(稗田阿悟『幻想郷縁起』現代語訳より)怪隠し
幻想郷に怪隠しという妖怪がいた。夜になると何処からともなく現れて人を攫うと言われている。神出鬼没で掴みどころがない。怪しげな術に長けており、何人もの陰陽師や武者が退治しようとしたが逆に討ち取られた。恐ろしい妖怪である。
無数の目玉と腕を持っている化け物だが、人間の女性に化けることもあるという。見た目に騙されて命を失うものも多い。
昼には姿を現さない。また、冬の間この妖怪に襲われた者はいない。寒さに弱いと言われている。
古くは幻想郷縁起阿一著の妖怪録にも見られる。それほど長くを生きてきたため、知識も経験も豊富である。たかだか五十年を生きる人間では勝ち目がない。
物事の隙間と隙間を行き来する力がある。これを利用して突然里に現れ人間を遠い場所に連れて行って食べる。また妖怪であるが陰陽道に通じ、白面金毛九尾の狐を式神として従えている。都から来た陰陽師と式神対決をして一度も負けたことがないという。
今は昔のことだが湖に移った月に飛び込み月に攻め入ったことがある。しかし月の民に敗れ逃げ帰ったらしい。
近頃妖怪の力は弱まっているため、この妖怪は奇術を用い海の外の妖怪を呼び寄せようとしている。これは幻想郷に住む人間にとって困ることだ。かといってこれを退治するのは難しいため、人間は妖怪以上に数を増やすのが良いだろう。この妖怪と戦って無駄な死人を出すことだけは避けるべし。
(稗田阿弥『幻想郷縁起』口語訳より)隙間妖怪八雲紫
八雲紫は幻想郷の古参の妖怪である。昔は怪隠しと呼ばれた。夜になると何処からともなく現れ何処かへと消えていく。過去に多くの侍や術師を返り討ちにしてきた危険な妖怪である。神出鬼没でその正体は長年謎に包まれていた。しかし私の代になってこの妖怪の実態が少しずつ明らかになってきた。その理由は後に述べる。
・外見
人間の女性の姿をしている。道士の格好をしており、夜なのに日傘を差している。胡散臭い風貌のため人間の姿をしていると言えど人間との判別は容易い。
幻想郷縁起阿一著の妖怪録からそれらしき妖怪が載っているが、鎌倉時代の作とされる幻想郷縁起絵巻に描かれた図と烏山石燕の画と今とではまるで姿が違う。時代とともに外見を変えるのか、昔はこの妖怪に対する知識が乏しかったため想像で描かれたのか、私にはわからない。
・生態
妖怪らしく昼間に眠り夜に活動する。冬は冬眠しているという噂があるが、どうも本人が流しているものらしい。こちらを油断させようと嘘をついているかもしれない。しかし過去冬の間にこの妖怪が人を襲ったという記録はないのも事実だ。
幻想郷に古くから住んでいるようだが住居の場所は不明。後述する能力を使って隠しているようだ。
・能力
この妖怪は物事の境界を操ることができる。その力を使ってある場所から別の場所へと瞬く間に移動することができるという。手や首だけを移動させることもできる。知能は極めて高く点竄術(和算)の達人である。呪術や占術、占星術の知識も広く土御門の陰陽師に匹敵すると言われている。数百の式神を操っており、特に八雲藍(後述)という式神は最強の妖獣、白面金毛九尾の狐そのものであり、それだけ格の高い妖怪をも従える実力を持つ。
・対策、加えて大結界騒動に関すること
人間の手に余る大妖怪であるが、近頃この妖怪による被害は確認されていない。里に姿を現しても人間を襲うことはない。その理由については今幻想郷で起こっている騒動について詳しく記す必要があるだろう。
どうも妖怪たちの間で戦争が起こっているらしい。それもこの妖怪がしたある提案について是か非かを問う形で。その提案とはこの幻想郷を結界で覆い、鎖国をしようというものだ。そうして外の人間達から自分たち妖怪の身を守ろうというのがこの妖怪の主張であった。当然外との交流を断つことに反発を持つものが現れた。単にこの妖怪のことを嫌っているもの、争いに乗じて自身の勢力を少しでも広げようとするものもいた。この妖怪はそれらを相手にすることに追われていて人間を襲っている場合ではないのである。それはこの妖怪に限らず騒動に加わる妖怪全てがそうだ。
そのおかげで現在里は過去初めての平和が訪れている。妖怪たちの騒動が収拾したとき、再び人間は妖怪に怯えて暮らすことになるのだろうか。その鍵を握っているのがこの妖怪である。博麗の巫女はこの妖怪の提案に協力する代わりに人間たちの安全を保障するよう働きかけているが、こいつの企み通りになり幻想郷が結界で閉ざされると、再び妖怪たちが力をつけ人間を襲うのではないかと私は心配している。今はとかくこの束の間の平和が長引くことを祈っている。
話は逸れたが、この妖怪に関しての事情は過去と異なり、騒動によって妖怪社会で孤立したために人間に接近している。おかげで昔はわからなかった正体が少しづつだが明かされてきた。前述の通り長年の宿敵だった博麗の巫女と会談する姿が神社で目撃されている。万が一出くわしても、こちらから襲い掛からなければ襲われることはない。英国紳士のような態度で接することが肝心である。
「なるほどこれが歴代幻想郷縁起……私に関する記述はこれで全て、で間違いありませんね?」
「はい。今お見せしているのが五代目と八代目のもので、残りもここに用意してあります。と言っても四代目までは記述が少なく、六代目と七代目のものは五代目のものとほぼ同様でしたが」
畳の一室で、二人の少女が座して語らっていた。
文字が書かれた何枚かの紙を左手に持って目をやっている金髪の少女の方の名は八雲紫。ここ幻想郷で妖怪の大賢者をやっている。
温い紅茶が注がれたカップを右手に持って口をつけている紫髪の少女の方の名は稗田阿求。ここ幻想郷で人間の歴史家をやっている。
対極と言ってもいい立場にいる二人がこうして集っているのは奇妙な光景であった。
「しかしどうして訳が付いているのかしら。本当に本物かしら」
「これは上白沢慧音が訳したものですよ。彼女が授業に用いるために」
上白沢慧音とは人里に住む「もう一人の」歴史家である。妖怪ハクタクの血が混じっているが基本的に人間で稗田家との縁も深い。
「ならば彼女の寺子屋に混ざれば同様のものが入手できると?」
「えぇ、偽物の資料であれば。こちらは彼女が訳した時に創り変えた歴史を私が後程修正した『本物の』幻想郷縁起訳、ですよ」
そう言った阿求の顔は人間の幼子のものではなかった。そこにはただ千年以上に渡って幻想郷の歴史を纏めてきた大人物の姿があった。さりげなく含んだ自分の持つ歴史こそ正統であるという傲慢も、その貫禄によって傲慢ではなく当然だと思わせる。そんな彼女に感嘆したのか、紫はポン、ポンと拍手して言った、
「パーフェクト。それでは約束通り件の物を献上いたしますわ」
紫は自身の腹に空間の裂け目を作り、右手を突っ込んで何やらゴソゴソと探った後、本を三冊取り出して説明した。
一つは『吸血鬼条約』先の吸血鬼異変の全容が記されている。
一つは『本当は近い月の裏側』第一次月面戦争時に見た月の文明について書かれている。
一つは『コンピュータの彼岸』式神に関する奥義が載っている。
いずれも著者は八雲紫本人であった。差し出された三冊を受け取ると、阿求はそのうちの一冊をパラパラとめくり、手元の手紙、紫から宛てられたもの、と筆跡を比べた。一致。これと同じことを残りの二冊でも繰り返す。一致。一致。阿求は笑みを浮かべて言う。
「そちらも『本物』ですね」
「えぇ、『本物』ですわ」
紫もクスクスと笑いながら合わせた。二人はしばし怪しげに笑みを交わすと、阿求から先におふざけはおしまいだと言わんばかりにカップを盆の上に置き、両手を合わせて大きく伸びをした。
「まさか、こうして妖怪から参考文献を頂ける時代が来るなんてねぇ……ここ百年でこう変わっちゃうもんねぇ」
「いい時代でしょ。先代様は随分心配なされていたようですが」
からかいの目で紫は阿求を見る。気恥ずかしそうに阿求は目線を逸らしながら返した。
「そうねぇ、博麗大結界が張られる様子は阿弥が生きてる時に見れたけど、妖怪の跋扈する世界に閉じ込められてこれからどうなるんだろうと思ったのでしょうね。それに書いてある通り」
「我唯足るを知る、ですわ。閉ざされたここでもし人食いが行われたなら、あっという間に人間が絶滅してしまう。人間が絶滅する時は妖怪の絶滅する時ですもの」
もっとも私は外の人間を攫って食していますけどね、とさらりととんでもないことを口にする。紫の能力は境界操作だ。不可能ではない。
しかしこれも脅しで言った嘘だろうと阿求は思う。現代の幻想郷ではこうしたことが常となっている。妖怪が人間を『本当に』襲えないために襲うポーズだけをとる。これに対し人間は妖怪を『本当に』退治することもなく退治するポーズだけをとる。殺し合いはごっこ遊びと化した。博麗大結界の成立以来、そういう平和な時代が到来したのだった。こうして阿求と紫が談笑することこそその象徴である。
「さて、次はどう書いてもらおうかしらね……」
ふいに紫が呟いた。幻想郷縁起のことである。彼女が阿求の元を訪ね資料交換の取引を持ちかけたのには、阿求がこれから書くであろう新しい幻想郷縁起の自分についての内容に口を出すためであった。
「もっと危険で強大な妖怪として書いてあげましょうか? その方が都合が良いのでしょう色々と」
阿求も彼女に干渉されることを承知の上で取引に応じた。彼女の持つ資料は魅力的に映ったし、この妖怪と接触することで妖怪社会の内情を知るチャンスだと考えたからだ。ギブアンドテイク。それが成り立つのもひとえに人間と妖怪の関係が穏やかになった今の幻想郷のおかげであるが。
「そうね、能力は多少水増しして……あと私の武勇伝なども、あ、月面戦争に関してはこの五代目の記述のように『逃げ帰った』だけじゃ格好悪いからその……」
紫があれこれ注文をつけ阿求が逐一応じて検討する。それは夕闇時から始まったが、気が付けば日付を跨ごうとしていた。魂はともかく身体は普通、いやそれよりやや虚弱な人間の少女である阿求には起きているのが辛く、続きは今度ということでお開きとなった。普段は能力を利用して突然現れては突然消え去る無作法な紫も今回は阿求に敬意を払い玄関から帰ることにした。その間際、紫は一つ質問した。
「貴方が蓄音機で聴かせてくれた円盤の最後の曲、あれはなんという曲かしら。とても気に入ったのだけれど」
「え? ……あぁあれね。幺樂団の『テーマ・オブ・イースタンストーリー』」
「懐かしいのに新しい風が吹いている……まるで今の幻想郷……ううん、なんでもない、今日はありがとうございますわ。ではまた」
「こちらこそ。あぁ、幺楽団を気に入られたのでしたら今度復活演奏会があるそうなので一緒にどうですか?」
紫は軽く頷いた後、闇の中へまぎれて姿を消した。彼女を見送った後、ふわぁと大きく欠伸をしながら阿求はのそのそと自分の寝室へ向かう。
「音楽は種族の垣根なんて越えてしまうのね。けどそれについて語り合えるようになったのは……成程本当にいい時代だわ」
(森近霖之助『香霖堂日誌』より)渡る歴史
事実は事実の形を保ったまま後世に記録されることはない。それは必ず歴史として、それを記したもののフィルターを介したものとなる。ゆえに事実は一つかもしれないが歴史は数多存在する。人はその中からもっとも事実に近いものを選択し、昔はこうだったと語るのだ。
僕がこうしてつけている日記もやがて一つの歴史を示すだろう。僕の目を通して描かれる過去の幻想郷。それを信じる信じないは読者に任せている。他の人が記した歴史と比較してあれこれ議論する、それこそが学問の起こりであり僕の目指す幻想郷の未来の姿だ。
ところで幻想郷には僕の他にもう二人歴史家が住んでいる。一人は上白沢慧音という半獣だ。人間の姿の時は歴史を消し、満月の夜に妖怪白沢に変身して歴史を創るという。そしてもう一人が稗田阿求、以前十一年の蝉のことでお世話になった稗田家の『御阿礼の子』の九代目その人である。
つい先日僕はその阿求から魔理沙への伝言を頼まれた。その内容とは「幻想郷縁起の訳文は今八雲紫の家にある」といったものだった。僕にはそれが不思議で仕方がなかった。妖怪の紫に稗田家の資料を渡したことについてではない。最近は妖怪相手にも資料を公開していると聞いているからだ。疑問はそちらではなく、どうしてそんなことを無関係な魔理沙に伝える必要があるのか、ということである。そんな僕の心の内を見透かしてか、彼女は仔細説明してくれた。
「――霧雨魔理沙さんが『幻想郷縁起』に興味を持っていたでしょう? 彼女の好奇心旺盛な性格は私よりも霖之助さんの方がよくご存じだと思います。そして同様に彼女の悪癖も」
彼女の悪癖とは即ち本泥棒のことだ。以前魔理沙に稗田家の資料について話した時に一応盗みを働かないように釘を刺しておいたが、依然彼女は諦めていないということか。
「別に見せる分には構わないのですが、借りたまま返してもらえないのは流石に困ります。だから私は彼女に伝えておきたいのです。『八雲紫に資料を渡した』と。そうすれば彼女はうちではなく紫さんの家へ行くというわけです」
「しかし雲を掴むかのようなあの八雲紫相手に盗みを働こうとしますかね? 効果がないかもしれませんよ」
「いえ、彼女は必ず紫さんの家を探すことを優先しますよ。彼女にとって『人里の中にある稗田家』へ行くことより『何処にあるのかわからない八雲家』へ行くことの方が難易度が易しいことですから。霧雨の旦那さんと魔理沙さんの間柄は貴方の方がよくご存じでしょう?」
僕はすっかり参らされてしまった。成程彼女は魔理沙の性格を熟知している。僕の方が魔理沙のことをよく知っているだって?そりゃあ彼女が生まれた時からの付き合いなのだから。では魔理沙とあまり面識のないにも関わらずここまで推察して見せたこの少女は何だ?僕は目の前の幼子に底知れぬ威圧感を感じ取った。
「なるほど、それで僕に伝言を頼んだというわけですね」
「はいそうです。実はもう一つ理由はあるのですが」
そう言うと阿求は好物の紅茶をずずずと飲み干して、どこか遠くの方を見つめた。空はちょうど黒に染まろうとしていた。
「もう一つは八雲紫の住居を探し当ててもらうためです。現在に至るまで彼女がどこに住んでいるのか不明なままでしたから。いえ、彼女の家を見つけたらどうこうしたいということではないです。ただ先代が知りえなかった事実を知り歴史に遺したい、言うなれば知的好奇心と自己顕示欲のためです」
紫の持つ貴重な文献と幻想郷縁起の語訳を交換する取引自体、このことへの布石であったと阿求は付け加えた。文語も読める紫にわざわざ口語の資料を渡したのは、つまり魔理沙が読むことを想定していたと。用意周到にもほどがある。僕はますますこの少女が怖くなった。
その一方で歴史家としての彼女をより身近に感じた。僕は稗田家の宿命で千二百年もの間転生を繰り返してきた彼女を人間離れした存在だと思っていた。それが知的好奇心と自己顕示欲のために歴史を書くだなんて人間味があるじゃあないか。彼女の内面に興味の湧いた僕はそこのところをもう少し突っ込んでみることにした。
「好奇心と顕示欲のためと仰いましたね……それはこの件に限らず幻想郷縁起の執筆全般におけるものなのですか? 実は僕もちょっとした日記を書きとめていまして、本を記すという行為について考えることがありまして……」
「はじめに謝っておきますがすみません、私自身よくわかっていないのです。今までは人間の安全のために妖怪についての知識を提供する、という明確な目的がありました……しかし九代目の私の時代には、ここで妖怪と人間が共生する平和な社会が築かれていたのです。やや、いい時代だとは思いますよ。ただそうなると私は一体誰の為に、何の目的で歴史を書くのか。とりあえず今は、自分が書きたいから書いている、という自己満足で書いているところが大きいのですが」
「そうなのですか。僕はそれでもいいと思いますが。自己満足というのも」
「それでいいのかなぁ……」
そう言って深いため息をついた少女の眼には僕の姿が映っていた。
チュンチュンと鳥の鳴く声が聞こえる。窓から朝日が差し込んで眩しい。結局昨夜稗田家を後にしてからというものの僕は寝ないで自分の書いた日記を読み返していた。僕は何の為に歴史を書くのか。それは冒頭に記したとおり幻想郷に学問を起こしたい、というのが一つだ。打算的なことを言うと自分の執筆した本を売って収入を得たい、というのもなきにしもあらず。そしてやはり、根源には「書きたいから書く」という嗜好も含まれていると阿求との話の中で確認した。
歴史を書く者には二種類のタイプがいる。それを仕事とする者と趣味とする者だ。上白沢慧音は前者だろう。彼女は里の者に歴史をはじめとした教育を施すことを生業としている。僕は勿論後者だが、ひょっとするとかつて前者であった阿求も後者へと近づいているんじゃないだろうか。もっとも彼女の場合新しい使命を見出すかもしれないが。
夜のお供にしていた紅茶が飲みかけですっかり冷めてしまっていた。そう言えば『御阿礼の子』は九代目になってからよく紅茶を飲むようになっていたな……幻想郷が新しい時代を迎えたとともに彼女にも変化が訪れているのか。自伝を著さない彼女の代わりに僕が彼女の歴史を書きとめるのも面白いだろう。彼女が自身の歴史を語った場合おそらく多少の食い違いが現れるだろうが構わない。歴史家の数だけ存在するからこそ歴史は面白いし、学問として成り立つのだから。
ガタッという音がして蓄音器が動きを止めた。さっきまで阿求から借りた音盤を聴いていたのだった。幺樂団というバンドの演奏会が収録されたものらしい。その中でもアンコールで演奏された『Peaceful Romancer』という曲が良かった。長い歴史のうねりを連想させるメロディである。日記をつける上で何かしらのインスピレーションを受けそうだ。魔理沙が家に来たら件の伝言を伝えた後、これを聴かせて感想を問うてみることにしよう。
幻想郷に怪隠しという妖怪がいた。夜になると何処からともなく現れて人を攫うと言われている。神出鬼没で掴みどころがない。怪しげな術に長けており、何人もの陰陽師や武者が退治しようとしたが逆に討ち取られた。恐ろしい妖怪である。
無数の目玉と腕を持っている化け物だが、人間の女性に化けることもあるという。見た目に騙されて命を失うものも多い。
昼には姿を現さない。また、冬の間この妖怪に襲われた者はいない。寒さに弱いと言われている。
古くは幻想郷縁起阿一著の妖怪録にも見られる。それほど長くを生きてきたため、知識も経験も豊富である。たかだか五十年を生きる人間では勝ち目がない。
物事の隙間と隙間を行き来する力がある。これを利用して突然里に現れ人間を遠い場所に連れて行って食べる。また妖怪であるが陰陽道に通じ、白面金毛九尾の狐を式神として従えている。都から来た陰陽師と式神対決をして一度も負けたことがないという。
今は昔のことだが湖に移った月に飛び込み月に攻め入ったことがある。しかし月の民に敗れ逃げ帰ったらしい。
近頃妖怪の力は弱まっているため、この妖怪は奇術を用い海の外の妖怪を呼び寄せようとしている。これは幻想郷に住む人間にとって困ることだ。かといってこれを退治するのは難しいため、人間は妖怪以上に数を増やすのが良いだろう。この妖怪と戦って無駄な死人を出すことだけは避けるべし。
(稗田阿弥『幻想郷縁起』口語訳より)隙間妖怪八雲紫
八雲紫は幻想郷の古参の妖怪である。昔は怪隠しと呼ばれた。夜になると何処からともなく現れ何処かへと消えていく。過去に多くの侍や術師を返り討ちにしてきた危険な妖怪である。神出鬼没でその正体は長年謎に包まれていた。しかし私の代になってこの妖怪の実態が少しずつ明らかになってきた。その理由は後に述べる。
・外見
人間の女性の姿をしている。道士の格好をしており、夜なのに日傘を差している。胡散臭い風貌のため人間の姿をしていると言えど人間との判別は容易い。
幻想郷縁起阿一著の妖怪録からそれらしき妖怪が載っているが、鎌倉時代の作とされる幻想郷縁起絵巻に描かれた図と烏山石燕の画と今とではまるで姿が違う。時代とともに外見を変えるのか、昔はこの妖怪に対する知識が乏しかったため想像で描かれたのか、私にはわからない。
・生態
妖怪らしく昼間に眠り夜に活動する。冬は冬眠しているという噂があるが、どうも本人が流しているものらしい。こちらを油断させようと嘘をついているかもしれない。しかし過去冬の間にこの妖怪が人を襲ったという記録はないのも事実だ。
幻想郷に古くから住んでいるようだが住居の場所は不明。後述する能力を使って隠しているようだ。
・能力
この妖怪は物事の境界を操ることができる。その力を使ってある場所から別の場所へと瞬く間に移動することができるという。手や首だけを移動させることもできる。知能は極めて高く点竄術(和算)の達人である。呪術や占術、占星術の知識も広く土御門の陰陽師に匹敵すると言われている。数百の式神を操っており、特に八雲藍(後述)という式神は最強の妖獣、白面金毛九尾の狐そのものであり、それだけ格の高い妖怪をも従える実力を持つ。
・対策、加えて大結界騒動に関すること
人間の手に余る大妖怪であるが、近頃この妖怪による被害は確認されていない。里に姿を現しても人間を襲うことはない。その理由については今幻想郷で起こっている騒動について詳しく記す必要があるだろう。
どうも妖怪たちの間で戦争が起こっているらしい。それもこの妖怪がしたある提案について是か非かを問う形で。その提案とはこの幻想郷を結界で覆い、鎖国をしようというものだ。そうして外の人間達から自分たち妖怪の身を守ろうというのがこの妖怪の主張であった。当然外との交流を断つことに反発を持つものが現れた。単にこの妖怪のことを嫌っているもの、争いに乗じて自身の勢力を少しでも広げようとするものもいた。この妖怪はそれらを相手にすることに追われていて人間を襲っている場合ではないのである。それはこの妖怪に限らず騒動に加わる妖怪全てがそうだ。
そのおかげで現在里は過去初めての平和が訪れている。妖怪たちの騒動が収拾したとき、再び人間は妖怪に怯えて暮らすことになるのだろうか。その鍵を握っているのがこの妖怪である。博麗の巫女はこの妖怪の提案に協力する代わりに人間たちの安全を保障するよう働きかけているが、こいつの企み通りになり幻想郷が結界で閉ざされると、再び妖怪たちが力をつけ人間を襲うのではないかと私は心配している。今はとかくこの束の間の平和が長引くことを祈っている。
話は逸れたが、この妖怪に関しての事情は過去と異なり、騒動によって妖怪社会で孤立したために人間に接近している。おかげで昔はわからなかった正体が少しづつだが明かされてきた。前述の通り長年の宿敵だった博麗の巫女と会談する姿が神社で目撃されている。万が一出くわしても、こちらから襲い掛からなければ襲われることはない。英国紳士のような態度で接することが肝心である。
「なるほどこれが歴代幻想郷縁起……私に関する記述はこれで全て、で間違いありませんね?」
「はい。今お見せしているのが五代目と八代目のもので、残りもここに用意してあります。と言っても四代目までは記述が少なく、六代目と七代目のものは五代目のものとほぼ同様でしたが」
畳の一室で、二人の少女が座して語らっていた。
文字が書かれた何枚かの紙を左手に持って目をやっている金髪の少女の方の名は八雲紫。ここ幻想郷で妖怪の大賢者をやっている。
温い紅茶が注がれたカップを右手に持って口をつけている紫髪の少女の方の名は稗田阿求。ここ幻想郷で人間の歴史家をやっている。
対極と言ってもいい立場にいる二人がこうして集っているのは奇妙な光景であった。
「しかしどうして訳が付いているのかしら。本当に本物かしら」
「これは上白沢慧音が訳したものですよ。彼女が授業に用いるために」
上白沢慧音とは人里に住む「もう一人の」歴史家である。妖怪ハクタクの血が混じっているが基本的に人間で稗田家との縁も深い。
「ならば彼女の寺子屋に混ざれば同様のものが入手できると?」
「えぇ、偽物の資料であれば。こちらは彼女が訳した時に創り変えた歴史を私が後程修正した『本物の』幻想郷縁起訳、ですよ」
そう言った阿求の顔は人間の幼子のものではなかった。そこにはただ千年以上に渡って幻想郷の歴史を纏めてきた大人物の姿があった。さりげなく含んだ自分の持つ歴史こそ正統であるという傲慢も、その貫禄によって傲慢ではなく当然だと思わせる。そんな彼女に感嘆したのか、紫はポン、ポンと拍手して言った、
「パーフェクト。それでは約束通り件の物を献上いたしますわ」
紫は自身の腹に空間の裂け目を作り、右手を突っ込んで何やらゴソゴソと探った後、本を三冊取り出して説明した。
一つは『吸血鬼条約』先の吸血鬼異変の全容が記されている。
一つは『本当は近い月の裏側』第一次月面戦争時に見た月の文明について書かれている。
一つは『コンピュータの彼岸』式神に関する奥義が載っている。
いずれも著者は八雲紫本人であった。差し出された三冊を受け取ると、阿求はそのうちの一冊をパラパラとめくり、手元の手紙、紫から宛てられたもの、と筆跡を比べた。一致。これと同じことを残りの二冊でも繰り返す。一致。一致。阿求は笑みを浮かべて言う。
「そちらも『本物』ですね」
「えぇ、『本物』ですわ」
紫もクスクスと笑いながら合わせた。二人はしばし怪しげに笑みを交わすと、阿求から先におふざけはおしまいだと言わんばかりにカップを盆の上に置き、両手を合わせて大きく伸びをした。
「まさか、こうして妖怪から参考文献を頂ける時代が来るなんてねぇ……ここ百年でこう変わっちゃうもんねぇ」
「いい時代でしょ。先代様は随分心配なされていたようですが」
からかいの目で紫は阿求を見る。気恥ずかしそうに阿求は目線を逸らしながら返した。
「そうねぇ、博麗大結界が張られる様子は阿弥が生きてる時に見れたけど、妖怪の跋扈する世界に閉じ込められてこれからどうなるんだろうと思ったのでしょうね。それに書いてある通り」
「我唯足るを知る、ですわ。閉ざされたここでもし人食いが行われたなら、あっという間に人間が絶滅してしまう。人間が絶滅する時は妖怪の絶滅する時ですもの」
もっとも私は外の人間を攫って食していますけどね、とさらりととんでもないことを口にする。紫の能力は境界操作だ。不可能ではない。
しかしこれも脅しで言った嘘だろうと阿求は思う。現代の幻想郷ではこうしたことが常となっている。妖怪が人間を『本当に』襲えないために襲うポーズだけをとる。これに対し人間は妖怪を『本当に』退治することもなく退治するポーズだけをとる。殺し合いはごっこ遊びと化した。博麗大結界の成立以来、そういう平和な時代が到来したのだった。こうして阿求と紫が談笑することこそその象徴である。
「さて、次はどう書いてもらおうかしらね……」
ふいに紫が呟いた。幻想郷縁起のことである。彼女が阿求の元を訪ね資料交換の取引を持ちかけたのには、阿求がこれから書くであろう新しい幻想郷縁起の自分についての内容に口を出すためであった。
「もっと危険で強大な妖怪として書いてあげましょうか? その方が都合が良いのでしょう色々と」
阿求も彼女に干渉されることを承知の上で取引に応じた。彼女の持つ資料は魅力的に映ったし、この妖怪と接触することで妖怪社会の内情を知るチャンスだと考えたからだ。ギブアンドテイク。それが成り立つのもひとえに人間と妖怪の関係が穏やかになった今の幻想郷のおかげであるが。
「そうね、能力は多少水増しして……あと私の武勇伝なども、あ、月面戦争に関してはこの五代目の記述のように『逃げ帰った』だけじゃ格好悪いからその……」
紫があれこれ注文をつけ阿求が逐一応じて検討する。それは夕闇時から始まったが、気が付けば日付を跨ごうとしていた。魂はともかく身体は普通、いやそれよりやや虚弱な人間の少女である阿求には起きているのが辛く、続きは今度ということでお開きとなった。普段は能力を利用して突然現れては突然消え去る無作法な紫も今回は阿求に敬意を払い玄関から帰ることにした。その間際、紫は一つ質問した。
「貴方が蓄音機で聴かせてくれた円盤の最後の曲、あれはなんという曲かしら。とても気に入ったのだけれど」
「え? ……あぁあれね。幺樂団の『テーマ・オブ・イースタンストーリー』」
「懐かしいのに新しい風が吹いている……まるで今の幻想郷……ううん、なんでもない、今日はありがとうございますわ。ではまた」
「こちらこそ。あぁ、幺楽団を気に入られたのでしたら今度復活演奏会があるそうなので一緒にどうですか?」
紫は軽く頷いた後、闇の中へまぎれて姿を消した。彼女を見送った後、ふわぁと大きく欠伸をしながら阿求はのそのそと自分の寝室へ向かう。
「音楽は種族の垣根なんて越えてしまうのね。けどそれについて語り合えるようになったのは……成程本当にいい時代だわ」
(森近霖之助『香霖堂日誌』より)渡る歴史
事実は事実の形を保ったまま後世に記録されることはない。それは必ず歴史として、それを記したもののフィルターを介したものとなる。ゆえに事実は一つかもしれないが歴史は数多存在する。人はその中からもっとも事実に近いものを選択し、昔はこうだったと語るのだ。
僕がこうしてつけている日記もやがて一つの歴史を示すだろう。僕の目を通して描かれる過去の幻想郷。それを信じる信じないは読者に任せている。他の人が記した歴史と比較してあれこれ議論する、それこそが学問の起こりであり僕の目指す幻想郷の未来の姿だ。
ところで幻想郷には僕の他にもう二人歴史家が住んでいる。一人は上白沢慧音という半獣だ。人間の姿の時は歴史を消し、満月の夜に妖怪白沢に変身して歴史を創るという。そしてもう一人が稗田阿求、以前十一年の蝉のことでお世話になった稗田家の『御阿礼の子』の九代目その人である。
つい先日僕はその阿求から魔理沙への伝言を頼まれた。その内容とは「幻想郷縁起の訳文は今八雲紫の家にある」といったものだった。僕にはそれが不思議で仕方がなかった。妖怪の紫に稗田家の資料を渡したことについてではない。最近は妖怪相手にも資料を公開していると聞いているからだ。疑問はそちらではなく、どうしてそんなことを無関係な魔理沙に伝える必要があるのか、ということである。そんな僕の心の内を見透かしてか、彼女は仔細説明してくれた。
「――霧雨魔理沙さんが『幻想郷縁起』に興味を持っていたでしょう? 彼女の好奇心旺盛な性格は私よりも霖之助さんの方がよくご存じだと思います。そして同様に彼女の悪癖も」
彼女の悪癖とは即ち本泥棒のことだ。以前魔理沙に稗田家の資料について話した時に一応盗みを働かないように釘を刺しておいたが、依然彼女は諦めていないということか。
「別に見せる分には構わないのですが、借りたまま返してもらえないのは流石に困ります。だから私は彼女に伝えておきたいのです。『八雲紫に資料を渡した』と。そうすれば彼女はうちではなく紫さんの家へ行くというわけです」
「しかし雲を掴むかのようなあの八雲紫相手に盗みを働こうとしますかね? 効果がないかもしれませんよ」
「いえ、彼女は必ず紫さんの家を探すことを優先しますよ。彼女にとって『人里の中にある稗田家』へ行くことより『何処にあるのかわからない八雲家』へ行くことの方が難易度が易しいことですから。霧雨の旦那さんと魔理沙さんの間柄は貴方の方がよくご存じでしょう?」
僕はすっかり参らされてしまった。成程彼女は魔理沙の性格を熟知している。僕の方が魔理沙のことをよく知っているだって?そりゃあ彼女が生まれた時からの付き合いなのだから。では魔理沙とあまり面識のないにも関わらずここまで推察して見せたこの少女は何だ?僕は目の前の幼子に底知れぬ威圧感を感じ取った。
「なるほど、それで僕に伝言を頼んだというわけですね」
「はいそうです。実はもう一つ理由はあるのですが」
そう言うと阿求は好物の紅茶をずずずと飲み干して、どこか遠くの方を見つめた。空はちょうど黒に染まろうとしていた。
「もう一つは八雲紫の住居を探し当ててもらうためです。現在に至るまで彼女がどこに住んでいるのか不明なままでしたから。いえ、彼女の家を見つけたらどうこうしたいということではないです。ただ先代が知りえなかった事実を知り歴史に遺したい、言うなれば知的好奇心と自己顕示欲のためです」
紫の持つ貴重な文献と幻想郷縁起の語訳を交換する取引自体、このことへの布石であったと阿求は付け加えた。文語も読める紫にわざわざ口語の資料を渡したのは、つまり魔理沙が読むことを想定していたと。用意周到にもほどがある。僕はますますこの少女が怖くなった。
その一方で歴史家としての彼女をより身近に感じた。僕は稗田家の宿命で千二百年もの間転生を繰り返してきた彼女を人間離れした存在だと思っていた。それが知的好奇心と自己顕示欲のために歴史を書くだなんて人間味があるじゃあないか。彼女の内面に興味の湧いた僕はそこのところをもう少し突っ込んでみることにした。
「好奇心と顕示欲のためと仰いましたね……それはこの件に限らず幻想郷縁起の執筆全般におけるものなのですか? 実は僕もちょっとした日記を書きとめていまして、本を記すという行為について考えることがありまして……」
「はじめに謝っておきますがすみません、私自身よくわかっていないのです。今までは人間の安全のために妖怪についての知識を提供する、という明確な目的がありました……しかし九代目の私の時代には、ここで妖怪と人間が共生する平和な社会が築かれていたのです。やや、いい時代だとは思いますよ。ただそうなると私は一体誰の為に、何の目的で歴史を書くのか。とりあえず今は、自分が書きたいから書いている、という自己満足で書いているところが大きいのですが」
「そうなのですか。僕はそれでもいいと思いますが。自己満足というのも」
「それでいいのかなぁ……」
そう言って深いため息をついた少女の眼には僕の姿が映っていた。
チュンチュンと鳥の鳴く声が聞こえる。窓から朝日が差し込んで眩しい。結局昨夜稗田家を後にしてからというものの僕は寝ないで自分の書いた日記を読み返していた。僕は何の為に歴史を書くのか。それは冒頭に記したとおり幻想郷に学問を起こしたい、というのが一つだ。打算的なことを言うと自分の執筆した本を売って収入を得たい、というのもなきにしもあらず。そしてやはり、根源には「書きたいから書く」という嗜好も含まれていると阿求との話の中で確認した。
歴史を書く者には二種類のタイプがいる。それを仕事とする者と趣味とする者だ。上白沢慧音は前者だろう。彼女は里の者に歴史をはじめとした教育を施すことを生業としている。僕は勿論後者だが、ひょっとするとかつて前者であった阿求も後者へと近づいているんじゃないだろうか。もっとも彼女の場合新しい使命を見出すかもしれないが。
夜のお供にしていた紅茶が飲みかけですっかり冷めてしまっていた。そう言えば『御阿礼の子』は九代目になってからよく紅茶を飲むようになっていたな……幻想郷が新しい時代を迎えたとともに彼女にも変化が訪れているのか。自伝を著さない彼女の代わりに僕が彼女の歴史を書きとめるのも面白いだろう。彼女が自身の歴史を語った場合おそらく多少の食い違いが現れるだろうが構わない。歴史家の数だけ存在するからこそ歴史は面白いし、学問として成り立つのだから。
ガタッという音がして蓄音器が動きを止めた。さっきまで阿求から借りた音盤を聴いていたのだった。幺樂団というバンドの演奏会が収録されたものらしい。その中でもアンコールで演奏された『Peaceful Romancer』という曲が良かった。長い歴史のうねりを連想させるメロディである。日記をつける上で何かしらのインスピレーションを受けそうだ。魔理沙が家に来たら件の伝言を伝えた後、これを聴かせて感想を問うてみることにしよう。
書く側も主観によって解釈が異なり、読み手も解釈が異なっていく
一つの情報から際限のない解釈が生まれてくる
なんとなく読みにくい気がするのは、捻くれた店主の一人称だからでは無いでしょうか。