※本作品は他所で過去に公開していたものを加筆・修正したものです。
現実(うつしよ)は夢、夜の夢こそ真実(まこと)――江戸川乱歩
「――あなたは、妖怪というものを知っているかしら」
少女の目の前の女性――八雲紫はそう尋ねる。
少女は首を縦に振り、肯定した。
それは昔の人には理解できなかった科学的現象や、その他ただの見間違いなどを全てひっくるめたものの総称であると、少女は語る。
理解できないものは人々の恐怖の対象になる。妖怪とはそうした恐怖の象徴なのだ、と。
「そう。まあ、あなたの世界ではすでにそういうことになっているのでしょうね」
紫は静かに笑った。
少女は紫の言葉の意味を尋ねる。
「意味? ……別に、ただそのままの意味よ。さっき説明した通り、ここは幻想郷と呼ばれる世界。この世界は、あなたの世界とは根本的に異なる部分がある。それが、妖怪というものがさも当然のように存在しているということ」
紫はそういってまた笑う。
しかし少女は、やはり理解できないと言う。
「理解できないというのなら別にそれでも構わないから、ただ受け入れなさい。ここはそういう世界なのよ。あなたが確率的に起こり得ないと考えることが、ここでは平然と起こる。……いえ、そもそもあなたの世界でも妖怪による小さな異変は、確かに起こっていたはずなのだけどね」
紫の言葉を聞いて、そんなはずはないと、少女はただ否定する。そのような非科学的な現象は少女の世界には存在していないのだ、と。
「いいえ、違うわ。あなたの世界にも妖怪は確かに存在しているのよ。ただあなたには見えていないだけ。理解は時に人を盲目にする。だから科学という思い込みがあなたの正しい理解を阻む。それがあなたのいう統計数学的に、どれほど実際には起こりえない低確率な現象であったとしても、それは妖怪の存在を否定する根拠にはならないわ。雨乞いをし続ければ、確率的にはいずれ雨は降る。だからといって雨が降ったのは偶然で、その雨乞いには何の意味もなかったと決め付ける根拠は、本来どこにもないでしょう? 雨乞いがそもそもの雨の降る確率を操作したのかも知れないのに、ね。……それに、そもそも低確率という言葉は、低い割合で確実に存在するという意味でしかないのよ」
妖怪とは少女の世界にも低い割合で確実に存在するものだと紫は言う。
その紫の言葉を聞いた少女は何も言わなかった。
それでもその少女の表情は、理解はできるが納得はできないと語っている。
「まあ、今はあなたの世界について議論するときではないわ。だから今はあなたの知りたがっているここ――幻想郷の話をするわね。といっても、大して語ることもないのだけれど。ここはただ、あなたの世界にとっての幻想の世界。あなたの世界ではすでに忘れ去られ、否定されてしまった幻想という存在がさも当然のようにそこに在る世界。あなたの世界での偶然がこの世界ではまるで必然のように振る舞い、また必然はまるで偶然のように起きづらい。――そんなある種の逆転が起きてしまっているのが、この幻想郷という場所なのよ」
偶然も積み重なれば必然となる。そして必然となってしまった幻想は、この幻想郷と呼ばれる場所では何よりも大きな力を持つ。
少女が何も口に出さないことを確認してから、紫はやはり口元に怪しげな笑みをたたえながら続ける。
「ここ幻想郷ではあなたのような人間はどうしようもなく弱く、逆に私たち妖怪のような幻想の存在はどうしようもない程に大きな力を持っている。――ようこそ幻想郷へ。ここではあなたが行くも戻るも、生きるも死ぬも全てが自由よ。――宇佐見蓮子さん」
宇佐見蓮子――そう呼ばれた少女はしかし、ただ沈黙する他なかった。
「……暇ね」
博麗神社の巫女である博麗霊夢は、箒を手にその境内をぶらぶらと歩きながらそんな独り言を呟いた。
実際のところ、確かに幻想郷では長らく異変らしい異変も起きてはいない。
異変解決を生業としている霊夢にとって、その現状は退屈なものに違いなかった。
だからといって異変が起きることを霊夢が望むわけでもないが――。
「うーん……ちょっとお茶でも飲んで休憩しよう」
掃除をする振りに疲れたらしい霊夢はそういうと、箒をくるくると回しながら社務所の方へと歩いていった。
箒を縁側に立てかけるように置いて履物を脱いだ霊夢は、ぱたぱたと足音を立てながら部屋の中を忙しなく動き回る。
沸かしたお湯を一旦冷ましてから、安物の茶葉を入れた急須にそのお湯を注ぐ。
そうすることで、たとえ安物の茶葉でも苦味の少ない緑茶が飲めることを霊夢は知り、それからは多少面倒でもそうする癖をつけていた。
急須と湯のみをお盆に載せて持ち、霊夢はゆっくりと縁側に出る。
そして縁側に腰をかけて急須のお茶を湯のみに入れると、麗らかな風を感じながらお茶を飲む。
霊夢はそのほのかな甘みと苦味を味わい、そして一息ついた。
「ふぅ……美味しい」
そんな感想を口に出しながら、霊夢は思う。
こんな日常をただ漫然と過ごすことも、きっと悪くはないのだろう。
退屈だなんてものは、結局のところ恵まれた者の贅沢でしかないのかも知れない。
「でも……恵まれた者にだって、恵まれた者なりの苦労があるものよね」
それは霊夢が深く考えての言葉ではなく、ただ思いついたことをそのまま口に出しただけのものだった。
だからこそ今度また異変が起きて退屈な日々が終わったとしたら、それはそれで一苦労に違いないことも霊夢はその経験から知っていた。
結局は何事もほどほどで良いのだろう――霊夢はそんなことを思いながら、また一口お茶を飲む。
そうしてほどほどに美味しいお茶を飲みながら――そんなときにふと霊夢は小さな違和感を覚える。
しかし、それには何の根拠があるわけでもなかった。
風向きが変わったわけでも、お茶の味が変わったわけでもない。
虫や鳥さえ普段どおりの声を聞かせていた。空だって変わらず青いままだ。
縁側に立てかけた箒さえ倒れたりはしていなかった。
霊夢の知りうる範囲で特別に何が起きたというわけでは、決してない。
だからこそ本来なら誰も気付かないはずの、そんな違和感。
どうしてそれに気付いたのかと霊夢が尋ねられたとしても、きっと意味のある回答なんて出来ないだろう。
だから霊夢は、おそらくこう答えるはずだった。
――それは勘だった、と。
生い茂った木々が日光を遮っているせいか、そこはいつでも暗くてじめじめとしている。
――魔法の森。
そう呼ばれる場所に、気付いたときにはすでに蓮子は立っていた。
その直前までは紫と名乗る妖怪と話をしていたはずだったのだが、突然足元に穴のようなものが開いたかと思えば――次の瞬間にはこの場所にいたのだ。
「……全く、一体何だっていうのよ」
苛立ちを隠そうともせず蓮子は独りごちた。
思えば蓮子にとって不可解な事ばかりがその身に連続して起きているのである。蓮子が苛立つのも無理はなかった。
「ここは幻想郷という異世界で、私の常識という理解の裏側の世界だなんて……」
紫が語ったことをそのまま鵜呑みにするのだとすれば、そういうことになる。
しかし蓮子は当然ながら、その紫の言葉を信じてはいなかった。
「……そんなこと、簡単に信じられるわけがない」
蓮子は紫の話を聞いて、一つのことを思っていた。
それはまるで、幼き日に読んだ絵本やジュヴナイル小説のような――夢物語だ。
蓮子は自身の頭脳にそれなりの自信を持っているが、しかしこの現状を正しく説明する方法はそれこそ『夢』以外に思いつかなかった。
「まあ、今は考えても仕方がないわね」
そう呟きながら、蓮子は周囲を見回した――というよりも、見回すまでもなく「それ」は蓮子の目に入ってきた。
最初から蓮子の正面にあった「それ」は、どうにもこぢんまりとした洋館だった。
「……いかにもって感じで、ちょっと気に喰わないけど」
いかにも、「この洋館を訪ねなさい」と言われているようで。
それが紫の思惑であると蓮子には分かるだけに――気に喰わない。
「……けど、そうも言っていられないか」
蓮子はため息を一つついてから、ゆっくりとその洋館の扉の前まで歩いていく。
どうやらその扉には呼び鈴のようなものは付いていないらしい。
蓮子は少しだけ迷いながらも、その扉を軽くノックする。
「ごめんくださーい」
鬼が出るか蛇が出るか。
蓮子はその不安な気持ちを表情に出さないように気をつけながら、家の中からの返事を待つ。
「はーい、どちらさま?」
若い女性の声が聞こえると同時に、目の前の扉が開く。
けれど――そこに人影はなかった。
扉が独りでに開いたのかと、蓮子は少し警戒しながら様子を窺う。そうしてその扉の取っ手を見てみると、何やら小さな人形がぶら下がっていた。どうやらその人形が扉を開けたらしいと理解した蓮子は一度安心して、しかし次の瞬間に自らその安心を否定する。
「人形が、勝手に――」
そうだ。人形が勝手に動いているくらいなら、まだ自動ドアである方が蓮子としてはありがたかったのだ。
確かに蓮子の世界にはロボットというものも存在していたが、その人形は明らかに手作りのそれだった。そんな手作りの人形にドアを開けさせるような精密な動作をさせることは、蓮子の世界の科学でも難しいと言えた。部品の小型化、モーターのトルク不足、そもそも関節部分はどうなって――。
そんな蓮子の思考を遮ったのは、最初に聞こえた若い女性の声だった。
「あら。もしかして私の人形を見たことがない人?」
蓮子に尋ねる声を聞いて、蓮子は人形から声の主に目を移す。
そこには不思議そうな顔をしながら、その綺麗な金髪を手でかきあげている少女。
それは女性である蓮子でさえ一瞬見惚れるような整った顔立ちの少女だったが、当然ながら蓮子には見覚えのない顔だった。
「あなたは、誰ですか?」
蓮子は思うままに、そんなことを尋ねる。
「……いや、それは私のセリフでしょう?」
金髪の少女――アリス・マーガトロイドは、どこか呆れた調子で蓮子にそう言った。
同じく魔法の森の中にその家は立っていた。その周囲には用途の分からないガラクタが雑然と散らかっている。
この家を訪れて、その外観を見た者は口々に「まるでゴミ屋敷だ」と語る。
そしてその家の中まで足を踏み入れた者は誰一人余すことなく、外観を見た際の感想を訂正してこう言う。――「正真正銘のゴミ屋敷だった」と。
そのゴミ屋敷の主である霧雨魔理沙は、何やら怪しげな実験に集中していた。それが新しい魔法の実験であることに、他人が一目で気付くのは難しいだろう。それほどに奇妙奇天烈な実験だった。
魔理沙は不思議な茸をまるで調理でもするかのように刻んだり潰したりする。その茸を煮込んでスープにしたり、ペースト状になるまでかき混ぜたりと様々な方法で茸を処理する。
それらの茸から出来た、どうにも形容しがたい固形物こそが魔理沙の実験の要となる魔法の燃料だった。その固形物を投げつけるなり火をつけるなりして色々なことを試すと、ごく稀に魔法らしい効果が発動するというのだ。
魔理沙は苦労して作り上げた固形物を見つめ、手に取り、触感を確かめながらそれをどうするか思案していた。すると――。
――ドンッ、ドンッ。
家の扉から音が聞こえる。それは叩くというよりも、乱暴に殴りつけるといった方がいくらか正確だった。
魔理沙にその扉を開けさせようというよりは、無理矢理にでも扉を破ろうといった雰囲気を感じる。
だからそれはきっと、まともな来客ではないのだろう。
魔理沙はそう考えながらも、しかし自らその扉へと近寄っていった。
「……外にいるのが誰であれ、扉を壊されるのはさすがに困るぜ」
誰に愚痴を言うわけでもなく魔理沙はそう呟く。そして扉の鍵を開けて取っ手をつかみ、外にいる「誰か」にその扉を叩きつけるように、勢いよく押し開いた。
扉が何かに当たる衝撃を感じながら、魔理沙は扉の開いた隙間から外へと出た。
そしてそこにいる「誰か」の正体を見て、吃驚する。
そこにいたのは――巨大なタヌキの置物だった。
それは魔理沙が蒐集したガラクタの一つだった。タヌキから「他を抜く」となり、商売繁盛を願って店先に置かれることの多い信楽焼の縁起物。
そう考えれば、魔理沙のガラクタの中では唯一正しい使われ方をしている物とも言える、それ――。
――それが二足歩行で、独りでに動いていた。
「って、なんだよそれ!」
思わず魔理沙はツッコミを入れる。しかしタヌキはゆっくりと魔理沙を振り返ると、迷うことなく左手に持った酒を入れる徳利を振りかぶり、魔理沙に襲い掛かる。
魔理沙は後ろに飛び退き徳利をかわす。しかしその徳利が当たる衝撃で地面がへこんだのを見て、魔理沙は肝を冷やす。
その攻撃をまともに喰らったら、ただでは済まないだろう。
「……冗談じゃないぜ」
そう吐き捨てるように呟いた魔理沙は、反撃を試みるが――忘れていた。
魔理沙は直前まで実験中だったのだ。当然魔法の箒は家の中にあり、その他魔法の燃料になるような物も安全のために実験中は身につけていなかった。
「あー、弱った。まさか家の中に取りに行くまで待っていてくれたりは……しないか」
タヌキの繰り出す二発目の攻撃を避けながら、魔理沙は考えた。
どうしてタヌキの置物が動いているのかはとりあえず無視するとして、今はどうやってこの暴走したタヌキの置物を止めるのかが重要だった。
魔理沙は体術もそれなりに扱えなくもないが、見るからに重そうなタヌキの置物を蹴飛ばしたこところで自分の足が痛くなるのが関の山のように思えた。
他に何か方法は無いかと、思いを巡らして――。
――ふと、その手の中にある物に気付く。
それはどうにも形容しがたい固形物。
魔理沙が直前まで行っていた実験の結果に生まれた、魔法の燃料。
それがどんな効果を発動させるのかは、まだ魔理沙にも分からなかった。それに経験上魔理沙は、その固形物が何の効果も発動しないことの方が多いと知っていた。
しかし、それでも――。
「――今はこれに賭けるしかないぜ」
その結果、たとえ何も起きなかったとしても、今より状況が悪くなるわけでもなかった。
試してみる価値は充分にある。
そう思った魔理沙は手に持った固形物を、ただ全力でタヌキの置物に投げつけた。
襲い掛かるタヌキの白い腹部に、その固形物が当たる。
そしてその瞬間――。
――タヌキの置物は、まるで巨大な力に弾き飛ばされるかのように、空の彼方へと消えていった。
それを確認した魔理沙は、どうにも決まりが悪そうに呟く。
「うーん。とりあえずこの場はしのげたけど、退治は出来なかったか」
状況を冷静に分析しながら、次にどうするべきかを魔理沙は考えた。
「……そもそも何で置物が暴れたりするんだ?」
最近の幻想郷は平和そのものであるだけに、魔理沙には何も心当たりが無かった。
しかしこれが異変だとするなら、どうにも奇妙な異変だった。
「なんというか、突拍子はないけど地味なんだよな」
考えても分からないのなら、それは情報が足りないのだと魔理沙は思う。だからこそ同じようなことが他の場所でも起きてはいないかを調べる必要があると考えた。
「もし異変だとしたら、解決しないといけないな……とりあえず、調べる準備をするか」
そういって魔理沙は家の中に入っていく。
そうして情報収集のために準備をしながら、お手製の魔導書を手に取ったときに思い出す。
「そうだ、忘れないうちにメモっておくぜ」
魔理沙は魔導書を開いて、手に取った筆で文字を書き加えていく。
――今日の実験結果 タヌキをどこかに吹っ飛ばした。……けど地味だからボツ。
「――つまり蓮子、あなたは外来人なわけね」
アリスはそういってから紅茶を一口飲む。
その落ち着き払ったアリスの態度を見て、蓮子は奥歯にもののはさまったような、どうにも煮え切らないものを感じた。
蓮子は家から出てきたアリスに簡単な自己紹介をした後、招かれるままにその家に上がった。そして今の自分の置かれている状況について説明することから始める。しかしその説明の内容は、そもそもの蓮子自身ですら信じられないような荒唐無稽なものだった。
だからこそ蓮子も、アリスがその説明を信じてくれるとは思っていなかった。
それがどうして、目の前のアリスは蓮子の説明をさも当然であるかのように受け入れてしまうのか。蓮子にはどうにも理解出来ないのだ。
蓮子はまだ口をつけていない自分の分の紅茶を見た。
それはゆらゆらと、暖かそうな湯気を立ち上らせている。
美味しそうではあったが、どうにもそれを飲む気にはなれなかった。
「アリスさんは、今の話を信じるんですか?」
「ええ、まあね。外来人は確かに珍しいけれど、決してありえないわけではないわ。それにこの幻想郷では、ありえないと思えることだって平然と起こりうるものだし――」
アリスはそこで言葉を切り、紅茶をまた一口飲む。
「でも、私が嘘をついているかも知れないじゃないですか」
アリスの様子を見て、気付けばそんなことを蓮子は口に出していた。
どうして自分が不利になるようなことを言葉にしてしまったのか、それは蓮子にも分からない。
ただどうにも、目の前にいるアリス・マーガトロイドという人物が信用出来なかった。
蓮子の価値観とアリスの価値観が乖離しているような――。
――だからそれは単純に、アリスが何を考えているのか分からないということだった。
そして分からないということは、怖いのだ。
そんな蓮子の問いの意味を少し考え、それからアリスは答える。
「……なるほどね。あなたはつまり、よく知らない相手に優しくされることが怖いのね」
「なっ――」
――見透かされた。
そう蓮子は思った。だから言いつくろう様に、慌てて口を開く。
「別に私は、そういうつもりじゃ――」
「あら、違ったかしら? 別に私の親切心に何か裏があると考えるのも、当然といえば当然だと思うのだけど。……まあ、私としてはどっちでもいいわ。そもそもあなたが嘘をついているかどうかなんて、私にとっては重要じゃないのよ。私はこの魔法の森で迷った人に多少の手助けをすることはそれなりにあるけれど、それだって私の不利益にならない範囲においてだけ。だからもしあなたが嘘をついていたとしても、私の不利益にならない範囲なら助けてあげる。……けれどあなたが正直に話していたとしても、もし私の不利益になるようなら、私はあなたを助けはしないわ」
アリスはそんなことだけを言って、カップに残った紅茶を飲み干した。それを感知してか、小さな人形がすぐに紅茶のおかわりをついだ。
このことに関して、それ以上は何を言ってもあまり意味が無いとアリスは思っている。
アリスが「蓮子を信じること」自体を蓮子が「疑わしい」というのであれば、それは今の段階ではどうしようもないことだった。それは言葉ではどうすることも出来ない。
それにアリス自身、それをどうこうしようというつもりもなかった。他人の信頼を勝ち取ろうなんて、そんなことは最初から考えていないのだから。
だからこの話はもう終わりだとばかりにアリスは言う。
「とりあえずこの話はここまでにしましょう。何よりも今話すべきことは、あなたがこれからどうしたいのかということでしょう?」
アリスの言葉を聞いて、蓮子はある一つの言葉を思い出す。
――ようこそ幻想郷へ。ここではあなたが行くも戻るも、生きるも死ぬも全てが自由よ。
それは蓮子がこの幻想郷に来て、最初に出会った八雲紫という妖怪の言葉だった。
紫の言うとおり、確かに蓮子は自由なのだろう。
しかし、だからこそ何をどうするべきなのかが蓮子には分からなかった。
けれどアリスはこう尋ねた。
――蓮子はこれからどうしたいのか。
どうしたいのかだったら、そんなことは最初から決まっていた。
「私は……元の世界に帰りたいです」
蓮子は確かにそう言った。それに対してアリスは「そう」とだけ答えて、一呼吸置いてから口を開く。
「だったら私はあなたを博麗神社まで案内するわ。そこに行けば大抵の外来人は外の世界に帰ることが出来るからね」
アリスのその言葉は、蓮子にとっての救いだった。
不安に押しつぶされそうになりながらも、蓮子は何一つ信用することなくただ強がっていた。それは弱みを見せたら、他ならぬ自分自身に負けてしまうからだ。
しかし、その希望を目の前にしたことで張り詰めていた蓮子の緊張の糸が切れた。
そんな蓮子の様子を察してか、アリスは言う。
「でもこれから私は少しだけ用事があるから、あなたは紅茶とお菓子でも食べてしばらくくつろいでいてくれるかしら」
それだけを言い残してアリスは席を立ち、さっさと奥の部屋へと歩いていく。
それがアリスなりの気遣いなのだと、蓮子は気付いていた。
だからこそ気恥ずかしい思いも確かにあったが、それ以上に何よりもありがたいと今は思う。
元の世界に帰ることが出来ると知って、蓮子は心から安心していた。
「メリー……」
そして最愛の友人の名を呟く。その友人と、また平凡な日常を過ごすことが出来る。
それは今の蓮子にとって、何よりも素晴らしいことのように思えた。
だからだろうか――気付けば蓮子は涙を流していた。
しかしそれは、蓮子にとって決してつらい涙ではない。
――それは安堵の涙だった。
アリスの目の前であったならきっと流さなかったであろう、それ。
そんな涙を流しながら、蓮子はすでに温くなってしまった目の前の紅茶を一口飲んだ。
味は全くと言っていいほど分からなかった。
それでも温くなった紅茶が、それほど美味しいはずもないだろう。
けれど今の蓮子の心には、その温い液体が何よりも深く染み渡っていくように感じるのであった。
霊夢が神社の境内を掃除し終える頃には、すでに日は傾きかけていた。
「ふぅ……ちょっとのんびりし過ぎたかしら」
額の汗を拭いながら霊夢はそう呟いた。
しかし霊夢が普段よりも掃除に時間がかかったのは、何も怠慢だけが理由ではなかった。
霊夢は休憩中に覚えた違和感の正体を探りながら掃除をしていたため、どうにも掃除に集中できなかったのだ。しかし結局のところ、掃除をしながらではその違和感の正体を暴くことは出来なかった。
もしかしたら、その違和感は霊夢の勘違いなのかも知れない。
霊夢の勘は確かに鋭いが、それだって所詮は勘でしかない。絶対に外れないというものでは断じてない。
それが霊夢の杞憂であるということも当然考えられた。
だからこそ掃除が終わった今となっては、霊夢もそれが勘違いだったのだと心の中で思い始めていた。
――勘違いなら、それに越したことは無い。
しかしそう霊夢が思った、その瞬間――。
「――何か、来る……!」
それは勘などではなく、すでに明確な理解だった。
彼方より飛来する、何か。
霊夢は目視でその正体を確認し、そしてただ目を丸くした。
「な、何……タヌキ?」
何故か、人の背丈よりも少し大きいくらいの信楽焼きのタヌキの置物が、空を飛んでいた。
意味が分からず霊夢がただ呆然としている間に、そのタヌキは境内の石畳に頭から衝突する。
そうして粉々に粉砕された石畳の欠片が飛んできたことで、霊夢は正気を取り戻した。
霊夢はその欠片を避けながら素早く身構えると、大きな声で言った。
「何よ、どうしてタヌキが空から降ってくるのよ!」
地面に刺さったままのタヌキは答えない。
「それに石畳! どうしてくれるのよ、これ!」
霊夢は粉々になった石畳を指差しながら、タヌキに抗議の声をあげる。
それでも反応のないタヌキに苛立った霊夢は、地面に刺さっているそれを強く蹴り飛ばした。
ガタン、と大きな音を立ててタヌキは倒れたかと思うと、次の瞬間タヌキは自らの意思で倒れた身体を起こすようにして立ち上がった。
そしてタヌキは、無言でまっすぐと霊夢の方を見ていた。
そのぼんやりと気の抜けたタヌキの顔からは、当然ながら霊夢にも何を考えているのか感じ取れない。それ以前に、そもそも思考があるのかさえ怪しいものだった。
「何よ……置物のくせに、やるっていうの?」
しかし霊夢は何となく勘で、そのタヌキの意思を感じ取った。
――そしてどうやら、その勘は当たったらしい。
タヌキはその左手に持った徳利を振りかぶり、霊夢に襲い掛かろうとする。
「……よく分からないけど、やるっていうなら全力で退治するまでよ」
霊夢は手に持った箒を構えて、そのタヌキを迎え撃つことにした。
魔理沙が博麗神社に着いた頃、そこは異様な静けさに包まれていた。
粉々となった石畳はどことなく荒廃とした雰囲気を醸し出しており、夕日に染まったその光景は平和な日常の一コマなどでは決してない。
だから魔理沙は思った。ここでは何か、魔理沙が考えていたような異変が起きているに違いないのだと。
魔理沙は事情を聞くために神社の巫女である霊夢を探すことにする。
境内にいないとなれば、おそらく社務所にいるだろうという魔理沙の読みは正しかった。
縁側に座る霊夢を見つけて、魔理沙は間髪いれずに尋ねる。
「おい霊夢、これは一体どうしたんだよ?」
「それは私が訊きたいくらいよ。よく分からないけど、大きなタヌキの置物が空から降ってきて石畳が粉々になって、その上そのタヌキが突然暴れ出して……ああもう! 思い出しただけでも腹が立つ!」
霊夢は怒りをあらわにしながらそう言った。
一方の魔理沙は、その内容を聞いて冷や汗をかいていた。
そのタヌキは間違いなく魔理沙が空の彼方に吹っ飛ばしたものだった。
そのタヌキがどうして動き出したのかは魔理沙の関知するところではないが、そのタヌキを結果的に博麗神社に飛ばしたのは魔理沙に他ならない。
激昂する霊夢を見て、それを知られたらただではすまないことを魔理沙は本能的に理解する。それは何としても隠し通さなければならないことだった。
「そういえば魔理沙、あんたの家の前に――」
(う、やばい……)
その話題は都合が悪いと思った魔理沙は、不自然ながらも無理矢理話題を変えようとする。
「霊夢! そ、それで、そのタヌキはどうしたんだぜ?」
「タヌキ? それならそこでバラバラになってるわよ」
霊夢がそう指し示した場所には、砕かれた陶磁器の成れの果てである土くれの山があった。
「あのタヌキのせいで箒も一本駄目にしちゃうし、境内もボロボロだし、一体全体何だって言うのよ……それで、魔理沙は何の用? 遊びに来ただけならまた今度にして欲しいけど――」
霊夢は魔理沙に用件を尋ねた。
「いや、実は――」
魔理沙は詳細を誤魔化しながら、その身に降りかかった異変の情報を収集していることを語る。
そして人間の里でも不可思議な異変が起きているらしいことも、情報収集の結果分かったのだと言った。
「――なるほどね。あんたも気付いてたんだ」
「あんたもって霊夢、タヌキ以外にもすでに何かあったのか?」
「いや、それはないけど……」
「……ああ、勘か」
「そう、勘よ」
魔理沙は霊夢の勘が鋭いことを知っていた。実際に今日も、その勘のとおりにタヌキが襲撃してきたのだから。
しかしその勘が理屈ではないことも魔理沙は知っていた。
だからこそ霊夢から得られる情報は、おそらくこれ以上は何もないのだろう。
期待薄だが土くれの山でも調べるかと魔理沙が思ったそのとき、ふと声がかかる。
「霊夢ー? いるかしら?」
境内の方から聞こえたその声を耳にして、霊夢と魔理沙は不思議そうに目を合わせる。
「この声は、アリスか?」
「そうみたいね。宴会以外じゃ珍しいけど、何かあったのかしら?」
霊夢と魔理沙は境内の方まで歩いていくと、そこには予想通りアリスの姿があった。
そしてアリスの隣には、見慣れない人間が一人。
「どうしたのよ、アリス。珍しいじゃない」
「そうだぜ、アリス。今日は宴会の予定なんてないぜ?」
「知ってるわよ。全く、人をただの酒飲みみたいに言わないで欲しいわね」
「それでも宴会の予定はちゃんと把握しているんじゃない――」
そんな会話をしながらも、二人の目は自然ともう一人の来客の方へと向く。
そして霊夢がアリスに尋ねる。
「それで、この人は誰?」
「ああ、この子は――」
そう言ってアリスがその少女を見やる。
「私は、宇佐見蓮子といいます。ええっと、まず何から話せばいいのか――」
そういって蓮子が逡巡する間に、霊夢は割り込んだ。
「いや、分かったわ。あなた、外来人なのね?」
「え、あ……はい、そうです」
まだ何も説明していないのにどうして分かったのだろうかと、蓮子は不思議そうに目を丸くして霊夢を見る。
しかしその蓮子と霊夢の間に割り込む、黒い影――魔理沙だった。
「へぇ、外来人か。珍しいな!」
魔理沙はそう言うと、嬉々として蓮子を観察するようにまじまじと見つめた。
徐々に近寄ってくる好奇心旺盛な魔理沙の顔に、すぐに蓮子は我慢できなくなって困ったような声を上げる。
「あ、あの……」
困り顔で蓮子は霊夢とアリスを交互に見る。「助けて欲しい」と、蓮子は目線で合図を二人に送った。
そして霊夢が口を開くのを見て、その意図が伝わったのかと蓮子は安堵する。
しかし――。
「アリス、ちょっといいかしら。蓮子と魔理沙はここでちょっと待っていてくれる?」
霊夢の言葉は蓮子の予想とは異なっていた。
それをどこか深刻そうな顔で言った霊夢。
「……? まあ、いいけど」と、少し訝しがりながらもアリス。
「ああ、いいぜ?」と、笑顔で答える魔理沙。
「えっ、えぇっ?」と、魔理沙の追求から助けて貰えるといった期待を裏切られて困惑する蓮子。
そんな三者三様の反応を返したのを確認すると、霊夢は踵を返して歩き出す。
アリスも黙って、ただそれについて行く。
そして、境内には困り顔の蓮子と、好奇心に目を輝かせる魔理沙だけが残された。
「霊夢……それで、何?」
どうして自分だけ呼ばれるのか、アリスに心当たりがあるとすればそれは蓮子のことである。そしてそれを蓮子抜きで話したいとすれば、それはつまり蓮子に話せないような内容なのだろう、とアリスは思った。
「あの外来人……蓮子って言ったっけ。何か変わったこと言ってなかった?」
「変わったこと?」
「たとえば……紫と何か話をしたとか」
どうして霊夢がそんなことを訊くのか分からないが、アリスはただ答える。
「ええ、そういえばそんなことを言っていたわね。それで話をしていたかと思ったら足元に穴が出来て、次に気付いたら私の家の前だったとか……でもそれがどうしたの?」
アリスは、話を聞いて「やっぱり」と呟いている霊夢に尋ねる。
「アリスは蓮子を元の世界に戻してあげようとして、だからここに連れて来たのよね?」
「ええ、そうだけど……」
「うーん……困ったわね」
霊夢は口元に手を当てながら、一人で考え込むようにする。
「だから何が問題なのよ、はっきり説明してくれない?」
「……あの蓮子って外来人、普通の外来人じゃないわ」
「えっ……それって、どういうこと?」
「詳しいことは私にも分からないけど、一つだけ確かなことは――」
霊夢はそこで一旦言葉を切って瞑目し、それからその言葉を発する。
「――蓮子は私の力じゃ帰せない、ってこと」
それがどうしてなのかまではアリスには理解できない。しかしその意味だけは明確に理解できた。
それはつまり、今の段階では蓮子を元の世界に帰すことは出来ない、ということだ。
「それって――」
アリスは霊夢に何かを尋ねようとした。
しかし霊夢は、驚いたような顔でアリスの後方を見ていた。
――アリスは、嫌な予感がした。
慌てて後ろを振り返るアリス。そこにはやはり予想通りの人物がいた。
「蓮子……」
アリスはそこにいた少女の名前を、ただ呟いた。
「……っ!」
アリスに名前を呼ばれた蓮子は、しかし何も言わずただ逃げるように、気付けばどこかへと駆け出していた。
その背中にかけられるアリスの制止の声も、今の蓮子には聞こえなかった。
蓮子は泣きそうな顔で、あるいはすでに泣きながら、あてどもなくただひたすらに走る。
今はただ、どこかへと逃げたかった。
すがっていた希望が崩れてしまったという現実を、認めたくは無かった。
これは何かの悪い夢だと、そう思いたかった。
だから逃げて、逃げて、逃げて――。
気付けば蓮子は広い草原にいた。
日は沈み、すでに空の支配者は月に代わっている。
暗い夜の中、蓮子は独り立ち尽くす。
「はぁ、はぁ、ここは、どこだろう……」
ただ闇雲に走ってきたせいで、蓮子は自分がどのようにここまで来たのかが分からない。
そして気付く――。
「――迷った」
知らない世界の知らない場所で独り。それは当然不安である。
何か手がかりはないかと周囲を見回すが、そこは何もないただ広いだけの草原だった。
自分がどの方角から走ってきたのかさえも分からない。
蓮子はすがるような気持ちで、月を見上げる。
蓮子の目には不思議な力がある。
それが「星を見て時間を、月を見て場所を知る能力」だった。
だから空に浮かぶ月を見れば、蓮子は今いる場所を知ることが出来るはずである。
――しかしそれも、空振りだった。
確かに場所は分かった。
しかしここは「幻想郷」という、蓮子の理解の外側にある世界。
蓮子は結局、ここが「知らない場所」である、ということだけを理解した。
この知らない場所から、どの方向に進めばあの神社に戻れるのかまでは蓮子の能力では知ることが出来ないのだ。
そのことに落胆し、蓮子はそのままへたり込む。
そんな落ち込んだ心のまま、都会では見ることは出来ないであろう満天の星空をただ見上げて、そして蓮子は気付く。
「……あれ、時間が――」
「――というわけで、アリスと魔理沙は蓮子を追いかけて連れ戻してくれる?」
霊夢は二人に事情を簡単に説明してからそう言った。
アリスは無言で頷く。魔理沙も頷きはしたが、しかし質問のために言う。
「それはいいけど霊夢、お前はどうするんだ?」
「私はちょっと、文句を言いにいかないといけないのよ」
「文句って、誰に?」
「誰って、そんなの紫に決まってるじゃない」
そういって霊夢は紫の名を出した。
八雲紫。一人一種族の妖怪にして、幻想郷最強とされる妖怪の一人。
その紫の持つ境界を操るというその能力は、神に匹敵するとされるほどだった。
それだけに普段から何を企んでいるのかが分からない存在でもある。
「紫が何をしたのか、霊夢は分かったの?」
「いや、全然分からないわ。それでも紫が何も知らないはずはないのよ」
――だったら紫に直接訊けばいい。
アリスの質問に、霊夢はそう答える。
紫が何を企んでいるのかは霊夢にも分からない。
それでも紫が今回の異変に関わっていることは間違いないだろうと霊夢は考えていた。
「……まあいいわ。そっちは霊夢に任せるから、私たちは蓮子を追うわよ」
アリスはそういって魔理沙の方を見る。
「ああ、それじゃあ早速追いかけるとするか」
そういって魔理沙が空を飛ぶと、アリスもそれに遅れないように飛んだ。
その二人の背中を静かに見送った霊夢は大きなため息を一つつく。
そして、どこか呆れたような声で言う。
「――紫、いるんでしょう?」
霊夢一人が残された境内にその声が響き、そして静寂。
風の流れる音を聞きながら、霊夢はただ静かにその相手を待っていた。
そして、霊夢の目の前に空間の裂け目が現れた。
その裂け目から現れたのは当然、八雲紫だった。
「……よく分かったじゃない。褒めてあげるわ、霊夢」
「ありがとう。それで、何かくれるの?」
「いいえ、何もあげないわ」
そういって紫は不敵に笑う。
その紫の表情からは、何を企んでいるのか全く読み取れない。
紫が一体どういうつもりでいるのか、それが霊夢には分からない。
それでも霊夢は、一つの思いを胸に紫と対峙する――。
――蓮子にとって、そんな体験は初めてだった。
星空を見上げて「二つの時間」が同時に見えるということは、今までにないことだった。
そのうちの一つの時間は、蓮子が本来過ごしている時間である。
しかしもう一つの時間は、蓮子が生まれるよりもはるかに過去の時間だった。
その時間の示す意味は蓮子には分からない。分からないけれど、それでもそれが、もしかすればこの「幻想郷という世界の時間」なのではないかと、そんなことを思った。
しかしそうだとすれば、今度は自分の世界の本来の時間が見えている理由が分からなくなる。蓮子はよく回るその頭脳を使って考えた。
前者が元の世界の時間、後者が幻想郷の時間だとして、それならばその間に齟齬があることには一体どういう意味があるのだろうか。
「もしかして……重ね合わせ?」
蓮子の言った「重ね合わせ」とは、量子力学の基本的な概念である。
量子力学においての状態とは、いくつかの異なる状態の重ね合わせで表現される。
それは簡単に言ってしまえば、今がどの状態にあるのかは確率的にしか語れないということだった。今の状態が「二つのうちのどちらかである」ということまでは分かるが、現状ではどちらであるのかを確定出来ない。それこそが「重ね合わせ」と呼ばれる状態であった。
「もし今の状態が重ね合わせなのだとしたら……そしてもし私が、この幻想郷の時間しか見えないように状態が収束したとしたら……私は、元の世界に帰れなくなる」
蓮子はそう思った。
どうしてそんなことになってしまったのか、さすがに原因までは分からない。
けれど、だからこそ怖かった。
「もしこの夢物語のような世界を、私が現実として認識してしまったら――」
――それは、蓮子にとっての破滅を意味していた。
蓮子は今、幻想と現実の狭間に立っていた。夢と現の境界線上を漂うようにして、ゆらゆらと揺れながら。そして今その境界はまるで硝子糸のように儚く、そして脆い。
それでもただ現実側に戻れたなら何も問題は無い。そこには最愛の友人との平凡な日常が待っている。
けれどもし、幻想側に蓮子が寄ってしまったなら――そこには破滅しか待ってはいないのだ。
蓮子は決してこの幻想郷という世界が悪い世界だとは思わない。
初対面の蓮子にも優しくしてくれる人がいた。それは嬉しいことだった。
この幻想郷という世界は、別世界から来た蓮子でさえもその全てを受け入れてくれるのだろうと思う。
けれど、それでも蓮子自身はこの世界を受け入れることが出来なかった。
本来、ここは蓮子のいるべき世界ではないのだから。
「ここは私の現実じゃない。ここは夢、虚構、幻想。だから私は――」
――この世界を、否定しなければならない。
「……見つけた、蓮子!」
蓮子が決意すると同時に、空からかけられたアリスの声。
振り返るとそこにはアリスともう一人、魔理沙の姿があった。
ゆっくりと地上に下りてくる二人の表情には心配と安堵が見える。
「何しに、来たんですか……」
蓮子は泣きそうな声で、アリスたちに言った。
「何しにって、私たちはあなたが心配で――」
「――私に優しくしないでください!」
拒絶。
蓮子はアリスたちのその優しさを、認めるわけにはいかなかった。
認めてしまったら、きっと元の世界に帰れなくなってしまうと思うから。
「蓮子……?」
「駄目なんですよ……。あなたたちに優しくされたら、私は否定出来なくなるじゃないですか。この世界もいいなって、そう思っちゃうじゃないですか……でもそれは、駄目なんですよ!」
蓮子がそう大声で叫ぶと同時に――。
――蓮子の背後に巨大な影が現れた。
「おいおい……なんだよこりゃ?」
驚くようにして魔理沙は思わずアリスに尋ねる。
「そんなの私に分かるわけがないでしょ。……でも、あまり好意的な存在じゃないみたいね」
「そんなの、見ればわかるぜ?」
「静かに! ……来るわよ」
アリスはそういって身構える。
それを聞いた魔理沙も臨戦態勢に入り、その巨大な影の攻撃に備えた――。
「それで紫、結局あんたは何をしたのよ」
「あら、どうして私を疑うのかしら?」
そういって開いた扇で口元を隠しながら笑う紫を、霊夢はただ静かに睨みつける。
「ふふ、そう怖い顔しないでくれるかしら。それに私は本当に何もしていないのよ?」
「何もしていないって、あんた以外に誰が蓮子を幻想郷に連れて来られるっていうのよ」
「ほら、そうやって最初から犯人を決め付けて疑ってかかる。あなたの悪い癖よ。こういう言葉を知らないかしら? 『疑うことは信じることのあとにくる』って」
霊夢は紫の言葉を聞いて、よくもそれだけ口が回るものだと感心した。
紫の言うことは確かにもっともらしい。しかし、それもどこか冗談めかした笑みを浮かべながら言うのでは、どうにも信用しがたいのも事実だった。
「……だったら紫、あんたは一体何を知っているのよ」
霊夢はとりあえず一旦、紫を信じることにした。状況からすれば紫が何もやっていないとは考えにくかったが、それでも紫が何かをやったとする根拠がないのも事実である。
今は判断材料となる情報が少しでも欲しいと霊夢は思ったのだ。
――それでもしやっぱり紫が犯人だというのなら、それから懲らしめればいいだけの話なのだから。
「そうね……私が知っているのは、宇佐見蓮子という外来人が、何者かに『夢と現の境界』を操られてしまった、ということくらいかしら。それがその何者かにとって意識的なのか、それとも無意識なのかはわからないけれど、ね」
「『夢と現の境界』って、それじゃあやっぱりあんたが原因じゃない!」
「だから私じゃないって言っているでしょう? 私が境界を操れるからって、境界を操れるのが私だけとは限らない。考えにくいことではあるけれど、今回はそういう話になるのよ。……この意味が分かるかしら?」
そういってやはり不敵に笑い声をあげた紫を、霊夢はまっすぐに見据える。
「……外の世界に、紫みたいな力を持った何者かがいる」
「そうね、六十点ってところかしら」
どこかふざけたような紫の物言いを聞いて、霊夢はただ沈黙する。
そして紫は言う。
「どうやら『未来の』外の世界に、私のような力を持つ『人間』がいるみたいなのよね」
「あまり変わらないじゃない」
「そうね、だから合格点はあげたわよ?」
「……紫。あんたはそれを、最初から知ってたの?」
「ええ、知っていたわ。あの宇佐見蓮子という人間が『私の家』に迷い込んで来たときから、私は全てを理解していた」
――紫は、最初から分かっていた。
それを聞いて霊夢は「やっぱり」とだけ思った。
「……それであんたは今回の異変の原因がその、未来の外の世界の人間にあるって、そう言うつもりなの?」
「ええ、そうよ。今回の異変の原因はそこにある。宇佐見蓮子にとっての夢と現の境界があやふやになってしまった結果、常識では考えられない不可思議なことが起こるようになってしまった。たとえば、タヌキの置物が暴れ出したり、とかね」
紫はそう言った。
紫の言うことはおそらく正しい。幻想郷は蓮子にとっての現実ではない、いわば幻想の世界である。夢物語の世界では、当然夢のように奇妙な出来事が起こるだろう。
今回の異変もそう考えれば蓮子の「夢と現の境界」が揺らいだ結果として、蓮子の「夢が具現化」してしまっただけなのかも知れない。
確かにそれで辻褄のあう話だった。それならば確かに紫は何もしていないのだろう。
――それでも、違う。
霊夢はそう考えた。
確かに紫は蓮子の「夢と現の境界」を弄ったりはしていないのだろう。
だからといって、それは紫が何もしていないことを意味するわけではない。
今回の一件において、紫が何も企んでいないなんて――。
――まさかそんなことが、あるはずもない。
「……ふざけんじゃないわよ。紫が何もしていない? そんなこと、あるはずがないでしょ。だって紫は言ったわよね、『最初から全てを理解していた』って。そしてその最初というのが、蓮子が『紫の家』に迷い込んだときだって。……本当に何もしていないというなら、蓮子が紫の家に来たときにそのまま元の世界に送り返せばよかったのに、どうしてあんたはそれをしなかったの? それどころか、どうしてわざわざアリスの家の前に蓮子一人で放り出すようなことをしたの? ……違うのよ。あんたは何もしていないわけじゃない。あんたは目の前に現れた蓮子を見て、ちょうどいいって思ったんでしょ? ……だから蓮子をそのまま自分の企みに利用した――そうでしょ!」
霊夢はそう、確信を持って紫を睨みつけるように言った。
そして紫は、どこか諦めたように嘆息してから、口を開く。
「……よく分かったわね、霊夢。鋭いのは直感ばかりかと思ったけど、ちゃんと博麗の巫女らしく成長しているじゃない」
「私のことはどうだっていいのよ。紫、あんたは一体何がしたかったっていうのよ」
詰問するような霊夢の声。
しかし紫はそれに気おされることもなく、ただ冷静に言う。
「……熟れすぎた果実がどうなるか、あなたは知っているかしら?」
「……? それは、腐るんじゃないの?」
「ええ、そのとおり。それじゃあ次の質問。『調和がとれて安定しきった世界』。……あなたはそれを、どう思うかしら?」
「どうって、それは――」
――そこで霊夢は、紫の言わんとすることが分かった。
それは確かに理想的な世界なのかも知れない。
けれど一方で、霊夢はこうも思うのだ――退屈だ、と。
そんな世界はきっと退屈に違いない。
そんな退屈な日々も、たまにならいいだろう。
けれどそんな日々が、そんな世界がもしずっと続いたら――。
――それはきっと、熟れすぎた果実のように腐ってしまうに違いない。
「そういうことよ。幻想郷という世界は、あなたが思っている以上に危うい世界なの。それはちょっと気を抜いた瞬間に腐ってしまうような、甘い果実のような世界。そんなこの世界が安定しきって腐らないようにするためには、さて、どうするべきかしら?」
「……異変を、起こす――」
「正解」
紫はおどけたようにして霊夢にそう言った。
紫には企みが確かにあった。
しかしそれが、まさか「幻想郷を守るため」だとは、霊夢も思ってはいなかった。
その事実を見れば、確かに紫は正しいのだろう。
「でもそれが事実だとしても、別に蓮子を利用する必要はないじゃない。『あんたが』蓮子を泣かせる必要は、どこにもなかったじゃない!」
それは決して蓮子への同情心から来た言葉ではない。
霊夢の怒りは、それとは別のところにあった。
「それがあったのよ。たとえば私が異変を起こし続けて、世界を安定させまいと考えたとするわ。けれどそうすると、そんな同じ事が何度も続けば当然、マンネリ化するのよ。新鮮味がなければ、当然そのうち飽きが来る。その飽きが来た状態こそが、私の恐れる『調和がとれて安定しきった世界』なのよ」
「………………」
霊夢はただ静かに紫を睨みつける。
「そう怖い顔しないでくれるかしら。これは仕方がなかったのよ。宇佐見蓮子の涙は、この幻想郷を守るために必要な犠牲だった。私の行いは、幻想郷のために必要だった……それでも納得できないかしら?」
「……理屈は分かるわ。……けど、それでも――」
――霊夢の心が理解を拒む。
「……そう。あなたのそういうところも嫌いじゃないけど、でもその甘さは時に取り返しのつかないことを引き起こすかも知れないわ。……霊夢。あなたには、博麗の巫女としての覚悟が足りないわ」
「覚悟? ……外の世界の無関係な人間を、容易く傷つけることが覚悟だって言うの?」
霊夢はただ静かに、そう尋ねる。
「……そうよ。私たちが外の世界のことまで背負う必要なんてないでしょう?」
そしてその紫の言葉が、霊夢を決心させた。
霊夢の怒りの正体。
無関係な外来人である蓮子を泣かせてしまったこと。
紫がその決断をただ一人で抱え込んでいたこと。
その結果、霊夢の知らないところで紫が他人を傷つけていたこと。
そして何よりも――
――紫が、人を傷つけるその痛みを、たった一人で背負い続けてきたこと。
だからこそ霊夢は、言った。
「……甘いのはどっちよ。簡単に他人を傷つけることを選んで、あんたはそれで覚悟した気になってるだけでしょ? ……甘えてんじゃないわよ!」
「……だからあなたは甘いというのよ。現実を何も知らないから、そんなことが言える。あなたが思っている以上に、現実というものは非情なのよ」
「現実? 何言っているのよ、紫。ここは『幻想郷』なのよ? ここではそんな考え方、何の意味もないじゃない」
「……そうね。これ以上あなたと言葉だけを交わしても、もう何の意味はないのでしょうね」
それだけを言うと紫は口元を隠していた扇を閉じて、その扇の先端を霊夢に向ける。
「何よ、やるっていうの?」
「ええ、そうね。もしあなたが自分を正しいと思うのなら、それを私に証明して見せなさい」
――そうして二人の、舞踏のごとく美しき決闘は幕を開けた。
「ああ、くそっ。一体なんだっていうんだよ、アレは!」
魔理沙は吐き捨てるように言う。
「だからそんなこと、私に訊かれたって、知らないわよ!」
アリスも苛立たしげにそう言った。
それだけ、蓮子の背後に現れた影の巨人との戦いに苦戦していることの表れだった。
影の巨人の攻撃自体は緩慢で、まともに喰らえばただではすまないが、回避に専念していればまともに喰らうことは無いように思える。
しかし問題は、二人の攻撃がその影の巨人に通用していないということにあった。
そして何よりも影の巨人に対して二人が攻撃をする度に、蓮子が苦しそうにうめき声をあげるのである。
「なあ、本当にアレを倒してしまっても大丈夫なのか?」
「分からないわ……けど、向こうが攻撃して来るんだから――」
――そのときだった。
「アリス、危ない!」
魔理沙は叫ぶ。しかし――。
――影の巨人の平手は、空を飛ぶアリスを地面に叩きつけるように直撃する。
それは複数の人形の操作に気を取られるアリスの癖と、一瞬の心の迷いが生んだ隙だった。
「アリス!」
魔理沙はその名を呼び、一直線にアリスの元へと文字通り飛んでいく。
そして地面に強く叩きつけられたアリスを、魔理沙はただ心配そうに抱き寄せる。
「おい、アリス! アリス! しっかりしろ!」
「……耳元であまりうるさくしないでよ。あと、あまり揺さぶらないでくれるかしら」
そういってアリスは気丈に振舞う。しかし――。
「――でもお前、頭から血が…………」
「こんなのかすり傷よ。別にどうってこと――」
そういってアリスは無理矢理立ち上がろうとするが、しかしその途中で小さくうめき声をあげる。
それはあえて言葉にするまでもなく、明らかにアリスは無理をしていた。
いかに魔法使いのアリスとはいえ、それはすぐに動けるような状態ではない。ましてや戦闘など、絶対に不可能だといえた。
それでもアリスは、無理を押してでもその身体を動かそうとする。
どうしてアリスがそこまでしようとするのか、魔理沙には分かっていた。
蓮子が放っておけないから。それはおそらく正しい。
けれど何より――魔理沙が頼りないから。
魔理沙に力が無いから、だからアリスは魔理沙を心配して無理をしようとする。
魔理沙はアリスとは違う。魔法が使えるとはいえ、所詮はただの人間だった。
そして人間とはいえ博麗の巫女である霊夢とも違って、生身ではただのタヌキの置物にさえ苦戦するような、か弱い人間だった。
それを魔理沙は知っていた。だからこそ今まで必死に努力をしてきた。誰にもその姿を見せず、決して弱音を吐かず、ただひたすらに努力をして――それでも追いつけない相手がいる。
魔理沙はそれでも、追いつくことを諦めたことはなかった。
けれど、それでも考えずにはいられない。
――一体何のために努力してきたのだろう。
「……それは、こんな目にあわないため、だぜ――」
こんな目に――自分の無力が原因で、他人が傷ついたりしないために。
自分の無力が原因で、大切なものを失わないために。
そして自分にあのとき力があったらと、そんな後悔をしないために。
そのために魔理沙は今まで努力をしてきたというのに――。
「――やっぱりまだ、私には力が足りないみたいだな」
しかし、それでも諦めるという選択肢は魔理沙にはない。
魔理沙は自分が今出来ることの中から、最善の選択とは何かを考え始めた。
「攻撃してくる以上は放っておくわけにもいかないが――」
「紫さま……大丈夫ですか?」
神社の境内に立ち尽くす紫に心配そうな声をかけたのは、紫の式神である八雲藍だった。
紫は直前まで霊夢との決闘を行っていた。
しかし紫はその決闘に、珍しく全力で臨んだ上で敗れていた。
そんな普段の紫らしくない状況をみて、藍は心配になったのである。
「別に、私は平気よ。それより藍、あなたに任せた監視の方はどうしたのかしら?」
紫はそんな強がるようなことを言いながら、そのまま話題を逸らした。
「今は私の式が引き継いでいます、そちらに問題はありません。……けれど、紫さま。本当に魔理沙とアリスで『夢の化身』に対処できるのでしょうか?」
「さあ、それは分からないわ。私の見立てでは十中八九、アリスが戦闘不能に追い込まれるはずだけど」
そんな重大なことを、さも当然のように言う紫。
その言葉を聞いて藍は驚いたように言った。
「アリスがって、それじゃあ上手くいくはずがないじゃないですか」
「あら、どうしてそう思うのかしら?」
紫は不敵な笑みを浮かべて、藍を試すように言った。
けれど冷静に考えれば、藍にとってそれは自明だった。
「どうしてって、魔理沙は所詮ただの人間ですよ? スペルカードルール下の決闘ならまだしも、今回のようなタイプの異変では、一体どれほどのことが出来るでしょうか」
「んー、四十点。残念、不合格ね」
紫はふざけたようにそんなことを言ってから続ける。
「確かに魔理沙はただの人間で、だからその力で出来ることも限られているわ。藍の言ったように、それは事実よ。けれど、あなたは一つ大事なことを見落としているわ」
「大事なこと、ですか?」
「ええ、そう。それが魔理沙の『劣等感』」
「劣等感……?」
それが一体何になるのだろうか、藍には理解できなかった。
そして紫にはそれを藍が理解できるはずもないことを知っていた。
だから紫は説明するように口を開く。
「魔理沙はいつだって、自分の力の無さを自覚してきたわ。それはつまり、今の自分に何が出来ないのかを理解してきたということ。裏を返せば、今の自分に何が出来るのかを知っているということ。だから魔理沙はね、誰よりも明確に自分自身のことを理解しているのよ。……魔理沙には理想があるけれど、それを見据えながらも彼女は決して残酷な現実から目を逸らさない。だから一切を惜しむことなく努力を積み重ねることが出来る。確かに魔理沙には才能はないのかも知れないし、種族の壁だって立ちはだかるかも知れないわ。けどね、藍……磨いて輝かないものなんてないのよ?」
――磨いて輝かないものなんてない。
紫はそう言ったが、しかしやはり藍にはその言葉の意味は分からなかった。
藍は考える。それは自分の力を磨き続ければ、いつか式神の藍が主である紫を超えることも出来るということだろうか。
しかしどうにも藍にはそんな未来を想像することが出来なかった。そもそもそんなことを、今まで考えたことすらなかったのだから。
「まあ、藍には理解し難いでしょうね……それにたとえ魔理沙が輝くとしても、それはまだまだ先のことでしょうからね……」
紫はそんなことを呟くように言うと、藍に引き続き監視の任務を任せて、気付いたときにはすでにスキマの向こう側へと消えてしまっていた。
魔理沙はひとまずアリスと共に安全圏まで離れてから、様々な可能性を考えた。
今の自分に出来ないことを一つ一つそぎ落として、自分の出来ることを一つ一つ積み上げる。その中から最良の結果を得るための方法を考える。
そして辿りついた一つの結論――。
「――アリス、ちょっとこれ借りるぜ?」
そう言った魔理沙が手に取ったのは、アリスが普段操っている手作りの人形だった。
「……って魔理沙、あなたに私の人形が操れるわけがないじゃない」
「いや、出来ないわけでもないぜ? 同時に二体までなら、何とかな」
「それにしたってそんな付け焼刃で、あんなのをどうにか出来るわけが――」
「――そうだな。だから私は、今の自分に出来ることだけをやるんだ」
「……?」
アリスには魔理沙が何を考えているのかが分からなかった。
今の状況にあって、魔理沙に出来ることが一体どれほどあるのだろうか。
しかしアリスの考えとは裏腹に、すでに魔理沙は前だけを見据えて飛び出していた。
そうして影の巨人と対峙した魔理沙の動きを、アリスはただ静かに見守るしか出来ない。それがアリスには何とも歯がゆく、そして悔しかった。
「私が怪我さえしていなければ、魔理沙よりももっと上手く人形を動かすのに……」
魔理沙が操る人形の動きは決して俊敏とは言えなかった。それでも初めての試みで二体同時となれば充分に上出来ではあるのだが、そんなことは異変の最中では何の意味ももたない事柄である。
見ていると魔理沙の狙いは分かりやすかった。あくまでも人形はおとりとして魔理沙は考えているらしい。
それはある意味では当然と言えた。魔理沙の人形を操る術は、所詮見様見真似の付け焼刃であり、そんなにわか仕込みの方法であの影の巨人をどうこう出来るはずは無いのだから。
人形をおとりとして隙を作ったところに、防がれないように魔理沙の大火力の魔法を叩き込む。これが魔理沙の考えであるとアリスは思った。
「でも……それだって今のままじゃ、上手くいくはずが無い」
それは魔理沙の動きを見れば分かることだった。魔理沙は不慣れな人形の操作にその両手と、思考の大半を使っていた。
そんな状態では、たとえ影の巨人の隙を作ることが出来たとしても、とどめの一撃を叩き込む余裕が魔理沙にはない。
魔理沙は二体の人形を必死で操りながら、様々なパターンで影の巨人の隙を作ろうと画策する。そうして何度か影の巨人の隙を作ることには成功したが、やはりアリスの考えたとおり魔理沙はとどめの一撃を放てない。
このままではいつまで経っても影の巨人を倒せないどころか、慣れない人形の操作に集中している魔理沙だってアリスのように影の巨人の攻撃を受けかねない。
アリスはそんな心配をしたが、しかし――。
「――見つけたぜ、お前の隙が最大になるパターンを」
アリスの考えとは裏腹に、魔理沙は自信満々に大きな声でそんなことを言う。
そして、その声に答えるように飛び込んでくる影――霊夢だった。
その霊夢の服装はどうにもボロボロで、紫と一悶着あったのだと想像することは難しくなかった。
そんな霊夢が、魔理沙に対して口を開く。
「いいとこ取りみたいでちょっと気が引けるけど……まあ、そんなことも言っていられないわよね」
「むしろここで全部持っていってもらわないと困るぜ?」
魔理沙は得意げに笑いながら、霊夢にそう言った。
そしてアリスは理解した。
魔理沙の狙いは最初から、「隙を作る」という一点に集約されていたのだ。
魔理沙には自分に何が出来るのかが分かっていた。
魔理沙には自分に何が出来ないのかが分かっていた。
とどめの一撃を叩き込むことは、だから魔理沙にとって「出来ないこと」だった。
だからこそ魔理沙は、その役割を霊夢に託したのだ。
魔理沙は最初から今の自分に出来ることだけをやるのだと心に決めていた。それこそが霊夢に最良の形でバトンを繋ぐことだった。
そしてそのバトンは霊夢へと――今、確かに繋がったのだ。
「これが紫の言っていた、蓮子の『夢の化身』ね……思っていたより大きいじゃない」
そう嘆息しながらも、霊夢は自信に満ちた声で続けた。
「ここはあんたのいるべき世界じゃないわ。……だから去りなさい、悪夢――」
「――やはり紫さまの予想通り、霊夢と魔理沙は『夢の化身』を無事退治して、宇佐見蓮子を元の世界の現実に送り返しました。また人間の里などで起きていた地味な異変も、それ以降は確認されていないとのことです」
そういって丁寧な口調で報告するのは藍だった。
藍は紫に任されていた『宇佐見蓮子の監視』という任務の最終報告を行っていた。
どうやら特に問題もなく異変は終息したらしいことに紫は満足し、藍をねぎらった。
「ご苦労様、藍」
「いえ。……それより紫さま。あれ以来どうにも顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」
藍は心配そうにして紫にそう言った。
しかし紫は藍の心配をよそに言う。
「別に、私は大丈夫よ。……それより藍、終わったばかりで悪いのだけど、またちょっとおつかいに出てくれるかしら?」
「はい、それは構いませんが……」
それでもなお心配そうな顔をする藍に、だから紫は言う。
「帰りに油揚げを買ってきてもいいわ」
「本当ですか? やった、ありがとうございます紫さま!」
紫の言葉を聞いて、心配そうにしていた顔は一転して満面の笑顔になる。
普段は藍のその単純さが頭痛の種ではあった紫だが、今だけはそれがありがたかった。
紫がおつかいの内容を書いた紙片を渡すと、藍はすぐにいなくなった。
――そして紫はこの場に、一人になった。
「……それにしても藍にまで気付かれるなんて、全くどうかしているわ」
紫は他ならぬ紫自身に腹を立てながら、ただそう独りごちるのであった。
藍が紫に頼まれたおつかいは、何でもないただの買い物だった。
人間の里までやってきた藍は、油揚げという言葉に心を躍らせながらも、考えることはやはり紫のことだった。
「紫さまは今、おそらく揺れているのだろう」
そんな独り言を藍は呟く。
その原因はおそらく、あの異変のときの霊夢との決闘とも関係があるのだろう、と藍は考えていた。けれど藍はあの決闘に至るまでの過程を知らない。
それでも藍には分かることがある。ずっと紫を見てきたからこそ、分かる。
「……大体、紫さまは一人で何でも背負い込みすぎなんですよね」
それは紫の強さであり、また弱さでもあった。
紫は自らの愛した幻想郷を守るために、様々な行動を起こしてきた。
その中には当然、他人を傷つけるようなものだってあった。
そんなときでも紫は悪役を演じ切り、そして傷つける側の痛みも一人で背負ってきた。
誰にも頼らず、誰にも甘えず、決して誰のせいにもせずに。
そんな紫を藍はずっと見てきた。だからこそ心配だった。
けれどそんな心配をしても、いつだって紫は藍の追求を逃れてしまう。
紫の口からは、決して弱音が漏れることはない。
紫が誰かに弱みを見せることは決してないだろう。
八雲紫とは、幻想郷に住む孤高の妖怪の名。
それは何よりも強く、そして何よりも高い存在である。
しかしそれゆえに、紫はいつだって独りだった。
藍はそのことがどうにも寂しかった。
いつか紫が自分に悩みを打ち明けてくれる日が来ると思い、長い間ずっと待ってきた。
けれど、その日はまだ訪れることがない。
――自分は本当にこのまま待っているだけでいいのだろうか。
藍はそんなことを考えながら、それでも今はただ頼まれたおつかいをこなすだけだった。
そんな藍の胸に何度も響く、あの言葉――
――磨いて輝かないものなんて、ないのだ。
あの異変から数日が過ぎ、博麗神社の境内も随分と綺麗に片付いていた。
その神社の社務所の縁側でお茶をすすりながら、霊夢は独りで呟く。
「全く、紫も一体何だって言うのよ。柄にも無くあんなに動揺しちゃって。そりゃ私だって勢いに任せてちょっと言い過ぎたかも知れないけどさ、あれじゃあ私がただ悪いことを言ったみたいじゃない」
霊夢はそういってあの異変の日の紫との対決を思い浮かべる。
そのときの紫は、直前の霊夢の言葉に明らかに動揺していた。
それは普段の紫らしくない手加減なしの本気の弾幕からもうかがい知ることが出来たが、何よりもその動きは明らかに精彩を欠いていた。
霊夢は紫の本気の弾幕によってボロボロになりながらも、しかしその隙をついて何とか勝利することが出来た。
しかし、それだって――。
「――全然納得がいかない!」
あの時の霊夢は怒っていた。
無関係な外の世界の人間である蓮子を泣かせてしまったこと。
そして何よりも、そうなる選択を紫がしたということに。
「けど蓮子を泣かせたのは、私のせいでもあるのよね」
霊夢は紫の話を聞いて、後から冷静になって考えた結果そう思った。
迷い込んだ蓮子を幻想郷に送り込み、その不安を煽ったのは間違いなく紫ではあった。
しかし、それが幻想郷を守るための苦肉の策であったのも事実なのだろう。
紫が好き好んで蓮子を傷つけたわけではないことは、紫をよく知る霊夢には分かる。
それならば、どうして紫がそんなことをしなければならなかったのか。
そんなことは当然のように決まっていた。
「――幻想郷を守るため、か」
だとすれば、蓮子を泣かせたのは紫だけではない。
それは幻想郷に住む者全員の責任だった。
その全員が背負うべき咎に、違いないだろう。
「紫のやつ、どうしてそんな大きな事を一人で背負い込もうとするのよ。少しくらい私たちを頼ってくれたっていいじゃない」
霊夢はあの時、紫に「甘えるな」と言った。
けれど本当は違った。
本当は霊夢たちに、もっと「甘えて欲しかった」のだ。
「……ああもう! どうして私がこんな思いをしなければならないのよ。こうなったら紫に直接文句を言ってやるわ」
霊夢はそう決意しながらお茶を飲み干すと、片付けもそのままに神社から飛び出していった。
一つの問題が、アリス・マーガトロイドを悩ませていた。
先日の異変において、アリスは自身の不注意で怪我を負ってしまった。
その怪我自体はすぐに治すことが出来たので、それは特に問題ではない。
だから問題があったのは、その怪我を負ってしまったこと自体に、であった。
「あの時、どうして私はあんな怪我をしてしまったの……?」
それは何度目の自問だろうか。
そして何度それを自分に問いかけたところで、その答えが変わることもなかった。
「結局は、私の慢心……か」
アリスは心のどこかで他人を信じることにブレーキをかけていた。
今回だって、共闘関係にあった魔理沙を信じ切ることが出来なかった。
どこかで魔理沙の力を軽んじていた。
最終的には自分が一人で何とかしなければと、心のどこかで思っていた。
魔理沙に対しての仲間意識は確かにあったけれど、それだって結局は「自分が魔理沙を守らなければ」という思いだった。
魔理沙に自分の背中を任せようという気持ちは一切なかったのが現実である。
「その結果があれじゃあ……格好が悪いにも程があるわよね」
自分の力を過信して魔理沙を守るために無茶をした結果、アリスは負傷した。
そして終わってみれば影の巨人を倒したのは霊夢と魔理沙の二人で、怪我を負ったアリスはそれを安全な場所でただ見ていただけだった。
二人が協力して戦っている光景をみて、アリスには一つの思いが胸に浮かんだ。
「あの二人がちょっとだけ、羨ましかった……」
他人を信じ、協力し合える二人。そんな二人が、アリスは羨ましかった。
アリスは他人を信じ切れない。それは失敗を他人のせいにしたくないという、強い信念からだった。けれど実際に、自分の心はそんなに綺麗なものではないのだとアリスは気付いた。
「本当は、裏切られることを怖がっているだけ。……まさか私がここまで臆病者だったなんて、ね」
自嘲気味に笑うアリス。
「はぁ……結局、今回の私は良いところ無しじゃない」
ため息をついて、片手で髪をかきあげて頭を抱えるようにするアリス。
今回の異変に関しては、反省点が山のようにあった。
変えなければならない自分の心の弱さも、ありありと見えた。
それはすぐに変われるようなものでもないけれど、それならば少しずつ変えていくしかないと、アリスはただ心の内で決心するのであった。
ゴミのようなガラクタに埋もれるようにして存在するベッドに、両手を組んで枕のようにしながら仰向けに寝転がる魔理沙は、ずっと物思いに耽っていた。
考えることは当然のように、先日の異変のこと。
アリスの負傷。そして一人残された自分に出来ることのちっぽけさ。
その原因は考えるまでもなく、魔理沙自身の無力さにあった。
あのときアリスが負傷した原因は、アリス自身は自分にあると考えているだろうが、魔理沙は他ならぬ魔理沙の無力さにあると考えていた。
「私にもっと力があったら……アリスだって、もっと信頼してくれるはずだったんだ」
アリスの信頼が勝ち取れないのは、自身の無力が原因だと魔理沙は考えていた。
だから力が欲しかった。
仲間であるアリスを守れるだけの力が欲しかった。
「力が無いのは、今は仕方がない。弱いのは今に始まったことじゃないし、焦ってどうこうなるものでもない。……だけど、私は本当に成長しているのか?」
魔理沙は自分自身に問いかけるようにそう呟いた
魔理沙は自身の無力を認識していた。だからこそ努力を重ねてきた。
焦らず着実に一歩ずつ、ゆっくりと、しかし確実に成長してきたと思っていた。
けれど実際に今回の異変で魔理沙に出来たのは、せいぜい霊夢にバトンを繋ぐことだけだった。そんな現状に魔理沙は決して満足はしていないのだ。
魔理沙は心の底から霊夢のことを認めていた。
だからこそ霊夢にバトンを繋ぐことがあのときの自分に出来る最善だと思い、そして実行した。
その判断は確かに間違っていなかっただろう。
けれど、魔理沙の理想からは程遠いことも事実だった。
魔理沙は霊夢に追いつくことを目標に、これまで必死に努力を積み重ねてきた。
しかし今回の異変で、まだまだその差は大きいのだと痛感した。
「けどな、霊夢。……私はお前の実力を認めはしても、敵わないと思ったことは一度もないぜ?」
魔理沙はそう呟いて、自分の右の手のひらをじっと見つめる。
魔理沙は努力を惜しんだことは無い。いつだって必死に努力をしてきたという自負がある。
けれど自分はその努力の結果、本当に成長しているのだろうか。
魔理沙はその手のひらを見ながら、自分に問いかける。
「……それでも前に突き進むしか、ないよな」
魔理沙はそう自分に言い聞かせて、目の前で開いていた右手を強く握り締めた。
この不安を解消するためには、結局前に進み続けるしかないのだから。
魔理沙の手のひらの中にはまだ何も無い。それが不安なのは仕方のないことだろう。
けれど魔理沙はその不安が自信に変わるその日まで、ただひたすらに努力を積み重ねることを心に誓うのであった。
宇佐見蓮子が目を覚ますと、そこには見慣れた天井があった。
「帰ってきた……? それとも、ただの夢?」
蓮子はその直前まで体感していた不思議な出来事について、どう判断すべきか迷っていた。
合理的に考えればそれは間違いなく夢だった。けれど、あの体験が全て偽りの幻想だったなんて、蓮子には信じることが出来なかった。
「……まるで、メリーがいつも話しているみたいな、不思議な夢」
しかしあの心細さは、確かに現実のそれだった。
どんなにリアリティのある夢だって、それが深層心理の生み出した夢である以上は必ずどこかに欠陥がある。そして目が覚めれば、その夢はまた心の深層に沈み込むようにして消えていくはずである。
しかし今回の不思議な体験は、蓮子の心に強く絡み付いて、どうにも消えてくれそうにない。
そして蓮子は思う。
夢と現実の境界線は、実際のところどこまでも曖昧なものなのではないだろうか。
心に残らず、気付くことさえなくただ消えていくのが夢ならば。
心に深く残り、簡単に消えてなくならないこれは、つまり現実と同じなのではないか。
「……寝ぼけてるのかな、何だか変なこと考えている気がするわね」
頭をはっきりとさせるために、蓮子はまず部屋の明かりをつけようと立ち上がる。
明るくなった部屋で、蓮子は時計を見て思い出す。
「そっか、今日は休日……そういえばメリーと買い物にいく約束があったっけ」
そう呟きながら蓮子は枕元で充電していた携帯電話を手に取る。
その中のスケジュール帳を開いて確認し、その記憶どおりの約束の存在を認識する。
現実のような夢の、あるいは夢のような現実の話。
その不思議な体験の話をメリーに早くしたくて、蓮子は仕方がなかった。
約束の時間になれば、メリーと会うことになるだろう。
けれど蓮子は、そのときまでおとなしく待てそうにはなかった。
居ても立っても居られなくなった蓮子は、携帯電話のリダイアルからメリーに電話をかける。
まだ朝も早いけれど、メリーは三コール目で電話を取った。
「もしもし? 蓮子、どうしたの……もしかして、急用で約束のキャンセルとか?」
「いや、そうじゃないんだけどさ。それよりメリー、聞いてよ。あのね――」
そうして蓮子は楽しそうに自身の不思議な体験を語った。
どうしてそんなことを今わざわざ電話で話すのか、メリーは不思議に思いながらも、ただ静かに蓮子の話に耳を傾けた。
そのときの蓮子が思っていたことはただ一つ。
せっかくの体験だったのに、蓮子の心は不安だけで埋め尽くされていて、それがどうにも蓮子には残念に思えた。
けれどそれはおそらく、一人だから怖かったのだ。
その幻想に、ヒトリでいくのは怖い。
だからもし次があるなら、そのときはきっと二人で――
――今はただ、蓮子はその気持ちをメリーに伝えたくて仕方がなかった。
現実(うつしよ)は夢、夜の夢こそ真実(まこと)――江戸川乱歩
「――あなたは、妖怪というものを知っているかしら」
少女の目の前の女性――八雲紫はそう尋ねる。
少女は首を縦に振り、肯定した。
それは昔の人には理解できなかった科学的現象や、その他ただの見間違いなどを全てひっくるめたものの総称であると、少女は語る。
理解できないものは人々の恐怖の対象になる。妖怪とはそうした恐怖の象徴なのだ、と。
「そう。まあ、あなたの世界ではすでにそういうことになっているのでしょうね」
紫は静かに笑った。
少女は紫の言葉の意味を尋ねる。
「意味? ……別に、ただそのままの意味よ。さっき説明した通り、ここは幻想郷と呼ばれる世界。この世界は、あなたの世界とは根本的に異なる部分がある。それが、妖怪というものがさも当然のように存在しているということ」
紫はそういってまた笑う。
しかし少女は、やはり理解できないと言う。
「理解できないというのなら別にそれでも構わないから、ただ受け入れなさい。ここはそういう世界なのよ。あなたが確率的に起こり得ないと考えることが、ここでは平然と起こる。……いえ、そもそもあなたの世界でも妖怪による小さな異変は、確かに起こっていたはずなのだけどね」
紫の言葉を聞いて、そんなはずはないと、少女はただ否定する。そのような非科学的な現象は少女の世界には存在していないのだ、と。
「いいえ、違うわ。あなたの世界にも妖怪は確かに存在しているのよ。ただあなたには見えていないだけ。理解は時に人を盲目にする。だから科学という思い込みがあなたの正しい理解を阻む。それがあなたのいう統計数学的に、どれほど実際には起こりえない低確率な現象であったとしても、それは妖怪の存在を否定する根拠にはならないわ。雨乞いをし続ければ、確率的にはいずれ雨は降る。だからといって雨が降ったのは偶然で、その雨乞いには何の意味もなかったと決め付ける根拠は、本来どこにもないでしょう? 雨乞いがそもそもの雨の降る確率を操作したのかも知れないのに、ね。……それに、そもそも低確率という言葉は、低い割合で確実に存在するという意味でしかないのよ」
妖怪とは少女の世界にも低い割合で確実に存在するものだと紫は言う。
その紫の言葉を聞いた少女は何も言わなかった。
それでもその少女の表情は、理解はできるが納得はできないと語っている。
「まあ、今はあなたの世界について議論するときではないわ。だから今はあなたの知りたがっているここ――幻想郷の話をするわね。といっても、大して語ることもないのだけれど。ここはただ、あなたの世界にとっての幻想の世界。あなたの世界ではすでに忘れ去られ、否定されてしまった幻想という存在がさも当然のようにそこに在る世界。あなたの世界での偶然がこの世界ではまるで必然のように振る舞い、また必然はまるで偶然のように起きづらい。――そんなある種の逆転が起きてしまっているのが、この幻想郷という場所なのよ」
偶然も積み重なれば必然となる。そして必然となってしまった幻想は、この幻想郷と呼ばれる場所では何よりも大きな力を持つ。
少女が何も口に出さないことを確認してから、紫はやはり口元に怪しげな笑みをたたえながら続ける。
「ここ幻想郷ではあなたのような人間はどうしようもなく弱く、逆に私たち妖怪のような幻想の存在はどうしようもない程に大きな力を持っている。――ようこそ幻想郷へ。ここではあなたが行くも戻るも、生きるも死ぬも全てが自由よ。――宇佐見蓮子さん」
宇佐見蓮子――そう呼ばれた少女はしかし、ただ沈黙する他なかった。
「……暇ね」
博麗神社の巫女である博麗霊夢は、箒を手にその境内をぶらぶらと歩きながらそんな独り言を呟いた。
実際のところ、確かに幻想郷では長らく異変らしい異変も起きてはいない。
異変解決を生業としている霊夢にとって、その現状は退屈なものに違いなかった。
だからといって異変が起きることを霊夢が望むわけでもないが――。
「うーん……ちょっとお茶でも飲んで休憩しよう」
掃除をする振りに疲れたらしい霊夢はそういうと、箒をくるくると回しながら社務所の方へと歩いていった。
箒を縁側に立てかけるように置いて履物を脱いだ霊夢は、ぱたぱたと足音を立てながら部屋の中を忙しなく動き回る。
沸かしたお湯を一旦冷ましてから、安物の茶葉を入れた急須にそのお湯を注ぐ。
そうすることで、たとえ安物の茶葉でも苦味の少ない緑茶が飲めることを霊夢は知り、それからは多少面倒でもそうする癖をつけていた。
急須と湯のみをお盆に載せて持ち、霊夢はゆっくりと縁側に出る。
そして縁側に腰をかけて急須のお茶を湯のみに入れると、麗らかな風を感じながらお茶を飲む。
霊夢はそのほのかな甘みと苦味を味わい、そして一息ついた。
「ふぅ……美味しい」
そんな感想を口に出しながら、霊夢は思う。
こんな日常をただ漫然と過ごすことも、きっと悪くはないのだろう。
退屈だなんてものは、結局のところ恵まれた者の贅沢でしかないのかも知れない。
「でも……恵まれた者にだって、恵まれた者なりの苦労があるものよね」
それは霊夢が深く考えての言葉ではなく、ただ思いついたことをそのまま口に出しただけのものだった。
だからこそ今度また異変が起きて退屈な日々が終わったとしたら、それはそれで一苦労に違いないことも霊夢はその経験から知っていた。
結局は何事もほどほどで良いのだろう――霊夢はそんなことを思いながら、また一口お茶を飲む。
そうしてほどほどに美味しいお茶を飲みながら――そんなときにふと霊夢は小さな違和感を覚える。
しかし、それには何の根拠があるわけでもなかった。
風向きが変わったわけでも、お茶の味が変わったわけでもない。
虫や鳥さえ普段どおりの声を聞かせていた。空だって変わらず青いままだ。
縁側に立てかけた箒さえ倒れたりはしていなかった。
霊夢の知りうる範囲で特別に何が起きたというわけでは、決してない。
だからこそ本来なら誰も気付かないはずの、そんな違和感。
どうしてそれに気付いたのかと霊夢が尋ねられたとしても、きっと意味のある回答なんて出来ないだろう。
だから霊夢は、おそらくこう答えるはずだった。
――それは勘だった、と。
生い茂った木々が日光を遮っているせいか、そこはいつでも暗くてじめじめとしている。
――魔法の森。
そう呼ばれる場所に、気付いたときにはすでに蓮子は立っていた。
その直前までは紫と名乗る妖怪と話をしていたはずだったのだが、突然足元に穴のようなものが開いたかと思えば――次の瞬間にはこの場所にいたのだ。
「……全く、一体何だっていうのよ」
苛立ちを隠そうともせず蓮子は独りごちた。
思えば蓮子にとって不可解な事ばかりがその身に連続して起きているのである。蓮子が苛立つのも無理はなかった。
「ここは幻想郷という異世界で、私の常識という理解の裏側の世界だなんて……」
紫が語ったことをそのまま鵜呑みにするのだとすれば、そういうことになる。
しかし蓮子は当然ながら、その紫の言葉を信じてはいなかった。
「……そんなこと、簡単に信じられるわけがない」
蓮子は紫の話を聞いて、一つのことを思っていた。
それはまるで、幼き日に読んだ絵本やジュヴナイル小説のような――夢物語だ。
蓮子は自身の頭脳にそれなりの自信を持っているが、しかしこの現状を正しく説明する方法はそれこそ『夢』以外に思いつかなかった。
「まあ、今は考えても仕方がないわね」
そう呟きながら、蓮子は周囲を見回した――というよりも、見回すまでもなく「それ」は蓮子の目に入ってきた。
最初から蓮子の正面にあった「それ」は、どうにもこぢんまりとした洋館だった。
「……いかにもって感じで、ちょっと気に喰わないけど」
いかにも、「この洋館を訪ねなさい」と言われているようで。
それが紫の思惑であると蓮子には分かるだけに――気に喰わない。
「……けど、そうも言っていられないか」
蓮子はため息を一つついてから、ゆっくりとその洋館の扉の前まで歩いていく。
どうやらその扉には呼び鈴のようなものは付いていないらしい。
蓮子は少しだけ迷いながらも、その扉を軽くノックする。
「ごめんくださーい」
鬼が出るか蛇が出るか。
蓮子はその不安な気持ちを表情に出さないように気をつけながら、家の中からの返事を待つ。
「はーい、どちらさま?」
若い女性の声が聞こえると同時に、目の前の扉が開く。
けれど――そこに人影はなかった。
扉が独りでに開いたのかと、蓮子は少し警戒しながら様子を窺う。そうしてその扉の取っ手を見てみると、何やら小さな人形がぶら下がっていた。どうやらその人形が扉を開けたらしいと理解した蓮子は一度安心して、しかし次の瞬間に自らその安心を否定する。
「人形が、勝手に――」
そうだ。人形が勝手に動いているくらいなら、まだ自動ドアである方が蓮子としてはありがたかったのだ。
確かに蓮子の世界にはロボットというものも存在していたが、その人形は明らかに手作りのそれだった。そんな手作りの人形にドアを開けさせるような精密な動作をさせることは、蓮子の世界の科学でも難しいと言えた。部品の小型化、モーターのトルク不足、そもそも関節部分はどうなって――。
そんな蓮子の思考を遮ったのは、最初に聞こえた若い女性の声だった。
「あら。もしかして私の人形を見たことがない人?」
蓮子に尋ねる声を聞いて、蓮子は人形から声の主に目を移す。
そこには不思議そうな顔をしながら、その綺麗な金髪を手でかきあげている少女。
それは女性である蓮子でさえ一瞬見惚れるような整った顔立ちの少女だったが、当然ながら蓮子には見覚えのない顔だった。
「あなたは、誰ですか?」
蓮子は思うままに、そんなことを尋ねる。
「……いや、それは私のセリフでしょう?」
金髪の少女――アリス・マーガトロイドは、どこか呆れた調子で蓮子にそう言った。
同じく魔法の森の中にその家は立っていた。その周囲には用途の分からないガラクタが雑然と散らかっている。
この家を訪れて、その外観を見た者は口々に「まるでゴミ屋敷だ」と語る。
そしてその家の中まで足を踏み入れた者は誰一人余すことなく、外観を見た際の感想を訂正してこう言う。――「正真正銘のゴミ屋敷だった」と。
そのゴミ屋敷の主である霧雨魔理沙は、何やら怪しげな実験に集中していた。それが新しい魔法の実験であることに、他人が一目で気付くのは難しいだろう。それほどに奇妙奇天烈な実験だった。
魔理沙は不思議な茸をまるで調理でもするかのように刻んだり潰したりする。その茸を煮込んでスープにしたり、ペースト状になるまでかき混ぜたりと様々な方法で茸を処理する。
それらの茸から出来た、どうにも形容しがたい固形物こそが魔理沙の実験の要となる魔法の燃料だった。その固形物を投げつけるなり火をつけるなりして色々なことを試すと、ごく稀に魔法らしい効果が発動するというのだ。
魔理沙は苦労して作り上げた固形物を見つめ、手に取り、触感を確かめながらそれをどうするか思案していた。すると――。
――ドンッ、ドンッ。
家の扉から音が聞こえる。それは叩くというよりも、乱暴に殴りつけるといった方がいくらか正確だった。
魔理沙にその扉を開けさせようというよりは、無理矢理にでも扉を破ろうといった雰囲気を感じる。
だからそれはきっと、まともな来客ではないのだろう。
魔理沙はそう考えながらも、しかし自らその扉へと近寄っていった。
「……外にいるのが誰であれ、扉を壊されるのはさすがに困るぜ」
誰に愚痴を言うわけでもなく魔理沙はそう呟く。そして扉の鍵を開けて取っ手をつかみ、外にいる「誰か」にその扉を叩きつけるように、勢いよく押し開いた。
扉が何かに当たる衝撃を感じながら、魔理沙は扉の開いた隙間から外へと出た。
そしてそこにいる「誰か」の正体を見て、吃驚する。
そこにいたのは――巨大なタヌキの置物だった。
それは魔理沙が蒐集したガラクタの一つだった。タヌキから「他を抜く」となり、商売繁盛を願って店先に置かれることの多い信楽焼の縁起物。
そう考えれば、魔理沙のガラクタの中では唯一正しい使われ方をしている物とも言える、それ――。
――それが二足歩行で、独りでに動いていた。
「って、なんだよそれ!」
思わず魔理沙はツッコミを入れる。しかしタヌキはゆっくりと魔理沙を振り返ると、迷うことなく左手に持った酒を入れる徳利を振りかぶり、魔理沙に襲い掛かる。
魔理沙は後ろに飛び退き徳利をかわす。しかしその徳利が当たる衝撃で地面がへこんだのを見て、魔理沙は肝を冷やす。
その攻撃をまともに喰らったら、ただでは済まないだろう。
「……冗談じゃないぜ」
そう吐き捨てるように呟いた魔理沙は、反撃を試みるが――忘れていた。
魔理沙は直前まで実験中だったのだ。当然魔法の箒は家の中にあり、その他魔法の燃料になるような物も安全のために実験中は身につけていなかった。
「あー、弱った。まさか家の中に取りに行くまで待っていてくれたりは……しないか」
タヌキの繰り出す二発目の攻撃を避けながら、魔理沙は考えた。
どうしてタヌキの置物が動いているのかはとりあえず無視するとして、今はどうやってこの暴走したタヌキの置物を止めるのかが重要だった。
魔理沙は体術もそれなりに扱えなくもないが、見るからに重そうなタヌキの置物を蹴飛ばしたこところで自分の足が痛くなるのが関の山のように思えた。
他に何か方法は無いかと、思いを巡らして――。
――ふと、その手の中にある物に気付く。
それはどうにも形容しがたい固形物。
魔理沙が直前まで行っていた実験の結果に生まれた、魔法の燃料。
それがどんな効果を発動させるのかは、まだ魔理沙にも分からなかった。それに経験上魔理沙は、その固形物が何の効果も発動しないことの方が多いと知っていた。
しかし、それでも――。
「――今はこれに賭けるしかないぜ」
その結果、たとえ何も起きなかったとしても、今より状況が悪くなるわけでもなかった。
試してみる価値は充分にある。
そう思った魔理沙は手に持った固形物を、ただ全力でタヌキの置物に投げつけた。
襲い掛かるタヌキの白い腹部に、その固形物が当たる。
そしてその瞬間――。
――タヌキの置物は、まるで巨大な力に弾き飛ばされるかのように、空の彼方へと消えていった。
それを確認した魔理沙は、どうにも決まりが悪そうに呟く。
「うーん。とりあえずこの場はしのげたけど、退治は出来なかったか」
状況を冷静に分析しながら、次にどうするべきかを魔理沙は考えた。
「……そもそも何で置物が暴れたりするんだ?」
最近の幻想郷は平和そのものであるだけに、魔理沙には何も心当たりが無かった。
しかしこれが異変だとするなら、どうにも奇妙な異変だった。
「なんというか、突拍子はないけど地味なんだよな」
考えても分からないのなら、それは情報が足りないのだと魔理沙は思う。だからこそ同じようなことが他の場所でも起きてはいないかを調べる必要があると考えた。
「もし異変だとしたら、解決しないといけないな……とりあえず、調べる準備をするか」
そういって魔理沙は家の中に入っていく。
そうして情報収集のために準備をしながら、お手製の魔導書を手に取ったときに思い出す。
「そうだ、忘れないうちにメモっておくぜ」
魔理沙は魔導書を開いて、手に取った筆で文字を書き加えていく。
――今日の実験結果 タヌキをどこかに吹っ飛ばした。……けど地味だからボツ。
「――つまり蓮子、あなたは外来人なわけね」
アリスはそういってから紅茶を一口飲む。
その落ち着き払ったアリスの態度を見て、蓮子は奥歯にもののはさまったような、どうにも煮え切らないものを感じた。
蓮子は家から出てきたアリスに簡単な自己紹介をした後、招かれるままにその家に上がった。そして今の自分の置かれている状況について説明することから始める。しかしその説明の内容は、そもそもの蓮子自身ですら信じられないような荒唐無稽なものだった。
だからこそ蓮子も、アリスがその説明を信じてくれるとは思っていなかった。
それがどうして、目の前のアリスは蓮子の説明をさも当然であるかのように受け入れてしまうのか。蓮子にはどうにも理解出来ないのだ。
蓮子はまだ口をつけていない自分の分の紅茶を見た。
それはゆらゆらと、暖かそうな湯気を立ち上らせている。
美味しそうではあったが、どうにもそれを飲む気にはなれなかった。
「アリスさんは、今の話を信じるんですか?」
「ええ、まあね。外来人は確かに珍しいけれど、決してありえないわけではないわ。それにこの幻想郷では、ありえないと思えることだって平然と起こりうるものだし――」
アリスはそこで言葉を切り、紅茶をまた一口飲む。
「でも、私が嘘をついているかも知れないじゃないですか」
アリスの様子を見て、気付けばそんなことを蓮子は口に出していた。
どうして自分が不利になるようなことを言葉にしてしまったのか、それは蓮子にも分からない。
ただどうにも、目の前にいるアリス・マーガトロイドという人物が信用出来なかった。
蓮子の価値観とアリスの価値観が乖離しているような――。
――だからそれは単純に、アリスが何を考えているのか分からないということだった。
そして分からないということは、怖いのだ。
そんな蓮子の問いの意味を少し考え、それからアリスは答える。
「……なるほどね。あなたはつまり、よく知らない相手に優しくされることが怖いのね」
「なっ――」
――見透かされた。
そう蓮子は思った。だから言いつくろう様に、慌てて口を開く。
「別に私は、そういうつもりじゃ――」
「あら、違ったかしら? 別に私の親切心に何か裏があると考えるのも、当然といえば当然だと思うのだけど。……まあ、私としてはどっちでもいいわ。そもそもあなたが嘘をついているかどうかなんて、私にとっては重要じゃないのよ。私はこの魔法の森で迷った人に多少の手助けをすることはそれなりにあるけれど、それだって私の不利益にならない範囲においてだけ。だからもしあなたが嘘をついていたとしても、私の不利益にならない範囲なら助けてあげる。……けれどあなたが正直に話していたとしても、もし私の不利益になるようなら、私はあなたを助けはしないわ」
アリスはそんなことだけを言って、カップに残った紅茶を飲み干した。それを感知してか、小さな人形がすぐに紅茶のおかわりをついだ。
このことに関して、それ以上は何を言ってもあまり意味が無いとアリスは思っている。
アリスが「蓮子を信じること」自体を蓮子が「疑わしい」というのであれば、それは今の段階ではどうしようもないことだった。それは言葉ではどうすることも出来ない。
それにアリス自身、それをどうこうしようというつもりもなかった。他人の信頼を勝ち取ろうなんて、そんなことは最初から考えていないのだから。
だからこの話はもう終わりだとばかりにアリスは言う。
「とりあえずこの話はここまでにしましょう。何よりも今話すべきことは、あなたがこれからどうしたいのかということでしょう?」
アリスの言葉を聞いて、蓮子はある一つの言葉を思い出す。
――ようこそ幻想郷へ。ここではあなたが行くも戻るも、生きるも死ぬも全てが自由よ。
それは蓮子がこの幻想郷に来て、最初に出会った八雲紫という妖怪の言葉だった。
紫の言うとおり、確かに蓮子は自由なのだろう。
しかし、だからこそ何をどうするべきなのかが蓮子には分からなかった。
けれどアリスはこう尋ねた。
――蓮子はこれからどうしたいのか。
どうしたいのかだったら、そんなことは最初から決まっていた。
「私は……元の世界に帰りたいです」
蓮子は確かにそう言った。それに対してアリスは「そう」とだけ答えて、一呼吸置いてから口を開く。
「だったら私はあなたを博麗神社まで案内するわ。そこに行けば大抵の外来人は外の世界に帰ることが出来るからね」
アリスのその言葉は、蓮子にとっての救いだった。
不安に押しつぶされそうになりながらも、蓮子は何一つ信用することなくただ強がっていた。それは弱みを見せたら、他ならぬ自分自身に負けてしまうからだ。
しかし、その希望を目の前にしたことで張り詰めていた蓮子の緊張の糸が切れた。
そんな蓮子の様子を察してか、アリスは言う。
「でもこれから私は少しだけ用事があるから、あなたは紅茶とお菓子でも食べてしばらくくつろいでいてくれるかしら」
それだけを言い残してアリスは席を立ち、さっさと奥の部屋へと歩いていく。
それがアリスなりの気遣いなのだと、蓮子は気付いていた。
だからこそ気恥ずかしい思いも確かにあったが、それ以上に何よりもありがたいと今は思う。
元の世界に帰ることが出来ると知って、蓮子は心から安心していた。
「メリー……」
そして最愛の友人の名を呟く。その友人と、また平凡な日常を過ごすことが出来る。
それは今の蓮子にとって、何よりも素晴らしいことのように思えた。
だからだろうか――気付けば蓮子は涙を流していた。
しかしそれは、蓮子にとって決してつらい涙ではない。
――それは安堵の涙だった。
アリスの目の前であったならきっと流さなかったであろう、それ。
そんな涙を流しながら、蓮子はすでに温くなってしまった目の前の紅茶を一口飲んだ。
味は全くと言っていいほど分からなかった。
それでも温くなった紅茶が、それほど美味しいはずもないだろう。
けれど今の蓮子の心には、その温い液体が何よりも深く染み渡っていくように感じるのであった。
霊夢が神社の境内を掃除し終える頃には、すでに日は傾きかけていた。
「ふぅ……ちょっとのんびりし過ぎたかしら」
額の汗を拭いながら霊夢はそう呟いた。
しかし霊夢が普段よりも掃除に時間がかかったのは、何も怠慢だけが理由ではなかった。
霊夢は休憩中に覚えた違和感の正体を探りながら掃除をしていたため、どうにも掃除に集中できなかったのだ。しかし結局のところ、掃除をしながらではその違和感の正体を暴くことは出来なかった。
もしかしたら、その違和感は霊夢の勘違いなのかも知れない。
霊夢の勘は確かに鋭いが、それだって所詮は勘でしかない。絶対に外れないというものでは断じてない。
それが霊夢の杞憂であるということも当然考えられた。
だからこそ掃除が終わった今となっては、霊夢もそれが勘違いだったのだと心の中で思い始めていた。
――勘違いなら、それに越したことは無い。
しかしそう霊夢が思った、その瞬間――。
「――何か、来る……!」
それは勘などではなく、すでに明確な理解だった。
彼方より飛来する、何か。
霊夢は目視でその正体を確認し、そしてただ目を丸くした。
「な、何……タヌキ?」
何故か、人の背丈よりも少し大きいくらいの信楽焼きのタヌキの置物が、空を飛んでいた。
意味が分からず霊夢がただ呆然としている間に、そのタヌキは境内の石畳に頭から衝突する。
そうして粉々に粉砕された石畳の欠片が飛んできたことで、霊夢は正気を取り戻した。
霊夢はその欠片を避けながら素早く身構えると、大きな声で言った。
「何よ、どうしてタヌキが空から降ってくるのよ!」
地面に刺さったままのタヌキは答えない。
「それに石畳! どうしてくれるのよ、これ!」
霊夢は粉々になった石畳を指差しながら、タヌキに抗議の声をあげる。
それでも反応のないタヌキに苛立った霊夢は、地面に刺さっているそれを強く蹴り飛ばした。
ガタン、と大きな音を立ててタヌキは倒れたかと思うと、次の瞬間タヌキは自らの意思で倒れた身体を起こすようにして立ち上がった。
そしてタヌキは、無言でまっすぐと霊夢の方を見ていた。
そのぼんやりと気の抜けたタヌキの顔からは、当然ながら霊夢にも何を考えているのか感じ取れない。それ以前に、そもそも思考があるのかさえ怪しいものだった。
「何よ……置物のくせに、やるっていうの?」
しかし霊夢は何となく勘で、そのタヌキの意思を感じ取った。
――そしてどうやら、その勘は当たったらしい。
タヌキはその左手に持った徳利を振りかぶり、霊夢に襲い掛かろうとする。
「……よく分からないけど、やるっていうなら全力で退治するまでよ」
霊夢は手に持った箒を構えて、そのタヌキを迎え撃つことにした。
魔理沙が博麗神社に着いた頃、そこは異様な静けさに包まれていた。
粉々となった石畳はどことなく荒廃とした雰囲気を醸し出しており、夕日に染まったその光景は平和な日常の一コマなどでは決してない。
だから魔理沙は思った。ここでは何か、魔理沙が考えていたような異変が起きているに違いないのだと。
魔理沙は事情を聞くために神社の巫女である霊夢を探すことにする。
境内にいないとなれば、おそらく社務所にいるだろうという魔理沙の読みは正しかった。
縁側に座る霊夢を見つけて、魔理沙は間髪いれずに尋ねる。
「おい霊夢、これは一体どうしたんだよ?」
「それは私が訊きたいくらいよ。よく分からないけど、大きなタヌキの置物が空から降ってきて石畳が粉々になって、その上そのタヌキが突然暴れ出して……ああもう! 思い出しただけでも腹が立つ!」
霊夢は怒りをあらわにしながらそう言った。
一方の魔理沙は、その内容を聞いて冷や汗をかいていた。
そのタヌキは間違いなく魔理沙が空の彼方に吹っ飛ばしたものだった。
そのタヌキがどうして動き出したのかは魔理沙の関知するところではないが、そのタヌキを結果的に博麗神社に飛ばしたのは魔理沙に他ならない。
激昂する霊夢を見て、それを知られたらただではすまないことを魔理沙は本能的に理解する。それは何としても隠し通さなければならないことだった。
「そういえば魔理沙、あんたの家の前に――」
(う、やばい……)
その話題は都合が悪いと思った魔理沙は、不自然ながらも無理矢理話題を変えようとする。
「霊夢! そ、それで、そのタヌキはどうしたんだぜ?」
「タヌキ? それならそこでバラバラになってるわよ」
霊夢がそう指し示した場所には、砕かれた陶磁器の成れの果てである土くれの山があった。
「あのタヌキのせいで箒も一本駄目にしちゃうし、境内もボロボロだし、一体全体何だって言うのよ……それで、魔理沙は何の用? 遊びに来ただけならまた今度にして欲しいけど――」
霊夢は魔理沙に用件を尋ねた。
「いや、実は――」
魔理沙は詳細を誤魔化しながら、その身に降りかかった異変の情報を収集していることを語る。
そして人間の里でも不可思議な異変が起きているらしいことも、情報収集の結果分かったのだと言った。
「――なるほどね。あんたも気付いてたんだ」
「あんたもって霊夢、タヌキ以外にもすでに何かあったのか?」
「いや、それはないけど……」
「……ああ、勘か」
「そう、勘よ」
魔理沙は霊夢の勘が鋭いことを知っていた。実際に今日も、その勘のとおりにタヌキが襲撃してきたのだから。
しかしその勘が理屈ではないことも魔理沙は知っていた。
だからこそ霊夢から得られる情報は、おそらくこれ以上は何もないのだろう。
期待薄だが土くれの山でも調べるかと魔理沙が思ったそのとき、ふと声がかかる。
「霊夢ー? いるかしら?」
境内の方から聞こえたその声を耳にして、霊夢と魔理沙は不思議そうに目を合わせる。
「この声は、アリスか?」
「そうみたいね。宴会以外じゃ珍しいけど、何かあったのかしら?」
霊夢と魔理沙は境内の方まで歩いていくと、そこには予想通りアリスの姿があった。
そしてアリスの隣には、見慣れない人間が一人。
「どうしたのよ、アリス。珍しいじゃない」
「そうだぜ、アリス。今日は宴会の予定なんてないぜ?」
「知ってるわよ。全く、人をただの酒飲みみたいに言わないで欲しいわね」
「それでも宴会の予定はちゃんと把握しているんじゃない――」
そんな会話をしながらも、二人の目は自然ともう一人の来客の方へと向く。
そして霊夢がアリスに尋ねる。
「それで、この人は誰?」
「ああ、この子は――」
そう言ってアリスがその少女を見やる。
「私は、宇佐見蓮子といいます。ええっと、まず何から話せばいいのか――」
そういって蓮子が逡巡する間に、霊夢は割り込んだ。
「いや、分かったわ。あなた、外来人なのね?」
「え、あ……はい、そうです」
まだ何も説明していないのにどうして分かったのだろうかと、蓮子は不思議そうに目を丸くして霊夢を見る。
しかしその蓮子と霊夢の間に割り込む、黒い影――魔理沙だった。
「へぇ、外来人か。珍しいな!」
魔理沙はそう言うと、嬉々として蓮子を観察するようにまじまじと見つめた。
徐々に近寄ってくる好奇心旺盛な魔理沙の顔に、すぐに蓮子は我慢できなくなって困ったような声を上げる。
「あ、あの……」
困り顔で蓮子は霊夢とアリスを交互に見る。「助けて欲しい」と、蓮子は目線で合図を二人に送った。
そして霊夢が口を開くのを見て、その意図が伝わったのかと蓮子は安堵する。
しかし――。
「アリス、ちょっといいかしら。蓮子と魔理沙はここでちょっと待っていてくれる?」
霊夢の言葉は蓮子の予想とは異なっていた。
それをどこか深刻そうな顔で言った霊夢。
「……? まあ、いいけど」と、少し訝しがりながらもアリス。
「ああ、いいぜ?」と、笑顔で答える魔理沙。
「えっ、えぇっ?」と、魔理沙の追求から助けて貰えるといった期待を裏切られて困惑する蓮子。
そんな三者三様の反応を返したのを確認すると、霊夢は踵を返して歩き出す。
アリスも黙って、ただそれについて行く。
そして、境内には困り顔の蓮子と、好奇心に目を輝かせる魔理沙だけが残された。
「霊夢……それで、何?」
どうして自分だけ呼ばれるのか、アリスに心当たりがあるとすればそれは蓮子のことである。そしてそれを蓮子抜きで話したいとすれば、それはつまり蓮子に話せないような内容なのだろう、とアリスは思った。
「あの外来人……蓮子って言ったっけ。何か変わったこと言ってなかった?」
「変わったこと?」
「たとえば……紫と何か話をしたとか」
どうして霊夢がそんなことを訊くのか分からないが、アリスはただ答える。
「ええ、そういえばそんなことを言っていたわね。それで話をしていたかと思ったら足元に穴が出来て、次に気付いたら私の家の前だったとか……でもそれがどうしたの?」
アリスは、話を聞いて「やっぱり」と呟いている霊夢に尋ねる。
「アリスは蓮子を元の世界に戻してあげようとして、だからここに連れて来たのよね?」
「ええ、そうだけど……」
「うーん……困ったわね」
霊夢は口元に手を当てながら、一人で考え込むようにする。
「だから何が問題なのよ、はっきり説明してくれない?」
「……あの蓮子って外来人、普通の外来人じゃないわ」
「えっ……それって、どういうこと?」
「詳しいことは私にも分からないけど、一つだけ確かなことは――」
霊夢はそこで一旦言葉を切って瞑目し、それからその言葉を発する。
「――蓮子は私の力じゃ帰せない、ってこと」
それがどうしてなのかまではアリスには理解できない。しかしその意味だけは明確に理解できた。
それはつまり、今の段階では蓮子を元の世界に帰すことは出来ない、ということだ。
「それって――」
アリスは霊夢に何かを尋ねようとした。
しかし霊夢は、驚いたような顔でアリスの後方を見ていた。
――アリスは、嫌な予感がした。
慌てて後ろを振り返るアリス。そこにはやはり予想通りの人物がいた。
「蓮子……」
アリスはそこにいた少女の名前を、ただ呟いた。
「……っ!」
アリスに名前を呼ばれた蓮子は、しかし何も言わずただ逃げるように、気付けばどこかへと駆け出していた。
その背中にかけられるアリスの制止の声も、今の蓮子には聞こえなかった。
蓮子は泣きそうな顔で、あるいはすでに泣きながら、あてどもなくただひたすらに走る。
今はただ、どこかへと逃げたかった。
すがっていた希望が崩れてしまったという現実を、認めたくは無かった。
これは何かの悪い夢だと、そう思いたかった。
だから逃げて、逃げて、逃げて――。
気付けば蓮子は広い草原にいた。
日は沈み、すでに空の支配者は月に代わっている。
暗い夜の中、蓮子は独り立ち尽くす。
「はぁ、はぁ、ここは、どこだろう……」
ただ闇雲に走ってきたせいで、蓮子は自分がどのようにここまで来たのかが分からない。
そして気付く――。
「――迷った」
知らない世界の知らない場所で独り。それは当然不安である。
何か手がかりはないかと周囲を見回すが、そこは何もないただ広いだけの草原だった。
自分がどの方角から走ってきたのかさえも分からない。
蓮子はすがるような気持ちで、月を見上げる。
蓮子の目には不思議な力がある。
それが「星を見て時間を、月を見て場所を知る能力」だった。
だから空に浮かぶ月を見れば、蓮子は今いる場所を知ることが出来るはずである。
――しかしそれも、空振りだった。
確かに場所は分かった。
しかしここは「幻想郷」という、蓮子の理解の外側にある世界。
蓮子は結局、ここが「知らない場所」である、ということだけを理解した。
この知らない場所から、どの方向に進めばあの神社に戻れるのかまでは蓮子の能力では知ることが出来ないのだ。
そのことに落胆し、蓮子はそのままへたり込む。
そんな落ち込んだ心のまま、都会では見ることは出来ないであろう満天の星空をただ見上げて、そして蓮子は気付く。
「……あれ、時間が――」
「――というわけで、アリスと魔理沙は蓮子を追いかけて連れ戻してくれる?」
霊夢は二人に事情を簡単に説明してからそう言った。
アリスは無言で頷く。魔理沙も頷きはしたが、しかし質問のために言う。
「それはいいけど霊夢、お前はどうするんだ?」
「私はちょっと、文句を言いにいかないといけないのよ」
「文句って、誰に?」
「誰って、そんなの紫に決まってるじゃない」
そういって霊夢は紫の名を出した。
八雲紫。一人一種族の妖怪にして、幻想郷最強とされる妖怪の一人。
その紫の持つ境界を操るというその能力は、神に匹敵するとされるほどだった。
それだけに普段から何を企んでいるのかが分からない存在でもある。
「紫が何をしたのか、霊夢は分かったの?」
「いや、全然分からないわ。それでも紫が何も知らないはずはないのよ」
――だったら紫に直接訊けばいい。
アリスの質問に、霊夢はそう答える。
紫が何を企んでいるのかは霊夢にも分からない。
それでも紫が今回の異変に関わっていることは間違いないだろうと霊夢は考えていた。
「……まあいいわ。そっちは霊夢に任せるから、私たちは蓮子を追うわよ」
アリスはそういって魔理沙の方を見る。
「ああ、それじゃあ早速追いかけるとするか」
そういって魔理沙が空を飛ぶと、アリスもそれに遅れないように飛んだ。
その二人の背中を静かに見送った霊夢は大きなため息を一つつく。
そして、どこか呆れたような声で言う。
「――紫、いるんでしょう?」
霊夢一人が残された境内にその声が響き、そして静寂。
風の流れる音を聞きながら、霊夢はただ静かにその相手を待っていた。
そして、霊夢の目の前に空間の裂け目が現れた。
その裂け目から現れたのは当然、八雲紫だった。
「……よく分かったじゃない。褒めてあげるわ、霊夢」
「ありがとう。それで、何かくれるの?」
「いいえ、何もあげないわ」
そういって紫は不敵に笑う。
その紫の表情からは、何を企んでいるのか全く読み取れない。
紫が一体どういうつもりでいるのか、それが霊夢には分からない。
それでも霊夢は、一つの思いを胸に紫と対峙する――。
――蓮子にとって、そんな体験は初めてだった。
星空を見上げて「二つの時間」が同時に見えるということは、今までにないことだった。
そのうちの一つの時間は、蓮子が本来過ごしている時間である。
しかしもう一つの時間は、蓮子が生まれるよりもはるかに過去の時間だった。
その時間の示す意味は蓮子には分からない。分からないけれど、それでもそれが、もしかすればこの「幻想郷という世界の時間」なのではないかと、そんなことを思った。
しかしそうだとすれば、今度は自分の世界の本来の時間が見えている理由が分からなくなる。蓮子はよく回るその頭脳を使って考えた。
前者が元の世界の時間、後者が幻想郷の時間だとして、それならばその間に齟齬があることには一体どういう意味があるのだろうか。
「もしかして……重ね合わせ?」
蓮子の言った「重ね合わせ」とは、量子力学の基本的な概念である。
量子力学においての状態とは、いくつかの異なる状態の重ね合わせで表現される。
それは簡単に言ってしまえば、今がどの状態にあるのかは確率的にしか語れないということだった。今の状態が「二つのうちのどちらかである」ということまでは分かるが、現状ではどちらであるのかを確定出来ない。それこそが「重ね合わせ」と呼ばれる状態であった。
「もし今の状態が重ね合わせなのだとしたら……そしてもし私が、この幻想郷の時間しか見えないように状態が収束したとしたら……私は、元の世界に帰れなくなる」
蓮子はそう思った。
どうしてそんなことになってしまったのか、さすがに原因までは分からない。
けれど、だからこそ怖かった。
「もしこの夢物語のような世界を、私が現実として認識してしまったら――」
――それは、蓮子にとっての破滅を意味していた。
蓮子は今、幻想と現実の狭間に立っていた。夢と現の境界線上を漂うようにして、ゆらゆらと揺れながら。そして今その境界はまるで硝子糸のように儚く、そして脆い。
それでもただ現実側に戻れたなら何も問題は無い。そこには最愛の友人との平凡な日常が待っている。
けれどもし、幻想側に蓮子が寄ってしまったなら――そこには破滅しか待ってはいないのだ。
蓮子は決してこの幻想郷という世界が悪い世界だとは思わない。
初対面の蓮子にも優しくしてくれる人がいた。それは嬉しいことだった。
この幻想郷という世界は、別世界から来た蓮子でさえもその全てを受け入れてくれるのだろうと思う。
けれど、それでも蓮子自身はこの世界を受け入れることが出来なかった。
本来、ここは蓮子のいるべき世界ではないのだから。
「ここは私の現実じゃない。ここは夢、虚構、幻想。だから私は――」
――この世界を、否定しなければならない。
「……見つけた、蓮子!」
蓮子が決意すると同時に、空からかけられたアリスの声。
振り返るとそこにはアリスともう一人、魔理沙の姿があった。
ゆっくりと地上に下りてくる二人の表情には心配と安堵が見える。
「何しに、来たんですか……」
蓮子は泣きそうな声で、アリスたちに言った。
「何しにって、私たちはあなたが心配で――」
「――私に優しくしないでください!」
拒絶。
蓮子はアリスたちのその優しさを、認めるわけにはいかなかった。
認めてしまったら、きっと元の世界に帰れなくなってしまうと思うから。
「蓮子……?」
「駄目なんですよ……。あなたたちに優しくされたら、私は否定出来なくなるじゃないですか。この世界もいいなって、そう思っちゃうじゃないですか……でもそれは、駄目なんですよ!」
蓮子がそう大声で叫ぶと同時に――。
――蓮子の背後に巨大な影が現れた。
「おいおい……なんだよこりゃ?」
驚くようにして魔理沙は思わずアリスに尋ねる。
「そんなの私に分かるわけがないでしょ。……でも、あまり好意的な存在じゃないみたいね」
「そんなの、見ればわかるぜ?」
「静かに! ……来るわよ」
アリスはそういって身構える。
それを聞いた魔理沙も臨戦態勢に入り、その巨大な影の攻撃に備えた――。
「それで紫、結局あんたは何をしたのよ」
「あら、どうして私を疑うのかしら?」
そういって開いた扇で口元を隠しながら笑う紫を、霊夢はただ静かに睨みつける。
「ふふ、そう怖い顔しないでくれるかしら。それに私は本当に何もしていないのよ?」
「何もしていないって、あんた以外に誰が蓮子を幻想郷に連れて来られるっていうのよ」
「ほら、そうやって最初から犯人を決め付けて疑ってかかる。あなたの悪い癖よ。こういう言葉を知らないかしら? 『疑うことは信じることのあとにくる』って」
霊夢は紫の言葉を聞いて、よくもそれだけ口が回るものだと感心した。
紫の言うことは確かにもっともらしい。しかし、それもどこか冗談めかした笑みを浮かべながら言うのでは、どうにも信用しがたいのも事実だった。
「……だったら紫、あんたは一体何を知っているのよ」
霊夢はとりあえず一旦、紫を信じることにした。状況からすれば紫が何もやっていないとは考えにくかったが、それでも紫が何かをやったとする根拠がないのも事実である。
今は判断材料となる情報が少しでも欲しいと霊夢は思ったのだ。
――それでもしやっぱり紫が犯人だというのなら、それから懲らしめればいいだけの話なのだから。
「そうね……私が知っているのは、宇佐見蓮子という外来人が、何者かに『夢と現の境界』を操られてしまった、ということくらいかしら。それがその何者かにとって意識的なのか、それとも無意識なのかはわからないけれど、ね」
「『夢と現の境界』って、それじゃあやっぱりあんたが原因じゃない!」
「だから私じゃないって言っているでしょう? 私が境界を操れるからって、境界を操れるのが私だけとは限らない。考えにくいことではあるけれど、今回はそういう話になるのよ。……この意味が分かるかしら?」
そういってやはり不敵に笑い声をあげた紫を、霊夢はまっすぐに見据える。
「……外の世界に、紫みたいな力を持った何者かがいる」
「そうね、六十点ってところかしら」
どこかふざけたような紫の物言いを聞いて、霊夢はただ沈黙する。
そして紫は言う。
「どうやら『未来の』外の世界に、私のような力を持つ『人間』がいるみたいなのよね」
「あまり変わらないじゃない」
「そうね、だから合格点はあげたわよ?」
「……紫。あんたはそれを、最初から知ってたの?」
「ええ、知っていたわ。あの宇佐見蓮子という人間が『私の家』に迷い込んで来たときから、私は全てを理解していた」
――紫は、最初から分かっていた。
それを聞いて霊夢は「やっぱり」とだけ思った。
「……それであんたは今回の異変の原因がその、未来の外の世界の人間にあるって、そう言うつもりなの?」
「ええ、そうよ。今回の異変の原因はそこにある。宇佐見蓮子にとっての夢と現の境界があやふやになってしまった結果、常識では考えられない不可思議なことが起こるようになってしまった。たとえば、タヌキの置物が暴れ出したり、とかね」
紫はそう言った。
紫の言うことはおそらく正しい。幻想郷は蓮子にとっての現実ではない、いわば幻想の世界である。夢物語の世界では、当然夢のように奇妙な出来事が起こるだろう。
今回の異変もそう考えれば蓮子の「夢と現の境界」が揺らいだ結果として、蓮子の「夢が具現化」してしまっただけなのかも知れない。
確かにそれで辻褄のあう話だった。それならば確かに紫は何もしていないのだろう。
――それでも、違う。
霊夢はそう考えた。
確かに紫は蓮子の「夢と現の境界」を弄ったりはしていないのだろう。
だからといって、それは紫が何もしていないことを意味するわけではない。
今回の一件において、紫が何も企んでいないなんて――。
――まさかそんなことが、あるはずもない。
「……ふざけんじゃないわよ。紫が何もしていない? そんなこと、あるはずがないでしょ。だって紫は言ったわよね、『最初から全てを理解していた』って。そしてその最初というのが、蓮子が『紫の家』に迷い込んだときだって。……本当に何もしていないというなら、蓮子が紫の家に来たときにそのまま元の世界に送り返せばよかったのに、どうしてあんたはそれをしなかったの? それどころか、どうしてわざわざアリスの家の前に蓮子一人で放り出すようなことをしたの? ……違うのよ。あんたは何もしていないわけじゃない。あんたは目の前に現れた蓮子を見て、ちょうどいいって思ったんでしょ? ……だから蓮子をそのまま自分の企みに利用した――そうでしょ!」
霊夢はそう、確信を持って紫を睨みつけるように言った。
そして紫は、どこか諦めたように嘆息してから、口を開く。
「……よく分かったわね、霊夢。鋭いのは直感ばかりかと思ったけど、ちゃんと博麗の巫女らしく成長しているじゃない」
「私のことはどうだっていいのよ。紫、あんたは一体何がしたかったっていうのよ」
詰問するような霊夢の声。
しかし紫はそれに気おされることもなく、ただ冷静に言う。
「……熟れすぎた果実がどうなるか、あなたは知っているかしら?」
「……? それは、腐るんじゃないの?」
「ええ、そのとおり。それじゃあ次の質問。『調和がとれて安定しきった世界』。……あなたはそれを、どう思うかしら?」
「どうって、それは――」
――そこで霊夢は、紫の言わんとすることが分かった。
それは確かに理想的な世界なのかも知れない。
けれど一方で、霊夢はこうも思うのだ――退屈だ、と。
そんな世界はきっと退屈に違いない。
そんな退屈な日々も、たまにならいいだろう。
けれどそんな日々が、そんな世界がもしずっと続いたら――。
――それはきっと、熟れすぎた果実のように腐ってしまうに違いない。
「そういうことよ。幻想郷という世界は、あなたが思っている以上に危うい世界なの。それはちょっと気を抜いた瞬間に腐ってしまうような、甘い果実のような世界。そんなこの世界が安定しきって腐らないようにするためには、さて、どうするべきかしら?」
「……異変を、起こす――」
「正解」
紫はおどけたようにして霊夢にそう言った。
紫には企みが確かにあった。
しかしそれが、まさか「幻想郷を守るため」だとは、霊夢も思ってはいなかった。
その事実を見れば、確かに紫は正しいのだろう。
「でもそれが事実だとしても、別に蓮子を利用する必要はないじゃない。『あんたが』蓮子を泣かせる必要は、どこにもなかったじゃない!」
それは決して蓮子への同情心から来た言葉ではない。
霊夢の怒りは、それとは別のところにあった。
「それがあったのよ。たとえば私が異変を起こし続けて、世界を安定させまいと考えたとするわ。けれどそうすると、そんな同じ事が何度も続けば当然、マンネリ化するのよ。新鮮味がなければ、当然そのうち飽きが来る。その飽きが来た状態こそが、私の恐れる『調和がとれて安定しきった世界』なのよ」
「………………」
霊夢はただ静かに紫を睨みつける。
「そう怖い顔しないでくれるかしら。これは仕方がなかったのよ。宇佐見蓮子の涙は、この幻想郷を守るために必要な犠牲だった。私の行いは、幻想郷のために必要だった……それでも納得できないかしら?」
「……理屈は分かるわ。……けど、それでも――」
――霊夢の心が理解を拒む。
「……そう。あなたのそういうところも嫌いじゃないけど、でもその甘さは時に取り返しのつかないことを引き起こすかも知れないわ。……霊夢。あなたには、博麗の巫女としての覚悟が足りないわ」
「覚悟? ……外の世界の無関係な人間を、容易く傷つけることが覚悟だって言うの?」
霊夢はただ静かに、そう尋ねる。
「……そうよ。私たちが外の世界のことまで背負う必要なんてないでしょう?」
そしてその紫の言葉が、霊夢を決心させた。
霊夢の怒りの正体。
無関係な外来人である蓮子を泣かせてしまったこと。
紫がその決断をただ一人で抱え込んでいたこと。
その結果、霊夢の知らないところで紫が他人を傷つけていたこと。
そして何よりも――
――紫が、人を傷つけるその痛みを、たった一人で背負い続けてきたこと。
だからこそ霊夢は、言った。
「……甘いのはどっちよ。簡単に他人を傷つけることを選んで、あんたはそれで覚悟した気になってるだけでしょ? ……甘えてんじゃないわよ!」
「……だからあなたは甘いというのよ。現実を何も知らないから、そんなことが言える。あなたが思っている以上に、現実というものは非情なのよ」
「現実? 何言っているのよ、紫。ここは『幻想郷』なのよ? ここではそんな考え方、何の意味もないじゃない」
「……そうね。これ以上あなたと言葉だけを交わしても、もう何の意味はないのでしょうね」
それだけを言うと紫は口元を隠していた扇を閉じて、その扇の先端を霊夢に向ける。
「何よ、やるっていうの?」
「ええ、そうね。もしあなたが自分を正しいと思うのなら、それを私に証明して見せなさい」
――そうして二人の、舞踏のごとく美しき決闘は幕を開けた。
「ああ、くそっ。一体なんだっていうんだよ、アレは!」
魔理沙は吐き捨てるように言う。
「だからそんなこと、私に訊かれたって、知らないわよ!」
アリスも苛立たしげにそう言った。
それだけ、蓮子の背後に現れた影の巨人との戦いに苦戦していることの表れだった。
影の巨人の攻撃自体は緩慢で、まともに喰らえばただではすまないが、回避に専念していればまともに喰らうことは無いように思える。
しかし問題は、二人の攻撃がその影の巨人に通用していないということにあった。
そして何よりも影の巨人に対して二人が攻撃をする度に、蓮子が苦しそうにうめき声をあげるのである。
「なあ、本当にアレを倒してしまっても大丈夫なのか?」
「分からないわ……けど、向こうが攻撃して来るんだから――」
――そのときだった。
「アリス、危ない!」
魔理沙は叫ぶ。しかし――。
――影の巨人の平手は、空を飛ぶアリスを地面に叩きつけるように直撃する。
それは複数の人形の操作に気を取られるアリスの癖と、一瞬の心の迷いが生んだ隙だった。
「アリス!」
魔理沙はその名を呼び、一直線にアリスの元へと文字通り飛んでいく。
そして地面に強く叩きつけられたアリスを、魔理沙はただ心配そうに抱き寄せる。
「おい、アリス! アリス! しっかりしろ!」
「……耳元であまりうるさくしないでよ。あと、あまり揺さぶらないでくれるかしら」
そういってアリスは気丈に振舞う。しかし――。
「――でもお前、頭から血が…………」
「こんなのかすり傷よ。別にどうってこと――」
そういってアリスは無理矢理立ち上がろうとするが、しかしその途中で小さくうめき声をあげる。
それはあえて言葉にするまでもなく、明らかにアリスは無理をしていた。
いかに魔法使いのアリスとはいえ、それはすぐに動けるような状態ではない。ましてや戦闘など、絶対に不可能だといえた。
それでもアリスは、無理を押してでもその身体を動かそうとする。
どうしてアリスがそこまでしようとするのか、魔理沙には分かっていた。
蓮子が放っておけないから。それはおそらく正しい。
けれど何より――魔理沙が頼りないから。
魔理沙に力が無いから、だからアリスは魔理沙を心配して無理をしようとする。
魔理沙はアリスとは違う。魔法が使えるとはいえ、所詮はただの人間だった。
そして人間とはいえ博麗の巫女である霊夢とも違って、生身ではただのタヌキの置物にさえ苦戦するような、か弱い人間だった。
それを魔理沙は知っていた。だからこそ今まで必死に努力をしてきた。誰にもその姿を見せず、決して弱音を吐かず、ただひたすらに努力をして――それでも追いつけない相手がいる。
魔理沙はそれでも、追いつくことを諦めたことはなかった。
けれど、それでも考えずにはいられない。
――一体何のために努力してきたのだろう。
「……それは、こんな目にあわないため、だぜ――」
こんな目に――自分の無力が原因で、他人が傷ついたりしないために。
自分の無力が原因で、大切なものを失わないために。
そして自分にあのとき力があったらと、そんな後悔をしないために。
そのために魔理沙は今まで努力をしてきたというのに――。
「――やっぱりまだ、私には力が足りないみたいだな」
しかし、それでも諦めるという選択肢は魔理沙にはない。
魔理沙は自分が今出来ることの中から、最善の選択とは何かを考え始めた。
「攻撃してくる以上は放っておくわけにもいかないが――」
「紫さま……大丈夫ですか?」
神社の境内に立ち尽くす紫に心配そうな声をかけたのは、紫の式神である八雲藍だった。
紫は直前まで霊夢との決闘を行っていた。
しかし紫はその決闘に、珍しく全力で臨んだ上で敗れていた。
そんな普段の紫らしくない状況をみて、藍は心配になったのである。
「別に、私は平気よ。それより藍、あなたに任せた監視の方はどうしたのかしら?」
紫はそんな強がるようなことを言いながら、そのまま話題を逸らした。
「今は私の式が引き継いでいます、そちらに問題はありません。……けれど、紫さま。本当に魔理沙とアリスで『夢の化身』に対処できるのでしょうか?」
「さあ、それは分からないわ。私の見立てでは十中八九、アリスが戦闘不能に追い込まれるはずだけど」
そんな重大なことを、さも当然のように言う紫。
その言葉を聞いて藍は驚いたように言った。
「アリスがって、それじゃあ上手くいくはずがないじゃないですか」
「あら、どうしてそう思うのかしら?」
紫は不敵な笑みを浮かべて、藍を試すように言った。
けれど冷静に考えれば、藍にとってそれは自明だった。
「どうしてって、魔理沙は所詮ただの人間ですよ? スペルカードルール下の決闘ならまだしも、今回のようなタイプの異変では、一体どれほどのことが出来るでしょうか」
「んー、四十点。残念、不合格ね」
紫はふざけたようにそんなことを言ってから続ける。
「確かに魔理沙はただの人間で、だからその力で出来ることも限られているわ。藍の言ったように、それは事実よ。けれど、あなたは一つ大事なことを見落としているわ」
「大事なこと、ですか?」
「ええ、そう。それが魔理沙の『劣等感』」
「劣等感……?」
それが一体何になるのだろうか、藍には理解できなかった。
そして紫にはそれを藍が理解できるはずもないことを知っていた。
だから紫は説明するように口を開く。
「魔理沙はいつだって、自分の力の無さを自覚してきたわ。それはつまり、今の自分に何が出来ないのかを理解してきたということ。裏を返せば、今の自分に何が出来るのかを知っているということ。だから魔理沙はね、誰よりも明確に自分自身のことを理解しているのよ。……魔理沙には理想があるけれど、それを見据えながらも彼女は決して残酷な現実から目を逸らさない。だから一切を惜しむことなく努力を積み重ねることが出来る。確かに魔理沙には才能はないのかも知れないし、種族の壁だって立ちはだかるかも知れないわ。けどね、藍……磨いて輝かないものなんてないのよ?」
――磨いて輝かないものなんてない。
紫はそう言ったが、しかしやはり藍にはその言葉の意味は分からなかった。
藍は考える。それは自分の力を磨き続ければ、いつか式神の藍が主である紫を超えることも出来るということだろうか。
しかしどうにも藍にはそんな未来を想像することが出来なかった。そもそもそんなことを、今まで考えたことすらなかったのだから。
「まあ、藍には理解し難いでしょうね……それにたとえ魔理沙が輝くとしても、それはまだまだ先のことでしょうからね……」
紫はそんなことを呟くように言うと、藍に引き続き監視の任務を任せて、気付いたときにはすでにスキマの向こう側へと消えてしまっていた。
魔理沙はひとまずアリスと共に安全圏まで離れてから、様々な可能性を考えた。
今の自分に出来ないことを一つ一つそぎ落として、自分の出来ることを一つ一つ積み上げる。その中から最良の結果を得るための方法を考える。
そして辿りついた一つの結論――。
「――アリス、ちょっとこれ借りるぜ?」
そう言った魔理沙が手に取ったのは、アリスが普段操っている手作りの人形だった。
「……って魔理沙、あなたに私の人形が操れるわけがないじゃない」
「いや、出来ないわけでもないぜ? 同時に二体までなら、何とかな」
「それにしたってそんな付け焼刃で、あんなのをどうにか出来るわけが――」
「――そうだな。だから私は、今の自分に出来ることだけをやるんだ」
「……?」
アリスには魔理沙が何を考えているのかが分からなかった。
今の状況にあって、魔理沙に出来ることが一体どれほどあるのだろうか。
しかしアリスの考えとは裏腹に、すでに魔理沙は前だけを見据えて飛び出していた。
そうして影の巨人と対峙した魔理沙の動きを、アリスはただ静かに見守るしか出来ない。それがアリスには何とも歯がゆく、そして悔しかった。
「私が怪我さえしていなければ、魔理沙よりももっと上手く人形を動かすのに……」
魔理沙が操る人形の動きは決して俊敏とは言えなかった。それでも初めての試みで二体同時となれば充分に上出来ではあるのだが、そんなことは異変の最中では何の意味ももたない事柄である。
見ていると魔理沙の狙いは分かりやすかった。あくまでも人形はおとりとして魔理沙は考えているらしい。
それはある意味では当然と言えた。魔理沙の人形を操る術は、所詮見様見真似の付け焼刃であり、そんなにわか仕込みの方法であの影の巨人をどうこう出来るはずは無いのだから。
人形をおとりとして隙を作ったところに、防がれないように魔理沙の大火力の魔法を叩き込む。これが魔理沙の考えであるとアリスは思った。
「でも……それだって今のままじゃ、上手くいくはずが無い」
それは魔理沙の動きを見れば分かることだった。魔理沙は不慣れな人形の操作にその両手と、思考の大半を使っていた。
そんな状態では、たとえ影の巨人の隙を作ることが出来たとしても、とどめの一撃を叩き込む余裕が魔理沙にはない。
魔理沙は二体の人形を必死で操りながら、様々なパターンで影の巨人の隙を作ろうと画策する。そうして何度か影の巨人の隙を作ることには成功したが、やはりアリスの考えたとおり魔理沙はとどめの一撃を放てない。
このままではいつまで経っても影の巨人を倒せないどころか、慣れない人形の操作に集中している魔理沙だってアリスのように影の巨人の攻撃を受けかねない。
アリスはそんな心配をしたが、しかし――。
「――見つけたぜ、お前の隙が最大になるパターンを」
アリスの考えとは裏腹に、魔理沙は自信満々に大きな声でそんなことを言う。
そして、その声に答えるように飛び込んでくる影――霊夢だった。
その霊夢の服装はどうにもボロボロで、紫と一悶着あったのだと想像することは難しくなかった。
そんな霊夢が、魔理沙に対して口を開く。
「いいとこ取りみたいでちょっと気が引けるけど……まあ、そんなことも言っていられないわよね」
「むしろここで全部持っていってもらわないと困るぜ?」
魔理沙は得意げに笑いながら、霊夢にそう言った。
そしてアリスは理解した。
魔理沙の狙いは最初から、「隙を作る」という一点に集約されていたのだ。
魔理沙には自分に何が出来るのかが分かっていた。
魔理沙には自分に何が出来ないのかが分かっていた。
とどめの一撃を叩き込むことは、だから魔理沙にとって「出来ないこと」だった。
だからこそ魔理沙は、その役割を霊夢に託したのだ。
魔理沙は最初から今の自分に出来ることだけをやるのだと心に決めていた。それこそが霊夢に最良の形でバトンを繋ぐことだった。
そしてそのバトンは霊夢へと――今、確かに繋がったのだ。
「これが紫の言っていた、蓮子の『夢の化身』ね……思っていたより大きいじゃない」
そう嘆息しながらも、霊夢は自信に満ちた声で続けた。
「ここはあんたのいるべき世界じゃないわ。……だから去りなさい、悪夢――」
「――やはり紫さまの予想通り、霊夢と魔理沙は『夢の化身』を無事退治して、宇佐見蓮子を元の世界の現実に送り返しました。また人間の里などで起きていた地味な異変も、それ以降は確認されていないとのことです」
そういって丁寧な口調で報告するのは藍だった。
藍は紫に任されていた『宇佐見蓮子の監視』という任務の最終報告を行っていた。
どうやら特に問題もなく異変は終息したらしいことに紫は満足し、藍をねぎらった。
「ご苦労様、藍」
「いえ。……それより紫さま。あれ以来どうにも顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」
藍は心配そうにして紫にそう言った。
しかし紫は藍の心配をよそに言う。
「別に、私は大丈夫よ。……それより藍、終わったばかりで悪いのだけど、またちょっとおつかいに出てくれるかしら?」
「はい、それは構いませんが……」
それでもなお心配そうな顔をする藍に、だから紫は言う。
「帰りに油揚げを買ってきてもいいわ」
「本当ですか? やった、ありがとうございます紫さま!」
紫の言葉を聞いて、心配そうにしていた顔は一転して満面の笑顔になる。
普段は藍のその単純さが頭痛の種ではあった紫だが、今だけはそれがありがたかった。
紫がおつかいの内容を書いた紙片を渡すと、藍はすぐにいなくなった。
――そして紫はこの場に、一人になった。
「……それにしても藍にまで気付かれるなんて、全くどうかしているわ」
紫は他ならぬ紫自身に腹を立てながら、ただそう独りごちるのであった。
藍が紫に頼まれたおつかいは、何でもないただの買い物だった。
人間の里までやってきた藍は、油揚げという言葉に心を躍らせながらも、考えることはやはり紫のことだった。
「紫さまは今、おそらく揺れているのだろう」
そんな独り言を藍は呟く。
その原因はおそらく、あの異変のときの霊夢との決闘とも関係があるのだろう、と藍は考えていた。けれど藍はあの決闘に至るまでの過程を知らない。
それでも藍には分かることがある。ずっと紫を見てきたからこそ、分かる。
「……大体、紫さまは一人で何でも背負い込みすぎなんですよね」
それは紫の強さであり、また弱さでもあった。
紫は自らの愛した幻想郷を守るために、様々な行動を起こしてきた。
その中には当然、他人を傷つけるようなものだってあった。
そんなときでも紫は悪役を演じ切り、そして傷つける側の痛みも一人で背負ってきた。
誰にも頼らず、誰にも甘えず、決して誰のせいにもせずに。
そんな紫を藍はずっと見てきた。だからこそ心配だった。
けれどそんな心配をしても、いつだって紫は藍の追求を逃れてしまう。
紫の口からは、決して弱音が漏れることはない。
紫が誰かに弱みを見せることは決してないだろう。
八雲紫とは、幻想郷に住む孤高の妖怪の名。
それは何よりも強く、そして何よりも高い存在である。
しかしそれゆえに、紫はいつだって独りだった。
藍はそのことがどうにも寂しかった。
いつか紫が自分に悩みを打ち明けてくれる日が来ると思い、長い間ずっと待ってきた。
けれど、その日はまだ訪れることがない。
――自分は本当にこのまま待っているだけでいいのだろうか。
藍はそんなことを考えながら、それでも今はただ頼まれたおつかいをこなすだけだった。
そんな藍の胸に何度も響く、あの言葉――
――磨いて輝かないものなんて、ないのだ。
あの異変から数日が過ぎ、博麗神社の境内も随分と綺麗に片付いていた。
その神社の社務所の縁側でお茶をすすりながら、霊夢は独りで呟く。
「全く、紫も一体何だって言うのよ。柄にも無くあんなに動揺しちゃって。そりゃ私だって勢いに任せてちょっと言い過ぎたかも知れないけどさ、あれじゃあ私がただ悪いことを言ったみたいじゃない」
霊夢はそういってあの異変の日の紫との対決を思い浮かべる。
そのときの紫は、直前の霊夢の言葉に明らかに動揺していた。
それは普段の紫らしくない手加減なしの本気の弾幕からもうかがい知ることが出来たが、何よりもその動きは明らかに精彩を欠いていた。
霊夢は紫の本気の弾幕によってボロボロになりながらも、しかしその隙をついて何とか勝利することが出来た。
しかし、それだって――。
「――全然納得がいかない!」
あの時の霊夢は怒っていた。
無関係な外の世界の人間である蓮子を泣かせてしまったこと。
そして何よりも、そうなる選択を紫がしたということに。
「けど蓮子を泣かせたのは、私のせいでもあるのよね」
霊夢は紫の話を聞いて、後から冷静になって考えた結果そう思った。
迷い込んだ蓮子を幻想郷に送り込み、その不安を煽ったのは間違いなく紫ではあった。
しかし、それが幻想郷を守るための苦肉の策であったのも事実なのだろう。
紫が好き好んで蓮子を傷つけたわけではないことは、紫をよく知る霊夢には分かる。
それならば、どうして紫がそんなことをしなければならなかったのか。
そんなことは当然のように決まっていた。
「――幻想郷を守るため、か」
だとすれば、蓮子を泣かせたのは紫だけではない。
それは幻想郷に住む者全員の責任だった。
その全員が背負うべき咎に、違いないだろう。
「紫のやつ、どうしてそんな大きな事を一人で背負い込もうとするのよ。少しくらい私たちを頼ってくれたっていいじゃない」
霊夢はあの時、紫に「甘えるな」と言った。
けれど本当は違った。
本当は霊夢たちに、もっと「甘えて欲しかった」のだ。
「……ああもう! どうして私がこんな思いをしなければならないのよ。こうなったら紫に直接文句を言ってやるわ」
霊夢はそう決意しながらお茶を飲み干すと、片付けもそのままに神社から飛び出していった。
一つの問題が、アリス・マーガトロイドを悩ませていた。
先日の異変において、アリスは自身の不注意で怪我を負ってしまった。
その怪我自体はすぐに治すことが出来たので、それは特に問題ではない。
だから問題があったのは、その怪我を負ってしまったこと自体に、であった。
「あの時、どうして私はあんな怪我をしてしまったの……?」
それは何度目の自問だろうか。
そして何度それを自分に問いかけたところで、その答えが変わることもなかった。
「結局は、私の慢心……か」
アリスは心のどこかで他人を信じることにブレーキをかけていた。
今回だって、共闘関係にあった魔理沙を信じ切ることが出来なかった。
どこかで魔理沙の力を軽んじていた。
最終的には自分が一人で何とかしなければと、心のどこかで思っていた。
魔理沙に対しての仲間意識は確かにあったけれど、それだって結局は「自分が魔理沙を守らなければ」という思いだった。
魔理沙に自分の背中を任せようという気持ちは一切なかったのが現実である。
「その結果があれじゃあ……格好が悪いにも程があるわよね」
自分の力を過信して魔理沙を守るために無茶をした結果、アリスは負傷した。
そして終わってみれば影の巨人を倒したのは霊夢と魔理沙の二人で、怪我を負ったアリスはそれを安全な場所でただ見ていただけだった。
二人が協力して戦っている光景をみて、アリスには一つの思いが胸に浮かんだ。
「あの二人がちょっとだけ、羨ましかった……」
他人を信じ、協力し合える二人。そんな二人が、アリスは羨ましかった。
アリスは他人を信じ切れない。それは失敗を他人のせいにしたくないという、強い信念からだった。けれど実際に、自分の心はそんなに綺麗なものではないのだとアリスは気付いた。
「本当は、裏切られることを怖がっているだけ。……まさか私がここまで臆病者だったなんて、ね」
自嘲気味に笑うアリス。
「はぁ……結局、今回の私は良いところ無しじゃない」
ため息をついて、片手で髪をかきあげて頭を抱えるようにするアリス。
今回の異変に関しては、反省点が山のようにあった。
変えなければならない自分の心の弱さも、ありありと見えた。
それはすぐに変われるようなものでもないけれど、それならば少しずつ変えていくしかないと、アリスはただ心の内で決心するのであった。
ゴミのようなガラクタに埋もれるようにして存在するベッドに、両手を組んで枕のようにしながら仰向けに寝転がる魔理沙は、ずっと物思いに耽っていた。
考えることは当然のように、先日の異変のこと。
アリスの負傷。そして一人残された自分に出来ることのちっぽけさ。
その原因は考えるまでもなく、魔理沙自身の無力さにあった。
あのときアリスが負傷した原因は、アリス自身は自分にあると考えているだろうが、魔理沙は他ならぬ魔理沙の無力さにあると考えていた。
「私にもっと力があったら……アリスだって、もっと信頼してくれるはずだったんだ」
アリスの信頼が勝ち取れないのは、自身の無力が原因だと魔理沙は考えていた。
だから力が欲しかった。
仲間であるアリスを守れるだけの力が欲しかった。
「力が無いのは、今は仕方がない。弱いのは今に始まったことじゃないし、焦ってどうこうなるものでもない。……だけど、私は本当に成長しているのか?」
魔理沙は自分自身に問いかけるようにそう呟いた
魔理沙は自身の無力を認識していた。だからこそ努力を重ねてきた。
焦らず着実に一歩ずつ、ゆっくりと、しかし確実に成長してきたと思っていた。
けれど実際に今回の異変で魔理沙に出来たのは、せいぜい霊夢にバトンを繋ぐことだけだった。そんな現状に魔理沙は決して満足はしていないのだ。
魔理沙は心の底から霊夢のことを認めていた。
だからこそ霊夢にバトンを繋ぐことがあのときの自分に出来る最善だと思い、そして実行した。
その判断は確かに間違っていなかっただろう。
けれど、魔理沙の理想からは程遠いことも事実だった。
魔理沙は霊夢に追いつくことを目標に、これまで必死に努力を積み重ねてきた。
しかし今回の異変で、まだまだその差は大きいのだと痛感した。
「けどな、霊夢。……私はお前の実力を認めはしても、敵わないと思ったことは一度もないぜ?」
魔理沙はそう呟いて、自分の右の手のひらをじっと見つめる。
魔理沙は努力を惜しんだことは無い。いつだって必死に努力をしてきたという自負がある。
けれど自分はその努力の結果、本当に成長しているのだろうか。
魔理沙はその手のひらを見ながら、自分に問いかける。
「……それでも前に突き進むしか、ないよな」
魔理沙はそう自分に言い聞かせて、目の前で開いていた右手を強く握り締めた。
この不安を解消するためには、結局前に進み続けるしかないのだから。
魔理沙の手のひらの中にはまだ何も無い。それが不安なのは仕方のないことだろう。
けれど魔理沙はその不安が自信に変わるその日まで、ただひたすらに努力を積み重ねることを心に誓うのであった。
宇佐見蓮子が目を覚ますと、そこには見慣れた天井があった。
「帰ってきた……? それとも、ただの夢?」
蓮子はその直前まで体感していた不思議な出来事について、どう判断すべきか迷っていた。
合理的に考えればそれは間違いなく夢だった。けれど、あの体験が全て偽りの幻想だったなんて、蓮子には信じることが出来なかった。
「……まるで、メリーがいつも話しているみたいな、不思議な夢」
しかしあの心細さは、確かに現実のそれだった。
どんなにリアリティのある夢だって、それが深層心理の生み出した夢である以上は必ずどこかに欠陥がある。そして目が覚めれば、その夢はまた心の深層に沈み込むようにして消えていくはずである。
しかし今回の不思議な体験は、蓮子の心に強く絡み付いて、どうにも消えてくれそうにない。
そして蓮子は思う。
夢と現実の境界線は、実際のところどこまでも曖昧なものなのではないだろうか。
心に残らず、気付くことさえなくただ消えていくのが夢ならば。
心に深く残り、簡単に消えてなくならないこれは、つまり現実と同じなのではないか。
「……寝ぼけてるのかな、何だか変なこと考えている気がするわね」
頭をはっきりとさせるために、蓮子はまず部屋の明かりをつけようと立ち上がる。
明るくなった部屋で、蓮子は時計を見て思い出す。
「そっか、今日は休日……そういえばメリーと買い物にいく約束があったっけ」
そう呟きながら蓮子は枕元で充電していた携帯電話を手に取る。
その中のスケジュール帳を開いて確認し、その記憶どおりの約束の存在を認識する。
現実のような夢の、あるいは夢のような現実の話。
その不思議な体験の話をメリーに早くしたくて、蓮子は仕方がなかった。
約束の時間になれば、メリーと会うことになるだろう。
けれど蓮子は、そのときまでおとなしく待てそうにはなかった。
居ても立っても居られなくなった蓮子は、携帯電話のリダイアルからメリーに電話をかける。
まだ朝も早いけれど、メリーは三コール目で電話を取った。
「もしもし? 蓮子、どうしたの……もしかして、急用で約束のキャンセルとか?」
「いや、そうじゃないんだけどさ。それよりメリー、聞いてよ。あのね――」
そうして蓮子は楽しそうに自身の不思議な体験を語った。
どうしてそんなことを今わざわざ電話で話すのか、メリーは不思議に思いながらも、ただ静かに蓮子の話に耳を傾けた。
そのときの蓮子が思っていたことはただ一つ。
せっかくの体験だったのに、蓮子の心は不安だけで埋め尽くされていて、それがどうにも蓮子には残念に思えた。
けれどそれはおそらく、一人だから怖かったのだ。
その幻想に、ヒトリでいくのは怖い。
だからもし次があるなら、そのときはきっと二人で――
――今はただ、蓮子はその気持ちをメリーに伝えたくて仕方がなかった。
全然問題なしOK!
面白かったです。
とても面白かったです
これ本当にジェネリック作品…?みたいな感じで。
内容はとても面白かったです。
みんな大なり小なり負の部分を抱えているところが人間臭くて自分好みでした。
力作だったね
次作にも期待したい
地の文もセリフも駆け足に説明ばかりしようとしていて、正直な話あまりここに楽しみを感じることは出来ませんでした。キチンと順序だてて背景と目的と結果を説明していて、これも姿勢としては大歓迎なのですが……。
消化試合だということですし、鈴木々々さんの実力は承知しているので、自作に期待します。
すばらしかったです。