※シオドア・スタージョンの短編「孤独の円盤」(大森望編『不思議のひと触れ』(河出文庫)収録の白石朗訳版)を秘封に置き換えてみた的な作品です。
もし、彼女が死んでいたなら――青白い月の光に照らされ、砕けた波が砂を洗い流していくこの浜辺で、私が彼女と出会うことは無かっただろう。
あと少し、ここに来るのが早かったら、彼女が一糸まとわぬ姿で、とぼとぼと海に向かって歩いて行く姿が見られたかもしれない。そして、もう少し遅かったら、昏い闇をぶちまけたような海の中に、彼女の姿は没して、私はそれを見つけることは出来なかっただろう。
私はその浜辺を走っていた。両足はとっくに音を上げ、湿った砂はひどく重たく、何者かの腕のように私の素足を掴んでいる。ついに私はがくりとその場に膝をつき、荒い息を吐き出して、額から目元に滲む汗を拭った。顔を上げれば、帽子の庇の向こう、ただ黒々とした海が、夜との境界を失わせる水平線、そこへの道半ばに――月の光を受けて、微かに煌めくブロンドがたゆたっている。
打ち寄せる波の音は色彩のように、私の耳から脳へ染みこんでくる。それは白い砂を洗う青い輝きではなく、ただ黒く、昏く――全てを飲みこむような静寂の色彩だった。波しぶきも、私の両手両足に絡みつく砂も、ただ深淵を覗きこむように果てがなく、その中にぽっかりと月だけが、丸く切り抜いたような白を浮かび上がらせている。
私はその空に、今自分がいる場所を想った。そして、水平線に視線を戻した。
彼女はまだ、そこにいた。
波は絶えず押し寄せ続けているのに、そこだけが凍り付いた湖のように静止していた。いや、たぶんにそれは私の錯覚に過ぎないのだけれど、ただ彼女のいるその場所だけが、ひときわの静寂に閉ざされているようだった。私は砂の上に膝をついたまま喘いだ。その声は波打ち際の水音に吸い込まれたと私には思えた。けれど――完全なる静寂の中に包まれていた彼女には、それは耐えがたい騒音だったのかもしれない。
彼女が振り向いた。膝をついた私の姿を、彼女の青い瞳が映し出した。彼女はその瞳を大きく見開くと、次の瞬間には両耳をふさいで、この世のあらゆる絶望を凝縮したような悲鳴をあげた。そして、静寂を失った海へ、彼女は身を躍らせた。
私は靴を脱ぎ捨て、汀へと走った。波が鎖のように足に絡むのをかき分けるようにして、海中に没しようとする白い――濡れた金色の髪が貼り付いた彼女の肩に手を伸ばした。掴んだ瞬間、しかし彼女は思いがけない力で身をよじり、私の手を振り払った。私の身体は重心を失い、波が私の上半身を海面へ叩きつける。その冷たさと、鼻から入り込んだ塩辛い水に咳き込みながら、私は手探りで海の中に彼女の白い肌を探した。そしてそれは細い指となって、私の右手が絡め取った。私は彼女の手を、離さないようにきつく握りしめて、水底に足をつくと海面に顔を出した。濡れた髪が額に貼り付いて、私は自分の帽子が波に攫われてしまったことを知った。そして彼女の金髪も、艶やかに濡れて私の目の前に広がっていた。
「離して!」
私が掴んでいない方の手――彼女の左手が、私の頬に強烈な平手打ちを浴びせた。頭に突き抜けるような痛みとともに、私は彼女が左利きであることを知った。それは今までのどんな情報も私に教えてくれなかった、彼女という存在のひとつの確かさであるように思われた。掴まれた右手を振りほどこうとする彼女に、私は叫んだ。「待って!」――何を待つのか? 彼女はもう十分に待ったのではないだろうか?
「離して、私に構わないで」彼女は金切り声をあげて、私の肩にその爪を食い込ませた。「お願いだから――」握り拳が私の胸元を叩いた。「私を放っておいて」暴れた腕が再び私の頬を打ち据えた。「私を――」
それ以上の言葉は言わせなかった。私は彼女の手を引いて、胸元にその身体を抱き寄せると、彼女の首を掴まえて頸動脈を絞めた。がくりと意識を失った身体は急に重たく私にのしかかり、私は彼女を再び波打ち際まで引き上げ、さらに波の届かない、砂浜の途切れた草の上まで引きずるのに、かなりの苦労をしなければならなかった。
波打ち際に揺れる帽子は見つかりそうになかった。私は草の上に横たえた彼女の傍らに座り、濡れた身体を風が撫でていくのに身を任せた。それから、彼女の裸身を保護するものを探したけれど、どこかで脱ぎ捨てたのであろう彼女の衣服は見つからず、私は気休め程度に、濡れて肌に貼り付いたブラウスを絞って、彼女に掛けてやることしかできなかった。
彼女は仰向けに横たわったまま、いつの間にかその目を開けていた。透き通るような青い瞳が、上空で光の洪水をまき散らす月を映していた。その表情は虚脱しきったように透明で、だからこそそこに、深い――あまりにも深い悲しみをたたえているように、私には思えた。
「どうして、私を助けたの?」
彼女がぼんやりと中空を見上げたまま、そう尋ねた。私はそんな彼女の顔から視線を逸らした。彼女の顔は、世界中で繰り返し流された映像の中のものとも、あるいはあらゆるメディアに掲載された大学の学生証の無表情とも、まったく同じでありながら、同時に別人であった。
「私が誰なのか、知ってるのね」
彼女の問いに、私は頷いた。彼女は目を閉じ、片手で目元を覆った。濡れた髪が貼り付いた頬に、ひとしずく伝った透明なものは、海水なのか、そうでないのか――いずれにしても、それが塩辛いことには変わりないのだろう、ということを、私は思い、沈黙した。
その沈黙をどう受け取ったのか、彼女はゆっくりと身体を起こした。砂浜に、私と彼女の影がさしていた。黒々とした影――海とそれはどちらが深いのだろう。
「私が誰なのかなんて、あなたが知るはずないわ。私のことは、誰も知らないんだもの」
矛盾する言葉に、私は彼女に向き直った。そして、私は肩を竦めてみせた。
「貴女を知らない人間なんていないわ。ネット、テレビ、新聞――」
「そんなもの、何も知らないのと同じことよ」彼女は無感情にそう言い捨てた。その通りだろう、と私は思った。私ももちろん、彼女をネットで、テレビで、新聞で、雑誌で知っていた。その名前も、経歴も、家族構成や、彼女が周囲でどのような存在だったかについても――けれども、そのひとつたりとも、私の頬に伝えられた、彼女が左利きであるという事実を知らせてはいなかった。だから私は、彼女について何も知らないも同然なのだった。
彼女は沈黙した。私は次の言葉を辛抱強く待ってから、口を開いた。
「だったら、私に教えてくれない?」
「あなたは誰なの?」彼女は眉間に皺を寄せて私を見つめた。
「名乗るほどの者じゃないし……今はまだ言えないわ。たぶん、言うべきじゃないから」
私の答えをどう受け取ったのか、彼女は裸身に掛けられた私のブラウスを胸元で握りしめて、それから視線を彷徨わせた。「私の服は?」彼女は問うた。「さあ」私は肩を竦めた。そんな私もほとんど下着姿だったから、彼女はただもう一度力なく息を吐き出した。
「あんまりこっちを見ないで。……向こうを向いて」
彼女に言われ、私は座ったまま彼女に背を向けた。背後の気配で、彼女もまた私に背を向けて座ったのがわかった。濡れた背中と背中の間には、境界線のような距離が引かれたまま、けれど彼女は立ち上がろうとはしなかったし、私もそのまま動かなかった。
波がまた、砂浜に砕けて白い泡を散らせる。私は星さえかき消すような月を見上げた。
「……そのまま、そこにいてくれる?」
彼女が、背中越しにか細い声でそう言った。「ええ」と私は小さく答えた。
そうして、彼女は一部始終を語り始めた。彼女の身に起きた出来事について。それはおおよそ、ネットやテレビや新聞で断片的に語られていた物語を、全く別の形につなぎ合わせたようなものだった。
幼い頃から、彼女の目には世界がつぎはぎだらけのように見えていた。壁、床、天井、あるいは何もない中空にも、気が付けば裂け目のようなものが見えていた。周りの誰もそれに気を留めることがないから、はじめはそれが当たり前の世界の形だと彼女は思っていた。その裂け目が、自分以外には見えないということを彼女が知ったのは、彼女が小学校に入って小さな社会性を得てからのことだった。
彼女の親は、彼女が奇妙なものを見ていることを知ると、それを決して口外しないように、その裂け目には関わらないように、彼女に言い含めた。彼女は素直で聡明であったから、その言いつけを守り、世界のつぎはぎなど存在しないように振る舞った。そうすると、本当に裂け目などどこにもないようにも感じられた。けれど再び気付いてしまえば、やはり世界には歴然と裂け目は存在し、その意識は結局、彼女と周囲の間に齟齬を生み、境界を作り上げていった。そうして彼女の周りから人は減り、やがて彼女はひとりでいるようになった。
彼女はそれほど孤独を苦にしなかった。少なくとも、彼女自身はそうであると信じることで孤独と折り合っていた。そうして彼女はひとりのまま大学生となり、事件は起きた。
その決定的瞬間を映し出したテレビカメラが、本来何を撮ろうとその公園に居たのか、今となっては誰も覚えてはいない。ともかく、その公園には何らかの理由で人が集まっており、大学生になったばかりの彼女もまた、どういう理由でかそこに赴いていた。それは夕暮れ時だったという。人混みを抜け出そうとしていた彼女は、突然眼前に、今までにないほど大きな裂け目を見つけた。その裂け目は、彼女の目の前で、何も無い中空に広がり、彼女ひとりがくぐれそうなほどの闇を、そこに顕現させていた。
吸い寄せられるように、彼女はその裂け目に近付いた。無論、そのとき公園にいた誰ひとりとして、その裂け目の存在を認識してなどいなかった。たまたまその場面を生中継で映し出していたテレビカメラも同様に、裂け目の存在を認識してはいなかった。
そして、衆人環視の中で、彼女はその裂け目の中に消えたのだ。生中継のテレビカメラの映し出している目の前で、人間ひとりがあらゆる物理法則を無視し、忽然と中空に姿を消した。その生中継をたまたま目にしていた何百万の人間が呆気にとられ、同じように公園で彼女が消える瞬間を目撃したテレビクルーを含む不特定多数も混乱した。誰もが白昼夢を見ていたような気分に襲われたが、その後幾度となく――五日後、同じ場所で撮影された映像とともに流された彼女の《消失》の記録は、確かに歴然と残されていた。
瞬く間にその映像は世界を席巻した。テレビ局のやらせ、合成説をとるにはその映像はあまりにも唐突で、また直接に消失の瞬間を見ていた不特定多数の証言、同様に消失の瞬間を捉えたホームビデオが他局で公開されるに至って、この《消失》がいったい何であるのか、世界中で議論が巻き起こった。高名な物理学者が慎重に言葉を選ぶ中で、宗教家が、霊能力者が、神秘主義者が次々と消失の意味を我田引水し、あらゆる憶測が数日のうちに駆け巡った。
そして、消失から五日後、その消失現場に取材に来ていた複数の、国外を含むテレビ局のカメラの前で、彼女は《出現》した。彼女の目にだけ見える裂け目を通って、再び何も無い空間から突如としてその場に降り立ったのだ。複数のメディアが鮮明に記録したその映像もまた瞬く間に世界中に広がり、彼女の消失と出現――《神隠し》について議論は過熱していったのだが、それを知る前に彼女はその場で警察に保護されていた。
警察にしてみれば、神隠しがいかにありえないことであろうが、書類上の事実として彼女はひとりの家出人に過ぎず――彼女の家族は律儀にも捜索願を出していた――、しかし同時に彼女は既に世界一有名な《家出人》であった。警察は彼女から事情を聞き出そうとしたが、彼女はただ口をつぐみ、《神隠し》に遭っていた間どこで何をしていたかという問いにはただ首を横に振るだけだった。そして犯罪者でもない家出人をいつまでも留置することもできず、彼女の家族がマスコミや野次馬をかき分けて警察署に到着すると、警察は彼女を解放せざるを得なかった。ただし、家出人には不釣り合いな警護とともに。
警察の用意したマンションの一室に彼女は両親とともに身を潜めることになった。両親は彼女の帰還を泣いて喜んだが、その両親にも彼女は《神隠し》に遭っていた間のことを話さなかった。そうこうするうちにメディアがそのマンションをかぎつけ、しばらく家族はまともに家を出ることも叶わなかった。
彼女が口をつぐんでいると、大衆の興味はやがて彼女から別の物事へ移り変わっていった。紛糾する物理学界では、ある気鋭の物理学者が彼女の神隠しは可能性世界の横断であるとの見解を示し議論を呼び、子供の間では神隠しごっこが流行り、《神隠しの防止》を謳う商売がぽつぽつ現れたものの、大半の人々にとっては彼女の神隠しはオカルトめいた別世界の出来事に過ぎなかった。
しかし、世間的にほとぼりがさめ、家に戻ることができたからといって、彼女の周囲は平穏には戻らなかった。物理学者に留まらず、あらゆる科学者が彼女に接触を試み、彼女の神隠しをその専門の範疇から計ろうとしていた。特に彼女に強く接触を迫ったのは、可能性世界説を唱えた気鋭の物理学者であって、その学者は彼女の大学に籍を置いていたのだ。無論学者だけではなく、宗教家は彼女の神隠しからの生還を奇跡として担ごうとしたし、メディアは彼女の口を割らせようと手ぐすね引いて待ち構えていた。彼女に個人的に興味を示す無関係な者もまた、大勢いた。
両親は彼女をもてあまし、彼女は外に出れば好奇の目にさらされ、また何者かが次々と彼女に声をかけ、あるいは後をつけた。それは全世界の人類の総数からすれば何百万分の一にしか過ぎなかったとしても、数十億分の一でしかない彼女を疲弊させるには十分だった。
誰もが彼女にこう尋ねた。「あなたは《神隠し》に遭っていた間、どこにいたんですか?」この問いに、彼女はきまってかぶりを振った。ある者は問いを変えた。「あなたは何を見たのですか?」彼女はそれにも口をつぐんだ。またある者――可能性世界説を唱えた学者は、彼女にひどく核心的な問いを発した。「あなたはなぜ向こう側に攫われたのですか?」
その学者の問いに、彼女は一度だけ口を開いてこう答えた。「だって、攫われたのは私だけなのだから、ほかの人には何の関係もないのよ」
通っていた大学にも居られず、彼女は家にこもるしかなかった。しかし、ネットを見れば彼女についての情報はあらゆるところに散乱し、彼女という個人は情報の海の中で解体され得体の知れない何かに変質していた。テレビをつければ一時の安息は得られたが、不意に彼女についての話題が再燃すれば、そこはもう彼女を切り刻む情報のメスでしかなかった。新聞も雑誌も同様だ。彼女は本に、映画に、あるいは学問に逃避した。誰も自分について語らない場所を探し求めた。
けれどあるとき、彼女は唐突に悟ったのだ。ネットに氾濫する彼女についての情報も、テレビも、新聞も雑誌も、そして彼女に声をかける学者も、宗教家も、無関係な者たちも、誰ひとりとして彼女自身には興味など無いのだということに。彼らが求めているのはただ、《神隠しに遭った女性》であり、その《神隠し》とは何なのか、ということだけだった。彼女という存在そのものの情報は既にどこにでも溢れていたが、それらは全て付属品にしか過ぎない、《神隠し》の傍らにうち捨てられるものでしかなかった。
世界中の誰ひとりとして、《彼女》を必要とする者はいなかった。両親でさえも彼女という存在、否、《神隠しに遭った彼女》をもてあましていたのだから、もはや《神隠し》を取り除いたところに、《彼女》は存在できなくなっていたのだ。
そして彼女は、この海にやってきたのだ。もはや必要とされていない存在そのものに、終わりをもたらすために。
「寒くない?」話し終えた彼女に、私はそう尋ねた。潮騒は前よりもずっと静かになり、影は前よりもずっと長くなっていた。
「ううん」彼女は影の中からそう答え、それからまた少し沈黙したあと、こう尋ね返してきた。「あなたは私に訊かないの? 《神隠し》のとき、私が何を見たのか」
私はそれには答えず、立ち上がってひとつ伸びをした。月が僅かに雲間に霞み、その光の洪水に息を潜めていた星の瞬きが控えめに己を主張しはじめていた。「二時十七分二十一秒」と私は呟いて、それから彼女を振り返った。
「貴女がもしそれを語っていても、貴女はきっとこうなっていたんじゃないのかしら」
私の言葉に、彼女は振り返って私を見上げた。青い瞳に私の顔が映り込んでいた。そして、驚嘆の表情を、やがて力ない笑みに歪めて、彼女は肩を竦めた。
「その通りだわ。どうせ信じてもらえなかった。みんな、求めているのは驚天動地の物語、未知の黄金郷、あるいはとてつもないテクノロジー、そして、それによって世界の真理を全て悟れるような体験――そんな、自分に都合のいい物語だけなのよ。偉い人も、頭のいい人も、みんなそう。特別な体験をした者には、特別な何かが贈られると無邪気に信じているのよ」私がもう一度背中合わせに腰を下ろすと、彼女は小さく囁いた。「私は」
「私が話すわ」私はそう口走った。
ある種の魂は、言葉につくせぬ孤独を秘めている
その孤独はとてつもないから、分かち合える者を探している
いつでも、いつまでも、探し続けている
それが私の孤独、そしてあなたの孤独
教えてあげる、あなたよりも孤独な者がここにいることを
「どうして」彼女は呆然とそう呟いた。「誰にも見つかるはずがなかったのに」
「《いちばん孤独なひとへ》――貴女が書いたんでしょう、これは」
電子の海の、忘れ去られた掲示板に、その言葉は書き残されていた。私がそれを見つけたのは偶然だった。しかし、必然たり得ない偶然はないのだ。
「どうしてわかったの」
「貴女が自分のことを《攫われた》と言ったと、あの教授に聞いたの。貴女にただひとり口を開かせた物理学者から。貴女は攫われた。どうして攫われたの? 神様は、人間ひとりを隠してどうしたいの? ――それは、きっとシンプルな答えなんでしょう」
彼女が深く深く吐息する音が、潮騒の中に霞んでいった。
「そうよ。私は攫われたの。あの日……裂け目の向こう側、真っ暗闇の中で、私は抱きしめられたの。上下左右もわからない闇の中で、あれは人間だったのか、それ以外の何かだったのか、それもわからないけれど――私はただ、抱きしめられて、囁かれたの」そして彼女は、私に向けて囁いた。「あなたじゃない、と」
尽きせぬ孤独を抱いた神様は、同じ孤独を抱えた人間を攫うのだ。けれどその孤独は尽きせぬから、決して埋まることはない。分かち合える者も、きっといない。だから伝えるのだ、せめてその孤独の一端を、自分から切り捨てるために。
そして彼女もまた、忘れられた電子の海の片隅に、捨てていった。海に手紙を入れたボトルを投げるように、誰にも届かないであろう伝言として。
「私は、助けを求められたことが嬉しかった。でも、それは私ではなかった。あんなものが見える目を持ったのに、それは私も、私を攫った神様も救わなかった。ねえ、助けを求める手を取れない私は、神様のように誰かを攫うことも出来ない私は――私は」
私は、彼女に向き直った。彼女はもうこちらを見つめていた。世界の裂け目を見る彼女の目に、私の姿がどう映っているのかはわからなかった。
「貴女を探していたの」私は言った。
「あの言葉を見つけてから、ずっと貴女を探していたの。貴女の居所を突き止めたときには、もう貴女はここに向かっていて、必死で追いかけてきた。貴女がきっとこうするだろうと思ったから。貴女も――どこにも居場所がないのだと知っていたから」
そこで、私は息を継いだ。彼女の手をとって、その瞳を覗きこんだ。
「私の目には、世界が数式に見えるの。夜空を見れば、月と星で場所と時間がわかるように、この世界の全てが数式で見えてしまうの。だから、私には何もかもがあまりにも自明で、だから私は誰ともわかり合えなかった。こころの数式だけは見えなかったから。今もわからない。貴女の孤独の数式は私の目には見えない。でも――私は貴女に攫われたの」私は彼女との距離という境界を埋めようと、その頬に触れ、髪を梳いた。「貴女が私をここに攫ったのよ」
彼女は何も言わなかった。ただ、既に乾いていた金色の髪が、月の光を浴びて煌めいていた。その輝きの意味は、きっとこうだ。――どんな孤独にも終わりがある。長い間、いやというほど孤独だった人のもとにも。
もし、彼女が死んでいたなら――青白い月の光に照らされ、砕けた波が砂を洗い流していくこの浜辺で、私が彼女と出会うことは無かっただろう。
あと少し、ここに来るのが早かったら、彼女が一糸まとわぬ姿で、とぼとぼと海に向かって歩いて行く姿が見られたかもしれない。そして、もう少し遅かったら、昏い闇をぶちまけたような海の中に、彼女の姿は没して、私はそれを見つけることは出来なかっただろう。
私はその浜辺を走っていた。両足はとっくに音を上げ、湿った砂はひどく重たく、何者かの腕のように私の素足を掴んでいる。ついに私はがくりとその場に膝をつき、荒い息を吐き出して、額から目元に滲む汗を拭った。顔を上げれば、帽子の庇の向こう、ただ黒々とした海が、夜との境界を失わせる水平線、そこへの道半ばに――月の光を受けて、微かに煌めくブロンドがたゆたっている。
打ち寄せる波の音は色彩のように、私の耳から脳へ染みこんでくる。それは白い砂を洗う青い輝きではなく、ただ黒く、昏く――全てを飲みこむような静寂の色彩だった。波しぶきも、私の両手両足に絡みつく砂も、ただ深淵を覗きこむように果てがなく、その中にぽっかりと月だけが、丸く切り抜いたような白を浮かび上がらせている。
私はその空に、今自分がいる場所を想った。そして、水平線に視線を戻した。
彼女はまだ、そこにいた。
波は絶えず押し寄せ続けているのに、そこだけが凍り付いた湖のように静止していた。いや、たぶんにそれは私の錯覚に過ぎないのだけれど、ただ彼女のいるその場所だけが、ひときわの静寂に閉ざされているようだった。私は砂の上に膝をついたまま喘いだ。その声は波打ち際の水音に吸い込まれたと私には思えた。けれど――完全なる静寂の中に包まれていた彼女には、それは耐えがたい騒音だったのかもしれない。
彼女が振り向いた。膝をついた私の姿を、彼女の青い瞳が映し出した。彼女はその瞳を大きく見開くと、次の瞬間には両耳をふさいで、この世のあらゆる絶望を凝縮したような悲鳴をあげた。そして、静寂を失った海へ、彼女は身を躍らせた。
私は靴を脱ぎ捨て、汀へと走った。波が鎖のように足に絡むのをかき分けるようにして、海中に没しようとする白い――濡れた金色の髪が貼り付いた彼女の肩に手を伸ばした。掴んだ瞬間、しかし彼女は思いがけない力で身をよじり、私の手を振り払った。私の身体は重心を失い、波が私の上半身を海面へ叩きつける。その冷たさと、鼻から入り込んだ塩辛い水に咳き込みながら、私は手探りで海の中に彼女の白い肌を探した。そしてそれは細い指となって、私の右手が絡め取った。私は彼女の手を、離さないようにきつく握りしめて、水底に足をつくと海面に顔を出した。濡れた髪が額に貼り付いて、私は自分の帽子が波に攫われてしまったことを知った。そして彼女の金髪も、艶やかに濡れて私の目の前に広がっていた。
「離して!」
私が掴んでいない方の手――彼女の左手が、私の頬に強烈な平手打ちを浴びせた。頭に突き抜けるような痛みとともに、私は彼女が左利きであることを知った。それは今までのどんな情報も私に教えてくれなかった、彼女という存在のひとつの確かさであるように思われた。掴まれた右手を振りほどこうとする彼女に、私は叫んだ。「待って!」――何を待つのか? 彼女はもう十分に待ったのではないだろうか?
「離して、私に構わないで」彼女は金切り声をあげて、私の肩にその爪を食い込ませた。「お願いだから――」握り拳が私の胸元を叩いた。「私を放っておいて」暴れた腕が再び私の頬を打ち据えた。「私を――」
それ以上の言葉は言わせなかった。私は彼女の手を引いて、胸元にその身体を抱き寄せると、彼女の首を掴まえて頸動脈を絞めた。がくりと意識を失った身体は急に重たく私にのしかかり、私は彼女を再び波打ち際まで引き上げ、さらに波の届かない、砂浜の途切れた草の上まで引きずるのに、かなりの苦労をしなければならなかった。
波打ち際に揺れる帽子は見つかりそうになかった。私は草の上に横たえた彼女の傍らに座り、濡れた身体を風が撫でていくのに身を任せた。それから、彼女の裸身を保護するものを探したけれど、どこかで脱ぎ捨てたのであろう彼女の衣服は見つからず、私は気休め程度に、濡れて肌に貼り付いたブラウスを絞って、彼女に掛けてやることしかできなかった。
彼女は仰向けに横たわったまま、いつの間にかその目を開けていた。透き通るような青い瞳が、上空で光の洪水をまき散らす月を映していた。その表情は虚脱しきったように透明で、だからこそそこに、深い――あまりにも深い悲しみをたたえているように、私には思えた。
「どうして、私を助けたの?」
彼女がぼんやりと中空を見上げたまま、そう尋ねた。私はそんな彼女の顔から視線を逸らした。彼女の顔は、世界中で繰り返し流された映像の中のものとも、あるいはあらゆるメディアに掲載された大学の学生証の無表情とも、まったく同じでありながら、同時に別人であった。
「私が誰なのか、知ってるのね」
彼女の問いに、私は頷いた。彼女は目を閉じ、片手で目元を覆った。濡れた髪が貼り付いた頬に、ひとしずく伝った透明なものは、海水なのか、そうでないのか――いずれにしても、それが塩辛いことには変わりないのだろう、ということを、私は思い、沈黙した。
その沈黙をどう受け取ったのか、彼女はゆっくりと身体を起こした。砂浜に、私と彼女の影がさしていた。黒々とした影――海とそれはどちらが深いのだろう。
「私が誰なのかなんて、あなたが知るはずないわ。私のことは、誰も知らないんだもの」
矛盾する言葉に、私は彼女に向き直った。そして、私は肩を竦めてみせた。
「貴女を知らない人間なんていないわ。ネット、テレビ、新聞――」
「そんなもの、何も知らないのと同じことよ」彼女は無感情にそう言い捨てた。その通りだろう、と私は思った。私ももちろん、彼女をネットで、テレビで、新聞で、雑誌で知っていた。その名前も、経歴も、家族構成や、彼女が周囲でどのような存在だったかについても――けれども、そのひとつたりとも、私の頬に伝えられた、彼女が左利きであるという事実を知らせてはいなかった。だから私は、彼女について何も知らないも同然なのだった。
彼女は沈黙した。私は次の言葉を辛抱強く待ってから、口を開いた。
「だったら、私に教えてくれない?」
「あなたは誰なの?」彼女は眉間に皺を寄せて私を見つめた。
「名乗るほどの者じゃないし……今はまだ言えないわ。たぶん、言うべきじゃないから」
私の答えをどう受け取ったのか、彼女は裸身に掛けられた私のブラウスを胸元で握りしめて、それから視線を彷徨わせた。「私の服は?」彼女は問うた。「さあ」私は肩を竦めた。そんな私もほとんど下着姿だったから、彼女はただもう一度力なく息を吐き出した。
「あんまりこっちを見ないで。……向こうを向いて」
彼女に言われ、私は座ったまま彼女に背を向けた。背後の気配で、彼女もまた私に背を向けて座ったのがわかった。濡れた背中と背中の間には、境界線のような距離が引かれたまま、けれど彼女は立ち上がろうとはしなかったし、私もそのまま動かなかった。
波がまた、砂浜に砕けて白い泡を散らせる。私は星さえかき消すような月を見上げた。
「……そのまま、そこにいてくれる?」
彼女が、背中越しにか細い声でそう言った。「ええ」と私は小さく答えた。
そうして、彼女は一部始終を語り始めた。彼女の身に起きた出来事について。それはおおよそ、ネットやテレビや新聞で断片的に語られていた物語を、全く別の形につなぎ合わせたようなものだった。
幼い頃から、彼女の目には世界がつぎはぎだらけのように見えていた。壁、床、天井、あるいは何もない中空にも、気が付けば裂け目のようなものが見えていた。周りの誰もそれに気を留めることがないから、はじめはそれが当たり前の世界の形だと彼女は思っていた。その裂け目が、自分以外には見えないということを彼女が知ったのは、彼女が小学校に入って小さな社会性を得てからのことだった。
彼女の親は、彼女が奇妙なものを見ていることを知ると、それを決して口外しないように、その裂け目には関わらないように、彼女に言い含めた。彼女は素直で聡明であったから、その言いつけを守り、世界のつぎはぎなど存在しないように振る舞った。そうすると、本当に裂け目などどこにもないようにも感じられた。けれど再び気付いてしまえば、やはり世界には歴然と裂け目は存在し、その意識は結局、彼女と周囲の間に齟齬を生み、境界を作り上げていった。そうして彼女の周りから人は減り、やがて彼女はひとりでいるようになった。
彼女はそれほど孤独を苦にしなかった。少なくとも、彼女自身はそうであると信じることで孤独と折り合っていた。そうして彼女はひとりのまま大学生となり、事件は起きた。
その決定的瞬間を映し出したテレビカメラが、本来何を撮ろうとその公園に居たのか、今となっては誰も覚えてはいない。ともかく、その公園には何らかの理由で人が集まっており、大学生になったばかりの彼女もまた、どういう理由でかそこに赴いていた。それは夕暮れ時だったという。人混みを抜け出そうとしていた彼女は、突然眼前に、今までにないほど大きな裂け目を見つけた。その裂け目は、彼女の目の前で、何も無い中空に広がり、彼女ひとりがくぐれそうなほどの闇を、そこに顕現させていた。
吸い寄せられるように、彼女はその裂け目に近付いた。無論、そのとき公園にいた誰ひとりとして、その裂け目の存在を認識してなどいなかった。たまたまその場面を生中継で映し出していたテレビカメラも同様に、裂け目の存在を認識してはいなかった。
そして、衆人環視の中で、彼女はその裂け目の中に消えたのだ。生中継のテレビカメラの映し出している目の前で、人間ひとりがあらゆる物理法則を無視し、忽然と中空に姿を消した。その生中継をたまたま目にしていた何百万の人間が呆気にとられ、同じように公園で彼女が消える瞬間を目撃したテレビクルーを含む不特定多数も混乱した。誰もが白昼夢を見ていたような気分に襲われたが、その後幾度となく――五日後、同じ場所で撮影された映像とともに流された彼女の《消失》の記録は、確かに歴然と残されていた。
瞬く間にその映像は世界を席巻した。テレビ局のやらせ、合成説をとるにはその映像はあまりにも唐突で、また直接に消失の瞬間を見ていた不特定多数の証言、同様に消失の瞬間を捉えたホームビデオが他局で公開されるに至って、この《消失》がいったい何であるのか、世界中で議論が巻き起こった。高名な物理学者が慎重に言葉を選ぶ中で、宗教家が、霊能力者が、神秘主義者が次々と消失の意味を我田引水し、あらゆる憶測が数日のうちに駆け巡った。
そして、消失から五日後、その消失現場に取材に来ていた複数の、国外を含むテレビ局のカメラの前で、彼女は《出現》した。彼女の目にだけ見える裂け目を通って、再び何も無い空間から突如としてその場に降り立ったのだ。複数のメディアが鮮明に記録したその映像もまた瞬く間に世界中に広がり、彼女の消失と出現――《神隠し》について議論は過熱していったのだが、それを知る前に彼女はその場で警察に保護されていた。
警察にしてみれば、神隠しがいかにありえないことであろうが、書類上の事実として彼女はひとりの家出人に過ぎず――彼女の家族は律儀にも捜索願を出していた――、しかし同時に彼女は既に世界一有名な《家出人》であった。警察は彼女から事情を聞き出そうとしたが、彼女はただ口をつぐみ、《神隠し》に遭っていた間どこで何をしていたかという問いにはただ首を横に振るだけだった。そして犯罪者でもない家出人をいつまでも留置することもできず、彼女の家族がマスコミや野次馬をかき分けて警察署に到着すると、警察は彼女を解放せざるを得なかった。ただし、家出人には不釣り合いな警護とともに。
警察の用意したマンションの一室に彼女は両親とともに身を潜めることになった。両親は彼女の帰還を泣いて喜んだが、その両親にも彼女は《神隠し》に遭っていた間のことを話さなかった。そうこうするうちにメディアがそのマンションをかぎつけ、しばらく家族はまともに家を出ることも叶わなかった。
彼女が口をつぐんでいると、大衆の興味はやがて彼女から別の物事へ移り変わっていった。紛糾する物理学界では、ある気鋭の物理学者が彼女の神隠しは可能性世界の横断であるとの見解を示し議論を呼び、子供の間では神隠しごっこが流行り、《神隠しの防止》を謳う商売がぽつぽつ現れたものの、大半の人々にとっては彼女の神隠しはオカルトめいた別世界の出来事に過ぎなかった。
しかし、世間的にほとぼりがさめ、家に戻ることができたからといって、彼女の周囲は平穏には戻らなかった。物理学者に留まらず、あらゆる科学者が彼女に接触を試み、彼女の神隠しをその専門の範疇から計ろうとしていた。特に彼女に強く接触を迫ったのは、可能性世界説を唱えた気鋭の物理学者であって、その学者は彼女の大学に籍を置いていたのだ。無論学者だけではなく、宗教家は彼女の神隠しからの生還を奇跡として担ごうとしたし、メディアは彼女の口を割らせようと手ぐすね引いて待ち構えていた。彼女に個人的に興味を示す無関係な者もまた、大勢いた。
両親は彼女をもてあまし、彼女は外に出れば好奇の目にさらされ、また何者かが次々と彼女に声をかけ、あるいは後をつけた。それは全世界の人類の総数からすれば何百万分の一にしか過ぎなかったとしても、数十億分の一でしかない彼女を疲弊させるには十分だった。
誰もが彼女にこう尋ねた。「あなたは《神隠し》に遭っていた間、どこにいたんですか?」この問いに、彼女はきまってかぶりを振った。ある者は問いを変えた。「あなたは何を見たのですか?」彼女はそれにも口をつぐんだ。またある者――可能性世界説を唱えた学者は、彼女にひどく核心的な問いを発した。「あなたはなぜ向こう側に攫われたのですか?」
その学者の問いに、彼女は一度だけ口を開いてこう答えた。「だって、攫われたのは私だけなのだから、ほかの人には何の関係もないのよ」
通っていた大学にも居られず、彼女は家にこもるしかなかった。しかし、ネットを見れば彼女についての情報はあらゆるところに散乱し、彼女という個人は情報の海の中で解体され得体の知れない何かに変質していた。テレビをつければ一時の安息は得られたが、不意に彼女についての話題が再燃すれば、そこはもう彼女を切り刻む情報のメスでしかなかった。新聞も雑誌も同様だ。彼女は本に、映画に、あるいは学問に逃避した。誰も自分について語らない場所を探し求めた。
けれどあるとき、彼女は唐突に悟ったのだ。ネットに氾濫する彼女についての情報も、テレビも、新聞も雑誌も、そして彼女に声をかける学者も、宗教家も、無関係な者たちも、誰ひとりとして彼女自身には興味など無いのだということに。彼らが求めているのはただ、《神隠しに遭った女性》であり、その《神隠し》とは何なのか、ということだけだった。彼女という存在そのものの情報は既にどこにでも溢れていたが、それらは全て付属品にしか過ぎない、《神隠し》の傍らにうち捨てられるものでしかなかった。
世界中の誰ひとりとして、《彼女》を必要とする者はいなかった。両親でさえも彼女という存在、否、《神隠しに遭った彼女》をもてあましていたのだから、もはや《神隠し》を取り除いたところに、《彼女》は存在できなくなっていたのだ。
そして彼女は、この海にやってきたのだ。もはや必要とされていない存在そのものに、終わりをもたらすために。
「寒くない?」話し終えた彼女に、私はそう尋ねた。潮騒は前よりもずっと静かになり、影は前よりもずっと長くなっていた。
「ううん」彼女は影の中からそう答え、それからまた少し沈黙したあと、こう尋ね返してきた。「あなたは私に訊かないの? 《神隠し》のとき、私が何を見たのか」
私はそれには答えず、立ち上がってひとつ伸びをした。月が僅かに雲間に霞み、その光の洪水に息を潜めていた星の瞬きが控えめに己を主張しはじめていた。「二時十七分二十一秒」と私は呟いて、それから彼女を振り返った。
「貴女がもしそれを語っていても、貴女はきっとこうなっていたんじゃないのかしら」
私の言葉に、彼女は振り返って私を見上げた。青い瞳に私の顔が映り込んでいた。そして、驚嘆の表情を、やがて力ない笑みに歪めて、彼女は肩を竦めた。
「その通りだわ。どうせ信じてもらえなかった。みんな、求めているのは驚天動地の物語、未知の黄金郷、あるいはとてつもないテクノロジー、そして、それによって世界の真理を全て悟れるような体験――そんな、自分に都合のいい物語だけなのよ。偉い人も、頭のいい人も、みんなそう。特別な体験をした者には、特別な何かが贈られると無邪気に信じているのよ」私がもう一度背中合わせに腰を下ろすと、彼女は小さく囁いた。「私は」
「私が話すわ」私はそう口走った。
ある種の魂は、言葉につくせぬ孤独を秘めている
その孤独はとてつもないから、分かち合える者を探している
いつでも、いつまでも、探し続けている
それが私の孤独、そしてあなたの孤独
教えてあげる、あなたよりも孤独な者がここにいることを
「どうして」彼女は呆然とそう呟いた。「誰にも見つかるはずがなかったのに」
「《いちばん孤独なひとへ》――貴女が書いたんでしょう、これは」
電子の海の、忘れ去られた掲示板に、その言葉は書き残されていた。私がそれを見つけたのは偶然だった。しかし、必然たり得ない偶然はないのだ。
「どうしてわかったの」
「貴女が自分のことを《攫われた》と言ったと、あの教授に聞いたの。貴女にただひとり口を開かせた物理学者から。貴女は攫われた。どうして攫われたの? 神様は、人間ひとりを隠してどうしたいの? ――それは、きっとシンプルな答えなんでしょう」
彼女が深く深く吐息する音が、潮騒の中に霞んでいった。
「そうよ。私は攫われたの。あの日……裂け目の向こう側、真っ暗闇の中で、私は抱きしめられたの。上下左右もわからない闇の中で、あれは人間だったのか、それ以外の何かだったのか、それもわからないけれど――私はただ、抱きしめられて、囁かれたの」そして彼女は、私に向けて囁いた。「あなたじゃない、と」
尽きせぬ孤独を抱いた神様は、同じ孤独を抱えた人間を攫うのだ。けれどその孤独は尽きせぬから、決して埋まることはない。分かち合える者も、きっといない。だから伝えるのだ、せめてその孤独の一端を、自分から切り捨てるために。
そして彼女もまた、忘れられた電子の海の片隅に、捨てていった。海に手紙を入れたボトルを投げるように、誰にも届かないであろう伝言として。
「私は、助けを求められたことが嬉しかった。でも、それは私ではなかった。あんなものが見える目を持ったのに、それは私も、私を攫った神様も救わなかった。ねえ、助けを求める手を取れない私は、神様のように誰かを攫うことも出来ない私は――私は」
私は、彼女に向き直った。彼女はもうこちらを見つめていた。世界の裂け目を見る彼女の目に、私の姿がどう映っているのかはわからなかった。
「貴女を探していたの」私は言った。
「あの言葉を見つけてから、ずっと貴女を探していたの。貴女の居所を突き止めたときには、もう貴女はここに向かっていて、必死で追いかけてきた。貴女がきっとこうするだろうと思ったから。貴女も――どこにも居場所がないのだと知っていたから」
そこで、私は息を継いだ。彼女の手をとって、その瞳を覗きこんだ。
「私の目には、世界が数式に見えるの。夜空を見れば、月と星で場所と時間がわかるように、この世界の全てが数式で見えてしまうの。だから、私には何もかもがあまりにも自明で、だから私は誰ともわかり合えなかった。こころの数式だけは見えなかったから。今もわからない。貴女の孤独の数式は私の目には見えない。でも――私は貴女に攫われたの」私は彼女との距離という境界を埋めようと、その頬に触れ、髪を梳いた。「貴女が私をここに攫ったのよ」
彼女は何も言わなかった。ただ、既に乾いていた金色の髪が、月の光を浴びて煌めいていた。その輝きの意味は、きっとこうだ。――どんな孤独にも終わりがある。長い間、いやというほど孤独だった人のもとにも。
読み始めは「は?」でしたけど、読み進めていくうちにだんだんと引き込まれていったというかなんというか……。
とても素晴らしい置き換えでした。
夜の海とか、異文化とのコミュニケーションってロマンあふれますよね。
ボトルメッセージのところを、電子の海にしたところにはしっくりきました。
『不思議のひと触れ』はいいですよね。『一角獣・多角獣』の『熊人形』とか『考え方』も好き。
文体が英文和訳調なのもミステリアスな雰囲気を引き出していて、流石だと思います。
そして毎度のことながら元ネタを読んでみたくなりました。
浅木原忍様の作品を数本読まさしていただきながら、考え方が広がりました。
文がとても綺麗で、文にも絵の様に一見しただけで何かを感じられるものがあるんだな~と
色々と変な書き方でごめんなさい。。。素敵な作品の数々をありがとうございます!