ふと。
なにやら胸躍る気配を感じた私がほんの数瞬後に冷たい鉄の扉を開けると、白く染まった赤の屋上に白金色の少女が立っていた。
昨夜の内に降り積もったらしい雪は、ケーキの上にパレットナイフで満遍なく塗りたくられたクリームのように滑らかで、足跡一つない。
そんな孤立した空間に茶色のブーツを纏った少女の脚が突き刺さっている。
降り立ったばかりだったのだろう。
別に謎でもなんでもない、外の世界で囁かれる不思議の殆どが思議し得るこの巷だ。
「で、困って私の処に来たって訳?」
開口一番。
まだ何かを尋ねられたわけでもないがアリスが訪ねてくるということはそういう事なのだろうと推察し、私はお決まりの文句をお決まりの微笑を添えて投げかけた。
「もう殆ど当てが無くてねぇ。余り情報持って無さそうだけど取りあえず」
「取りあえず?」
「中に入ってもいいかしら?」
人形のような容姿をして人間のように腕を組み、震えるような仕草をしてみせる。
この妖怪が実のところ寒さなどまるで感じていないことは承知していたが、外衣もなしに飛び出した自分の身体から温度が失われていってることに気付き、私は無言で踵を返した。
完全に外へ出たわけでもないのに、館内の温かい空気の層にめり込むような錯覚を覚える。
中へ入るよう促すため後ろを振り返ると、アリスは半ば逆さに浮いた状態で先ほどまで自分の立っていた痕跡に新しい雪を詰めているところだった。
「立つだけならセーフなのよ」
「そうやって隠蔽できるから?」
「取り消しよ、取り消し。最初からそう決めていたもの、後付けじゃないわ」
なるほど、今日の “自分ルール” はこれらしい。
この間は影だけを飛び石のように踏んで移動していた。
『仕方ないわ。日向はマグマだもの』
と私の背後に出来た影の上を歩きながら、いかにも嫌々やってるかのように説明をする渋い表情を思い出し、胸の奥から小さな息が漏れた。
「なぁに? 思い出し笑い? 意外とやらしいのね咲夜って」
「……あー?」
一体何を言い出すのかこの万年夢想家は。
唐突に心外な言葉を投げかけられ茫然とする。
もちろん顔には出さないけれど。
「山の巫女に聞いたのよ。思い出し笑いをする人は」
「あぁ、はいはい……何となく分かったわ」
「日本の俗説も案外バカにできないわよ。それに笑い顔には泣き顔よりも沢山の情報が詰まっていると思うの。例えば……」
ロシアの道化師と能面の関連性を独り言のように語り出したアリスを無視して扉を閉めようとすると、彼女は慌ててふよふよと浮き寄ってきた。
そして僅かな隙間から館内に身体を滑りこませると、どこから取り出したのか刷毛で身体についた雪を払い始めた。
廊下に水気を落とすつもりかと内心焦るが、どうやらそういうわけではないらしい。
払われた雪は落ちるでもなく、刷毛に着くわけでもなく、触れたそばから跡形もなく消え失せていく。
これが最後とばかりにアリスは前髪をサッとなであげ、そのまま背後へ投げ捨てる。と、刷毛は地面につくよりも先に景色に溶けて見えなくなった。
「便利なものね。ぜひ教えて欲しいものだわ」
「あら、あなただってよくやってるじゃない」
「あれはただの手品よ」
つまるところ楽のできない見世物であって、人を驚かせる以外に意味はない。
同じmagicでもその性質はまるで違う。
「そうなの? ……まさか時を止めて」
「手品の種を一々審らかにするなんて無粋だとは思わない?」
そうかなぁ、と少女は自分の指をバラバラに動かしながらじっと見つめる。
そういえば以前彼女が、明かした種すらも疑いの目で見られる無念をぼやいていたことを思い出した。
マリオネットは所謂魔法や呪術、時間停止といったオカルティックな印象を受けるものに比べると説明のしやすい技術だろう。
ただ、中途半端に理解できてしまうその仕組みが人々の目には却って怪しく、にわかに信じ難い現象として映るらしかった。
「器用」の一言で済ませるにはあまりに超自然的で、はなから分析を諦めて「そういうもの」として受け入れるにはあまりに身近すぎたということか。
同じく魔法道を歩んでいるはずの某白黒ですら、その技術に疑心の念を抱いていたことを思い出す。
時折、ひどく細い糸が宙にきらめく。
白く華奢な指は何故だかいつもより眩しく見えた。
「手袋」
黒いフィンガーレスの。
「今日は付けてないのね。大丈夫なの?」
「あのグローブは飾りよ。カッコイイでしょ」
なんだか裏切られた気がする。
頑丈な繊維から肌を保護し糸を操作しやすくするためとか、そういう玄人然とした理由があると思っていたのに。
「漫画じゃないんだから。特定の魔力を流さないかぎり糸に触れることだって出来ないわよ」
「そちらの方が漫画じみてるような……というか触れなかったらどうやって操るのよ」
「あら、咲夜の手足は触らなければ動かせないのかしら?」
「なんだかその言い方スキマ妖怪みたい」
「やめて」
照れ隠しではなく本当に嫌なのだろう。
人形のような顔が苦々しげに歪む。
宴会などで一緒に居るところを見かけるからてっきり仲が良いのだとばかり思っていたのだが。
「食えない相手を好物になるほど私はグルメじゃないわ」
捨食を終えても食材の可・不可を見分ける常識は失っていないらしい。
長い廊下を歩きながら、私はひそかにお茶請けの候補からトリカブトのグラッセを消去した。
◆ ◆ ◆
館内を少し広げすぎたかもしれない、と毎度おなじみの後悔が頭をよぎる。
やはり各階に客間を設けるべきなのかもしれない。
来客は門をくぐるものという、外の世界では広く一般的に認められた常識がここにはないのだ。
二カ所の渡り廊下を横切り、三カ所の角を曲がり、五十二段の階段と二度の踊り場を経て、ようやく私達は目的の場所へと辿り着いた。
途中、数名の妖精メイド達とすれ違ったが、皆一様に奇妙な物を見る目でぎこちない会釈をして、そそくさとその場を後にした。
だいたい理由は分かる。
いや、知っているというべきか。
「いつも思うんだけど」
後ろで原因が呟いた。
相も変わらずふよふよと浮いたままスキップするように付いてくる。
「あなたの部下って緊張屋さんが多いわよね」
「緊張してたんじゃなくて呆れてたのよ」
「誰に」
「あんたに」
本気でわかっていないらしい。
キョトンと首を傾げた勢いでそのままゆっくりと身体ごと真横に回転していく。
館内での宇宙遊泳はマネする人が出るから是非とも止めてもらいたいのだが。
「それで、今日は何の用?」
部屋の中へアリスを招き入れ、時間を止めて二人分の紅茶とクッキーを用意した私は早速本題を催促した。
そうしないといつまで経っても話が先に進まないからだ。
本人は否定するだろうが、どうも八雲の悪い特徴が伝染してるように思える。
以前など、一度本題に入ったのにも関わらずどこかで話が飛んでしまい、結局そのまま別れて自室で床につくまで本来の目的を忘れてしまっていたこともあった。
いや、それはそれで楽しいからいいのだけれど。
駄弁は問題を解決した後でゆっくりしたい。
「まぁ大した用じゃないんだけど」
さすがに浮き疲れたのかアリスは大人しく座っている。
椅子の上はカウントしないのだそうだ。
「咲夜は明日が何の日かしってる?」
「火曜日」
「じゃなくて、太陽暦で年始から数えて45日目に当たる日のことよ」
2月14日……2月14日……にいちよん……ふいちし……にいし……ふいよん……にいよ……にぼーし……
「――に……煮干し?」
「あらおいしそう」
「それともフンドシの日かしら」
「惜しいわね」
惜しいのか。
何だか当てられそうな気がしてきた。
そういえば彼女は研究費と生活費を稼ぐために服のオーダーメードをやってるんだった。
仕上がりが早く高品質かつ値段もリーズナブルということで里でも話題になっていた。
なるほど、そういうことか、ピンときた。
もうすぐ郷にも春が来る。
三寒四温やら春一番やらで服の選択が難しくなる季節だ。
「つまり微妙な温度変化に対応し、その時々によって調節可能な新しい衣類を開発したい、けれどあなたは温度の変化など言われなければ気付かない程度に体質が妖怪化している、そこで人間である私をモニターにしてその加減を調査・調整させ、ついでに生産も手伝わせよう、とそういう訳ね」
「チョコレートを作りたいの」
「全然惜しくない?!」
本当にびっくりした。かすりもしていない。グレイズとグレープ程度の距離すらない。
全てを語らせず数少ない会話から彼女の心を忖度しようという私の健気な努力は無駄に終わった。
「そんなことないわ。下着は普段衣服に隠れてるでしょう? ところが同時に素肌を隠すものでもある」
「はぁ……それが?」
「チョコも同じ、包装されながら自らも何かを包んでいるの。ガナッシュ、プラリネ、マージパン……」
いま無理矢理絞り出したような共通点だ。
「それだけじゃないわ」
「あー……、なんとなく分かったから言わなくていいわよ」
「包装が解かれる時、それは中身が食べられる時」
「やかましいわ」
まったく、彼女はこの郷の住人にしては比較的まともだと思っていたのに。
最近じゃまるで不思議の国や鏡の国に入り浸りすぎて歪みを極めた少女のようだ。
元凶はまちがいなくチェシャー州の猫、則ち八雲紫に相違ない。
それが顕著に現れ始めたのは地底が騒がしくなりはじめた頃だろうか。
と、そこまで考えてから初めて彼女と出会ったあの吹雪の日を思い出し、私は考えを訂正した。
「そうよね、あなたには悩みなんてなかったんだった」
「失礼な、悩んでることぐらいあるわ。二つほど」
ほう。
「その内の一つがチョコ作りってわけ?」
「よくわかったわね」
「むしろそれしか思い当たらない。でもどうして? あなたなら私の手を借りるまでもないでしょうに」
「巷にはバレンタインデーってのがあるんだけど」
ああそうだった。
2月14日といえばそれ以外にあり得ないというのに、我ながら悪魔ボケしている。
「……知ってるわ」
「なんだ知ってるんじゃない」
「今思い出したのよ」
知っているどころではない。
かつての、この館に仕える前の私であったなら決して忘れることは無かっただろう。
“かつて” の部分は語り出すとあまりに面白すぎて本題がローマからカフカース山脈の向こう側辺りまで飛んでしまうため割愛する。
決して過去回想が面倒くさいとかそういうことではない。
「で、それとチョコレートがどう関係あるのよ」
「あのねぇ、バレンタインデーといえばチョコレートを恋人に送る日でしょう? 常識よ」
初耳だ。
恋人云々はともかく贈り物はチョコ限定だなんて。
「って早苗が言ってたわ」
またあの巫女か……。
「それって信用できるの? ええと、こういっちゃアレだけどあの子って、ほら」
「失礼よ。たしかに頭のネジが数本抜けおちて代わりに中身入りの薬莢を留め具にしてるような変わった子だけど、性根のまっすぐな正直者よ」
「要するにあなたと同じってワケね」
「失礼な」
「違うの?」
「薬莢を使うなんて非効率的なことはしないわ」
たしかに直接火薬を頭に詰め込んでそうだ。
一度火がつくと身体よりも先に脳が走り出す。
脳 “で” 動くわけじゃない点が味噌だ。
今回の押し掛け訪問もどうせその類で、着弾点は私だったというわけだ。
「咲夜の場合はナイフね。頭が切れる」
「あらお上手」
「ついでにキレる」
「一言多い!」
「でもそういうところが好き」
ほうら来た。
冗談の中にいきなり本音を混ぜるアリスの悪癖だ。
何事にも動じない完璧で瀟酒なメイドとして評判な私は、こういう唐突に現れる地雷が苦手だった。
大したトラップではないので回避は可能だけれど何故かひどく緊張してしまう。
時間を停止させ、程よく冷めた紅茶を口に含む。これくらいが猫舌の私にはちょうど良い。
一瞬で顔に集まった血は退くのも早かった。
ゆっくりとカップを元の位置へ寸分違わぬよう慎重に戻し、能力を解除する。
「ということはその情報は確かなものなのね?」
「紅茶が減ってるわよ」
しまった。
「そんなに気にしなくてもいいのに。クールな咲夜もホットな咲夜も天然ボケな咲夜も恥ずかしがり屋さんな咲夜も鬼畜で外道な咲夜も、私は等しく愛してるわ」
「あ、あなたねぇ」
「ええ、確かな情報よ。ジャパンスタイルといったところかしら」
いきなり話を戻された。
今日はそういう日なのかもしれない。すなわち主導権は向こうにあるということだ。
私の名誉のために弁明させていただくが、私たちの力関係は日によって大きく変動する。それはもう、今までのやりとりからは想像し難いほどに。
妖怪とは人間以上に色々な見えざる世界の運動に影響されやすく、たとえそれが元人間であろうと例外にはならないのだ。
例えば自身の属性を克する――つまり彼女にとって相性が最悪の――気配が幻想郷を覆った時のアリスの弱り様はそれはもう酷いものだった。
仕事第一主義者である私が思わず休暇を頂いて異変解決に出掛けてしまうほどに。
つまり今日のアリスは絶好調なのである。
「日本式……けれど去年は誰もそんな話してなかったけど」
「外の文化らしいわ。早苗が持ち込んで広めたそうよ。楽園の幻想性を脅かすものでない限り、紫は検疫なんてしないから」
「へぇ、それじゃ今人里は」
「空前のチョコブームよ、半月ほど前からね。人里に限った話ではないけれど」
「ふむ、それで私たちも参加しようと、そういうわけね」
しかし
「あなたは魔物でしょう?」
バチカンはバレンタインデーを典礼暦に加えていない。
ただ、非公式とはいえ悪魔類にとっては仇敵由来の祭りに変わりないはずだ。
どれだけ人間社会から離れようと、結局一人の人間にすぎない私からすれば瑣末な問題のようにも感じるが、もしかすると彼女達にとっては――その中には我が敬愛すべき主も含まれる――看過し難い問題なのではないか。
特に、“かれら”との間に血で血を洗うような抗争の歴史を持つ悪魔達の世界に縁を持つ彼女にとっては。
「魔界でもバレンタインデーはあったわよ。名前は違うけれど」
「……」
「あら無反応」
「失礼、少し驚いて」
「魔界神様がね、御布令を出して制定したのよ。あちら側の人間の殉教記念日ではなく本来の祭日、古代の神々、つまり同志を祝う祭として」
クリスマスも同様にね、と衝撃の事実をどうでもいい話をするような口調で暴露する。
彼女にとっては空っぽになったティーカップにポットを適切な角度で傾ける行為の方が重要らしい。
「つまるところ、みんな騒ぐ口実が欲しいのよ。ここと同じで」
「……なるほどね」
「ああそうそう、レミリアの許可もとったわよ」
「えっ」
いつの間に。
「んー違うわね、正しくは依頼されたというか」
「どういうこと?」
「チョコレートが食べたいそうよ、あなたの主様は」
聞いていない、というかどうして私ではなくアリスに――
――そういえばこの間、甘い物を食べたあと歯磨きをせずに床につこうとしたお嬢様にくどくどと諫言したことがあった。つい一昨日のことだ。
しかしそれは以前お嬢様が同じことをして虫歯になってしまい、永遠亭で恐ろしい思いをされたことを知っていたからである。
その際に過剰な糖分摂取は控えるようにも申し上げたが、まさかあれを甘い物禁止令か何かと誤解されたのだろうか。
「私はただお嬢様のことを心配して……」
「思い遣りは伝わりにくいものよ」
「……そういうものかしら」
「私だってあなたにどれだけ愛が伝わっているか不安になることがあるもの」
油断していた。
「だから丁度いいかなと思って」
「またそういうことを恥ずかし気もなく……いや、それより今の感じだと私に知られちゃマズいんじゃ」
「内緒にしてくれなんて言われなかったし」
しれっという文字が見えた気がする。
色々と片手落ちなお嬢様もお嬢様だが、他人に客の情報を平気で漏洩するのはどうなんだろう。
「だってあなた達は主従でしょう? 他人じゃないわ」
「それはそうだけど……」
「そして私の恋人でもある」
「……へぇへぇ」
さっきから顔がせわしない温度変化を繰り返している。
幸い顔色があまり変わらない体質なので、他人に心中の狼狽ぶりがバレることはないのだが、ただ、暑い。
「ところであなたがわざわざ私を訪ねた理由をまだ聞いていないんだけれど」
「どこまで言ったっけ?」
「バレンタインデーって知ってる? まで」
そう、彼女なら私の手を借りるまでもないはずなのだ。
私ほどではないにせよアリスの料理の腕はその辺のコックよりも遥かに優れているのだから。
「ユーノー神の導きの元に、あなたという恋人と」
「それだけじゃないでしょ」
「作ろうと思ったら材料がなかったのよ。具体的にいうとチョコ部分の」
そういうことか。だが……
「生憎うちにもないわ。お菓子を作る時はその都度、里へ買い出しに出掛けるから」
「知ってるわ」
「……どうしてあなたが館の台所事情を知ってるのよ」
「そんな瑣末なことは」
「どうでもよくないけどまぁいいわ、キリがない」
「材料もない」
「大丈夫よ、今から里へ買いにいけば」
「もう行ってきたわ、ここに来る前にね」
まさか。
「湖に血を一滴垂らしたのは早苗。どうやら幻想郷という湖には魚がたくさん居たようね。製菓用チョコレートどころか既成の板チョコすら無かったわ」
SOLD-OUT
先ほど空前のブームになっているとは聞いたがそこまでとは思わなかった。
産業といえば旧い時代のものしかない幻想郷では、新しい時代の物資、とくに西洋由来の物の多くをスキマ経由の輸入に頼っている。
洋菓子の類も例外ではない。
とはいえ和菓子派だらけの幻想郷ではそれほど需要がなかったため、必要最低限の量しか入荷していないと聞いていた。
それが急に脚光を浴びたことであっという間に消え失せたのだ。
唯一この問題を解決できるはずのスキマ運輸は、八雲紫が長い冬眠に入ってしまったため、現在絶賛休業中である。
再開は早くても桃の節句以降だろう。
「手詰まりってわけね……お嬢様には悪いけれど今回は諦めるしか」
「あら、別に私はレミリアのためだけにチョコを作ろうと思ったわけではないわ」
たしかに。
よく考えてみればそれだけじゃ行動の動機としては弱い。
「というと他にも依頼があったってこと?」
「んー、まぁそれもあるんだけど、やっぱりあなたに食べて欲しかったから」
「……そりゃどうも。どちらにせよ諦めるしかないわお嬢様も……私も」
「ところがぎっちょん!!」
「!?」
しんみりとした空気の中へ唐突に割り込んだ大声に驚き、瞬間的に身がこわばる。
「な、なに?」
「実は明日だけ紫が起きてくれることになったの」
「えっ……そんなわけ」
「チョコの消失を受けて冥界の方でも一悶着あったらしくてね。庭師が泣きついてきたわ」
「あー……」
なんとなく想像はつく。
無類の食通かつ流行り物好きで有名な亡霊嬢のことだ、品切れに納得できず従者に無理難題を押し付けたに違いない。
「私ならチョコを持っていると思ったのかしら。譲ってくれないかと涙目で懇願してくるものだから可哀想になって」
「相変わらず不憫な子ね……」
「モロゾフの空き箱があったから、そこにおはぎを詰めて持たせてやったわ」
「相変わらずいじめっ子ね……」
幻想郷で洋菓子を日常的に嗜む場所など、うちかマーガトロイド邸くらいしかない。
きっと妖夢はどちらを先に訪問するか迷っただろう。
そして見事にハズレをひいてしまったわけだ。
「餡子もチョコも原料は豆だし、どちらも黒っぽくて甘い。おまけに単語の後ろに “こ” がつく。これはもう殆ど同一の存在と言っても過言ではないわ!」
「名前の後ろに “トテレス” を付けられたくなかったら、詭弁で遊ぶのはもうやめて話を前に進めなさい」
あごヒゲを蓄えたアリスなんて見たくないけれど。
「喜んで帰って行ったと思ったら数時間後に亡霊嬢じきじきにクレームつけにきたわ」
「でしょうね」
「口角に餡をつけて」
「泡じゃないあたりが彼女らしいわね」
苦情と同時にさらなるおはぎを要求されたという。
「だから言ってやったのよ。貴女がチョコを食べられないのは貴女の親友が仕事をサボタージュしてるせいですよ、って」
「なるほど」
「いきなり家を飛び出したかと思ったら、数分後に、生乾きの洗濯物みたいなぐんにゃりした紫をつれて戻ってきたわ」
「……想像するだけで気の毒になるわ」
訳もわからぬまま布団から引き摺り出された紫の、今にも閉じてしまいそうな目蓋を無理矢理こじ開けて、事情を飲み込ませようとする幽々子を想像して戦慄を覚える。
もしかするとビンタの数発も食らったのではないかと推察し、生まれて初めて八雲紫に同情をした。
しかしそんな前後不覚なヴードゥーゾンビー状態の紫が外へ買い出しにいくなんて――
「無理ね」
やっぱり。わかってはいたが。
脱力した腕をテーブルに投げ出し天井を仰ぎ見る。
「けれど境界を開くことはできる、出入り口さえあればあとは紫以外が動けばいい、ってことで時限式のゲートを作ってもらうことにしたの」
「紫以外って……式とか?」
「いいえ、狐さんは自分の式と地底温泉に慰安旅行中よ」
「じゃあ一体誰が……」
何気なく視線を天井から前に戻す、と、満面の笑みがそこにあった。
どくんと、胸の内側からくぐもった音が聞こえた。
「咲夜……」
やがてそれは次第に加速し、ボトルから零れる水のように明瞭に鳴り始める。
何度体験しても慣れない、焦りの混じった戸惑いが私を襲った。
テーブルを跨ぐようにアリスの上半身がゆっくりと近づいてくる。
「私、あなたと……」
上質の神楽鈴のような囁きが耳をくすぐる。
色聴は人によって違うというけれど、彼女の声はいつだってひどく透明に映った。
ふいに卓上に投げ出した両手を包み込むように握られて、ほんの少し低い肌の温度を感じる。
「あ……ダメよアリス……私には仕事が……」
いつもは皮肉も冗談も泣き言も表情を変えずに言い放つ彼女の、得意気に細められた瞼から覗く碧眼はあまりに新鮮で。
正直、
嫌な予感しかしなかった。
「外の世界に行ってみたいわ」
いつになく絶好調な恋人は、チェシャー州の猫のように笑った。
◆ ◆ ◆
仕事を放り出して行くわけにはいかない、と渋る私にアリスは一枚の紙を提示した。
そこに書かれたアルファベットの羅列は私の知らない国の言葉であったため、その意味を理解することはできない。
しかし、やや小ぶりで語頭の大文字がやけに細く、a,o,uの違いが不明確で読みにくい筆記体には見覚えがあった。
「休暇許可証。咲夜とデートしたいって言ったらくれたのよ、チョコの報酬に」
「そんなものでいいの? いや、紅魔館(こちら)からすれば出血大サービスなんだけど。いつも吸血する側だからとかいう冗談ではなくマジに」
そう、一日でも私が館を空けたりすれば色々と困るはずなのだ。
お嬢様も妹様もパチュリー様も美鈴も妖精メイド達も。
そしてなにより、戻ってきてから館の惨状を目の当たりにするであろう私が。
「大丈夫よ、大変だったら手伝ってあげるわ」
「それじゃ報酬にならないじゃない」
「私は咲夜と一緒に居られるだけで幸せよ」
「むぐぅ」
「それに一ヶ月後にお返ししてもらう予定だから」
「一ヶ月後? 何かあったかしら」
「巷にはホワイトデーってのがあるんだけど」
そこでまた新たな東洋知識を吹き込まれた私は、それから数週間お返しの内容を悶々と考えてすごすことになるのだが、それはまた別のお話。
なにやら胸躍る気配を感じた私がほんの数瞬後に冷たい鉄の扉を開けると、白く染まった赤の屋上に白金色の少女が立っていた。
昨夜の内に降り積もったらしい雪は、ケーキの上にパレットナイフで満遍なく塗りたくられたクリームのように滑らかで、足跡一つない。
そんな孤立した空間に茶色のブーツを纏った少女の脚が突き刺さっている。
降り立ったばかりだったのだろう。
別に謎でもなんでもない、外の世界で囁かれる不思議の殆どが思議し得るこの巷だ。
「で、困って私の処に来たって訳?」
開口一番。
まだ何かを尋ねられたわけでもないがアリスが訪ねてくるということはそういう事なのだろうと推察し、私はお決まりの文句をお決まりの微笑を添えて投げかけた。
「もう殆ど当てが無くてねぇ。余り情報持って無さそうだけど取りあえず」
「取りあえず?」
「中に入ってもいいかしら?」
人形のような容姿をして人間のように腕を組み、震えるような仕草をしてみせる。
この妖怪が実のところ寒さなどまるで感じていないことは承知していたが、外衣もなしに飛び出した自分の身体から温度が失われていってることに気付き、私は無言で踵を返した。
完全に外へ出たわけでもないのに、館内の温かい空気の層にめり込むような錯覚を覚える。
中へ入るよう促すため後ろを振り返ると、アリスは半ば逆さに浮いた状態で先ほどまで自分の立っていた痕跡に新しい雪を詰めているところだった。
「立つだけならセーフなのよ」
「そうやって隠蔽できるから?」
「取り消しよ、取り消し。最初からそう決めていたもの、後付けじゃないわ」
なるほど、今日の “自分ルール” はこれらしい。
この間は影だけを飛び石のように踏んで移動していた。
『仕方ないわ。日向はマグマだもの』
と私の背後に出来た影の上を歩きながら、いかにも嫌々やってるかのように説明をする渋い表情を思い出し、胸の奥から小さな息が漏れた。
「なぁに? 思い出し笑い? 意外とやらしいのね咲夜って」
「……あー?」
一体何を言い出すのかこの万年夢想家は。
唐突に心外な言葉を投げかけられ茫然とする。
もちろん顔には出さないけれど。
「山の巫女に聞いたのよ。思い出し笑いをする人は」
「あぁ、はいはい……何となく分かったわ」
「日本の俗説も案外バカにできないわよ。それに笑い顔には泣き顔よりも沢山の情報が詰まっていると思うの。例えば……」
ロシアの道化師と能面の関連性を独り言のように語り出したアリスを無視して扉を閉めようとすると、彼女は慌ててふよふよと浮き寄ってきた。
そして僅かな隙間から館内に身体を滑りこませると、どこから取り出したのか刷毛で身体についた雪を払い始めた。
廊下に水気を落とすつもりかと内心焦るが、どうやらそういうわけではないらしい。
払われた雪は落ちるでもなく、刷毛に着くわけでもなく、触れたそばから跡形もなく消え失せていく。
これが最後とばかりにアリスは前髪をサッとなであげ、そのまま背後へ投げ捨てる。と、刷毛は地面につくよりも先に景色に溶けて見えなくなった。
「便利なものね。ぜひ教えて欲しいものだわ」
「あら、あなただってよくやってるじゃない」
「あれはただの手品よ」
つまるところ楽のできない見世物であって、人を驚かせる以外に意味はない。
同じmagicでもその性質はまるで違う。
「そうなの? ……まさか時を止めて」
「手品の種を一々審らかにするなんて無粋だとは思わない?」
そうかなぁ、と少女は自分の指をバラバラに動かしながらじっと見つめる。
そういえば以前彼女が、明かした種すらも疑いの目で見られる無念をぼやいていたことを思い出した。
マリオネットは所謂魔法や呪術、時間停止といったオカルティックな印象を受けるものに比べると説明のしやすい技術だろう。
ただ、中途半端に理解できてしまうその仕組みが人々の目には却って怪しく、にわかに信じ難い現象として映るらしかった。
「器用」の一言で済ませるにはあまりに超自然的で、はなから分析を諦めて「そういうもの」として受け入れるにはあまりに身近すぎたということか。
同じく魔法道を歩んでいるはずの某白黒ですら、その技術に疑心の念を抱いていたことを思い出す。
時折、ひどく細い糸が宙にきらめく。
白く華奢な指は何故だかいつもより眩しく見えた。
「手袋」
黒いフィンガーレスの。
「今日は付けてないのね。大丈夫なの?」
「あのグローブは飾りよ。カッコイイでしょ」
なんだか裏切られた気がする。
頑丈な繊維から肌を保護し糸を操作しやすくするためとか、そういう玄人然とした理由があると思っていたのに。
「漫画じゃないんだから。特定の魔力を流さないかぎり糸に触れることだって出来ないわよ」
「そちらの方が漫画じみてるような……というか触れなかったらどうやって操るのよ」
「あら、咲夜の手足は触らなければ動かせないのかしら?」
「なんだかその言い方スキマ妖怪みたい」
「やめて」
照れ隠しではなく本当に嫌なのだろう。
人形のような顔が苦々しげに歪む。
宴会などで一緒に居るところを見かけるからてっきり仲が良いのだとばかり思っていたのだが。
「食えない相手を好物になるほど私はグルメじゃないわ」
捨食を終えても食材の可・不可を見分ける常識は失っていないらしい。
長い廊下を歩きながら、私はひそかにお茶請けの候補からトリカブトのグラッセを消去した。
◆ ◆ ◆
館内を少し広げすぎたかもしれない、と毎度おなじみの後悔が頭をよぎる。
やはり各階に客間を設けるべきなのかもしれない。
来客は門をくぐるものという、外の世界では広く一般的に認められた常識がここにはないのだ。
二カ所の渡り廊下を横切り、三カ所の角を曲がり、五十二段の階段と二度の踊り場を経て、ようやく私達は目的の場所へと辿り着いた。
途中、数名の妖精メイド達とすれ違ったが、皆一様に奇妙な物を見る目でぎこちない会釈をして、そそくさとその場を後にした。
だいたい理由は分かる。
いや、知っているというべきか。
「いつも思うんだけど」
後ろで原因が呟いた。
相も変わらずふよふよと浮いたままスキップするように付いてくる。
「あなたの部下って緊張屋さんが多いわよね」
「緊張してたんじゃなくて呆れてたのよ」
「誰に」
「あんたに」
本気でわかっていないらしい。
キョトンと首を傾げた勢いでそのままゆっくりと身体ごと真横に回転していく。
館内での宇宙遊泳はマネする人が出るから是非とも止めてもらいたいのだが。
「それで、今日は何の用?」
部屋の中へアリスを招き入れ、時間を止めて二人分の紅茶とクッキーを用意した私は早速本題を催促した。
そうしないといつまで経っても話が先に進まないからだ。
本人は否定するだろうが、どうも八雲の悪い特徴が伝染してるように思える。
以前など、一度本題に入ったのにも関わらずどこかで話が飛んでしまい、結局そのまま別れて自室で床につくまで本来の目的を忘れてしまっていたこともあった。
いや、それはそれで楽しいからいいのだけれど。
駄弁は問題を解決した後でゆっくりしたい。
「まぁ大した用じゃないんだけど」
さすがに浮き疲れたのかアリスは大人しく座っている。
椅子の上はカウントしないのだそうだ。
「咲夜は明日が何の日かしってる?」
「火曜日」
「じゃなくて、太陽暦で年始から数えて45日目に当たる日のことよ」
2月14日……2月14日……にいちよん……ふいちし……にいし……ふいよん……にいよ……にぼーし……
「――に……煮干し?」
「あらおいしそう」
「それともフンドシの日かしら」
「惜しいわね」
惜しいのか。
何だか当てられそうな気がしてきた。
そういえば彼女は研究費と生活費を稼ぐために服のオーダーメードをやってるんだった。
仕上がりが早く高品質かつ値段もリーズナブルということで里でも話題になっていた。
なるほど、そういうことか、ピンときた。
もうすぐ郷にも春が来る。
三寒四温やら春一番やらで服の選択が難しくなる季節だ。
「つまり微妙な温度変化に対応し、その時々によって調節可能な新しい衣類を開発したい、けれどあなたは温度の変化など言われなければ気付かない程度に体質が妖怪化している、そこで人間である私をモニターにしてその加減を調査・調整させ、ついでに生産も手伝わせよう、とそういう訳ね」
「チョコレートを作りたいの」
「全然惜しくない?!」
本当にびっくりした。かすりもしていない。グレイズとグレープ程度の距離すらない。
全てを語らせず数少ない会話から彼女の心を忖度しようという私の健気な努力は無駄に終わった。
「そんなことないわ。下着は普段衣服に隠れてるでしょう? ところが同時に素肌を隠すものでもある」
「はぁ……それが?」
「チョコも同じ、包装されながら自らも何かを包んでいるの。ガナッシュ、プラリネ、マージパン……」
いま無理矢理絞り出したような共通点だ。
「それだけじゃないわ」
「あー……、なんとなく分かったから言わなくていいわよ」
「包装が解かれる時、それは中身が食べられる時」
「やかましいわ」
まったく、彼女はこの郷の住人にしては比較的まともだと思っていたのに。
最近じゃまるで不思議の国や鏡の国に入り浸りすぎて歪みを極めた少女のようだ。
元凶はまちがいなくチェシャー州の猫、則ち八雲紫に相違ない。
それが顕著に現れ始めたのは地底が騒がしくなりはじめた頃だろうか。
と、そこまで考えてから初めて彼女と出会ったあの吹雪の日を思い出し、私は考えを訂正した。
「そうよね、あなたには悩みなんてなかったんだった」
「失礼な、悩んでることぐらいあるわ。二つほど」
ほう。
「その内の一つがチョコ作りってわけ?」
「よくわかったわね」
「むしろそれしか思い当たらない。でもどうして? あなたなら私の手を借りるまでもないでしょうに」
「巷にはバレンタインデーってのがあるんだけど」
ああそうだった。
2月14日といえばそれ以外にあり得ないというのに、我ながら悪魔ボケしている。
「……知ってるわ」
「なんだ知ってるんじゃない」
「今思い出したのよ」
知っているどころではない。
かつての、この館に仕える前の私であったなら決して忘れることは無かっただろう。
“かつて” の部分は語り出すとあまりに面白すぎて本題がローマからカフカース山脈の向こう側辺りまで飛んでしまうため割愛する。
決して過去回想が面倒くさいとかそういうことではない。
「で、それとチョコレートがどう関係あるのよ」
「あのねぇ、バレンタインデーといえばチョコレートを恋人に送る日でしょう? 常識よ」
初耳だ。
恋人云々はともかく贈り物はチョコ限定だなんて。
「って早苗が言ってたわ」
またあの巫女か……。
「それって信用できるの? ええと、こういっちゃアレだけどあの子って、ほら」
「失礼よ。たしかに頭のネジが数本抜けおちて代わりに中身入りの薬莢を留め具にしてるような変わった子だけど、性根のまっすぐな正直者よ」
「要するにあなたと同じってワケね」
「失礼な」
「違うの?」
「薬莢を使うなんて非効率的なことはしないわ」
たしかに直接火薬を頭に詰め込んでそうだ。
一度火がつくと身体よりも先に脳が走り出す。
脳 “で” 動くわけじゃない点が味噌だ。
今回の押し掛け訪問もどうせその類で、着弾点は私だったというわけだ。
「咲夜の場合はナイフね。頭が切れる」
「あらお上手」
「ついでにキレる」
「一言多い!」
「でもそういうところが好き」
ほうら来た。
冗談の中にいきなり本音を混ぜるアリスの悪癖だ。
何事にも動じない完璧で瀟酒なメイドとして評判な私は、こういう唐突に現れる地雷が苦手だった。
大したトラップではないので回避は可能だけれど何故かひどく緊張してしまう。
時間を停止させ、程よく冷めた紅茶を口に含む。これくらいが猫舌の私にはちょうど良い。
一瞬で顔に集まった血は退くのも早かった。
ゆっくりとカップを元の位置へ寸分違わぬよう慎重に戻し、能力を解除する。
「ということはその情報は確かなものなのね?」
「紅茶が減ってるわよ」
しまった。
「そんなに気にしなくてもいいのに。クールな咲夜もホットな咲夜も天然ボケな咲夜も恥ずかしがり屋さんな咲夜も鬼畜で外道な咲夜も、私は等しく愛してるわ」
「あ、あなたねぇ」
「ええ、確かな情報よ。ジャパンスタイルといったところかしら」
いきなり話を戻された。
今日はそういう日なのかもしれない。すなわち主導権は向こうにあるということだ。
私の名誉のために弁明させていただくが、私たちの力関係は日によって大きく変動する。それはもう、今までのやりとりからは想像し難いほどに。
妖怪とは人間以上に色々な見えざる世界の運動に影響されやすく、たとえそれが元人間であろうと例外にはならないのだ。
例えば自身の属性を克する――つまり彼女にとって相性が最悪の――気配が幻想郷を覆った時のアリスの弱り様はそれはもう酷いものだった。
仕事第一主義者である私が思わず休暇を頂いて異変解決に出掛けてしまうほどに。
つまり今日のアリスは絶好調なのである。
「日本式……けれど去年は誰もそんな話してなかったけど」
「外の文化らしいわ。早苗が持ち込んで広めたそうよ。楽園の幻想性を脅かすものでない限り、紫は検疫なんてしないから」
「へぇ、それじゃ今人里は」
「空前のチョコブームよ、半月ほど前からね。人里に限った話ではないけれど」
「ふむ、それで私たちも参加しようと、そういうわけね」
しかし
「あなたは魔物でしょう?」
バチカンはバレンタインデーを典礼暦に加えていない。
ただ、非公式とはいえ悪魔類にとっては仇敵由来の祭りに変わりないはずだ。
どれだけ人間社会から離れようと、結局一人の人間にすぎない私からすれば瑣末な問題のようにも感じるが、もしかすると彼女達にとっては――その中には我が敬愛すべき主も含まれる――看過し難い問題なのではないか。
特に、“かれら”との間に血で血を洗うような抗争の歴史を持つ悪魔達の世界に縁を持つ彼女にとっては。
「魔界でもバレンタインデーはあったわよ。名前は違うけれど」
「……」
「あら無反応」
「失礼、少し驚いて」
「魔界神様がね、御布令を出して制定したのよ。あちら側の人間の殉教記念日ではなく本来の祭日、古代の神々、つまり同志を祝う祭として」
クリスマスも同様にね、と衝撃の事実をどうでもいい話をするような口調で暴露する。
彼女にとっては空っぽになったティーカップにポットを適切な角度で傾ける行為の方が重要らしい。
「つまるところ、みんな騒ぐ口実が欲しいのよ。ここと同じで」
「……なるほどね」
「ああそうそう、レミリアの許可もとったわよ」
「えっ」
いつの間に。
「んー違うわね、正しくは依頼されたというか」
「どういうこと?」
「チョコレートが食べたいそうよ、あなたの主様は」
聞いていない、というかどうして私ではなくアリスに――
――そういえばこの間、甘い物を食べたあと歯磨きをせずに床につこうとしたお嬢様にくどくどと諫言したことがあった。つい一昨日のことだ。
しかしそれは以前お嬢様が同じことをして虫歯になってしまい、永遠亭で恐ろしい思いをされたことを知っていたからである。
その際に過剰な糖分摂取は控えるようにも申し上げたが、まさかあれを甘い物禁止令か何かと誤解されたのだろうか。
「私はただお嬢様のことを心配して……」
「思い遣りは伝わりにくいものよ」
「……そういうものかしら」
「私だってあなたにどれだけ愛が伝わっているか不安になることがあるもの」
油断していた。
「だから丁度いいかなと思って」
「またそういうことを恥ずかし気もなく……いや、それより今の感じだと私に知られちゃマズいんじゃ」
「内緒にしてくれなんて言われなかったし」
しれっという文字が見えた気がする。
色々と片手落ちなお嬢様もお嬢様だが、他人に客の情報を平気で漏洩するのはどうなんだろう。
「だってあなた達は主従でしょう? 他人じゃないわ」
「それはそうだけど……」
「そして私の恋人でもある」
「……へぇへぇ」
さっきから顔がせわしない温度変化を繰り返している。
幸い顔色があまり変わらない体質なので、他人に心中の狼狽ぶりがバレることはないのだが、ただ、暑い。
「ところであなたがわざわざ私を訪ねた理由をまだ聞いていないんだけれど」
「どこまで言ったっけ?」
「バレンタインデーって知ってる? まで」
そう、彼女なら私の手を借りるまでもないはずなのだ。
私ほどではないにせよアリスの料理の腕はその辺のコックよりも遥かに優れているのだから。
「ユーノー神の導きの元に、あなたという恋人と」
「それだけじゃないでしょ」
「作ろうと思ったら材料がなかったのよ。具体的にいうとチョコ部分の」
そういうことか。だが……
「生憎うちにもないわ。お菓子を作る時はその都度、里へ買い出しに出掛けるから」
「知ってるわ」
「……どうしてあなたが館の台所事情を知ってるのよ」
「そんな瑣末なことは」
「どうでもよくないけどまぁいいわ、キリがない」
「材料もない」
「大丈夫よ、今から里へ買いにいけば」
「もう行ってきたわ、ここに来る前にね」
まさか。
「湖に血を一滴垂らしたのは早苗。どうやら幻想郷という湖には魚がたくさん居たようね。製菓用チョコレートどころか既成の板チョコすら無かったわ」
SOLD-OUT
先ほど空前のブームになっているとは聞いたがそこまでとは思わなかった。
産業といえば旧い時代のものしかない幻想郷では、新しい時代の物資、とくに西洋由来の物の多くをスキマ経由の輸入に頼っている。
洋菓子の類も例外ではない。
とはいえ和菓子派だらけの幻想郷ではそれほど需要がなかったため、必要最低限の量しか入荷していないと聞いていた。
それが急に脚光を浴びたことであっという間に消え失せたのだ。
唯一この問題を解決できるはずのスキマ運輸は、八雲紫が長い冬眠に入ってしまったため、現在絶賛休業中である。
再開は早くても桃の節句以降だろう。
「手詰まりってわけね……お嬢様には悪いけれど今回は諦めるしか」
「あら、別に私はレミリアのためだけにチョコを作ろうと思ったわけではないわ」
たしかに。
よく考えてみればそれだけじゃ行動の動機としては弱い。
「というと他にも依頼があったってこと?」
「んー、まぁそれもあるんだけど、やっぱりあなたに食べて欲しかったから」
「……そりゃどうも。どちらにせよ諦めるしかないわお嬢様も……私も」
「ところがぎっちょん!!」
「!?」
しんみりとした空気の中へ唐突に割り込んだ大声に驚き、瞬間的に身がこわばる。
「な、なに?」
「実は明日だけ紫が起きてくれることになったの」
「えっ……そんなわけ」
「チョコの消失を受けて冥界の方でも一悶着あったらしくてね。庭師が泣きついてきたわ」
「あー……」
なんとなく想像はつく。
無類の食通かつ流行り物好きで有名な亡霊嬢のことだ、品切れに納得できず従者に無理難題を押し付けたに違いない。
「私ならチョコを持っていると思ったのかしら。譲ってくれないかと涙目で懇願してくるものだから可哀想になって」
「相変わらず不憫な子ね……」
「モロゾフの空き箱があったから、そこにおはぎを詰めて持たせてやったわ」
「相変わらずいじめっ子ね……」
幻想郷で洋菓子を日常的に嗜む場所など、うちかマーガトロイド邸くらいしかない。
きっと妖夢はどちらを先に訪問するか迷っただろう。
そして見事にハズレをひいてしまったわけだ。
「餡子もチョコも原料は豆だし、どちらも黒っぽくて甘い。おまけに単語の後ろに “こ” がつく。これはもう殆ど同一の存在と言っても過言ではないわ!」
「名前の後ろに “トテレス” を付けられたくなかったら、詭弁で遊ぶのはもうやめて話を前に進めなさい」
あごヒゲを蓄えたアリスなんて見たくないけれど。
「喜んで帰って行ったと思ったら数時間後に亡霊嬢じきじきにクレームつけにきたわ」
「でしょうね」
「口角に餡をつけて」
「泡じゃないあたりが彼女らしいわね」
苦情と同時にさらなるおはぎを要求されたという。
「だから言ってやったのよ。貴女がチョコを食べられないのは貴女の親友が仕事をサボタージュしてるせいですよ、って」
「なるほど」
「いきなり家を飛び出したかと思ったら、数分後に、生乾きの洗濯物みたいなぐんにゃりした紫をつれて戻ってきたわ」
「……想像するだけで気の毒になるわ」
訳もわからぬまま布団から引き摺り出された紫の、今にも閉じてしまいそうな目蓋を無理矢理こじ開けて、事情を飲み込ませようとする幽々子を想像して戦慄を覚える。
もしかするとビンタの数発も食らったのではないかと推察し、生まれて初めて八雲紫に同情をした。
しかしそんな前後不覚なヴードゥーゾンビー状態の紫が外へ買い出しにいくなんて――
「無理ね」
やっぱり。わかってはいたが。
脱力した腕をテーブルに投げ出し天井を仰ぎ見る。
「けれど境界を開くことはできる、出入り口さえあればあとは紫以外が動けばいい、ってことで時限式のゲートを作ってもらうことにしたの」
「紫以外って……式とか?」
「いいえ、狐さんは自分の式と地底温泉に慰安旅行中よ」
「じゃあ一体誰が……」
何気なく視線を天井から前に戻す、と、満面の笑みがそこにあった。
どくんと、胸の内側からくぐもった音が聞こえた。
「咲夜……」
やがてそれは次第に加速し、ボトルから零れる水のように明瞭に鳴り始める。
何度体験しても慣れない、焦りの混じった戸惑いが私を襲った。
テーブルを跨ぐようにアリスの上半身がゆっくりと近づいてくる。
「私、あなたと……」
上質の神楽鈴のような囁きが耳をくすぐる。
色聴は人によって違うというけれど、彼女の声はいつだってひどく透明に映った。
ふいに卓上に投げ出した両手を包み込むように握られて、ほんの少し低い肌の温度を感じる。
「あ……ダメよアリス……私には仕事が……」
いつもは皮肉も冗談も泣き言も表情を変えずに言い放つ彼女の、得意気に細められた瞼から覗く碧眼はあまりに新鮮で。
正直、
嫌な予感しかしなかった。
「外の世界に行ってみたいわ」
いつになく絶好調な恋人は、チェシャー州の猫のように笑った。
◆ ◆ ◆
仕事を放り出して行くわけにはいかない、と渋る私にアリスは一枚の紙を提示した。
そこに書かれたアルファベットの羅列は私の知らない国の言葉であったため、その意味を理解することはできない。
しかし、やや小ぶりで語頭の大文字がやけに細く、a,o,uの違いが不明確で読みにくい筆記体には見覚えがあった。
「休暇許可証。咲夜とデートしたいって言ったらくれたのよ、チョコの報酬に」
「そんなものでいいの? いや、紅魔館(こちら)からすれば出血大サービスなんだけど。いつも吸血する側だからとかいう冗談ではなくマジに」
そう、一日でも私が館を空けたりすれば色々と困るはずなのだ。
お嬢様も妹様もパチュリー様も美鈴も妖精メイド達も。
そしてなにより、戻ってきてから館の惨状を目の当たりにするであろう私が。
「大丈夫よ、大変だったら手伝ってあげるわ」
「それじゃ報酬にならないじゃない」
「私は咲夜と一緒に居られるだけで幸せよ」
「むぐぅ」
「それに一ヶ月後にお返ししてもらう予定だから」
「一ヶ月後? 何かあったかしら」
「巷にはホワイトデーってのがあるんだけど」
そこでまた新たな東洋知識を吹き込まれた私は、それから数週間お返しの内容を悶々と考えてすごすことになるのだが、それはまた別のお話。
サクアリいいなぁ
あぁもうやばい、この二人の掛け合いは凄くいい。らしい、とでも言いましょうか、ニヤニヤが止まらないのぜ… いやはやご馳走様でした!
最近知ったんですが
愛のスコールって地域限定ものなんですよね。
おいしいのにもったいない。