我輩は鼠である。名前はトレイン。我らがご主人様、賢将ナズーリンが名付けてくれた。外界の流行歌から取ったそうだ。題名とダンスが我々にぴったりらしい。正直そのネーミングはきついと思ったが、彼女のドロワーズと美脚に免じて許すことにした。木綿地の白から薄口装飾のレース、軽い拘束具のようなゴム部(ここを見られるのは小さな鼠の特権だ!)、締め付けを脱した腿への変化具合がたまらない。毘沙門天様の授け給うた、可憐な曲線だ。
あ、ちなみに我輩は変態でも少数派でもない。我ら子鼠は個にして群、皆同意見である。一匹がいやっふーと叫べば全員がイヤッホォォォゥ! と合唱する。ご主人様や一般人には、チュウとしか聴こえないのだろうが。不満はない。堂々と内緒話ができる。
なお我々の一番の仕事は、ご主人様の監視である。
寅丸星を見張っている、ナズーリン様を見張るのだ。万に一つも過ちがないようにと、毘沙門天様に命じられた。ミイラ取りがミイラ、ネズミ取りがネズミ。様々な事態を、上の方は想定しているのだろう。大丈夫だ。虎はともかく、ご主人様はしっかりしている。絶対にそんな失敗はない。現に平穏過ぎて、彼女の靴下の編み目を数えてしまうくらいだ。
おみ足に密着していたら、ほんのりカカオの香りがした。禁欲の寺では珍しい。これはあれか、あの季節の到来か。部屋の暦を見上げ、仲間達と頷き合った。親友鼠の根津が、髭を波打たせた。
『異邦の愛の祭りであるな、トレインよ』
『だな。今年はどのくらい貰えるか』
バレンタイン。女性がチョコレートで愛情表現をする、甘い祝日。
聖白蓮は毎年、我らにキスチョコをくれる。手作りだ。余りもののチョコチップではない。
雲居一輪と村紗水蜜は、連名でお疲れ様ブラウニーをくれる。聖に可愛がってもらえる日だからか、気前がいい。
封獣ぬえは、原材料不明のトリュフをくれる。我々が完食するまで、目を離してくれない。昨年は食後数時間、全員意識がトリップした。
寅丸星は、手の込んだものをくれる。何層にもなった珈琲チョコケーキだの、焼き加減の完璧なスフレだの。ご主人様に素直に驚かれて、凝り性なんですよーと照れている。むかつく羨ましい。もう一遍宝塔落とせ。でも美味しいから泣ける。
唐傘娘や新入りの山彦、狸も何かくれるかもしれない。
彼女達の菓子はもちろん嬉しい。しかし我らの真の目当ては、ナズーリン様のチョコレートだ。彼女は我輩達のために、いちいち甘味など用意しない。失敗作や切れ端を寄越す程度だ。だがそこがいい。稀少価値がある。豆一粒にも満たない欠片に、ご主人様の温もりを、指の辿った跡を、息遣いを見出すのだ! イヤッホォォォゥ!
「何だ。今夜は騒がしいな、お前達」
我輩の隣の根津が、ご主人様に持ち上げられた。尻尾を摘まれ、宙吊りになっている。憎らしい、許すまじ。ナズーリン様に触られやがって。もしかしたら自分だったかもしれないのに。批難の視線が、数百数千と集まった。根津は申し訳なさそうに大喜びしている。
『すまな、恵まれてすまなかったのである。ああご主人様の切りたての爪の感触がごめんなさい。こ、今年のチョコは当方少なめでいいからトレイン助けて』
『まだ貰う気でいたのか前歯抜けろ、いや融けろ』
友情とはかくも儚いものである。純朴なご主人様は、野良猫でもいたのか? と首を傾げている。根津の瞳には今、彼女の喉元という名の財宝が映っていることだろう。鼠の背丈では滅多に見られない奇跡だ。悔しいくたばれ。
室内に充満していく殺意を、来訪者が退けた。
「ナズーリン、台所空きましたよ」
ご主人様のご主人様、寅丸星だ。ひよこ色の幼稚なエプロンを装備している。ナズーリン様は、そうかと一言。根津を放って立ち上がった。監視兼調理の手伝いに行くのだ。
「お前達、留守を頼む。静かにな」
食べ物を扱う場には、獣は厳禁。厨房前の扉も閉まる。いつものことだからわかっている。けれども我々には任務があり、手段がある。いついかなるときも、ご主人様を放置してはいけない。あんな彼女やこんな彼女を、見逃すかもしれないじゃないか。寝ている場合ではないぞ根津。
『A班は天井裏、B班は床下、C班はパイプから回り込め!』
『会話は即時報告せよ。警戒を怠るな』
『急げ、チョコは燃えているのである』
『ワンフォーナズ、オールフォーナズ!』
見返りなど求めない。我輩達はただ、ナズーリン様の日常を愛するのみ。あと、誰かが彼女とときめいたら呪う。
C班が化け狸に捕獲されたり(『チョコフォンデュになっちゃうー!』が最後の通信だった)、B班が山彦の箒に掃かれたり(元気に場外ホームラン)。数多の犠牲を払いながら、我々は密かに進んだ。何も知らない虎妖怪が恨めしい。笑顔で当然のように、ご主人様の隣を歩んで。頭が高い背も高い。
「しかしな。ご主人様にも渡すものを、ご主人様と共同で作るのは」
「難しく考えなくていいんですよ、お祭りです。それに私、ナズーリンの料理姿好きですから」
「危なっかしくてご教授したくなる?」
「もう、なんでそう悪く取りますか。本当なのに」
何故我輩には弾が撃てないのだろう。あの天然上司もどきだけを、正確に狙撃できるのに。さらりといいこと言って、宝塔どころかご主人様の心まで落とす気か。A班後列を見遣れば、皆口々に不満を囁いていた。
『スペルカード欲しいスペルカード欲しいスペルカード欲しい』
同感だ根津よ。さり気なく彼女の肩に置かれた、左手を撃墜しようではないか。ご主人様は部下の立場があるから、強引に拒めないでいるのだ。きっと。
「身体、冷えてますね。あったかくして眠るんですよ」
「そうしている。君の体温が高いんだ、んむ」
……きっと?
我ら鼠々トレインは、戸惑いに包まれた。
『ナズーリン様が抱擁一歩手前の行為を排除しない?』
『虎か、虎が怪力なのか』
『ありえん。あれは優しさと生真面目の塊。新参の入れ知恵ではないのか』
『狸が化けている可能性は零である。C班が既に遭遇しているのである』
ではもしや、
『かの鉄壁のご主人様が、心底惚れた? 役割も忘れて?』
『待て、真実を掴まれて無邪気に脅されているのではないか。あやつは聖の門下、やるときにはやらかすのが伝統』
『聞こえないのである。全ては憶測、妄想の範囲内なのである』
意見が三つに割れた。我輩としては根津に同意したい。空想の世界なら何でもできる。
動揺する鼠一同に気付かず、二人は調理室に消えていく。慌てて天井の近道を抜けた。
柑橘の皮の甘酸っぱい匂いに、大人のカカオが絡まる。ピールチョコレート作りだ。芯になる砂糖柚子は、既に寅丸星が完成させていた。
ご主人様はせっせとブラックチョコを刻み、虎は湯煎の支度。完全に別行動だ、さっきのはどうってことないって。安堵の溜息が漏れたかと思いきや、
「準備できましたよ。ボウルの上にチョコレートの器を」
「ぬるくないかい? 半端にならないかな」
「これでも熱いくらいです。行きますよ」
「わ、あ、ご主人様、私ひとりでも」
「牛乳入れるところまでは一緒に。半端にならないように」
彼女の背中に、親切上司が覆い被さった。へらを持つ手に右手を添えて、何このあっまい共同作業。二人羽織か。熱くとろける眼下と反対に、我々は固まっていった。見ていられないからと、脱落する者も現れる。道に隙間ができて、厨房内が一層鮮明になった。
『夢なのである。当方は信じない』
『生きろ根津、悲しいが現実だ』
ご主人様は、妖虎に気を許している。明らかに、和やかに。
『何故こうなってしまったのだ』
『それを解き明かすのが我輩達の責務。知らなければなるまい。散っていったB班とC班のためにも』
我輩は根津と尻尾を繋いだ。友情とは、かくも気高いものである。
見よ、聞け。我らに応えるように、状況が動いている。
たまに、さびしいです。小声で寅丸が零した。
「ナズーリンが、べたべたするのは嫌いってわかってるんですけど。今日で、一年なのに。私が勇気を振り絞ってから」
一年? 皆の髭先がざわついた。一年前に何があったのかと、揃って記憶をひっくり返した。いっせーの、
『ぬえ』
『ぬえトリュフ』
『ぬえトリップ。全員ばったりであった』
あいつかあああああぁ! と、暴れたくなるのを抑えた。我々が仲良く旅立っている間に、二人は仲良く。もう取り戻せない時間だ。
いかにして、金髪虎は我らが賢将の特別になったのか。少しでも答えを得ようと、耳を澄ませた。
「ごめん。向いていないんだ、きっと。照れだよ、うん。君はいいひとなんだ、器用だし。でも私は」
半透明の紙に、チョコを纏ったピールが並んでいく。寅丸製の均一で綺麗なものと、ご主人様製のむらのあるもの。自信がないのか、端は焦げ茶に染まっていない。鞘のない刃のように、鋭く光っている。
しもべの我輩達には解る。ナズーリン様は、困っているのだ。言えなくて。
『親しくなり過ぎたら、危ういのである。ご主人様も、仮の主の奴も』
ならば断わればよかったのに、彼女は受け入れた。それだけ虎娘が真剣で愛情深くて、
「貴方こそ器用ですよ。内側の柚子色が映えます」
「う。そうではなく、」
「はい。ちょっと、欲張っちゃいました。貴方にも、大事にしたい気持ちがあるのに。多分たくさん、色々」
「ご主人様」
「できるときで、いいですよ。苦手なことなのに、貴方が一歩をくれた。私のために、迷ってくれている。それが、すごく幸せなんです」
いいひと、なのだろう。返答の節々に、真心が溢れている。ほんの少しのおねだりも、正直に。器のでかい獣だ。
我ら子鼠は個にして群、一様に感嘆していた。ナズーリン様は役割を忘れず、脅されず、願って彼女といる。あの妖怪になら、任せてもいいのではないだろうか。恋だ。祭りだ。
『花嫁を見送る親の心地である』
『我輩と涙しよう、祝福しよう。完敗だ』
台所ではライスシャワーではなく、ココアパウダーが舞っている。菓子の仕上げだ。
清々しくも甘口な空気の中、ご主人様が寅丸お嬢に声をかけた。粉ついてるよ、と。
「どのへんですか」
「屈んで」
我々の祝賀ムード、最高潮。
ナズーリン様が、恋人の頬にバレンタイン的最後の手段を決めた。イヤッホォォォゥ!
負けた。実にいい、主のためになる敗北だった。
◆◆◇
はしゃぎ過ぎたようだ。退散する前に、ばれた。
「留守番を頼んだのに。そんなに叱られたいか」
「ナズーリンのことが心配だったのでしょう、どれ」
ちゅう。ちゅう。寅丸お嬢が、鼠の鳴き真似をした。
「はは、通じないよご主人様。私でさえ理解できないんだ」
「ですよね、チュウ」
炊事場の上方で、我輩達は震えていた。
伝わっていたのだ、非常に立派に。
『喜びに水を差すようで悪いのですが。このままわからない振りをするのは、もっと悪い気がしまして。仏教の神様って耳がいいみたいです。代理でも。鹿への説法が仏様の始まりですから』
幻想郷に入ってから、彼女は段々と聞き取れるようになったそうだ。無駄話からご主人様トーク、重要な事柄に至るまで。
『つまり当方、各々がやっちまったのであるか』
『ば、馬鹿か根津、それ以上話すな』
『手遅れです、やっちまっています』
されどお嬢は、毘沙門天様には黙っているという。ナズーリン様と離れたくないから。どんな存在であっても、苦くて甘い彼女が大好きだから。決意表明に、鼠団はじんわり同意した。慄きは称賛に変わった。やっぱり寅丸様は器が違うぜと。
『でも、ナズーリンに教えないかどうかは別問題です』
『はい?』
『重たくない部分だけ、うっかり喋っちゃうかもしれません』
ドロワーズの色や質感、石鹸を交換した時期、ご褒美のような寝言等々。
『真偽はナズーリンが判断するでしょう。どのように明かすかは私の口次第ですが』
ちんまい脳で考えてみた。
ナズーリン今日は素敵なガーターなんですね! レアです! →こんな言い方はしない。寅丸様が嫌われる。
ナズーリン、昨夜お部屋で泣いてましたか? 猫来ないでーって。ああ、貴方の鼠に伺ったんです。 →近いけど違うような。
あのナズーリン。最近私、鼠達の会話がわかるみたいなんです。所々ですけど。うう、嘘じゃありませんよ。例えば、流しの白菜を摘み食いしたこととか…… →これだ。確実に正しいとばれる。そして我輩の危機。
『まずいのである』
『寅丸様、ど、どうすれば』
『かしこまらないで。虎や天然上司もどきでいいですよ。だから、仲良くしましょう。ナズーリンを好きな者同士、礼儀をわきまえて』
下着に潜ったり、無断で靴下を拝借したりするのはイラっとしますようふふ。
言外に、野獣の忠告を感じ取った。守らないと終わる。我輩の馬鹿。こいつどこが天然だ。喰われる。ご主人様もピンチ。気を付けて、隣はけだもの!
「いい加減ひとの言葉に戻ってくれ、ご主人様。何か収穫でも?」
「まさか。チョコは雪倉で冷やして、お茶にしましょうか。ナズーリン、お湯をお願いします」
ひよこエプロンの恐怖は、とりあえず去ろうとしていた。灰色エプロンのご主人様が、数本ピールチョコを抜いた。
「お茶菓子と、私の一応可愛い従者に」
うわあナズーリン様逃げて、今のうち。甘いものは後でいいですから! 我々の焦りは、彼女には届かない。
我輩達を見上げて、ご主人様は柚子チョコの棒を振っている。笑いながら。
それから、細くチュウと一鳴きした。寅丸様の声音のように、時折高低を織り交ぜて。
びっくりした。
『なるほど、難しいなこれは。ご主人様の模倣で何とか。しかしお前達の返事がさっぱりだ』
初めての、ナズーリン様の鼠語だった。彼女は一方的に、ゆっくり語った。
『ご主人様が、お前達に何を言ったのかは大体掴めた。大した狸、いや虎だよ。察してはいたが、真っ黒だ』
それでこそ、舞台に据えた価値があるというもの。私の生涯の相方。ご主人様は、満足そうに両耳を揺らした。
『悪人ほどの善人はなく、嘘吐きほどの正直者もいない。やってはいけないことを、覚っているからな。あれはそういう類の聖者だ。好ましいよ、ひととしても。怖い獣じゃない、心配はない』
私の方が上手だ。安心しろ。賢将の笑みは、ひよこタイガーよりも頼もしかった。我ら鼠々トレインは、ご主人様に喝采を贈った。ココアの風が、酒のように興奮を誘っている。早く食べたい。
『神様仏様ナズーリン様、一生ついていきます』
『十二支的にもあれなのである。虎は鼠に敵わない。届くものか』
だが、そこでふと思い至った。
『根津よ。もしもご主人様の鼠語が、寅丸様に届いていたら?』
一瞬、天井裏が静まり返った。本音の戦いの開幕か、穏やかな破局か。チョコレートの膜の如く、仮面が剥がれるのか。
答えの足音が近付いた。一歩二歩、帰ってくる。息と髭を呑んだ。
正解は、
『通じていなかったか』
『わからん』
『無言である。微笑である。二人とも』
ご主人様はご主人様らしく、棘を秘めてうっすらと。寅丸様は寅丸様らしく、白黒の真ん中で。
彼女達はそうやって、優しく仲良くやっちまうのだろう。うっかりと、時々残酷に。そんな、温かい予感がした。
『幸せなら、構わんのである』
『だな。行こうや相棒、A班。チョコが溶ける』
折角ご主人様が、取っておいてくれたのに。
本物に最も近いのは、双方に触れた我々に違いない。つまり、
『当方の快勝である!』
大逆転、ハッピーバレンタイン。
チョコレートに酔って、監視の鼠々トレインが走る。汽笛はもちろん、
『イヤッホォォォゥ!』
あ、ちなみに我輩は変態でも少数派でもない。我ら子鼠は個にして群、皆同意見である。一匹がいやっふーと叫べば全員がイヤッホォォォゥ! と合唱する。ご主人様や一般人には、チュウとしか聴こえないのだろうが。不満はない。堂々と内緒話ができる。
なお我々の一番の仕事は、ご主人様の監視である。
寅丸星を見張っている、ナズーリン様を見張るのだ。万に一つも過ちがないようにと、毘沙門天様に命じられた。ミイラ取りがミイラ、ネズミ取りがネズミ。様々な事態を、上の方は想定しているのだろう。大丈夫だ。虎はともかく、ご主人様はしっかりしている。絶対にそんな失敗はない。現に平穏過ぎて、彼女の靴下の編み目を数えてしまうくらいだ。
おみ足に密着していたら、ほんのりカカオの香りがした。禁欲の寺では珍しい。これはあれか、あの季節の到来か。部屋の暦を見上げ、仲間達と頷き合った。親友鼠の根津が、髭を波打たせた。
『異邦の愛の祭りであるな、トレインよ』
『だな。今年はどのくらい貰えるか』
バレンタイン。女性がチョコレートで愛情表現をする、甘い祝日。
聖白蓮は毎年、我らにキスチョコをくれる。手作りだ。余りもののチョコチップではない。
雲居一輪と村紗水蜜は、連名でお疲れ様ブラウニーをくれる。聖に可愛がってもらえる日だからか、気前がいい。
封獣ぬえは、原材料不明のトリュフをくれる。我々が完食するまで、目を離してくれない。昨年は食後数時間、全員意識がトリップした。
寅丸星は、手の込んだものをくれる。何層にもなった珈琲チョコケーキだの、焼き加減の完璧なスフレだの。ご主人様に素直に驚かれて、凝り性なんですよーと照れている。むかつく羨ましい。もう一遍宝塔落とせ。でも美味しいから泣ける。
唐傘娘や新入りの山彦、狸も何かくれるかもしれない。
彼女達の菓子はもちろん嬉しい。しかし我らの真の目当ては、ナズーリン様のチョコレートだ。彼女は我輩達のために、いちいち甘味など用意しない。失敗作や切れ端を寄越す程度だ。だがそこがいい。稀少価値がある。豆一粒にも満たない欠片に、ご主人様の温もりを、指の辿った跡を、息遣いを見出すのだ! イヤッホォォォゥ!
「何だ。今夜は騒がしいな、お前達」
我輩の隣の根津が、ご主人様に持ち上げられた。尻尾を摘まれ、宙吊りになっている。憎らしい、許すまじ。ナズーリン様に触られやがって。もしかしたら自分だったかもしれないのに。批難の視線が、数百数千と集まった。根津は申し訳なさそうに大喜びしている。
『すまな、恵まれてすまなかったのである。ああご主人様の切りたての爪の感触がごめんなさい。こ、今年のチョコは当方少なめでいいからトレイン助けて』
『まだ貰う気でいたのか前歯抜けろ、いや融けろ』
友情とはかくも儚いものである。純朴なご主人様は、野良猫でもいたのか? と首を傾げている。根津の瞳には今、彼女の喉元という名の財宝が映っていることだろう。鼠の背丈では滅多に見られない奇跡だ。悔しいくたばれ。
室内に充満していく殺意を、来訪者が退けた。
「ナズーリン、台所空きましたよ」
ご主人様のご主人様、寅丸星だ。ひよこ色の幼稚なエプロンを装備している。ナズーリン様は、そうかと一言。根津を放って立ち上がった。監視兼調理の手伝いに行くのだ。
「お前達、留守を頼む。静かにな」
食べ物を扱う場には、獣は厳禁。厨房前の扉も閉まる。いつものことだからわかっている。けれども我々には任務があり、手段がある。いついかなるときも、ご主人様を放置してはいけない。あんな彼女やこんな彼女を、見逃すかもしれないじゃないか。寝ている場合ではないぞ根津。
『A班は天井裏、B班は床下、C班はパイプから回り込め!』
『会話は即時報告せよ。警戒を怠るな』
『急げ、チョコは燃えているのである』
『ワンフォーナズ、オールフォーナズ!』
見返りなど求めない。我輩達はただ、ナズーリン様の日常を愛するのみ。あと、誰かが彼女とときめいたら呪う。
C班が化け狸に捕獲されたり(『チョコフォンデュになっちゃうー!』が最後の通信だった)、B班が山彦の箒に掃かれたり(元気に場外ホームラン)。数多の犠牲を払いながら、我々は密かに進んだ。何も知らない虎妖怪が恨めしい。笑顔で当然のように、ご主人様の隣を歩んで。頭が高い背も高い。
「しかしな。ご主人様にも渡すものを、ご主人様と共同で作るのは」
「難しく考えなくていいんですよ、お祭りです。それに私、ナズーリンの料理姿好きですから」
「危なっかしくてご教授したくなる?」
「もう、なんでそう悪く取りますか。本当なのに」
何故我輩には弾が撃てないのだろう。あの天然上司もどきだけを、正確に狙撃できるのに。さらりといいこと言って、宝塔どころかご主人様の心まで落とす気か。A班後列を見遣れば、皆口々に不満を囁いていた。
『スペルカード欲しいスペルカード欲しいスペルカード欲しい』
同感だ根津よ。さり気なく彼女の肩に置かれた、左手を撃墜しようではないか。ご主人様は部下の立場があるから、強引に拒めないでいるのだ。きっと。
「身体、冷えてますね。あったかくして眠るんですよ」
「そうしている。君の体温が高いんだ、んむ」
……きっと?
我ら鼠々トレインは、戸惑いに包まれた。
『ナズーリン様が抱擁一歩手前の行為を排除しない?』
『虎か、虎が怪力なのか』
『ありえん。あれは優しさと生真面目の塊。新参の入れ知恵ではないのか』
『狸が化けている可能性は零である。C班が既に遭遇しているのである』
ではもしや、
『かの鉄壁のご主人様が、心底惚れた? 役割も忘れて?』
『待て、真実を掴まれて無邪気に脅されているのではないか。あやつは聖の門下、やるときにはやらかすのが伝統』
『聞こえないのである。全ては憶測、妄想の範囲内なのである』
意見が三つに割れた。我輩としては根津に同意したい。空想の世界なら何でもできる。
動揺する鼠一同に気付かず、二人は調理室に消えていく。慌てて天井の近道を抜けた。
柑橘の皮の甘酸っぱい匂いに、大人のカカオが絡まる。ピールチョコレート作りだ。芯になる砂糖柚子は、既に寅丸星が完成させていた。
ご主人様はせっせとブラックチョコを刻み、虎は湯煎の支度。完全に別行動だ、さっきのはどうってことないって。安堵の溜息が漏れたかと思いきや、
「準備できましたよ。ボウルの上にチョコレートの器を」
「ぬるくないかい? 半端にならないかな」
「これでも熱いくらいです。行きますよ」
「わ、あ、ご主人様、私ひとりでも」
「牛乳入れるところまでは一緒に。半端にならないように」
彼女の背中に、親切上司が覆い被さった。へらを持つ手に右手を添えて、何このあっまい共同作業。二人羽織か。熱くとろける眼下と反対に、我々は固まっていった。見ていられないからと、脱落する者も現れる。道に隙間ができて、厨房内が一層鮮明になった。
『夢なのである。当方は信じない』
『生きろ根津、悲しいが現実だ』
ご主人様は、妖虎に気を許している。明らかに、和やかに。
『何故こうなってしまったのだ』
『それを解き明かすのが我輩達の責務。知らなければなるまい。散っていったB班とC班のためにも』
我輩は根津と尻尾を繋いだ。友情とは、かくも気高いものである。
見よ、聞け。我らに応えるように、状況が動いている。
たまに、さびしいです。小声で寅丸が零した。
「ナズーリンが、べたべたするのは嫌いってわかってるんですけど。今日で、一年なのに。私が勇気を振り絞ってから」
一年? 皆の髭先がざわついた。一年前に何があったのかと、揃って記憶をひっくり返した。いっせーの、
『ぬえ』
『ぬえトリュフ』
『ぬえトリップ。全員ばったりであった』
あいつかあああああぁ! と、暴れたくなるのを抑えた。我々が仲良く旅立っている間に、二人は仲良く。もう取り戻せない時間だ。
いかにして、金髪虎は我らが賢将の特別になったのか。少しでも答えを得ようと、耳を澄ませた。
「ごめん。向いていないんだ、きっと。照れだよ、うん。君はいいひとなんだ、器用だし。でも私は」
半透明の紙に、チョコを纏ったピールが並んでいく。寅丸製の均一で綺麗なものと、ご主人様製のむらのあるもの。自信がないのか、端は焦げ茶に染まっていない。鞘のない刃のように、鋭く光っている。
しもべの我輩達には解る。ナズーリン様は、困っているのだ。言えなくて。
『親しくなり過ぎたら、危ういのである。ご主人様も、仮の主の奴も』
ならば断わればよかったのに、彼女は受け入れた。それだけ虎娘が真剣で愛情深くて、
「貴方こそ器用ですよ。内側の柚子色が映えます」
「う。そうではなく、」
「はい。ちょっと、欲張っちゃいました。貴方にも、大事にしたい気持ちがあるのに。多分たくさん、色々」
「ご主人様」
「できるときで、いいですよ。苦手なことなのに、貴方が一歩をくれた。私のために、迷ってくれている。それが、すごく幸せなんです」
いいひと、なのだろう。返答の節々に、真心が溢れている。ほんの少しのおねだりも、正直に。器のでかい獣だ。
我ら子鼠は個にして群、一様に感嘆していた。ナズーリン様は役割を忘れず、脅されず、願って彼女といる。あの妖怪になら、任せてもいいのではないだろうか。恋だ。祭りだ。
『花嫁を見送る親の心地である』
『我輩と涙しよう、祝福しよう。完敗だ』
台所ではライスシャワーではなく、ココアパウダーが舞っている。菓子の仕上げだ。
清々しくも甘口な空気の中、ご主人様が寅丸お嬢に声をかけた。粉ついてるよ、と。
「どのへんですか」
「屈んで」
我々の祝賀ムード、最高潮。
ナズーリン様が、恋人の頬にバレンタイン的最後の手段を決めた。イヤッホォォォゥ!
負けた。実にいい、主のためになる敗北だった。
◆◆◇
はしゃぎ過ぎたようだ。退散する前に、ばれた。
「留守番を頼んだのに。そんなに叱られたいか」
「ナズーリンのことが心配だったのでしょう、どれ」
ちゅう。ちゅう。寅丸お嬢が、鼠の鳴き真似をした。
「はは、通じないよご主人様。私でさえ理解できないんだ」
「ですよね、チュウ」
炊事場の上方で、我輩達は震えていた。
伝わっていたのだ、非常に立派に。
『喜びに水を差すようで悪いのですが。このままわからない振りをするのは、もっと悪い気がしまして。仏教の神様って耳がいいみたいです。代理でも。鹿への説法が仏様の始まりですから』
幻想郷に入ってから、彼女は段々と聞き取れるようになったそうだ。無駄話からご主人様トーク、重要な事柄に至るまで。
『つまり当方、各々がやっちまったのであるか』
『ば、馬鹿か根津、それ以上話すな』
『手遅れです、やっちまっています』
されどお嬢は、毘沙門天様には黙っているという。ナズーリン様と離れたくないから。どんな存在であっても、苦くて甘い彼女が大好きだから。決意表明に、鼠団はじんわり同意した。慄きは称賛に変わった。やっぱり寅丸様は器が違うぜと。
『でも、ナズーリンに教えないかどうかは別問題です』
『はい?』
『重たくない部分だけ、うっかり喋っちゃうかもしれません』
ドロワーズの色や質感、石鹸を交換した時期、ご褒美のような寝言等々。
『真偽はナズーリンが判断するでしょう。どのように明かすかは私の口次第ですが』
ちんまい脳で考えてみた。
ナズーリン今日は素敵なガーターなんですね! レアです! →こんな言い方はしない。寅丸様が嫌われる。
ナズーリン、昨夜お部屋で泣いてましたか? 猫来ないでーって。ああ、貴方の鼠に伺ったんです。 →近いけど違うような。
あのナズーリン。最近私、鼠達の会話がわかるみたいなんです。所々ですけど。うう、嘘じゃありませんよ。例えば、流しの白菜を摘み食いしたこととか…… →これだ。確実に正しいとばれる。そして我輩の危機。
『まずいのである』
『寅丸様、ど、どうすれば』
『かしこまらないで。虎や天然上司もどきでいいですよ。だから、仲良くしましょう。ナズーリンを好きな者同士、礼儀をわきまえて』
下着に潜ったり、無断で靴下を拝借したりするのはイラっとしますようふふ。
言外に、野獣の忠告を感じ取った。守らないと終わる。我輩の馬鹿。こいつどこが天然だ。喰われる。ご主人様もピンチ。気を付けて、隣はけだもの!
「いい加減ひとの言葉に戻ってくれ、ご主人様。何か収穫でも?」
「まさか。チョコは雪倉で冷やして、お茶にしましょうか。ナズーリン、お湯をお願いします」
ひよこエプロンの恐怖は、とりあえず去ろうとしていた。灰色エプロンのご主人様が、数本ピールチョコを抜いた。
「お茶菓子と、私の一応可愛い従者に」
うわあナズーリン様逃げて、今のうち。甘いものは後でいいですから! 我々の焦りは、彼女には届かない。
我輩達を見上げて、ご主人様は柚子チョコの棒を振っている。笑いながら。
それから、細くチュウと一鳴きした。寅丸様の声音のように、時折高低を織り交ぜて。
びっくりした。
『なるほど、難しいなこれは。ご主人様の模倣で何とか。しかしお前達の返事がさっぱりだ』
初めての、ナズーリン様の鼠語だった。彼女は一方的に、ゆっくり語った。
『ご主人様が、お前達に何を言ったのかは大体掴めた。大した狸、いや虎だよ。察してはいたが、真っ黒だ』
それでこそ、舞台に据えた価値があるというもの。私の生涯の相方。ご主人様は、満足そうに両耳を揺らした。
『悪人ほどの善人はなく、嘘吐きほどの正直者もいない。やってはいけないことを、覚っているからな。あれはそういう類の聖者だ。好ましいよ、ひととしても。怖い獣じゃない、心配はない』
私の方が上手だ。安心しろ。賢将の笑みは、ひよこタイガーよりも頼もしかった。我ら鼠々トレインは、ご主人様に喝采を贈った。ココアの風が、酒のように興奮を誘っている。早く食べたい。
『神様仏様ナズーリン様、一生ついていきます』
『十二支的にもあれなのである。虎は鼠に敵わない。届くものか』
だが、そこでふと思い至った。
『根津よ。もしもご主人様の鼠語が、寅丸様に届いていたら?』
一瞬、天井裏が静まり返った。本音の戦いの開幕か、穏やかな破局か。チョコレートの膜の如く、仮面が剥がれるのか。
答えの足音が近付いた。一歩二歩、帰ってくる。息と髭を呑んだ。
正解は、
『通じていなかったか』
『わからん』
『無言である。微笑である。二人とも』
ご主人様はご主人様らしく、棘を秘めてうっすらと。寅丸様は寅丸様らしく、白黒の真ん中で。
彼女達はそうやって、優しく仲良くやっちまうのだろう。うっかりと、時々残酷に。そんな、温かい予感がした。
『幸せなら、構わんのである』
『だな。行こうや相棒、A班。チョコが溶ける』
折角ご主人様が、取っておいてくれたのに。
本物に最も近いのは、双方に触れた我々に違いない。つまり、
『当方の快勝である!』
大逆転、ハッピーバレンタイン。
チョコレートに酔って、監視の鼠々トレインが走る。汽笛はもちろん、
『イヤッホォォォゥ!』
皆幸せそうでなにより。良い星ナズで今年のバレンタインとやらも余裕でした
部下に上司に愛されまくりのナズーリン。理想の中間管理職や……。
私は鼠になりたい。
的確過ぎるぜ鼠どもイヤッホォォォゥ!
相手に通じるところまでお互いに読んでいそうな寅ナズがたまりません。
ご主人とご主人のご主人に幸あれ!
ごちそうさまでした
鼠達、可愛かったです。
美味なるナズ星をありがとうございました。イヤッホォォォゥ!
イヤッホォォォゥ!
コメディ調の作品で新鮮味もあって、星さんがナズを大事にしてるのも伝わってきて、とても楽しめました!
ごちそうさまでした!
やるときにはやらかす、という言い回しは斬新ながら的確。笑ってしまいましたw
星ナズイヤッホォォォゥ!
>もうお前らの勝ちでいいよイヤッホォォォゥ!
>愉快で朗らかなバカは大好物
コメディが好きで、上手な方に憧れています。憧れて、たまに挑戦してみます。
オリキャラ・一人称・鼠・ハイテンション。感覚がずれていないかと、心配していました。お言葉を読んで、幸せになりました。
>私は鼠になりたい。
>ネズミになりたいと思ったのは生きてきて始めてですよ
>良し、決めた。ナズの子鼠になる。
ご希望にびっくりして、じんわり嬉しくなりました。小さな活気が伝われば何よりです。
>相手に通じるところまでお互いに読んでいそうな寅ナズ
>どこか食えない二人の関係
>賢い子同士の心理戦
甘い二人も、苦い二人も大好きです。守りながらも隠しながらも、笑っていて欲しいなぁと思います。
>文章を読むこと自体がとても愉しい
有難いことです。わかりにくくはなかったか、やらかしたのは此方ではなかったか。悩んで戻ってきて、今に至ります。
この星さんは仏の顔を三個くらいは持ってくれてそうですね。
しかし、二人でちゅうちゅう言ってるの想像するとほっこりしますね。
自分も鼠になりたいぜ!
イヤッホォォォゥ!
皆は真似しないでねイヤッホォォォゥ!
でも面白かったイヤッホォォォゥ!
イヤッホォォォゥ!
黒い星ちゃんに負けてないナズも頼もしいようで、やっぱり星ちゃん相手だと手篭めにされちゃいそうで、目が離せない。私の方が上手だ。ってシーンだって、きっと星ちゃんには聴こえてて見えないところで含み笑いしてそうで。
ホント、この二人には敵わない。敵に回したくもない。むしろ服従したい。わたしもネズミになりたい。
いやむしろこれ読んでる時点で立場はネズミたちと同じなんだろうか。わたしはネズミだ! ネズミになったぞー!(ファンファンウィーヒッタステーッステー!)
>『ぬえトリュフ』
>『ぬえトリップ。全員ばったりであった』
ここで吹き出したw
ナズも星ちゃんも鼠たちも可愛いイヤッホォォォゥ!
とまれ、憎めない鼠たちの叫びに共感することしきりでしたイヤッホォォォゥ!