地上はどこもかしこも甘くて美味しそうな香りが漂っていた。
皆の無意識も、普段とは違ってどこかざわめいている。
何かを期待するような、それでいて少しだけ心配するような。
日も傾き始める頃。楽しそうな空気を堪能した私は、地底へと行き先を変えた。いつぶりに帰るのだろうか、我が家に向かう。
酒気と喧騒。通り過ぎるだけとはいえ、旧都は普段とさして変わりも無くて、嬉しいような寂しいようなはっきりとしない気分になった。
おそらく数日ぶりの我が家も、別段変わりは無いように見える。
開け放たれたままの門扉を抜け、玄関へ。扉を開けたら、真っ直ぐにお姉ちゃんの書斎へ。
ノックもせずに書斎の扉を開けた。重厚な机に向かい、お姉ちゃんは書き物でもしているようだった。書面に落とされた暗紫の目は当然私に向けられる事は無く、握った万年筆がさらさらと紙の上を滑る。
声をかけようかどうかと考えていると、いつの間に来たのだろう、足元で猫が鳴いた。その声はお姉ちゃんの顔を上げさせる。
「……こいし、お帰りなさい。いつここに?」
「つい、さっき」
僅かな驚きに揺れたのは刹那。すぐに柔らかく目を細めたお姉ちゃんのその表情に軽く安堵しながら、私は足を進める。
部屋の真ん中には綺麗に磨かれたガラステーブル。それを挟むように設置された黒い革張りのソファ。来客の無いこの家で誰が使うのかも分からないようなこのソファに、私はどさりと腰を下ろした。
その様子を見て、お姉ちゃんは少しばかり眉根を寄せて微苦笑。小言の一つも零すかと思いきや、そんな事も無く。
「お茶にしましょうか」
仕事に一区切り付けて、私の相手をしてくれるという事なのだろう。お姉ちゃんは机を離れてそう言うと、部屋を出て行った。その姿が見えなくなってから、私は被っていた帽子を脱いで横に置いた。
すぐに戻っては来るのだろうけれど、待っているこの時間は手持ち無沙汰で困ってしまう。これといった用も無くふらりと戻って来ただけの今日のような日は特に。
とはいえ、暇つぶしのネタならば目の前にある。
ガラステーブルの上には、可愛く包装されたプレゼントのような物がいくつかあった。これはきっとチョコレートなのだろう。おりんやおくうの物だろうか。
もしかして、だからお姉ちゃんは嬉しそうなんだろうか。そう思うと、少しだけ悔しくなる。
あーあ、だったら私も何か用意しておけば良かった。
思ったのは一瞬の事で、やっぱり用意なんかしなくて良いんだと考え直す。お姉ちゃんの事だから、判り易く拒絶はしないだろうけれど、受け取る時のその顔に困惑の色が見えたらきっと嫌だから。
いつの間にか戻って来たお姉ちゃんは、マグカップを乗せたトレーをテーブルの上に置いた。視界の端にお姉ちゃんの姿。耳に届く、カタンという小さな音。そうしてお姉ちゃんは静かに私の隣に腰を下ろす。動かない私の視線を追ったお姉ちゃんが、その先にある物を認めた。眉尻を下げて、小さく笑う。
「お返しをね、期待しているそうですよ」
「あの子達はチョコレートは苦手だから」と付け加えたお姉ちゃんは、随分と嬉しそう。
「ふーん」
返した私の言葉は、素っ気無かっただろうか。もうちょっと気の利いた、もしくは優しい言葉でもかけたら良かったかもしれないと、少しだけ悔やんだ。けれど、だって仕方無い。何も考えずにチョコレートを送れるおりんやおくうが、やっぱり少しだけ羨ましかったのだから。
「外はまだ寒かったでしょう?」
妖怪に寒いも暑いも無いだろうに、お姉ちゃんはそう訊ねてきた。地上の人間達の様子を思い浮かべて、私は「そうかもね」と気の無い返事。
その返事に困ったように笑いながら、お姉ちゃんは白いマグカップを差し出した。
マグカップの中身はココア色。一口含んで、ホッとする。ココアよりずっと穏やかでもっと優しい味。
ホットチョコレートなんて、飲むのは一体いつ以来だろう。
「お姉ちゃんがこんなのいれるの、珍しいね」
一口、二口。口の中に残るカカオの香り。
いつの間にか口許が緩んで、私は笑っていた。
「今日はそういう日なのでしょう?」
微かに笑って、お姉ちゃんは困ったように、それでいて嬉しそうにほんの少し首を傾げてみせる。
だから、やっぱり私も何か用意しておけば良かったと何度目かの後悔。
「……こいし?」
黙ってしまった私に、お姉ちゃんの控えめな声。まるで謝るような、そんな響き。
違う、そうじゃない。そうじゃないの。でも、何て言えば良い?
嬉しいのに悔しくて、でもやっぱり嬉しくて。
「お返し、ね」
「うん?」
「お返し、期待しててよね」
気恥ずかしさに俯いたまま、私はぼそぼそと呟くように言った。ほんの少しの沈黙。
そろりと顔を上げた私の目に映ったのは、柔らかく微笑むお姉ちゃんで。伸ばされた右手がくしゃりと髪を撫でた。
「期待していますね」
そう言って嬉しそうに笑うから。
来月の今日は、お姉ちゃんが喜ぶような何かを用意しようって強く思った。