夏の風の色は、透明だ。妹紅はそう思った。
丘からは人間の里が一望でき、その背中には緑の山が迫っている。風が透明なのは、高い所だからだろうか。夏も盛りだというのに、ひどく涼しい日だった。
「ねえ」
妹紅は、彼女に問いかけた。
「どうして泣いているの」
彼女はただ、立っていた。髪を風が揺らすに任せ、されど両の足は大地を踏み揺るぎなく、ただただ立っていた。妹紅からはその背中しか見えない。しかし、ときおり風に流れてきらきらと光るしずくと、わずかに震え続ける肩が雄弁に物語っていた。
彼女はただ正面を見ているようだった。そこには空しかない。透明な風が吹きぬけるだけの空虚である。その先には蒼いだけでひどく退屈な晴天があるし、そのさらに先には……また別の何かがあるのかもしれない。あるいは、彼女はもっと別の何かを視ているのかもしれなかった。彼女ならありえることだ、と妹紅は思う。
視線を下ろせば、人里である。遠目にも、人々があわただしく動いているのが分かる。祭りの準備なのだろう。彼女は行かなくていいのか、と妹紅は思ったけれども、里の人間が呼びに来ないということはそういうことなのだろう。
「ねえ」
妹紅はもう一度、問うた。風に流されないように、少し声を張って。
「どうして、泣いているの」
人里の側には川がある。大河とはいえないけれど、流れは緩やかに、かつ力強く、人々の生活に文字通り潤いを与え続けている。もちろん、雨を集めた流れは堤防を切り崩し、人間にとって脅威となることもある。それでも人々は川を見つめ続けた。流れる浮き世に従い、かつ抗う、それが彼らの生き方だと主張するかのように。
泡沫(うたかた)に哲学を感じるには自分は生き過ぎたのではないか、と妹紅は思う。流れというものを忘れて久しい。まあ、ただのんびりやるだけだ、と太平楽を決め込むのが常だ。
「うれしいの、それとも、かなしいの」
彼女は答えない。
セミが思い出したようにジワジワと鳴き始めた。声は空に発散して、空虚を生命の力で満たす。空気が躍動する。丘に青々と根を張る名もない草たちが騒ぎだす。
もう去るべきかもしれない、と妹紅は思う。人はなんとなく一人になりたくなることもある。彼女だってそうだろう。風で乱れた髪をひと撫でして、きびすを返した。
「うれしくは、ない」
声は、風でほとんど消えそうだった。
「泣くことができなかった者のために、泣いている」
木々がざわめき。
「泣くことを忘れた者たちのために、泣いている」
セミの歌がフィナーレを迎えた。
「かなしくも、ない」
氷精でも見破れそうな嘘だった。
嘘をつくには、彼女は実直すぎた。
嘘をつくには、彼女は人を愛しすぎた。だから、
「私の、エゴだ」
嘘をついても良いところで、嘘をつけない。馬鹿だ、と妹紅は思う。馬鹿正直とは彼女のために用意された言葉だ。
彼女は、変らず空を見ている。こちらに背中を見せたまま。時折ふうわりとスカートがそよぐ。
時間にして、数瞬。ほんの少しためらって、しかし妹紅は、彼女の背中に向けて口を開いた。
「千年も生きておいて、なんだけどさ」
一歩、彼女に歩み寄った。
「私、難しいこととか、よくわからないんだわ」
彼女は微動だにしない。聞いているのかいないのか。いや、ちゃんと聞いている。
「でもさ」
妹紅は、空を見上げた。
「友達がかなしんでいるときは」
小さな鳥たちが、南に向かって一直線に横切った。
「一緒に泣くことくらいは、できるかな、……なんて」
風に乗って、きらりと、しずく。
八月十五日のことだった。