「こんばんは豊聡耳様~、ってあら?」
夜遅く、青娥はいつものように神子の居室へ(壁に穴を開け)遊びに来た。すると、お目当ての彼女はすっかり眠ってしまっていた。寝具なども敷いておらず、畳張りの床に普段着のまま仰向けに寝転がっている。読みかけであろう書物が広げられたままなところを見ると、書に夢中になっているうちに眠りこけてしまったようだ。
「あらあら、聖徳王とも呼ばれたお方がだらしのない」
そのあまりに無防備な姿に、青娥の口元から笑みがこぼれる。
尸解仙であるのだから風邪などひきはしないだろうが、このままでは寒かろう。そこら辺にある高そうな布きれをかけてやることにした。胸元まできちんと覆ってやると、むにゃむにゃと言葉にならない寝言が開ききらぬ口から漏れた。
まるで童みたい。
そう考え、この感想があながち間違いでもないことに気が付いた。
神子が生まれたての神霊であるというだけではない。青娥が仙人になってからの数百年と神子の眠っていた千四百年もの間に様々な物を見てきたのと違い、彼女は飛鳥で生きた十数年と、この地に蘇ってからの数日間しか世界を知らないのだ。しかも、ここ幻想郷についての知識はほぼ皆無。霊廟に集まった欲霊から話を聞いてるとはいえ、実際に目にするのと、そうでないのとでは雲泥の差なのだろう。
見れば、広げている書物は妖怪やこの時代の者達の風俗に関わる物ばかり。少しでも予備知識を増やそうと無理をしていたに違いない。
「ほんっと、がんばり屋さんですわね」
鈍い輝きを放つ金色の毛髪にそっと触れる。獣の耳のように尖っている見た目と異なり、柔らかい手触りと指にまとわりつくきめ細かさが心地いい。
幻想郷という異郷で目覚めてもなお、己の本分を貫こうと努力するこの少女に、青娥はたまらない愛おしさを感じていた。
「んっ……」
神子が小さく声を立てる。
おおっと、いけない。せっかく気持ちよく寝ているのに、起こしてしまってはかわいそうね。そうだ、寝やすいように枕でも用意してあげましょう。ついでに散らかってる書物も片づけておこうかしら。
豊聡耳神子というお方が一刻も早く多く民草に知られ、広く慕われることを祈って。
そのための少ない休息のお時間は、この私がより良き物へと昇華させましょう。
今の彼女に出来ることなど、それぐらいしかないのだから。青娥は静かに枕を取りに立ち上がった。
「…………つまらない」
「えっ?」
声が聞こえたような気がして、青娥は後ろを振り向いた。しかし、神子は先程見たときのまま、目を閉じて規則正しい寝息を立てている。
起こしてしまったのだろうか?
けれども、枕を当てがうために頭を動かしても、神子は目を覚ましはしなかった。
きっと、空耳だったのだろう。これほど深く眠っているのだから、よっぽどのことが無ければ目が覚めることはあるまい。
青娥は書物を整理し終えると、部屋から出るためにもう一度壁に穴を開けた。今度は物音を立てぬよう、なるべく静かに。
「おやすみなさいませ、豊聡耳様」
最後に見た寝顔は、むずかる赤子みたいにしかめっ面をしているようだった。
ゴゴゴゴゴ、ゴンッ。
重々しい音を立てて、壁に空いていた穴が塞がる。
それから数秒後、神子は気だるそうに起き上った。まだ半分閉じたままの瞼を擦り、青娥が出て行った穴の当たりを見つめながら軽くため息をついた。
神子は最初から寝てなどいなかった。
正確には青娥に侵入される前までは、である。それまでは確かにうたた寝をしていたのだ。が、壁を鑿型のかんざしでゴリゴリとされて、夢の中を走りまわれるほど、神子は耳が遠くなかった。
神子は身体を起こしたまま、先程聴いた青娥の欲を反芻していた。
“豊聡耳様の役に立ちたい”
実にシンプルで、これほど想いを掻き立てられる欲は聴いたことが無かった。だが、それだけのことだというのに、青娥は神子が本当に望むことを理解してはくれなかった。
ぷつり、と糸が切れたように床に寝そべり、掛け布団代わりの布を乱暴に被った。髪に残る母のようなあたたかい手の感触が、まだ少し残っている気がした。
「ただ、傍にいてくれれば良かったのに」
小さな欲は霊の形をとることなく、幼い聖人の中で溶けて消えた。
夜遅く、青娥はいつものように神子の居室へ(壁に穴を開け)遊びに来た。すると、お目当ての彼女はすっかり眠ってしまっていた。寝具なども敷いておらず、畳張りの床に普段着のまま仰向けに寝転がっている。読みかけであろう書物が広げられたままなところを見ると、書に夢中になっているうちに眠りこけてしまったようだ。
「あらあら、聖徳王とも呼ばれたお方がだらしのない」
そのあまりに無防備な姿に、青娥の口元から笑みがこぼれる。
尸解仙であるのだから風邪などひきはしないだろうが、このままでは寒かろう。そこら辺にある高そうな布きれをかけてやることにした。胸元まできちんと覆ってやると、むにゃむにゃと言葉にならない寝言が開ききらぬ口から漏れた。
まるで童みたい。
そう考え、この感想があながち間違いでもないことに気が付いた。
神子が生まれたての神霊であるというだけではない。青娥が仙人になってからの数百年と神子の眠っていた千四百年もの間に様々な物を見てきたのと違い、彼女は飛鳥で生きた十数年と、この地に蘇ってからの数日間しか世界を知らないのだ。しかも、ここ幻想郷についての知識はほぼ皆無。霊廟に集まった欲霊から話を聞いてるとはいえ、実際に目にするのと、そうでないのとでは雲泥の差なのだろう。
見れば、広げている書物は妖怪やこの時代の者達の風俗に関わる物ばかり。少しでも予備知識を増やそうと無理をしていたに違いない。
「ほんっと、がんばり屋さんですわね」
鈍い輝きを放つ金色の毛髪にそっと触れる。獣の耳のように尖っている見た目と異なり、柔らかい手触りと指にまとわりつくきめ細かさが心地いい。
幻想郷という異郷で目覚めてもなお、己の本分を貫こうと努力するこの少女に、青娥はたまらない愛おしさを感じていた。
「んっ……」
神子が小さく声を立てる。
おおっと、いけない。せっかく気持ちよく寝ているのに、起こしてしまってはかわいそうね。そうだ、寝やすいように枕でも用意してあげましょう。ついでに散らかってる書物も片づけておこうかしら。
豊聡耳神子というお方が一刻も早く多く民草に知られ、広く慕われることを祈って。
そのための少ない休息のお時間は、この私がより良き物へと昇華させましょう。
今の彼女に出来ることなど、それぐらいしかないのだから。青娥は静かに枕を取りに立ち上がった。
「…………つまらない」
「えっ?」
声が聞こえたような気がして、青娥は後ろを振り向いた。しかし、神子は先程見たときのまま、目を閉じて規則正しい寝息を立てている。
起こしてしまったのだろうか?
けれども、枕を当てがうために頭を動かしても、神子は目を覚ましはしなかった。
きっと、空耳だったのだろう。これほど深く眠っているのだから、よっぽどのことが無ければ目が覚めることはあるまい。
青娥は書物を整理し終えると、部屋から出るためにもう一度壁に穴を開けた。今度は物音を立てぬよう、なるべく静かに。
「おやすみなさいませ、豊聡耳様」
最後に見た寝顔は、むずかる赤子みたいにしかめっ面をしているようだった。
ゴゴゴゴゴ、ゴンッ。
重々しい音を立てて、壁に空いていた穴が塞がる。
それから数秒後、神子は気だるそうに起き上った。まだ半分閉じたままの瞼を擦り、青娥が出て行った穴の当たりを見つめながら軽くため息をついた。
神子は最初から寝てなどいなかった。
正確には青娥に侵入される前までは、である。それまでは確かにうたた寝をしていたのだ。が、壁を鑿型のかんざしでゴリゴリとされて、夢の中を走りまわれるほど、神子は耳が遠くなかった。
神子は身体を起こしたまま、先程聴いた青娥の欲を反芻していた。
“豊聡耳様の役に立ちたい”
実にシンプルで、これほど想いを掻き立てられる欲は聴いたことが無かった。だが、それだけのことだというのに、青娥は神子が本当に望むことを理解してはくれなかった。
ぷつり、と糸が切れたように床に寝そべり、掛け布団代わりの布を乱暴に被った。髪に残る母のようなあたたかい手の感触が、まだ少し残っている気がした。
「ただ、傍にいてくれれば良かったのに」
小さな欲は霊の形をとることなく、幼い聖人の中で溶けて消えた。
青娥さん膝枕でもしてあげればよかったのに…