はじめに。
一部、勝手な設定・解釈が含まれていると思われます。
また、理由もあり、前編・後編と区切っております。
あらかじめご了承ください。
※
「てゐが小憎らしい悪戯好きの末娘で、姫は物静かなんだけど我が強い長女、うどんげはしっかり者のようでその実どこか抜けている次女ね」
と師匠が言った。なんてことを言うのだろうか。信じられない。
てゐは師匠の言葉を聞いて楽しそうに笑っている。あろうことか、姫までもが「そうねえ」などと呑気に言いながら微笑んでいる。
「そんなの駄目です!」とわたしは言った。駄目に決まっている。「わたしは、姫を守る立場にある者です。姫と姉妹だなんてそんなふうにはなれません」
すると、姫が言ったのだ。
「やあねえ、頑固者の妹はきらいよ。ねえ?」
その言葉に、わたし以外の皆は笑った。
わたしは恥ずかしさのあまり赤面した。きっと、耳元まで真っ赤になっていることだろう。
※
竹林の上空までたどり着いた八雲紫は永遠亭の見当をつけて降下した。竹林の陰に全身が染まると、急に肌寒さを感じる。その温度差のせいか、竹林のなかと外ではまるで別世界のようだった。
永遠亭に近づいた紫は、昔、この屋敷で博麗神社の巫女とともに異変解決のため奮闘したことがあったのを思い出した。あれは何年前のことであったか。ずいぶんと懐かしい思い出だった。
永遠亭はなにやら騒がしかった。屋敷の外にいるというのに金切り声が聞こえてくる。
屋敷の戸を開き、訪問したことを告げる。が、「そればっかりじゃないの!」という大音声にかき消された。紫はいくらか考えた末、勝手にあがることにした。
長い廊下を進む。竹林の陰による影響だろう、屋敷全体が涼しく感じられる。廊下は特別ひんやりとしているようであった。
金切り声は途絶えることがない。どうやら誰かが一方的にまくし立て、それを他の何者かが宥めようとしているようだった。
「誰かいないのかしら?」
紫は廊下を進みながら今一度、自分の来訪を告げる。
ややあって、慌てたようにひとりの兎がやってきた。頭上の長い耳と腰の下まで垂らした髪が、足を踏み出すたびに揺れる。目的の兎だった。
「あら、いらっしゃい。お師さんは今手が離せない状態よ」
兎は言葉だけはすまなさそうにして言う。永遠亭を訪問する多くは、兎の師であるここの薬師目当てに来るのだろう。
「医師なんかに用はないわ」
「医師じゃなくて薬師です」
「どっちだっていいじゃないの。貴女に用があるのよ」
「わたし?」
「貴女、確かうどんこって言うのよね」
「師にうどんげと呼ばれることはあるわ」
「うどんこじゃなかったの?」
「正しくは、うどんげいん、よ。鈴仙・優曇華院・イナバ」
「長ったらしい。うどんこにしなさい」
「間違いを正当化しようとしないでちょうだい」
うどんげは呆れたように言う。
紫とうどんげが他愛無い話に興じているあいだも、屋敷のどこかで誰かが口喧嘩をしているようだった。紫が口喧嘩に気を取られ、ふいとその声のするほうへと顔を向けた。この廊下のずっと先、いくつも並ぶ戸のいずれかに当事者がいるのだろう。
「それで、いったいどんなご用?」
口喧嘩への注意をそぐように、うどんげが言った。つられて紫が顔の向きを戻す。
「なにか異変はないかしら」
「そんなもの、ここにはもうないわ」
「この奥で今まさに異変が起ころうとしているんじゃないかしら?」
紫はそう言うとニヤリと笑った。
うどんげは紫の言意をすぐに察した。
「そこまでのものじゃないわ」
「そうかしら?」
「お察しのとおり、いつもの母娘の口喧嘩だけど」
矢っ張り、といった様子で紫は頷いた。むろん、当該の者二名が本当の母娘ではないことは知っている。
廊下の奥にある無数の戸のうち、ひとつが勢いよく開いた。
「ついてこないでちょうだい!」
「それはできません」
開かれた戸から現れたのは、顔を紅潮させて大股で歩くひとりの少女だった。そのすぐ後から「姫をひとりになんてできませんから」と言いながら、しかめっ面をした女性が現れた。前者がこの屋敷の主である蓬莱山輝夜であり、後者がうどんげに師と称され、また、薬師を務める八意永淋である。まわりからは専ら医師だと思われている。
「おふたりとも。客人のまえですよ」
現れたふたりのもとに、うどんげが慌てて駆け寄る。
「いつもいつも五月蠅いのよ」輝夜は一度間を置いた。「『どこへ行くの?』」声色を変えて話し出す。「『お伴する者は何人?』『なにしに行くの?』『いついつまでは帰りなさい』『そこへ行ってはなりませんよ』」
「姫のためです」
対する永淋は表情ひとつ変えない。よくあることなのだろう。
「姫様! 師匠!」うどんげが大きな声を出してふたりに割って入った。「お客人のまえです」
それで輝夜と永淋は黙り込んだ。うどんげは叱責するかのようにふたりを睨んでいる。いくばくかのあいだ、間の抜けた沈黙が流れた。
てゐはどこにいったのだろうか? うどんげはそう思った。一人ではこの喧嘩は止められない。手伝ってほしいのに。
「気が付かなかったわ。ごめんなさいね」
やがて永淋が紫へと顔を向け、笑顔で挨拶をした。輝夜も笑顔をつくろうと試みてはいたが、興奮がおさまらず、うまくいかないようだった。しかし一歩前に出て「見苦しいところをお見せしたわね」と言い、屋敷の主としての威厳を保とうとはする。
「どういったご用件で?」
と永淋が言う。
「師匠。実は、紫さんは、その」
うどんげが口を挟む。客人は、異変はないのか、と言った。もはや何年も前になるが、たしかに前科があった。懐かしい記憶である。だがそれにしても、あまりにも失礼な用件ではないだろうか? この幻想郷において異変とはすなわち悪とされがちである。しかし客人はあの八雲紫だ。難しいところだった。
紫はうどんげの心情を察しているのか、いないのか――はたまたなにも考えていないのか。感情を読み取りにくい表情で口を開いた。
「ねえ、異変を起こしてくださらない?」
紫は異変を求めていた。
近頃、異変があまりに起こらないのである。
それは傍若無人な博麗霊夢を恐れてのことであったり、異変を起こしたところで自警団気取りの者や興味本位でやってくる者に解決される他はないと諦めてのことであったりするのだろうと予想される。その両方なのかもしれない。あるいは、ただ単に異変を起こそうと考える輩が偶然にもここ十余年ほどいないだけなのかもしれない。紅い霧が幻想郷をうす暗く包んだり、永遠かと思われるような夜が続いたりしたのは、彼これ十何年も前の話だった。
異変が起こらないということは治安が良いと捉えがちである。幻想郷のためになっていると思われがちである。いや、確かに治安事態は良くはなっているのかもしれない。だが――。
ところで、幻想郷には雑多な妖怪と人間がいる。
人間と妖怪にはルールがあった。幻想郷が生まれる前からのルールである。
妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する。
どちらかといえば、次のような迫観念的な暗黙のルールであったと言えよう。
妖怪は人間を襲うようにできており、
人間は妖怪を退治せねばならない。
なにしろ妖怪とは、根本的には人間の存在なくては発生しないものである。
もちろん人間を襲わない妖怪も存在するし、すべての人間が妖怪を退治できるわけではない。後者など、退治できる者のほうがすくないと言って差し支えがない。よって、妖怪を退治できる者は無類の強大な力を持っていなければならない。幻想郷においては博麗神社の巫女がそれに当たる。
新しい博麗の巫女は修行を怠っている。それでいて、異変は起こらない。実践に勝る訓練はなし。このままではその力が伸びないのではなかろうか?
確かに異変が起こらなければ幻想郷自体は平和になる。だが人間が妖怪を退治できなくなってしまえば、妖怪と人間の関係は根底から覆されてしまう。それは幻想郷にとって佳良とは言えない。――幻想郷のためになっていないと先ほど述べたのはこのためである。
そうして紫は異変を求め始めた。同様に、式にも捜索をさせている。いろいろな場所へ行った。だが、異変というものは自ら探すとなかなか現れないものらしい。
異変を求めて多くの場所に行った。だが異変はその姿を見せない。
風見幽香のもとを訪れたこともある。永遠亭を訪れる、つい先ほどのことだ。そもそも異変を探すことは諦めて、誰かに起こしてもらえばいいのではないだろうか――紫はそんな風に考え始めていた。闇雲に探すよりも実際に発生させてしまえば手間が省ける。
やはり幽香は花に囲まれていた。花の世話をしているのだろう、そう検討をつけた紫は幽香に近づいた。幽香を囲む花の多くは薔薇のようであった。無数の深緑の葉のなかに、赤や白の花が点々と覗く。その枝葉や花のうえを、幽香の髪と明るい服がゆらゆらと揺れている。
紫が声をかけるまえに、接近に気付いた幽香が振り向いた。紫と知ると、顔をしかめ、さも嫌そうにしッしッと片手を振る。
「あんまりだわ」
紫は困ったような表情をして見せて言った。
「忙しいの」
幽香はそう言いすてると屈みこんで作業に戻った。
紫は幽香のすぐ傍まで近づくと、その作業の様子を覗き込んだ。
げぇ。
思わず下品なうめき声が漏れた。作業を覗き込んだ、その瞬間である。
幽香は薔薇の葉を手の平のうえに乗せていた。問題はその葉だった。葉の一面を、無数の白い粒状のものがびっしりと付着しているのである。それは蟻が飴玉に群がる様子や、有機物のうえに無数に発生する黴を連想させた。すくなくとも気持ちの良いものではない。だが眺めているうちに、そういった連想はことごとく薄れていった。葉のうえに付着している白い粒は、よく見ると、なにかが群がる様子というよりも、撒かれた粉といったほうがしっくりとくる。生物が群がる様子と無機質にばら撒かれた粉とでは、ずいぶんと感じ方が違ってくる。
「うどんこ病」
と幽香が唐突に言う。
「え?」
「この子たち、ちょっと放っておいてしまった間にうどんこ病にかかってしまったみたいなの。かわいそうに」
「どんな病気なのかしら?」
白い粉をよく見てみれば、確かにうどん粉を撒いたように見えなくもない。
「ウドンコカビが寄生したのよ」
やはり黴であった。
紫は顔を歪め、扇子で口元を隠した。
風見幽香と別れた後、竹林の永遠亭へ向かった。
幽香に異変を起こしてもらおうかとも考えたが、あのウドンコカビなる粉のような黴を、幻想郷にばら撒かれた日には目も当てられない騒ぎになるに違いなかった。そんな気味の悪い異変など、想像するだけでうんざりである。だいいち、そんな趣向は趣味ではない。
永遠亭へと向かう理由は些細なことである。単純である、と断言したほうが良いかもしれない。先ほど幽香の薔薇の症状を見、名前を知った。そこからその病名に酷似した名前の持ち主を思い出したのである。たしか、『うどん』だとか『うどんこ』だとか、そのような名前の兎がいたはずだった。長い名前の持ち主で、その名前の一部が『うどん』だとか『うどんこ』だとかになっていたはずだ。もともとなんの当てもない流浪の旅である。風の向くまま気の向くまま。思い浮かんだ場所には迷わず向かう。
そうして紫は永遠亭までたどり着いた。
紫は自分が異変を探している理由を三人に説明した。
しかし、それを聞いた後で輝夜はきょとんとし、
「どうして異変を探しているのかしら」
と訊ねた。
うどんげは首を傾げた。今、紫が説明したばかりではないか。新しい博霊の巫女の力が衰えないよう、適度な異変が必要になると思われる、と。
「それはわたしも気になるわ。今更異変を探しても……」
永淋が輝夜に続いた。
二人とも、わざととぼけているのだろうか?
「お言葉ですが、先ほど説明のあったとおりでは?」
と、うどんげは口を挟んだ。
その言葉に輝夜と永淋は顔を見合わせた。
「そんなこと言われても」
「ねえ」
輝夜と永淋は完全に同調しあっている。これが先ほどまで喧嘩をしていたふたりの態度であろうか。
煮え切らない。うどんげは紫の顔色を伺った。怒っていないだろうか。
紫は困ったような表情で黙っているだけであった。
「そんなことより」輝夜が永淋をキッと睨み、言った。うって変わって険のある顔である。「わたしはもう行くわ」
幻想郷の危機に関与するかもしれない相談事だというのに、そんなこと、と輝夜は言った。仮にも永遠亭の主である蓬莱山輝夜がそんな言い様をしていいわけがない。そんなこととはどういうことですか、とうどんげは食ってかかろうとした。だが永淋が先に口を開いた。
「駄目です」
うどんげは自分の師を見た。永遠亭の主であることを自覚して言動を律するべきだと、輝夜にそう注意するのだろう――そういった期待をした。
しかし期待は外れた。
「行かせません。ひとりは危険です」
永淋はまるで母親のようであった。
「どうして喧嘩しているのかしら」
紫はそう言ったが、喧嘩を止めようと動くために訊いた――うどんげにはそんなふうには見えなかった。どちらかといえば、ただ興味がわいたから訊いてみた、という様子である。
輝夜がキッと紫を睨んだ。が、なにもせずに歩き出してしまう。永淋はといえば紫の言葉など初めから耳にはいっていないようであった。
客人などいなかったかのように、輝夜と永淋は言い合いを絶やさないまま玄関のほうへ行ってしまった。
「ごめんなさいね。こんな有様で」
うどんげは紫に謝った。
「構わないわ。タイミングが悪かっただけなのでしょう。原因もなんとなくだけれど、話を聞いていればわかるわ」
反抗。過保護。
ふたつの言葉が紫の頭には浮かんでいるのだろう。それらとはすこしばかり違うかもしれないが、おおよそ当たっているに違いない。
「そう言ってもらえると助かるわ」
うどんこは苦笑まじりに答えた。
玄関の戸が音をたてて開いたようであった。
うどんげは紫と対話をしながら扉の開く音を聞いた。同時に、その玄関から聞こえてくる――外へ出ようとしているのであろう――輝夜と永淋の口喧嘩も耳にしていた。少しばかり、紫に対しての注意、いや、警戒心を解いてしまっていた。だからであろう、紫のその言葉を聞いたときは、聞き間違えたのだと判断をしてしまった。
「ああ、そうね。自分で起こしちゃえばいいのよね」
「え?」
「いいえ、なんでもないわ」
紫はにこりと微笑んだ。
そのとき、玄関のほうから悲鳴があがった。輝夜のものであろうか、それとも永淋のものであろうか。急なことでうどんげには判別がつかなかった。玄関の戸はすでに閉められており、悲鳴はその戸の向こうからあがったようである。様子がわからない。うどんげは慌てて駆けだした。その背中に
「あなたは今から、うどんこね」
と声がかけられたが、そんな意味のわからない言葉など気にしている余裕はなかった。
玄関までたどり着いたうどんこが戸を開けると、そこにふたりの姿は見受けられなかった。
「姫……輝夜様! 師匠!」
うどんこは大声でふたりを呼んだ。
返事はない。
屋敷の周囲を見回しても、ふたりの姿は見つからない。
竹林は沈黙していた。
静寂が、ふたりの言い争いや悲鳴、それにふたりの姿を飲みこんでしまったかのようであった。
風が緩やかに吹き、竹が威嚇するように枝葉を揺らした。
うどんこは自分の首筋から背中にかけて寒気のようなものがくだるのを感じ、ぶるッと震えあがった。屋敷のまわりにある竹や葉が、今まで親しんできた者たちが、まるで自分の知らない者に変貌してしまったかのようだった。あるいは自分ひとりだけが、鏡の向こうにある、現実と酷似した世界に迷い込んでしまったか――。
うどんこはサッと踵を返して屋敷に戻った。ふたりは忽然と消えてしまったが、まだ客人はいるかもしれない。この場に残ったのは自分だけではないと願いたかった。
――「自分で起こしちゃえばいいのよね」
矢張り、八雲紫は確かにそう言ったのであった。あれは聞き間違えなどではなかったのだ。起こす? なにを? 異変に決まっている。
とすると、ふたりを消したのは……。
果たして紫は廊下の奥で佇んでいた。柔らかな微笑みさえ浮かべている。しかしうどんこの目には、ニタニタとした――口の両端はつり上がり、唇のあいだから覗く牙のような犬歯、そしてぬらりと蠢く先の細い舌――邪悪な笑みにしか見えなかった。
「なにをした」
うどんこは噛みつくような勢いで紫に肉迫した。
「異変を起こしたのよ」
紫は簡潔な返答をさらりと述べた。
「ふたりをどこへやったの」
「それはわたしじゃないわ。それは、ね」
「なら、いったい誰がやったって言うのよ」
「わたしはイヘンを起こした。結果としてふたりが消えてしまったのかもしれない。でも、わたしは直接的には関係ないわ。そうね、あなたに対してのイヘンなら直接関係あるわね。もうすでに起こっているあなたのイヘン。あなたはイヘンが終わるまでそれに気づかぬままなんでしょうけど。もしかしたらもう気づいた方々はいるかもしれないわね。そうでない方々のほうが多いとは思うけれども。でもそれっと、ちょっと寂しいことよね」
うどんこには言葉の意味がまったくと言っていいほどくみとれなかった。己の身体を見渡すが、どこもおかしいところなどない。
「なんだっていいわ。ふたりをかえしなさい」
かえしなさい、とは弱気な発言であったが本人は気がつかない。未だに恐怖が全身をちりちりと焦がしている。かえしなさいとは言ったが、それは『返しなさい』なのか『帰しなさい』なのかもはや自分でもわからなくなっていた。ふたりが消えたのか、それとも自分が別世界に迷い込んでしまったのか――きっとふたりが消えたのに違いないと信じ込もうとはしているが、心の奥底ではどちらなのか判断できず慄いている。あるいは、本当はそのどちらでもなくまったく別の現象なのかもしれない。
うどんこは、紫に対して狂気を操ろうとした。紫に対して攻撃的な姿勢にならなければどうにかなってしまいそうだった。怯えていたし、混乱もしていた。まぶたをカッと上げ、その赤い眼(まなこ)の視線で紫の目を射抜こうとした。
「その目はごめんだわ」
紫はふっと笑うと、すすと消えた。境界を操り、姿を消したのだった。
うどんこは焦れた。先制に失敗したのである。
「わたしは貴女に危害を加える気はないわ。肉体的にも精神的にも」
と紫はどこからともなく、言う。イヘンは危害ではないと言うのだろうか?
「こっちにはある。ふたりはどこにいるの?」
うどんこは自分を鼓舞するように、口調を荒げて言った。
「案外、近くにいるんじゃないかしら?」
「そんなこと」
玄関のほうから、音が聞こえた。
「お客さまみたいね。丁重におもてなししてあげなさいな」
紫が言った。
うどんこは、紫がいるであろう場所に見当をつけ、一度にらみつけたあと、玄関のほうを振り返った。
開いたままの玄関の戸の向こうに、両手で傘をさした妖怪が微笑んで立っていた。緩やかな風にスカートがふわふわと揺れている。
どうしてこう、笑ってばかりな人が多いのかしら――うどんこは、ふと場違いなことを思った。
「貴女がやったのね」
傘をさした妖怪は笑みを絶やさずにそう言った。傘の影が妖怪の顔を暗く染めている。そのため、微笑みを暗いイメージが取り巻いていた。どこか恐怖を覚える類のものである。うどんこは自分も不敵に笑って見せようかとしたが、口元が恐怖にひきつっているようにしかならなかった。
妖怪とは、風見幽香であった。
「やったのは貴方なのね」
幽香は敷居を跨いだ。
うどんこには幽香がなにを言っているのかさっぱりわからなかった。にこにことしてはいるが、その口調は友好的なものとは到底思えない。かといって、怒っているようにも見えない。
「なんのことだか知らないけれど、なにかをしたのは八雲紫よ」
幽香まで近づいていたうどんこは、そう言って紫を探した。
が、紫はいなかった。まるではじめからその場にはいなかったかのように、気配がまるでない。
ぐい、と腕をひかれる。
紫の消失に呆気にとられていたため、うどんこは一方的なその力に抗うことができなかった。
「来なさい」
幽香はにこにことしたまま、有無を言わせずうどんこを外へ連れ出した。うどんこはようやく抵抗しようと試みたが、あまりの力強さにされるがままとなっていた。幽香の顔は微笑んだままだが、本当は怒っているのかもしれない。
輝夜は永淋に抱えられていた。
あたりは無数の竹やその下生えばかりである。北へいくらか進めば永遠亭があるはずなのだが、ここからではまるで見えやしない。
竹林のなかであった。
永淋は輝夜を抱えたまま軽やかに跳躍し、竹林のなかを駆けていた。口からは言葉にならない言葉がぶつぶつと漏れている。まるで呪詛のよう。その顔は正気のものとは思えないような異形な表情をしていた。輝夜には信じることのできない光景であった。
あれは、永淋と口喧嘩をしながら永遠亭を出た直後のことである。
うどんげが紫に、永遠亭の騒がしさを謝った後であった。輝夜が先に永遠亭の外に出、後を永淋が続いた。輝夜が「そろそろいい加減にしてちょうだい」と言ってから、いくばくかのあいだ永遠亭の薬師は黙り込んでいた。輝夜はすぐ背後に永淋の気配を感じていたが、沈黙の仕方があまりにも不自然であったのでふりかえった。普段ならば「そういうわけにはいきません」だとかなんとか言ってくるはずだった。永淋の姿を一目見た輝夜は、思わず息を飲んだ。首は重力に屈したかのようにうな垂れ、両腕は肩からだらりとぶらさがっているばかりである。今にも倒れそうな様子であった。そのような不自然な姿だというのに、それでいてぴくりとも身体は動かない。生気を感じられなかった。まるで糸で吊るされた操り人形のような。輝夜はそれまで口喧嘩をしていたことなど忘れ、永淋のことを心配した。「永淋?」と名前を呼びながら一歩、二歩とおそるおそる近寄った。直後、薬師の首がぐわんと起き上がり天を仰いだ。その拍子に口が大きく開き、……、……、なにか耳障りな音――いや、それは確かに声であったはずである。だが、輝夜には意味のとれない言葉、ひとが発するとは思えないような言葉を、それを大切なひとの声とは認めたくなかった――がちいさく漏れた。輝夜は思わず一歩下がった。無意識の行動である。だが、遅かった。だらりと垂れているままだと思われていたはずの両腕が急に持ち上がり、輝夜の右肩と左腕を捉えたのである。永淋の指が輝夜の肩の肉に食い込んだ。信じられぬ事態に輝夜は反応できないでいた。輝夜の腕は、永淋の手によって袖の下で内出血を起こしていたが痛みを感じることはなかった。輝夜の頭には恐怖もなく、混乱だけがあった。一瞬遅れて輝夜は悲鳴をあげた。うどんげが耳にした悲鳴は輝夜のものである。輝夜は力強い永淋の両腕に抱えられ、竹林の奥へと連れ去られた。
永淋はしばらくのあいだ輝夜を抱えたまま竹林をさ迷った。輝夜はされるがままであった。自分を護ってくれるはずのひとが、まさか危害を加えるなどと、このような状況になっても考えることなどできないでいた。やがて永淋は輝夜を地におろした。落とした、と表現したほうがいいかもしれない。輝夜は咄嗟のことで、地面にしたたかに腰をうった。腰をさすることもせず、唖然として永淋を見上げる。
永淋は顔を輝夜のほうへと向けている。しかし眼はあらぬ方向を向いていた。あまつさえ、右の瞳と左の瞳はぎょろぎょろと別々の場所を見ている。
永淋。
輝夜はその名を呼ぼうとした。だが、言葉がうまく口から出てこない。喉がからからに渇いて仕方がなかった。口内では、舌が自然と前歯の裏に張り付いていて離れようとしない。
しばらくのあいだ、永淋は輝夜の前に立ち尽くしていた。目のまえにいる、少女のような女を自分がここまでさらってきたことを忘れているかのように見えた。輝夜は永淋の表情を窺ってはいたが、どんな感情も読み取ることができなかった。無表情というのではない。まったく理解し得ぬ表情であった。
ふい、と永淋は脈絡なく身体の向きを変えて歩き出した。植物が風に葉を鳴らすたびに顔をそちこちへと向ける。まるで野に住む獣の様子だった。やがて永淋は無数の竹の奥に姿を消した。その間、輝夜には興味を失ったかのように一瞥さえもしなかった。
あるいは、その頭のなかでは輝夜の存在など消え失せてしまっているのかもしれない。
うどんこが幽香に連れられてたどり着いた場所ではいくつもの薔薇が咲いていた。幽香は黙ったまま薔薇に近寄り、葉をそっと手に取った。
「これをやったのはいったい誰?」
うどんこのいる場所からでは、幽香の手に取られた葉に異常をみることはできない。多少ではあるが、葉が白っぽく見える。
うどんこは近づいた。
近づくにつれて、葉になにやら粉状のものがついているのが見えるようになった。白っぽくなっていたのはこのためであろうと予想がつく。顔を近づければそれがなんなのかわかるかもしれない。
うどんこは幽香のすぐ傍に立ち、薔薇の葉に顔を近づけた。
極度に緊張したせいで喉が渇いている。
永淋が竹林の奥に消えてからいくらか時間が経過した。
輝夜はようやく緊張から解放され、ほうとため息をついて自分を取り戻した。まだ事態を飲み込むことはできないかもしれないが、永遠亭に向けて歩くことはできそうだった。
喉が渇いている。
たしかこのあたりからだと、永遠亭に戻る際、途中に井戸があったはずだった。そこでつめたい水に喉を鳴らすのも悪くない――輝夜は、井戸にたどり着いた自分が滑車を使ってつるべを上げる様子を思い描いた。滑車はからからと軽快な音をたて、たっぷりと水の入った桶を上げる。桶のなかではちゃぷちゃぷと水が跳ね、その滴が井戸の底へ落ちる。完全に上がりきったつるべ桶を抱え、手桶で透き通るような水をすくい、こくこくと飲む――実際にはたどり着いたら手桶などなく、つるべに直接くちをつけてがぶりと飲むことになるかもしれない。いや、それもむしろ竹林のなかとあっては風情があっていいかもしれない。輝夜は無意識にごくりと生唾を飲もうとした。が、口内に唾液はなく、上下に動いた舌がねちゃりとむなしく音をたてただけであった。
井戸が見えてきた。古くからある井戸で、木製の屋根のしたで冷たく眠るように鎮座ましましていた。いくつもの亀裂が戦場を渡り歩いてきた兵(つわもの)の傷跡のように生じており、倣うように苔が生(む)している。手入れの行き届いた綺麗な井戸とはあまりにも言い難い有様であったが、古くさい井戸の代表例のような風体ではある。
下生えに足を取られて転びそうになりながらも、輝夜はなんとか井戸までたどり着くことができた。駆け寄るようにして近寄り、井戸の底を確認もせずにまず綱を引いた。綱を引きながら、井戸の底を覗く。洞窟のなかでびょうびょうと鳴る風を想起させる、そんな暗闇があった。底はまったく見えない。綱は何度か滑車で引っ掛かり、想像していたようには滑らかにいかない。だがそんなことどうだって良かった。優雅につるべを上げたところで意味など見出せるはずがない。
やがて桶が手の届くところまで上がってきた。桶のなかを覗いた輝夜はがっくりと肩を落とした。なかにはなにも入っていないのである。綱を引いているときにはある程度の質量を桶の中に感じていたのだが、実際のところは綱が重いだけであったようだ。水の一滴どころか、小石さえも見当たらない。
井戸は干からびていたのである。
輝夜は井戸のなかへとつるべ桶を放り投げた。井戸に対し、あるいは井戸に期待していた自分に対して心底失望していた。
水に対する飢えによるものであろう、どっと疲れがやってくる。
輝夜はぺたりとその場に腰を落とした。
そのときである。
ざぶん、と井戸のなかから心地よい音が聞こえた。間違いなく水の音である。桶が井戸の水を叩いた音に違いなかった。輝夜は急いで立ち上がった。
それは奇妙な光景であった。
井戸いっぱいに水が張っていたのだ。水は表面張力で膨らみかけ、今にも破裂せんばかりである。その水のうえを、今落としたばかりの桶がぷかりと浮かんでいる。桶の動きからなす震動により、波紋がが生じ、風船に針でもさすように膨らんだ水の表面を破裂させようとしている。
つい先ほどまでなかったはずの水が、今まさに、目のまえにあった。
輝夜は奇異に思いつつも、水に対する文字通りの渇望に自分の身を任せた。即ち、両手でお椀の形をつくり水をすくって飲み始めたのである。手を水につけた途端に張りつめていた水面は揺らぎ、おおきな波紋でもって端からこぼれた。びちゃっびちゃっと地面に水が叩きつけられる。
二度、三度、と輝夜は両手の椀ですくった水を飲んだ。まだ足りない。もう一度手を差し伸べる。が、四度目はなかった。
「あ」
思わず声がもれる。
両手が空を切ったのだ。
差し伸べた先に、水はなかった。
目のまえにあったはずの水が、忽然と姿を消したのである。
まさか、あのたっぷりと井戸を湛えた水は、喉の渇きがもたらせた幻影であったのだろうか。しかしその喉は水を吸ったことをきちんと記憶しているし、両手は水を滴らせている。井戸の周りの地面は濡れており、今まさに水を吸収しているところである。
となると、水が急に引っ込んだということになる。
つるべを上げれば水はなく、つるべを落とせば水が溢れ、しばらくするとまた水がひく。なんと奇妙な井戸であろうか。
輝夜は手から垂れる水に唇を添えた。水が唇を湿らせ、いくらかの水分が口のなかに侵入した。輝夜は井戸の縁に両手をかけて底を覗きこんだ。
水は、あった。やはり水はたちまちのうちに引っ込んだのであった。
井戸の縁から、輝夜の背丈の半分ほど下がった位置で水面が揺れている。水面に映るものを目にした輝夜は眉をひそめた。
普通、水面とはある程度の光を反射するものである。つまり、水を覗き込めばそこには自分の姿が映るはずなのだ。光が水面で屈折することもあろうが、余程のことがない限り、今目の前で輝夜が見ているような光景は水面に映らない。
永淋のあの不可思議な様子、この奇妙な井戸。そして水面に映る光景。いったいなにが起きているのだろうか。これらに関連性はあるのだろうか。まるで関係のない出来事のように感じられるが、すべて同時期に体験してしまった以上、関連性を追及したくなる。
水面に映っているものは井戸を覗き込む輝夜の姿ではなく、博麗神社を訪問する八雲紫の姿であった。
神社に上がり込んだ紫は何者かを探しているようであった。なにかを焦っているように見える。だが、神社には誰もいないようだった。しばらく探しまわっていた紫は、結局神社から外に出た。
輝夜は顔をしかめた。何故、八雲紫がこの水面に映ったのだろうか。紫はつい先ほどまで永遠亭にいたはずであった。それが今は慌てたように神社をうろついていた。紫はなにをしているのだろうか。
水面に映っていた映像が、パッと切り替わった。
永淋が映っている。永淋は腹を抱えてうずくまっている。竹林のなかであった。
まだ、近くにいるのかもしれない。
輝夜は井戸の縁から手を放し、あたりを見渡した。どちらの方面に永淋はいるのか。まったく見当もつかなかった。輝夜はその場を離れた。
どこにいるにせよ、竹林にいることは間違いないはずなのだ。必ず、見つけ出してみせる。輝夜はそう思った。
永淋は腹を抱えていた。調子が悪いのかもしれない。
輝夜は自分自身の腹にも違和感があることに気がついていた。だが、気にしないように努めた。
輝夜が離れた後、井戸の水面はふたたび映像を変えた。次に映し出されたのは、いくつもの薔薇に囲まれた二人の人物。うどんこと風見幽香であった。
薔薇の葉についた粉状の白いなにかが宙を舞ったようだった。幽香がまとわりついてきた粉(こ)を払うように手を振った。その振動で幽香のもう片方の手に持たれた葉が揺れ、あとすこしでうどんこの目にも粉状のものの正体が見極めつけられそうになった。だが、その揺れでわからなくなった。
風はなかった。
風もないのに、葉についた粉状のものは宙を舞ったのだった。
うどんこは頭の片隅でそのことに気づいていた。が、別段気にならなかった。風が吹かなくとも粉が舞うことくらいあるかもしれない。いや、そんなことはないかもしれないが、別段おかしいことのようには感じられなかった。
葉の揺れが収まればちゃんと見えるはずだ。
うどんこは顔を近づけた。
「さっきより活発になってる」
幽香がぼそりと言った。
うどんこは幽香の言葉を聞き取ったが、その独り言を意図せず聞き流した。独り言とはほとんどの場合他人には意味のないものである。だが、うどんこは聞き流したことをすぐ後に後悔することになる。
うどんこは葉についた無数のものを見た。
はじめ、それは虫のように見えたため顔を遠ざけた。アブラムシの類なのかと予想した。それも、白いちいさな類のもの。
が、よく見ればそれは虫ではなかった。
予想だにできない、ある意味では醜悪だと言えるし、まったくもって趣向の悪いものであった。
ひとの形をしている。
数ミリメートルの大きさの、ひとの形をした生き物。
「うっ」
うどんこは口元を押さえた。
長い耳を携え、服を着ている。
その人形はうどんこと同様の姿をしていた。ぱッと見ただけでも数千数万といるのではないかと思えるほどの数の、自分と同じ生き物。うどんこと似た、ほんのちいさな人の形をした生物が薔薇の葉に、黴のようにびっしりと付着しているのである。さらにそれらはすべて白一色である。
「なに――、これ」
うどんこは後ずさった。助けを求めるように幽香へ目を向ける。
「少しまえまでは黴だったのよ」
幽香は立ち上がった。スカートの裾にいくつかの人形の生物が付着している。幽香は丁寧にそれを手で払い落した。振り落とされたそれらはちいさな悲鳴をあげて地面に落ちてゆく。
悲鳴……?
「喋るの?」
気味が悪かった。うどんこは、なるべくそのちいさな自分たちを視界にいれないようにした。だからと言って他に視界に入れるべきものなく、視線はふらふらとむなしく虚空を彷徨う。
「貴方だって喋るじゃない」
どこが変なのかわからない、そんな風に幽香は言った。
「一緒にしないでよ」
「わたしにとっては一緒よ」
「それで、どうしてわたしをここに連れてきたの?」
幽香のつめたい言葉を努めて無視し、うどんこは言った。
「貴女に関係があるんじゃないの」
「姿かたちが一緒だからって、関係があるとは限らないわ」
ここは幻想郷である。なにがあったところでおかしくはない。うどんこは自分にそう言い聞かせた。そう、たとえ自分と同じ姿のものがいようとも、それがアブラムシのように小さかろうとも、ここは幻想郷なのだから特別なことではないのだ。
「こうなるまえはウドンコカビだったのよ。ほら貴方、たしかそんな名前だったでしょう? 姿だけじゃなく名前まで似ているのなら、なにか関係があると思ったのよ」
「わたしの名前はうどんこなんかじゃないわ」
うどんこはそう答えつつも、自分の言葉に自信を持てないでいた。本当にわたしはうどんこじゃないのだろうか? つい先ほど、八雲紫におかしな言葉をかけられたせいで――うどんこは信じていないし、あのときはまともに耳をかさなかった――、名前が自分の頭のなかで曖昧模糊とした状態になっていた。
『貴女は今から、うどんこね』
うどんこは紫の言葉を思い返した。
いや、そんなまさか。
他人の言葉ひとつで、自分の意思に関係なく名前が変わってしまうなどとあっていいはずがない。
そもそも、自分の名前がうどんこでないとすれば、本当の名前とはいったいなんだろうか? うどんこは考えたが、答えはでてこない。元々うどんこという名前だったのだろうか。
そんなうどんこの葛藤などおかまいなしに、うどんこと同様の姿をした小人たちは、薔薇の葉のうえでひょこひょこと飛び跳ねている。何匹かはまるで冒険でもするかのように地面へと降り立っているが、おおくは葉のうえで密集していた。しばらくのあいだ、うどんこと幽香のふたりは目のまえの異質な状況を持て余していた。
が、
「鬱陶しいわね」
幽香がぼそりと呟いた。同時に、うどんこの目のまえでスカートの裾が優雅に舞った。幽香が足を持ち上げたのである。
「だめ!」
意図を察したうどんこは、慌てて両手で幽香を押した。片足で立った状態になっていた幽香は、堪えきれず腰から地面にどうと倒れこむ。勢いを殺せなかったうどんこが幽香のうえに覆いかぶさるようにして倒れた。
「なにするのよ」
うどんこの下になった幽香が憤ったように言った。理解できない、といったように顔をしかめている。
「だ、だって……」
うどんこは上手く答えられない。幽香が小さな生き物たちを潰そうとしているのを見て、身体が咄嗟に反応したのであった。自分と同じ姿をしたものが踏み潰されそうになっていたのである。たとえ無関係であったとしても、いい気分ではない。
「さっさとどきなさい」
うどんこは幽香のうえに倒れこんだまま動かない。
「いや」
退けば、小さな自分らが潰されるに決まっていた。
「どきなさい」
「だめ」
「いい加減にしなさい」
自分の下にいる妖怪は鬼のような形相になっている。退けば小人たちが潰されるが、退かねば自分が潰されかねない。そうだ、こいつにとっては小人も自分も同等なのだ。ついさっき言っていたじゃないか。いったいどうすればいいのだろうか。うどんこは軽いパニックに陥った。
どうしよう、どうしよう、どうすればいい?
ただ、自分が助かるためであれば、小人たちが潰れてしまっても構わない――どちらかといえばそういった考えに傾いてはいた。パニックに陥ったとき、ほんの少しでも傾きが生じれば考えはそちら側に急速に転がっていくのが常である。平行な板のうえに乗せた玉のようなものだ。傾斜が出来れば加速度をもって転がってゆく。
うどんこは地面に両手をついて、起き上がろうとした。つまり、幽香の言葉に従おうとしたのである。
その手に、小人たちが近付いてきた。
「ひゃあぁっ」
まるで自分の「小人たちが潰れてしまっても構わない」という考えが読み取られてしまったかのように感じ、それと、ただ単純に気味の悪さも相まったその結果、甲高い悲鳴をあげた。
神社を出た紫は、境界を操って永遠亭まで瞬時に移動した。今度は飛んで移動する必要はなかった。なにしろ、今まさに異変が起こっているところなのだ。移動しながら異変を探す必要などどこにもない。異変はすぐそこにあるし、ここにもある。
永遠亭の戸を開き、屋敷にあがる。紫は屋敷の廊下を歩きながら、これからどうするかを考えることにした。異変は起こっている。巻き込まれているのは自分を含めて何人いるのか、それはまだ検討もつかない。ただ、しばらくすればそのうちの何人か、あるいは無関係の者が異変の解決に働きだすだろう。そうなるまえに行動したほうが良い。
ちいさな物音が紫の耳の鼓膜を震わせた。ほんの些細な音であった。紫は頭のなかでその音をよく吟味しながら移動する。ちいさな音。それは声のようであった。泣き声。聞き覚えのある声。それも、紫にとってはよく聞き馴染んだ声。
廊下の、とある戸のまえまでやってきた。戸の向こうに泣き声の主はいるようである。
紫は戸を、そっと開けた。
そこにいたのは博麗の巫女であった。紫が探していた娘である。
博麗の巫女はぺたりと座り込んでいた。紫が近付くと、涙で濡れた目元を手で拭い、すんすんと鼻をすすりながら紫を見上げた。
「どうしてここにいるの?」
と紫は聞いた。
巫女の顔は涙でぐしゃぐしゃになってしまっている。紫はその顔をとても可愛らしいと感じ、目のまえの娘に対して優しい気持ちになった。
博麗の巫女は、わからない、というように首をかしげた。
ここにいる理由がわからないのだろう、と紫は思った。いや、あるいは質問の意味がわからないのかもしれない。
「神社に帰る?」
と紫は言った。
娘は首をかしげたままだった。
「ずっとここにいたの?」
紫は質問を変えた。
娘は紫を見上げたままでなにも答えない。
紫はしばらく考えた。やがて、もう一度質問をした。
「ここに住んでいるのね」
娘は頷いた。
そして紫は博麗の巫女の腰へと両手を伸ばした。
結局、うどんこは幽香と無数の小人たちから逃げ出した。
輝夜と永淋が消え、ウドンコカビなる黴が小人になり……
いったいぜんたい、なにが起こっているのかわからなかった。
これは異変なのだろうか? 異質なことが起こっているのだから、異変には違いないだろうが、なんともこれらを身近に起こっているものと認めたくないものばかりである。
永遠亭へ戻ろう。
うどんこはそう思った。
すべては八雲紫から始まったのだ。起因は紫に違いなかった。すくなくとも、原因の一端を握っているはずだ。幽香が永遠亭を訪れてきたときには消え去っていたが、もしかしたら永遠亭に戻ってきているかもしれない。
うどんこは空を飛んで竹林へと向かった。
つい先ほどからちくちくと腹が痛んでいたが、気にしている余裕はなかった。
己が去った後、小人たちがいったいぜんたいどういう末路を迎えるのか、そのことについても考えないことにした。
永淋は見つからない。
いくら歩いても、いくら飛んでも見つからない。
いったいどこへ行ったのだろうか? 輝夜は額の汗を袖で拭いながら立ち止った。右を見ても左を見ても竹ばかりである。今いるこの場所が、井戸の水面に映ったあの場所のような気がする。が、先ほど歩いた道にも似たような場所があった。どこもかしこも同じ場所に見えてくる。
輝夜には心配していることが三つほどあった。
一つは永淋がいったいどこにいるのかということ。
もう一つは、永遠亭になかなかたどり着かないということ。井戸からそう離れていないはずなのだが、いくら歩いても一向に到着しない。道を間違えてしまったのだろうか。
そして最後の一つ。腹の調子がおかしい、ということ。先ほどまではちっとも気にならなかったが、今では一番に解決すべき問題となっている。言葉では表せないような音を発し、非常に痛むのだ。その苦痛のせいで汗の滴がぷつりぷつりと浮き出て、額を光らせていた。
なにかおかしな物を食しただろうか? なにか危ない液体を口にしただろうか? 思い当たる節といえば、あの井戸の水くらいなものであった。まさかあの水が。
ふいに、いっそう腹が痛んだ。
輝夜は呻き声をあげてその場に屈みこんだ。目を閉じ、歯をくいしばって痛みがひくのを待つ。しばらく堪えていれば、やがて痛みはひく。
潮の満ち引き――そんな言葉を昔、知った。誰かの言葉を耳にしたのか、あるいは書物で得た知識なのか、それは判然としないがどちらでもいいことであった。大事なのはその言葉の意味である。この星には海という巨大な水の溜まりがあって、その溜まりが時間によって岸辺を侵食したり自分の水かさを減少させたりする。それが潮の満ち引きというらしい。
この腹の痛みは潮の満ち引きのようなものであった。腹が痛んでも、しばらく我慢すれば痛みは文字通り引いていくのだ。
が、たとえ引くことがわかっていても痛いものはいたい。
こんなときに診てくれない医者なんて、なんの役にもたちやしない。本人は薬師だと言い張ってはいるが、素人から見れば薬師も医師も同じようなものだ。
輝夜は痛みに耐えながらそう思った。ただの独りよがりな愚痴であった。自分自身でもそれはわかっていたが、そう思うことに今はなんの抵抗もなかった。
やがて痛みはひいていった。輝夜はおそるおそる立ち上がった。が、すぐには歩きださない。ふたたび痛み出さないかどうか、慎重になっている。
輝夜は自分でそうと知らず、弱り果てている。肉体の疲れと、焦り、不安、それに間断をつくりながらやってくる腹部の痛み。それらがない交ぜになり、餓えた肉食獣のように凶暴さをもって輝夜に襲いかかっていた。
痛みはやってこないようだった。輝夜は歩きだした。その足取りは重たい。
ひとまず永遠亭に帰るつもりである。永淋のことが心配であったが、このままひとりで探し続けても見つかる気配はない。うどんこに相談をしよう。この状況の打開をうどんこに期待をしているわけではないが、なんにせよ、ひとりで探すよりはふたりで探したほうがいいに決まっていた。なにより独りきりというのは辛かった。
それにしても――、と輝夜は歩きながら思った。腹の具合ばかり気にしていて下生えに足を引っ掛けそうになる。
それにしても、永遠亭はまだかしら。
そこはまるで広場のようになっていた。本来ならば、竹林に囲まれた古風な屋敷が寂々として建っているはずなのである。しかし今、その屋敷はすっかり姿を消してしまっている。
永遠亭が、ない。
うどんこは呆然とした。先ほどまでちくちくと痛んでいた腹の不調をすっかり忘れてしまうほどであった。
なにもかも、消えてゆく。
輝夜と永淋。そして屋敷。しかし、ひとが消えるのと建物が消えるのとでは意味も意図も大きく違ってくる。形而上学的にも変わってくるかもしれない。うどんこはそのことについてよく考えようと試みたが、それは単なる現実逃避に過ぎなかった。なんにせよ、あっていいことではない。
あのような巨大な物体が、自分がすこしばかり出かけている隙に消えてしまうことは可能なのだろうか。いやしかし、実際に消えてしまっているのだ。
永遠亭のあった場所を間違えたのではない。それは確実だった。この竹林のなか、ぽっかりと、まるでそこだけ竹が生えることを拒んだかのように、なにもない広大なスペースが出来上がっているのだ。そのスペースである地面のうえにはいくらかのちいさな植物が生えているものの、以前にはなにか巨大なものがあったことを暗示させる奇妙な空虚感がある。そう、確かにここに永遠亭はあったのだ。
がさがさと音をたて、竹林のなかから何者かが現れた。
「輝夜様!」
現れたのは輝夜であった。
「良かった、ご無事で」
うどんこは急いで輝夜のもとに駆け寄った。
「ご無事なんかじゃないわ」
輝夜は言った。口元を苦しそうに歪めている。腹のあたりを片手で押えていることにうどんこは気付いた。
「具合でも悪いのですか?」
「なかなか素敵に良好よ」
輝夜はそう言って苦痛に顔をしかめた後、押し黙った。呼吸を止めて痛みに堪えているようであった。額にふつふつと浮かびあがった汗が、うどんこの目についた。
「横になられた方が」
と、うどんこは言った。程度の差はあれ、自分と輝夜両者ともに腹に異変を抱えているようだった。
「こんな場所で寝るなんてまっぴらごめんだわ」
輝夜は一度、二度と深呼吸をした。痛みは引いたようだった。
「しかし……」
「そんなことより」輝夜はうどんこの腕をしっかりと掴んだ。「永淋がおかしいの」
輝夜は心底から助けを求めている者の顔をしていた。まるで、伴侶が不治の病におかされたことを医師に宣告されたばかりの者の表情であった。当の本人に自覚はないが、うどんこがそのような表情を見るのは初めてのことであったため、たじろいだ。腹の不調による苦痛と、なによりも永淋の変貌および不在による不安で輝夜は弱り切っていた。体力も、精神も摩耗している。
「いったいなにがあったんです?」
輝夜はこれまでの経緯(いきさつ)を事細かに説明した。永淋の変貌、それに井戸の水面に映った映像。
輝夜の説明を受けたうどんこは、自分が体験したことを話した。自分に似た小人たち、そして消えた永遠亭。
輝夜とうどんこの話には関連性があるようには考えられなかった。しかし、うどんこにはこれらの事象は結局のところひとつに纏められるような気がしてならなかった。いくつもの事柄をニューロンのように繋げる役目を果たすなにかがあるはずだった。そのひとつ、あるいは一端を担っているのは八雲紫に違いないと睨んだ。
うどんこはその考えを輝夜には話さないことにした。輝夜はこれらをすべて一過性のものとして捉えているようなのだ。言葉の端々にそれが感じられた。あるいは、そうと信じようとしているだけなのかもしれない。しかしうどんこには一過性の異変だとはどうしても思うことができないでいた。いくつもの事象が絡み合った関連性のある物事とは、なんにせよ必ず結果を伴うに決まっているのだ。それが良い結果であれ悪い結果であれ。
「八雲紫を探しましょう」
と、うどんこは言った。
「でも、永淋は……」
輝夜は悲痛に満ちた表情でうどんこを見つめた。
弱りきった輝夜を見て、うどんこはこの主を守ることができるのは自分だけなのだと悟った。すくなくとも今だけは。
うどんこは自分の内にある、なにかスイッチのようなものがONからOFFに切り替わる音を聞いた。目覚めの良い朝、夢の世界と現実の世界を極端に切り離して起きることができたときのように、正と負、プラスとマイナス、果ては月とその裏側のように、なにかを二分化するスイッチであった。うどんこは確かにその音を聞いた。それはカチリと硬質で無個性な音で、たとえ幻聴だったにしろ自分の決心を揺るぎないものとするには充分だった。
「姫の話を聞く限りでは、師匠が正気だとは思えません。師匠の身になにかがあったのです。あるいは気の違ったふりをしているだけかもしれませんが、もしそうとなるならば何か理由があるはずです」だがうどんこは、永淋が気の違ったふりをしているなどとは微塵も思っていない。「なんにせよ、今、師匠と会うのは得策だとは言えません。それよりも何かを知っているであろう八雲紫に会うほうが先決だと思われます」それから、すこし考えて付け足した。「これは師匠の身を二の次とした考えではないことはわかってください。あなたの安全はわたし達にとって、第一でも優先事項なのでもなく、はじめから決まっている、言うならば前提事項なのです。あなたの安全が確保されてからはじめて、事項の順序が決められてゆくのです。そうですね、今のところ第一の優先事項は師匠を助けること。第二が永遠亭。屋敷にいるはずの者たちも心配です。ただ、もちろんそれらは、あなたの安全が確保された後のことです」
永遠亭の主は押し黙った。なにか反論に転じようとしているのだろう。だがうどんこは自分の意見を曲げるつもりは毛頭なかった。もしも自分と永淋の立場が逆であり、自分の身体に変異が訪れて危険因子たる人物になり下ったならば、永淋は同じ意見を持っただろう。
けれど。そう、けれど、だ。
うどんこと永淋の立場が逆であったとしたら、輝夜の態度は別のものであっただろう。無論、心配してもらえるに違いはない。永淋に命を下し、解決策を練るだろう。けれど今このように弱り切ってしまうようなことは、きっと、ない。それは輝夜にとって永淋が、あるいは永淋にとって輝夜が特別な存在だからだ。他の者には介入し得ない特別な絆があるのだ。それがうどんこには羨ましくもあった。羨ましくは感じているが妬んだりはしておらず、むしろ永遠に続くもののひとつとして成り立って欲しいと願うものであった。永遠に存在し続けることができるものは少ない。あるいは形あるもののには永遠というものはないのかもしれない。輝夜の能力をもってすれば、なかったはずの永遠性は生まれるかもしれない。だが、知覚で認識できないものにとっての永遠とはなんであろうか。時間という概念から切り離されたものなのではないだろうか。だからこそ、その目に見えない大切なものを守りたいと思っている。形あるものはもちろん大切なものだが、目に見えないものこそ、より崇高なものであろう。そしてそれを守り抜くということは輝夜の身の安全とはまた別の、うどんこにとってのもうひとつの前提条件でもあった。
「八雲紫を探しましょう」
うどんこはもう一度言った。今度は力強く。
輝夜は下唇を噛み――本人は気付いていない――頷いた。
永淋は水をたっぷりと湛えた井戸を覗き込んだ。
水面には自分自身が映っていたが、そうと認知することはできない。
永淋は右の手の平でぴしゃりと水面を叩いた。いくつもの水しぶきが跳ね上がった。存外に面白い。永淋はふたたび水面を叩いた。また、しぶきが跳ね上がる。跳ね上がったしぶきが地面に打ち付けられて音をたてる。その音が健やかで心地よい。永淋はまた水面を叩いた。夢中になって叩きはじめた。今や太鼓でも叩くかのように両手でバシャバシャとやっている。
しばらくそうしていた後、永淋は首を左右に振って辺りを見渡した。周りは竹ばかりである。永淋は自分の頬がいくらか熱くなったことに気がついた。だがそれが、まだほんの微かに残っている自我が生んだ羞恥の一部だとはわかっていない。
永淋は今一度水面を覗いた。水上ではいくつもの波紋が交差し、反響しあっていた。それはあまり楽しいものではなかった。永淋は腕を振り上げ、また水面をたたき始めようとした。そのとき、水面にあったいくつもの波紋が重なりあい、ひとつの輪となった。永淋は首を傾げて振り上げた腕をおろした。興味を持ったのだ。その輪はゆっくりと膨張して次第に大きくなり、やがて動きを止めた。輪のなかには、傘を持った八雲紫と博霊神社の巫女が映っていた。
ここに映っている者を探し出そう。
永淋はそう考えた。理由はなかった。理由や目的など必要ないのだ。
だが、そこに映っている八雲紫を探し出すことは正しいことのような気がした。そう感じたのは微かに残った自我なのか、あるいはそうではないのか、それは本人にはわからなかった。無論、誰にわかるはずもない。
永淋はいくばくかの時間をじっと立ちつくしたままで過ごした。他人が見ればなにかを深く思案しているように見えた。まるで宇宙の真理でも探している探究者のようであった。だが本当のところはなにも考えていない。
やがて井戸を背にして歩きだした。
口を広げ、げッげッげッ、と蛙のように奇妙な声で鳴いた。
腹が痛んだが、とくに気になるほどでもなかった。
八雲紫を探すと考えていたことはとうに忘れている。
ともあれ、井戸に映った風景だけは未だに頭のなかにあった。神社を出る、傘を持った女。その風景は、自我をほとんど失った永淋の脳裏に写真のように焼きついていた。それが意味を成すかどうかは、矢張り本人でさえもわからない。
竹林のなかにいる者たちはなかなか気付かなかったが、その外では、疲れ切った太陽がその身を沈めようとしていた。いくつもの小さくまばらな雲が鮮やかな夕日色に染まっている。
夜が近い。
あれだけ大きな屋敷が忽然と姿を消した。自ら姿を消すことは、当たり前の話だができるはずがない。ということは、何者かが消したということである。そこにはいったいどのような力が働いたのだろうか。
うどんこは、屋敷を消したのは八雲紫なのではないだろうかと考えていた。なんの根拠もなかったが、これから探し出すはずの相手を犯人として決めつけておけばいくらか気分は楽になる。なにせ、いくつものおかしな出来事がすべて違った人物の意思から成ったものであったとするならば、その数だけ解決しなければならないからだ。それでは途方もない。だが、八雲紫ひとりを叩いてすべてが解決するとなれば話は変わってくる。
しかしうどんこは八雲紫のことをよく知らない。彼女の能力の片鱗さえ未だに理解していない。その、境界を操る程度の能力はあまりに強大であると聞く。何事にも存在する境界を操るというのだから、その能力における可能性の限界とは如何程なのであろうか。あるいは限界などないのではないか。その気にさえなれば、山と空の境界を曖昧にし、そのふたつを混ぜ合わせてしまうことさえできるだろうと想像できる。あるいは昼夜の境界を消し、人々をわけのわからぬ時間帯のなかに迷わせてしまうこともできるのであろう。さらには物語のなかを移動することができると耳にしたことさえある。つまり神話や御伽話に登場し、その話のディテール、いやそれだけではなくテーマでさえ覆してしまうことが可能なのではないだろうか。……すべてが仮定である。相手はまったく得体が知れないと言っていい。ただ、その能力をもってすれば永遠亭を消してしまうことくらい容易いのではないだろうか。
うどんこと輝夜のふたりは今後の行動を検討しあっていた。八雲紫はいったいどこにいるのか。神出鬼没のこの妖怪は、その能力でどんな時と場合でもありとあらゆる場所へ移動することができるのだ。輝夜が見た井戸の映像では――それが正しい映像だとすれば――紫は博麗神社にいた。しかし今もまだいるかどうかは定かではない。
井戸による映像の他にはなんの手がかりもないことから、いくらも討論しないうちに博麗神社へ向かうことに決まった。輝夜の言うとおりであればそんなヘンテコ極まりない井戸のことなど信用はできない。だが、すがれる藁は他にない。
博麗神社へと向かう前に休むこととなった。うどんこが提案し、輝夜がしぶしぶと承諾したことであった。うどんこ本人は差し当たり問題はない――腹の調子があまり良くないことを除いて――が、輝夜の体調および精神的な疲労を慮ってのことである。
うどんこの目から見て、輝夜の腹は尋常ではない痛みを抱えている。うどんこは、この腹の調子が不具合なことも異変のひとつとして念頭においていた。つまり腹を痛めているのはこの場にいるふたりだけではないのではないか、と考えているのだ。他に腹を痛めている者もいるはずだ。そう考えていることにたいした根拠はない。一連の出来事がひとつの原因から成ると仮定しているうどんこには、そうであると思えてならないだけだ。さらに今起こっている異変は、自分たちの周りだけでなく、幻想郷全体へ働きかける力を有しているように感じられる。あるいは幻想郷の外へも働きかけているかもしれない。そして腹の具合の異変は、どうやら個人差があるようであった。
ふたりは腰を掛けるのに手頃な岩のうえに座っている。休むといえどもその程度であったが、それでも輝夜はいくらか楽にできているように見えた。
休息をとっているあいだ、うどんこは異変について考えていた。
いくつもの異変が一時に集中して起こった。八雲紫は異変を欲していたようであったが、それは博麗神社の巫女を心配してのことである。巫女に異変を解決させれば良いのであって、このようにいくつもの異変を同時に起こす必要などあったのだろうか。そもそも、異変を起こす目的とは、本当に幻想郷のためなのだろうか。
そうだ、博麗霊夢は動き出しているのだろうか? 協力を求めることはできないだろうか?
うどんこはようやくそのことに思い当った。異変とくれば解決策としてまずは巫女への協力を思い浮かべるべきであったが、あまりに動転していたため今まで考えもしなかったのだ。
矢張り、まず博麗神社へ向かうのは正解なのだ。
けれど異変の根源である紫は、霊夢に退治されるかもしれないという危険を冒してまで、どうして神社へ向かったのだろうか。犯人として処罰されるどころか、異変解決に動き出した巫女は相手に敵意がなくとも妖怪であればたちどころに攻撃に移ると聞く。妖怪であるという、ただそれだけで退治されてしまう。まったく理にかなわない。
まさか八雲紫は博霊霊夢を懐柔する気なのではなかろうか……。
いやしかし、異変を解決させようとしているのだから、味方にする必要性はない。
では、いったい何故。
「輝夜様」
うどんこは永遠亭の主の名を呼んだ。
「なあに」
いくらかの元気を取り戻しつつある輝夜は、今では気丈に振る舞おうとしていた。
「博霊神社の巫女――博麗霊夢は動き出しているのでしょうか」
うどんこのその言葉に、輝夜は首をひねった。
「どうも勘違いをしているみたいね。貴方も、八雲紫も」
「どういうことでしょうか」
「八雲紫は永遠亭に来た時に言ったわよね。異変を求めている、って」
「ええ、確かにそのようなことを。今ではおそらく、実際に異変を起こした張本人として……」
輝夜はそのとき、永淋と口論をしていたはずだ。ちゃんとひとの話は聞いていたのだな、とうどんこは妙なところで感心をした。
「必要なかったのよ」
「え?」
「異変を起こす必要なんてなかったの」
「それは、何故です?」
「八雲紫が異変を起こさなくても――まあ、八雲紫が異変を起こしたというのはまだ仮定の話だけれども――、異変は別に起こったのよ」
うどんこには、わかりそうでわからない言葉であった。
「八雲紫が訪ねてくる前に、博麗霊夢がやってきたのよ」
それは輝夜と永淋が喧嘩をはじめる前のことだった。
朝、輝夜はひとりで永遠亭をこっそりと抜け出した。どこへ行くということもない。いわゆる朝の散歩であった。そんなことでさえ永淋は気に病むので、輝夜は誰にも気付かれぬように永遠亭を出たのだった。
竹林を歩いていると、向こうから人影がやってくるのが見えた。いったい誰であろうかと目を凝らしていると、背後から何者かに肩を叩かれた。ギョッとして振り向けば、怖い顔をした永淋が立っている。永淋を納得させることのできない言い訳をべらべらと述べていると、向こうに見えていた人影が、いつのまにかにすぐそこまで近づいていた。
人影の正体は博麗霊夢であった。永遠亭に用があった、と言う。
「何用かしら?」
と輝夜は訊いた。
「ここら辺でなにか起こるような気がするのよね」
「異変かしら」
「そこまで決めつけることはできないわ。でも、わたしに関係すること。そんな勘がするのよ」
「勘なんて頼りになるのかしらね」
「言っておくけどね、勘以外に頼りになるものなんて何もないわ」
「あら、そう?」
「あんた達、なにかしようと企んでるんじゃないでしょうね」
「そんなことしないわ」
「だったらいいけど。ああもう、わたしに関係する異変じゃなければ魔理沙にでも頼りたいのに」
「天下の博霊の巫女が情けないことを言うのね」
「いいの。わたしもあと何年かで引退するんだから」
「あら、おばさん宣言?」
「ちがうわ。娘に任せるの」
「もうそんなに大きくなったの」
「筋はいいからね。あと何年かすれば、モノにはなると思うわ」
数年前に博麗霊夢は子を授かった。輝夜は当時を思い出し、袖で口元を隠した。おもわず浮かべてしまった笑みを隠すためである。
あのときは幻想郷はじまって以来の大異変だと騒ぎたてられたものだった。そのことを口にすれば、目のまえの当事者に成敗されかねない。
「それで、いったいどんな異変か見当はついてるの?」
「それさえわかればねえ。ただわかるのは、どうもわたしにとっては気に食わない……それも、そうとう気に食わない状態になるということなのよ」
「なるほど。だから、早くも調査に取り組んでるのね」
「そういうことよ。面倒だけど、気に食わないのは好きじゃないからね」
「誰だってそうよ。もちろんわたしにとってもね」
「あら、そう?」
「八雲紫が異変を起こすことを、博麗霊夢が予知していたということですか?」
輝夜の説明を聞いたうどんこは、そう言った。
「ちょっと違う」輝夜はそう答え、自信がなさそうに付け加えた。「と、思う」
うどんこは輝夜の説明を待った。
輝夜はしばらく考えた後、続けた。
「今のところ、博麗霊夢にとって気に入らない事態にはなっていないと思うの。変なことばかりだから諸手をあげて歓迎できるものじゃないけれど、『とても気に食わない』という程じゃないと思うわ。すくなくとも、異変が起こるまえに博麗霊夢が動き出す程じゃない。博麗霊夢にとっては『とても気に食わない』わけではなく、どちらかと言えば『とても気に食わない』のはわたし達よね?」
「ええ」
「つまり」輝夜は難題の解き方でも教えるような口ぶりで続ける。「異変は別に起こる……あるいは別に起こっているはずなのよ」
うどんこは片手で額を抑え、頭を痛めているかのように人差し指で頭をとんとんと叩いた。
「まだなにか起こるっていうんですか」
「あるいは、わたし達が知らない異変が今も起こっている」
「あるいは」
「そう、あるいは」
ただでさえ、現状はめちゃくちゃなのである。もしもここで別の「あるいは」が発生してしまえば大変なことになる。
「なんでもありじゃないですか。なにやったっていいんですか」
「もうはじまってしまったのだから、なにを言っても仕方ないわ。それに『なんでもあり』のなにがいけないと言うの? これから探し出そうとしている輩はおそらく『なんでもあり』なのよ。ここは幻想郷。『なんでもあり』が可能の世界なの。『なんでもあり』をできない方が悪い。『なんでもあり』はアンフェアとは言わないし、否定できない」
八雲紫の能力――境界を操る程度の能力――の底を知る者は果たしているのだろうか。その能力でもって、いわゆるテレポーテーションまがいの移動手段を持つだけでなく、山の稜線を操り空と山の境を曖昧にすることさえできるらしい。物語を行き来することさえできると聞く。
うどんこは額をおさえたまま目をつむった。『なんでもあり』がまかり通るだなんて、この世界はあんまりである。
「……そんな楽観視していていいんですか」
「楽観視なんてしていないわ。わたしはこれでも憤っているのよ。霊夢の言うとおりだわ。『とても気に食わない』状態。わたしはとてもとても憤っているわ」
うどんこは、ちらと輝夜の表情を伺った。輝夜は真顔であった。八雲紫や風見幽香、八意永淋の笑みは不気味で怖いが、シンプルな表情もそれはそれで、やはり身を震わせる思いである。
休息をとったことで、輝夜は肉体的にも精神的にもいくらか活気を取り戻しているようだった。いつまでも不安の渦に沈み込んでいるよりは、怒りに身を焦がしているほうが良いように、うどんこは思えた。
ふたりはそれで押し黙ったが、やがて輝夜が立ち上がったので出発となった。
てゐは辺りを見渡し、近くに八雲紫あるいは八意永淋がいないかどうか確かめた。まず眼であたりを確認し、それから耳をすませた。ピンと張った白い耳が、風や笹の葉などの細かな音をとらえる度にぴくぴくと震える。
てゐは自分の姿を、輝夜とうどんこの二人に認めてもらうことを諦めていた。
二人には見えていない。目のまえで手を振ってみても、顔を見合わせる二人のあいだに割り込んでみても、こちらに気がつかない。まるで透明人間にでもなったような気分である。いや、もしかすると本当に透明人間になったのかもしれない。相手は自分を視界に入れているはずなのに存在を意識されていないかのよう。まるで空気だった。
何度も何度も自分の手を見た。水に映る自分の顔を見た。自分の手はちゃんとあったし、自分の顔は水面に揺らいでいた。身体を触ることはできる。声を出すこともできる。草木を揺らすこともできる。耳はあった。鼻もあった。鎖骨もあった。胸もあった。腿もあった。足のつま先もあった。痛みもあった。何もかもある。
てゐは確かにここに在る。
けれど、いない。
歩いているうどんこの身体を押す。うどんこはよろめいたが、それだけだった。歩みを止めることなく、そのまま歩き続けている。不思議そうにあたりを見渡したり、何かに躓いたのかと足元を見ることさえしない。自分がよろめいたことにさえ気が付いていないようだ。
なにすんのよ!
いつものその一言さえ、ない。
輝夜が永淋にさらわれたあたりからずっとこの調子である。
うどんこの手を引いて輝夜に引き合わせたり、狂気に満ちた永淋の様子をうかがったりと、二人の手助けをした。初めは姫を守らなければならない、といった使命感に満ちていた。確かに助けにはなっていただろうが、誰からも気づかれないため達成感はなかった。繰り返すうちに虚しくなっていった。
ずっと、このままなのだろうか。
ふたりは竹林の外へ出るため、上空へ向かって飛んだ。無数の竹の幹を眼下にし、密集した葉の森を抜けて大空へ出る。
――はずだった。
いや、確かに飛んでいる。
上空へ向かって飛ぼうとしているのだが、いつまで経っても群がった葉まで到達できないのだ。まるで空間が歪んでいるかのようである。
うどんこは足元を見た。するとどうだ、未だ地上から数十センチとしか離れていない位置に自分がいる。まさか飛べなくなってしまったのだろうか。しかし、飛んでいるという浮遊感はある。重力は感じられるし、その重力に逆らっている自分の力も感じられる。挙句、上昇感さえあるのだ。
輝夜は諦めたのか、すでに地に降り立っていた。難しい顔をしてあたりを見渡している。
うどんこも輝夜の傍に降り立った。
「異変、でしょうか」
「たぶんね」
輝夜は悔しそうに言う。
「これが博麗霊夢の気に食わない異変でしょうか。もしくは、まったく別の新しい異変……」
「わからないわ」
もしもこれが博麗霊夢の予知していた異変なのだとしたら、飛べないというのは確かにあまり気に入らない異変である。だが、うどんこはどこかひっかかっていた。そのひっかかりのせいで、この異変(らしきもの)を博霊霊夢が予知したそれと認めることはできなかった。
二人は飛ぶことを諦め、歩くことにした。幻想郷の竹林のなかを歩いてゆくのは一般の者には非常に困難なことである。しかしまったく迷わない者もいる。とくに竹林に住まう者、または住居をかまえる者たちなどはその筆頭である。つまり永遠亭に住まう二人にとっては竹林を歩くことなど困難なことではなかった。
が。
歩いても歩いても竹ばかりであり、一向に外へ出ることができないでいた。似たような場所ばかりに出るのだ。それも、非常に酷似した場所ばかりである。
直進を続ければやがて竹林の外へ繋がるはずであった。しかし、いくら歩いてもたどり着かない。
「これはいったい」
うどんこは足を止め、そう言った。
そしてふと気がついた。
似たような場所を歩きまわってしまって迷っているのではないか、今まではそう思っていた。だがどうやら、それは違うようだった。同じような場所を通っているわけではなかった。
「まさか、ここからちっとも進んでいないんじゃあ」
うどんこは辺りを見渡した。同じような竹、同じような落ち葉、同じような石――そう思っていたそれらは、実は同じ竹、同じ落ち葉、同じ石だったのではないか。『同じような』ではなかった。まったくもってそれ自体であったのだ。
「おそらくね」
輝夜は気を落としたようにそう言った。すでに勘づいていたのだろう。
いつの間にかに竹林のなかは肌寒くなっていた。ずいぶんと暗くもなっている。夜がやってきつつあるのだろう、とうどんこは思った。いったいいつの間に陽は落ち始めたのか。
輝夜を見ると、肌寒くなっているというのに額に浮かんだ汗を拭うところだった。腹の具合がよくないのだろうと察したが、うどんこはなにも言えなかった。
「きっと」と輝夜は言った。「空間が歪んでいるかなにかかしらね。ここから出られなくなっているんだわ」
「これも八雲紫の仕業でしょうか」
境界を操る程度の能力であれば、造作もないことなのであろう。
「どうかしらね」
輝夜はそう言うと、手頃な岩を見つけて腰をおろした。目をつむった。その姿は腹の痛みに耐えているのか、それとも思案に耽っているのか、あるいはその両方にもとれた。
輝夜と永淋の絆を守り抜くと決心し直したばかりだというのに、いったいこれはどういうことか。うどんこは立ちつくしたままやきもきした。いったいなにをしているのか。結局なにもできないのだろうか。
輝夜は悔しそうに下唇をかみしめている。
永淋は遠くに目標の女を視認した。
持ち出してきた弓を肩にかけ、四つん這いになって音をたてぬように近づく。
傘をさした目標の女は、小さな女と一緒だった。
一定の距離まで近づいた。女は永淋の接近に気付いていないようだった。
永淋は膝だけで低く立ち上がると、弓を構え、矢をつがえた。
――どうして目のまえの傘の女を射抜こうとしているのか。
一瞬だけ、そんな考えが頭を過ぎった。
だが今の永淋にはその言葉を吟味するどころか、意味ある言葉として捉えることはできない。
永淋は矢を放った。
直後、傘の女がこちらを向いた。
矢が傘の女にあたることはなかった。
放たれた矢は傘の女の目のまえで忽然と姿を消したのだ。
理解し難い現象であった。
だが、今の永淋には「理解し難い」ということさえわからない。矢を続けざまに放った。
放たれた矢は傘の女にたどり着く前にことごとく消え去った。
傘の女は永淋を指さした。
「ほら、あそこに異変がいるわ」と、傘の女は小さな女に言った。「退治なさい」
永淋は弓を肩にかつぐと、ふたりの女に飛びかかった。
その場所に長いあいだ閉じ込められていた――辺りが見渡せるのに閉じ込められた、とはおかしな言い回しだが――というわけではない。陽の光がすべて闇に飲み込まれてしまうまでの、たったいくばくかの時間だ。ただ、時間自体は短かったが、多くの苦痛を伴う濃密な時間であった。
その時間をふたりは、腹や頭を抱えたまま、うつむき、押し黙ってじっとしていた。
そんななか、うどんこはその音を耳にした。
その音は、大きい音というわけではない。また、特殊な音というわけでもなかった。
生き物が草木を揺らす、ガサガサというなんの変哲もない音である。
しかしうどんこにとっては特別な音として感じられた。うどんこのなかの、ある種の独特な予感を生ませる大鐘を、静かに、だが確実に鳴らしたのだった。輝夜が説明していた、霊夢が言っていたという「勘以外に頼りになるものなんてない」という言葉を、ふと思い出す。そういった類の勘が働いたのかもしれない。
ガサガサという物音に特別な何事かを感じたうどんこは、バッと顔をあげ、唖然とした。
今まで探していた永遠亭が目のまえに現れたのだ。
いや、それは現れたのではなく、「あった」と表現するほうが正しい。
ずっと俯いたままであったため、永遠亭がしばらく前から目のまえに存在していたのだが、ふたりはずっと気がつかないでいたのだ。
「姫様」
うどんこは自分の声が震えてしまうのも構わず、なんとか声を振り絞った。
「これは」
顔をあげた輝夜は腹の痛みも忘れて驚きの表情を浮かべた。
「いったい、いつの間に」
突拍子もない光景であった。
ふたりは動けない状態だったため、その場から一歩たりとも移動はしていないのである。そしてこの場には建築物などなにひとつ存在していなかった。こちらが移動していないということはつまり、永遠亭がここまで移動したということになる。
「なにがなんだか」
とうどんこが言うや否や、ふたたび、ガサガサという音が聞こえた。
うどんこと輝夜のふたりは同時に音のしたほうへと振り向いた。
無数の雄々しい竹や、その足元に群生する下生え。
そのなかから何者かが飛び出した。
現れたのは永淋であった。
うどんこは突如舞いこんだその人物を自分の師なのだとすぐに認めることができなかった。
なにしろその者は、四つん這いになり、顎が外れるのではないかと不安になるほど大口を開け、その口からは涎を流し、ぐわァッと獣のように叫んでこちらを威嚇しているのである。
それでもその姿は、まぎれもない敬愛する恩師のものだった。
「師匠!」
言葉が通じるようには見えない様子だったが、うどんこは声をかけた。近づくことはできない。
自分の名前を呼ばれた――そう感じたかどうかは定かではないが――獣は、四つん這いの状態からすっくと立ち上がって弓をかまえた。
つがえられた矢の先端が指し示した相手は輝夜である。
輝夜は苦しそうに顔を歪めるだけで動こうとはしない。また痛みだしたようだった。
うどんこは、これは夢なのだと思った。思いこもうとした。いや、いっそ夢であってくれと願った。
永遠亭の主が、最も信頼している八意永淋に凶器を向けられている。そんなことがあっていいはずはない!
鏃が輝夜の胸に真っ直ぐに向けられている。
ほんの束の間のこと――
うどんこは、矢を持つ指の力がすっと抜かれるのを見た。
筋肉の動きを見てとったわけではないが、矢に溜められたエネルギーが解放されるのを視覚的に感じたのだった。
が、うどんこが動いたのは矢が放たれる直前である。永淋への信頼と懐疑の狭間で苦しんではいたが、身体は勝手に動いていた。自分のした決心がそうさせたのかもしれない――『蓬莱山輝夜の身の安全が何事に対しても優先事項である』――そうではなかったかもしれない。だがどちらにせよ、身体の反応は正しかった。
うどんこは横っ跳びにとんで輝夜の身体を抱え、どうと地面に倒れた。直後、輝夜の身体のあった場所を凶器が風を切り裂いていった。
実際の物理的な動きとしては、うどんこが動き、永淋の指が開くのを見、そのあとにびゅんと矢が飛ぶ、といった順序であった。が、うどんこの意識はその動きについていけなかったため、彼女自身が地面に倒れた後になってから、永淋の指の動き――つがえた矢を放つその動き――が頭のなかで映像として再生された。
倒れたうどんこは、輝夜を抱えたままキッと自分の師をその紅い眼で睨んだ。永淋を狂気で侵そうとしたのである。
だが永淋はその危険な眼を直視しても、まったくものともしなかった。新しい矢を弓につがえ始める。その力強い仕草から、離れているうどんこの耳にもぎりぎりという弓のしなる音が聞こえてきそうであった。
うどんこは輝夜を抱えたまま立ち上がり、駆け出した。さながら意思を持ったつららのように、放たれた矢が足元の地面に突き刺さる。意識して矢を避けることは到底不可能に思われた。
うどんこはいま一度、走りながらその能力でもって永淋を攻撃した。だが師にはなんの変化も見られない。遮へい物となりそうな木々へ、うどんこは輝夜を抱えたまま跳躍した。だがその遮へい物とは背丈のわりにはあまりにもか細い竹である。身を隠すのは困難であった。うどんこは走り続ける。
自分の能力が通じない。
狂気をも超越する精神力の持ち主であるということなのだろうか。
あの八意永淋ならば、あるいはそうなのかもしれない。
いいや、違う。
うどんこは、自分の能力が影響されないことについての一つの解答を思いつく。
しかしそれを認めるわけにはいかない。少なくとも、今この場で認めるわけにはいかない。
だが、しかし。
うどんこは抱えたままの自分の主を見た。憔悴しきったせいで幽鬼の類のように青白い顔をしている。うどんこは解答を思わず口にしそうになっていたが、ぐっと抑え込んだ。
永淋は狂気の渦に完全に飲み込まれてしまっている。真に狂っている。
狂気におかされた者を狂わそうと企てたところで意味がなかったのだ。風邪をひいている相手に、風邪をひかそうと水をかけるようなものなのだ。狂気のメカニズムなど知る由もないが、まったく意味のないことをしてしまっていたと考えて差し支えがないだろう。
うどんこは考えることを辞めた。
今更なにを考えるというのだろう? 今は何よりも逃げ切ることが先決である。
うどんこは主を抱える腕にギュッと力を入れた。うどんこの不安が伝わったのか、輝夜が怯えたように身体を強張らせる。その動きはうどんこを心底痛めつけた。
姫がこんなにも……。
うどんこはなるべく気にとめないように努めた。
輝夜は驚くほどに軽かった。羽のように軽い、とまではいかないが、抱きかかえて走れる分には充分に軽い。もとより、幻想教に住まう人間たちに比べれば力はある方ではあったが、それにしても軽い。それとも、疲れ切って脱力した者は余計な力が入らないだけに軽くなってしまうのだろうか? むしろ逆に重くなってしまうと聞いてはいたが、そんなことはなかったのだろうか?
ひゅん――。
身体のすぐ傍を矢が飛んで行った。
また考えてしまっている。うどんこは疾風(はやて)のように駆けながらそう思った。考えるのを辞めなきゃならない。今は、今だけは無心にならなければならない。無心になって逃げなくてはならない。早く、もっと早く。逃げることだけを考える。逃げる、逃げる、逃げる。輝夜と、そして永淋を助け出すために、今は逃げきらなければならないのだ。
ここから、逃げるんだ。
そしてうどんこは一つの風となった。
あるのに、ない。いないけどいるのだ。てゐは何度も二人を読んだ。やがて声はかれた。井戸で水を飲んだ。水は飲めるのだ。理不尽だと感じた。自分はいないくせに、欲しいものはあり、それは簡単に手に入る。だが自分に対して二人は意識できない。自分になにかを求めてほしい、そう願った。自分という存在を相手が認識して初めて個が成立するのだと、てゐは初めて知った。相手が自分のことを好きでもいいし嫌いだっていいから、意識することによって存在できるようになるのだ。意識されなければ、それはいないのと同じ、いや、いないのだ。
意識というものが大切らしい。
井戸の水にはてゐは映っていなかった。代わりに別のものが映っていた。井戸がおかしなことになっているのはすでに知っていたので何とも思わない。井戸の悪意ある悪戯なのか、それとも偶然なのか。他の水たまりに行けば自分が映っているのはわかっている。だが、今そこに自分が映っていないことに違和感がなかった。だんだんと、自分がいないということに慣れてしまっている。
永淋から逃げ切ったうどんこ達は、焚火をこしらえて野宿をすることに決めていた。
うどんこは座り込み、焚火をぼんやりと見つめながら考え込んでいた。輝夜は疲れ果てた様子でとうに眠り込んでいる。
永淋から逃げ切ったことは確かであったが、無我夢中であったためにどのようにして逃げたのか覚えていない。いや、わからない、といったほうが正しいかもしれない。それだけ無心で逃げ続けたのであった。
これからどうすればいいのだろう。
途方にもくれている。
姫を守らなければならない。でも、いったいどうやって?
考えるべきであった。
しかし疲れ切っていた。
焚火を見つめるその瞳はゆっくりと閉じていった。
闇のなかで焚火が揺れた。
うどんこは夢を見た。
昔の夢である。
誰が言い出したのか今となっては定かではないが、家族という単語をテーマにして談笑しあっていた。
永淋が母親であり、輝夜とうどんこ、てゐの三人が娘――。
「てゐが小憎らしい悪戯っ子な末娘で、姫は物静かなんだけど我が強い長女、うどんげはしっかり者のようでその実どこか抜けている次女ね」
輝夜とてゐはその言葉ににこにこと微笑んでいる。
だが。
「そんなの駄目です」と水を差す者がいた。うどんこである。「わたしは、姫を守る立場にある者です。姉妹だなんてそんなふうにはなれません」
すると輝夜は袖で口元を隠しながら、言った。
「やあねえ、頑固者の妹はきらいよ。ねえ?」
姫のその言葉に、てゐが同調するように笑った。うどんこは助けを求めるように永淋を見たが、師は肩をすくめてみせ、優しい顔で微笑むだけであった。まったく仕方ないわねえ、とまるで本当の母親のように。
うどんこは恥ずかしくなって耳まで真っ赤にした。
懐かしい、あたたかい夢だった。
朝がやってきた。
うどんこは眠るつもりなど一切なく、夜通し見張りをするつもりであった。だが疲れのせいでいくらか眠ってしまっていたようだった。
目を覚ましたうどんこは、まっさきに輝夜の姿を探した。
輝夜はすぐ傍で焚火の残滓をじっと見つめている。
うどんこは眠ってしまった非礼を詫びたが、輝夜は首を横に振った。
「休むべきだわ。貴方も疲れてるでしょう」
「しかし」
「そんなことよりも」輝夜は立ち上がった。「これからどうするか考えるべきだとは思わない?」
輝夜は毅然とした態度を持ち直していたようだったが、うどんこはそうもいかない。
「そう……、ですね」
まさか自分の師が、あれほどまでの変貌を遂げていようとは。
「なによ、元気ないわねえ」
元気を取り戻せないうどんこに、輝夜はあきれたように言う。
どうして姫は元気なのだろうか。元気になれたのだろうか? うどんこはそう思う。
すでに永淋の変貌を見ていたために覚悟ができていたとでもいうのだろうか。あんなに落ち込んでいたというのに。あんなにも苦しんでいたというのに! あれほど悲痛な表情を見たのは初めてのことだった。いったいどうして立ち直れたのか。あの八意永淋が、狂ってしまったというのに……
「でも、これからどうするんですか」
と、うどんこは暗澹たる面持ちで言った。
自分の腹の痛みは大幅に激減していたが、昨日の様子を思い出せば輝夜のそれはまだ続いているのではないだろうか。
「八雲紫は見つかりそうもない。だとしたら、永淋を止めるしかないわね」
決まってるじゃない、という表情で輝夜が答える。
「止めるって言ったって……。相手は師匠ですよ? こちらの言葉は通じそうにないのに。それともまさか」
「止めると言ったら、まあどちらかよね」
「どちらかって。それに、どうやるんですか」
「どうやってもこうやってもないわ。止めると言ったら止めるの。というよりそもそも貴方、いったい何を怖気づいているの? あの永淋がおかしくなってしまったのよ? 永淋がおかしくなってしまったのならいったい誰が止めるべきだと思っているの? 博霊神社の巫女? 幻想郷で起こった異変はすべて巫女が解決するの? 冗談じゃないわ。まったく冗談じゃないわ。私たちの間で起こったことは私たちが解決する。そうでしょう?」
月の民が起こした問題は、月の民が解決するべきである――。
輝夜の口調からはそういう意味としてとられることもあるかもしれない。しかしそれは真意ではないし、なにより輝夜の本意ではない。うどんこはすぐに察した。
永淋がおかしくなってしまったのである。つまりそれは、私たちが解決して然るべきである。永遠亭の住人が解決するべきなのである。もしも変貌してしまったのが永淋でなかったとしたら、輝夜であったとしたら、それは永淋とうどんこが解決するべきなのだ。輝夜はそれを望むであろう。同様に、永淋もそれを望むはずだった。
「ええ、そのとおりです。そのとおりでした」
うどんこは意を決した。永淋がおかしくなってしまったのだから、それを助けるのは自分と輝夜の役目なのであり、それこそ絆の証明となるのだ。言葉にしてしまえば安っぽいが、しかし絆という言葉以上に似つかわしい単語はない。
だが、何かが引っ掛かっていた。何かを忘れてしまっているような気がするのだ。何か、大切なものが身体から欠けてしまっているようだった。いったいそれが何なのか、まったくわからない。
「そうと決まれば、行くわよ」輝夜はそう言うと、一度伸びをしてから歩き出す。「わたしと貴方しかいないんだから」
そうなのだ。と、うどんこは思った。
自分の師、永淋がいない今、永遠亭の絆の名で繋がった者は輝夜と自分しかいないのだ。三人が二人になってしまったのだ。これからの行動次第では、永遠に二人となってしまうかもしれない。
引っかかったことがいったい何か、うどんこは気づいた。
本当にそうなのか?
本当に二人しかいないのか?
気がかりになっていることはそのことであった。
私たちは、とうどんこは強く思う。二人ではなかったはずだ。
永淋を含めて三人、いや、元々は四人であったはずだ。
輝夜と永淋と自分、そしてもう一人がいたはずだった。
あと一人、いったい誰であったか。
思い出せない。
思い出すことができない。
誰かがいたはずなのだ。
どうして覚えていないのだろうか。
どうして忘れてしまったのだろうか。
もしかしたら大切な存在だったのに――いいや、確かに大切な存在であったはずだ。
「姫」
とうどんこは先行する輝夜を呼びとめた。
「なによ」
輝夜は足を止めた。
「あと一人、いませんでしたか」
「いったいなんの話?」
「あと一人いたはずなんです」
そうだ、いたはずなのだ。覚えていない。いや、思い出すことのできない誰かが。
「話が見えないわ」
「私たちは本当に三人だったのでしょうか。姫と師匠と、わたしの三人しかいなかったんでしょうか」
「あと兎たちくらいかしらね」
「いえ、そういう意味ではなく……」
「ああもう、要領を得ないわね」
「すみません」
「何か考えているということはわかったけれど、それはそんなに大事なものなの?」
「おそらく」
本当に「おそらく」程度のものだろうか? いや、もっと大切なものだったはずだが。
「その程度なら後にしなさい。わたしたちにはぐずぐずしている暇なんてないはずよ」
輝夜はそう言い放つとふたたび歩き始めた。うどんこも慌ててそれを追う。
言いようのない不安が、ぬめりとした重たい泥水のようにうどんこに付きまとっていた。思い出すことのできないもう一人。それが大事なのだ。その誰かを思い出さないといけない。
二人は長いこと歩いた。うどんこが手を翳して空を仰ぐと、鬱蒼と茂った竹の葉のあいだに太陽が見えた。ほとんど真上にある。すでに昼になっていた。
しかし永淋も八雲紫の姿も見つからない。ましてや、永遠亭にいたはずの思い出せない誰かの姿など、視界でも記憶からも確認することはできなかった。
と、いうよりも――。
「まさか」
と先に口にしたのはうどんこであった。
「また、同じ場所を回ってしまっているだけなのでは」
輝夜はそれには答えず、一息つくために立ち止まった。腹の具合は収まっていたようだった。だが、まだ奥底で疼いている感じが残っている。油断できない。
「さっきから飛ぼうともしているのですが、矢張り駄目です」
「閉じ込められているのかしら」
「しかし八雲紫が原因だとしても、周囲に気配を感じられません」
「どこかへお出かけ中なのかしらね」
うどんこには黙っていたが、輝夜には気がかりになっていることがあった。
今の竹林は、自分の能力の影響下におかれた状態と似ているように感じられるのである。輝夜の能力――永遠と須臾を操る程度の能力――のうち、永遠を操る能力。永遠とは未来永劫変化のない世界のことである。今の竹林は、まるで輝夜が竹林にその能力を使ってしまったかのようなのである。竹林の一部が変化の訪れない世界となってしまい、そこを幾度も彷徨っているかのようなのだ。まったく変化の感じられない景色ばかりが続くせいで、「永遠」という言葉がつきまとう。竹林の外では陽が落ちるし月が克明に姿を現す。だが竹林の中では何も起こらない。永遠の中に閉じ込められてしまっているため、この場所からは出ることができない……。
むろん、もしも自分の能力に似た何かによって、この竹林の一部が永遠に近い存在と化しているとしても、ここから脱出することができないということのはっきりとした説明にはならない。むしろ、空間が捻じ曲げられ、輝夜とうどんこのいる空間がひとつの球体のような状態とされて周囲と隔離されている……そんなふうに考えてしまったほうが納得がいく。球体として隔離されているのだから、その場所からは移動することができないし、ある地点からしばらく歩けば同じ場所にたどりつくということにもなる。スタート地点がゴールとなるわけである。
空間が隔離される。
そんなことはあり得ない話だ。
いや、本当にそうなのだろうか?
八雲紫ならば、あるいは?
しかしいったいなんのために。
竹林に存在するいくつかの境界を操り空間を捻じり、ひねり、球状にしてしまったのだろうか。
もしもそうだった場合、自分の能力で干渉することはできないだろうか。この空間より外、竹林全体を変化のない永遠のものとすれば……。いや、それは意味のないことだろう。それに、本当に空間が隔離されているならば、外の空間との溝を超えてまで自分の能力が影響するという保証はない。
また、輝夜は須臾の能力でもってうどんことは別の歴史で竹林を歩き回った。しかし、出口はいっこうに見つからない。
輝夜はこの場から出ることを考えるのを一端切り上げ、うどんこの話について考えることにした。うどんこは気にかかることを話していた。しかし輝夜の中での優先事項はこの場からの脱出あるいは永淋の補足であったため、話を一蹴してしまったのだ。だが、うどんこの話はずっと引っかかっていた。手の平の皺に刺さった小さなトゲのようになかなか頭を離れないでいた。それにしても考えることは山ほどあり、いつまでたっても尽きないように思われる。
うどんこは先ほどなんと言っていたか。
「もう一人いた、と言っていたわね」
と輝夜が言うと、うどんこはうなずいた。
「ええ。どうにも思い出せないのですが」
うどんこの表情から、あれからずっとそのことばかり考えていたのがうかがえる。本当に大事なことなのだろう。
「その……、もう一人いた、とそのことを思い出した切っ掛けかなにかないの?」
「姫の『わたしと貴方しかいない』という言葉です」
「わたしの言葉」
「はい」
うどんこはそう答えると押し黙った。
輝夜は考えた。
自分の言葉から問題が提起されたということは、もしかしたら自分もなにか思い出そうとしているのではないだろうか。それも、うどんこよりももっと早い時期から。
「非常に言いにくいのですが」
とうどんこが言った。
「なに」
「夢かもしれません」
「夢?」
「思い出そうとした切っ掛けです。姫の言葉の前に、なにか重要な夢を見たような気がするんです。夢が重要だなんて、笑い話にもなりませんが、そんな気がするんです」
「思い出せないの?」
「ええ。思い出そうとはしているのですが。なにか、昔の頃の夢だったような」
「昔――その夢の時代にいた人物ということね。その『誰か』さんは」
「違います! ずっと……、ずっと傍にいたんです。今だって、傍にいるような気がするくらいなんです」
「それなのに思い出せない?」
「はい……」
うどんこは力なく肩を落とした。
ようやく輝夜は、これもまた今回の異変に関係のある事柄なのだろうかと思い至った。思い出せない誰か、忘れられた誰か。あるいは、存在そのものが消えた――消された?――誰か。
いったいぜんたい、この現状はなんなのであろう。なにが起きているというのか。本当はなにが起きて、なにが起こっていないことなのかさえわからない。事が起こるに連れて現実味が薄れてゆく。
まるで夢のなかのよう。
輝夜はそう思った。すべてが確かに起こっているはずなのに、そのすべてが不明瞭である。泥水のなかを泳いでいるかのように、思うような行動さえとれない。何事も上手くいかない。
自分もまた、うどんこと同じ夢を見れば思い出すことができるのだろうか?
「どんな夢だったのか思い出せないの?」
「ええ。昔の夢としか……」
「どうしても思い出せない?」
今、うどんこが夢の内容を思い出すことが重要なのだと輝夜は感じていた。
「もう一度眠ってみましょうか」
ははは、と力なくうどんこが笑ってうつむく。
「まったく。八雲紫があなたの夢のなかに入り込んできて変なものでも見せているんじゃないの」
二人が思い出せない過去を、夢は掘り返すことが出来た。夢はどうして思い出せたのか。夢は『誰か』を知っているのか。
そもそも夢とは何が見せているのだろうか。脳? ……いや、心?
輝夜の頭に一つの単語が思い浮かんだ。
無意識。
今のこの異変は、無意識ないしは意識が関係しているのではないだろうか?
それは突飛な考えであった。
輝夜はまた仮説を立てる。
夢=無意識とするならば、思い出そうとする行為=意識。この場所にはなにかの力が作用していて、意識は遮断されている。遮断されてしまえば過去を思い出すことはできない。しかし無意識は遮断されずに過去を掘り返した。
つまり、自分とうどんこの二人の過去を思い出そうとする意識は遮断され、うどんこが偶然(必然?)に見た夢はしっかりと過去を発掘したのだ。伝説的な古の時代の貴重な化石のように。
だが、もしもこの仮説が合っていたとしたら、手も足もでない。なにしろ意識が遮断されるということは、過去を掘り返そう、そう思った時点ですでに実行不可能となっているのだ。意識せず、目的をもって無意識的に過去を思い出すことなどできるのだろうか?
できるわけがない。
それからしばらくして、輝夜がうどんこの目の前から消える。
怖くなった。
これからずっと、自分はいないままなのだろうか。
てゐは二人を目のまえにしたまま立ち尽くしている。
二人は傷つけられたひな鳥のように、ひどく疲れている。なんとかして助けてやりたかった。だが、こちらからはどうすることもできない。それはあまりに切ない。
このまま、なにもできずにみんな朽ち果ててしまうのだろうか。永遠に助け合うことができないまま、笑いあったり触れ合ったりすることができないまま、すべてが終わってしまうのだろうか。
そんなのは嫌だった。
だから、てゐは呼んだ。輝夜とうどんこを呼んだ。あらん限りの力で呼んだ。
つよく呼んだ。
つよく、つよく。
うどんこと輝夜は座り込んで休んでいた。うどんこは誰かを思い出そうと必死になっていた。輝夜はなにか考え事をしているように見える。
誰かが自分を呼んだような気がし、うどんこは顔をあげた。周囲を見回すが、自分と輝夜以外に誰もいない。誰かが藪の中で身を潜めているのかと想像する。しかし、もしそうであるならば自分を呼ぶ必要などないはずだった。
もし自分を呼ぶとすれば、いったい誰が?
姫か、師匠か?
他に誰がいるというのだ?
いや、あと一人いる。いたはずだ。
誰かいたはずなのだ。誰かが、大切な誰かが。
思い出せ、思い出すんだ!
思い出さなければならない。
それは、この異変を解決するためではない。もし今思い出すことができなければ、大切な誰かを失ってしまう――そんなふうにうどんこは感じた。
思い出すんだ! 思い出さなきゃ駄目だ!
うどんこは必死に念じる。
大切な、誰か。近しい存在。
また、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえてくる。それはたんぽぽの綿毛のように頼りない声だったが、声は確かに在った。
うどんこは周囲を見渡すが、やはり自分と輝夜以外だれもいない。
本当に誰もいないのか?
いや、きっと近くにいるのだ。思い出さなければならない。
思い出せ、思い出せ!
大切な存在。近しい誰か。
近しい存在とはなにか。大切な存在とはなにか。
恋人? 同胞? 親友? 血族?
違う。
生涯愛を誓い合った恋人は大切である。異国の世界で身を寄せ合って共に過ごす同胞は大切である。励ましあい、時に反発しあう親友は大切である。自分と同じ情報をいくつも身体に刻んだ血族は大切である。
だが、もっと深い絆がある。
そう、家族だ!
恋人であっても同胞であっても親友であっても血族であっても叶わない絆。そして、それらが昇華することによって成りえるひとつの可能性としての形。家族。
うどんこはついに夢を思い出す。大切な、暖かい昔の夢。
そこにいたのは。
微笑む永淋、おかしそうに笑う輝夜、顔を真っ赤にする自分、そして最後の一人。
『てゐが小憎らしい悪戯っ子な末娘で、姫は物静かなんだけど我が強い長女、うどんげはしっかり者のようでその実どこか抜けている次女ね』
うどんこは彼女を呼ぶために口を開いた。声が出るかどうか不安だった。
「てゐ」
とうどんこは震える声で言った。
ちゃんと、呼べた。
目のまえに、てゐがいた。
「え?」
とてゐは眼を丸くする。
うどんこの脳裏に様々な記憶が、一枚の絵となって何枚も何枚も現れる。
輝夜の手を引いてやってくるてゐ。休息をとっているあいだに周囲の安全を確認するてゐ。永淋から逃げる際、草木をかき分け先導するてゐ。焚火に枯れ木を入れるてゐ。
「本当は、ずっとそばにいてくれたのね」
とうどんこは言った。
てゐは長いあいだぼんやりしていた。事態が飲み込めなかった。頭のなかが真新しいノートのように真っ白になっていた。が、やがてうどんこの元に駆け寄った。何も考えられなかった。抱きついた。何か言うために口を開いたが、声は出なかった。すぐにうどんこが抱き返す。てゐはうどんこの胸元に顔をうずめた。鼻がつぶれて一瞬息がつまったが、それでもうどんこの胸に力強く顔を押し付けた。
「ごめん、ごめんね……」
と、うどんこは言った。
てゐは堰を切ったように泣き出した。
しばらく抱き合っていた。
やがてうどんこは顔をあげ、てゐが居たということを伝えようとした。
だが、その言葉が口から出てこない。出そうと思えば出せただろうが、出すことの意味を忘れた。
「あれ?」
と代わりにうどんこは言った。
てゐが居たということを、誰に伝えようとしたのだろうか?
今まで誰かと行動を共にしていたと思うのだけれど。
うどんこは周囲を見渡した。だが、自分とてゐ以外の誰もその場にはいない。何者かが傍にいた、という記憶が残滓として頭の片隅にある。しかしそれが誰だったのか、いつまで傍にいたのかがまったく思い出せない。
まるで、本当は独りきりだったはずなのに、それを認めたくないがために誰かの幻影を見出し、孤独に対する慰みが欲しいがためにその幻影と行動を共にしていたかのようだった。
うどんこはその想像をしてぞっとした。自分の気はおかしくなってしまっていたのだろうか。狂気を操る程度の能力を持った自分が、狂気の世界に足を踏み入れたのだろうか。ミイラとりがミイラになるとはこのことだろう。
「どうしたのさ」
とてゐが目元をぬぐいながら訊いた。声はまだ涙声である。
今まで散々苦しんだのだろう、うどんこはそう感じた。てゐに対して優しい感情がこんこんと溢れるように湧き出してくる。
「誰かいたような気がするんだけど」
とうどんこは正気を疑われるのを承知で正直に話す。
「え?」
「今まで、アンタに会う前に一緒に行動してた人がいたような気がするのよ」
「ちょっと、なに言ってるの?」
「おかしいかな」
矢張り、頭がどこかおかしくなってしまったのだろうか。
「まさか、見えてないの?」
てゐがうどんこの瞳を覗き込む。うどんこはてゐの言葉を上手くくみ取れなかった。
「見えてない、って何が?」
てゐはどこか一点を見た。うどんこもそちらへと視線を移したが、あるのは草木ばかりでなにもない。
一部、勝手な設定・解釈が含まれていると思われます。
また、理由もあり、前編・後編と区切っております。
あらかじめご了承ください。
※
「てゐが小憎らしい悪戯好きの末娘で、姫は物静かなんだけど我が強い長女、うどんげはしっかり者のようでその実どこか抜けている次女ね」
と師匠が言った。なんてことを言うのだろうか。信じられない。
てゐは師匠の言葉を聞いて楽しそうに笑っている。あろうことか、姫までもが「そうねえ」などと呑気に言いながら微笑んでいる。
「そんなの駄目です!」とわたしは言った。駄目に決まっている。「わたしは、姫を守る立場にある者です。姫と姉妹だなんてそんなふうにはなれません」
すると、姫が言ったのだ。
「やあねえ、頑固者の妹はきらいよ。ねえ?」
その言葉に、わたし以外の皆は笑った。
わたしは恥ずかしさのあまり赤面した。きっと、耳元まで真っ赤になっていることだろう。
※
竹林の上空までたどり着いた八雲紫は永遠亭の見当をつけて降下した。竹林の陰に全身が染まると、急に肌寒さを感じる。その温度差のせいか、竹林のなかと外ではまるで別世界のようだった。
永遠亭に近づいた紫は、昔、この屋敷で博麗神社の巫女とともに異変解決のため奮闘したことがあったのを思い出した。あれは何年前のことであったか。ずいぶんと懐かしい思い出だった。
永遠亭はなにやら騒がしかった。屋敷の外にいるというのに金切り声が聞こえてくる。
屋敷の戸を開き、訪問したことを告げる。が、「そればっかりじゃないの!」という大音声にかき消された。紫はいくらか考えた末、勝手にあがることにした。
長い廊下を進む。竹林の陰による影響だろう、屋敷全体が涼しく感じられる。廊下は特別ひんやりとしているようであった。
金切り声は途絶えることがない。どうやら誰かが一方的にまくし立て、それを他の何者かが宥めようとしているようだった。
「誰かいないのかしら?」
紫は廊下を進みながら今一度、自分の来訪を告げる。
ややあって、慌てたようにひとりの兎がやってきた。頭上の長い耳と腰の下まで垂らした髪が、足を踏み出すたびに揺れる。目的の兎だった。
「あら、いらっしゃい。お師さんは今手が離せない状態よ」
兎は言葉だけはすまなさそうにして言う。永遠亭を訪問する多くは、兎の師であるここの薬師目当てに来るのだろう。
「医師なんかに用はないわ」
「医師じゃなくて薬師です」
「どっちだっていいじゃないの。貴女に用があるのよ」
「わたし?」
「貴女、確かうどんこって言うのよね」
「師にうどんげと呼ばれることはあるわ」
「うどんこじゃなかったの?」
「正しくは、うどんげいん、よ。鈴仙・優曇華院・イナバ」
「長ったらしい。うどんこにしなさい」
「間違いを正当化しようとしないでちょうだい」
うどんげは呆れたように言う。
紫とうどんげが他愛無い話に興じているあいだも、屋敷のどこかで誰かが口喧嘩をしているようだった。紫が口喧嘩に気を取られ、ふいとその声のするほうへと顔を向けた。この廊下のずっと先、いくつも並ぶ戸のいずれかに当事者がいるのだろう。
「それで、いったいどんなご用?」
口喧嘩への注意をそぐように、うどんげが言った。つられて紫が顔の向きを戻す。
「なにか異変はないかしら」
「そんなもの、ここにはもうないわ」
「この奥で今まさに異変が起ころうとしているんじゃないかしら?」
紫はそう言うとニヤリと笑った。
うどんげは紫の言意をすぐに察した。
「そこまでのものじゃないわ」
「そうかしら?」
「お察しのとおり、いつもの母娘の口喧嘩だけど」
矢っ張り、といった様子で紫は頷いた。むろん、当該の者二名が本当の母娘ではないことは知っている。
廊下の奥にある無数の戸のうち、ひとつが勢いよく開いた。
「ついてこないでちょうだい!」
「それはできません」
開かれた戸から現れたのは、顔を紅潮させて大股で歩くひとりの少女だった。そのすぐ後から「姫をひとりになんてできませんから」と言いながら、しかめっ面をした女性が現れた。前者がこの屋敷の主である蓬莱山輝夜であり、後者がうどんげに師と称され、また、薬師を務める八意永淋である。まわりからは専ら医師だと思われている。
「おふたりとも。客人のまえですよ」
現れたふたりのもとに、うどんげが慌てて駆け寄る。
「いつもいつも五月蠅いのよ」輝夜は一度間を置いた。「『どこへ行くの?』」声色を変えて話し出す。「『お伴する者は何人?』『なにしに行くの?』『いついつまでは帰りなさい』『そこへ行ってはなりませんよ』」
「姫のためです」
対する永淋は表情ひとつ変えない。よくあることなのだろう。
「姫様! 師匠!」うどんげが大きな声を出してふたりに割って入った。「お客人のまえです」
それで輝夜と永淋は黙り込んだ。うどんげは叱責するかのようにふたりを睨んでいる。いくばくかのあいだ、間の抜けた沈黙が流れた。
てゐはどこにいったのだろうか? うどんげはそう思った。一人ではこの喧嘩は止められない。手伝ってほしいのに。
「気が付かなかったわ。ごめんなさいね」
やがて永淋が紫へと顔を向け、笑顔で挨拶をした。輝夜も笑顔をつくろうと試みてはいたが、興奮がおさまらず、うまくいかないようだった。しかし一歩前に出て「見苦しいところをお見せしたわね」と言い、屋敷の主としての威厳を保とうとはする。
「どういったご用件で?」
と永淋が言う。
「師匠。実は、紫さんは、その」
うどんげが口を挟む。客人は、異変はないのか、と言った。もはや何年も前になるが、たしかに前科があった。懐かしい記憶である。だがそれにしても、あまりにも失礼な用件ではないだろうか? この幻想郷において異変とはすなわち悪とされがちである。しかし客人はあの八雲紫だ。難しいところだった。
紫はうどんげの心情を察しているのか、いないのか――はたまたなにも考えていないのか。感情を読み取りにくい表情で口を開いた。
「ねえ、異変を起こしてくださらない?」
紫は異変を求めていた。
近頃、異変があまりに起こらないのである。
それは傍若無人な博麗霊夢を恐れてのことであったり、異変を起こしたところで自警団気取りの者や興味本位でやってくる者に解決される他はないと諦めてのことであったりするのだろうと予想される。その両方なのかもしれない。あるいは、ただ単に異変を起こそうと考える輩が偶然にもここ十余年ほどいないだけなのかもしれない。紅い霧が幻想郷をうす暗く包んだり、永遠かと思われるような夜が続いたりしたのは、彼これ十何年も前の話だった。
異変が起こらないということは治安が良いと捉えがちである。幻想郷のためになっていると思われがちである。いや、確かに治安事態は良くはなっているのかもしれない。だが――。
ところで、幻想郷には雑多な妖怪と人間がいる。
人間と妖怪にはルールがあった。幻想郷が生まれる前からのルールである。
妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する。
どちらかといえば、次のような迫観念的な暗黙のルールであったと言えよう。
妖怪は人間を襲うようにできており、
人間は妖怪を退治せねばならない。
なにしろ妖怪とは、根本的には人間の存在なくては発生しないものである。
もちろん人間を襲わない妖怪も存在するし、すべての人間が妖怪を退治できるわけではない。後者など、退治できる者のほうがすくないと言って差し支えがない。よって、妖怪を退治できる者は無類の強大な力を持っていなければならない。幻想郷においては博麗神社の巫女がそれに当たる。
新しい博麗の巫女は修行を怠っている。それでいて、異変は起こらない。実践に勝る訓練はなし。このままではその力が伸びないのではなかろうか?
確かに異変が起こらなければ幻想郷自体は平和になる。だが人間が妖怪を退治できなくなってしまえば、妖怪と人間の関係は根底から覆されてしまう。それは幻想郷にとって佳良とは言えない。――幻想郷のためになっていないと先ほど述べたのはこのためである。
そうして紫は異変を求め始めた。同様に、式にも捜索をさせている。いろいろな場所へ行った。だが、異変というものは自ら探すとなかなか現れないものらしい。
異変を求めて多くの場所に行った。だが異変はその姿を見せない。
風見幽香のもとを訪れたこともある。永遠亭を訪れる、つい先ほどのことだ。そもそも異変を探すことは諦めて、誰かに起こしてもらえばいいのではないだろうか――紫はそんな風に考え始めていた。闇雲に探すよりも実際に発生させてしまえば手間が省ける。
やはり幽香は花に囲まれていた。花の世話をしているのだろう、そう検討をつけた紫は幽香に近づいた。幽香を囲む花の多くは薔薇のようであった。無数の深緑の葉のなかに、赤や白の花が点々と覗く。その枝葉や花のうえを、幽香の髪と明るい服がゆらゆらと揺れている。
紫が声をかけるまえに、接近に気付いた幽香が振り向いた。紫と知ると、顔をしかめ、さも嫌そうにしッしッと片手を振る。
「あんまりだわ」
紫は困ったような表情をして見せて言った。
「忙しいの」
幽香はそう言いすてると屈みこんで作業に戻った。
紫は幽香のすぐ傍まで近づくと、その作業の様子を覗き込んだ。
げぇ。
思わず下品なうめき声が漏れた。作業を覗き込んだ、その瞬間である。
幽香は薔薇の葉を手の平のうえに乗せていた。問題はその葉だった。葉の一面を、無数の白い粒状のものがびっしりと付着しているのである。それは蟻が飴玉に群がる様子や、有機物のうえに無数に発生する黴を連想させた。すくなくとも気持ちの良いものではない。だが眺めているうちに、そういった連想はことごとく薄れていった。葉のうえに付着している白い粒は、よく見ると、なにかが群がる様子というよりも、撒かれた粉といったほうがしっくりとくる。生物が群がる様子と無機質にばら撒かれた粉とでは、ずいぶんと感じ方が違ってくる。
「うどんこ病」
と幽香が唐突に言う。
「え?」
「この子たち、ちょっと放っておいてしまった間にうどんこ病にかかってしまったみたいなの。かわいそうに」
「どんな病気なのかしら?」
白い粉をよく見てみれば、確かにうどん粉を撒いたように見えなくもない。
「ウドンコカビが寄生したのよ」
やはり黴であった。
紫は顔を歪め、扇子で口元を隠した。
風見幽香と別れた後、竹林の永遠亭へ向かった。
幽香に異変を起こしてもらおうかとも考えたが、あのウドンコカビなる粉のような黴を、幻想郷にばら撒かれた日には目も当てられない騒ぎになるに違いなかった。そんな気味の悪い異変など、想像するだけでうんざりである。だいいち、そんな趣向は趣味ではない。
永遠亭へと向かう理由は些細なことである。単純である、と断言したほうが良いかもしれない。先ほど幽香の薔薇の症状を見、名前を知った。そこからその病名に酷似した名前の持ち主を思い出したのである。たしか、『うどん』だとか『うどんこ』だとか、そのような名前の兎がいたはずだった。長い名前の持ち主で、その名前の一部が『うどん』だとか『うどんこ』だとかになっていたはずだ。もともとなんの当てもない流浪の旅である。風の向くまま気の向くまま。思い浮かんだ場所には迷わず向かう。
そうして紫は永遠亭までたどり着いた。
紫は自分が異変を探している理由を三人に説明した。
しかし、それを聞いた後で輝夜はきょとんとし、
「どうして異変を探しているのかしら」
と訊ねた。
うどんげは首を傾げた。今、紫が説明したばかりではないか。新しい博霊の巫女の力が衰えないよう、適度な異変が必要になると思われる、と。
「それはわたしも気になるわ。今更異変を探しても……」
永淋が輝夜に続いた。
二人とも、わざととぼけているのだろうか?
「お言葉ですが、先ほど説明のあったとおりでは?」
と、うどんげは口を挟んだ。
その言葉に輝夜と永淋は顔を見合わせた。
「そんなこと言われても」
「ねえ」
輝夜と永淋は完全に同調しあっている。これが先ほどまで喧嘩をしていたふたりの態度であろうか。
煮え切らない。うどんげは紫の顔色を伺った。怒っていないだろうか。
紫は困ったような表情で黙っているだけであった。
「そんなことより」輝夜が永淋をキッと睨み、言った。うって変わって険のある顔である。「わたしはもう行くわ」
幻想郷の危機に関与するかもしれない相談事だというのに、そんなこと、と輝夜は言った。仮にも永遠亭の主である蓬莱山輝夜がそんな言い様をしていいわけがない。そんなこととはどういうことですか、とうどんげは食ってかかろうとした。だが永淋が先に口を開いた。
「駄目です」
うどんげは自分の師を見た。永遠亭の主であることを自覚して言動を律するべきだと、輝夜にそう注意するのだろう――そういった期待をした。
しかし期待は外れた。
「行かせません。ひとりは危険です」
永淋はまるで母親のようであった。
「どうして喧嘩しているのかしら」
紫はそう言ったが、喧嘩を止めようと動くために訊いた――うどんげにはそんなふうには見えなかった。どちらかといえば、ただ興味がわいたから訊いてみた、という様子である。
輝夜がキッと紫を睨んだ。が、なにもせずに歩き出してしまう。永淋はといえば紫の言葉など初めから耳にはいっていないようであった。
客人などいなかったかのように、輝夜と永淋は言い合いを絶やさないまま玄関のほうへ行ってしまった。
「ごめんなさいね。こんな有様で」
うどんげは紫に謝った。
「構わないわ。タイミングが悪かっただけなのでしょう。原因もなんとなくだけれど、話を聞いていればわかるわ」
反抗。過保護。
ふたつの言葉が紫の頭には浮かんでいるのだろう。それらとはすこしばかり違うかもしれないが、おおよそ当たっているに違いない。
「そう言ってもらえると助かるわ」
うどんこは苦笑まじりに答えた。
玄関の戸が音をたてて開いたようであった。
うどんげは紫と対話をしながら扉の開く音を聞いた。同時に、その玄関から聞こえてくる――外へ出ようとしているのであろう――輝夜と永淋の口喧嘩も耳にしていた。少しばかり、紫に対しての注意、いや、警戒心を解いてしまっていた。だからであろう、紫のその言葉を聞いたときは、聞き間違えたのだと判断をしてしまった。
「ああ、そうね。自分で起こしちゃえばいいのよね」
「え?」
「いいえ、なんでもないわ」
紫はにこりと微笑んだ。
そのとき、玄関のほうから悲鳴があがった。輝夜のものであろうか、それとも永淋のものであろうか。急なことでうどんげには判別がつかなかった。玄関の戸はすでに閉められており、悲鳴はその戸の向こうからあがったようである。様子がわからない。うどんげは慌てて駆けだした。その背中に
「あなたは今から、うどんこね」
と声がかけられたが、そんな意味のわからない言葉など気にしている余裕はなかった。
玄関までたどり着いたうどんこが戸を開けると、そこにふたりの姿は見受けられなかった。
「姫……輝夜様! 師匠!」
うどんこは大声でふたりを呼んだ。
返事はない。
屋敷の周囲を見回しても、ふたりの姿は見つからない。
竹林は沈黙していた。
静寂が、ふたりの言い争いや悲鳴、それにふたりの姿を飲みこんでしまったかのようであった。
風が緩やかに吹き、竹が威嚇するように枝葉を揺らした。
うどんこは自分の首筋から背中にかけて寒気のようなものがくだるのを感じ、ぶるッと震えあがった。屋敷のまわりにある竹や葉が、今まで親しんできた者たちが、まるで自分の知らない者に変貌してしまったかのようだった。あるいは自分ひとりだけが、鏡の向こうにある、現実と酷似した世界に迷い込んでしまったか――。
うどんこはサッと踵を返して屋敷に戻った。ふたりは忽然と消えてしまったが、まだ客人はいるかもしれない。この場に残ったのは自分だけではないと願いたかった。
――「自分で起こしちゃえばいいのよね」
矢張り、八雲紫は確かにそう言ったのであった。あれは聞き間違えなどではなかったのだ。起こす? なにを? 異変に決まっている。
とすると、ふたりを消したのは……。
果たして紫は廊下の奥で佇んでいた。柔らかな微笑みさえ浮かべている。しかしうどんこの目には、ニタニタとした――口の両端はつり上がり、唇のあいだから覗く牙のような犬歯、そしてぬらりと蠢く先の細い舌――邪悪な笑みにしか見えなかった。
「なにをした」
うどんこは噛みつくような勢いで紫に肉迫した。
「異変を起こしたのよ」
紫は簡潔な返答をさらりと述べた。
「ふたりをどこへやったの」
「それはわたしじゃないわ。それは、ね」
「なら、いったい誰がやったって言うのよ」
「わたしはイヘンを起こした。結果としてふたりが消えてしまったのかもしれない。でも、わたしは直接的には関係ないわ。そうね、あなたに対してのイヘンなら直接関係あるわね。もうすでに起こっているあなたのイヘン。あなたはイヘンが終わるまでそれに気づかぬままなんでしょうけど。もしかしたらもう気づいた方々はいるかもしれないわね。そうでない方々のほうが多いとは思うけれども。でもそれっと、ちょっと寂しいことよね」
うどんこには言葉の意味がまったくと言っていいほどくみとれなかった。己の身体を見渡すが、どこもおかしいところなどない。
「なんだっていいわ。ふたりをかえしなさい」
かえしなさい、とは弱気な発言であったが本人は気がつかない。未だに恐怖が全身をちりちりと焦がしている。かえしなさいとは言ったが、それは『返しなさい』なのか『帰しなさい』なのかもはや自分でもわからなくなっていた。ふたりが消えたのか、それとも自分が別世界に迷い込んでしまったのか――きっとふたりが消えたのに違いないと信じ込もうとはしているが、心の奥底ではどちらなのか判断できず慄いている。あるいは、本当はそのどちらでもなくまったく別の現象なのかもしれない。
うどんこは、紫に対して狂気を操ろうとした。紫に対して攻撃的な姿勢にならなければどうにかなってしまいそうだった。怯えていたし、混乱もしていた。まぶたをカッと上げ、その赤い眼(まなこ)の視線で紫の目を射抜こうとした。
「その目はごめんだわ」
紫はふっと笑うと、すすと消えた。境界を操り、姿を消したのだった。
うどんこは焦れた。先制に失敗したのである。
「わたしは貴女に危害を加える気はないわ。肉体的にも精神的にも」
と紫はどこからともなく、言う。イヘンは危害ではないと言うのだろうか?
「こっちにはある。ふたりはどこにいるの?」
うどんこは自分を鼓舞するように、口調を荒げて言った。
「案外、近くにいるんじゃないかしら?」
「そんなこと」
玄関のほうから、音が聞こえた。
「お客さまみたいね。丁重におもてなししてあげなさいな」
紫が言った。
うどんこは、紫がいるであろう場所に見当をつけ、一度にらみつけたあと、玄関のほうを振り返った。
開いたままの玄関の戸の向こうに、両手で傘をさした妖怪が微笑んで立っていた。緩やかな風にスカートがふわふわと揺れている。
どうしてこう、笑ってばかりな人が多いのかしら――うどんこは、ふと場違いなことを思った。
「貴女がやったのね」
傘をさした妖怪は笑みを絶やさずにそう言った。傘の影が妖怪の顔を暗く染めている。そのため、微笑みを暗いイメージが取り巻いていた。どこか恐怖を覚える類のものである。うどんこは自分も不敵に笑って見せようかとしたが、口元が恐怖にひきつっているようにしかならなかった。
妖怪とは、風見幽香であった。
「やったのは貴方なのね」
幽香は敷居を跨いだ。
うどんこには幽香がなにを言っているのかさっぱりわからなかった。にこにことしてはいるが、その口調は友好的なものとは到底思えない。かといって、怒っているようにも見えない。
「なんのことだか知らないけれど、なにかをしたのは八雲紫よ」
幽香まで近づいていたうどんこは、そう言って紫を探した。
が、紫はいなかった。まるではじめからその場にはいなかったかのように、気配がまるでない。
ぐい、と腕をひかれる。
紫の消失に呆気にとられていたため、うどんこは一方的なその力に抗うことができなかった。
「来なさい」
幽香はにこにことしたまま、有無を言わせずうどんこを外へ連れ出した。うどんこはようやく抵抗しようと試みたが、あまりの力強さにされるがままとなっていた。幽香の顔は微笑んだままだが、本当は怒っているのかもしれない。
輝夜は永淋に抱えられていた。
あたりは無数の竹やその下生えばかりである。北へいくらか進めば永遠亭があるはずなのだが、ここからではまるで見えやしない。
竹林のなかであった。
永淋は輝夜を抱えたまま軽やかに跳躍し、竹林のなかを駆けていた。口からは言葉にならない言葉がぶつぶつと漏れている。まるで呪詛のよう。その顔は正気のものとは思えないような異形な表情をしていた。輝夜には信じることのできない光景であった。
あれは、永淋と口喧嘩をしながら永遠亭を出た直後のことである。
うどんげが紫に、永遠亭の騒がしさを謝った後であった。輝夜が先に永遠亭の外に出、後を永淋が続いた。輝夜が「そろそろいい加減にしてちょうだい」と言ってから、いくばくかのあいだ永遠亭の薬師は黙り込んでいた。輝夜はすぐ背後に永淋の気配を感じていたが、沈黙の仕方があまりにも不自然であったのでふりかえった。普段ならば「そういうわけにはいきません」だとかなんとか言ってくるはずだった。永淋の姿を一目見た輝夜は、思わず息を飲んだ。首は重力に屈したかのようにうな垂れ、両腕は肩からだらりとぶらさがっているばかりである。今にも倒れそうな様子であった。そのような不自然な姿だというのに、それでいてぴくりとも身体は動かない。生気を感じられなかった。まるで糸で吊るされた操り人形のような。輝夜はそれまで口喧嘩をしていたことなど忘れ、永淋のことを心配した。「永淋?」と名前を呼びながら一歩、二歩とおそるおそる近寄った。直後、薬師の首がぐわんと起き上がり天を仰いだ。その拍子に口が大きく開き、……、……、なにか耳障りな音――いや、それは確かに声であったはずである。だが、輝夜には意味のとれない言葉、ひとが発するとは思えないような言葉を、それを大切なひとの声とは認めたくなかった――がちいさく漏れた。輝夜は思わず一歩下がった。無意識の行動である。だが、遅かった。だらりと垂れているままだと思われていたはずの両腕が急に持ち上がり、輝夜の右肩と左腕を捉えたのである。永淋の指が輝夜の肩の肉に食い込んだ。信じられぬ事態に輝夜は反応できないでいた。輝夜の腕は、永淋の手によって袖の下で内出血を起こしていたが痛みを感じることはなかった。輝夜の頭には恐怖もなく、混乱だけがあった。一瞬遅れて輝夜は悲鳴をあげた。うどんげが耳にした悲鳴は輝夜のものである。輝夜は力強い永淋の両腕に抱えられ、竹林の奥へと連れ去られた。
永淋はしばらくのあいだ輝夜を抱えたまま竹林をさ迷った。輝夜はされるがままであった。自分を護ってくれるはずのひとが、まさか危害を加えるなどと、このような状況になっても考えることなどできないでいた。やがて永淋は輝夜を地におろした。落とした、と表現したほうがいいかもしれない。輝夜は咄嗟のことで、地面にしたたかに腰をうった。腰をさすることもせず、唖然として永淋を見上げる。
永淋は顔を輝夜のほうへと向けている。しかし眼はあらぬ方向を向いていた。あまつさえ、右の瞳と左の瞳はぎょろぎょろと別々の場所を見ている。
永淋。
輝夜はその名を呼ぼうとした。だが、言葉がうまく口から出てこない。喉がからからに渇いて仕方がなかった。口内では、舌が自然と前歯の裏に張り付いていて離れようとしない。
しばらくのあいだ、永淋は輝夜の前に立ち尽くしていた。目のまえにいる、少女のような女を自分がここまでさらってきたことを忘れているかのように見えた。輝夜は永淋の表情を窺ってはいたが、どんな感情も読み取ることができなかった。無表情というのではない。まったく理解し得ぬ表情であった。
ふい、と永淋は脈絡なく身体の向きを変えて歩き出した。植物が風に葉を鳴らすたびに顔をそちこちへと向ける。まるで野に住む獣の様子だった。やがて永淋は無数の竹の奥に姿を消した。その間、輝夜には興味を失ったかのように一瞥さえもしなかった。
あるいは、その頭のなかでは輝夜の存在など消え失せてしまっているのかもしれない。
うどんこが幽香に連れられてたどり着いた場所ではいくつもの薔薇が咲いていた。幽香は黙ったまま薔薇に近寄り、葉をそっと手に取った。
「これをやったのはいったい誰?」
うどんこのいる場所からでは、幽香の手に取られた葉に異常をみることはできない。多少ではあるが、葉が白っぽく見える。
うどんこは近づいた。
近づくにつれて、葉になにやら粉状のものがついているのが見えるようになった。白っぽくなっていたのはこのためであろうと予想がつく。顔を近づければそれがなんなのかわかるかもしれない。
うどんこは幽香のすぐ傍に立ち、薔薇の葉に顔を近づけた。
極度に緊張したせいで喉が渇いている。
永淋が竹林の奥に消えてからいくらか時間が経過した。
輝夜はようやく緊張から解放され、ほうとため息をついて自分を取り戻した。まだ事態を飲み込むことはできないかもしれないが、永遠亭に向けて歩くことはできそうだった。
喉が渇いている。
たしかこのあたりからだと、永遠亭に戻る際、途中に井戸があったはずだった。そこでつめたい水に喉を鳴らすのも悪くない――輝夜は、井戸にたどり着いた自分が滑車を使ってつるべを上げる様子を思い描いた。滑車はからからと軽快な音をたて、たっぷりと水の入った桶を上げる。桶のなかではちゃぷちゃぷと水が跳ね、その滴が井戸の底へ落ちる。完全に上がりきったつるべ桶を抱え、手桶で透き通るような水をすくい、こくこくと飲む――実際にはたどり着いたら手桶などなく、つるべに直接くちをつけてがぶりと飲むことになるかもしれない。いや、それもむしろ竹林のなかとあっては風情があっていいかもしれない。輝夜は無意識にごくりと生唾を飲もうとした。が、口内に唾液はなく、上下に動いた舌がねちゃりとむなしく音をたてただけであった。
井戸が見えてきた。古くからある井戸で、木製の屋根のしたで冷たく眠るように鎮座ましましていた。いくつもの亀裂が戦場を渡り歩いてきた兵(つわもの)の傷跡のように生じており、倣うように苔が生(む)している。手入れの行き届いた綺麗な井戸とはあまりにも言い難い有様であったが、古くさい井戸の代表例のような風体ではある。
下生えに足を取られて転びそうになりながらも、輝夜はなんとか井戸までたどり着くことができた。駆け寄るようにして近寄り、井戸の底を確認もせずにまず綱を引いた。綱を引きながら、井戸の底を覗く。洞窟のなかでびょうびょうと鳴る風を想起させる、そんな暗闇があった。底はまったく見えない。綱は何度か滑車で引っ掛かり、想像していたようには滑らかにいかない。だがそんなことどうだって良かった。優雅につるべを上げたところで意味など見出せるはずがない。
やがて桶が手の届くところまで上がってきた。桶のなかを覗いた輝夜はがっくりと肩を落とした。なかにはなにも入っていないのである。綱を引いているときにはある程度の質量を桶の中に感じていたのだが、実際のところは綱が重いだけであったようだ。水の一滴どころか、小石さえも見当たらない。
井戸は干からびていたのである。
輝夜は井戸のなかへとつるべ桶を放り投げた。井戸に対し、あるいは井戸に期待していた自分に対して心底失望していた。
水に対する飢えによるものであろう、どっと疲れがやってくる。
輝夜はぺたりとその場に腰を落とした。
そのときである。
ざぶん、と井戸のなかから心地よい音が聞こえた。間違いなく水の音である。桶が井戸の水を叩いた音に違いなかった。輝夜は急いで立ち上がった。
それは奇妙な光景であった。
井戸いっぱいに水が張っていたのだ。水は表面張力で膨らみかけ、今にも破裂せんばかりである。その水のうえを、今落としたばかりの桶がぷかりと浮かんでいる。桶の動きからなす震動により、波紋がが生じ、風船に針でもさすように膨らんだ水の表面を破裂させようとしている。
つい先ほどまでなかったはずの水が、今まさに、目のまえにあった。
輝夜は奇異に思いつつも、水に対する文字通りの渇望に自分の身を任せた。即ち、両手でお椀の形をつくり水をすくって飲み始めたのである。手を水につけた途端に張りつめていた水面は揺らぎ、おおきな波紋でもって端からこぼれた。びちゃっびちゃっと地面に水が叩きつけられる。
二度、三度、と輝夜は両手の椀ですくった水を飲んだ。まだ足りない。もう一度手を差し伸べる。が、四度目はなかった。
「あ」
思わず声がもれる。
両手が空を切ったのだ。
差し伸べた先に、水はなかった。
目のまえにあったはずの水が、忽然と姿を消したのである。
まさか、あのたっぷりと井戸を湛えた水は、喉の渇きがもたらせた幻影であったのだろうか。しかしその喉は水を吸ったことをきちんと記憶しているし、両手は水を滴らせている。井戸の周りの地面は濡れており、今まさに水を吸収しているところである。
となると、水が急に引っ込んだということになる。
つるべを上げれば水はなく、つるべを落とせば水が溢れ、しばらくするとまた水がひく。なんと奇妙な井戸であろうか。
輝夜は手から垂れる水に唇を添えた。水が唇を湿らせ、いくらかの水分が口のなかに侵入した。輝夜は井戸の縁に両手をかけて底を覗きこんだ。
水は、あった。やはり水はたちまちのうちに引っ込んだのであった。
井戸の縁から、輝夜の背丈の半分ほど下がった位置で水面が揺れている。水面に映るものを目にした輝夜は眉をひそめた。
普通、水面とはある程度の光を反射するものである。つまり、水を覗き込めばそこには自分の姿が映るはずなのだ。光が水面で屈折することもあろうが、余程のことがない限り、今目の前で輝夜が見ているような光景は水面に映らない。
永淋のあの不可思議な様子、この奇妙な井戸。そして水面に映る光景。いったいなにが起きているのだろうか。これらに関連性はあるのだろうか。まるで関係のない出来事のように感じられるが、すべて同時期に体験してしまった以上、関連性を追及したくなる。
水面に映っているものは井戸を覗き込む輝夜の姿ではなく、博麗神社を訪問する八雲紫の姿であった。
神社に上がり込んだ紫は何者かを探しているようであった。なにかを焦っているように見える。だが、神社には誰もいないようだった。しばらく探しまわっていた紫は、結局神社から外に出た。
輝夜は顔をしかめた。何故、八雲紫がこの水面に映ったのだろうか。紫はつい先ほどまで永遠亭にいたはずであった。それが今は慌てたように神社をうろついていた。紫はなにをしているのだろうか。
水面に映っていた映像が、パッと切り替わった。
永淋が映っている。永淋は腹を抱えてうずくまっている。竹林のなかであった。
まだ、近くにいるのかもしれない。
輝夜は井戸の縁から手を放し、あたりを見渡した。どちらの方面に永淋はいるのか。まったく見当もつかなかった。輝夜はその場を離れた。
どこにいるにせよ、竹林にいることは間違いないはずなのだ。必ず、見つけ出してみせる。輝夜はそう思った。
永淋は腹を抱えていた。調子が悪いのかもしれない。
輝夜は自分自身の腹にも違和感があることに気がついていた。だが、気にしないように努めた。
輝夜が離れた後、井戸の水面はふたたび映像を変えた。次に映し出されたのは、いくつもの薔薇に囲まれた二人の人物。うどんこと風見幽香であった。
薔薇の葉についた粉状の白いなにかが宙を舞ったようだった。幽香がまとわりついてきた粉(こ)を払うように手を振った。その振動で幽香のもう片方の手に持たれた葉が揺れ、あとすこしでうどんこの目にも粉状のものの正体が見極めつけられそうになった。だが、その揺れでわからなくなった。
風はなかった。
風もないのに、葉についた粉状のものは宙を舞ったのだった。
うどんこは頭の片隅でそのことに気づいていた。が、別段気にならなかった。風が吹かなくとも粉が舞うことくらいあるかもしれない。いや、そんなことはないかもしれないが、別段おかしいことのようには感じられなかった。
葉の揺れが収まればちゃんと見えるはずだ。
うどんこは顔を近づけた。
「さっきより活発になってる」
幽香がぼそりと言った。
うどんこは幽香の言葉を聞き取ったが、その独り言を意図せず聞き流した。独り言とはほとんどの場合他人には意味のないものである。だが、うどんこは聞き流したことをすぐ後に後悔することになる。
うどんこは葉についた無数のものを見た。
はじめ、それは虫のように見えたため顔を遠ざけた。アブラムシの類なのかと予想した。それも、白いちいさな類のもの。
が、よく見ればそれは虫ではなかった。
予想だにできない、ある意味では醜悪だと言えるし、まったくもって趣向の悪いものであった。
ひとの形をしている。
数ミリメートルの大きさの、ひとの形をした生き物。
「うっ」
うどんこは口元を押さえた。
長い耳を携え、服を着ている。
その人形はうどんこと同様の姿をしていた。ぱッと見ただけでも数千数万といるのではないかと思えるほどの数の、自分と同じ生き物。うどんこと似た、ほんのちいさな人の形をした生物が薔薇の葉に、黴のようにびっしりと付着しているのである。さらにそれらはすべて白一色である。
「なに――、これ」
うどんこは後ずさった。助けを求めるように幽香へ目を向ける。
「少しまえまでは黴だったのよ」
幽香は立ち上がった。スカートの裾にいくつかの人形の生物が付着している。幽香は丁寧にそれを手で払い落した。振り落とされたそれらはちいさな悲鳴をあげて地面に落ちてゆく。
悲鳴……?
「喋るの?」
気味が悪かった。うどんこは、なるべくそのちいさな自分たちを視界にいれないようにした。だからと言って他に視界に入れるべきものなく、視線はふらふらとむなしく虚空を彷徨う。
「貴方だって喋るじゃない」
どこが変なのかわからない、そんな風に幽香は言った。
「一緒にしないでよ」
「わたしにとっては一緒よ」
「それで、どうしてわたしをここに連れてきたの?」
幽香のつめたい言葉を努めて無視し、うどんこは言った。
「貴女に関係があるんじゃないの」
「姿かたちが一緒だからって、関係があるとは限らないわ」
ここは幻想郷である。なにがあったところでおかしくはない。うどんこは自分にそう言い聞かせた。そう、たとえ自分と同じ姿のものがいようとも、それがアブラムシのように小さかろうとも、ここは幻想郷なのだから特別なことではないのだ。
「こうなるまえはウドンコカビだったのよ。ほら貴方、たしかそんな名前だったでしょう? 姿だけじゃなく名前まで似ているのなら、なにか関係があると思ったのよ」
「わたしの名前はうどんこなんかじゃないわ」
うどんこはそう答えつつも、自分の言葉に自信を持てないでいた。本当にわたしはうどんこじゃないのだろうか? つい先ほど、八雲紫におかしな言葉をかけられたせいで――うどんこは信じていないし、あのときはまともに耳をかさなかった――、名前が自分の頭のなかで曖昧模糊とした状態になっていた。
『貴女は今から、うどんこね』
うどんこは紫の言葉を思い返した。
いや、そんなまさか。
他人の言葉ひとつで、自分の意思に関係なく名前が変わってしまうなどとあっていいはずがない。
そもそも、自分の名前がうどんこでないとすれば、本当の名前とはいったいなんだろうか? うどんこは考えたが、答えはでてこない。元々うどんこという名前だったのだろうか。
そんなうどんこの葛藤などおかまいなしに、うどんこと同様の姿をした小人たちは、薔薇の葉のうえでひょこひょこと飛び跳ねている。何匹かはまるで冒険でもするかのように地面へと降り立っているが、おおくは葉のうえで密集していた。しばらくのあいだ、うどんこと幽香のふたりは目のまえの異質な状況を持て余していた。
が、
「鬱陶しいわね」
幽香がぼそりと呟いた。同時に、うどんこの目のまえでスカートの裾が優雅に舞った。幽香が足を持ち上げたのである。
「だめ!」
意図を察したうどんこは、慌てて両手で幽香を押した。片足で立った状態になっていた幽香は、堪えきれず腰から地面にどうと倒れこむ。勢いを殺せなかったうどんこが幽香のうえに覆いかぶさるようにして倒れた。
「なにするのよ」
うどんこの下になった幽香が憤ったように言った。理解できない、といったように顔をしかめている。
「だ、だって……」
うどんこは上手く答えられない。幽香が小さな生き物たちを潰そうとしているのを見て、身体が咄嗟に反応したのであった。自分と同じ姿をしたものが踏み潰されそうになっていたのである。たとえ無関係であったとしても、いい気分ではない。
「さっさとどきなさい」
うどんこは幽香のうえに倒れこんだまま動かない。
「いや」
退けば、小さな自分らが潰されるに決まっていた。
「どきなさい」
「だめ」
「いい加減にしなさい」
自分の下にいる妖怪は鬼のような形相になっている。退けば小人たちが潰されるが、退かねば自分が潰されかねない。そうだ、こいつにとっては小人も自分も同等なのだ。ついさっき言っていたじゃないか。いったいどうすればいいのだろうか。うどんこは軽いパニックに陥った。
どうしよう、どうしよう、どうすればいい?
ただ、自分が助かるためであれば、小人たちが潰れてしまっても構わない――どちらかといえばそういった考えに傾いてはいた。パニックに陥ったとき、ほんの少しでも傾きが生じれば考えはそちら側に急速に転がっていくのが常である。平行な板のうえに乗せた玉のようなものだ。傾斜が出来れば加速度をもって転がってゆく。
うどんこは地面に両手をついて、起き上がろうとした。つまり、幽香の言葉に従おうとしたのである。
その手に、小人たちが近付いてきた。
「ひゃあぁっ」
まるで自分の「小人たちが潰れてしまっても構わない」という考えが読み取られてしまったかのように感じ、それと、ただ単純に気味の悪さも相まったその結果、甲高い悲鳴をあげた。
神社を出た紫は、境界を操って永遠亭まで瞬時に移動した。今度は飛んで移動する必要はなかった。なにしろ、今まさに異変が起こっているところなのだ。移動しながら異変を探す必要などどこにもない。異変はすぐそこにあるし、ここにもある。
永遠亭の戸を開き、屋敷にあがる。紫は屋敷の廊下を歩きながら、これからどうするかを考えることにした。異変は起こっている。巻き込まれているのは自分を含めて何人いるのか、それはまだ検討もつかない。ただ、しばらくすればそのうちの何人か、あるいは無関係の者が異変の解決に働きだすだろう。そうなるまえに行動したほうが良い。
ちいさな物音が紫の耳の鼓膜を震わせた。ほんの些細な音であった。紫は頭のなかでその音をよく吟味しながら移動する。ちいさな音。それは声のようであった。泣き声。聞き覚えのある声。それも、紫にとってはよく聞き馴染んだ声。
廊下の、とある戸のまえまでやってきた。戸の向こうに泣き声の主はいるようである。
紫は戸を、そっと開けた。
そこにいたのは博麗の巫女であった。紫が探していた娘である。
博麗の巫女はぺたりと座り込んでいた。紫が近付くと、涙で濡れた目元を手で拭い、すんすんと鼻をすすりながら紫を見上げた。
「どうしてここにいるの?」
と紫は聞いた。
巫女の顔は涙でぐしゃぐしゃになってしまっている。紫はその顔をとても可愛らしいと感じ、目のまえの娘に対して優しい気持ちになった。
博麗の巫女は、わからない、というように首をかしげた。
ここにいる理由がわからないのだろう、と紫は思った。いや、あるいは質問の意味がわからないのかもしれない。
「神社に帰る?」
と紫は言った。
娘は首をかしげたままだった。
「ずっとここにいたの?」
紫は質問を変えた。
娘は紫を見上げたままでなにも答えない。
紫はしばらく考えた。やがて、もう一度質問をした。
「ここに住んでいるのね」
娘は頷いた。
そして紫は博麗の巫女の腰へと両手を伸ばした。
結局、うどんこは幽香と無数の小人たちから逃げ出した。
輝夜と永淋が消え、ウドンコカビなる黴が小人になり……
いったいぜんたい、なにが起こっているのかわからなかった。
これは異変なのだろうか? 異質なことが起こっているのだから、異変には違いないだろうが、なんともこれらを身近に起こっているものと認めたくないものばかりである。
永遠亭へ戻ろう。
うどんこはそう思った。
すべては八雲紫から始まったのだ。起因は紫に違いなかった。すくなくとも、原因の一端を握っているはずだ。幽香が永遠亭を訪れてきたときには消え去っていたが、もしかしたら永遠亭に戻ってきているかもしれない。
うどんこは空を飛んで竹林へと向かった。
つい先ほどからちくちくと腹が痛んでいたが、気にしている余裕はなかった。
己が去った後、小人たちがいったいぜんたいどういう末路を迎えるのか、そのことについても考えないことにした。
永淋は見つからない。
いくら歩いても、いくら飛んでも見つからない。
いったいどこへ行ったのだろうか? 輝夜は額の汗を袖で拭いながら立ち止った。右を見ても左を見ても竹ばかりである。今いるこの場所が、井戸の水面に映ったあの場所のような気がする。が、先ほど歩いた道にも似たような場所があった。どこもかしこも同じ場所に見えてくる。
輝夜には心配していることが三つほどあった。
一つは永淋がいったいどこにいるのかということ。
もう一つは、永遠亭になかなかたどり着かないということ。井戸からそう離れていないはずなのだが、いくら歩いても一向に到着しない。道を間違えてしまったのだろうか。
そして最後の一つ。腹の調子がおかしい、ということ。先ほどまではちっとも気にならなかったが、今では一番に解決すべき問題となっている。言葉では表せないような音を発し、非常に痛むのだ。その苦痛のせいで汗の滴がぷつりぷつりと浮き出て、額を光らせていた。
なにかおかしな物を食しただろうか? なにか危ない液体を口にしただろうか? 思い当たる節といえば、あの井戸の水くらいなものであった。まさかあの水が。
ふいに、いっそう腹が痛んだ。
輝夜は呻き声をあげてその場に屈みこんだ。目を閉じ、歯をくいしばって痛みがひくのを待つ。しばらく堪えていれば、やがて痛みはひく。
潮の満ち引き――そんな言葉を昔、知った。誰かの言葉を耳にしたのか、あるいは書物で得た知識なのか、それは判然としないがどちらでもいいことであった。大事なのはその言葉の意味である。この星には海という巨大な水の溜まりがあって、その溜まりが時間によって岸辺を侵食したり自分の水かさを減少させたりする。それが潮の満ち引きというらしい。
この腹の痛みは潮の満ち引きのようなものであった。腹が痛んでも、しばらく我慢すれば痛みは文字通り引いていくのだ。
が、たとえ引くことがわかっていても痛いものはいたい。
こんなときに診てくれない医者なんて、なんの役にもたちやしない。本人は薬師だと言い張ってはいるが、素人から見れば薬師も医師も同じようなものだ。
輝夜は痛みに耐えながらそう思った。ただの独りよがりな愚痴であった。自分自身でもそれはわかっていたが、そう思うことに今はなんの抵抗もなかった。
やがて痛みはひいていった。輝夜はおそるおそる立ち上がった。が、すぐには歩きださない。ふたたび痛み出さないかどうか、慎重になっている。
輝夜は自分でそうと知らず、弱り果てている。肉体の疲れと、焦り、不安、それに間断をつくりながらやってくる腹部の痛み。それらがない交ぜになり、餓えた肉食獣のように凶暴さをもって輝夜に襲いかかっていた。
痛みはやってこないようだった。輝夜は歩きだした。その足取りは重たい。
ひとまず永遠亭に帰るつもりである。永淋のことが心配であったが、このままひとりで探し続けても見つかる気配はない。うどんこに相談をしよう。この状況の打開をうどんこに期待をしているわけではないが、なんにせよ、ひとりで探すよりはふたりで探したほうがいいに決まっていた。なにより独りきりというのは辛かった。
それにしても――、と輝夜は歩きながら思った。腹の具合ばかり気にしていて下生えに足を引っ掛けそうになる。
それにしても、永遠亭はまだかしら。
そこはまるで広場のようになっていた。本来ならば、竹林に囲まれた古風な屋敷が寂々として建っているはずなのである。しかし今、その屋敷はすっかり姿を消してしまっている。
永遠亭が、ない。
うどんこは呆然とした。先ほどまでちくちくと痛んでいた腹の不調をすっかり忘れてしまうほどであった。
なにもかも、消えてゆく。
輝夜と永淋。そして屋敷。しかし、ひとが消えるのと建物が消えるのとでは意味も意図も大きく違ってくる。形而上学的にも変わってくるかもしれない。うどんこはそのことについてよく考えようと試みたが、それは単なる現実逃避に過ぎなかった。なんにせよ、あっていいことではない。
あのような巨大な物体が、自分がすこしばかり出かけている隙に消えてしまうことは可能なのだろうか。いやしかし、実際に消えてしまっているのだ。
永遠亭のあった場所を間違えたのではない。それは確実だった。この竹林のなか、ぽっかりと、まるでそこだけ竹が生えることを拒んだかのように、なにもない広大なスペースが出来上がっているのだ。そのスペースである地面のうえにはいくらかのちいさな植物が生えているものの、以前にはなにか巨大なものがあったことを暗示させる奇妙な空虚感がある。そう、確かにここに永遠亭はあったのだ。
がさがさと音をたて、竹林のなかから何者かが現れた。
「輝夜様!」
現れたのは輝夜であった。
「良かった、ご無事で」
うどんこは急いで輝夜のもとに駆け寄った。
「ご無事なんかじゃないわ」
輝夜は言った。口元を苦しそうに歪めている。腹のあたりを片手で押えていることにうどんこは気付いた。
「具合でも悪いのですか?」
「なかなか素敵に良好よ」
輝夜はそう言って苦痛に顔をしかめた後、押し黙った。呼吸を止めて痛みに堪えているようであった。額にふつふつと浮かびあがった汗が、うどんこの目についた。
「横になられた方が」
と、うどんこは言った。程度の差はあれ、自分と輝夜両者ともに腹に異変を抱えているようだった。
「こんな場所で寝るなんてまっぴらごめんだわ」
輝夜は一度、二度と深呼吸をした。痛みは引いたようだった。
「しかし……」
「そんなことより」輝夜はうどんこの腕をしっかりと掴んだ。「永淋がおかしいの」
輝夜は心底から助けを求めている者の顔をしていた。まるで、伴侶が不治の病におかされたことを医師に宣告されたばかりの者の表情であった。当の本人に自覚はないが、うどんこがそのような表情を見るのは初めてのことであったため、たじろいだ。腹の不調による苦痛と、なによりも永淋の変貌および不在による不安で輝夜は弱り切っていた。体力も、精神も摩耗している。
「いったいなにがあったんです?」
輝夜はこれまでの経緯(いきさつ)を事細かに説明した。永淋の変貌、それに井戸の水面に映った映像。
輝夜の説明を受けたうどんこは、自分が体験したことを話した。自分に似た小人たち、そして消えた永遠亭。
輝夜とうどんこの話には関連性があるようには考えられなかった。しかし、うどんこにはこれらの事象は結局のところひとつに纏められるような気がしてならなかった。いくつもの事柄をニューロンのように繋げる役目を果たすなにかがあるはずだった。そのひとつ、あるいは一端を担っているのは八雲紫に違いないと睨んだ。
うどんこはその考えを輝夜には話さないことにした。輝夜はこれらをすべて一過性のものとして捉えているようなのだ。言葉の端々にそれが感じられた。あるいは、そうと信じようとしているだけなのかもしれない。しかしうどんこには一過性の異変だとはどうしても思うことができないでいた。いくつもの事象が絡み合った関連性のある物事とは、なんにせよ必ず結果を伴うに決まっているのだ。それが良い結果であれ悪い結果であれ。
「八雲紫を探しましょう」
と、うどんこは言った。
「でも、永淋は……」
輝夜は悲痛に満ちた表情でうどんこを見つめた。
弱りきった輝夜を見て、うどんこはこの主を守ることができるのは自分だけなのだと悟った。すくなくとも今だけは。
うどんこは自分の内にある、なにかスイッチのようなものがONからOFFに切り替わる音を聞いた。目覚めの良い朝、夢の世界と現実の世界を極端に切り離して起きることができたときのように、正と負、プラスとマイナス、果ては月とその裏側のように、なにかを二分化するスイッチであった。うどんこは確かにその音を聞いた。それはカチリと硬質で無個性な音で、たとえ幻聴だったにしろ自分の決心を揺るぎないものとするには充分だった。
「姫の話を聞く限りでは、師匠が正気だとは思えません。師匠の身になにかがあったのです。あるいは気の違ったふりをしているだけかもしれませんが、もしそうとなるならば何か理由があるはずです」だがうどんこは、永淋が気の違ったふりをしているなどとは微塵も思っていない。「なんにせよ、今、師匠と会うのは得策だとは言えません。それよりも何かを知っているであろう八雲紫に会うほうが先決だと思われます」それから、すこし考えて付け足した。「これは師匠の身を二の次とした考えではないことはわかってください。あなたの安全はわたし達にとって、第一でも優先事項なのでもなく、はじめから決まっている、言うならば前提事項なのです。あなたの安全が確保されてからはじめて、事項の順序が決められてゆくのです。そうですね、今のところ第一の優先事項は師匠を助けること。第二が永遠亭。屋敷にいるはずの者たちも心配です。ただ、もちろんそれらは、あなたの安全が確保された後のことです」
永遠亭の主は押し黙った。なにか反論に転じようとしているのだろう。だがうどんこは自分の意見を曲げるつもりは毛頭なかった。もしも自分と永淋の立場が逆であり、自分の身体に変異が訪れて危険因子たる人物になり下ったならば、永淋は同じ意見を持っただろう。
けれど。そう、けれど、だ。
うどんこと永淋の立場が逆であったとしたら、輝夜の態度は別のものであっただろう。無論、心配してもらえるに違いはない。永淋に命を下し、解決策を練るだろう。けれど今このように弱り切ってしまうようなことは、きっと、ない。それは輝夜にとって永淋が、あるいは永淋にとって輝夜が特別な存在だからだ。他の者には介入し得ない特別な絆があるのだ。それがうどんこには羨ましくもあった。羨ましくは感じているが妬んだりはしておらず、むしろ永遠に続くもののひとつとして成り立って欲しいと願うものであった。永遠に存在し続けることができるものは少ない。あるいは形あるもののには永遠というものはないのかもしれない。輝夜の能力をもってすれば、なかったはずの永遠性は生まれるかもしれない。だが、知覚で認識できないものにとっての永遠とはなんであろうか。時間という概念から切り離されたものなのではないだろうか。だからこそ、その目に見えない大切なものを守りたいと思っている。形あるものはもちろん大切なものだが、目に見えないものこそ、より崇高なものであろう。そしてそれを守り抜くということは輝夜の身の安全とはまた別の、うどんこにとってのもうひとつの前提条件でもあった。
「八雲紫を探しましょう」
うどんこはもう一度言った。今度は力強く。
輝夜は下唇を噛み――本人は気付いていない――頷いた。
永淋は水をたっぷりと湛えた井戸を覗き込んだ。
水面には自分自身が映っていたが、そうと認知することはできない。
永淋は右の手の平でぴしゃりと水面を叩いた。いくつもの水しぶきが跳ね上がった。存外に面白い。永淋はふたたび水面を叩いた。また、しぶきが跳ね上がる。跳ね上がったしぶきが地面に打ち付けられて音をたてる。その音が健やかで心地よい。永淋はまた水面を叩いた。夢中になって叩きはじめた。今や太鼓でも叩くかのように両手でバシャバシャとやっている。
しばらくそうしていた後、永淋は首を左右に振って辺りを見渡した。周りは竹ばかりである。永淋は自分の頬がいくらか熱くなったことに気がついた。だがそれが、まだほんの微かに残っている自我が生んだ羞恥の一部だとはわかっていない。
永淋は今一度水面を覗いた。水上ではいくつもの波紋が交差し、反響しあっていた。それはあまり楽しいものではなかった。永淋は腕を振り上げ、また水面をたたき始めようとした。そのとき、水面にあったいくつもの波紋が重なりあい、ひとつの輪となった。永淋は首を傾げて振り上げた腕をおろした。興味を持ったのだ。その輪はゆっくりと膨張して次第に大きくなり、やがて動きを止めた。輪のなかには、傘を持った八雲紫と博霊神社の巫女が映っていた。
ここに映っている者を探し出そう。
永淋はそう考えた。理由はなかった。理由や目的など必要ないのだ。
だが、そこに映っている八雲紫を探し出すことは正しいことのような気がした。そう感じたのは微かに残った自我なのか、あるいはそうではないのか、それは本人にはわからなかった。無論、誰にわかるはずもない。
永淋はいくばくかの時間をじっと立ちつくしたままで過ごした。他人が見ればなにかを深く思案しているように見えた。まるで宇宙の真理でも探している探究者のようであった。だが本当のところはなにも考えていない。
やがて井戸を背にして歩きだした。
口を広げ、げッげッげッ、と蛙のように奇妙な声で鳴いた。
腹が痛んだが、とくに気になるほどでもなかった。
八雲紫を探すと考えていたことはとうに忘れている。
ともあれ、井戸に映った風景だけは未だに頭のなかにあった。神社を出る、傘を持った女。その風景は、自我をほとんど失った永淋の脳裏に写真のように焼きついていた。それが意味を成すかどうかは、矢張り本人でさえもわからない。
竹林のなかにいる者たちはなかなか気付かなかったが、その外では、疲れ切った太陽がその身を沈めようとしていた。いくつもの小さくまばらな雲が鮮やかな夕日色に染まっている。
夜が近い。
あれだけ大きな屋敷が忽然と姿を消した。自ら姿を消すことは、当たり前の話だができるはずがない。ということは、何者かが消したということである。そこにはいったいどのような力が働いたのだろうか。
うどんこは、屋敷を消したのは八雲紫なのではないだろうかと考えていた。なんの根拠もなかったが、これから探し出すはずの相手を犯人として決めつけておけばいくらか気分は楽になる。なにせ、いくつものおかしな出来事がすべて違った人物の意思から成ったものであったとするならば、その数だけ解決しなければならないからだ。それでは途方もない。だが、八雲紫ひとりを叩いてすべてが解決するとなれば話は変わってくる。
しかしうどんこは八雲紫のことをよく知らない。彼女の能力の片鱗さえ未だに理解していない。その、境界を操る程度の能力はあまりに強大であると聞く。何事にも存在する境界を操るというのだから、その能力における可能性の限界とは如何程なのであろうか。あるいは限界などないのではないか。その気にさえなれば、山と空の境界を曖昧にし、そのふたつを混ぜ合わせてしまうことさえできるだろうと想像できる。あるいは昼夜の境界を消し、人々をわけのわからぬ時間帯のなかに迷わせてしまうこともできるのであろう。さらには物語のなかを移動することができると耳にしたことさえある。つまり神話や御伽話に登場し、その話のディテール、いやそれだけではなくテーマでさえ覆してしまうことが可能なのではないだろうか。……すべてが仮定である。相手はまったく得体が知れないと言っていい。ただ、その能力をもってすれば永遠亭を消してしまうことくらい容易いのではないだろうか。
うどんこと輝夜のふたりは今後の行動を検討しあっていた。八雲紫はいったいどこにいるのか。神出鬼没のこの妖怪は、その能力でどんな時と場合でもありとあらゆる場所へ移動することができるのだ。輝夜が見た井戸の映像では――それが正しい映像だとすれば――紫は博麗神社にいた。しかし今もまだいるかどうかは定かではない。
井戸による映像の他にはなんの手がかりもないことから、いくらも討論しないうちに博麗神社へ向かうことに決まった。輝夜の言うとおりであればそんなヘンテコ極まりない井戸のことなど信用はできない。だが、すがれる藁は他にない。
博麗神社へと向かう前に休むこととなった。うどんこが提案し、輝夜がしぶしぶと承諾したことであった。うどんこ本人は差し当たり問題はない――腹の調子があまり良くないことを除いて――が、輝夜の体調および精神的な疲労を慮ってのことである。
うどんこの目から見て、輝夜の腹は尋常ではない痛みを抱えている。うどんこは、この腹の調子が不具合なことも異変のひとつとして念頭においていた。つまり腹を痛めているのはこの場にいるふたりだけではないのではないか、と考えているのだ。他に腹を痛めている者もいるはずだ。そう考えていることにたいした根拠はない。一連の出来事がひとつの原因から成ると仮定しているうどんこには、そうであると思えてならないだけだ。さらに今起こっている異変は、自分たちの周りだけでなく、幻想郷全体へ働きかける力を有しているように感じられる。あるいは幻想郷の外へも働きかけているかもしれない。そして腹の具合の異変は、どうやら個人差があるようであった。
ふたりは腰を掛けるのに手頃な岩のうえに座っている。休むといえどもその程度であったが、それでも輝夜はいくらか楽にできているように見えた。
休息をとっているあいだ、うどんこは異変について考えていた。
いくつもの異変が一時に集中して起こった。八雲紫は異変を欲していたようであったが、それは博麗神社の巫女を心配してのことである。巫女に異変を解決させれば良いのであって、このようにいくつもの異変を同時に起こす必要などあったのだろうか。そもそも、異変を起こす目的とは、本当に幻想郷のためなのだろうか。
そうだ、博麗霊夢は動き出しているのだろうか? 協力を求めることはできないだろうか?
うどんこはようやくそのことに思い当った。異変とくれば解決策としてまずは巫女への協力を思い浮かべるべきであったが、あまりに動転していたため今まで考えもしなかったのだ。
矢張り、まず博麗神社へ向かうのは正解なのだ。
けれど異変の根源である紫は、霊夢に退治されるかもしれないという危険を冒してまで、どうして神社へ向かったのだろうか。犯人として処罰されるどころか、異変解決に動き出した巫女は相手に敵意がなくとも妖怪であればたちどころに攻撃に移ると聞く。妖怪であるという、ただそれだけで退治されてしまう。まったく理にかなわない。
まさか八雲紫は博霊霊夢を懐柔する気なのではなかろうか……。
いやしかし、異変を解決させようとしているのだから、味方にする必要性はない。
では、いったい何故。
「輝夜様」
うどんこは永遠亭の主の名を呼んだ。
「なあに」
いくらかの元気を取り戻しつつある輝夜は、今では気丈に振る舞おうとしていた。
「博霊神社の巫女――博麗霊夢は動き出しているのでしょうか」
うどんこのその言葉に、輝夜は首をひねった。
「どうも勘違いをしているみたいね。貴方も、八雲紫も」
「どういうことでしょうか」
「八雲紫は永遠亭に来た時に言ったわよね。異変を求めている、って」
「ええ、確かにそのようなことを。今ではおそらく、実際に異変を起こした張本人として……」
輝夜はそのとき、永淋と口論をしていたはずだ。ちゃんとひとの話は聞いていたのだな、とうどんこは妙なところで感心をした。
「必要なかったのよ」
「え?」
「異変を起こす必要なんてなかったの」
「それは、何故です?」
「八雲紫が異変を起こさなくても――まあ、八雲紫が異変を起こしたというのはまだ仮定の話だけれども――、異変は別に起こったのよ」
うどんこには、わかりそうでわからない言葉であった。
「八雲紫が訪ねてくる前に、博麗霊夢がやってきたのよ」
それは輝夜と永淋が喧嘩をはじめる前のことだった。
朝、輝夜はひとりで永遠亭をこっそりと抜け出した。どこへ行くということもない。いわゆる朝の散歩であった。そんなことでさえ永淋は気に病むので、輝夜は誰にも気付かれぬように永遠亭を出たのだった。
竹林を歩いていると、向こうから人影がやってくるのが見えた。いったい誰であろうかと目を凝らしていると、背後から何者かに肩を叩かれた。ギョッとして振り向けば、怖い顔をした永淋が立っている。永淋を納得させることのできない言い訳をべらべらと述べていると、向こうに見えていた人影が、いつのまにかにすぐそこまで近づいていた。
人影の正体は博麗霊夢であった。永遠亭に用があった、と言う。
「何用かしら?」
と輝夜は訊いた。
「ここら辺でなにか起こるような気がするのよね」
「異変かしら」
「そこまで決めつけることはできないわ。でも、わたしに関係すること。そんな勘がするのよ」
「勘なんて頼りになるのかしらね」
「言っておくけどね、勘以外に頼りになるものなんて何もないわ」
「あら、そう?」
「あんた達、なにかしようと企んでるんじゃないでしょうね」
「そんなことしないわ」
「だったらいいけど。ああもう、わたしに関係する異変じゃなければ魔理沙にでも頼りたいのに」
「天下の博霊の巫女が情けないことを言うのね」
「いいの。わたしもあと何年かで引退するんだから」
「あら、おばさん宣言?」
「ちがうわ。娘に任せるの」
「もうそんなに大きくなったの」
「筋はいいからね。あと何年かすれば、モノにはなると思うわ」
数年前に博麗霊夢は子を授かった。輝夜は当時を思い出し、袖で口元を隠した。おもわず浮かべてしまった笑みを隠すためである。
あのときは幻想郷はじまって以来の大異変だと騒ぎたてられたものだった。そのことを口にすれば、目のまえの当事者に成敗されかねない。
「それで、いったいどんな異変か見当はついてるの?」
「それさえわかればねえ。ただわかるのは、どうもわたしにとっては気に食わない……それも、そうとう気に食わない状態になるということなのよ」
「なるほど。だから、早くも調査に取り組んでるのね」
「そういうことよ。面倒だけど、気に食わないのは好きじゃないからね」
「誰だってそうよ。もちろんわたしにとってもね」
「あら、そう?」
「八雲紫が異変を起こすことを、博麗霊夢が予知していたということですか?」
輝夜の説明を聞いたうどんこは、そう言った。
「ちょっと違う」輝夜はそう答え、自信がなさそうに付け加えた。「と、思う」
うどんこは輝夜の説明を待った。
輝夜はしばらく考えた後、続けた。
「今のところ、博麗霊夢にとって気に入らない事態にはなっていないと思うの。変なことばかりだから諸手をあげて歓迎できるものじゃないけれど、『とても気に食わない』という程じゃないと思うわ。すくなくとも、異変が起こるまえに博麗霊夢が動き出す程じゃない。博麗霊夢にとっては『とても気に食わない』わけではなく、どちらかと言えば『とても気に食わない』のはわたし達よね?」
「ええ」
「つまり」輝夜は難題の解き方でも教えるような口ぶりで続ける。「異変は別に起こる……あるいは別に起こっているはずなのよ」
うどんこは片手で額を抑え、頭を痛めているかのように人差し指で頭をとんとんと叩いた。
「まだなにか起こるっていうんですか」
「あるいは、わたし達が知らない異変が今も起こっている」
「あるいは」
「そう、あるいは」
ただでさえ、現状はめちゃくちゃなのである。もしもここで別の「あるいは」が発生してしまえば大変なことになる。
「なんでもありじゃないですか。なにやったっていいんですか」
「もうはじまってしまったのだから、なにを言っても仕方ないわ。それに『なんでもあり』のなにがいけないと言うの? これから探し出そうとしている輩はおそらく『なんでもあり』なのよ。ここは幻想郷。『なんでもあり』が可能の世界なの。『なんでもあり』をできない方が悪い。『なんでもあり』はアンフェアとは言わないし、否定できない」
八雲紫の能力――境界を操る程度の能力――の底を知る者は果たしているのだろうか。その能力でもって、いわゆるテレポーテーションまがいの移動手段を持つだけでなく、山の稜線を操り空と山の境を曖昧にすることさえできるらしい。物語を行き来することさえできると聞く。
うどんこは額をおさえたまま目をつむった。『なんでもあり』がまかり通るだなんて、この世界はあんまりである。
「……そんな楽観視していていいんですか」
「楽観視なんてしていないわ。わたしはこれでも憤っているのよ。霊夢の言うとおりだわ。『とても気に食わない』状態。わたしはとてもとても憤っているわ」
うどんこは、ちらと輝夜の表情を伺った。輝夜は真顔であった。八雲紫や風見幽香、八意永淋の笑みは不気味で怖いが、シンプルな表情もそれはそれで、やはり身を震わせる思いである。
休息をとったことで、輝夜は肉体的にも精神的にもいくらか活気を取り戻しているようだった。いつまでも不安の渦に沈み込んでいるよりは、怒りに身を焦がしているほうが良いように、うどんこは思えた。
ふたりはそれで押し黙ったが、やがて輝夜が立ち上がったので出発となった。
てゐは辺りを見渡し、近くに八雲紫あるいは八意永淋がいないかどうか確かめた。まず眼であたりを確認し、それから耳をすませた。ピンと張った白い耳が、風や笹の葉などの細かな音をとらえる度にぴくぴくと震える。
てゐは自分の姿を、輝夜とうどんこの二人に認めてもらうことを諦めていた。
二人には見えていない。目のまえで手を振ってみても、顔を見合わせる二人のあいだに割り込んでみても、こちらに気がつかない。まるで透明人間にでもなったような気分である。いや、もしかすると本当に透明人間になったのかもしれない。相手は自分を視界に入れているはずなのに存在を意識されていないかのよう。まるで空気だった。
何度も何度も自分の手を見た。水に映る自分の顔を見た。自分の手はちゃんとあったし、自分の顔は水面に揺らいでいた。身体を触ることはできる。声を出すこともできる。草木を揺らすこともできる。耳はあった。鼻もあった。鎖骨もあった。胸もあった。腿もあった。足のつま先もあった。痛みもあった。何もかもある。
てゐは確かにここに在る。
けれど、いない。
歩いているうどんこの身体を押す。うどんこはよろめいたが、それだけだった。歩みを止めることなく、そのまま歩き続けている。不思議そうにあたりを見渡したり、何かに躓いたのかと足元を見ることさえしない。自分がよろめいたことにさえ気が付いていないようだ。
なにすんのよ!
いつものその一言さえ、ない。
輝夜が永淋にさらわれたあたりからずっとこの調子である。
うどんこの手を引いて輝夜に引き合わせたり、狂気に満ちた永淋の様子をうかがったりと、二人の手助けをした。初めは姫を守らなければならない、といった使命感に満ちていた。確かに助けにはなっていただろうが、誰からも気づかれないため達成感はなかった。繰り返すうちに虚しくなっていった。
ずっと、このままなのだろうか。
ふたりは竹林の外へ出るため、上空へ向かって飛んだ。無数の竹の幹を眼下にし、密集した葉の森を抜けて大空へ出る。
――はずだった。
いや、確かに飛んでいる。
上空へ向かって飛ぼうとしているのだが、いつまで経っても群がった葉まで到達できないのだ。まるで空間が歪んでいるかのようである。
うどんこは足元を見た。するとどうだ、未だ地上から数十センチとしか離れていない位置に自分がいる。まさか飛べなくなってしまったのだろうか。しかし、飛んでいるという浮遊感はある。重力は感じられるし、その重力に逆らっている自分の力も感じられる。挙句、上昇感さえあるのだ。
輝夜は諦めたのか、すでに地に降り立っていた。難しい顔をしてあたりを見渡している。
うどんこも輝夜の傍に降り立った。
「異変、でしょうか」
「たぶんね」
輝夜は悔しそうに言う。
「これが博麗霊夢の気に食わない異変でしょうか。もしくは、まったく別の新しい異変……」
「わからないわ」
もしもこれが博麗霊夢の予知していた異変なのだとしたら、飛べないというのは確かにあまり気に入らない異変である。だが、うどんこはどこかひっかかっていた。そのひっかかりのせいで、この異変(らしきもの)を博霊霊夢が予知したそれと認めることはできなかった。
二人は飛ぶことを諦め、歩くことにした。幻想郷の竹林のなかを歩いてゆくのは一般の者には非常に困難なことである。しかしまったく迷わない者もいる。とくに竹林に住まう者、または住居をかまえる者たちなどはその筆頭である。つまり永遠亭に住まう二人にとっては竹林を歩くことなど困難なことではなかった。
が。
歩いても歩いても竹ばかりであり、一向に外へ出ることができないでいた。似たような場所ばかりに出るのだ。それも、非常に酷似した場所ばかりである。
直進を続ければやがて竹林の外へ繋がるはずであった。しかし、いくら歩いてもたどり着かない。
「これはいったい」
うどんこは足を止め、そう言った。
そしてふと気がついた。
似たような場所を歩きまわってしまって迷っているのではないか、今まではそう思っていた。だがどうやら、それは違うようだった。同じような場所を通っているわけではなかった。
「まさか、ここからちっとも進んでいないんじゃあ」
うどんこは辺りを見渡した。同じような竹、同じような落ち葉、同じような石――そう思っていたそれらは、実は同じ竹、同じ落ち葉、同じ石だったのではないか。『同じような』ではなかった。まったくもってそれ自体であったのだ。
「おそらくね」
輝夜は気を落としたようにそう言った。すでに勘づいていたのだろう。
いつの間にかに竹林のなかは肌寒くなっていた。ずいぶんと暗くもなっている。夜がやってきつつあるのだろう、とうどんこは思った。いったいいつの間に陽は落ち始めたのか。
輝夜を見ると、肌寒くなっているというのに額に浮かんだ汗を拭うところだった。腹の具合がよくないのだろうと察したが、うどんこはなにも言えなかった。
「きっと」と輝夜は言った。「空間が歪んでいるかなにかかしらね。ここから出られなくなっているんだわ」
「これも八雲紫の仕業でしょうか」
境界を操る程度の能力であれば、造作もないことなのであろう。
「どうかしらね」
輝夜はそう言うと、手頃な岩を見つけて腰をおろした。目をつむった。その姿は腹の痛みに耐えているのか、それとも思案に耽っているのか、あるいはその両方にもとれた。
輝夜と永淋の絆を守り抜くと決心し直したばかりだというのに、いったいこれはどういうことか。うどんこは立ちつくしたままやきもきした。いったいなにをしているのか。結局なにもできないのだろうか。
輝夜は悔しそうに下唇をかみしめている。
永淋は遠くに目標の女を視認した。
持ち出してきた弓を肩にかけ、四つん這いになって音をたてぬように近づく。
傘をさした目標の女は、小さな女と一緒だった。
一定の距離まで近づいた。女は永淋の接近に気付いていないようだった。
永淋は膝だけで低く立ち上がると、弓を構え、矢をつがえた。
――どうして目のまえの傘の女を射抜こうとしているのか。
一瞬だけ、そんな考えが頭を過ぎった。
だが今の永淋にはその言葉を吟味するどころか、意味ある言葉として捉えることはできない。
永淋は矢を放った。
直後、傘の女がこちらを向いた。
矢が傘の女にあたることはなかった。
放たれた矢は傘の女の目のまえで忽然と姿を消したのだ。
理解し難い現象であった。
だが、今の永淋には「理解し難い」ということさえわからない。矢を続けざまに放った。
放たれた矢は傘の女にたどり着く前にことごとく消え去った。
傘の女は永淋を指さした。
「ほら、あそこに異変がいるわ」と、傘の女は小さな女に言った。「退治なさい」
永淋は弓を肩にかつぐと、ふたりの女に飛びかかった。
その場所に長いあいだ閉じ込められていた――辺りが見渡せるのに閉じ込められた、とはおかしな言い回しだが――というわけではない。陽の光がすべて闇に飲み込まれてしまうまでの、たったいくばくかの時間だ。ただ、時間自体は短かったが、多くの苦痛を伴う濃密な時間であった。
その時間をふたりは、腹や頭を抱えたまま、うつむき、押し黙ってじっとしていた。
そんななか、うどんこはその音を耳にした。
その音は、大きい音というわけではない。また、特殊な音というわけでもなかった。
生き物が草木を揺らす、ガサガサというなんの変哲もない音である。
しかしうどんこにとっては特別な音として感じられた。うどんこのなかの、ある種の独特な予感を生ませる大鐘を、静かに、だが確実に鳴らしたのだった。輝夜が説明していた、霊夢が言っていたという「勘以外に頼りになるものなんてない」という言葉を、ふと思い出す。そういった類の勘が働いたのかもしれない。
ガサガサという物音に特別な何事かを感じたうどんこは、バッと顔をあげ、唖然とした。
今まで探していた永遠亭が目のまえに現れたのだ。
いや、それは現れたのではなく、「あった」と表現するほうが正しい。
ずっと俯いたままであったため、永遠亭がしばらく前から目のまえに存在していたのだが、ふたりはずっと気がつかないでいたのだ。
「姫様」
うどんこは自分の声が震えてしまうのも構わず、なんとか声を振り絞った。
「これは」
顔をあげた輝夜は腹の痛みも忘れて驚きの表情を浮かべた。
「いったい、いつの間に」
突拍子もない光景であった。
ふたりは動けない状態だったため、その場から一歩たりとも移動はしていないのである。そしてこの場には建築物などなにひとつ存在していなかった。こちらが移動していないということはつまり、永遠亭がここまで移動したということになる。
「なにがなんだか」
とうどんこが言うや否や、ふたたび、ガサガサという音が聞こえた。
うどんこと輝夜のふたりは同時に音のしたほうへと振り向いた。
無数の雄々しい竹や、その足元に群生する下生え。
そのなかから何者かが飛び出した。
現れたのは永淋であった。
うどんこは突如舞いこんだその人物を自分の師なのだとすぐに認めることができなかった。
なにしろその者は、四つん這いになり、顎が外れるのではないかと不安になるほど大口を開け、その口からは涎を流し、ぐわァッと獣のように叫んでこちらを威嚇しているのである。
それでもその姿は、まぎれもない敬愛する恩師のものだった。
「師匠!」
言葉が通じるようには見えない様子だったが、うどんこは声をかけた。近づくことはできない。
自分の名前を呼ばれた――そう感じたかどうかは定かではないが――獣は、四つん這いの状態からすっくと立ち上がって弓をかまえた。
つがえられた矢の先端が指し示した相手は輝夜である。
輝夜は苦しそうに顔を歪めるだけで動こうとはしない。また痛みだしたようだった。
うどんこは、これは夢なのだと思った。思いこもうとした。いや、いっそ夢であってくれと願った。
永遠亭の主が、最も信頼している八意永淋に凶器を向けられている。そんなことがあっていいはずはない!
鏃が輝夜の胸に真っ直ぐに向けられている。
ほんの束の間のこと――
うどんこは、矢を持つ指の力がすっと抜かれるのを見た。
筋肉の動きを見てとったわけではないが、矢に溜められたエネルギーが解放されるのを視覚的に感じたのだった。
が、うどんこが動いたのは矢が放たれる直前である。永淋への信頼と懐疑の狭間で苦しんではいたが、身体は勝手に動いていた。自分のした決心がそうさせたのかもしれない――『蓬莱山輝夜の身の安全が何事に対しても優先事項である』――そうではなかったかもしれない。だがどちらにせよ、身体の反応は正しかった。
うどんこは横っ跳びにとんで輝夜の身体を抱え、どうと地面に倒れた。直後、輝夜の身体のあった場所を凶器が風を切り裂いていった。
実際の物理的な動きとしては、うどんこが動き、永淋の指が開くのを見、そのあとにびゅんと矢が飛ぶ、といった順序であった。が、うどんこの意識はその動きについていけなかったため、彼女自身が地面に倒れた後になってから、永淋の指の動き――つがえた矢を放つその動き――が頭のなかで映像として再生された。
倒れたうどんこは、輝夜を抱えたままキッと自分の師をその紅い眼で睨んだ。永淋を狂気で侵そうとしたのである。
だが永淋はその危険な眼を直視しても、まったくものともしなかった。新しい矢を弓につがえ始める。その力強い仕草から、離れているうどんこの耳にもぎりぎりという弓のしなる音が聞こえてきそうであった。
うどんこは輝夜を抱えたまま立ち上がり、駆け出した。さながら意思を持ったつららのように、放たれた矢が足元の地面に突き刺さる。意識して矢を避けることは到底不可能に思われた。
うどんこはいま一度、走りながらその能力でもって永淋を攻撃した。だが師にはなんの変化も見られない。遮へい物となりそうな木々へ、うどんこは輝夜を抱えたまま跳躍した。だがその遮へい物とは背丈のわりにはあまりにもか細い竹である。身を隠すのは困難であった。うどんこは走り続ける。
自分の能力が通じない。
狂気をも超越する精神力の持ち主であるということなのだろうか。
あの八意永淋ならば、あるいはそうなのかもしれない。
いいや、違う。
うどんこは、自分の能力が影響されないことについての一つの解答を思いつく。
しかしそれを認めるわけにはいかない。少なくとも、今この場で認めるわけにはいかない。
だが、しかし。
うどんこは抱えたままの自分の主を見た。憔悴しきったせいで幽鬼の類のように青白い顔をしている。うどんこは解答を思わず口にしそうになっていたが、ぐっと抑え込んだ。
永淋は狂気の渦に完全に飲み込まれてしまっている。真に狂っている。
狂気におかされた者を狂わそうと企てたところで意味がなかったのだ。風邪をひいている相手に、風邪をひかそうと水をかけるようなものなのだ。狂気のメカニズムなど知る由もないが、まったく意味のないことをしてしまっていたと考えて差し支えがないだろう。
うどんこは考えることを辞めた。
今更なにを考えるというのだろう? 今は何よりも逃げ切ることが先決である。
うどんこは主を抱える腕にギュッと力を入れた。うどんこの不安が伝わったのか、輝夜が怯えたように身体を強張らせる。その動きはうどんこを心底痛めつけた。
姫がこんなにも……。
うどんこはなるべく気にとめないように努めた。
輝夜は驚くほどに軽かった。羽のように軽い、とまではいかないが、抱きかかえて走れる分には充分に軽い。もとより、幻想教に住まう人間たちに比べれば力はある方ではあったが、それにしても軽い。それとも、疲れ切って脱力した者は余計な力が入らないだけに軽くなってしまうのだろうか? むしろ逆に重くなってしまうと聞いてはいたが、そんなことはなかったのだろうか?
ひゅん――。
身体のすぐ傍を矢が飛んで行った。
また考えてしまっている。うどんこは疾風(はやて)のように駆けながらそう思った。考えるのを辞めなきゃならない。今は、今だけは無心にならなければならない。無心になって逃げなくてはならない。早く、もっと早く。逃げることだけを考える。逃げる、逃げる、逃げる。輝夜と、そして永淋を助け出すために、今は逃げきらなければならないのだ。
ここから、逃げるんだ。
そしてうどんこは一つの風となった。
あるのに、ない。いないけどいるのだ。てゐは何度も二人を読んだ。やがて声はかれた。井戸で水を飲んだ。水は飲めるのだ。理不尽だと感じた。自分はいないくせに、欲しいものはあり、それは簡単に手に入る。だが自分に対して二人は意識できない。自分になにかを求めてほしい、そう願った。自分という存在を相手が認識して初めて個が成立するのだと、てゐは初めて知った。相手が自分のことを好きでもいいし嫌いだっていいから、意識することによって存在できるようになるのだ。意識されなければ、それはいないのと同じ、いや、いないのだ。
意識というものが大切らしい。
井戸の水にはてゐは映っていなかった。代わりに別のものが映っていた。井戸がおかしなことになっているのはすでに知っていたので何とも思わない。井戸の悪意ある悪戯なのか、それとも偶然なのか。他の水たまりに行けば自分が映っているのはわかっている。だが、今そこに自分が映っていないことに違和感がなかった。だんだんと、自分がいないということに慣れてしまっている。
永淋から逃げ切ったうどんこ達は、焚火をこしらえて野宿をすることに決めていた。
うどんこは座り込み、焚火をぼんやりと見つめながら考え込んでいた。輝夜は疲れ果てた様子でとうに眠り込んでいる。
永淋から逃げ切ったことは確かであったが、無我夢中であったためにどのようにして逃げたのか覚えていない。いや、わからない、といったほうが正しいかもしれない。それだけ無心で逃げ続けたのであった。
これからどうすればいいのだろう。
途方にもくれている。
姫を守らなければならない。でも、いったいどうやって?
考えるべきであった。
しかし疲れ切っていた。
焚火を見つめるその瞳はゆっくりと閉じていった。
闇のなかで焚火が揺れた。
うどんこは夢を見た。
昔の夢である。
誰が言い出したのか今となっては定かではないが、家族という単語をテーマにして談笑しあっていた。
永淋が母親であり、輝夜とうどんこ、てゐの三人が娘――。
「てゐが小憎らしい悪戯っ子な末娘で、姫は物静かなんだけど我が強い長女、うどんげはしっかり者のようでその実どこか抜けている次女ね」
輝夜とてゐはその言葉ににこにこと微笑んでいる。
だが。
「そんなの駄目です」と水を差す者がいた。うどんこである。「わたしは、姫を守る立場にある者です。姉妹だなんてそんなふうにはなれません」
すると輝夜は袖で口元を隠しながら、言った。
「やあねえ、頑固者の妹はきらいよ。ねえ?」
姫のその言葉に、てゐが同調するように笑った。うどんこは助けを求めるように永淋を見たが、師は肩をすくめてみせ、優しい顔で微笑むだけであった。まったく仕方ないわねえ、とまるで本当の母親のように。
うどんこは恥ずかしくなって耳まで真っ赤にした。
懐かしい、あたたかい夢だった。
朝がやってきた。
うどんこは眠るつもりなど一切なく、夜通し見張りをするつもりであった。だが疲れのせいでいくらか眠ってしまっていたようだった。
目を覚ましたうどんこは、まっさきに輝夜の姿を探した。
輝夜はすぐ傍で焚火の残滓をじっと見つめている。
うどんこは眠ってしまった非礼を詫びたが、輝夜は首を横に振った。
「休むべきだわ。貴方も疲れてるでしょう」
「しかし」
「そんなことよりも」輝夜は立ち上がった。「これからどうするか考えるべきだとは思わない?」
輝夜は毅然とした態度を持ち直していたようだったが、うどんこはそうもいかない。
「そう……、ですね」
まさか自分の師が、あれほどまでの変貌を遂げていようとは。
「なによ、元気ないわねえ」
元気を取り戻せないうどんこに、輝夜はあきれたように言う。
どうして姫は元気なのだろうか。元気になれたのだろうか? うどんこはそう思う。
すでに永淋の変貌を見ていたために覚悟ができていたとでもいうのだろうか。あんなに落ち込んでいたというのに。あんなにも苦しんでいたというのに! あれほど悲痛な表情を見たのは初めてのことだった。いったいどうして立ち直れたのか。あの八意永淋が、狂ってしまったというのに……
「でも、これからどうするんですか」
と、うどんこは暗澹たる面持ちで言った。
自分の腹の痛みは大幅に激減していたが、昨日の様子を思い出せば輝夜のそれはまだ続いているのではないだろうか。
「八雲紫は見つかりそうもない。だとしたら、永淋を止めるしかないわね」
決まってるじゃない、という表情で輝夜が答える。
「止めるって言ったって……。相手は師匠ですよ? こちらの言葉は通じそうにないのに。それともまさか」
「止めると言ったら、まあどちらかよね」
「どちらかって。それに、どうやるんですか」
「どうやってもこうやってもないわ。止めると言ったら止めるの。というよりそもそも貴方、いったい何を怖気づいているの? あの永淋がおかしくなってしまったのよ? 永淋がおかしくなってしまったのならいったい誰が止めるべきだと思っているの? 博霊神社の巫女? 幻想郷で起こった異変はすべて巫女が解決するの? 冗談じゃないわ。まったく冗談じゃないわ。私たちの間で起こったことは私たちが解決する。そうでしょう?」
月の民が起こした問題は、月の民が解決するべきである――。
輝夜の口調からはそういう意味としてとられることもあるかもしれない。しかしそれは真意ではないし、なにより輝夜の本意ではない。うどんこはすぐに察した。
永淋がおかしくなってしまったのである。つまりそれは、私たちが解決して然るべきである。永遠亭の住人が解決するべきなのである。もしも変貌してしまったのが永淋でなかったとしたら、輝夜であったとしたら、それは永淋とうどんこが解決するべきなのだ。輝夜はそれを望むであろう。同様に、永淋もそれを望むはずだった。
「ええ、そのとおりです。そのとおりでした」
うどんこは意を決した。永淋がおかしくなってしまったのだから、それを助けるのは自分と輝夜の役目なのであり、それこそ絆の証明となるのだ。言葉にしてしまえば安っぽいが、しかし絆という言葉以上に似つかわしい単語はない。
だが、何かが引っ掛かっていた。何かを忘れてしまっているような気がするのだ。何か、大切なものが身体から欠けてしまっているようだった。いったいそれが何なのか、まったくわからない。
「そうと決まれば、行くわよ」輝夜はそう言うと、一度伸びをしてから歩き出す。「わたしと貴方しかいないんだから」
そうなのだ。と、うどんこは思った。
自分の師、永淋がいない今、永遠亭の絆の名で繋がった者は輝夜と自分しかいないのだ。三人が二人になってしまったのだ。これからの行動次第では、永遠に二人となってしまうかもしれない。
引っかかったことがいったい何か、うどんこは気づいた。
本当にそうなのか?
本当に二人しかいないのか?
気がかりになっていることはそのことであった。
私たちは、とうどんこは強く思う。二人ではなかったはずだ。
永淋を含めて三人、いや、元々は四人であったはずだ。
輝夜と永淋と自分、そしてもう一人がいたはずだった。
あと一人、いったい誰であったか。
思い出せない。
思い出すことができない。
誰かがいたはずなのだ。
どうして覚えていないのだろうか。
どうして忘れてしまったのだろうか。
もしかしたら大切な存在だったのに――いいや、確かに大切な存在であったはずだ。
「姫」
とうどんこは先行する輝夜を呼びとめた。
「なによ」
輝夜は足を止めた。
「あと一人、いませんでしたか」
「いったいなんの話?」
「あと一人いたはずなんです」
そうだ、いたはずなのだ。覚えていない。いや、思い出すことのできない誰かが。
「話が見えないわ」
「私たちは本当に三人だったのでしょうか。姫と師匠と、わたしの三人しかいなかったんでしょうか」
「あと兎たちくらいかしらね」
「いえ、そういう意味ではなく……」
「ああもう、要領を得ないわね」
「すみません」
「何か考えているということはわかったけれど、それはそんなに大事なものなの?」
「おそらく」
本当に「おそらく」程度のものだろうか? いや、もっと大切なものだったはずだが。
「その程度なら後にしなさい。わたしたちにはぐずぐずしている暇なんてないはずよ」
輝夜はそう言い放つとふたたび歩き始めた。うどんこも慌ててそれを追う。
言いようのない不安が、ぬめりとした重たい泥水のようにうどんこに付きまとっていた。思い出すことのできないもう一人。それが大事なのだ。その誰かを思い出さないといけない。
二人は長いこと歩いた。うどんこが手を翳して空を仰ぐと、鬱蒼と茂った竹の葉のあいだに太陽が見えた。ほとんど真上にある。すでに昼になっていた。
しかし永淋も八雲紫の姿も見つからない。ましてや、永遠亭にいたはずの思い出せない誰かの姿など、視界でも記憶からも確認することはできなかった。
と、いうよりも――。
「まさか」
と先に口にしたのはうどんこであった。
「また、同じ場所を回ってしまっているだけなのでは」
輝夜はそれには答えず、一息つくために立ち止まった。腹の具合は収まっていたようだった。だが、まだ奥底で疼いている感じが残っている。油断できない。
「さっきから飛ぼうともしているのですが、矢張り駄目です」
「閉じ込められているのかしら」
「しかし八雲紫が原因だとしても、周囲に気配を感じられません」
「どこかへお出かけ中なのかしらね」
うどんこには黙っていたが、輝夜には気がかりになっていることがあった。
今の竹林は、自分の能力の影響下におかれた状態と似ているように感じられるのである。輝夜の能力――永遠と須臾を操る程度の能力――のうち、永遠を操る能力。永遠とは未来永劫変化のない世界のことである。今の竹林は、まるで輝夜が竹林にその能力を使ってしまったかのようなのである。竹林の一部が変化の訪れない世界となってしまい、そこを幾度も彷徨っているかのようなのだ。まったく変化の感じられない景色ばかりが続くせいで、「永遠」という言葉がつきまとう。竹林の外では陽が落ちるし月が克明に姿を現す。だが竹林の中では何も起こらない。永遠の中に閉じ込められてしまっているため、この場所からは出ることができない……。
むろん、もしも自分の能力に似た何かによって、この竹林の一部が永遠に近い存在と化しているとしても、ここから脱出することができないということのはっきりとした説明にはならない。むしろ、空間が捻じ曲げられ、輝夜とうどんこのいる空間がひとつの球体のような状態とされて周囲と隔離されている……そんなふうに考えてしまったほうが納得がいく。球体として隔離されているのだから、その場所からは移動することができないし、ある地点からしばらく歩けば同じ場所にたどりつくということにもなる。スタート地点がゴールとなるわけである。
空間が隔離される。
そんなことはあり得ない話だ。
いや、本当にそうなのだろうか?
八雲紫ならば、あるいは?
しかしいったいなんのために。
竹林に存在するいくつかの境界を操り空間を捻じり、ひねり、球状にしてしまったのだろうか。
もしもそうだった場合、自分の能力で干渉することはできないだろうか。この空間より外、竹林全体を変化のない永遠のものとすれば……。いや、それは意味のないことだろう。それに、本当に空間が隔離されているならば、外の空間との溝を超えてまで自分の能力が影響するという保証はない。
また、輝夜は須臾の能力でもってうどんことは別の歴史で竹林を歩き回った。しかし、出口はいっこうに見つからない。
輝夜はこの場から出ることを考えるのを一端切り上げ、うどんこの話について考えることにした。うどんこは気にかかることを話していた。しかし輝夜の中での優先事項はこの場からの脱出あるいは永淋の補足であったため、話を一蹴してしまったのだ。だが、うどんこの話はずっと引っかかっていた。手の平の皺に刺さった小さなトゲのようになかなか頭を離れないでいた。それにしても考えることは山ほどあり、いつまでたっても尽きないように思われる。
うどんこは先ほどなんと言っていたか。
「もう一人いた、と言っていたわね」
と輝夜が言うと、うどんこはうなずいた。
「ええ。どうにも思い出せないのですが」
うどんこの表情から、あれからずっとそのことばかり考えていたのがうかがえる。本当に大事なことなのだろう。
「その……、もう一人いた、とそのことを思い出した切っ掛けかなにかないの?」
「姫の『わたしと貴方しかいない』という言葉です」
「わたしの言葉」
「はい」
うどんこはそう答えると押し黙った。
輝夜は考えた。
自分の言葉から問題が提起されたということは、もしかしたら自分もなにか思い出そうとしているのではないだろうか。それも、うどんこよりももっと早い時期から。
「非常に言いにくいのですが」
とうどんこが言った。
「なに」
「夢かもしれません」
「夢?」
「思い出そうとした切っ掛けです。姫の言葉の前に、なにか重要な夢を見たような気がするんです。夢が重要だなんて、笑い話にもなりませんが、そんな気がするんです」
「思い出せないの?」
「ええ。思い出そうとはしているのですが。なにか、昔の頃の夢だったような」
「昔――その夢の時代にいた人物ということね。その『誰か』さんは」
「違います! ずっと……、ずっと傍にいたんです。今だって、傍にいるような気がするくらいなんです」
「それなのに思い出せない?」
「はい……」
うどんこは力なく肩を落とした。
ようやく輝夜は、これもまた今回の異変に関係のある事柄なのだろうかと思い至った。思い出せない誰か、忘れられた誰か。あるいは、存在そのものが消えた――消された?――誰か。
いったいぜんたい、この現状はなんなのであろう。なにが起きているというのか。本当はなにが起きて、なにが起こっていないことなのかさえわからない。事が起こるに連れて現実味が薄れてゆく。
まるで夢のなかのよう。
輝夜はそう思った。すべてが確かに起こっているはずなのに、そのすべてが不明瞭である。泥水のなかを泳いでいるかのように、思うような行動さえとれない。何事も上手くいかない。
自分もまた、うどんこと同じ夢を見れば思い出すことができるのだろうか?
「どんな夢だったのか思い出せないの?」
「ええ。昔の夢としか……」
「どうしても思い出せない?」
今、うどんこが夢の内容を思い出すことが重要なのだと輝夜は感じていた。
「もう一度眠ってみましょうか」
ははは、と力なくうどんこが笑ってうつむく。
「まったく。八雲紫があなたの夢のなかに入り込んできて変なものでも見せているんじゃないの」
二人が思い出せない過去を、夢は掘り返すことが出来た。夢はどうして思い出せたのか。夢は『誰か』を知っているのか。
そもそも夢とは何が見せているのだろうか。脳? ……いや、心?
輝夜の頭に一つの単語が思い浮かんだ。
無意識。
今のこの異変は、無意識ないしは意識が関係しているのではないだろうか?
それは突飛な考えであった。
輝夜はまた仮説を立てる。
夢=無意識とするならば、思い出そうとする行為=意識。この場所にはなにかの力が作用していて、意識は遮断されている。遮断されてしまえば過去を思い出すことはできない。しかし無意識は遮断されずに過去を掘り返した。
つまり、自分とうどんこの二人の過去を思い出そうとする意識は遮断され、うどんこが偶然(必然?)に見た夢はしっかりと過去を発掘したのだ。伝説的な古の時代の貴重な化石のように。
だが、もしもこの仮説が合っていたとしたら、手も足もでない。なにしろ意識が遮断されるということは、過去を掘り返そう、そう思った時点ですでに実行不可能となっているのだ。意識せず、目的をもって無意識的に過去を思い出すことなどできるのだろうか?
できるわけがない。
それからしばらくして、輝夜がうどんこの目の前から消える。
怖くなった。
これからずっと、自分はいないままなのだろうか。
てゐは二人を目のまえにしたまま立ち尽くしている。
二人は傷つけられたひな鳥のように、ひどく疲れている。なんとかして助けてやりたかった。だが、こちらからはどうすることもできない。それはあまりに切ない。
このまま、なにもできずにみんな朽ち果ててしまうのだろうか。永遠に助け合うことができないまま、笑いあったり触れ合ったりすることができないまま、すべてが終わってしまうのだろうか。
そんなのは嫌だった。
だから、てゐは呼んだ。輝夜とうどんこを呼んだ。あらん限りの力で呼んだ。
つよく呼んだ。
つよく、つよく。
うどんこと輝夜は座り込んで休んでいた。うどんこは誰かを思い出そうと必死になっていた。輝夜はなにか考え事をしているように見える。
誰かが自分を呼んだような気がし、うどんこは顔をあげた。周囲を見回すが、自分と輝夜以外に誰もいない。誰かが藪の中で身を潜めているのかと想像する。しかし、もしそうであるならば自分を呼ぶ必要などないはずだった。
もし自分を呼ぶとすれば、いったい誰が?
姫か、師匠か?
他に誰がいるというのだ?
いや、あと一人いる。いたはずだ。
誰かいたはずなのだ。誰かが、大切な誰かが。
思い出せ、思い出すんだ!
思い出さなければならない。
それは、この異変を解決するためではない。もし今思い出すことができなければ、大切な誰かを失ってしまう――そんなふうにうどんこは感じた。
思い出すんだ! 思い出さなきゃ駄目だ!
うどんこは必死に念じる。
大切な、誰か。近しい存在。
また、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえてくる。それはたんぽぽの綿毛のように頼りない声だったが、声は確かに在った。
うどんこは周囲を見渡すが、やはり自分と輝夜以外だれもいない。
本当に誰もいないのか?
いや、きっと近くにいるのだ。思い出さなければならない。
思い出せ、思い出せ!
大切な存在。近しい誰か。
近しい存在とはなにか。大切な存在とはなにか。
恋人? 同胞? 親友? 血族?
違う。
生涯愛を誓い合った恋人は大切である。異国の世界で身を寄せ合って共に過ごす同胞は大切である。励ましあい、時に反発しあう親友は大切である。自分と同じ情報をいくつも身体に刻んだ血族は大切である。
だが、もっと深い絆がある。
そう、家族だ!
恋人であっても同胞であっても親友であっても血族であっても叶わない絆。そして、それらが昇華することによって成りえるひとつの可能性としての形。家族。
うどんこはついに夢を思い出す。大切な、暖かい昔の夢。
そこにいたのは。
微笑む永淋、おかしそうに笑う輝夜、顔を真っ赤にする自分、そして最後の一人。
『てゐが小憎らしい悪戯っ子な末娘で、姫は物静かなんだけど我が強い長女、うどんげはしっかり者のようでその実どこか抜けている次女ね』
うどんこは彼女を呼ぶために口を開いた。声が出るかどうか不安だった。
「てゐ」
とうどんこは震える声で言った。
ちゃんと、呼べた。
目のまえに、てゐがいた。
「え?」
とてゐは眼を丸くする。
うどんこの脳裏に様々な記憶が、一枚の絵となって何枚も何枚も現れる。
輝夜の手を引いてやってくるてゐ。休息をとっているあいだに周囲の安全を確認するてゐ。永淋から逃げる際、草木をかき分け先導するてゐ。焚火に枯れ木を入れるてゐ。
「本当は、ずっとそばにいてくれたのね」
とうどんこは言った。
てゐは長いあいだぼんやりしていた。事態が飲み込めなかった。頭のなかが真新しいノートのように真っ白になっていた。が、やがてうどんこの元に駆け寄った。何も考えられなかった。抱きついた。何か言うために口を開いたが、声は出なかった。すぐにうどんこが抱き返す。てゐはうどんこの胸元に顔をうずめた。鼻がつぶれて一瞬息がつまったが、それでもうどんこの胸に力強く顔を押し付けた。
「ごめん、ごめんね……」
と、うどんこは言った。
てゐは堰を切ったように泣き出した。
しばらく抱き合っていた。
やがてうどんこは顔をあげ、てゐが居たということを伝えようとした。
だが、その言葉が口から出てこない。出そうと思えば出せただろうが、出すことの意味を忘れた。
「あれ?」
と代わりにうどんこは言った。
てゐが居たということを、誰に伝えようとしたのだろうか?
今まで誰かと行動を共にしていたと思うのだけれど。
うどんこは周囲を見渡した。だが、自分とてゐ以外の誰もその場にはいない。何者かが傍にいた、という記憶が残滓として頭の片隅にある。しかしそれが誰だったのか、いつまで傍にいたのかがまったく思い出せない。
まるで、本当は独りきりだったはずなのに、それを認めたくないがために誰かの幻影を見出し、孤独に対する慰みが欲しいがためにその幻影と行動を共にしていたかのようだった。
うどんこはその想像をしてぞっとした。自分の気はおかしくなってしまっていたのだろうか。狂気を操る程度の能力を持った自分が、狂気の世界に足を踏み入れたのだろうか。ミイラとりがミイラになるとはこのことだろう。
「どうしたのさ」
とてゐが目元をぬぐいながら訊いた。声はまだ涙声である。
今まで散々苦しんだのだろう、うどんこはそう感じた。てゐに対して優しい感情がこんこんと溢れるように湧き出してくる。
「誰かいたような気がするんだけど」
とうどんこは正気を疑われるのを承知で正直に話す。
「え?」
「今まで、アンタに会う前に一緒に行動してた人がいたような気がするのよ」
「ちょっと、なに言ってるの?」
「おかしいかな」
矢張り、頭がどこかおかしくなってしまったのだろうか。
「まさか、見えてないの?」
てゐがうどんこの瞳を覗き込む。うどんこはてゐの言葉を上手くくみ取れなかった。
「見えてない、って何が?」
てゐはどこか一点を見た。うどんこもそちらへと視線を移したが、あるのは草木ばかりでなにもない。
これって冒頭で仰っている勝手な設定・解釈とかいうのとは違いますよね?
作者さんの中で永琳はその程度のどうでもいいキャラクターなのだと思うと、作中での描写も不安になります。