静葉様」
「やあ、久しいな河城の。川の水は冷たいから入る前に準備運動することをお勧めしよう」
ざばぁと音を立てながら川から顔だけを出す静葉様。
またおかしなことをして……。
「そう難しい顔をするな河城の。美人が台無しになるぞ」
「誰のせいだと……だいたい、私は美人なんかじゃないですよ」
顔も身体も平凡だ。こんな河童捕まえて美人なんて言う人はそういないだろう。
平凡じゃないと自信持って言えるのは機械いじりとかそういうことくらいだし。
美人だと言うならそれこそ文さんとか穣子様とか……静葉様も美人だ。人じゃないけど。
「それで、何でまた秋の冷たい川に沈んでいたんですか?」
私は河童だから冷たい水でもまあ平気だけど。
神様が風邪とかを引くことがあるかはよくわからないけど、寒く感じることくらいあるだろう。好き好んで冷たい川に入る理由が私にはわからない。
「……河童の気持ちになっていた」
「……前もそう言いましたけど、河童は川を泳ぎますよ?」
「いや、河童は沈んでおるよ」
川から上がった静葉様が私の隣に立つ。私の肩くらいまでの背丈。
そういえば、私はいつこの神様より大きくなったんだろう。もう覚えてないや。
「河童は自分の思考に沈んでおる。大きな壁の向こうが見えないと、川の底から訴えておる。そうじゃろう? 河城の」
「……どうして」
一言だって静葉様に文さんとの話をしたことなんてないのに。
なんで、どうして、わかってしまうのか。
「わかるさ。わしはこれでも神様じゃからな」
カラカラと静葉様が笑って私の頭をなでる。
なんだか、涙が出そうになった。神様のまえで泣いたりなんて絶対しないけど。
顔を見せたくなくて、ぐっと唇を噛んで俯く。
「のう、河城の」
名を呼ばれ、反射的に視線を上げる。
「祭りはいいぞぉ。なんといっても楽しい。美味しいものもあれば、祭囃子も愉快でなぁ。人も妖も神さえも、みんながいっぺんに遊べる騒げる。壁なんぞ、祭りの力の前には無力じゃよ」
紅葉色のスカートを翻して、お月さま色の髪を揺らして、ずぶ濡れの神様は、子供みたいに笑ってみせた。
「明後日が秋の祭りじゃ。友人でも誘っておいで。妹も、お主に会いたがっておったぞ」
くるくるくるり。舞う紅葉と、踊る神様。
そうして紅葉の神様は、いつも、音もなく去っていく。
山の木々はすっかり色づいた。川の水も冷たくなった。
もう、秋の暮れが、近い。
***
その日、手紙を書いた。
送る相手は想い人。大好きな、憧れの烏天狗様。
内容は秋の祭りへのお誘い。一字一句丁寧に書いて。間違いだって無いように念入りに読み直して。
どうかどうか、いいお返事がもらえますように。
***
秋の祭りの当日。何年ぶりかわからないくらい久しぶりに山を下った。
祭りの会場は人間の里。開始は夕方からだけど、先に行く場所があるから早めに家を出た。
山の中腹程にある、少々入り組んだ道。その先には小さな池と、さらに小さな祠がひとつ。祠にはお供え物を。ここに来る時の習慣だ。
用があるのはここよりもう少し先。懐かしい道をゆっくり進んでいると目的の場所が見えてきた。
目的の場所、それは秋の神様が住む家屋。知る人ぞ知るその家屋は、静かな場所にひっそりと建っている。
「いらっしゃい! 久しぶりだね、にとりちゃん!」
秋の二柱の妹神様、穣子様が私を出迎えてくださった。
優しいお顔と甘い香りに不思議と心がやすらぐ。
「お久しぶりです、穣子様」
「ほんと、何年ぶりだろうねー。もうにとりちゃんもすっかり大きくなっちゃって」
ぽんぽんと頭を軽く叩かれる。穣子様は静葉様よりも背が高いから、私とほぼ同じ背丈だ。
うんと昔は随分見上げていたものだけれど。
「静葉に聞いたけど、にとりちゃん今日のお祭りに行くんでしょう?」
「はい、そのつもりです」
「良かった! じゃあはいこれ!」
半ば押しつけられるように渡されたそれは、どこか見覚えのある紅の布地。
「これ……」
「懐かしいでしょ? にとりちゃんが昔着てた浴衣、新しく仕立て直しちゃった」
小さい頃。ひどい人見知りで人の多いところに行きたくないと駄々をこねる私に、穣子様が着せてくれた紅葉模様の浴衣。それを着ている時は自分に何故だか自信が持てて、嬉々としてお祭りに行ったものだ。
もう小さくなって着られなくなった懐かしいその浴衣が、今私の手の中にある。今の私にも着られる大きさ。
「誰かと一緒に行くのなら目一杯おしゃれしないとね。さ、着つけてあげるからこっちにおいで」
「あ、あの、穣子様……」
ずっと作業場に籠りきりで、何年も顔を見せなかった。手紙やお供え物だって届けていなかった薄情な私に、どうして静葉様も穣子様も、こんなに優しくしてくださるのか。
「にとりちゃん。子供っていうのはね、何年経ってもどれだけ会わなくても、親から見れば可愛くて仕方がない存在なんだよ?」
穣子様に優しく抱きしめられた。
暖かくて、いい香りがして、心が満たされる。
「私や静葉はにとりちゃんの本当のお母さんではないけれど、それでも貴女を我が子のように思ってる。それは今までもこれから先も変わらないから」
ぎゅうっと、穣子様の背中に手を回す。
神様の前では絶対に泣かないって、そう決めていたのに。
こみ上げる熱いものをどうしたって我慢出来なかった。
抱きしめられて、頭をなでられて。これじゃあ本当に子供だなぁと、頭の隅っこで考えながら。結局涙が自然に止まるまでそうしてもらっていた。
「……取り乱して、ごめんなさい」
「謝らなくていいじゃない。子供は親に甘えるものよ。……でも、せっかくお祭りに行くんだからその顔じゃだめね。洗っておいで」
泣きはらした後の今の私の顔は相当ひどいものになっているだろう。素直に顔を洗いに行く。
戻った時穣子様は浴衣を広げて待っておられた。
広げられた紅葉の浴衣は、懐かしさでいっぱいで。けれども昔に比べて大人っぽく仕立て直されている。
普段は結んでいる碧の髪はおろして、そうして浴衣を着た私は、普段の私とはなんだか別人のよう。
「よく似合ってるよ。美人はお得だねー」
「私は美人なんかじゃないですよ?」
「私の娘が美人じゃないわけがない!」
秋の神様は姉妹揃って親ばからしい。
「さ、そろそろ行かないと遅くなっちゃうよ」
「はい。……穣子様」
「ん?」
まだ伝えていない言葉がある。これだけはどうしても伝えておかないと。
「ありがとうございます」
「うん。いってらっしゃい、にとりちゃん」
***
だんだんと日が落ちて暗くなってくる空。浴衣を汚さないように注意しながら山を下っていく。
待ち合わせの時刻を少し過ぎている。提灯の明かりを目印に、お祭り会場へ急いだ。
何年かぶりに訪れた人里は、人も妖怪も神様も、みんなが一緒になって楽しんでいた。
なんだかとっても、懐かしい。
「文さんはどこだろう……」
待ち合わせは人里の入り口だった。けれど、文さんの姿は見えない。
「遅れちゃったしなぁ……」
もしかしたら帰ってしまったんだろうか。
だとしたら……私……。
でも、そんな私の心配は杞憂に終わった。
「にとりさん?」
聞き慣れた声。聞きたかった声。
騒がしい雑踏の中でもスッと耳に入ってくる、文さんの声。
「文さんっ」
いつもと同じ、見慣れた衣装。だけど、帽子はかぶっていない。オフだからだろうか。そういえば椛も休みの日はかぶらないな。
「すみません、遅れてしまって……」
「いえ、気にしないでください私もついさっき着いたばかりなので。……それにしても」
「はい?」
口元に手を当てて、なんだか言いづらそうに口をもごもごさせている文さん。
なんだろう。どこか変なところがあるのかな。
「どうかしました?」
「いや、あの、今日のにとりさんはいつもより……その……かわいいな、と」
「え」
ぼふんっ、と。そんな爆発音でもしたんじゃないかと思うくらいに私の顔は熱くなる。
ははは恥ずかしい……う、嬉しいけど。でも恥ずかしい。
「あ、あ、ありがとうございます」
お礼を言うのが精一杯。
あうあう、今日はいっぱい話したいのにこのままじゃ恥ずかしくて喋られないよう。
周りのヒトが通り過ぎていく中、私と文さんはお互いだんまりと雑踏を眺めている。
「……あの、にとりさん」
沈黙を破ったのは文さんだった。
「せっかくだし、回りましょうか、お祭り」
太陽みたいに笑う文さんの頬は、提灯の明かりに照らされて、ほんのり紅く染まっていた。
「はいっ」
せっかくお祭りに来たのに、楽しまないなんてもったいない。
賑やかな輪の中に二人で飛び込む。
「しかし、この祭りにくるのも久しぶりですねぇ」
「そうなんですか?」
「ええ、最後に来たのはもう何年前になるでしょうか。友人と休暇が被らないことも多くてあまり来ることがなかったんです。ひとりで来るのも少し寂しいですしね」
懐かしいなぁ、なんて呟いて文さんは辺りをきょろきょろと見渡している。その顔がとても楽しそうで、私もなんだか嬉しくなってきた。
「にとりさん何か食べますか?」
「ええと、どうしましょう……」
お祭りの屋台というのはたくさん種類があって目移りしてしまう。
何か軽いものでも食べたいけれど、決められない。
「文さんは何か食べたいものってあります?」
「うーん、目移りしちゃいますねー。あ、あれなんてどうでしょう」
そう言って彼女が指差したのは、八目鰻の屋台。近付いてみて店主が妖怪だということに驚く。
「こんばんは、ミスティアさん。繁盛してますか?」
「あら、文さんいらっしゃい! まあぼちぼちかなー」
どうやら割烹着がよく似合う店主さんは文さんの知り合いらしい。
記者として幻想郷中を飛び回っているだけあって、文さんはとっても顔が広い。
ちょっと、羨ましいな。私は山以外に知り合いはほとんどいないから。
「ここの鰻がまたおいしいんですよ。ミスティアさん、串を二本いただけますか」
「はいよ! なぁに、文さん今日はまたかわいらしい方と一緒ですか。いやー、いいですねぇ」
「もう、からかわないでくださいよ」
「ごめんごめん。すぐ焼くからちょっと待っててくださいね」
店主のミスティアさんは気さくな人で、文さんを始め、訪れるお客さんと楽しそうに会話を弾ませていた。
「はい、串二本お待ちどうさま!」
ミスティアさんから串焼きの鰻を受け取って、私たちはまた歩き出す。
表面がパリパリに焼かれた鰻は、たれがよく合っていてすごく美味しい。
「ほんとに美味しいですね、この鰻」
「でしょう? これがお酒にもよく合うんですよ。今度別の日にミスティアさんのところの屋台に呑みに行きません?」
「わ、ぜひ行きたいです。私お酒はあんまり強くないですけど……」
他愛もない会話を続けながら、人里の中を並んで歩く。
最近はずっと会っていなかったからちゃんと話せるか不安だったけど、大丈夫みたい。
お祭りの力ってすごいんだなぁ。静葉様をちょっとだけ見直した、なんて。
「わっ」
どん、と反対を歩く人にぶつかってしまった。人ごみに押し流されそうになる。
「大丈夫ですかにとりさん」
「へ、平気です。ごめんなさい」
たはは、なんて情けなく笑ってみせると文さんは少し悩んで、それからスッと左手が差し出された。
どういう意味かがわからなくくて首をかしげる。
「その、はぐれたらいけませんし……にとりさんさえ良ければ手を繋ぎませんか?」
「え……」
「ね?」
そんな風ににっこり微笑まれたら、断れないじゃないですか。
頷いて、おずおずと差し出された手を握り返す。
……文さんの手、あったかいな。
歩きながら、またふたり揃って黙ってしまった。さっきまでは楽しくお話できていたのに、今はなんだか気恥ずかしい。
だけど、手から伝わる彼女の体温が嬉しかったり。
「あの、にとりさん」
「なんですか?」
「ちょっと、人混みに酔ってしまったみたいで……申し訳ないのですが静かなところに行きたいのですが」
「だ、大丈夫ですか!? ええと、どっちに行ったらいいかな……」
人間の里の地理がわからず、戸惑う。
そんな私の手を文さんが優しく引いてくれた。
「こちらに。道案内なら任せてください」
いつも思うけど、文さんは紳士的な方だ。
自分の気分が悪いだろうこんな時でさえも私に気を遣ってくださる。
……私がもっと頼りになる河童だったら良かったんだけど。
大通りを抜けて、こじんまりしたひらけた場所に抜けた。周りにヒトはいない。
「誰もいませんね」
「おそらく山車が通る時間だからかと。お祭りに来ている方はそちらに流れているのでしょう」
口に出した疑問に文さんが答えてくれる。
そうか、山車か。そういえばそんなものもあった気がする。
何年も来ていないせいで忘れてしまっていた。
「文さん、気分はどうですか? 何か飲み物でも買ってきましょうか?」
文さんには隅の方に合った岩に腰かけてもらって、私はその前に立った。
お祭りに誘ったのは私だ。責任を感じてしまう。
「大丈夫ですよ。少し休めばよくなりますから」
「それなら、いいんですけど……。すみません、私が祭りに誘ったばっかりに」
「とんでもない! 今日、誘っていただいて本当に嬉しかったんですよ?」
「え……」
「あの異変があったくらいから、にとりさんと会えなくなって……。本当はお昼もお誘いしたかったんですけど、一度機会を逃すとなかなか言い出せないもので。いや、我ながら情けない話ですけど」
文さんも私と同じだったんだ……。
「今日、にとりさんと会えて、こうやってお話出来て、本当に良かったです」
「わ、私もです! ずっと、文さんとお話したくて。でも、文さんお忙しそうでしたし迷惑かなって思っちゃって……あ、あの! またお弁当作って持って行ってもいいですか?」
「もちろん! またにとりさんのお弁当が食べられると思ったら、なんだかお腹が空いちゃいましたね」
「もう、文さんったら……」
そんな風に会話を続けて、ふと気付く。
気分が悪いからとヒトの少ない所に来たのに、こんなふうに話をさせていたら休めないじゃないか。ばかか私は。
「ごめんなさい、文さん気分が悪いのに無理にお話させちゃって。わ、私やっぱり何か飲み物買ってきますね!」
「あ、にとりさん! 待って、待ってください!」
駆けだそうとした私の手を掴んで、文さんが私を引きとめた。
その表情があまりに真剣で戸惑ってしまう。
「……ごめんなさい。人混みに酔ったなんて、嘘なんです」
「え、え? じゃあどうして……」
「貴女に、聞いて欲しい話があって」
手を引かれ、隣に座るよう促された。素直に応じて彼女の隣に座る。
前を見つめる文さんの表情は真剣そのもの。まるで、あの異変の日のようで。
あの日一瞬だけ見た、文さんの鋭い眼を思い出して、背中がぞくりとした。
「にとりさん、私と初めて話した日のこと、覚えていますか?」
「え、それはもちろん……」
忘れもしない。私が文さんの落とした羽ペンを拾って、それを取りに来た文さんに私が……。
「今思うと、友達って『友達になってください』って言ってなるものでもないですよね」
自分の行動を思い返して恥ずかしくなる。
だってあの時はいっぱいいっぱいだったから……そう言い訳をひとつ。
「そうですねー、びっくりしちゃいました。……でも、本当に嬉しかった」
「文さん?」
今日の文さん、なんだか変だ。どこが、なんて言えないけど。なんとなく、そう思う。
文さんは、何を話そうとしているんだ……?
「今日……告白を、しようと思って」
「そう、なんですか……」
告白。きっと例の初恋の相手に。
様子が変だったのは、このことを告げるためだったんだ。
「なんていうか、ついに、って感じですね!」
「そうですね。にとりさんには、告白する勇気をもらいましたから。どうしても先に言いたかったんです」
「そんな、私は何も……」
痛い。ずきんずきんと胸が痛む。
悟られてはいけない。私は文さんの友達なんだ。
友達からの相談をないがしろになんてしちゃ駄目なんだ。
痛む胸の内を悟れないように、気付かれないように顔に笑顔を張り付ける。
文さんは聡い方だから気をつけないと。
「ありがとう、にとりさん。本当に、貴女と友達になれて良かった」
涙が出そう。こらえろ、私。
「それでは、行ってきますかね」
「そっか。文さん頑張って!」
「はい」
立ち上がる文さん。その背中を、私は見送る。見送らなきゃ。
でも……だけど……。
やっぱり――――いやだ。
「「好きですっ!」」
ふたり分の声が、重なった。
「「……え?」」
振り向く文さん。見上げる私。
「な、なんでぇ……?」
ぼろぼろ、ぼろぼろ。こらえていた涙が溢れだす。
文さん好きな人がいるって、だから私は友達で、天狗と河童で壁があって……。
頭の中がごちゃごちゃになって、だめ、考えられない。
「なんでって……に、にとりさんこそ! 私の応援、したり……したのに」
「だ、だってぇ~……」
文さんに好きな人がいるなら諦めるしかないって思うしかないじゃない。
私みたいな平凡な河童が、みんなの憧れの烏天狗様に好きになってもらえるなんて思えないじゃない。
ぼろぼろと泣き崩れる私の髪をそっと文さんの手が梳いていく。
「……にとりさん私以外にも仲の良さそうな友人、いるじゃないですか。犬走とか。それを知ったあと、なんだか胸がもやもやしちゃったり、しまして。それって嫉妬ですよね」
そう言って苦笑を浮かべる文さん。
私はというと涙をこぼすのに忙しくてまともに言葉も発せない。
「もしもしにとりさんー、聞いてますかー? めっちゃ告ってるんですけども」
文さんの言葉にも返事が出来なくて。だけどどうにかして気持ちを返したくて。
精一杯の気持ちを持って、私は、文さんに、大好きな文さんに抱きついた。
「あやさん……っ 文さんが、好きっ、です」
「……はい。私も大好きですよ。にとりさん」
嬉しくて、嬉しくて。
私の涙は暫く止まってくれそうになかった。
なんだか今日は泣いてばっかりだ。
「目が腫れちゃってますね、にとりさん」
ようやく涙が止まったころ。
きっと涙で濡れてぐちゃぐちゃになっている私の顔を文さんが優しく拭いてくれる。
その優しい手つきにもう一度涙が出そうになるが、どうにか堪える。
「そ、そうだ文さんっ 文さん、好きな人が……初恋の人は、どうするんですか!?」
想いが通じて嬉しいけれど、どうしても気になってしまった。
だって、好きな人がいるって言った時の文さんが、私が見た中で一番綺麗だった彼女が、ずっと頭の中にいたから。
あんな表情をさせる相手のことなんて、絶対に忘れられるものじゃないって、わかるから。
「失礼ですけど、にとりさんって、結構鈍感なヒトですよね」
「な、なんで?」
「だから、その、私の初恋の相手は……」
私をまっすぐに見つめる緋色の瞳。
風のように爽やかで、太陽のように眩しい、そんな笑顔を浮かべるそのヒトは――。
「あなたです、にとりさん。ずっとずっと、にとりさんのことが好きだったんです」
――私の大好きな、烏天狗様。
「最近、あんまり射命丸様と一緒にいませんよね」
将棋盤の向かい側で椛はそう言った。
ここは、椛の家。今日は非番らしく、久しぶりに遊びに来たのだ。
「だって……文さん最近忙しそうだから」
つい先日山の上に大きな湖と謎の神社が現れた。おかげで妖怪の山は大混乱。山を治める天狗様たちはその対応に追われている。もちろん文さんだって例外じゃない。最近は色んなところを飛び回っているらしく、しばらく会えそうにないと言われている。
「椛だって忙しいんでしょう?」
「まあ、通常より哨戒任務が増えているのは確かですね」
椛も天狗様の中のひとりだ。哨戒の任務を主に担当する白狼天狗様。住んでいる場所が河童の住処に近いのもあって、他の天狗様よりは親しみやすい。が、天狗は天狗、山に何かあれば任務が増えるのも当たり前。今日だって、ようやく取れた休みだそうだ。
「たまの休みだってのに遊びに来ちゃってごめんね」
「いいんですよ。こうしてにとりと将棋をさしている方が息抜きになりますから」
ふ、と椛が表情を緩める。滅多に見せない親友の笑顔。なんとなく気持ちが軽くなる。
「ところでにとり」
「ん?」
「詰みです」
パチン、駒を置く音が響く。盤上を見れば、私の王将の前には椛の銀将が一枚。そして銀将の後ろには金将が一枚。どうあがいても逃げられない状況がつくられていた。
「ま、待った!」
「待ったはなしです」
「くぅ……また負けかぁ……」
諦めて投了する。こうも綺麗に詰まれちゃ逆転なんて出来るわけがない。
ここんとこ負け続きだなぁ。昔は連戦連勝だったのに椛ったら腕を上げて……。
「どうする? もう一局する?」
じゃらじゃらと駒を回収しながら椛に問う。今度こそ勝ちたいところ。
どうしましょうかねぇ、なんて言いながら駒を並べていた椛だが、ふと気付いたように「あ」と声を上げた。
「そういえばにとり、何か見せたいものがあるって言ってませんでした?」
「え? ……あっ」
忘れていた。今日椛の家に来たのは新しく出来たばかりの発明を見てもらうためだったんだっけ。
自分のうっかりさに呆れながら、ゆったりと私は立ち上がる。
「じゃじゃーん! 見て椛、これが私の新発明、『光学迷彩スーツ』だよ!」
「……どこにあるんです?」
いきなり立ち上がって仁王立ちをした私を椛は訝しむように見ている。
「今着てるんだよ、この服が私の発明品」
「へえ。どう見ても普通の服に見えますけど……どんな秘密が?」
「ふっふっふ……実はね、これは――「犬走!!」
まさに説明をしようとしたその時。家の外から椛を呼ぶ大きな声がした。叫ぶように出されているこの声は……普段とは全然違うけど、誰の声だかわかる。文さんの声だ。
「犬走! いないのか犬走!」
声に続いて風の音がする。どうやら家の前に降り立ったらしい。
「……やれやれ、非番のはずなんですけど」
心底めんどくさそうに椛は呟き、立ち上がる。すぐ傍に置いてあった帽子を被ると急いで外に出て行った。
大人しくしていようかと思ったけれど、どうしても気になってこっそり椛の後を追う。
声の主は思った通り文さんで、家の前で椛と話していた。何を言っているのかは聞き取れないが、おそらく仕事の話だろう。二人とも真剣な表情を浮かべている。
「にとり!」
「ひゃいっ!?」
呆然とふたりを眺めていたせいで、椛に名前を呼ばれてびくっとなってしまった。
文さんは今の椛の声で私の存在に気付いたらしく、少し驚いた顔になっている。うぅ……また恥ずかしいとこ見られた……。
「すみません、部屋から盾と剣を持ってきてもらえますか?」
「う、うん。すぐ持ってくるね!」
家の中に引き返し、壁に立てかけてあった椛の盾と剣を持つ。さすがに重い。運ぶくらいは出来るけど、椛のように振り回すのは無理かな。
「椛、持ってきたよ」
「ありがとうございます。……すみません、急な仕事が入りました。話はまた今度で」
「気にしないで、お仕事だもん。気をつけてね」
「はい。行ってきます」
盾と剣を受け取った椛は私から離れて文さんに駆け寄っていく。文さんの方を見て、私は背筋がぞくりとした。
私と椛を見ていたのだろう文さんは、鋭い眼をしていて……何故だかすごく、怖かった。
何か、悪いことしたかな……?
考えるが、わからない。
二人は今にも飛び立ちそうだ。何か言葉をかけたくて、私は叫んだ。
「あの、文さん! お、お気をつけて!」
翼を広げた文さんは私の声に振り向いて一瞬だけ微笑み、そうして、目にも止まらぬ速さで飛び立っていった
後に残されたのは私だけ。
「文さん……」
あの鋭い眼が、焼き付いて離れない。
一体何が、彼女にあんな表情をさせてしまったのだろう……。
「わかんないなぁ」
とりあえず、家主のいないここにいても仕方がない。
荷物を持って、私は椛の家を後にした。
***
妖怪の山、渓谷付近上空。私は人間と対峙していた。
さっき椛が呼ばれたのはこの人間のせいかもしれない。黒白の魔女のような服を着たこの人間は、ただの人間にしては強すぎる。
光学迷彩スーツは壊され、先に進むと危険だという警告すら無視された。盟友の忠告くらい聞いてくれてもよかろうに。
「先に行ってるあいつに手柄を取られるわけにはいかないんでな、悪く思うなよ」
黒白の言葉によるとどうやらもうひとり人間が山に侵入しているらしい。
八百万の神々もおられるこの妖怪の山を登ってくるなんてどういう人間なんだろう。興味が湧く。……黒白にコテンパンにされた後だから、もう戦いたくはないけれど。
だけど、この強い人間なら山の上の神社にいる神様をどうにかしてくれるかもしれない。そんな僅かな希望を抱いて、ほんの少しだけ人間にヒントを与えておいた。後は好きにするといい。
滝の向こうに飛んでいく黒白を眺めながら私は川に身を沈めた。
「……最近の盟友は強いんだなぁ」
あの人間が山の上の神様をどうにかしてくれたら……。
川に浸かりながらぼんやりとそんなことを考える。
「そうしたら、また……」
文さんと一緒にお昼を食べられるようにかなぁ……。
***
新しく山の上に来た神様を黒白と紅白の人間たちが懲らしめてから数日。
あの日から、私は文さんと一言も言葉を交わしていない。会う機会が全然ないのだ。
一度だけ、麓の神社で開かれた宴会で彼女を見かけることはあったのだけれど。その時の彼女は神様や紅白、そしてたくさんの天狗様に囲まれていて、話しかけることなど出来なかった。
「やっぱり河童と天狗様じゃ、住む世界が違うのかなぁ……」
どうしても、壁を感じてしまう。
「……駄目だ。家にいたら暗いことばかり考えちゃう」
川にでも入ろう。そう思ってこじんまりした自分の家から外に出る。
憂鬱な私とは反対で、外は見事な秋晴れだった。
紅葉に染まった木々の間を抜ければ、すぐに私のお気に入りの場所に到着する。山を流れる川の中でも他より少し流れの緩い、あまり他の誰かが来ることのない穴場だ。
もう秋も深くなってきた頃だから水は冷たいかもしれないなあと、そんなことをぼんやりと考えながら川辺に近付く。そうして、澄んだ水面を見下ろすと。
――水中から、秋の神様が私を見ていた。
「…………何をしているんですか、静葉様」
「やあ、久しいな河城の。川の水は冷たいから入る前に準備運動することをお勧めしよう」
ざばぁと音を立てながら川から顔だけを出す静葉様。
またおかしなことをして……。
「そう難しい顔をするな河城の。美人が台無しになるぞ」
「誰のせいだと……だいたい、私は美人なんかじゃないですよ」
顔も身体も平凡だ。こんな河童捕まえて美人なんて言う人はそういないだろう。
平凡じゃないと自信持って言えるのは機械いじりとかそういうことくらいだし。
美人だと言うならそれこそ文さんとか穣子様とか……静葉様も美人だ。人じゃないけど。
「それで、何でまた秋の冷たい川に沈んでいたんですか?」
私は河童だから冷たい水でもまあ平気だけど。
神様が風邪とかを引くことがあるかはよくわからないけど、寒く感じることくらいあるだろう。好き好んで冷たい川に入る理由が私にはわからない。
「……河童の気持ちになっていた」
「……前もそう言いましたけど、河童は川を泳ぎますよ?」
「いや、河童は沈んでおるよ」
川から上がった静葉様が私の隣に立つ。私の肩くらいまでの背丈。
そういえば、私はいつこの神様より大きくなったんだろう。もう覚えてないや。
「河童は自分の思考に沈んでおる。大きな壁の向こうが見えないと、川の底から訴えておる。そうじゃろう? 河城の」
「……どうして」
一言だって静葉様に文さんとの話をしたことなんてないのに。
なんで、どうして、わかってしまうのか。
「わかるさ。わしはこれでも神様じゃからな」
カラカラと静葉様が笑って私の頭をなでる。
なんだか、涙が出そうになった。神様のまえで泣いたりなんて絶対しないけど。
顔を見せたくなくて、ぐっと唇を噛んで俯く。
「のう、河城の」
名を呼ばれ、反射的に視線を上げる。
「祭りはいいぞぉ。なんといっても楽しい。美味しいものもあれば、祭囃子も愉快でなぁ。人も妖も神さえも、みんながいっぺんに遊べる騒げる。壁なんぞ、祭りの力の前には無力じゃよ」
紅葉色のスカートを翻して、お月さま色の髪を揺らして、ずぶ濡れの神様は、子供みたいに笑ってみせた。
「明後日が秋の祭りじゃ。友人でも誘っておいで。妹も、お主に会いたがっておったぞ」
くるくるくるり。舞う紅葉と、踊る神様。
そうして紅葉の神様は、いつも、音もなく去っていく。
山の木々はすっかり色づいた。川の水も冷たくなった。
もう、秋の暮れが、近い。
***
その日、手紙を書いた。
送る相手は想い人。大好きな、憧れの烏天狗様。
内容は秋の祭りへのお誘い。一字一句丁寧に書いて。間違いだって無いように念入りに読み直して。
どうかどうか、いいお返事がもらえますように。
***
秋の祭りの当日。何年ぶりかわからないくらい久しぶりに山を下った。
祭りの会場は人間の里。開始は夕方からだけど、先に行く場所があるから早めに家を出た。
山の中腹程にある、少々入り組んだ道。その先には小さな池と、さらに小さな祠がひとつ。祠にはお供え物を。ここに来る時の習慣だ。
用があるのはここよりもう少し先。懐かしい道をゆっくり進んでいると目的の場所が見えてきた。
目的の場所、それは秋の神様が住む家屋。知る人ぞ知るその家屋は、静かな場所にひっそりと建っている。
「いらっしゃい! 久しぶりだね、にとりちゃん!」
秋の二柱の妹神様、穣子様が私を出迎えてくださった。
優しいお顔と甘い香りに不思議と心がやすらぐ。
「お久しぶりです、穣子様」
「ほんと、何年ぶりだろうねー。もうにとりちゃんもすっかり大きくなっちゃって」
ぽんぽんと頭を軽く叩かれる。穣子様は静葉様よりも背が高いから、私とほぼ同じ背丈だ。
うんと昔は随分見上げていたものだけれど。
「静葉に聞いたけど、にとりちゃん今日のお祭りに行くんでしょう?」
「はい、そのつもりです」
「良かった! じゃあはいこれ!」
半ば押しつけられるように渡されたそれは、どこか見覚えのある紅の布地。
「これ……」
「懐かしいでしょ? にとりちゃんが昔着てた浴衣、新しく仕立て直しちゃった」
小さい頃。ひどい人見知りで人の多いところに行きたくないと駄々をこねる私に、穣子様が着せてくれた紅葉模様の浴衣。それを着ている時は自分に何故だか自信が持てて、嬉々としてお祭りに行ったものだ。
もう小さくなって着られなくなった懐かしいその浴衣が、今私の手の中にある。今の私にも着られる大きさ。
「誰かと一緒に行くのなら目一杯おしゃれしないとね。さ、着つけてあげるからこっちにおいで」
「あ、あの、穣子様……」
ずっと作業場に籠りきりで、何年も顔を見せなかった。手紙やお供え物だって届けていなかった薄情な私に、どうして静葉様も穣子様も、こんなに優しくしてくださるのか。
「にとりちゃん。子供っていうのはね、何年経ってもどれだけ会わなくても、親から見れば可愛くて仕方がない存在なんだよ?」
穣子様に優しく抱きしめられた。
暖かくて、いい香りがして、心が満たされる。
「私や静葉はにとりちゃんの本当のお母さんではないけれど、それでも貴女を我が子のように思ってる。それは今までもこれから先も変わらないから」
ぎゅうっと、穣子様の背中に手を回す。
神様の前では絶対に泣かないって、そう決めていたのに。
こみ上げる熱いものをどうしたって我慢出来なかった。
抱きしめられて、頭をなでられて。これじゃあ本当に子供だなぁと、頭の隅っこで考えながら。結局涙が自然に止まるまでそうしてもらっていた。
「……取り乱して、ごめんなさい」
「謝らなくていいじゃない。子供は親に甘えるものよ。……でも、せっかくお祭りに行くんだからその顔じゃだめね。洗っておいで」
泣きはらした後の今の私の顔は相当ひどいものになっているだろう。素直に顔を洗いに行く。
戻った時穣子様は浴衣を広げて待っておられた。
広げられた紅葉の浴衣は、懐かしさでいっぱいで。けれども昔に比べて大人っぽく仕立て直されている。
普段は結んでいる碧の髪はおろして、そうして浴衣を着た私は、普段の私とはなんだか別人のよう。
「よく似合ってるよ。美人はお得だねー」
「私は美人なんかじゃないですよ?」
「私の娘が美人じゃないわけがない!」
秋の神様は姉妹揃って親ばからしい。
「さ、そろそろ行かないと遅くなっちゃうよ」
「はい。……穣子様」
「ん?」
まだ伝えていない言葉がある。これだけはどうしても伝えておかないと。
「ありがとうございます」
「うん。いってらっしゃい、にとりちゃん」
***
だんだんと日が落ちて暗くなってくる空。浴衣を汚さないように注意しながら山を下っていく。
待ち合わせの時刻を少し過ぎている。提灯の明かりを目印に、お祭り会場へ急いだ。
何年かぶりに訪れた人里は、人も妖怪も神様も、みんなが一緒になって楽しんでいた。
なんだかとっても、懐かしい。
「文さんはどこだろう……」
待ち合わせは人里の入り口だった。けれど、文さんの姿は見えない。
「遅れちゃったしなぁ……」
もしかしたら帰ってしまったんだろうか。
だとしたら……私……。
でも、そんな私の心配は杞憂に終わった。
「にとりさん?」
聞き慣れた声。聞きたかった声。
騒がしい雑踏の中でもスッと耳に入ってくる、文さんの声。
「文さんっ」
いつもと同じ、見慣れた衣装。だけど、帽子はかぶっていない。オフだからだろうか。そういえば椛も休みの日はかぶらないな。
「すみません、遅れてしまって……」
「いえ、気にしないでください私もついさっき着いたばかりなので。……それにしても」
「はい?」
口元に手を当てて、なんだか言いづらそうに口をもごもごさせている文さん。
なんだろう。どこか変なところがあるのかな。
「どうかしました?」
「いや、あの、今日のにとりさんはいつもより……その……かわいいな、と」
「え」
ぼふんっ、と。そんな爆発音でもしたんじゃないかと思うくらいに私の顔は熱くなる。
ははは恥ずかしい……う、嬉しいけど。でも恥ずかしい。
「あ、あ、ありがとうございます」
お礼を言うのが精一杯。
あうあう、今日はいっぱい話したいのにこのままじゃ恥ずかしくて喋られないよう。
周りのヒトが通り過ぎていく中、私と文さんはお互いだんまりと雑踏を眺めている。
「……あの、にとりさん」
沈黙を破ったのは文さんだった。
「せっかくだし、回りましょうか、お祭り」
太陽みたいに笑う文さんの頬は、提灯の明かりに照らされて、ほんのり紅く染まっていた。
「はいっ」
せっかくお祭りに来たのに、楽しまないなんてもったいない。
賑やかな輪の中に二人で飛び込む。
「しかし、この祭りにくるのも久しぶりですねぇ」
「そうなんですか?」
「ええ、最後に来たのはもう何年前になるでしょうか。友人と休暇が被らないことも多くてあまり来ることがなかったんです。ひとりで来るのも少し寂しいですしね」
懐かしいなぁ、なんて呟いて文さんは辺りをきょろきょろと見渡している。その顔がとても楽しそうで、私もなんだか嬉しくなってきた。
「にとりさん何か食べますか?」
「ええと、どうしましょう……」
お祭りの屋台というのはたくさん種類があって目移りしてしまう。
何か軽いものでも食べたいけれど、決められない。
「文さんは何か食べたいものってあります?」
「うーん、目移りしちゃいますねー。あ、あれなんてどうでしょう」
そう言って彼女が指差したのは、八目鰻の屋台。近付いてみて店主が妖怪だということに驚く。
「こんばんは、ミスティアさん。繁盛してますか?」
「あら、文さんいらっしゃい! まあぼちぼちかなー」
どうやら割烹着がよく似合う店主さんは文さんの知り合いらしい。
記者として幻想郷中を飛び回っているだけあって、文さんはとっても顔が広い。
ちょっと、羨ましいな。私は山以外に知り合いはほとんどいないから。
「ここの鰻がまたおいしいんですよ。ミスティアさん、串を二本いただけますか」
「はいよ! なぁに、文さん今日はまたかわいらしい方と一緒ですか。いやー、いいですねぇ」
「もう、からかわないでくださいよ」
「ごめんごめん。すぐ焼くからちょっと待っててくださいね」
店主のミスティアさんは気さくな人で、文さんを始め、訪れるお客さんと楽しそうに会話を弾ませていた。
「はい、串二本お待ちどうさま!」
ミスティアさんから串焼きの鰻を受け取って、私たちはまた歩き出す。
表面がパリパリに焼かれた鰻は、たれがよく合っていてすごく美味しい。
「ほんとに美味しいですね、この鰻」
「でしょう? これがお酒にもよく合うんですよ。今度別の日にミスティアさんのところの屋台に呑みに行きません?」
「わ、ぜひ行きたいです。私お酒はあんまり強くないですけど……」
他愛もない会話を続けながら、人里の中を並んで歩く。
最近はずっと会っていなかったからちゃんと話せるか不安だったけど、大丈夫みたい。
お祭りの力ってすごいんだなぁ。静葉様をちょっとだけ見直した、なんて。
「わっ」
どん、と反対を歩く人にぶつかってしまった。人ごみに押し流されそうになる。
「大丈夫ですかにとりさん」
「へ、平気です。ごめんなさい」
たはは、なんて情けなく笑ってみせると文さんは少し悩んで、それからスッと左手が差し出された。
どういう意味かがわからなくくて首をかしげる。
「その、はぐれたらいけませんし……にとりさんさえ良ければ手を繋ぎませんか?」
「え……」
「ね?」
そんな風ににっこり微笑まれたら、断れないじゃないですか。
頷いて、おずおずと差し出された手を握り返す。
……文さんの手、あったかいな。
歩きながら、またふたり揃って黙ってしまった。さっきまでは楽しくお話できていたのに、今はなんだか気恥ずかしい。
だけど、手から伝わる彼女の体温が嬉しかったり。
「あの、にとりさん」
「なんですか?」
「ちょっと、人混みに酔ってしまったみたいで……申し訳ないのですが静かなところに行きたいのですが」
「だ、大丈夫ですか!? ええと、どっちに行ったらいいかな……」
人間の里の地理がわからず、戸惑う。
そんな私の手を文さんが優しく引いてくれた。
「こちらに。道案内なら任せてください」
いつも思うけど、文さんは紳士的な方だ。
自分の気分が悪いだろうこんな時でさえも私に気を遣ってくださる。
……私がもっと頼りになる河童だったら良かったんだけど。
大通りを抜けて、こじんまりしたひらけた場所に抜けた。周りにヒトはいない。
「誰もいませんね」
「おそらく山車が通る時間だからかと。お祭りに来ている方はそちらに流れているのでしょう」
口に出した疑問に文さんが答えてくれる。
そうか、山車か。そういえばそんなものもあった気がする。
何年も来ていないせいで忘れてしまっていた。
「文さん、気分はどうですか? 何か飲み物でも買ってきましょうか?」
文さんには隅の方に合った岩に腰かけてもらって、私はその前に立った。
お祭りに誘ったのは私だ。責任を感じてしまう。
「大丈夫ですよ。少し休めばよくなりますから」
「それなら、いいんですけど……。すみません、私が祭りに誘ったばっかりに」
「とんでもない! 今日、誘っていただいて本当に嬉しかったんですよ?」
「え……」
「あの異変があったくらいから、にとりさんと会えなくなって……。本当はお昼もお誘いしたかったんですけど、一度機会を逃すとなかなか言い出せないもので。いや、我ながら情けない話ですけど」
文さんも私と同じだったんだ……。
「今日、にとりさんと会えて、こうやってお話出来て、本当に良かったです」
「わ、私もです! ずっと、文さんとお話したくて。でも、文さんお忙しそうでしたし迷惑かなって思っちゃって……あ、あの! またお弁当作って持って行ってもいいですか?」
「もちろん! またにとりさんのお弁当が食べられると思ったら、なんだかお腹が空いちゃいましたね」
「もう、文さんったら……」
そんな風に会話を続けて、ふと気付く。
気分が悪いからとヒトの少ない所に来たのに、こんなふうに話をさせていたら休めないじゃないか。ばかか私は。
「ごめんなさい、文さん気分が悪いのに無理にお話させちゃって。わ、私やっぱり何か飲み物買ってきますね!」
「あ、にとりさん! 待って、待ってください!」
駆けだそうとした私の手を掴んで、文さんが私を引きとめた。
その表情があまりに真剣で戸惑ってしまう。
「……ごめんなさい。人混みに酔ったなんて、嘘なんです」
「え、え? じゃあどうして……」
「貴女に、聞いて欲しい話があって」
手を引かれ、隣に座るよう促された。素直に応じて彼女の隣に座る。
前を見つめる文さんの表情は真剣そのもの。まるで、あの異変の日のようで。
あの日一瞬だけ見た、文さんの鋭い眼を思い出して、背中がぞくりとした。
「にとりさん、私と初めて話した日のこと、覚えていますか?」
「え、それはもちろん……」
忘れもしない。私が文さんの落とした羽ペンを拾って、それを取りに来た文さんに私が……。
「今思うと、友達って『友達になってください』って言ってなるものでもないですよね」
自分の行動を思い返して恥ずかしくなる。
だってあの時はいっぱいいっぱいだったから……そう言い訳をひとつ。
「そうですねー、びっくりしちゃいました。……でも、本当に嬉しかった」
「文さん?」
今日の文さん、なんだか変だ。どこが、なんて言えないけど。なんとなく、そう思う。
文さんは、何を話そうとしているんだ……?
「今日……告白を、しようと思って」
「そう、なんですか……」
告白。きっと例の初恋の相手に。
様子が変だったのは、このことを告げるためだったんだ。
「なんていうか、ついに、って感じですね!」
「そうですね。にとりさんには、告白する勇気をもらいましたから。どうしても先に言いたかったんです」
「そんな、私は何も……」
痛い。ずきんずきんと胸が痛む。
悟られてはいけない。私は文さんの友達なんだ。
友達からの相談をないがしろになんてしちゃ駄目なんだ。
痛む胸の内を悟れないように、気付かれないように顔に笑顔を張り付ける。
文さんは聡い方だから気をつけないと。
「ありがとう、にとりさん。本当に、貴女と友達になれて良かった」
涙が出そう。こらえろ、私。
「それでは、行ってきますかね」
「そっか。文さん頑張って!」
「はい」
立ち上がる文さん。その背中を、私は見送る。見送らなきゃ。
でも……だけど……。
やっぱり――――いやだ。
「「好きですっ!」」
ふたり分の声が、重なった。
「「……え?」」
振り向く文さん。見上げる私。
「な、なんでぇ……?」
ぼろぼろ、ぼろぼろ。こらえていた涙が溢れだす。
文さん好きな人がいるって、だから私は友達で、天狗と河童で壁があって……。
頭の中がごちゃごちゃになって、だめ、考えられない。
「なんでって……に、にとりさんこそ! 私の応援、したり……したのに」
「だ、だってぇ~……」
文さんに好きな人がいるなら諦めるしかないって思うしかないじゃない。
私みたいな平凡な河童が、みんなの憧れの烏天狗様に好きになってもらえるなんて思えないじゃない。
ぼろぼろと泣き崩れる私の髪をそっと文さんの手が梳いていく。
「……にとりさん私以外にも仲の良さそうな友人、いるじゃないですか。犬走とか。それを知ったあと、なんだか胸がもやもやしちゃったり、しまして。それって嫉妬ですよね」
そう言って苦笑を浮かべる文さん。
私はというと涙をこぼすのに忙しくてまともに言葉も発せない。
「もしもしにとりさんー、聞いてますかー? めっちゃ告ってるんですけども」
文さんの言葉にも返事が出来なくて。だけどどうにかして気持ちを返したくて。
精一杯の気持ちを持って、私は、文さんに、大好きな文さんに抱きついた。
「あやさん……っ 文さんが、好きっ、です」
「……はい。私も大好きですよ。にとりさん」
嬉しくて、嬉しくて。
私の涙は暫く止まってくれそうになかった。
なんだか今日は泣いてばっかりだ。
「目が腫れちゃってますね、にとりさん」
ようやく涙が止まったころ。
きっと涙で濡れてぐちゃぐちゃになっている私の顔を文さんが優しく拭いてくれる。
その優しい手つきにもう一度涙が出そうになるが、どうにか堪える。
「そ、そうだ文さんっ 文さん、好きな人が……初恋の人は、どうするんですか!?」
想いが通じて嬉しいけれど、どうしても気になってしまった。
だって、好きな人がいるって言った時の文さんが、私が見た中で一番綺麗だった彼女が、ずっと頭の中にいたから。
あんな表情をさせる相手のことなんて、絶対に忘れられるものじゃないって、わかるから。
「失礼ですけど、にとりさんって、結構鈍感なヒトですよね」
「な、なんで?」
「だから、その、私の初恋の相手は……」
私をまっすぐに見つめる緋色の瞳。
風のように爽やかで、太陽のように眩しい、そんな笑顔を浮かべるそのヒトは――。
「あなたです、にとりさん。ずっとずっと、にとりさんのことが好きだったんです」
――私の大好きな、烏天狗様。
無事に二人が結ばれて良かったです。
こんな頼もしい保護者二柱に見守られていることがわかれば、以前は出なかった勇気も出ようというものですね
にとり頑張った
貴方様のコメントを毎回励みにさせていただいております。
いつもありがとうございます!
>2様
コメントありがとうございます!
穣子様が静葉様のような口調で話されている姿は何故だか想像できず、このような口調となりました。
保護者二柱の愛とにとりの勇気が表現出来ていれば、と思います。