宇佐見蓮子がその喫茶店に入ったきっかけと言うのは特に何と言う事は無く、ただ新春の雨がぽつぽつと降り始めたからだった。
真昼で、曇りである 蓮子が空を見た所でそれ以上何の情報が入って来ることは無いし空から発せられる情報はそれ以上無い、古来の文献に記されているリュウグウノツガイでも居れば何かが分かるかもしれないが生憎、ここは文明の進んだ無色無臭の現代社会だ、そのような色めき立った者は自分の傍には降って湧いては来ないだろう 彼女は一瞬だけ苦笑しその一瞬後にいや、そう言えば一人 あれが一人と数えられるか分からないが一人、そんな奴がいるなと考えを改める羽目になる、彼女の中途半場に長い人生の中ではこんな経験をしたことは数知れない。
なにせいつの間にかそこに居て、いつの間にかそこに居ないし それがあまりにも違和感無い物だからついつい彼女がそういう類いの者である事を忘れてしまうのだ。
そもそも蓮子は彼女の素性については詳しく知らないし、彼女も蓮子に自分の素性について言った事は、というよりもつい口を滑らせて言ってしまった事は本当に数少ない、覚えている限りでは片手で数えられる程だし覚えていない範囲でもやはり、片手に数えられてしまう事だろう。
それ程までに彼女は自分の事となると口が少なくなる、隠蔽していると言う方が正しいか しかし蓮子は自分の事をよく話す、話してしまうように仕向けられていると言った方が正しいだろう なにせ彼女はそういう類いの事が大得意の様で蓮子はしばしば不公平だとぼやく羽目になる事なのだから。
しかしそんな彼女が明らかに人間と違う異質のものであると言う事を蓮子は良く知っていた、初めて会った時にはすでに気が付いていた。
それは彼女が自分の存在について隠していなかったのかもしれないし、蓮子がそういう気質を見ぬきやすい性質だったのかもしれない、どちらかと言うとそれは本当にどうでも良い事だが。
警戒はしなかった、なにせそれはある種の絶対的な物で蓮子はすぐさまこれは敵わないと諦めてしまったのだから。
だが蓮子はその後どうにかなってしまう訳でも無く、彼女は蓮子の前にしばしば あるいは頻繁に姿を現わすようになった。
法則性はある程度ある、彼女は蓮子が一人の時にしか姿を現わさない 彼女は蓮子が嬉しかったり悲しかったり、そういった感情の起伏が激しい時になると良く現れるようになる等。
一回それらの傾向をノートにまとめてみる事を試みて、すぐさまノートはごみ箱の中に入る事となった 後々紙媒体では無く打ち込めばよかったと反省したのは蓮子しか知らない。
なにせ傾向と言えるかもしれない物は多すぎて、しかもそれらが確実性のある物なのかどうかすらも分からないのである、そういった訳でこの妙案は諦めざるを得なかったし蓮子が彼女について知ろうとしたのはそれっきり、それが最後と言う事になった
それは諦めたと言うよりも寧ろ考え直したと言う方が正しいだろう、なにせ蓮子はそういった物が大好きで、その片鱗に触れてみたいと常々思っていたものなのだから。
年始から、既に数日が過ぎた
年始と言えど大したことは無い、東京にある実家には戻らないと言ってあったし親に挨拶もすでに終わらした、誰かに会う予定も無い 完全に寝正月だったと蓮子は苦笑する。
正月と言う行事は蓮子にとって何の感慨も無いただの一日である、空を見上げて日にちが一つずれた事を恒常的に見ている蓮子はそれを当たり前の様に感じていた。
クリスマス、元旦 どれも蓮子にとっては何の感慨も無い一日で、それ以上でもそれ以下でも無かった それらを楽しめたのだとしたら人生は楽しい物だったのかもしれないと言うのは彼女が一瞬だけ考慮した事だが、その考えはやはりごみ箱に捨ててある。
カランカラン
何の気なしに雨宿りのつもりで入った喫茶店は蓮子の貸切状態だった
今や博物館に置いてある程稀な蓄音機からはベートーヴェンの音楽がゆったりと流れている。
店内の様子は形容しがたく、ありったけの無理をして形容するのだとしたらば「洋風と和風の下地に中華風とアジア風の家具やなんやらが置かれていて何故かうまく組み合わさっている」と言う言い方が最も適しているか、凄まじく混沌とした文化の入り組合だがそれが逆に小ざっぱりとした印象を与えていた。
嫌いじゃないわね
蓮子は窓際のボックスを選んで奥に一人で座った、裏路地に面した窓らしく見る限り人通りは皆無だった。
空を見上げるとやはり、雨はしとしとと降っていた
激しく無く、かといって小雨と言った風でも無く 言うなれば
「春雨 ですね」
いつの間にか近寄って来たマスターが蓮子の言葉を代弁した
「失礼、こちらも暇なもので それにお客様なぞ久々ですから」
マスターは年老いた外見だが声は若かった、面影と言い昔はさぞ二枚目で通っただろう顔は皺だらけだったがその中にしっかりとした落ち着きと気品が見られる好人物だった。
「いい店ですね、いつもこんな感じで?」
「ええ、お恥ずかしい限りですが」
「これだけ空いている名店だったらまた来ようかしら」
「あなたの様な御嬢さんが来てくれるのならば店に花でも咲いた気分ですよ」
話術も上々、蓮子はまたこの店に来ようと心に決めた 気に入った店には常連になる派である、そもそも蓮子の趣味に合う店など早々ないが。
「コーヒーをブラックで」
「畏まりました」
マスターは大きな樫の木で造られた様なテーブルの上でコーヒー豆、なんと天然ものらしい それをミルにかけ ドリップを始めた。
思わず財布を確認した蓮子をマスターがちらと見て問いかける
「いかがなされましたか」
「いえ、高くつくかなと」
「高く?」
「そのコーヒー豆、天然でしょう?」
するとマスターは一瞬思考した後「ふむ…ああ、そういう事だな」とかぼそぼそ呟いた後徐に向き直って「御代は結構です、つけでもありません」と驚くべきことを言ってのけた。
あらゆる食材が人工で出来ているこの時代、天然物の価値は計り知れない それも近代化により栽培する場所の無くなったコーヒー豆などもってのほかである。
当然蓮子は目を白黒させたが、マスターは「殆ど道楽ですから」とだけ言ってもうそれ以上この話題について触れる気は無いようだった。
蓮子の方も普段金はほとんど使わないにしても節約したいしただで天然もののコーヒーを飲めるなぞありえないと思っていたので好意をありがたく頂戴することにした。
相変らず、雨はしとしとと降り続いていた
ことり、軽い音と共に空になったカップがソーサーの上に置かれる音がして、蓮子は我に返る。
もうコーヒーはカップの中から消えていた、当たり前の話だが いつの間にか無くなっていたと言う事はこの店の雰囲気が良かったと言う事で。
「ごちそうさまでした」
蓮子は上機嫌で荷物をまとめ席を立とうとした。
「また、いらっしゃいね」
マスターはそれを手伝いながら笑顔で挨拶をした
本来ならば蓮子はそこで玄関から外に出る筈だったのだ、そう『普通ならば』
ドアを開いて帰ろうとした蓮子のその肩を 誰かが掴む
「あら、もう少しゆっくりしていかないのかしら」
蓮子の後ろからかかる声の主を蓮子は知っている
「生憎、私はこれから帰る予定なのよ 紫」
八雲紫 それがこの食えない“彼女”が名乗った名だった。
「まあまあ、外は雨が降っている訳ですし もう少しゆっくりしていけばいいじゃない」
「私は家で課題をやらなくちゃいけないんだけれど」
「ふふっ 人間の問題位ちょちょいのちょいで片付けてくれますわ」
「その提案は魅力的だけれど却下するわ」
「まあまあ、マスター ブラックをもう一つ」
「畏まりました」
マスターと言えば紫が突如出現した時は驚いたような表情をしていたが直ぐにいつもの顔に戻って作業を開始した、もう少し驚いても良いのではないかと蓮子は半ば呆れる。
気が付くと蓮子は元の席に逆戻り、紫はその体面に座って頬杖を突きながら微笑んでいた。
こうなればもう紫は意地でも蓮子を離してくれない、諦めて紫の気が済むまで待つとしよう、まさかコーヒーの代金まで要求はされまい。
「蓮子」
「何よ」
「あけましておめでとう、それともHappy new yearの方が良いかしら」
「…元旦はもう過ぎてるわよ」
「いいじゃない、冬は起きるのが辛いのよ」
「それで一日遅れ?随分と寝坊助さんね」
常識外れと思われた紫も新年の挨拶くらいはするのか、意外な事実に蓮子は驚嘆するが顔には決して出さない、表に出してしまったらなんだか負けな気がすると言うのは彼女の子供らしい対抗心だろうか。
紫と言えば蓮子を見たきり「それで、お返しは?」と言う表情をしていた。
蓮子は紫の考えを分かったものの何だか紫の思い通りになっている気がして癪なので言わないでおいたがあいさつをされたのに挨拶を返さないのは無粋だろうと考えなおした。
「紫 あけましておめでとう」
「よろしい」
ああ、これだからこいつの思う通りにはしたくなかったのだ
得意げに頷く紫の前で蓮子は頭が痛くなる思いだった、なんでお前が得意げなのかと。
そうして暫くすると、マスターがソーサーを持って机の隣に立った。
「ブラック一つ、お待たせしました」
「そこの御嬢さんに一つですわ」
「紫が飲むんじゃないの?」
「お年玉替わりですわ」
「随分安っぽいお年玉もあったものね」
それでもこのコーヒーは美味しいからもう一杯飲む分には困らないのだが
大人しくカップから濃い色の液体を啜りながら蓮子は紫を見つめた
ぱっちりと開いた眼は可愛らしい、潤いのある唇は大人びている プロポーションは蓮子が今まで出会った女性の中で最上級のバランスの良さだ。
一言で表すならば美しい、これに尽きる 蓮子は心の中で溜息をついた。
なぜ紫は蓮子に固執するのか、考えても分からない事だけは分かっているが考えずにはいられない。
それとも蓮子だけに執着していると言うのは勘違いで、本当の所は同じことを他にもしているのだろうか、だとしたらば妬ましい話だなと蓮子は既に空になったカップに口を付けて考えた後、ソーサーの上において「ごちそうさまでした」と呟いた。
紫がどこからか出した硬貨で精算を行う。
もう良いだろうと蓮子が再び店の外に出ようとすると、また紫に引き留められた
呆れたような表情で蓮子はまた振り返るが紫の顔には何か腹に一物在りそうな笑みしか浮かんでいない。
「ああ、蓮子があんまりにも美味しそうにコーヒーと飲むから私も飲みたくなってきてしまいましたわ」
「注文すればいいじゃない」
「いえいえ、もっと良い方法が一つ」
すると足元が抜ける感覚がして、蓮子と紫は不思議空間に入り込んだかと思うといつの間にやら蓮子の部屋についていた。
紫はマジックだと言っていたがこれほど大掛かりなマジックをポンポンとつかえる者は居ないだろう、それとも本来の意味での“魔法”といった意味なのかもしれないが。
部屋は電気を消している所為で薄暗かったが、豪奢な服装に包まれた紫が蓮子の隣にいる事だけははっきりと分かった、そして蓮子より頭一つ分背の高い紫が蓮子の方に向けて屈み込む所も。
「ん……ふっ……」
一瞬の柔らかい感触と共に紫の顔が蓮子と重なる
始めは唇を弄る様に蠢いていた紫の舌が蓮子の口内へ侵入し、一回りだけぐるりと回った
ざらざらとした舌が蹂躙する感覚に背筋ががゾクゾクと震える
戯れる様な蹂躙はその一瞬だけで終わり、後にはつぅっと糸を引く銀糸だけが残った。
「ん、美味しかった」
「もう止めなさいよね、恥ずかしいったら仕方ないわ」
「あら?蓮子も乗り気だったんじゃない?」
「どこがよ」
答えはくすくすと閉鎖された空間に響く妖しげな笑い声と、紫が居たであろう空間に入っている亀裂のみだった。
「あけましておめでとう蓮子、今年もよろしく」
そうして亀裂は完全に閉じて、蓮子と紫の共有する物はさっぱり無くなってしまった。
まずは明かりを点け、蓮子はふぅーっとため息を吐きながら近くのリクライニングチェアに腰掛け、ぼーっと無意識に独り言をつぶやく。
今度来るときは、ちゃんと目の前から出てきなさいよねと
それが、宇佐見蓮子にとっていつも通りの正月明けだった。
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アリどころかもっとやって下さい!
宇佐美→宇佐見 良く表れる→良く現われる 硬化→硬貨 かと思われます。
もっとお願いします
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こうなればもう紫は意地でも蓮子を話してくれない
話して→離して
次はメリーサイドのお話も読んでみたかったり
ゆかれんこもっと流行ってもいいよね
メリーサイドの話もあったら面白そうですね
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